All Chapters of 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる: Chapter 811 - Chapter 820

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第811話

この恋を絶対に諦めてはいけない。浩一には、決して自分と同じ地獄を味わってほしくない。それが、取り返しのつかない過去を背負って生きる男からの、切なる警告だった。「お前なら絶対に俺の味方をしてくれると思ってたよ」浩一は自嘲気味に笑い、グラスの残りを一気に喉へと流し込んだ。「やっと俺の気持ちを分かってくれる奴に出会えた。けど……お前がいくら理解してくれたところで、肝心の母さんが俺たちを認めることは絶対にない。あいつの存在を端から否定してかかってるんだ。……それでも、俺は絶対に蘭を諦めるつもりはないけどな」お前と同じ地獄を、俺が繰り返すわけにはいかない――浩一は強く拳を握りしめ、自分自身に言い聞かせるように言葉を紡いだ。「あいつは俺が心から愛した女だ。今回のことで、俺はすでに蘭の心を深く傷つけてしまった。もしこのまま本当にあいつの手を離してしまったら、俺たちは二度と元には戻れなくなる……っ」酒の勢いも手伝って、浩一は胸の奥に渦巻く本音をすべて吐き出した。だが、言葉にすればするほど、どうしようもない苦しさと現実の重さが彼を苛む。頭の中はぐちゃぐちゃで、これからどうやってこの八方塞がりの状況を打破すればいいのか、彼自身もまったく答えを見出せずにいた。そんな浩一を、州は真っ直ぐに見据えた。「その通りだ。何があっても、絶対に愛する女の手を離すな」州の声は低く、しかし確かな熱を帯びていた。「お前がそこまであの子を想っているなら、お前たちは間違いなく結ばれるべき運命なんだ。蘭さん以上の相手なんて、この先一生現れない。いいか、お前が絶対に妥協せず、最後まで戦い抜く覚悟を見せ続ければ……最終的に折れるのは、お前の母さんのほうだ。俺はそう信じてる」それは、悲しい過去を持つ州だからこそ言える、血の通った重みのあるエールだった。友人として、できれば今すぐにでも権力を駆使して力を貸してやりたい。だが、こればかりは当人同士の縁と覚悟の問題だ。他人がどれほど介入しようと、他人の恋愛を代わりに乗り越えてやることはできない。州にできるのは、こうして酒を酌み交わし、友の背中を強く押してやることだけだった。「……ありがとな、州さん」浩一はわずかに赤くなった目元を乱暴に拭い、ふっと表情を和らげた。「正直、
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第812話

浩一が今感じている、見えない巨大な壁に押しつぶされそうな無力感を、州は誰よりも痛いほど理解していた。かつて自分自身も、家柄という呪縛によって両親と最愛の女性との間で板挟みになり、身を引き裂かれるような地獄を味わったからだ。当時の州は、家柄を理由に猛反対する母に対し、意地を張って有加里との愛を貫こうとした。しかし、その後継者としての「身勝手な振る舞い」が原因で母が心労で倒れ、彼は激しい自責の念と罪悪感に苛まれることになったのだ。親の命と、愛する女性。その残酷な二択を突きつけられ、もがき苦しんだ末のほんのわずかな迷いと躊躇いが……結果として、最愛の彼女の心を深く抉り、永遠の別れへと繋がる致命的な引き金となってしまった。その時のトラウマが、今も州の魂を呪いのように縛り付けている。現在、州が周囲に対して過去の傷を乗り越えたように振る舞い、完璧な後継者として冷徹に仕事をしているのは、両親をこれ以上心配させないために被った「仮面」に過ぎない。大人として、一族を背負う者として、個人の感情を殺し、親に負担をかけない生き方を強制的に学ばされたのだ。だが、その引き換えに失ったものは、あまりにも大きすぎた。俺は親を安心させるために生きる術を身につけた。……けれど、俺のせいで深く傷つき、絶望したまま死んでいった有加里の心は、一体どうなる?どれだけ涙を流しても、どれほど血を吐くような後悔を抱えても、彼女への贖罪はもう二度と果たすことができない。だからこそ、州は今もなお、決して許されることのない自分自身への激しい憎悪と自責の念の底で、一人静かに息をひそめて生きているのだった。「……俺がお前の気持ちを誰よりも理解できるのは、俺自身がかつて、全く同じ地獄を這いずり回ったからだ。どちらを選んだところで、待っているのは地獄でしかない」州はどこか遠くを見るような虚ろな瞳で、ポツリとこぼした。愛する女を諦めることは、身を引き裂かれるほど辛い。しかし、親の意向に逆らい愛を貫き通すのであれば、その何百倍もの苦痛と覚悟を背負うことになる。あの時の州にとって、どちらの道を選んでも一生拭えない「後悔」が残ることは明白だった。最終的に彼は、自分の意地を通したせいで母が心労で倒れるという事態に耐えきれず、「家族の命」を優先する道――すなわち、彼女から手を離
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第813話

