All Chapters of 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる: Chapter 831 - Chapter 840

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第831話

声のトーンは一定で、そこには何の起伏もなかった。「だから、これで終わりにします。悔いも、未練も……もう何もありませんから」そう言い切る蘭の態度は、痛々しいほどに潔かった。彼女は自らの手で、この恋に完全な終止符を打とうとしているのだ。叶わない夢にこれ以上しがみつき、惨めに時間を浪費したくはなかった。「本当に、浩一さんにもう一度チャンスをあげる気はないの?」あまりにも頑なな蘭の態度に、紫音は胸を痛めながら問いかけた。「彼、ずっと彼なりに足掻いているのよ。ここ数日も、毎晩浴びるようにお酒を飲んで自暴自棄になっていて……見ているこちらが辛くなるくらい。あんなにボロボロになった浩一さんを見るのは、私だって初めてなの」紫音の知る浩一は、どんなトラブルが起きても決して取り乱さず、いつも飄々としている男だった。「いつも余裕ぶっていた彼が、今回は本当に心底傷ついている。それだけ、あなたのことを本気で愛しているのよ」紫音は、愛する部下であり大切な友人でもある彼女に、なんとか思い留まってほしくて必死に言葉を重ねた。蘭がこれほどまでに誰かを深く愛したのを、紫音はずっと間近で見てきたのだ。性格の不一致やすれ違いが原因で別れるのなら、まだ納得できる。しかし、ただ「親が認めてくれないから」「家柄が違うから」という理不尽な理由だけで、深く愛し合う二人が引き裂かれるなんて、紫音にはどうしても受け入れられなかった。しかし、蘭は無理に口角を上げ、不自然なほど明るい笑みを作った。「紫音さん、そんなに心配しないでください。ほら、私、今すごく元気ですよ?これからは恋愛なんて忘れて、自分のエネルギーをすべて仕事に注ぎ込むつもりです。そうすれば、毎日充実して楽しく過ごせますから!」彼女はわざとらしく声を弾ませた。「最近、自分でも仕事の処理能力が上がってきたって実感してるんです。紫音さんがいつも丁寧に指導してくれて、重要な仕事も任せてくれるおかげです。私、今の仕事が本当に大好きですし、担当しているプロジェクトは絶対に全部完璧に成功させたいんです」蘭は痛いほど理解していた。身分違いの恋に破れ、すべてを失ったかのように空っぽになってしまった今の自分にとって、決して裏切らずに残り続けるのは「自分自身で磨き上げた実力」だけだということを。ひ
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第832話

一方、紫音の真摯な眼差しを受け止めた蘭は、胸の奥がキュッと痛むのを感じた。私が不甲斐ないばかりに、紫音さんにまでこんなに心配をかけてしまっている……蘭は深い罪悪感に苛まれた。自分の身の程知らずな恋愛のせいで、尊敬する上司をここまで巻き込んでしまったのだ。「お願いだから、紫音さん。……もう、私のことは放っておいてください」蘭は絞り出すような声で、紫音の言葉を遮った。「彼が諦めていなかろうと、私にとってはもう終わったことなんです。過去のことはなかったことにしたい……だから、もうこの話はしたくありません。会社にはまだやるべき業務が山積みですよね。私は今、紫音さんの右腕として、仕事で恩返しをすることだけを考えたいんです」表情を硬くし、淡々と業務に戻ろうとする蘭の拒絶の壁は分厚く、これ以上踏み込むことは許されなかった。紫音は小さく息を吐き、それ以上の説得を諦めた。今の蘭に必要なのは、無責任な慰めや励ましではない。一人になって、ズタズタに引き裂かれた心を安全な場所で休ませるための「静寂」なのだ。本当に、誰も悪くないのに……どうしてこんなことになってしまうの。紫音は心中で深く嘆息した。蘭も、浩一も、ただ純粋に惹かれ合っただけだ。そして親である貴子もまた、彼らの価値観の中で「息子のためを思って」動いているに過ぎない。それぞれが自分の立場と責任の中で最善を尽くそうとした結果が、この残酷な悲劇を引き起こしている。だが、もしこのまま貴子の思惑通りに事が進み、浩一が愛してもいない白鳥結衣と政略結婚をしたとして、そこに幸せな未来などあるはずがない。浩一の心には、一生消えない火傷のように蘭の存在が残り続ける。愛のない結婚は、当事者である浩一と結衣だけでなく、最終的にはすべての関係者を不幸のどん底へ引きずり込むことになるだろう。それなのに、なぜ周りの大人たちはその明白な事実に気づこうとしないのか。絡み合った運命の糸の残酷さに、紫音はどうしようもない焦燥感と無力感を噛み締めることしかできなかった。「紫音さん、そんなに思い詰めないでください。私のために、紫音さんがご自分の立場を悪くしてまで庇ってくださったこと、痛いほど分かっていますから……これから何が起きたとしても、私は全部受け入れます。こういう理不尽な結果
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第833話

