All Chapters of ディリアン公爵様、奥様が離婚を望んでいます!: Chapter 331 - Chapter 340

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第331話

悪魔の心臓が、ついに砕け散った。緩慢な死ではない。まるで悪魔の体内に潜む何かが、強いられた終焉を断固として拒むかのように、心臓は内側から激しく破裂したのだ。刹那――完全なる静寂。悪魔の胸に巨剣を深々と突き立てたまま、立ち尽くすディリアン。噴出していた黒血が突如として逆流を始め、反転した渦のように悪魔の体内へと吸い込まれていく。「ディリアン――!」誰かの叫び声は、悪魔の胸の奥から鳴動し始めた異様な地鳴りに完全に掻き消された。砕けた心臓を中心に、亀裂のような光が全身へと走る。赤黒い皮膚が裂け、狂乱の闇光が脈打つ。魔法使いたちが維持していた血の封印が次々と砕け、強烈な反動で術者たちが宙へと弾き飛ばされた。「下がれッ――!」ラミアが喉を引き裂くように絶叫する。遅すぎた。爆発。炎ではない。雷撃でもない。存在そのものを根底から吹き飛ばす、空間の位相崩壊。ドゴォォォォン――!!!大地が爆ぜ、黒と白の吹雪が天を覆う。衝撃波が全方位を薙ぎ払い、兵士たちは岩や木々、へし折れた盾へと無残に叩きつけられた。骨の砕ける音が響き渡り、苦悶の叫びは一瞬にして沈黙へと呑まれる。その爆心地に、ディリアンがいた。常人ならば肉片すら残らない衝撃を受け、巨体が遥か後方へと吹き飛ばされる。口から鮮血を吐き、巨剣が手から滑り落ちた。意識が完全に暗転しかける。だが、破滅に呑まれる寸前――黒い影が動いた。生きた繭のように収縮し、ディリアンの全身を完全に覆い尽くす。直撃した衝撃波を、影が強引に受け止め、吸収し、その破壊の軌道を彼の肉体から逸らしたのだ。光が収まり、後に残されたのは完全なる壊滅。焦土と化した大地。黒く汚れた雪。倒れ伏す兵士、魔法使い、ルズカルの戦士たち。多くの者が二度と動かない。凄惨な静寂が、戦場を覆い尽くす。ゆっくりと……黒い影がその身を開いた。ディリアンが雪の上に倒れ込む。傷だらけの肉体。肩の骨が歪に突き出し、流れる血が雪を染める。呼吸は途切れ途切れで、酷く重い。だが――息をしている。生き残った者たちの目が、信じられないものを見るように見開かれた。「閣下が……」シグの声が震える。「息をしておられる……?」ラミアが膝をつき、呆然と呟いた。「あり得ない……あのゼロ
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第332話

ルシアンはディリアンとダグニーの方へ一瞥をくれた。その冷徹な横顔の裏で、密かに安堵の息を吐き出す。そして再び、惨劇の跡地へと視線を戻した。「今日の戦いには勝った」彼は独り言のように低く呟いた。「だが……あまりにも高くついたな」冷たい風が再び吹き荒れ、砕けた雪を巻き上げながら、濃い血の匂いを運んでくる。瓦礫と化した大地で、人々が動き始めた――敵を討つためではない。救える命を、一つでも多く拾い上げるために。そして遠くの空に、帝国の進軍を告げる角笛が重々しく鳴り響いた。地響きと共に、本隊が到着した。無数の馬蹄と甲冑の擦れ合う音。大軍の足音そのものが、凍てつく空気を激しく震わせる。降りしきる雪が、焦土と化した戦場――めくれ上がった凍土、固まった黒い血、白雪の中で冷えゆく悪魔の黒い残滓――を覆い隠していく。生き残った者たちは極寒に耐えながら、傷口を縛り、小さな焚き火を囲み、煙を上げる黒い粘液の水溜まりから距離を保っていた。勝利の歓声などどこにもない。あるのは荒い息遣いと、途切れ途切れの祈りのみ。ディリアンは直ちに野戦治療天幕へと運び込まれた。意識はない。全身に巻かれた包帯からは、今なお血が滲み出していた。骨という骨が一度砕かれ、無理やり繋ぎ合わされたかのようだ。医師たちは極度の緊張に顔を強張らせていた。治療法が分からないからではない。もし彼が今目覚めれば何が起きるか、それを知っているからだ。「絶対に意識を戻させるな」軍医長が低く、しかし厳格に命じる。「この状態のまま覚醒すれば……激痛のあまり、触れる者を反射的に皆殺しにしかねん」鎮痛薬が投与され、神経を鎮める呪文が幾重にも紡がれる。そのベッドの傍らから、ダグニーは片時も離れなかった。大きすぎる軍用マントに身を包み、静かに座り込む少女。父親と全く同じ紅蓮の瞳が、ディリアンの顔をじっと見つめ続けていた。父の呼吸を一つ一つ数え、わずかな身じろぎにも全身を硬直させる。サイラーがすぐ傍らに控え、周囲を警戒していた。「目を覚ますさ」サイラーは静かに言った。願望ではなく、確信を込めて。ダグニーは小さく頷き、ディリアンの服の端を小さな手で固く握りしめた。「パパは強いもん」彼女は囁いた。「パパは絶対に死なない」実際、ディリアンは死ぬことを許されて
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第333話

