All Chapters of 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる: Chapter 841 - Chapter 850

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第841話

実は、この展開は結衣にとって完全に計算外だった。親同士ですっかり話がつき、すぐにでも婚約の運びになると思っていたからこそ、滞在先の高級マンションから何から何まで、当然すべて塚山家が至れり尽くせりで手配してくれているものと思い込んでいたのだ。幼い頃に両親と共に海外へ渡って以来、こちらの土地勘はすっかり失われている。現在のハイソサエティの力関係や事情にも疎く、この状況で放り出されては、すべて自分で手配を一からやり直さなければならなくなる。どうしてこんなことになっているの……!完全に狂ってしまった計画。自分の魅力と計算で優位に立てると思っていたのに、目の前の冷ややかな男が一体何を考えているのか、そしてこれからどう出るつもりなのかがまったく読めない。結衣は完璧な令嬢の仮面の下で、焦りと混乱に激しく苛立っていた。「結衣さん、滞在先ならもううちで手配してあるのよ。遠慮しないで、うちに住めばいいわ。どうせいずれは私たちのお嫁さんになるんだから、数日早くなったところでどうってことないでしょう?」貴子は結衣の手を優しく引き留めると、息子には一切目もくれずに、独断で話をどんどん進めていく。「それにね、今日から二人にはもっと絆を深めてもらわなきゃ。何年も離れていたから少し距離があるかもしれないけれど、お互いを知れば絶対に気が合うはずよ。なんと言っても私が太鼓判を押すお似合いの二人なんだから」息子の意志など知ったことではない。貴子はどうあってもこの縁談を力ずくで押し通す腹積もりだった。この件に関してだけは、絶対に一歩も引くつもりはなかった。母親のあまりにも身勝手な振る舞いを前に、浩一は深い溜息をついた。好きにしろ。どうせ俺は実家には住んでいない。あの二人がどこでどう暮らそうと、俺には一切関係のないことだ。「……最近は仕事が詰まってる。俺にはそんな暇はない。言いたいことはもう全部言ったから、あとはそっちで好きに処理してくれ。俺はもう行く」浩一は吐き捨てるようにそう言うと、背を向け、一切の未練もなく歩き出した。母親の顔を立てる義理などない。親の都合で自分の人生を切り売りされる筋合いなど、どこにもないのだ。友人としての頼み事ならまだしも、結婚となれば話は別だ。これ以上、この不毛な茶番に付き合う気はさらさらなかった。しかし、そ
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第842話

まさか、実の母親がここまで卑劣な手段に出るとは。浩一は歯を食いしばった。親子間の意見の相違に、関係のない蘭を巻き込み、彼女を直接攻撃してでも自分を従わせようとする。そんな狂気じみた真似を、この母親なら平然とやってのけるだろう。だが、もし本当にそんな真似をされるようなことがあれば――その時は、自分も一切の容赦はしない。「浩一、何度も言っているでしょう。この件にあなたの意志は関係ないの。私たちの家に生まれた以上、これは義務なのよ!誰だってそうやって家のために生きているの!」貴子は悪びれる様子もなく言い放った。親が子供の結婚相手を選ぶのは当然の権利であり、家柄に見合った相手を見つけてやった自分は完璧な母親なのだと、微塵も疑っていないのだ。「うちの家がなんだって言うんだ!結局のところ、ただの人間だろうが。俺は自分が特別だなんて思ったことは一度もない。俺の人生は俺のものだ。親だからって、俺の人生の決定権まで握れると思うなよ」浩一は射殺すような鋭い視線で母親を睨みつけた。その意志は鋼のように硬く、絶対に揺るがない。「いいか、よく聞け。もし母さんが少しでも蘭に手を出したなら、俺は一生誰とも結婚しない。俺が妻にするのは、この先もずっと彼女ただ一人だ。これ以上、この話をするつもりはない。俺の覚悟は決まっている」浩一の言葉には、一寸の迷いもなかった。彼は、親の圧力に屈して愛する女性を傷つけるような真似だけは絶対にしないと誓っていたのだ。母親の体調不良を盾に取られて言いなりになり、結果的に愛する女性を深く傷つけて手放してしまった親友――州の二の舞には絶対になるものか。結局のところ、親の言いなりになったところで誰も幸せにはなれない。両方を傷つけ、すべてを失うだけだ。それを、浩一は痛いほど分かっていた。一方、息子のあまりにも冷酷で、文字通り「すべてを捨てる」覚悟を突きつけられた貴子は、ゾッと背筋が凍るような思いだった。息子が多少反発することは予想していた。身分違いの女に未練たらたらなのも分かっていた。だが、まさかこれほどまでに強固な意志で、親子の縁すら切り捨てて立ち向かってくるとは。一切の妥協を許さず、親の言葉など一言も聞き入れる気のないその姿に、貴子は今まで感じたことのない深い無力感と焦燥に襲われていた。
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第843話