自分の心に従う……か。頭では、州の言う理屈は痛いほど分かっている。だが、その決断を下すということは、自分自身が傷つくだけでなく、家族をも巻き込んで苦しめることを意味しているのだ。さらには、一番守りたかったはずの最愛の女性の心まで無惨に打ち砕いてしまう。それがどれほど残酷で、身を切られるような痛みか。親と恋人の間に挟まれる板挟みの苦痛は、経験した者にしか決して分からない地獄だった。どんなに声を荒げて反抗しようと、このどうしようもない身分差という現実の壁を、簡単には壊せないのだ。「他人の言いなりになるくらいなら、自分の心に従えって……お前の言いたいことは分かるよ」浩一は声に限界まで苛立ちと悲しみを滲ませながら、髪を乱暴に掻き毟った。「でも、どうすればいいか本気で分からないんだよ!俺のことを想って動いてくれている両親を、俺の手で絶望の淵に突き落とせって言うのか?親の気持ちだって……痛いほど分かるんだよ」浩一の態度は、限界まで張り詰めた糸のようにギリギリの精神状態だった。「誤解するな。俺はお前に、親を捨てろと言っているわけじゃない」州は静かな、けれど力強い声で浩一の目を真っ直ぐに見据えた。「俺が言いたいのは、ただ自分の心の決定に従って、『後悔しない道』を選んでほしいってことだ。それがどんな選択であれな。……お前が今どれほど苦しいか、俺には痛いほどよく分かるから」同じように家柄という見えない鎖に縛られ、残酷な選択を迫られた者同士。二人きりの個室には、重く、沈み込むような痛みが満ちていた。言葉を交わせば交わすほど、互いの傷を舐め合っているような、同族嫌悪にも似た虚しさが込み上げてくる。かつて州は家族を選び、取り返しのつかない後悔を背負った。そして今、浩一もまた、あの日の州とまったく同じ、運命の分岐点に立たされようとしていた。「……でも、蘭は紫音の親友だろう?もし俺が彼女を裏切るような真似をすれば、紫音に対して顔向けできないんじゃないかって、それも怖くて……」その言葉を聞いた瞬間、州の眉間がピクリと不快に歪んだ。こいつ……こんな土壇場にきて、まだそんなことを言っているのか?自分の一生を左右する重大な決断だというのに、他人の目を気にしている場合か。しかも、その責任の一端を紫音の存
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第814話

