All Chapters of 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる: Chapter 761 - Chapter 770

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第761話

「はいはい、分かりましたよ」紫音と州は顔を見合わせて苦笑すると、両親に見送られながら温かい実家を後にした。外に出ると、少し肌寒い風が頬を撫でる。「紫音、会社まで送ってこうか?もし一人で手が回らなくて心配なら、俺が手伝ってやってもいいぞ」駐車場へ向かいながら、州が笑いながら提案してきた。「ううん、大丈夫。自分で戻るわ」紫音は首を横に振った。「お兄ちゃんの仕事の邪魔をしたくないし」「俺はお前の兄貴だぞ?可愛い妹の手伝いをするのが、どうして邪魔になるんだよ」州は少しだけ不満そうに唇を尖らせた。「なんだよ。最近律とうまくいってるからって、兄貴には水臭いこと言うようになったのか?」「そんなわけないでしょ」紫音はやれやれとため息をついた。「ただ本当に、私の都合でお兄ちゃんの時間を奪いたくないだけよ。お兄ちゃんにはお兄ちゃんの生活や仕事があるんだから、自分のことにちゃんと集中してよね」「っ……!」その言葉に、州はわざとらしく天を仰ぎ、目頭を押さえるふりをした。「まさか、あの甘えん坊だった妹が、こんなに自立した立派なことを言うようになるなんて……兄ちゃん、感激で涙が出そうだよ」「はいはい、どうも。大根役者ね」紫音はジト目で兄にツッコミを入れつつ、小さく吹き出した。「じゃあね、お兄ちゃん。私はもう会社に行くから」「ああ、無理すんなよ。お互い仕事頑張ろうな」二人は軽く手を振って別れ、それぞれの職場へと向かった。紫音は一人で会社へと向かう車内で、ふと窓の外を流れる景色を見つめた。ここ数日、本当に色んなことがあったわね……お母さんの急な心臓発作。生死を彷徨う手術。そこからの一家団欒と、病院でのクレーマー騒ぎ。怒涛のように過ぎ去った日々の疲労を、小さく息と一緒に吐き出す。そして、一つ深く深呼吸をして――紫音は『家族を想う娘』の顔から、冷徹で敏腕な『社長』の顔へとスイッチを切り替えた。私がいない間、会社の方はどうなっているかしら。優秀な蘭が上手く回してくれているはずだが、致命的な企業テロの爪痕はまだ完全には癒えていない。紫音の瞳に、強い意志の光が宿る。守るべき家族がいるからこそ、私はもっと強くならなければ。……紫音がオフィスに足を踏み入れると、フロアは異様な緊張感と喧騒に包まれていた。
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第762話

紫音はぐっと奥歯を噛み締め、荒れ狂う感情をなんとか理性で押さえ込んだ。「……それで?うちを売った裏切り者は、一体誰なの」氷のように冷たい声。紫音がヒステリックに声を荒げないのを見て、蘭はびくびくと肩を震わせながら、その名前を口にした。「大野奈々(おおの なな)です……」「……奈々が?」紫音の目が、限界まで見開かれた。次の瞬間、腹の底から激しい怒りが爆発する。「あの子が私を裏切ったっていうの!?冗談じゃないわ!!」大野奈々は、会社が事業拡大を始めた初期に入社してきたオープニングメンバーの一人だ。蘭の右腕とも言える立ち位置で、紫音自身も「サブ秘書」として彼女に絶大な信頼を寄せていた。たしかに数日前、急に『家庭の事情でどうしても会社を辞めたい』って言い出してきたけれど……紫音は彼女の事情を察し、無理に引き留めることはせず、すぐに退職を認めて送り出してやったのだ。まさかあの退職が、機密データを持ち逃げして競合へ寝返るための、計画的な逃亡だったとは。「私だって、最初は信じられませんでした……」蘭は悔しそうに唇を噛んだ。「でも、彼女が辞めた直後にアクセスログや行動履歴を洗い出したら、全ての証拠が奈々を指し示していたんです」蘭は、フロアにいる他の社員たちにも聞こえるよう、あえて少し声を張り上げた。「紫音さんが、どれだけ奈々のことを気にかけていたか。うちの古参メンバーとして、心から大切にしていたか……私たちはみんな知っています!」フロアの空気が、少しだけ動いた。「奈々のご両親が倒れて入院した時だって、紫音さんがわざわざ腕のいい専門医を紹介してあげたじゃないですか!それに、高額な医療費までポンと立て替えてあげて……!」蘭が周囲を見回すように言ったのは、単なる事実の確認ではない。『社長は何も悪くない。裏切ったあいつが100%悪いのだ』と、動揺する社員たちに強く印象付けるための配慮だった。「紫音さんは、誰に対しても後ろ指を指されるようなことは一切していません。全部、あの子が恩を仇で返しただけです」蘭は悲痛な面持ちでため息をつく。「どんな事情があるにせよ、あんな最低な裏切り行為、絶対に許されることじゃありません。紫音さんが一番辛いのは分かっています。私も、知った時はショックで倒れそうでしたか
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第763話