貴子は引きつった笑みを浮かべながら、必死に自分の体面を保とうとする。「私は母親だもの、あの子のことは一番よく分かっているわ。あんな風に反抗的な態度をとっていても、結局のところ、あの子は私の言うことを聞くしかないのよ」言うことを聞く、ですって?結衣は心の中で冷たく鼻で笑った。浩一が母親の言いなりになるなど、あり得ない。先ほどの彼の殺気立つような眼差しと、一切の妥協を許さない拒絶の態度を見れば、誰だって一目瞭然だ。今のままでは、彼が自分をすんなり受け入れる可能性など皆無に等しい。でも……結衣は密かに、胸の奥にじわじわと熱いものが広がるのを感じていた。浩一のあの揺るぎない態度。一度決めたことは絶対に曲げず、誰の圧力にも屈しない、その強烈な意志の強さと底冷えのするような男の色気。それこそが、結衣の求めていた「完璧な男」の姿だった。親の操り人形のような退屈で軟弱な御曹司とは違う。あんな男がもし自分に跪き、自分だけのものになれば、どれほど満たされるだろうか。絶対に手に入れてみせるわ。結衣のプライドと独占欲に、静かに火がついた。彼がどれほど自分を拒絶しようとも、欲しいと決めたからにはどんな手を使ってでも落としてみせる。結衣はすぐさま完璧な令嬢の仮面を被り直し、優しく首を振った。「おば様、どうかお気になさらないでください。私の方こそ、心の準備もできていないまま突然お伺いしてしまったんですから。お互いに、少しクールダウンする時間が必要かもしれませんわ」そして、結衣はふんわりと微笑みながら、先ほどの同居の誘いをやんわりと断った。「それに、やはり塚山家にお世話になるのは遠慮させていただきます。向こうで一人暮らしが長かったですし、気ままな生活に慣れてしまっていて……ご迷惑をおかけしては申し訳ありませんから、自分でマンションを探すつもりです。おば様のお心遣い、本当に嬉しく思いますわ」今の状況で塚山家に転がり込むのは下策だ。ただでさえ自分に反発している浩一の神経を、これ以上逆撫でするような真似は避けるべきだ。ここはあえて距離を置く。いわゆる「押して引く」作戦が一番効果的だ。しおらしい態度で適度な距離感を保ちながら、じわじわと外堀を埋めていく。結衣は腹の底で完璧なシナリオを練り上げながら、
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第844話

