Tous les chapitres de : Chapitre 421 - Chapitre 430

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第421話 明日の祭壇

 湊が、座席の上でそっと指先を絡ませてきた。  少しだけ冷たくなっていた彼の指先を、両手でしっかりと包み込む。  確かな重さと、ゆっくりと戻ってくる熱。 「もし君に出会っていなければ……あんな風に、憎しみと保身の檻の中で、他人に怯えながら一生を終えていたかもしれない」  湊の言葉が、車内の静かな空気に溶けていく。  強く手を握り返し、その広い肩にそっと頭を預けた。  上質なウールのコートの柔らかな感触と、耳のすぐそばで聞こえる、規則的で力強い心音。  すべてが、今ここに生きているという確かな証明だった。  車が地下駐車場の薄暗がりを抜け、地上へと続くスロープを上り切る。  窓の外には、完全に夕闇に沈みきった都心のビル群と、帰路を急ぐ人々の車のテールランプが、赤い川のようにどこまでも続いていた。  手元のスマートフォンが再び短く振動するが、もう画面を開く気にはなれなかった。  世間がどれほどセンセーショナルに九龍の崩壊を消費し、無責任な言葉を投げかけようとも、この横にある確かな熱さえ見失わなければ、どんな急な坂道でも登っていける。  車の静かな走行音が、アスファルトを滑るように響く。 「……明日は、朝早いな」  湊が、ぽつりと口を開いた。  その声のトーンは、先ほどまでの冷徹な経営者のそれではなく、ただの一人の青年のように静かで、少しだけ寂しさを帯びていた。 「ええ。準備は、すべて整っているわ」  明日。  世間が龍一郎の逮捕や九龍の醜聞で騒ぎ立てる中、私たちは完全に外部の人間をシャットアウトし、一族の者と限られた親しい者たちだけで、静かな別れの儀式を行うことになっていた。  華枝の、葬儀だ。  騒々しい外の世界とは対極にある、静謐で、どこまでも厳かな時間。  剣吾の醜悪なまでの生への執着を見せつけられた後だからこそ、華枝が最期に見せた、あの誇り高く静かな横顔が、胸の奥に鮮烈に蘇ってくる。  黒い喪服に身を包み、白い菊の花と、高く立ち昇る線香の香りに包まれる明日の景色を思い浮かべる。  湊の指が、繋いだ手の中でわずかに力を込めた。 「……きちんと、別れを告げなければならない。彼女が僕に残してくれたものの重さを、もう一度、この胸に刻むために」  窓ガラスに反射する湊の瞳は、都会のネオンを映しながらも、すでに明日の静かな祭
last updateDernière mise à jour : 2026-05-18
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第422話 黒いネクタイ

 姿見に映る漆黒の布地は、窓から差し込む冬の朝の光を一切反射せず、重く沈んでいた。  指先を滑らせてタイトスカートの皺を伸ばし、真珠のネックレスを首にかける。鎖の金属部分が項に触れた瞬間、氷を押し当てられたような鋭い冷たさが全身に走り、眠気の残る意識が強制的に引き絞られた。  鏡の中の顔は、数日間の激動を反映してか、頬のあたりが少し削げているように見える。  リビングへ向かうと、そこにはすでに喪主としての装いを完璧に整えた湊が立っていた。  糊のきいた白いシャツに、きちんと締められた黒のネクタイ。三ピースの喪服を纏った背中は、かつてのCEO室で見せていたものよりも一層、分厚く、そして険しい岩壁のような硬さを湛えている。  無言で歩み寄り、少しだけ右に傾いていたネクタイの結び目に指をかける。  湊の喉仏がわずかに上下し、衣服の擦れる音が静かな室内に小さく響いた。 「……ありがとう」  低く、どこか遠くを打つような声。  整えた結び目から手を離し、そのまま上質なウールの袖口に触れる。 「無理、してない?」 「……まさか。これくらいの重圧、今さらだ」  湊はそう言って小さく口角を上げたが、向けられた瞳の奥には、燃え尽きることのない火種のような鋭い光が宿ったままだった。  玄関を出ると、凍てつくような外気が肺を刺す。  待機していた黒塗りの車に乗り込み、九龍本邸へと向かう。アスファルトを滑るタイヤの音だけが、車内の静寂を塗り潰していった。◇ 九龍本邸の広大な敷地を囲む石垣には、黒と白の幕が長く張り巡らされていた。  一歩足を踏み入れれば、そこはもう世間の喧騒とは切り離された、別の時間が流れる空間。  石畳の両脇には、名だたる企業や政界の名が記された巨大な花輪が並んでいるが、今日はそれらもただの背景に過ぎない。  玄関ホールでは、志保が凛とした立ち姿で、参列者の対応に追われていた。  黒の着物を一糸乱れぬ着付けで纏い、家政婦たちにテキパキと指示を出す。その指先には、昨夜までの泥仕事の痕跡など微塵も残っていない。ただ、すれ違いざまに目が合った瞬間、彼女の瞳がわずかに潤んでいるのを、見逃すことはできなかった。  葬儀が執り行われる大広間は、数えきれないほどの白い菊と百合で埋め尽くされていた。  むせ返るような花の香りと、高く立ち昇る線香
last updateDernière mise à jour : 2026-05-19
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第423話 喪主の誓い