州の冷たい言葉に、浩一はハッと息を呑んだ。俺は……なんてことを口走ってしまったんだ。言い訳の余地などない。州さんの指摘通り、俺は完全な「逃げ」の態勢に入っていた。親と真っ向からぶつかる勇気もないくせに、愛する女を手放す悪者にもなりたくない。だから無意識のうちに、紫音という存在を言い訳に使って、自分の選択を正当化しようとしていたのだ。自分の人生の決断すら他人に責任転嫁しようとする、底知れない己の卑怯さに気づき、浩一の顔からサァッと血の気が引いた。俺の弱さが、蘭をここまで追い詰めたのだ。母親に立ち向かうこともせず、周囲の顔色ばかりを窺うこんな臆病な男では、彼女が「未来を信じられない」と絶望するのも当然だった。「……ごめん。俺が間違ってた」浩一は深くうなだれ、顔を両手で覆った。「お前の言う通りだ……俺は最低な逃げ腰だった。こんな無責任な男の姿を紫音に見られたら、心底軽蔑されるだろうな」激しい自己嫌悪に苛まれ、浩一の声は惨めなほどに震えていた。愛する女を守り抜くためには、まず自分が「腹を括る」しかない。誰のせいでもなく、自分自身の意志で、親の支配を断ち切る覚悟を決めなければならないのだ。あまりにも情けない自分の姿に打ちひしがれている浩一を見て、州は小さく溜息をついた。先ほどまでの刺すような怒りの気配をスッと収め、グラスの酒を一口煽る。「……分かればいいさ。俺も少し、言い過ぎた」州はそう言って、浩一の肩をポンと軽く叩いた。厳しい言葉を投げつけたが、親友としての情まで切り捨てたわけではない。「いいか。お前はもう、自分の足で立つべき大人だ。これからの人生でどんな結果を招こうと、その代償は全てお前自身で引き受けろ。他人に責任を押し付けて逃げるような真似だけは、二度とするな」その声には、兄のように深い諭しの響きがあった。「俺もお前には期待してるんだ。紫音だって、お前のことを見込んでビジネスパートナーに選んだんだからな。……だから、あいつの信頼を裏切るような、ダサい真似だけはするなよ」州の言葉は、浩一の胸に深く、重く突き刺さった。その通りだ……俺は、俺を信じてくれた人たちを裏切ってはいけない。自分の人生の決断を、他人に責任転嫁しようとするなど言語道断だ。誰のせいでもな
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第815話

巨大な財閥の跡取りとして、一族の未来と利益を背負うのは男としての宿命であり、義務だ。それは十分に理解している。けれど――どうして……家族への責任を果たすことと、愛する女性を守り抜くことは、両立できないんだ?家族の期待に応えるためには、なぜ最愛の人を切り捨てなければならないのか。なぜ、どちらか一方を選べば、もう一方は必ず地獄に突き落とされるような極端な二択しか存在しないのか。その理不尽な家長制度の呪縛に、二人の心はどうしようもない虚しさを覚えていた。とはいえ、いくら酒の席で運命の不条理を呪ったところで、今すぐ目の前の現実が変わるわけではない。過ぎてしまった過去を悔やみ続ける州と、これから最悪の未来を回避しなければならない浩一。置かれている状況は違えど、残酷な現実と向き合うしかないことだけは確かだった。浩一はグラスの最後の一滴を飲み干し、強く目を閉じた。どんなに分厚い壁が立ちはだかろうと、俺は絶対に蘭の手を離したくない……!心の中でそう強く叫んでみても、その願いを現実にするためには、あまりにも大きすぎる代償が必要だった。いざ一族の重圧を前にすると、どうしても足がすくんでしまうのだ。「人生で出会う人間は、結局のところ通り過ぎていく客に過ぎない。いつか必ず、自分の元から去っていく運命にある――」ふと、どこかで聞いたそんな言葉が浩一の脳裏をよぎった。もしそれが真実だとするなら、一体誰が最後まで自分の人生に残るというのだろうか。二人は無言のまま、苦い酒を飲み下した。互いの胸の内に広がるのは、どうしようもない虚無感だ。愛する女性が、自分の人生においてただの「通りすがりの客」だったなどと、絶対に認めたくない。しかし皮肉なことに、家柄という壁の前では、その愛する人こそが真っ先に自分たちの人生から退場させられる運命にあるのだ。目の前に座る州は、かつて家族を選び、愛する人を手放すという道を選んだ。俺も結局……州さんと同じように、家族を選ぶしか道はないのか?親を裏切り、一族を敵に回すなど、そう簡単にできることではない。だが、だからといって蘭と別れることなど絶対にできない。誰も傷つかない、両者が幸せになれる完璧な解決策など、どこにも存在しないのだ。財閥の跡取りとして生まれた以上、結婚とは個人の感情
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第816話