貴子にしてみれば、親友の大切な娘を縁もゆかりもない場所に一人で住ませるなど、絶対にあり得ないことだった。ただでさえ、先ほどの息子の暴言で結衣にはひどく肩身の狭い思いをさせてしまったのだから。ここまで強硬に言われてしまえば、さすがの結衣もこれ以上断るわけにはいかなかった。「……分かりました。おば様がそこまでおっしゃってくださるのなら、お言葉に甘えさせていただきますわ。何から何まで、本当にありがとうございます」結衣はふんわりと上品に微笑んで頷いた。実際のところ、帰国したばかりでこちらの不動産事情には疎かったため、誰かが質の良い部屋を手配してくれるというのなら、それを利用しない手はない。まあいいわ。まずは環境を整えてから、ゆっくりと作戦を練り直すとしましょう。結衣は心の中で計算高く微笑みながら、貴子の手配を快く受け入れたのだった。「結衣さん……今日のこと、本当にごめんなさいね。あなたをこんな気まずい状況に巻き込んでしまって。せっかくの再会だったのに、あんなふうに雰囲気をぶち壊すつもりなんて、ちっともなかったのよ。すべて私の配慮が足りなかったせいだわ。本当に申し訳ない……」部屋の手配が落ち着くと、貴子は深々と頭を下げた。その顔には深い疲労と、結衣に対する強い罪悪感が滲んでいた。もし相手が少しでも気位の高い令嬢なら、先ほどの浩一の態度で大激怒し、即座にこの縁談を破棄していてもおかしくはなかった。結衣がこうして穏やかに席に座ってくれていること自体が奇跡のようなもので、貴子は内心、冷や汗が止まらなかったのだ。「おば様、頭を上げてください。私なら全然気にしていませんから。おば様が私のために良かれと思って手配してくださったこと、痛いほど分かっています。だから、どうかそんなに思い詰めないでくださいね」結衣は優しい声で貴子を慰めながら、ふと窓の外のきらびやかな夜景へと視線を移した。「それにしても、この街は本当に素敵なところですね。子供の頃の記憶とはまるで違ってしまって、見慣れたはずなのにどこか新しいような……不思議な感覚です。やっぱり長年離れていたせいかしら。でも、私、この国の空気がとても好きです」海外での息苦しい日々を思い返し、結衣はしみじみと感慨に耽った。どれだけ華やかなパーティーに出ても、高級なドレ
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第845話

あの男は絶対に手に入れる。誰にも邪魔なんてさせない.結衣の瞳の奥には、しおらしい態度とは裏腹な、ギラギラとした執着の炎が静かに揺らめいていた。結衣の言葉を聞いた貴子は、パッと顔を輝かせた。「本当!?ああ、やっぱりね!おば様、あなたたち二人は絶対に上手くいくと信じていたのよ!ご両親とは長年の付き合いだし、あなたたちも幼馴染でしょう?小さい頃から一緒に育ってきたんだから、心の奥底では絶対に特別な繋がりがあるはずよ!」貴子は結衣の手を嬉しそうに撫でながら、ふと声を潜めた。「実を言うとね、あの子、少し前まで付き合っていた小娘がいたのよ。だから今はまだ、急に縁談を言われても反発しているだけなの。でも大丈夫。時間が経てば、あんな身分違いの女のことなんて綺麗さっぱり忘れるに決まっているわ。おば様がついているから、絶対にあなたに悲しい思いはさせない。あの子に不誠実な真似なんてさせないわ!」結衣が浩一に好意を持っていると知った貴子は、これで勝ったも同然だとばかりにすっかり安堵していた。あとはあの忌々しい女を排除し、強引に二人をくっつけるだけでいいのだ。「ありがとうございます、おば様。おば様がそう言ってくださると、本当に心強いですわ。……私も、こうして家同士が決めたことに従うのが一番良いのだと分かっております。私たちのような家に生まれた以上、結婚相手を自分で選ぶことなんてできない運命ですもの」結衣はわざとらしく、少し寂しげな溜息を吐いてみせた。誰もが羨むような名家に生まれ、華やかな世界で生きているように見えても、結局のところ自分たちは親の敷いたレールを歩き、家の利益のために切り売りされるだけの駒に過ぎない。その息苦しさは、同じ境遇に生きる者たちにしか分からないのだと、同情を引くように言葉を紡いだ。「さあさあ、難しい話はこれくらいにして。今日は私と一緒に美味しいものを食べて、明日はゆっくり休んでちょうだい。疲れが取れたら、一緒にお買いものにでも出かけましょう。浩一とのことは、焦らずにゆっくり進めていけばいいのよ」貴子は慈愛に満ちた声をかけながら、愛おしそうに目を細めた。このまま上手に手綱を握り、何としてでも結衣を自分にとって都合の良い完璧な嫁にしてみせると決意していた。「はい、おば様。すべてお任せいた
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第846話