「本当に平気ですよ、紫音さん」蘭は立ち止まり、真っ直ぐに紫音の目を見返した。「私、一度完全にどん底まで落ちて、それでも何とか自分の足で立ち上がれたんです。だからもう、これ以上傷つくこともありません。本当に、もう大丈夫ですから」その声は静かだが、鋼のような芯の強さがあった。その健気なほどの強さが、紫音にはたまらなく愛おしく、そして哀れに思えた。蘭は何も間違えていないのに、どうしてこれほど理不尽な痛みを背負わなければならないのだろうか。「……分かったわ。じゃあ、今日のところは本当に全部忘れましょう!」紫音は空気を変えるように、パンッと両手を打った。「さあ、お腹ぺこぺこよ!蘭は何が食べたい?言っておくけど、今日は私が全部奢るんだから、遠慮なんて絶対に許さないわよ」「ええっ、そんな……私は本当に、その辺のカフェで軽く食べる程度で十分ですよ」「ダメダメ!私が奢るって言ったら奢るの!」少し慌てる蘭の腕を強引に引きながら、紫音は夜の街へと歩き出した。向かったのは、以前、兄の州に連れてきてもらったことのある、隠れ家的な高級レストランだった。味はもちろん、店内の落ち着いた雰囲気も素晴らしく、看板メニューの味は紫音の折り紙付きだ。ここなら絶対に蘭も喜んでくれるはずだと、紫音は迷うことなく彼女をその店へとエスコートした。一方、その頃。浩一は実家の応接室で、母・貴子と激しい口論を繰り広げていた。浩一の新たな婚約者として白羽の矢が立ったのは、白鳥結衣という女性だった。白鳥家も塚山家に匹敵する名門であり、結衣自身、紫音とも幼い頃に面識があった。しかし、長年の海外生活で完全に疎遠になっており、現在の紫音にとっては「顔も思い出せない他人に等しい存在」だ。紫音が結衣との食事会をすげなく断り、親友である蘭を優先したのは当然の道理だった。「母さん、俺は何度も言っているはずだ。結衣の出迎えなんて絶対に行かない!」浩一は苛立たしげに吐き捨てた。愛する蘭を引き裂かれた直後に、親が決めた見知らぬ女を迎えに行くなど、絶対に承服できるわけがなかった。しかし、一族を牛耳る貴子が、息子の反抗を素直に許すはずもない。「いい加減になさい!私をこれ以上怒らせて、どうするつもり?ただでさえ最近体調が優れないのに、あなたがいちいち
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第834話