ディヴリオは力強く頷いた。その瞳には、子供特有の揺るぎない確信が宿っている。「でも、パパはすごいでしょ、ママ?」無邪気な問いかけ。セレーネは優しく頷いた。目元にはまだ薄く涙が滲んでいたが、今度の笑みには偽りのない温もりが満ちていた。「ええ」彼女は囁いた。「あなたのパパは……いつだってすごかったわ」皇宮は再び、緊迫した慌ただしさに包まれていた。矢継ぎ早に下される軍令。石造りの廊下に響き渡る従者や護衛兵たちの重い足音。勝利の凱旋パレードなど露ほどもなく、華美な装飾も一切ない。用意されたのは行軍用の荷物、分厚い防寒具、そして不安と覚悟に引き締まった人々の顔だけだった。分厚い外套を羽織る前に、セレーネはしばし窓辺に佇んだ。重く垂れ込める鉛色の空、静かに降り続く雪を見つめ、深く息を吐き出す。今度こそ、遠い場所でただ凶報を待つだけの時間は終わりだ。オデットはすでに準備を整えていた。オデットは皮手袋の端をきつく締め直す。あまりにも多くの喪失を乗り越え、もはや恐れることなど何もない歴戦の風格を漂わせていた。「この目で、確かめに行かねばならないわね。生きて戻る者も……散っていった者たちも。」彼女は静かに、自らに言い聞かせるように呟いた。セレーネも頷いた。「あそこに何が待ち受けていようとも、私はこの目で確かめなければなりません」すでに自力で座り、ゆっくりと歩けるまでに回復したディヴリオも、暖かい防寒着を着せられていた。二人の間に立ち、セレーネの手をぎゅっと握りしめている。「パパとダグニーを、迎えに行くんだよね?」期待に満ちた少年の声。セレーネは屈み込み、その柔らかな頬を撫でた。「ええ、迎えに行きましょう」やがて、皇帝の親征部隊が中庭に整列した。吐く息を白く染める馬群、用意された馬車、そして完全武装の近衛兵たち。姿を現した皇帝の表情は冷徹を極めていたが、その奥には臣民の血の代償を背負う統率者としての疲労が微かに滲んでいた。隊列がゆっくりと動き出す。セレーネは一度だけ振り返り、白銀の彼方へと遠ざかる巨大な皇宮を目に焼き付けた。その頃、修道院の最深部。数百年にわたり祈りと悲鳴だけを吸い込み続けてきた地下牢の底で、神官たちは息を殺してその瞬間を見つめていた。蛹が、裂けた。爆発ではない。時の流れに
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第334話