「紫音さんがどう動こうと、私は全力でサポートします。もう頭の中に、これからの青写真はあるんでしょう?」蘭が力強く頷く。紫音が自分の『暗黙のメッセージ』を正確に汲み取ってくれたと分かっただけで、蘭にとっては十分だった。ええ、きっちり落とし前をつけさせてやる……!二人の間に、言葉以上の強固な意思が通い合う。まずは奈々に地獄を見せ、その無惨な末路を社内への『見せしめ』にする。企業テロという愚かな真似に手を出せば、どんな悲惨な代償を支払うことになるか。徹底的に見せつけてやらなければ、この危機は乗り越えられない。冷徹な経営者としてのスイッチが、紫音の中で完全に切り替わっていた。「みんな、仕事に戻って。蘭、あなたは社長室に来なさい。詳しい話を聞くわ」紫音の毅然とした声に、凍りついていた社員たちがハッとして慌ただしく業務に戻っていく。紫音はヒールを鳴らして社長室へ向かい、蘭も小走りでその後を追った。今の険悪な空気を見て、社員たちがどう思うか。そんなことに気を配っている余裕は、今の紫音たちには一切なかった。組織を崩壊させないためには、甘い考えの連中を徹底的に震え上がらせる必要がある。『裏切ればどうなるか』――その惨たらしい末路を見せしめにしなければ、バカな真似を企む輩は後を絶たないからだ。カチャリ、と社長室のドアが閉まった瞬間。「本当に申し訳ありません……っ!全て、私の監督不行き届きです!」蘭は深く頭を下げ、今にも泣き出しそうな声で謝罪した。「最近……私、浩一さんとのデートにかまけていて……そのせいで、社内の異変に気付くのが遅れてしまいました。どんな罰でも受けます……っ!」紫音は、自責の念に押し潰されそうなアシスタントの肩を優しく叩いた。「やめなさい、蘭。プライベートを楽しむのは悪いことじゃないし、あなた一人で抱え込むようなことじゃないわ。意図的に仕組まれた裏切りを防ぐなんて、誰にとっても難しいことよ。ここまで事態がこじれるなんて、私だって予想外だったもの」そこで一度言葉を切り、きっぱりと言い放つ。「でも大丈夫よ。もう腹は括ったから、いくらでも巻き返せるわ」その声は優しかったが、瞳の奥にはぞっとするほど冷酷な光が宿っていた。「裏で糸を引いている黒幕が誰であろうと、絶対にタダじゃ置かない。
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第764話