 一度として視線を逸らさず、祭壇を、そして華枝を見つめ続ける。  その後ろでは、九龍の名を冠する分家の人間たちが、肩を縮めるようにして並んでいる。  彼らのヒソヒソという囁き声が、木魚の音に紛れて耳に届いた。 「……龍一郎様があんなことになるとは」 「剣吾様も、あんな風に父親を売るなんて……」 「結局、湊様が正統だったというわけか。これからの九龍は、どうなる……」  保身と好奇心、そして隠しきれない不安。  数日前まで龍一郎の顔色をうかがっていた彼らの、あまりにも現金な態度は、香炉から立ち昇る煙よりも実体がない。  焼香の順番が回ってくる。  立ち上がり、湊の隣を通り過ぎる際、彼の指先が自身の膝の上で強く握り込まれているのが見えた。爪が掌に食い込み、布地が小さく波打っている。  祭壇の前に進み、抹香を指先でつまむ。  指先の熱で、香りがさらに強く弾けた。  (……お祖母様。湊は、もう大丈夫です)  心の中で静かに語りかけ、合掌する。  華枝の遺影が、わずかに微笑んだような気がしたのは、おそらく朝陽が白い花に反射したせいだろう。◇「……本日はお忙しい中、九龍家前当主、九龍華枝の葬儀にご列席いただき、誠にありがとうございます」  葬儀の終盤、湊が謝辞のために壇上へと上がった。  マイクを通した声は、震えることなく、けれど聴く者の胸を直接叩くような重みを持って響き渡る。  会場を埋め尽くす分家の者たち、そして役員たちが、唾を飲み込んで湊を見上げた。 「故人は、生涯をかけて九龍という家を守り抜きました。それは、時に過酷で、孤独な闘いだったはずです」  湊の視線が、ゆっくりと会場を一周した。  彼が視線を向けるたび、つい先日まで龍一郎の派閥にいた役員たちが、ビクッと肩を震わせ、視線を床へと落とす。 「華枝様は、私にこう仰いました。『血が何だ、一族が何だ。自らの手で掴み取ったものだけが、真の九龍だ』と」  湊の右手が、演台の縁を力強く掴んだ。 「私はその言葉を、生涯忘れることはありません。……九龍は、過去の因習や、名前というだけの盾に縋る場であってはならない。真に実力のある者が誇りを持って働き、大切な人を守れる場所へと、私が……この手で作り変えてみせます」  宣言。  それは遺族の謝辞という枠を遥かに超えた、新しき王の初陣の
last updateDernière mise à jour : 2026-05-19
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第424話 白い菊の別れ