溶けきらずに残った被膜の残滓へと、彼女は手を伸ばした。その所作は静かで、どこか優雅ですらあった。指先に絡みついた白い繊維を手繰り寄せ、己の肉体へと纏わせていく。瞬く間に糸は形を変え、簡素で色の暗い、ゆったりとした魔女のローブとなった。華美でも豪奢でもない。だが、もはや信じていない世界から己の裸身を覆い隠すには、それで十分だった。彼女は静かに腰を下ろした。持ち上げた自らの掌を、失われた何かを思い起こすかのように凝視する。指先が微かに震えていた。脆弱さゆえではない。骨身に刻まれた痛みの残響ゆえだ。外で起きている惨劇を、見ることはできない。戦争も、雪を染める血も、その目に映ることはない。だが、感じ取れる。そして何より明白なのは――あの男が、まだ生きているという事実だった。深い吐息が漏れる。あの爆発以来、初めて胸を過った安堵の兆し。「やれやれ……」彼女は低く呟いた。「今回は……我が身を傷つけずに済んだようね」時間遡行は不要だった。新たな生贄も。己の血をもって断ち切るべき狂気の輪廻も。牢の壁に背を預け、そっと目を閉じる。「ディリアン・レヴェンティス、あのクソ野郎が……」怒りではなく、憎悪と呼ぶにはあまりに古びた疲労を滲ませて呟く。「あなたの身に一体何が起きれば……私の命がここまで追い詰められるというの?」拳を握り締める。「何を仕出かせば、世界そのものがあなたをこれほどの泥沼に引き摺り込むのかしらね」沈黙は答えを返さない。静寂の中、忌まわしい記憶が静かに、そして抗いようもなく這い寄ってくる。かつて一度だけ……ただの一度だけ、彼女は真の窮地に立たされたことがあった。今のような、鉄格子と祈りの結界に阻まれた軟禁などではない。大口を開けて待ち受ける死そのものに喉元を掴まれ、最後の一息を呑み込まれかけた、正真正銘の絶望。あの時、悪魔はいなかった。戦争も、崩壊する世界もなかった。ただ、砂時計の砂が尽きかけていた。凍りつくような焦燥感を、今なお鮮明に覚えている。逃げ場など皆無だという残酷な認識。肉体は衰弱し、魔力は封じられ、意のままに歪めてきたはずの時間すらも、遂に彼女への従属を拒絶した。ゆえに彼女は、残された唯一の退路を選んだ。自らの指を、噛み千切ったの
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第335話

ドクン。ディリアンの心臓が大きく、あまりにも激しく脈打った。まるで何者かに掴まれ、底なしの暗黒の淵から無理やり引きずり出されたかのようだ。息を呑み、胸板が跳ね上がり、目がカッと見開かれる。最初に網膜を焼いたのは、白く温かな光。やがてそれが、輪郭を帯びて人の顔へと焦点を結んだ。セレーネだ。近すぎるほどの距離。その青い瞳は涙に濡れていたが、深い安堵の色に満ちていた。背後には毅然と佇みながらも感情を押し殺すオデット。傍らには顔色こそ悪いが生気を取り戻したディヴリオ、そして……ダグニー。父が再び消え失せるのを恐れるかのように、赤い瞳を潤ませて見つめている。「ディリアン……」セレーネの声が震え、泣き笑いのような笑みが零れた。「やっと……目が覚めたのね」ディリアンは何度か瞬きをし、乾いた喉で唾を飲み込んだ。頭は鉛のように重く、全身を万力で粉砕されたような激痛が走るが、それでも小さく頷いてみせた。身を起こそうとする。長年の反射的な動作だったが、胸から肩へと猛烈な痛みが突き抜けた。無理を押そうとするよりも早く、セレーネの手が伸び、その肩を押し留めた。「無理をしないで」彼女は優しく窘めた。「一人で起き上がろうとしては駄目よ」セレーネの手を借り、ディリアンはゆっくりと上体を起こした。視界が広がり、そこにいる全員の姿を捉える。壁際に腕を組んで立つシグは、その厳格な顔つきを僅かに緩めていた。木の腰掛けに座るエリックは、重荷を降ろしたように脱力している。腰に手を当てて立つオデットは、安堵と小言の入り混じった顔つきだ。反対側に控えるサイラーは、鋭い眼差しでディリアンの容態を見極めていた。「丸三日、眠り続けていたんだよ」オデットが呆れたように口を開く。声は平坦だが、目の下の隈が疲労を物語っていた。「丸三日、ずっと」「三日……だと?」ディリアンの声は掠れていた。サイラーが口を挟む。「麻酔薬が効きすぎたか、あるいは限界まで耐え抜いた肉体が、とうとう悲鳴を上げたかだね」ディリアンは短く息を吐き、微かに首を縦に振った。「傷が深すぎた。毒や薬に対する耐性も落ちていたんだろう……完全にぶっ倒れたとしても、説明はつく」セレーネがすかさず鋭い視線を突き刺した。「そうだとしても、もっと自分の体を大事にして。無茶は禁
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第336話