彼女が白鳥結衣だった。長身でスラリとした手足に、洗練されたハイブランドの装い。ブランド物のキャリーケースを優雅に引くその姿は、息を呑むほど華やかで美しかった。生まれ持った特権階級のオーラと、洗練された身のこなし。確かに、庶民育ちの蘭とは何もかもが決定的に違っていた。しかし、その完璧な美貌を前にしても、浩一の心は1ミリたりとも揺らがなかった。彼が求めているのは、家柄の釣り合いや着飾った美しさではない。温かく寄り添い、共に歩んでくれる蘭の存在そのものなのだから。よし……手っ取り早く、きっぱりと話をつけよう。浩一は固い決意を胸に秘め、こちらへ歩み寄ってくる結衣を見据えた。「もしかして、浩一くん?久しぶりね」ふわりと香水の匂いを漂わせながら、結衣は優雅な笑みを浮かべて声をかけてきた。間近で見ると、スクリーンから抜け出してきた女優のように非の打ち所がない美貌だった。しかし、浩一の心境は氷のように冷めきっていた。若くして自らの足でビジネスの世界を生き抜いてきた彼にとって、着飾った美女など見飽きている。彼の心を動かすのは、ただ一人、蘭という女性だけだった。「……ああ。母さんに言われて迎えに来た」浩一の返事は、温度を全く感じさせないひどく素っ気ないものだった。その明らかな「不本意さ」に、聡明な結衣は一瞬だけ目を丸くした。へえ……面白い人。結衣自身、親に決められたこの政略結婚には元々あまり乗り気ではなかった。しかし、目の前に立つ浩一を見て、彼女の中で微かな興味が湧き上がっていた。長身で洗練されたスーツ姿。無駄のない引き締まった体躯と、知的で端正な顔立ち。これまで彼女にすり寄ってきた甘ったるい男たちとは違う、研ぎ澄まされた刃のような鋭さと清潔感があった。それに、この冷え切った態度を見る限り、外で女遊びにうつつを抜かすようなタイプでもなさそうだ。変に女慣れしている遊び人より、こういう堅物の方が、結婚生活ではずっとコントロールしやすくて楽かもしれないわね。結衣は内心でそんな打算を巡らせながら、完璧な笑みを崩さなかった。「おば様も、私の帰国を楽しみにしてくださっていたみたいで嬉しいわ。両親からも、今日はお言葉に甘えてしっかり歓待していただきなさいって言われているの」「……そうか」浩一は結衣の華
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第835話

そのあまりにもあっけらかんとした物言いに、浩一は内心少し拍子抜けしていた。名家の令嬢といえば、もっともったいぶって気取った態度をとるものだと思っていたが、彼女にはそういう嫌味な執着や飾ったところが全くないらしい。逆に、不満げにダラダラとしている自分の方が、なんだか器の小さい男に思えてくるのが業腹だった。「……こっちだ」浩一は短く促し、駐車場へ向かって歩き出した。車の前まで来ると、浩一はごく自然な動作で助手席のドアを開け、結衣が乗り込むのを待ってからそっとドアを閉めた。そんな何気ないエスコートの仕草に、結衣の口角がほんの少しだけ上がった。なるほどね。態度は冷たいけど、染み付いた教養とマナーは本物みたい。こういう細やかな気遣いが自然にできる人なら、結婚相手としては合格点ね。結衣のそんな値踏みするような視線に浩一が気づくはずもなく、彼は運転席に乗り込むと、無表情のままエンジンをかけた。「直接レストランに向かうが、どこか寄りたいところはあるか?荷物を先に置きたいなら、ホテルを手配するが」「ううん、このままレストランへ向かってちょうだい。食事の後に自分のマンションに帰るから、宿泊先の手配は結構よ」「……そうか。それは助かる」浩一は心底ホッとしたように呟いた。もし「ホテルを取ってほしい」などと言われれば、また母親から「もっと手厚くエスコートしろ」と口うるさく干渉されるところだった。自分のテリトリーで自己完結してくれる結衣の自立した態度は、浩一にとって唯一の救いだった。それきり、車内には重い沈黙が落ちた。流れる景色を眺める結衣と、前だけを真っ直ぐに見据えてハンドルを握る浩一。どちらもベラベラと愛想笑いを振りまいて場を繋ぐような性格ではないため、必然的に会話は完全に途絶えてしまった。エアコンの微かな作動音だけが響く密室は、長年の空白を経て再会したばかりの男女が乗っているにしては、あまりにも異様で、寒々しい空気に包まれていた。「ねえ、私に何か言うことはないの?これじゃまるでお出迎えじゃなくて、企業の圧迫面接みたいじゃない」車内に張り詰めていた重苦しい沈黙を、結衣が呆れたような声で破った。その余裕めいた口調に、浩一は少しだけ気まずさを覚えて眉間を寄せる。「……別に。長いこと会ってなかったから、何を話
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第836話