競合会社を完膚なきまでに叩き潰す――その大がかりな罠を仕掛ける前に、紫音にはどうしてもやっておきたいことが一つあった。それは、大野奈々を直接呼び出すこと。一体どんな面を下げて自分を裏切ったのか。その腐った腹の中を、直接問い詰めてやるつもりだった。一方、その大野奈々は。紫音が会社に復帰した直後、まさか自分宛てに直接『お茶の誘い』が来るとは思ってもみなかった。メッセージを見た途端、奈々の心臓は嫌な音を立てて跳ねた。いくら図太くても、さすがに背信行為を働いたという後ろめたさはある。それに、機密データを手土産に好待遇で転職したはずの現在の会社でも、彼女の扱いは決して良いものではなかった。『前の会社を裏切って情報を売った女』。そんなレッテルを貼られているせいで、新しい同僚たちからは常に冷ややかな目で見られているのだ。給湯室に行けばヒソヒソと噂話をされ、すれ違いざまに見下したような視線を向けられる日々。どうして私が、こんな目に遭わなきゃいけないのよ……!奈々はスマホを握りしめ、ギリッと唇を噛んだ。彼女の胸の中にあるのは、身勝手極まりない『被害者意識』だけだった。自分は何も間違っていない。悪いのは私を正当に評価しなかった周りの連中だ――本気でそう思い込んでいる奈々にとって、今の冷遇はただただ理不尽で、屈辱的でしかなかった。「あーら、ごめんなさい。見えなかったわ」給湯室でコーヒーを淹れようとしていた奈々の肩に、ドンッと強い衝撃が走った。振り返ると、同僚の女性がわざとらしく口元を押さえて笑っている。「……いえ。でも、次からは前を見て歩いてください。今のは、わざとぶつかってきたんじゃないですか?」奈々は不機嫌さを隠さずに冷たく言い放った。この同僚は社内でも目立つ美人で、周囲からの人気も高い。なるべく敵に回したくはなかったが、毎日のように続く陰湿な嫌がらせに、さすがの奈々も黙っていられなかったのだ。「はぁ?何それ。私がわざとぶつかったって言いがかりつける気?」同僚の女性――白石玲奈(しらいし れな)は、ふんっと鼻で笑って奈々をねめつけた。「せっかく謝ってあげたのに、その態度。あなた、息を吐くように人に濡れ衣を着せるのね。どういう神経してるのかしら」「なっ……私、そんなこと一言も言ってな
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第765話

玲奈がこの会社に留まっている理由は、他でもない。奈々を徹底的に痛い目に遭わせ、同時に紫音の会社を陥れようとするこの競合会社の『決定的な証拠』を集めるためだ。そして、しかるべきタイミングでその手土産を紫音に差し出すつもりだった。今の紫音は、自分のことなどとっくに忘れているかもしれない。けれど、玲奈にとってはそんなことどうでもよかった。人生のどん底で、一番苦しくて危うかった時に手を差し伸べてくれた紫音の存在は、玲奈にとって暗闇を照らす『唯一の光』なのだから。「白石さん、あんな女まともに相手にするだけ無駄よ。見てるだけで運気が下がりそうだわ」給湯室の騒ぎを見ていたのか、周囲にいた他の同僚たちが口々に玲奈に同調して集まってきた。徒党を組むように玲奈の周りを固める女子社員たちを見て、奈々は心臓が嫌な音を立てるのを感じた。当然だ。彼女たちは長年一緒に働いてきた仲間であり、確固たる絆で結ばれている。後からやって来た奈々など、ここではただの『邪魔な異物』でしかなかった。「ただ単に、あの女が気に食わないだけよ」玲奈は冷ややかな声で言い放つ。「みんなも、ああいう卑怯な小悪党には気をつけなさいよね。いつ背後から寝首を掻かれるか、分かったもんじゃないわ」その言葉に、奈々は怒りのあまり唇をわなわなと震わせた。たしかに私は紫音を裏切ったわよ。でも、それは自分自身の利益のためじゃない!自分のためにお金や地位を求めて、一体何が悪いというのか。奈々は本気で、自分が間違っているとは微塵も思っていなかった。それに、あんな重要な機密データを私ごときが持ち出せるような場所に置いていた紫音だって悪いんじゃない!隙を見せた方にだって責任はあるわ!なぜ自分が、ここまで理不尽に責められなければならないのか。私はただ、会社にあったファイルをいくつか持ち出しただけ。誰の命を奪ったわけでもないのに、どうしてこんな人殺しでも見るような目で叩かれなきゃいけないのよ!「白石さんの言う通りね。言われなくても、あんな裏切り者とは極力関わらないようにするわ」同僚たちがクスクスと嘲笑する声を背に受けながら、奈々はギリッと歯を食いしばり、心の中で必死に強がった。別に、あんたたちにどう思われようと知ったこっちゃないわよ。私は仕事をしに来てるだけ。毎月き
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第766話