ディリアンは口を開きかけ、そして再び重く閉ざした。それを遮るように、ラミアが平坦で冷ややかな声を落とした。「あなたの夫の命を縛りつけている、呪いのことよ」セレーネが足早に詰め寄る。「縛りつけるって……何のこと?!」ラミアが再び口を開き、呪いの本質とそれに支払うべき代償のすべてを語り明かそうとした瞬間、ディリアンの鋭く低い怒声がそれを断ち切った。「そこまでだ、ラミア」有無を言わせぬ重圧を孕んだ低音。一切の反論を許さぬ響きだった。「……出て行け」セレーネは唇を強く噛み締めた。顎が引き攣るように強張る。言いたい言葉が胸の奥で渦を巻いているのが見て取れたが、必死に喉の奥で押し殺していた。ラミアは口を噤んだ。彼女は先ほどよりも長く、静かにディリアンを見つめた。その瞳に嘲笑はなく、怒りもない。ただ冷徹で苦い理解だけがあった。彼女は弁えているのだ。いつ言葉を発すべきか、そしていつ己の存在が邪魔になるのかを。「分かったわ」やがてラミアは静かに言った。セレーネを一瞥し、再びディリアンへと視線を戻す。「これはあなたの問題よ。そして……セレーネの問題だわ」ディリアンは応じなかった。毛布の上で拳を強く握り締め、胸を重く上下させている。全身の激痛よりも遥かに重い何かに、必死に耐え忍んでいるかのようだった。ラミアは踵を返した。足取りは軽く、淀みがない。魔力も、煙も、光の余韻すら残さず、彼女はただ静かに立ち去った。その後に残された静寂は、彼女がいた時よりも遥かに息苦しく、重苦しかった。兵舎の扉が、ゆっくりと閉まる。残されたのは、ディリアンとセレーネの二人だけだった。一秒、また一秒と時だけが過ぎていく。まるで幾世紀にも感じられるほど、長い沈黙だった。張り詰めた沈黙を破ったのは、セレーネだった。声は掠れ、微かに震えている。「私には、知られたくなかったのね」ディリアンは視線を落とした。「お前を……傷つけたくなかった」セレーネは自嘲するように短く笑った。そこには微塵の歓喜もない。「私がこれまで、傷ついてこなかったとでも思っているの?」ディリアンが顔を上げた。その瞳は暗く濁り、底知れぬ疲弊と後悔に満ちていた。「俺が死ねば、お前は壊れる。だが……俺がこんな、人とも怪物ともつかぬ姿で生き永らえても、
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第337話

ディリアンは深く息を吸い込んだ。胸の奥底に、無数の棘がびっしりと突き刺さっているかのようだった。「最初から話す」彼は低く掠れた声で言った。「俺の人生で、最も汚れた部分からだ」セレーネは口を挟まなかった。ディリアンの前に静かに跪き、その手はいつでも彼を支えられるよう、彼の傍らに置かれていた。ディリアンは続けた。「昔、帝国は魔女たちとの間で、全面戦争を繰り広げた」その声はどこまでも平坦だった。到底、穏やかとは呼べない過去を語るには、あまりにも無機質な響きだった。「小競り合いでも、領土争いでもない。あれは徹底した虐殺だった」顎にギリリと力が入る。「そして俺は……そのための冷酷な道具だった」セレーネは息を呑んだ。ディリアンは言った。「軍を率いて、奴らを狩り立てた。一人残らず息の根を止めていったよ。老人だろうと子供だろうと、男だろうと女だろうと……魔力を持つ者は全てな」セレーネの胸の奥に、氷のような冷気が広がっていく。「根こそぎ皆殺しにした」ディリアンは消え入りそうな声で呟いた。「そして最後に残ったのが、ただ一人」顔を上げ、セレーネの目を真っ直ぐに見据える。「魔女たちの長たる、古代の魔女だ」セレーネは唾を飲み込んだ。「それで……その人が――」「報復として、俺に呪いをかけた」ディリアンが遮った。沈黙。セレーネは身を乗り出した。「どんな呪いなの?」ディリアンは口を開きかけた。しかし、言葉が形を成すよりも早く――彼の顔色が、一瞬にして土気色へと変わった。ドンッ!彼は自らの胸板を凄まじい力で掻きむしった。内側から心臓を素手で握り潰されたかのように、呼吸がピタリと止まり、上体が前のめりに折れ曲がる。ゴホッ!「ディリアン――?!」ブシャッ――!口から、大量の鮮血が勢いよく吐き出された。どす黒く、濃密な血。白い毛布と木板の床を生々しく汚していく。セレーネは悲鳴を上げ、人を呼ぼうと跳ね起きかけた。だが、ディリアンの血塗れの震える手が、猛烈な力で彼女の手首を掴み止めた。「行くな……」激しい咳き込み。唇から絶え間なく血が滴る。「大した……ことじゃ……ない……」「何が大したことないのよッ?!」セレーネは絶叫した。声は恐怖で完全に引き
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第338話

