All Chapters of 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる: Chapter 821 - Chapter 830

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第821話

その切実な思いを前にしては、紫音もこれ以上強引に連れ出すことはできなかった。……今はそっとしておくしかないわね。結局、紫音は小さくため息をつき、蘭をそのまま帰宅させることにした。――その後、両親のマンションへ到着すると、ダイニングテーブルには溢れんばかりの豪勢な手料理が並べられていた。すでに兄の州も到着しており、リビングには穏やかな談笑の声が響いている。その温かな光景は、昔から変わらない「完璧な家族」の姿であり、張り詰めていた紫音の心をホッと和ませた。しかし、紫音の目は誤魔化せなかった。ソファでくつろぐ州の横顔には、隠しきれない疲労の影が濃く落ちている。かつて親の猛反対によって最愛の恋人を手放すという凄惨な経験をした州は、浩一たちの悲恋を目の当たりにしたことで、完全に塞がっていたはずの古傷を深く抉られていた。未だにあの暗いトラウマの底から抜け出せていないのは明らかだった。それでも州は、両親や妹に一切の心配をかけまいと、実家のドアを開けた瞬間から「優しくて完璧な息子」の仮面を被り続けている。無理に明るい声で笑い、最高の状態を取り繕おうとする兄の痛々しい姿に、紫音は胸を締め付けられるような思いがした。お兄ちゃん……自分が一番苦しいはずなのに、どうしていつもそうやって一人で抱え込もうとするの……「今日は二人揃って顔を見せてくれて、お父さんも私も本当に嬉しいわ」キッチンから現れた母の琴音が、エプロンを外しながら満面の笑みを浮かべた。「全部、あなたたちが好きなものばかり作ったのよ。二人とも、どんなに仕事が忙しくても食事だけはしっかり摂りなさいね。こうして家族四人で食卓を囲むなんて、本当に久しぶりだわ……」琴音は目を細め、愛おしそうに兄妹を見つめた。「あなたたち二人が健康で、こうしてそばにいてくれるだけで……お母さんは本当に幸せよ」今日の琴音は、いつも以上に上機嫌でよく喋った。……彼女自身も、痛いほど分かっているのだ。かつて家柄を理由に息子の恋人を排除し、愛を諦めさせたあの一件以来、州との間には決して埋まることのない見えない溝が横たわっていることを。州は表面上こそ親孝行な息子として優しく接してくれるが、その奥にある本心は完全に冷え切っている。母親である琴音がそれに気づいていないはずはなか
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第822話

隆之介の眼差しは、静かに州へと向けられた。その視線の奥には、息子の人生を歪めてしまったことへの深い自責の念が滲んでいた。最近、何がきっかけかは分からないが、かつてのトラウマを抉り出されたように酷く疲弊している息子の痛々しい姿を見るたび、父親である彼もまた、胸をかきむしられるような焦燥感と後悔に苛まれていたのだ。「お父さんは、いつだってそう言って私たちの味方でいてくれるわね」紫音は明るく微笑み、両親の顔を交互に見つめた。「言葉にするのは得意じゃないかもしれないけど、お父さんもお母さんも、ずっと私たちのためにたくさん尽くしてくれたこと、ちゃんと分かってるわ。地元の古いお友達と離れてまで、わざわざこの街に引っ越してきてくれたのも……少しでも私たち兄妹の近くにいるためでしょう?本当なら、あっちにいた方が気心知れたお友達もたくさんいて、ずっと楽しかったはずなのに」両親には、これからの人生をただ心穏やかに楽しんでほしい。自分たち若者の複雑な事情や苦悩に巻き込んで、これ以上余計な心配をかけたくない。そう心から願いつつも、家族という繋がりがある以上、完全に切り離すことはできないのだと紫音は痛感していた。そんな温かく和やかな団らんの空気を破るように、不意に州のスマートフォンが震えた。画面に視線を落とした州の顔から、ふっと作り笑いが消え、代わりに深い疲労の色が浮かび上がる。「……また、浩一からだ」ここ数日、浩一は毎日のように州へ連絡を寄こし、酒に誘ってきていた。蘭を失った絶望の淵でボロボロになっている彼を放っておけず、また自身の過去と重ね合わせてしまう州は、彼の痛ましい誘いをどうしても断りきれないでいたのだ。州が席を立ち、ベランダに出て電話に出ると、耳に飛び込んできたのはひどく掠れ、すがるような声だった。「州さん……今どこにいる?今いるバーの位置情報を送ったから、頼む、すぐに来て一緒に飲んでくれないか。……ここ数日、本当に息が詰まりそうで、頭がおかしくなりそうなんだ。州さんに話を聞いてもらわないと、俺……もうどうにかなってしまいそうで……」今の浩一は、完全に八方塞がりの状態に陥っていた。蘭に何度電話をかけても、長文のメッセージを送っても、彼女からの返信は一切ない。頑なに会うことすら拒絶され、彼がどれだけ
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第823話