「……合流してるよ。心配しなくても、今そっちに向かってる」浩一の返答はひどく素っ気なく、深い疲労感が滲み出ていた。どんな鈍感な人間であっても、今の彼がどれほど不機嫌で、この状況を疎ましく思っているか一目瞭然だろう。母親の顔を立てて、わざわざ空港まで足を運んでやったのだ。それだけでも感謝してほしいくらいだった。今日、彼がここに来た目的はたった一つ。隣に座るこの令嬢に、すべてを打ち明けてきっぱりと引導を渡すこと。誰が邪魔をしようと、この決意だけは絶対に曲げるつもりはなかった。「おば様からのお電話?私のことはご心配なさらないでって伝えてくださる?今日は久しぶりの空気を楽しみたいだけだから。それに、おば様が私の帰国を心待ちにしてくださっていたことも、ちゃんと分かっているわ」浩一の持つスマートフォンから漏れ聞こえる貴子の声に、結衣はわざとらしく、しかし完璧な令嬢の微笑みを浮かべてそう言った。電話越しの貴子の弾んだ声を聞きながら、結衣は内心で密かに舌を巻いていた。車内に漂うひどく冷え切った気まずい空気とは裏腹に、彼女の心の中は今、予想外の高揚感で満たされていたのだ。幼い頃、結衣の家と塚山家は家族ぐるみの深い付き合いがあり、頻繁に集まっては食事をする仲だった。しかし、結衣が海外へ留学してからはすっかり疎遠になり、広い世界で新しい人脈や友人を築いていくうちに、幼馴染の存在など記憶の片隅に追いやられていた。今回、家同士の利益のために帰国を促され、政略結婚の話を持ち出された時、結衣は強い反発を覚えていた。どうせ親の操り人形のような、退屈でつまらない男をあてがわれるのだろう。昔の浩一といえば、ただの落ち着きのない悪ガキだった印象しかない。どんな姿になっているにせよ、期待などしていなかった。――しかし、数年ぶりに空港で再会した彼は、結衣の予想を美しく裏切ってきた。無駄のない長身に、高級なスーツを着こなす洗練された身のこなし。そして何より、人を寄せ付けないような冷ややかな美貌。昔の面影など微塵も感じさせない、誰もが振り返るような極上の青年に成長していたのだ。それに、自分に対して見せる不機嫌で素っ気ない態度も、結衣からすれば悪くない評価に繋がっていた。裏表がなくて、女遊びもしなさそう。変に気が利くプレイボー
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第837話

浩一の冷ややかな横顔を上機嫌に眺めながら、結衣はさらに言葉を続ける。「私ね、当分は海外へ戻るつもりはないの。ずっとこちらに滞在する予定よ。もう少ししたら、私の両親も帰国するわ。こっちでかなり大規模な共同プロジェクトを立ち上げる予定だから、これからは両親たちもずっとこちらを拠点にするはずよ。お互いの家族みんなで顔を合わせる機会も増えるし、本当に素晴らしいことだと思わない?」朗らかで、甘い期待を含んだ声。それは明らかに、この政略結婚に対する彼女の強い意欲の表れだった。親に強いられた見合いへの反発はどこへやら、眼の前の魅力的な男に対する打算的な好意が、彼女をこれほどまでに雄弁で積極的な態度にさせていたのだ。「親同士が勝手に進めている話だということは承知している。だが、君は少し勘違いをしているようだからハッキリ言っておこう」浩一は前を向いたまま、氷のように冷たい声で結衣の言葉を遮った。「俺はこの縁談に同意した覚えはないし、君と結ばれる気も毛頭ない。俺には心に決めた女性がいる。母がどうにかして俺たちを引き裂こうと躍起になっているが、誰に何をされようと、俺が彼女を手放すことは絶対にない。だから、君もさっさと諦めるんだな」淡々と、しかし有無を言わさぬ口調で告げられる拒絶。「後で母を交えた席で正式に破談を申し入れるつもりだったが、これ以上君に無駄な期待を持たせるのも悪いと思ってね。今ここで事実を伝えておく。俺たちは合わない。俺の心には、もう他の女が入る隙など微塵もないんだ」浩一は一切の情けをかけなかった。変に言葉を濁して取り繕うよりも、一刀両断にしてしまったほうが互いのためだ。彼にとって結衣は、ただの「母親が押し付けてきた厄介事」でしかなく、一秒でも早くこの不毛な茶番から解放されたかったのだ。突然の冷酷な宣言に、結衣は少しの間、目を丸くして固まっていた。「……ちょっと待って。つまり、あなたには愛し合っている恋人がいて、おば様がそれを認めないから、私との政略結婚を無理やり押し進めている、ってこと?」状況を飲み込んだ結衣は、傷つくどころか、どこか呆れたような、同情すら混じった溜息をついた。「でもね、浩一くん。親が本気で決めた縁談を、あなたがどうこうできると思っているの?こういう家柄に生まれた以上、私たち
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第838話