玲奈が一歩も引かずに鼻で笑い飛ばすと、奈々の顔色は怒りでどす黒く染まった。「……ふざけないでよっ!」激昂した奈々は、玲奈の頬めがけて思い切り平手打ちを食らわそうと腕を振り上げた。周囲にいた社員たちが「あっ」と悲鳴を上げる。だが、玲奈はそんな手ぬるい攻撃を食らうほどヤワな女ではない。振り下ろされた腕をガシッと空中で掴むと、そのまま勢いよく奈々の体を突き飛ばした。「キャッ……!?」体勢を崩した奈々は、無様によろめいた。「給湯室で喚き散らして、何様のつもり?」玲奈は氷のように冷たい目で見下ろした。「私たちがわざとあなたを陥れようとしてるって、まだ被害者ぶる気?私たちの言葉が信じられないなら、自分で社長のところへ行って聞いてくればいいじゃない」「っ……」「こんなところで私たちに八つ当たりしたって、何の意味もないわよ。そんなに自信があるなら、社長のところへ行って『もっと良い待遇にしてください』って直接交渉でもしてきなさいよ」「うるさい、うるさいっ!あんたたち、ただの嫉妬でしょ!」奈々は顔を真っ赤にして叫び返した。「社長が私を高く評価して、こんないいポジションを用意してくれたから、妬んでるだけじゃない!」限界まで追い詰められた奈々は、こんな状況になってもまだ自己欺瞞をやめられなかった。本当は、奈々自身も薄々気づいているのだ。長年この会社にいる生え抜きの彼女たちの言うことの方が、おそらく『残酷な真実』なのだろうと。だが、それを認めるわけにはいかなかった。もしその言葉を信じてしまえば、自分の未来は完全に絶望的だということを認めることになるからだ。紫音を裏切り、泥棒の汚名まで被れば、もっと輝かしい人生が待っていると思っていたのに。実際には、すべてがただの都合の良い『見果てぬ夢』でしかなかっただなんて。違う……私は間違ってない……!奈々は縋るような思いで、必死に自分へと言い聞かせていた。「本当に哀れな女ね。自意識過剰で、呆れるほど愚か。せっかくあんな素晴らしい居場所があったのに、自分からドブに捨てるなんて」玲奈は、まるで理解不能な生き物を見るような目で奈々を見下ろした。「あんたたちに何が分かるのよ!」奈々は血走った目で叫んだ。「あんなちっぽけな会社に、私の輝かしい未来なんかな
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第767話

以前の奈々は、紫音に必死に媚びを売り、「いつか彼女の右腕になって出世してやる」と本気で夢見ていた。だが、紫音の隣には常にアシスタントの蘭がいて、奈々がどれだけ努力した気になろうとも、決してその一番近いポジションを与えてはもらえなかった。私が一体、何を間違えたっていうの?どうして私は、あんな冷遇を受けなきゃいけなかったの!紫音の顔を見るなり、奈々の胸には再び黒い被害者意識がドロドロと湧き上がってくる。私を都合よく利用するだけ利用して、用済みになれば切り捨てる気だったんでしょ。紫音にとって、私なんか最初から眼中にない、ただの使い捨ての道具だったんだわ!奈々は己の悪辣な裏切り行為を完全に棚に上げ、悲劇のヒロイン気取りで紫音を睨みつけていた。「来たわね。まあ、座って。話はそれからよ」紫音の顔には、一切の動揺も怒りも浮かんでいなかった。裏切り者を前にしても、その佇まいはただひたすらに静かで、湖面のように凪いでいる。「……相変わらず、気取った女ね」奈々は向かいの席にドカッと腰を下ろし、鼻で笑った。「もっと怒り狂ってるかと思ったのに。なんなら、顔に水でも引っかけられるんじゃないかって期待してたわ。そんな涼しい顔をされると、こっちの調子が狂うじゃない」そんな大人の余裕を見せつければ、私が反省して泣いて謝るとでも思ってるわけ?バカバカしい!奈々の胸の中にあるのは、紫音と蘭に対するドロドロとした黒い憎悪だけだ。「あんたのせいで、私が今どれだけ惨めな思いをしてるか分かる!?」奈々は突然、噛みつくように声を荒げた。「あの会社を辞めた後も、私はちっとも幸せになれない!今の私のボロボロな姿を見て、あんたも会社の人たちも、さぞかし笑いが止まらないでしょうね!」被害者意識の塊のような八つ当たり。完全に筋違いの逆恨みである。「……あなたの不幸を、私たちのせいにしないでくれる?」紫音は紅茶のカップを優雅に持ち上げ、冷ややかに言い放った。「自分が今の惨めな状況に陥ったのは、全部あなた自身の責任でしょ。自業自得という言葉を知らないの?」まるで路傍の石ころでも見るかのような、徹底的な無関心。「正直、あなたが裏切ったと知った時は驚いたわ。そこまで私を恨んでいたなんてね。でも、不満があるなら直接言えばよかったじゃない。わ
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第768話