州は真剣な眼差しで紫音を見つめた。「紫音、お前からもあいつの背中を押してやってくれないか。あんな逃げ腰のままじゃダメだ。あれだけ本気で惚れ抜いた女なんだ、何があっても絶対に諦めるなと。親の反対だろうとなんだろうと、本気でぶつかれば解決できない問題なんてないはずなんだ……」その言葉には、普段の温厚な州からは想像もつかないほどの強い熱がこもっていた。彼がここまで浩一に執着し、半ば強引にでも彼を諦めさせまいとするのには理由がある。他ならぬ州自身が、過去に親の圧力に屈して戦うことを放棄し、最愛の女性を手放してしまったという「永遠に消えない後悔」を抱えているからだ。一度手放してしまったら、二度と元には戻らない。あの時の決断を、自分は一生悔やみ続けながら生きていくことになる――その残酷な真実を骨の髄まで味わっているからこそ、州は浩一に同じ轍を踏んでほしくなかった。どんな代償を払ってでも、絶対にあの手だけは離すな。諦めずにしがみつきさえすれば……必ず希望の光は見えるはずなんだ。それは浩一への励ましであると同時に、過去の弱い自分自身に対する、血を吐くような後悔の叫びでもあった。「……そうね。浩一さんには今、誰かの支えが必要だわ。私のところのアシスタントの蘭も、相当深く傷ついている。でも結局のところ、他人がどれほど手を差し伸べても、最終的にこの理不尽な運命と戦って答えを出すのは、彼ら自身でしかないのよ」紫音は小さく首を振り、州に向かって微笑みかけた。「私はもう少しここでお父さんとお母さんに付き合うから、お兄ちゃんは早く行ってあげて。あ、そうだわ。途中で律と合流して、二人で浩一さんのところへ行ってあげてくれないかしら?」浩一が今まさに待っているのだから、一刻も早く駆けつけてあげるべきだ。それに、紫音は律の能力を誰よりも信頼していた。律は他人の心理の奥底を正確に読み取ることに長けており、いざという時には容赦なく核心を突く言葉を放つ。傷の舐め合いではなく、今の浩一に現実を直視させるための「荒療治」として、律ほど適任な人物はいない。彼がいれば、どれほど複雑に絡み合った問題でも、必ず解決の糸口が見つかるはずだと紫音は確信していた。州が頷いて慌ただしくマンションを出て行った後、紫音はソファに腰を下ろし、隣に座る母・琴音に
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第824話