浩一のあまりにストレートな拒絶を浴びて、結衣は言葉を失い、内心で複雑な感情を持て余していた。元々、この政略結婚に夢やロマンスなど求めていなかったし、長年離れて暮らしていた幼馴染との再会に戸惑いがあったのは事実だ。しかし、空港で彼を一目見た瞬間、その洗練された冷ややかな容姿に、たしかな胸の高鳴りを覚えたばかりだったのだ。「この男なら、私の夫として悪くない」と完璧な算段を立てた矢先に、まさか先制攻撃でこんなにもバッサリと切り捨てられるとは思いもしなかった。見事に計算が狂い、結衣はどう対応すべきか分からず、ただ困惑の眼差しで隣の男を見つめ返すしかなかった。「結衣、君に頼みがある。俺に協力してくれないか」沈黙する結衣を見て、浩一はふと思いついたように声のトーンを落とした。「君の口から直接、『私たちには合わない』と親に断りを入れてほしいんだ。君の家から破談を申し入れてくれれば、母もこれ以上俺に無理強いできなくなる。悪いが、頼めないだろうか」彼からすれば、結衣が協力してくれれば事態は遥かに丸く収まる。結衣側からこの縁談を白紙に戻してくれれば、母親も一時的に矛を収めざるを得ないはずだ。「……そんなこと言われても、私だって今日帰国したばかりなのよ。親同士がすっかり話を進めてしまっているのに、急に私から断るなんて。両親をガッカリさせたくないし……」結衣は困り果てたような、いかにも庇護欲をそそる無防備な顔を作って見せた。「あなたに急にそんなことを言われても、どうしていいか本当に分からないわ。これからおば様と、どんな顔をしてお会いすればいいのよ……」「都合の良い時だけ巻き込もうとするなんて、身勝手な男ね」と内心で毒づきながらも、表面上はか弱い令嬢の仮面を完璧に被り通す。浩一が苛立たしげに何かを言い返そうとしたその時、車は滑らかに減速し、目的地である高級レストランの車寄せに到着した。案内された豪奢な個室では、貴子が今か今かと二人を待ち構えていた。貴子はこの日のために並々ならぬ気合いを入れており、もはや結衣のことを「自分が見定めた完璧な未来の嫁」として微塵も疑っていない様子だった。「結衣さん!長時間のフライト、本当にお疲れ様でした。お休みになる暇も与えずに呼び立ててしまってごめんなさいね。どうしても早くあなたのお顔が見たくて、待
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第839話