部屋の空気が息を止めたかのようだった。ディリアンはすぐには答えなかった。セレーネの頬に触れていた手がゆっくりと滑り落ち、指先が微かに震える。深く、二度息を吸い込む――いかなる呪縛よりも過酷な断罪に、己の身を差し出すかのように。ゆっくりと……ディリアンは首を縦に振った。たった一度の、小さな頷き。だがそれは、セレーネの世界を完全に崩壊させるには十分すぎる一撃だった。セレーネは手で口を覆い、漏れ出そうになる嗚咽を必死に呑み込んだ。胸の奥が引き裂かれるように痛む。室内の空気という空気が、一瞬にして奪い去られたかのようだった。「なら……」声が震え、ひび割れる。「あなたの目には……私はただの妻じゃなかったのね。あなたの最大の……『急所』だったんだわ」ディリアンは激しく首を横に振りかけ――だが、その否定すら無意味だと悟り、動きを止めた。うつむき、掠れた声を絞り出す。「お前は急所なんかじゃない」低く、痛切な声だった。「お前は……俺の理由だ」セレーネは涙の中で、自嘲気味に短く笑った。「私たちを傷つけるための、理由?」「生き続けるための理由だ」ディリアンは誤魔化さずに答えた。「そして……生きることが死ぬほど恐ろしい、唯一の理由だ」再び顔を上げ、底知れぬ後悔に濡れた瞳でセレーネを見つめる。「お前や子供たちが存在する限り……呪いはいつだって俺の急所を突ける。お前たちを失うという、俺自身の恐怖を介してな」セレーネは絶句し、胸を激しく波打たせた。「お前が死ぬかもしれないと口にするたび、あれは脅しなんかじゃなかった」ディリアンは続けた。「俺自身の、底知れぬ恐怖そのものだったんだ。奴らが俺を殺せないなら……次に狙うのは、間違いなくお前だからだ」セレーネの瞳から、今度は押し留める術もなく涙が零れ落ちた。静かに頷く。長年、彼女の心を引き裂いてきた無数の破片が、ようやく一つの形を結んでいく。「あなたは私を脅し続けていた……」彼女は囁いた。「でもそれは、冷酷だったからじゃないのね」ディリアンは深く息を吐き出した。「俺は、自分自身が何よりも恐ろしかったんだ」セレーネはディリアンの手を握り締めた。その指先は未だに冷え切っていたが、強く、確かに包み込む。静かに、だが決して譲らぬ声で告げ
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第339話