紫音は、胸の奥に冷たい石を飲み込んだような重苦しさを感じた。「……お母さん。今のお兄ちゃんを見て、本当に胸が痛まないの?」紫音は少しだけ声を震わせながら、ずっと心の中に閉じ込めていた問いを投げかけた。「あの日、お母さんが有加里さんを追い詰めて、お兄ちゃんとの別れを強要したこと……本当に、一度も後悔したことはないの?それが『お兄ちゃんのため』だったと、今でも本気で信じているの?」「紫音……」「お母さんは、時間が経てば忘れると思っているかもしれない。でもね、お兄ちゃんはあの日からずっと、心の一部を殺して生きているのよ。毎日毎日、失った彼女のことばかりを想って、苦しんで……彼が本当に心から笑っているところなんて、私はもうずっと見ていないわ」紫音の言葉には、最愛の恋人と引き裂かれた兄への深い同情と、親の横暴に対する静かな怒りが入り混じっていた。「いくら時間が過ぎようと、あの傷がお兄ちゃんの中で癒えることは絶対にないわ。親に逆らえず、最愛の女性を自らの手で手放してしまったという絶望は、彼の魂を完全に壊してしまったのよ。……おそらくお兄ちゃんは、これからの人生で、二度と誰かを心から愛することなんてできない」リビングは水を打ったように静まり返り、琴音は痛ましい宣告を受けたように目を伏せた。「あの失恋は、ただの若気の至りなんかじゃない。お兄ちゃんの人生から、光も希望もすべて奪い去ったのよ。だからお願い、お母さん……もう二度と、お兄ちゃんの前で結婚だの家柄だの、そんな話はしないで。彼にとって、それはただの残酷な拷問でしかないんだから」紫音は真っ直ぐに母の目を見つめ、これまで言えなかった本音をすべて吐き出した。ずっと喉の奥につかえていた思いだった。兄が家族の前で無理をして笑うたび、その仮面の裏でどれほど血を流しているかを紫音は知っていたからだ。だからこそ、今日だけは母親に現実を突きつけ、彼の痛みを少しでも理解してほしかったのだ。「お母さんだって……州にこんな風になってほしかったわけじゃないのよ」琴音は苦しげに目を伏せ、震える指でカップの縁をなぞった。「あの子が毎日心を閉ざして、ふさぎ込んでいる姿を見るのは本当に辛いわ。でも……あの時の私の決断は、すべてあの子の将来を守るためだったの。同じ道を通ってき
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第825話

「……あなたたち兄妹に、不幸になってほしいなんて一度も思ったことはないわ。でもね、親である以上、どうしようもないことだってあるのよ」琴音は小さくかぶりを振った。「あなたたちは『余計なお世話だ』と言うかもしれないけれど、親という生き物は、子供には少しでも優秀で、家柄の釣り合う相手と結ばれてほしいと願ってしまうものなの。州と有加里さんの件については……彼女を深く傷つけてしまったことや、私のやり方が強引すぎたことは認めるわ。でも……あの時の決断自体を、私は今でも後悔していないのよ」琴音はきっぱりと言い切った。もちろん、一人の女性として、他人の大切な娘をあんな形で傷つけてしまったことへの罪悪感はある。しかし「家柄を守る一族の母」として、そして「息子の将来を案じる親」として、あの時の決断は絶対に正しかったのだと、彼女は今でも自分に言い聞かせていた。紫音は小さく息を吐いた。これ以上言っても、お母さんの価値観が変わることはないわね……琴音の言葉の端々に滲む、親としての深い苦悩と悲哀を感じ取り、紫音はこれ以上彼女を責めるのをやめた。過去の傷を掘り返したところで、誰も救われないのだから。「……分かったわ、お母さん。この暗い話はもう終わりにしましょう。代わりに、少し明るい報告をさせて」紫音は雰囲気を変えるように、パッと表情を明るくした。「実はね、私の会社の業績が今すごく伸びているの。近いうちに新入社員を大量に採用して、事業をさらに拡大しようと思っているわ!私、やっぱりこの仕事が心の底から大好きなのよ。自分が心から情熱を注げるものがあるって、本当に幸せなことね」目を輝かせて仕事の成果を報告する娘の姿に、琴音の顔にもようやく柔らかな笑みが戻った。「そう……あなたがそんなに生き生きとしている姿を見られるのは、お母さんも本当に嬉しいわ。でもね、紫音……」琴音は嬉しそうに目を細めた後、少しだけ真剣なトーンで言葉を継いだ。「仕事が順調なのは素晴らしいことだけど……あなたと律くんの将来のことも、そろそろ真剣に考えなさい。二人で家庭を築くこと、そして……早く子供を持つこともね」「お母さん……またその話?」「うるさい母親だと思われているのは分かっているわ。でもね、あなたたちが二人きりで仕事ばかりに追われている姿を見ていると、
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第826話