再会を喜び合い、手を取り合って親密さをアピールする二人。その完璧に計算された茶番劇を冷ややかに見下ろしながら、浩一はひどい頭痛を覚えた。昔から過干渉な母親ではあったが、いつからだろうか。母親の顔が、まるで全くの別人のように見知らぬものに感じられるようになったのは。彼らの間にはもはや、心を許して語り合うような話題など一つも残っていなかった。価値観は決定的にすれ違い、自分の本音やプライベートな感情をこの母親に打ち明けようという気など、とうの昔に失せている。「ふふ、おば様のお好みなら全部把握していますから。向こうの生活が長かったから、帰国されてから何かと不便に思われているんじゃないかと心配していたんです」「優しいのねぇ。さあさあ、立ち話もなんだから、まずは座ってちょうだい。お料理はもう運ばせているわ。長時間のフライトでお腹が空いたでしょう?」貴子は結衣を上座へと優しく促すと、ふと視線を鋭くして、部屋の入り口で氷のように立ち尽くしている息子を睨みつけた。「浩一!あなたも突っ立ってないで、早く座りなさい。……結衣さんの隣にね。ほら、あなたたちは幼馴染なんだから。久しぶりで少し照れくさいかもしれないけれど、小さい頃からずっと一緒だったんだから、すぐに昔みたいに打ち解けられるわよね」余裕を取り繕った声の裏で、貴子の心臓は警鐘を鳴らしていた。息子の不機嫌極まりない態度に、内心ハラハラしていたのだ。もしここで浩一がへそを曲げて、結衣の前で取り返しのつかない暴言を吐いたり、せっかくの縁談をぶち壊すような振る舞いをしたりすれば、貴子としてもどうフォローしていいか分からなくなる。お願いだから、今日だけは大人しくしていてちょうだい……!貴子は引きつりそうになる笑みを必死に保ちながら、息子に向けて強い警告の視線を送った。「俺の今日の役目は、彼女を無事にここまで送り届けることだ。用は済んだから、俺はこれで失礼する。――ああ、それと、来る途中の車内で結衣にはすべてはっきりと伝えてある。俺と彼女が結ばれることは絶対にないし、俺にはすでに心に決めた愛する女性がいる、とな」浩一は氷のように冷たい顔のまま、席に座ろうともせず母親に向かって淡々と告げた。その態度は、肉親に対するものとは思えないほど冷酷で、一切の情が欠落していた。「も
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第840話

息子の容赦のない一言に、貴子はまるで足元が崩れ落ちたかのような衝撃を受けた。結衣の手前、これほどの赤恥をかかされたことに対し、どう取り繕えばいいのか完全に思考がショートしていた。「浩一!ここへ来る前には、ちゃんと話がついていたでしょう!?今さらそんなふざけたことを言って、約束を反故にする気!?あなたたちは幼馴染で、小さい頃からの絆があるじゃないの!お互いにこれほど釣り合う相手は他にいないわ!」貴子は必死に威厳を取り繕い、息子の反抗を力技でねじ伏せようと声を荒げた。「いいこと!?何が何でも、あなたたち二人は結ばれるの!これは絶対よ!家の決定に、あなたが口出しする権利なんて最初からないのよ!」これ以上好き勝手なことを言わせてなるものかと、貴子は顔を険しくして言い放つ。こんな場で結衣に恥をかかせれば、塚山家としてのメンツが丸潰れになるからだ。しかし、浩一は微塵も怯むことなく、冷ややかな視線で母親を射抜いた。「どうして俺の結婚を、あんたたちに勝手に決められなきゃならないんだ。俺の人生だ、伴侶は俺自身が選ぶ。誰からの指図も受けないし、あんたたちに俺の人生を操作する権利なんて一切ない」浩一の言葉には、長年の怒りと冷ややかな軽蔑が混じっていた。「母さんも父さんも、俺が子供の頃からずっと海外にいて、俺のことなんて一度だってまともに見ようとしなかったじゃないか。俺だってあんたたちに何かを期待したことなんてない。今の俺の地位も仕事も、すべて俺自身の力で築き上げたものだ。あんたたちの力を借りた覚えは一度もない。だから俺のことに干渉するな」彼は忌々しげに目を細めた。「ずっと海外にいてくれればよかったんだ。わざわざ俺のために帰国したような顔をしないでくれ。俺は今まで一人で、十分満足して生きてきた。――こんな不愉快な茶番に付き合わされるのは、今日で最後にしてくれ」その言葉には、もはや母親に対する一片の情すら残っていなかった。最悪の場合、親と完全に縁を切ることになっても構わないとすら思っているのだ。浩一にとって、両親という存在はただ名目上のものに過ぎなかった。仕事人間だった両親は、彼が幼い頃から海外を飛び回り、自分たちの事業にばかり熱を上げていた。浩一は祖父母に預けられ、親の愛情など知らずに育った。彼らの頭の中に
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