結衣が家の都合で海外へ渡ったばかりの頃、異国の冷たく見知らぬ環境に馴染めず、親友である紫音に会いたくて夜な夜なベッドの中で泣いていたほどだ。最初は頻繁に国際電話をかけ合い、何時間も語り明かしたものだが、やはり物理的な距離と時差の壁は厚かった。互いに成長し、環境が変わっていく中で連絡の頻度は減り、いつしか完全に途絶えてしまっていた。それでも、結衣の心の中から紫音という特別な友人の存在が消えたことは一度もなかったのだ。まさか、紫音ちゃんが浩一くんと今でも親しい友人同士だったなんて。結衣はふと、貴子から聞き出していた紫音のオフィスの住所を見つめた。そして、運転手に行き先を変更するよう告げた。久しぶりの帰国だ。かつての親友と再会し、また昔のように親交を深めたいという純粋な懐かしさは確かにある。だがそれ以上に――浩一と強い信頼関係にある紫音を味方につけることができれば、あの頑なで冷酷な男を落とすための、最も強力な切り札になるはずだ。ふふ……紫音ちゃん、私のために一肌脱いでもらうわよ。結衣は計算高い笑みを艶やかな口元に浮かべながら、数年ぶりの再会への期待を胸に、紫音の元へと向かった。……静まり返った社長室で、紫音は一人、デスクに積まれた決裁書類に目を通していた。そこへ、ノックの音と共に不意に現れたのは――華やかな笑みを浮かべた結衣だった。「紫音ちゃん、久しぶり。私のこと、もう忘れちゃった?」不意に鼓膜を揺らした親しげな声に、紫音はペンを止め、ハッと息を呑んだ。長年離れていたせいで、一瞬誰だか分からなかった。しかし、記憶の中の面影が目の前の豪奢な美女と重なると、紫音の目は驚きに見開かれた。年月を経ても、彼女は幼い頃と変わらず、目を奪われるほど美しかった。「結衣……?まさか、本当に帰ってきていたなんて」「ふふっ。昔、私が海外へ発つ時、紫音ちゃんボロボロ泣いてくれたわよね。あの時、『絶対にすぐ帰ってくるから』って約束したのに……結局、こんなに遅くなっちゃってごめんなさい。あの頃の私たちには、親の決めたことに逆らう力なんてなかったから」結衣は懐かしさに目を細めながら、かつての親友に歩み寄った。「本当に驚いたわ。昔のまま、本当に綺麗ね……とりあえず、そこへ座って」紫音は動揺を隠すように微笑み、
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第847話

紫音の口調は穏やかだったが、その裏には明確な拒絶が込められていた。大切な部下であり、妹のように思っている蘭の恋路を邪魔するような真似は、絶対にできない。しかし、結衣は紫音の忠告など意に介さない様子で、ふんわりと笑った。「もちろん、彼に想い人がいることは知っているわ。でもね、紫音ちゃん。これは家同士が決めたことなのよ?私たちのような世界に生きる人間に、親の決定を覆す力なんてないわ。それに、紫音ちゃんだって親の決めた相手と政略結婚して、今はあんなに幸せそうじゃない。親の敷いたレールに乗ることが、決して間違っているわけじゃないでしょう?」結衣の言葉には、上流階級特有の冷酷な現実主義が滲み出ていた。「彼が反発しているのは今だけよ。現実を受け入れるしかないと悟れば、いずれ私を受け入れるわ。……だって、彼には私以外にふさわしい相手なんていないもの」絶対に浩一を自分のものにする。その揺るぎない執着を見せつけた後、結衣は声のトーンを甘く落とし、紫音にすり寄るように身を乗り出した。「おば様から聞いたわ。紫音ちゃんと彼、今でもすごく親しい友人関係なんですってね。だからお願い。彼が早く現実を受け入れて私を見てくれるように、紫音ちゃんからも説得してくれないかしら?」結衣は計算された可憐な上目遣いで、紫音を見つめた。「何年も連絡を取っていなかったけれど、こうして顔を合わせたら、やっぱり紫音ちゃんは私にとって特別で大切な親友だって思い出したの。ねえ、昔みたいに仲良くしましょう?そして……親友の私の恋を、どうか応援してちょうだい?」懇願するような甘い言葉の裏に隠された、打算と傲慢さ。紫音は結衣の瞳の奥にある決して引かない強欲さを見透かしながら、深く、重い息を吐き出した。どう答えればいいの……紫音は完全に板挟みになっていた。貴子はおそらく、結衣に対して浩一の恋人が誰なのか――それが紫音の直属の部下であり、大切に可愛がっている蘭であること――を一言も話していないのだろう。もしここで蘭との関係を明かせば、事態はさらに泥沼化するのは火を見るより明らかだった。沈黙する紫音を見て、結衣は少し不満げに首を傾げた。「……どうしたの、紫音ちゃん。ずっと黙っているけれど、まさか私のお願いを聞いてくれないつもり?それとも、何年も会
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第848話