ああ、またこの話の無限ループ……紫音は内心で深いため息をついた。実家に帰るたびに繰り返される「母の孫コール」には、さすがの彼女も辟易としていた。「もう分かったから、お母さん。その話はこれくらいにして。律と私の関係は今でも十分にうまくいっているし、何も心配いらないから」紫音は逃げるように話を打ち切った。彼女がこれほどまでに子供を作ることをためらうのには、明確な理由があった。子供を持つということは、計り知れないほど重い「責任」を背負うということだ。もし母親になれば、今のように自分の時間と体力のすべてを、愛する仕事に注ぎ込むような自由な生き方はできなくなる。かといって、仕事を優先して「片手間で」子供の相手をするような真似は、子供に対してあまりにも不誠実で可哀想だと思っていた。新しい命をこの世に迎えるからには、絶対に中途半端な覚悟ではいけない。自分自身のキャリアとの折り合いをどうつけるのか。親として完璧な愛情と時間を注げる環境が整うまで、紫音はこの問題に対してどこまでも慎重にならざるを得ないのだ。一方、その頃。重厚な扉に隔てられた薄暗いVIPルームには、ひどく淀んだ空気が満ちていた。すでに合流していた律と州は、目の前でやけになったようにグラスを煽る親友の姿を、ただ静かに見つめていた。テーブルに並べられた豪奢な料理には、誰も手をつけていない。「浩一、いつまでそうして腐ってるつもりだ。そんな死んだような顔をしてたって、何も解決しないだろう」見かねた州が、重い口を開いた。「お前にはまだ、希望があるじゃないか。どんな形であれ、彼女はお前と同じ空の下にいる。お前自身が諦めさえしなければ、いくらでもやり直すチャンスはあるんだぞ。……それに比べて、俺はどうだ?」自嘲気味に吐き出された声には、隠しきれない過去の深い傷が滲んでいた。「俺なんか、もう足掻くことすら許されない。最後にすがるチャンスさえ完全に奪われて……誰にこの絶望をぶつければいいかも分からないまま、必死に自分を誤魔化して息をしてるんだ。浩一、お前がそんな風に無意味に自分をすり減らしているのを見ると、本当に胸が痛い」親友が壊れていく姿を見るのは、州にとっても身を抉られるような苦痛だった。彼のために何かしてやりたい。狂おしいほどそう願ってはいるが
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第827話

――浩一の悲痛な叫びが、夜の帳に溶けていた頃。一方、州たちが去り、静まり返った京極家の豪奢なダイニングでは、残された母と娘の間に、静かだが重苦しい空気が漂っていた。紫音にとって、仕事で得られる圧倒的な達成感だけが、今の彼女を心底から喜ばせ、生かしてくれる唯一の熱だった。かつて愛した男――清也からの残酷な裏切りを経験したあの時。もし自分に打ち込める事業がなかったら、紫音は自分の存在価値を見失い、暗闇の中で完全に壊れていただろう。すべてを失いかけた彼女にとって、努力した分だけ結果として応えてくれる仕事こそが、絶対的な救いだったのだ。だからこそ、心から自分の幸せを願ってくれるのであれば、母もこの生き方を全面肯定してくれるはずだと思っていた。今の紫音には、自分の足で立つこと以外に、信じられるものなど何もないのだから。「紫音。お母さんだってね、あなたが好きなことに情熱を注いでいるのは分かっているわ。もちろん、応援もしているのよ」ふう、と小さく溜息をつき、琴音は痛ましそうな眼差しで娘を見つめた。「でもね、毎日そんなに自分を追い詰めて……あなたの体が心配なのよ。いくら会社が好調だと言っても、あなたがそこまで身を粉にして、すべてを一人で背負う必要なんてないじゃない」何年もの間、不本意にも離れ離れになっていた空白の時間が、琴音の母性をより一層過保護にさせていた。ようやく自分の手元に帰ってきてくれた愛しい娘。本当なら、一分一秒でも長く側に置き、もう二度と傷つかないように、自分の目の届く安全な場所で守り抜きたいと切望している。しかし、目の前で静かに微笑む娘の瞳には、揺るぎない自信と強さが宿っていた。紫音はもう、親の庇護の下で震えるか弱い少女ではないのだ。自らの足で立ち、自分の意志で世界を切り拓く、完全に独立したひとりの大人の女性として完成されている。親の手から完全に巣立ち、自分のコントロールなど及ばない高みへと飛び立ってしまったのだと、琴音は痛いほど思い知らされていた。だからこそ、これ以上強引に自分の理想を押し付けることはできないのだと、琴音は一抹の寂しさを抱えながら、密かに悟るしかなかった。「お母さん、心配しないで。お母さんにとっては、私はいつまでも小さな子供のままなのかもしれないけれど……でも、私、もう立派な大人よ。
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第828話