その頃、紫音は自社のオフィスに足を踏み入れていた。優秀な右腕である蘭のデスクは、予想通り空席のままだった。無理もない。愛する人との未来を理不尽に絶たれ、心が千々に砕かれている彼女に、平気な顔で出社しろと言う方が酷というものだ。紫音は蘭の深い絶望を痛いほど理解していたため、社長としての権限で十分な特別休暇を与え、今はとにかく心身を休めるようにと命じていた。フロアを見渡すと、社員たちは皆、慌ただしく動き回っている。ここ最近、会社の経営自体は安定しているものの、新規の大型プロジェクトが立て続けに動き出し、社内全体が熱を帯びたような忙しさに包まれていた。紫音は自分の執務室に入ると、すぐに仕事へと意識を切り替えた。思えばここ数日、会社でもプライベートでも予期せぬトラブルが多発し、紫音自身も心労から完全に仕事に没入しきれていない感覚があった。だが、企業のトップである自分が立ち止まるわけにはいかない。今日からは一切の言い訳を捨てよう。私のすべてを、この愛する仕事に注ぎ込むのよ。そう決意を新たに、山積みの決裁書類に手を伸ばした――その矢先だった。コンコン、と控えめなノックの音が響き、執務室のドアがゆっくりと開いた。「……おはようございます」かすれた声とともに現れたのは、自宅で休んでいるはずの蘭だった。その姿を見た瞬間、紫音は思わず息を呑んだ。いつもは完璧なメイクとスキのないスーツ姿で颯爽と業務をこなす彼女が、今日は今にも倒れそうなほど青白い顔をしている。泣き腫らしたであろう目元は痛々しいほど赤く、無理に作った作り笑いが、かえって彼女の抱える深い悲しみを浮き彫りにしていた。「蘭、どうして来たの?家でゆっくり休むように言ったはずよ」紫音はすぐにデスクから立ち上がり、蘭のそばへと駆け寄った。「ここの仕事は私がいるから大丈夫。今のあなたの状態を見たら、心配で仕事なんて任せられないわ。お願いだから、無理しないで家に帰りなさい」紫音の胸は、ギュッと締め付けられるように痛んだ。蘭をこんなボロボロの状態に追い込んだのは、他でもない浩一の家族だ。彼女には何の非もないのに、理不尽な家柄の壁によって一方的に尊厳を踏みにじられたのだ。いくら紫音が社長として、あるいは友人として彼女を気遣ったところで、蘭の抱える底知れ
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第817話

どれほど互いに愛し合っていようと、家柄という名の冷酷な壁が立ちはだかる限り、二人の間には永遠に埋まらない深い溝が横たわり続ける。外部の人間がどれほど手を差し伸べても、この問題の根本を解決することはできない。それでも……二人で手を取り合って、その壁に立ち向かうことはできなかったの……?残酷な運命に引き裂かれた親友と愛すべき部下を想い、紫音はやり場のない無力感と歯痒さに唇を噛み締めた。紫音は静かにため息をつき、優しく、けれど諭すようなまなざしで蘭を見つめた。「蘭、あなたが仕事に対して誰よりも真面目で、向上心に溢れていることは私が一番よくわかっているわ。でもね、今のあなたは仕事を口実にして、わざと自分を痛めつけているようにしか見えない。そんなに自分を追い詰めないで。あなたが心から笑顔でいられること……それが何よりも大切なことなのよ」さらに紫音は、言葉を慎重に選びながら続けた。「二人の関係だってそうよ。今は八方塞がりに見えるかもしれないけれど、流れに身を任せるしかない時だってあるわ。もし、あなたの心の奥底にまだ浩一さんへの想いが残っているのなら……どうかもう少しだけ、彼に時間とチャンスを与えてあげてくれないかしら」「彼は決して逃げ出すような弱い男じゃない。彼なりに必死で、この絶望的な状況を覆す解決策を考えているはずよ」それが、紫音の偽らざる本音だった。もしこれが蘭の一方的な片思いだったなら、紫音もきっぱりと諦めるように背中を押しただろう。だが、二人が互いをどれほど深く、狂おしいほどに愛し合っているかを間近で見てきたのだ。そんな二人が、家柄という理不尽な壁のせいで引き裂かれる結末など、どうしても受け入れられなかった。蘭は大切な右腕であり、妹のような存在。そして浩一もまた、気心の知れた友人である。双方を大切に想うからこそ、この悲しいすれ違いをなんとしてでも修復したかった。しかし、紫音の切実な言葉を聞いても、蘭は力なく首を横に振るだけだった。その瞳に浮かんでいたのは、底知れない諦観だ。「紫音さんの仰ることは、痛いほど分かります。でも……私にはもう、これ以上彼と向き合う気力がないんです。私がそばにいればいるほど、彼は私とご家族の間で永遠に板挟みになって、苦しみ続けることになる」ギュッとスカートの
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第818話