◇ 出棺の時が訪れた。  本邸の玄関先に、華枝を乗せた棺が運び出される。 「親族の方は、お花を……」  葬儀スタッフの促しを受け、棺の中に最後のお別れの花を供えていく。  志保が、震える指先で一輪の白い菊を華枝の胸元に置いた。 「……華枝様。わたくし、庭のレンガを、湊と一緒に直しますから。……見ていてくださいね」  志保の小さな呟きが、冬の冷たい風にさらわれていく。  最後に湊が、一房の白い花を手に取った。  彼は棺の傍らに膝をつき、華枝の安らかな顔をじっと見つめた。  その指先が、華枝の白い死装束の襟元を、愛おしそうにそっとなぞる。 「……行ってらっしゃい、お祖母様。……父さんと母さんによろしく」  その声は、もはやCEOとしてのそれではなく、ただ一人の孫としての、幼い響きを帯びていた。  棺の蓋が、ゆっくりと閉じられる。  釘を打つ「コン、コン」という乾いた音が、冬の空気に吸い込まれていった。  湊は、立ち上がり、霊柩車の助手席へと乗り込む。  私は、その横で、走り出す車を、深く頭を下げて見送った。  火葬場へと向かう車列。  その後を追うようにして、一陣の強い風が庭の木々をざわめかせた。  見上げれば、冬の空はどこまでも高く、澄み切っている。  雲ひとつない青空に、霊柩車から吐き出された白い排気ガスが、ゆっくりと溶けて消えていく。◇ 数時間後。  すべてが灰となり、小さな磁器の骨壷に収められた華枝が、湊の腕に抱かれて戻ってきた。  ずっしりと重いはずのその骨壷を、湊は壊れ物を扱うように、大切に両腕で抱きしめている。  九龍本邸。  主を失った広大な屋敷は、しんと静まり返っていた。  参列者たちはすでに立ち去り、残っているのは志保と、片付けを手伝うために残った征司、詩織、そして私たちだけ。  志保は、玄関ホールの石畳に落ちた数枚の白い花弁を、丁寧に拾い上げていた。 「……お疲れ様。湊」  志保の労いの言葉に、湊は短く頷いた。 「母さんも。……これからは、この屋敷のことも、僕が責任を持つ」 「あら、わたくしを隠居させるつもり? まだまだ、この庭の主導権は渡さないわよ」  志保は少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべ、それから湊の肩を優しく叩いた。 「……さあ、中へ入りましょう。お茶を淹れるわ」  リビ
last updateDernière mise à jour : 2026-05-20
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第425話 家に戻る温かさ

 湊の掌が、じわじわと体温を戻していく。 「……朱里」 「なあに?」 「……まさか、こんな日が来るとは思っていなかった。お祖母様を送り出し、志保さんと話し、君とここにいる。……僕は、ずっと一人のままだと思っていたのに」  湊の視線は、立ち昇る線香の煙を追っている。 「九龍という家が、こんなに静かで……温かい場所だと思ったのは、生まれて初めてかもしれない」  湊の指が、座布団の上で私の指をそっと絡め取った。  その力強さに、私は微笑んで握り返す。 「これからは、この温かさが当たり前になるわ。お祖母様が、それを一番望んでいたはずだもの」  ふと、窓の外に視線を向ける。  庭の隅。  龍一郎の車が突っ込んで壊れた鉄門の残骸は、すでに綺麗に撤去されていた。  そこには、志保が指示したのだろう。仮の木の柵が立てられ、その足元には、踏み荒らされたはずの地面を覆うように、新しい腐葉土が丁寧に敷き詰められている。  冬の枯れた景色の中に、そこだけが生命の予感を感じさせる、濃い土の色。  湊もまた、その景色を見つめていた。 「……明日は、レンガを買いに行こう」 「ええ。私も手伝うわ。軍手、二つ用意しておいて」 「君の手が荒れるのは困るが……まあ、仕方ないな」  湊が少しだけ困ったように眉を下げ、それから私の肩に頭を預けてきた。  規則的な寝息が、程なくして聞こえ始める。  線香の火が、静かに燃え尽きようとしている。  灰が、一筋の細い糸を描いて、香炉の白い砂の上に落ちた。  窓の向こう側では、冬の夕陽が長く伸び、庭の新しい土をオレンジ色に染め上げていく。  遠くで、庭師の鋏が枝を打つような、乾いた音が一度だけ響いた。  湊の寝顔を横目で見ながら、その額に触れる。  確かな、生きている人間の熱。  私は、静かに目を閉じ、その熱の源に寄り添った。  壁の時計の針が、また一秒、新しい未来を刻んでいく。  光の粒が空中に舞い、夕闇が屋敷の輪郭をゆっくりと溶かし始めた。◇ その頃。  本邸の離れにある自室で、志保は一枚の古い写真を見つめていた。  それは、まだ若かりし頃の華枝と、幼い湊、そして自分。  写真の中の志保は、今の湊と同じように、周囲に怯えるような鋭い目をしていた。 「……やっと、終わったのですね。華枝様」  志保
last updateDernière mise à jour : 2026-05-20
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第426話 父の作業着