その夜、セレーネは一睡もできなかった。暗い天幕の天井を見つめ、ただじっと横たわっていた。目を閉じるたび、ディリアンの顔が脳裏に焼き付いて離れない――唇から血を流し、青ざめた顔。明らかに激痛に苛まれているにもかかわらず、「何でもない」と言い張るあの頑なな男の表情が。ディリアンが口にした言葉が、頭の中で何度も何度も反響していた。呪いのこと。口にすることすら許されない禁忌のこと。たった一人で抱え込み続けてきた激痛のこと。セレーネは深く息を吸い込んだ。胸の奥が張り裂けそうに苦しい。今なら、分かる……少なくとも、ようやく見え始めていた。呪いのことだけではない。自分自身のことも。かつて、先に逃げ出したのは自分だった。共に立ち向かうのではなく、ディリアンを拒絶し、背を向ける道を選んだ。憎んでいたからではない。恐ろしかったのだ。残酷な真実が。痛みが。そして、心を閉ざし続け、何を考えているのか分からなくなっていくディリアンの姿が。「私……自分勝手だった……」彼女は小さく呟いた。ディリアンが全てを一人で背負い込む中、自分はただ遠ざかることしか選ばなかった。彼は傷つき、呪われ、それでもなお立ち上がり、自分を、そして子供たちを守り続けていたというのに。セレーネは両手で顔を覆った。音もなく涙が零れ落ちる。「ごめんなさい……」掠れた声。「逃げるべきじゃなかった。側に……踏みとどまるべきだったのに」……奇妙な静けさと共に、朝が訪れた。雪は大地を覆い尽くしていたが、昨夜ほど残酷な冷気は感じられなかった。セレーネは天幕の外に長く立ち尽くし、冷たい空気に頬を打たせていた。昨夜の告白の衝撃から、思考を研ぎ澄ますにはそうするしかなかった。やがて彼女は、数人の衛兵が立つ一つの天幕の前へと歩みを進めた。ラミアの天幕だ。天幕の布が払われ、髪を下ろしたラミアが姿を現した。顔色は優れなかったが、その瞳はいつも通り鋭利だった。セレーネの姿を認めるなり、ラミアは怪訝そうに眉をひそめた。「セレーネ、あなた……」ラミアは端的に問う。「こんな朝早くから、何の用?」セレーネは背筋を伸ばした。「知りたいことがあるの」ラミアは小さく息を吐き、入口から半歩身を引いた。「なら、お言いなさい。遠回しな物言いは嫌いよ」セレーネは
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第340話

セレーネは深く息を吸い込んだ。その瞳からはもはや迷いが完全に消え去り、揺るぎない覚悟の光だけが宿っていた。彼女は静かに、しかし凛とした声で告げた。「なら、ディリアンを救う手立てを、あなたは知っているのね?」ラミアは即答しなかった。朝霧の残る青白い空へと視線を彷徨わせる。魔女の目にしか見えぬ因果の軌跡を探り当てるかのように。「いずれ分かるわ」やがてラミアは言った。「今すぐではないけれどね」セレーネは眉をひそめた。「どういう意味?」「答えは『三日月』にあるわ」ラミアは淡々と告げる。「その時が訪れれば、魔女の力は最も研ぎ澄まされる。ディリアンに絡みつく呪いも、あなたたちを繋ぐ運命の糸も、より捉えやすく、干渉もしやすくなるのよ」セレーネは一呼吸置き、慎重に問いを重ねた。「以前言っていたわね……三日月の夜には、私も儀式を受けねばならないと」ラミアは視線を戻し、静かに頷いた。「ええ。そして今回は、あなた一人で背負う必要はないわ。私たちが力を合わせて執り行うのよ」セレーネの心臓が激しく跳ね上がった。迷いなど微塵もなかった。「受けるわ」即答だった。「何が必要であろうとも」ラミアはしばし、計り知れぬ眼差しでセレーネを見つめた――驚嘆と、興味と、そして微かな敬意が混ざり合った色。「決して軽い決断ではないわよ」ラミアは低く忠告した。「魔女の儀式は単なる祈祷とは違う。魂そのものに直接干渉するのよ」セレーネは真っ直ぐに見据えた。「ディリアンを救えるのなら、私の身など、どうなっても構わないわ」ラミアの唇に、薄い笑みが浮かんだ。「あなたは本当に……普通の貴族たちとは根本から違うわね」彼女は一歩後退した。「もう行かなければ。陽が高く昇る前に、仲間たちとここを発つわ」セレーネは胸の重圧に耐えながら頷いた。「三日月が昇るその時に、また会いましょう」「ええ」背を向けるラミア。「また会いましょう、レヴェンティス公爵夫人。覚悟を決めておきなさい……三日月が天に昇る時、あなたたちの過酷な宿命は、もはや何一つ隠し通せなくなるのだから」ラミアは雪原へと足を踏み出し、朝の冷気の中へ姿を消した。その足跡も、降り積もる雪にゆっくりと覆われていく。後に残されたセレーネの胸には、かつて
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