……あの時は、お父さんとお母さんをどれだけ悲しませたか分からないわ。紫音は胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。両親の前では、自分はいつまで経っても愚かで未熟な子供なのだ。清也の偽りの愛に溺れ、盲目になっていたあの頃。忠告を聞き入れず、両親の心をひどく傷つけ、多くの時間を無駄にしてしまった。まさか自分が、あの地獄のような裏切りを経て、再びこうして両親の元へ帰ってくる日が来るなど、当時は想像もしていなかった。手痛い代償を払って、ようやく過ちに気づけた。だからこそ、これからの時間は、すべて両親のために使いたい。失われた何年もの空白を少しずつ埋め合わせ、これからは父と母が毎日笑顔で穏やかに過ごせるように、自分が精一杯親孝行をしていくのだ。それが今の紫音の、何よりの望みだった。その夜、紫音は律と暮らす自宅には帰らず、そのまま両親が滞在しているマンションに泊まっていくことにした。こうして両親と水入らずで語り合うのは、本当に久しぶりのことだった。温かな家族の団欒の中で過ごす時間は、今の彼女にとって何にも代えがたい安らぎを与えてくれた。失われた空白の年月を埋めるように、これからはできる限り両親と共に過ごす時間を大切にしたい。大好きな父と母が、これからもずっと健康で、毎日穏やかな笑顔を見せてくれること。それこそが、今の紫音にとってのささやかで絶対的な願いだった。翌朝。紫音は両親のマンションから直接会社へ向かい、いつもより早く社長室に入った。デスクについた直後、彼女のスマートフォンが着信を知らせた。画面に表示された名前に、紫音は思わず目を見張った。浩一の母――塚山貴子からの着信だったからだ。まさか貴子の方から直接連絡が来るなど予想もしていなかったため、紫音は少し驚きながらも、何か急用だろうとすぐに通話ボタンをタップした。「おば様、おはようございます。朝早くからどうされたんですか?」電話口に出た紫音の声は、あくまで穏やかで丁寧だった。友人である蘭を徹底的に否定し、浩一との交際を無惨に引き裂いた貴子の冷酷なやり方には、紫音も強い憤りを感じている。しかし、それとこれとは別問題だ。貴子は目上の人間であり、何より幼い頃から紫音を我が子のように可愛がってくれた、身内のように親しい存在でもある。思えば、浩一
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第829話