 香炉から立ち昇る最後の一筋の煙が、冬の冷えた空気の中で細く震え、やがて透明な闇に溶けていった。  九龍本邸のリビング。華枝の遺影の前に供えられた白い菊の花弁が、暖房のかすかな風を受けて、わずかにその輪郭を揺らしている。  ソファの背もたれに深く身を預け、膝の上に重ねた両手の指先をじっと見つめる。  葬儀から数時間が経過し、屋敷を埋め尽くしていた弔問客たちの靴音も、車列の騒音も、今は遠い記憶の底へと沈んでいた。  隣に座る湊の肩からは、これまでの張り詰めた緊張が、潮が引くように少しずつ抜けていくのが伝わってくる。  湊は、テーブルの上に置かれた使い古された真鍮の鍵を、指先で静かになぞった。宗一の書斎から志保が取り出し、真実へと導いたあの鍵だ。 「……明日は、予報だと晴れるらしい」  湊の声は、低く、少しだけ湿り気を帯びている。  窓の外。深い森の奥から、夜鳥の短く鋭い鳴き声が一度だけ響いた。 「レンガを直すには、ちょうどいいわね。志保さんの審査に落ちないように、しっかり予習しておかないと」  無理に作った明るい声が、広い室内に吸い込まれていく。  湊はわずかに口角を上げ、絡めていた指先に少しだけ力を込めた。 「母さんの審査は、どんな一流の石積み職人よりも厳しい。覚悟しておいた方がいい」  その呼び方に、わずかな躊躇(ためら)いも混じらなくなったことに、胸の奥がじんわりと熱くなる。  二人の影が、壁の振り子時計の音に合わせて、静かに重なり合った。◇ 翌朝。  カーテンの隙間から差し込む光は、冬特有の刺すような白さを湛えていた。  本邸の広いキッチン。  厚手のカーディガンを羽織り、湯気の上がるマグカップを両手で包み込む。  トースターが跳ね上がる音と、香ばしい小麦の匂い。  テーブルには、志保が用意したと思しき和食が並んでいた。出汁の香りがふわりと鼻腔をくすぐる。  湊が、屋敷の蔵から出してきたという、少し丈の短い古い作業着に身を包んで現れた。  普段のスリーピーススーツとは対極にある、擦り切れた布の質感。袖を捲り上げた前腕には、日頃のトレーニングで鍛えられた太い血管が浮き上がり、生々しい「動」の気配を漂わせている。 「……似合っている、と言っていいのかしら」  マグカップを口元に運びながら、その珍しい姿をまじまじと見
last updateDernière mise à jour : 2026-05-21
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第427話 温室を直す朝

 志保はすでに、黒い長靴を履き、年季の入った作業用のエプロンを身に着けて立っていた。その傍らには、真新しいレンガが積み上げられ、泥を練るための大きなトロ舟が用意されている。 「遅いわよ、湊。朝の光が一番、レンガの色を確認しやすいと言ったはずでしょう」  志保の声は、葬儀の時の慈悲深い響きを鎧の下に隠し、再び厳しい「庭の主」のものに戻っていた。 「準備に時間がかかった。……これでも急いだつもりだ」  湊は志保の前に立ち、腕を組んで積まれたレンガを見下ろした。 「理屈はいいわ。まずは、そのひしゃげたレンガの破片をすべて取り除きなさい。基礎に砂利が混じっていると、後で必ず傾く。九龍の基盤と同じよ、不純物は一粒残さず取り除くこと」 「……言われなくても分かっている」  湊は軍手をはめ、迷いのない動作で屈み込んだ。  破壊された温室の壁。  欠けたレンガを一つずつ拾い上げ、バケツの中へと放り込んでいく。  カラン、コン、という乾いた音が、静かな庭園に響き渡った。  湊の指先が、レンガの粗い表面をなぞる。  砂埃が舞い、湊の作業着の膝が黒く汚れ始めたが、意に介する様子はない。  自分も、近くにあった小さな竹箒(たけぼうき)を手に取り、周囲に散らばった細かいガラス片や土を掃き寄せ始める。  志保は、湊の作業を数歩離れた場所からじっと監視していた。  その背筋は定規を当てたようにまっすぐで、冷たい風に吹かれても微動だにしない。 「湊。そこ、もっと深く掘りなさい。由理子お姉様が愛したこの温室は、根が深いのよ。表面だけ繕っても、次の冬には崩れ落ちるわ」  湊の動きが、一瞬だけ止まった。 「……由理子母さんは、この温室で何を育てていたんだ」 「何でもよ。季節外れの牡丹(ぼたん)や、誰にも見向きされない野の花。あの方は、命の火が消えかかっているものを温めるのがお好きだった。……あなたを、九龍の呪いから守り抜いたようにね」  志保の視線が、温室のひび割れたガラスの向こう側へと向けられた。  湊は何も答えず、より一層の力を込めてスコップを地面に突き立てた。  ザシュッ、という土を切り裂く音が、湊の決意を代弁している。  陽が少しずつ高くなり、空気の冷たさが和らぎ始めた頃。  湊と志保のやり取りは、傍から見れば以前と変わらない険悪な主従関係のように
last updateDernière mise à jour : 2026-05-21
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第428話 母の手袋