「結衣、あなたが帰国したばかりなんだから、本当なら私がもてなすべきよね。食事にでも誘いたいところなんだけれど……ごめんなさい、今日はどうしても外せない仕事が詰まっているの。また日を改めて、私から連絡するわ」紫音はわざとらしくならない程度に、穏やかに、けれどきっちりと線を引くようにそう告げた。幼馴染としての礼儀を欠いている自覚はある。数年ぶりに自分を頼ってきてくれたのだから、食事くらい付き合ってあげるべきなのだろう。だが、今の紫音には、結衣と笑顔でテーブルを囲むことなど到底できそうになかった。――結衣と蘭。どちらかを選ばなければならないとしたら、紫音にとって大切なのは、今も側で自分を支えてくれている小動物のように健気な蘭の方なのだ。だからこそ、結衣の打算的な恋路に手を貸す義理などどこにもなかった。しかし、結衣はあっさりと引き下がるような女ではなかった。「ええ?そんなこと言わずに、今日にしましょうよ。そうだわ、紫音ちゃんの婚約者様も呼んで、みんなで食事しない?私たち、子供の頃からの付き合いじゃない。ずっと海外にいたから疎遠になっちゃっていたけれど、私の頭の中からあなたたちの存在が消えたことは一度もなかったのよ」紫音のやんわりとした拒絶を、結衣はまったく意に介さない様子で微笑み返し、さらに懐かしい名前を口にした。「そうだ、お兄様も誘いましょうよ!州さん、昔から私にすごく優しくしてくれたじゃない。今や立派な実業家なんですってね。実は前に海外で一度お見かけしたことがあったのだけれど、その時は忙しくてご挨拶できなかったのよ」結衣はふんわりと嬉しそうに目を細め、子供時代の思い出を語り始めた。「ほら、私って昔から男の子たちに付きまとわれることが多かったでしょう?そういう時、州さんがいつも間に入って守ってくれたのよね。あの頃は本当に州さんが頼もしくて、お姫様みたいに守られている気分だったわ」結衣は愛らしい笑みを浮かべながら、かつての思い出を武器にして、紫音の懐に強引に入り込もうとしていた。自分たちにはこれほど共有している過去があるのだとアピールすることで、紫音との間にできてしまった見えない壁を、何としてでも打ち崩そうという算段だった。「ごめんなさい、今日は家のことでもやらなければならない用事がたくさんあっ
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第849話