これでは、二人がヨリを戻すチャンスすら完全に絶たれてしまう。深く愛し合っていた二人に、息継ぎの隙すら与えないつもりなのだ。「おば様、本当に申し訳ありません。今日はどうしてもスケジュールが空いていなくて。また改めて、私の方からご自宅へご挨拶に伺います」紫音は一切の躊躇を見せず、きっぱりと誘いを断った。「それに、結衣――白鳥結衣(しらとり ゆい)さんとはもう何年も会っていませんし、すっかり疎遠になっています。今はお互い、それほど親しい間柄というわけでもありませんから……今日はご家族だけで、ゆっくりお過ごしください」事ここに至って、紫音が新しい婚約者を囲む食事会にのこのこ顔を出すなど、絶対にあり得ないことだ。そんな真似をすれば、絶望の底で必死に耐えている蘭への裏切りになってしまう。「あら、そう?でもね、紫音さん。これから先も同じコミュニティで顔を合わせるのだから、今のうちから親交を深めておいた方がいいと思うのよ」断られたにも関わらず、貴子は一歩も引かなかった。「それにね……実を言うと、あなたから浩一を説得してほしいの。あの子の意固地な性格は、あなたもよく知っているでしょう?」貴子は一つため息をつき、諭すような声色に変えた。「あなたが浩一の味方をして、あの元彼女との復縁を応援したい気持ちも分かるわ。でも、紫音さん。世の中の現実は、あなたたちが思い描くほど甘いものではないのよ?」ストレートに放たれたその言葉には、「だから現実を見て、こちら側につきなさい」という明確な要求が込められていた。紫音が自分を支持し、浩一を説得してくれれば、すべてが丸く収まる――貴子は本気でそう信じ切っているのだ。「……おば様。私にはどうしても理解できないんです。どうして浩一さんの結婚を、家同士のビジネスの道具として利用しなければならないのでしょうか?そんなふうに無理やり決められた相手と結婚して、彼が本当に幸せになれるとでもお思いですか?」紫音は、胸の奥で燻っていた思いを真っ直ぐにぶつけた。もし今日、貴子から電話がかかってこなければ、紫音もここまで他家の事情に口を挟むつもりはなかった。しかし、こうして直接働きかけられた以上、友人として黙っているわけにはいかない。「浩一さんとは幼い頃から一緒に育ってきました。何年も彼のそばにいましたが
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第830話

自分の方針に一点の曇りも間違いもないと信じ切っている貴子の言葉には、罪悪感の欠片すら存在しなかった。むしろ、子供の将来を正しく導いているのだという、強烈なまでの自負に満ちていた。その絶対的な自信を前にして、紫音はふっと言葉に詰まった。これ以上何を言っても無駄だ――価値観の根本が違う相手に、どれだけ情熱や愛の尊さを説いたところで、彼女の心には微塵も響かない。それどころか、下手をすれば無用な反感を買うだけで、事態をさらに悪化させてしまうだろう。紫音は深い無力感に苛まれながら、静かに唇を噛み締めた。「おば様もね、あなたたちの親世代として色んな経験をしてきたのよ。あなたのお母様と同じで、誰よりも自分の子供を愛しているわ。政略結婚という形は確かに選択肢を奪うかもしれないけれど、だからこそ、本当に息子にふさわしい教養と家柄を持った女性と結ばれてほしいの」貴子の声には、一抹の迷いもなかった。「彼が今、あのアシスタントの子と一緒にいて幸せだと言うなら、それは一時的な感情の昂りに過ぎないわ。だってそうでしょう?生まれ育った環境も、培ってきた価値観も全く違う二人が、この先何十年も共に生活していくなんて土台無理な話よ。必ず綻びが出るわ。だからこそ、私が大局を見て判断してあげるのが一番なの。親が子供の不幸を望むはずがないでしょう?」その理屈は、先日母・琴音が放った言葉と恐ろしいほどに符合していた。さすがは若い頃からの親友同士だ。子供を愛していると信じ疑わないその独善的なまでの思考回路は、まるで双子のように瓜二つだった。これではもう、話し合いの余地など一切ない。もし今、蘭がこの事実――浩一の新しい婚約者がすでに帰国し、外堀が完全に埋められようとしていること――を知ったら、どれほど深く絶望するだろうか。一縷の望みさえも容赦なく断ち切るような残酷な仕打ちに、紫音の胸は痛んだ。「紫音さん。おば様、一生のお願いだから今日だけは顔を出してちょうだい。小さい頃からあなたを見てきたからこそ、あなたの人柄を信頼して頼んでいるの。あなたが同席してくれさえすれば、浩一も少しは冷静になって、こちらの顔を立ててくれるはずだから……」貴子の目的は明白だった。紫音を呼びつけることで、意地を張る息子を無理やり婚約者と対面させ、逃げ場を
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