紫音の冷徹な瞳を前にすると、自分がどれほど愚かな選択をしたのかを見透かされているようで、奈々は何も言い返すことができず、ただ口を噤んだ。黙り込んだ奈々を見て、紫音は冷めた息を吐いた。「もういいわ。あなたとこれ以上話しても、時間の無駄みたいね」会社の存続がかかっている今、こんな恩知らずの相手に割いている時間は1秒たりともない。「好きにすればいい。でも、自分が犯した罪の代償は、きっちり支払ってもらうから」それだけを冷酷に言い捨て、紫音は席を立った。踵を返して店を出ようとしたその時――バッグの中のスマホが、けたたましく着信を知らせた。画面を見ると、兄の州からだ。「もしもし、お兄ちゃん?どうし――」「紫音か!?今すぐ仕事の手を止めて、送った住所の病院へ向かってくれ!!」電話越しに響く兄の声は、これまでに聞いたことがないほど取り乱していた。「有加里が……有加里が倒れて、今、緊急の手術室に入ってるんだ!さっき彼女の友達から連絡があって、状況がかなりマズいらしくて……っ!」「……えっ?」紫音は思わず立ち止まった。州は、京極グループの長男として数々の修羅場を潜り抜けてきた男だ。いつも飄々としていて、どんなトラブルが起きても決して取り乱すことなどない。だが、今の兄の声は、震えていた。愛する女性の命の危機に直面し、どうすればいいのか分からず、完全にパニックに陥っているのだ。有加里が倒れた――その知らせを聞いて、紫音の心臓も早鐘のように激しく鳴り始めた。有加里は、紫音にとっても『家族』同然の大切な友人だ。彼女に万が一のことがあれば、悲しいに決まっている。身寄りのない彼女のためにも、今すぐ駆けつけて少しでも力にならなければ。ただ、気がかりなのは兄の州のことだった。彼と有加里の『恋人関係』は、すでに完全に終わっている。別れたことで、お兄ちゃんはようやく彼女への執着や苦しみから解放されたと思っていたのに。実際には、彼女の存在は未だにお兄ちゃんの心に深く根を張り、片時も離れようとはしていなかったのだ。お兄ちゃんは今でも、心の底では有加里のことを想い続けている……紫音はすぐさまタクシーを拾い、指定された病院の救命救急センターへと急行した。「……お兄ちゃん!」手術室の前で、州は一人、パイプ椅子
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第769話