蘭の胸の内は、今、深い絶望で塗りつぶされていた。身分違いの恋だと、痛いほど分かっていた。だからこそ、これ以上深入りする前にすべてを諦め、一刻も早くこの感情を断ち切ろうと、何度も自分に言い聞かせてきたのに。けれど、無理だった。心が張り裂けそうなほどの痛みが、彼を諦めきれない自分の本心を容赦なく突きつけてくる。結衣が帰っていくのを見届けると、紫音はすぐにドアの外にいるアシスタントを部屋の中へ呼び入れた。普段は有能でテキパキとしている彼女が、今はひどく青ざめ、今にも泣き出しそうな顔をしている。その姿を見れば、彼女がどれほど傷つき、辛い思いをしているかなど痛いほど分かった。「蘭」紫音は少しだけ声のトーンを落とし、優しく語りかけた。「外野が何を言おうと、気にしなくていいのよ。あんな言葉、あなたたちには何の関係もないわ。私だってついているんだから、絶対に解決策は見つかる。それにね、あなたが愛した人のことを、もっと信じてあげて。二人で心を一つにすれば、こんな壁なんて必ず乗り越えられるはずよ」蘭は俯いたまま、ギュッと唇を噛み締めていた。その細い肩が、微かに震えている。「誰かと一緒に生きていくって、ずっと順風満帆なんてあり得ないのよ。時には嫌なことだってあるし、毎日笑ってばかりはいられない。でも、それが二人にとっての試練なの」紫音は立ち上がり、蘭の肩にそっと手を置いた。「二人で力を合わせれば、絶対に過去にできる。だから、彼を信じてあげてね」静かな、けれど力強い励ましの言葉だった。もし、私のためにそこまでしてくれる人がいるのなら——紫音の脳裏に、ふとある人物の顔がよぎる。私なら、絶対にその人を信じ抜く。何があろうと、迷うことなく愛する人の隣に立ち続けるだろう。「あの人がわざわざ海外から呼び戻された時点で、もう無理なんだって分かってました……」ぽつりぽつりと、蘭が絞り出すように口を開いた。「きっとあちらのお母様が、二人の仲を深めようと急いで帰国させたんです。私なんて、最初から眼中にありませんから。……私みたいな人間が、お嬢様の代わりになれるわけがないんです」伏せられた目から、今にも零れ落ちそうな涙を必死に堪えているのがわかる。「浩一さんのことは愛しています……でも、だからこそ彼を困らせたく
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第850話

「……ごめんなさい。感情の問題は、他人がとやかく言えることじゃないわよね。最終的に決めるのはあなた自身よ。でも、どうか一人で思い詰めないで、もう一度よく考えてみて。ここで簡単に諦めたら、最後に一番後悔するのはあなたなんだから」紫音は少しだけ声色を和らげ、優しく言い含めた。これ以上言葉を重ねても、今の蘭には重荷になるだけだろう。言葉でどうにかなるのなら、とっくに吹っ切れているはずなのだ。下手に追い詰めれば、かえって逆効果になりかねない。今はただ、彼女自身が答えを見つけるのを待つしかない。他人がどれだけ手を差し伸べても、この複雑な恋心だけは、自分自身の心でしか整理をつけられないのだから。「……ずっと、考えていたんです」震える声で、蘭は静かに口を開いた。その瞳には、すでに深い諦めの色が滲んでいる。愛する人を一日たりとも忘れたことはないし、その想いを捨て去ることなどできるはずもない。けれど——「誰に強制されたわけでもありません。私自身の意志で、終わりにしようとしているんです」「怖いんです。必死にもがいて、どれだけ足掻いても……結局最後はすべて無駄に終わるんじゃないかって。何より、私のせいで彼がお母様と決定的に決裂して、いつか彼に後悔の念を抱かせてしまうのが一番恐ろしい……だったら、いっそ私から身を引くのが、みんなにとって一番波風の立たない、正しい選択なんです」きつく握りしめた拳の震えが、彼女の葛藤を物語っていた。「紫音さんたちが、私達のために親身になって動いてくださったこと、本当に感謝しています。でも……あんなにふさわしい婚約者の方まで現れた今、私に一体何ができるって言うんですか?もう、どう抗っても覆せない現実の前に……自分がひどく無力で、ちっぽけな存在に思えて……」「少し前までは、ずっと一緒にいられるって、本気で夢を見ていました。二人でいれば幸せで、どんな壁だって絶対に乗り越えられるはずだって。……でも、現実はそんなに甘くなかった」ついに堪えきれなくなったのか、蘭の瞳からぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。これまで誰にも相談できず、一人で抱え込んできた苦しみと惨めさが、堰を切ったように溢れ出す。誰かに打ち明ければ、きっと「諦めるな」と引き止められるのは分かっていた。でも、この残酷なまで
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