蘭はわざと明るい声を出してみせたが、その言葉とは裏腹に、胸の奥は今にも張り裂けそうだった。心底愛した男を、そう簡単に手放せるわけがない。本当は痛くて、苦しくてたまらないのに、今はこうして虚勢を張り、無理にでも笑ってみせることしかできなかったのだ。「……元気なわけないでしょう。私があなたのことを分かっていないとでも思ってるの?」紫音は痛ましそうに眉を寄せた。「表面上はどんなに強がって見せても、心の中はボロボロに傷ついている。私に心配をかけまいとして、無理に笑っているんでしょう?そんなこと、全部お見通しよ」「紫音さん……」「私たちがまだ小さなオフィスで起業したあの時から、私はずっと、あなたのことを本当の妹のように思っているの。あなたが苦しんでいるなら、何とかして力になりたい……それなのに、振り返ってみれば、この会社のためにずっと身を粉にして尽くしてきてくれたのは、あなたの方じゃない」紫音はそっと蘭の肩に手を置き、その細い体を気遣うように撫でた。「だから、どれだけ長く家で休んだって、絶対に負い目なんて感じる必要はないのよ。あなたはそれだけのことを、この会社にしてくれたんだから。ずっと働き詰めで、このままじゃ本当に倒れてしまうわ。お願いだから、今は自分のためだけにゆっくり休んでちょうだい」紫音は決して、甘い慰めの言葉をスラスラと口にできるような器用なタイプではない。愛情表現も得意ではないが、彼女がアシスタントである蘭に向ける思いは、紛れもなく本物だった。自分がまだ何者でもなく、何も持っていなかった起業当初から、蘭は紫音を信じてついてきてくれた。二人が共に苦労を乗り越え、今の地位を築き上げるまでの絆は、他の誰にも代えがたいほど強固なものだ。紫音にとって、蘭は単なる部下ではなく、かけがえのない大切な「妹」なのだ。その妹が理不尽な理由で深く傷つき、人知れず涙を流しているのに、姉として心が痛まないわけがない。紫音は不器用ながらも持てるすべての権限と優しさで彼女を守り、その心が再び光を取り戻す日まで、静かに寄り添いたいと心から願っていた。蘭はせき止めていた感情があふれ出したかのように目を潤ませた。「紫音さん……ありがとうございます。あなたが私のことをどれほど想ってくれているか、痛いほど分か
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第819話