それなのに。……このまま有加里に万が一のことがあれば、お兄ちゃんはまた過去の幻影に囚われてしまう。いや、それどころか、一生拭いきれないほどの罪悪感を抱えて、二度と立ち直れなくなるかもしれない。全ては振り出しに戻る――いや、マイナスにまで堕ちてしまう。兄がこの先、どれほどの絶望と苦しみに苛まれることになるのか。それを想像するだけで、紫音はやり場のない不安と焦燥に駆られていた。「……有加里の友達が、ずっとここで付き添ってくれていたらしいんだ」州は震える両手で顔を覆いながら、ポツリポツリと語り始めた。「でも、彼女にも自分の生活があるし、どうしても外せない用事ができて帰らなきゃいけなくなって……それで、俺のところに連絡が来た」「じゃあ、お兄ちゃんが病院に着いた時には……」「ああ。有加里の容態は、俺の想像を絶するほど悪化していた。……ほんの二、三、言葉を交わしただけだったのに、突然あいつの容態が急変して……心不全を起こしたんだ」州の声が、悔恨でギリッと歪む。「俺が会いに行ったりしなければ……彼女を刺激することもなかったのかもしれない。俺のせいだ……俺が有加里を、こんな目に……っ!」激しく自分を責める兄の姿に、紫音は胸が締め付けられる思いだった。……だから私を呼んだのね。いつもは頼りがいのある強い兄だ。もし自分一人で抱えきれる問題なら、わざわざ多忙な紫音を呼び出したりはしない。たった一人で愛する女性の死の恐怖に直面し、心が完全に押し潰されそうになっていたのだ。二人の複雑に絡み合った感情の糸をどう解きほぐせばいいのか、紫音にも全く分からない。だが、ここまで弱り切って縋ってきている兄を見捨てることなんて、できるわけがなかった。それに、同じ女として、有加里の過酷な運命には深く同情している。難病というのは恐ろしい。いくら京極家に莫大な財力があろうと、どれだけお金を積もうと、確実に命を買い戻せるわけではないのだから。その圧倒的な無力感が、どうしようもなくもどかしかった。「前に俺が付きっきりで世話をしていた時は……有加里の容態もずっと安定していたんだ。少しずつ回復だってしていたのに……」州は血を吐くような声で呟いた。「俺はただ、彼女を支えたかった。それなのに、あいつはまた俺を突き放した……」有加里が一方的に
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第770話

どうにか慰めの言葉を紡ぎ出すものの、それが気休めにしかならないことは紫音自身が一番よく分かっていた。お兄ちゃんは、自分が彼女にしてやれたことはちっぽけだと本気で思ってる。自分がどれだけ深く有加里を愛し、身を削ってきたかに気づいていないのね……同時に、有加里の不器用さも歯痒かった。お兄ちゃんがこれほどまでに深い愛情を注いでいるのに、なぜ彼女は頑なに彼を突き放し、一人で死を迎えようとするのか。「有加里が助かるなら、俺の寿命を半分差し出したっていい……!」州は両手で顔を覆ったまま、絞り出すように呻いた。「でも、俺にはどうすることもできないんだ……っ!あいつが今回、無事に目を覚ましてくれるのかすら分からない……!」州の言葉に、絶望的な響きが混じる。先ほど医師から告げられた宣告が、州の心を完全に打ち砕いていた。『小坂さんの病状は末期です。これ以上、根本的な治療を施す術はありません。今回はまさに生死の境を彷徨っており……もし一命を取り留めたとしても、それは奇跡に近いとお考えください』すでに彼女の体は限界を迎えている。もし彼女自身に「生きたい」という強い意志が残っていなければ、とうの昔に命の火は消え去っていてもおかしくない状態だった。残酷すぎる現実を前に、州はただ祈ることしかできず、手術室の前で地獄のような時間を耐え忍んでいた。「お前を呼んだのは……俺が、どうしようもなく怖かったからだ」州は、顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。その瞳は充血し、焦点が定まっていない。「有加里がこのまま目を覚まさず……永遠に俺の前から消えてしまうんじゃないかと思うと、恐ろしくて立っていられなかった」震える声で吐露される本音。「俺と別れたいなら、それでもよかった。あいつが俺のいない場所で、少しでも穏やかに笑って生きていてくれるなら、俺はなんだって受け入れるつもりだった……」州はギリッと唇を噛み締めた。「でも、こんなのはあんまりだ……!あいつがこんな過酷な運命に一人で耐えて、ひっそりと死んでいこうとしていたなんて……っ!」愛する女には、ただ平穏で幸せな日々を送ってほしかっただけなのに。そのささやかな願いすら打ち砕かれ、州の心は完全に悲鳴を上げていた。「お兄ちゃん、大丈夫よ。有加里さんは芯の強い人だもの。絶対に乗り越えら
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