その痛々しいまでの本音を聞かされては、紫音もこれ以上、無理に家へ帰らせることはできなかった。確かに……今の精神状態で、一人きりにさせる方がかえって危険かもしれないわね。身を切られるような失恋の直後、誰の温もりもない孤独な部屋で、終わってしまった恋の残骸を抱えながらじっと考え込むことの恐ろしさは、紫音にも容易に想像がついた。紫音は短くため息をつくと、観念したように肩の力を抜いた。「……分かったわ。そこまで言うなら、会社に残ってもいいわよ」二人がそんなやり取りを交わしていた、まさにその時だった。コンコン、と再び執務室のドアがノックされ、受付の社員が大きな抱えきれないほどの深紅のバラの花束を持って入ってきた。「社長、森下さんにこちらのお届け物が……」社員から手渡された花束に添えられたメッセージカードには、見慣れた字でたった一言、彼の名前が記されていた。――塚山浩一。その名前と鮮やかなバラを見た瞬間、蘭は弾かれたように固まり、痛ましげに眉をひそめた。……何を考えているの?こんな花束一つで、立ちはだかる家柄の壁や、ずたずたにされた私のプライドが元通りになるとでも思っているのだろうか。あまりにも甘すぎる。そう頭では冷たく突き放そうとするのに、視界いっぱいに広がる美しいバラの香りは、愛しい彼の腕の中を容易にフラッシュバックさせた。彼はいま、どこで何をしているの……私のことを考えて、これを……?強く見つめれば見つめるほど、心の奥底に封じ込めようとした未練がどくどくと溢れ出してくる。本当に彼を諦めきれるのか?あんなにも愛し合い、互いのすべてを捧げ合ったというのに、本当にこの手を離してしまっていいのか?……ううん、ダメ。もう決めたことよ。蘭はギュッと目を閉じ、湧き上がる感情を必死に押し殺した。すでに別れの言葉は告げたのだ。今さら甘い花束を贈られたところで、根本的な問題は何一つ解決しないのだから。そんな蘭の痛々しい葛藤を、紫音は静かに見つめていた。「……浩一さん、本当にあなたに夢中なのね。なりふり構わず、必死にあなたを繋ぎ止めようとしているのが伝わってくるわ」紫音はそっと花束に触れながら、優しく言葉を紡いだ。「無理に考えを変えろとは言わないわ。最終的にどうするかは、あなたが決めることだから。でも……あ
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第820話

本当のところ、蘭の心はズタズタに引き裂かれているはずだ。それでも彼女は、自分の抱える重い絶望を、決して他人に背負わせようとはしない。紫音は、そんな彼女の自己犠牲とも言える健気さが痛ましくてならなかった。ずっと紫音のそばでアシスタントとして奮闘してきた彼女から、弱音や愚痴を聞いたことは一度もなかった。しかし、今回の残酷な失恋は、彼女を急激に大人びさせた――いや、大人びたというより、無理やり感情を殺す術を覚えさせてしまったように見えた。以前の蘭なら、身分違いという理不尽な現実を前にすれば、悔しさに涙を流し、なんとか運命に抗おうと足掻いたかもしれない。だが今回は違った。彼女の瞳からは光が消え去り、完全に心を殺していた。「愛情」という不確かなものへの期待そのものを、永遠に捨て去ってしまったかのように。どれほど言葉を尽くそうと、当事者が骨の髄まで味わった絶望を、他人が完全に共感し、肩代わりすることなどできないのだ。紫音はただ黙って、痛々しいほどに強がる蘭の細い肩を、もう一度優しく抱きしめることしかできなかった。その日の夕方。紫音のスマートフォンが震え、画面には兄である州の名前が表示された。電話に出ると、「最近、家族揃って食事をしていないから、今夜は両親のマンションに集まらないか?」という誘いだった。紫音は二つ返事で了承した。最近は会社のプロジェクトや周囲のトラブルにかかりきりで、両親とはすっかりご無沙汰になっていたからだ。温かな食卓を囲んで家族の絆を感じる時間は、今の紫音にとってもかけがえのない癒しだった。それに何より、今回の食事会にはもう一つの大切な目的があった。実はここ最近、兄の州も深い悩みを抱え、沈んだ様子を見せることが多かったのだ。だからこそ、家族全員で集まって温かい時間を共有し、少しでも彼の心が晴れるようにサポートしたかった。彼が一刻も早く心身のバランスを取り戻し、万全の状態で仕事に復帰できるよう、家族として寄り添いたかったのだ。電話を切った後、紫音はすぐさま蘭のデスクへと向かった。「蘭、今夜は両親の家で家族と食事をする予定なの。母があなたの好きな手料理も用意するって言っていたわ。もしよかったら、今夜は一緒に来ない?」紫音はごく自然な口調でそう誘った。恋人を失った絶望の底にい
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