 湊がそれを取り出し、土を払う。  現れたのは、一組の園芸用の手袋だった。  それは、志保が今使っているような武骨なものではない。  女性の細い手に合わせた小ぶりなサイズで、丈夫な牛革で作られている。  長年の使用によって、指先の部分は土の色に深く染まり、手のひらの部分には何度も握りしめられたことでできた独特のシワが刻まれていた。  そして、手首の裏側の部分。  そこには、刺繍糸で小さく「Yuriko」という文字が縫い込まれていた。 「……母さんの、手袋」  湊の声から、すべての温度が消えた。  震える指先が、その擦り切れた革の表面をなぞる。  志保が、静かに歩み寄ってきた。  彼女の足跡が、掃き清めた土の上に深く刻まれる。 「……それは。お姉様が、最後の日まで使っていたものよ」  志保の言葉に、湊が鋭い視線を向けた。 「どうして、こんなところに……。捨てたんじゃなかったのか。由理子母さんの遺品は、あんたがすべて処分したと」 「処分したと言わなければ、華枝様や龍一郎の目が光るもの。……九龍という家では、死者への未練は弱さと見なされる。お姉様の面影を残しておくことは、あなたを弱くさせる毒でしかないと、華枝様は判断なさった」  志保は、湊の手の中にある手袋を見つめ、静かに、本当に静かに目を閉じた。 「私は、その命令に従う振りをしながら、ここへ隠したの。温室の、一番日当たりの悪い、誰にも気づかれない影の場所に。……お姉様が、あなたの成長をずっと見守っていられるように」  湊の手の中で、古びた手袋が小さく震えた。  湊は、その手袋を自分の顔に近づけ、深く息を吸い込んだ。  二十年の時を経てなお、そこにはかすかに、乾いた土の匂いと、優しい花の残香、そして――かつて湊を抱き締めていた母の、確かな温もりが染み付いているような気がした。 「……母さんは、いつも手が汚れていた」  湊の独白が、温室の静寂を震わせる。 「冬になると、指先がひび割れて、僕が薬を塗ってあげると『湊は優しい王様ね』と笑っていた。……その手が、僕は大好きだった」  湊は、膝からその場に崩れ落ちた。  地面の泥を恐れることもなく、ただ一組の手袋を胸に抱き締め、頭(こうべ)を垂れる。  スーツを着ていない湊の背中は、驚くほど小さく、脆(もろ)く見えた。  志保は
last updateDernière mise à jour : 2026-05-22
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第429話 泥のついた家族

 湊の肩が、激しく上下に揺れる。  冷たい冬の風が温室の中を通り抜け、足元の土を乾燥させていく。 「……母さん」  湊が、掠れた声で呟いた。  それは志保へ向けられたものなのか、あるいは天上の由理子へ向けられたものなのか。  おそらく、その両方だった。  志保は、湊の頭を、泥のついたエプロンのままでそっと抱き寄せた。  かつて湊を突き放し、冷酷に接してきたその腕が、今は誰よりも優しく、湊を包み込んでいる。 「……おかえりなさい。湊」  志保の目からこぼれ落ちた一滴の雫が、湊の首筋を伝い、土にまみれた作業着へと染み込んでいった。◇ 数時間後。  陽が傾き、庭園の影が長く伸び始めた頃。  温室の壁は、不揃いながらも、湊の手によって新しいレンガがまっすぐに積み上げられていた。  湊は、泥だらけになった顔をタオルで拭い、完成した壁を見上げた。  その隣には、満足げに頷く志保の姿がある。 「……及第点ね。これなら、春の嵐が来ても崩れないわ」 「当然だ。僕を誰だと思っている」  湊の声には、先ほどまでの湿り気はなく、どこか吹っ切れたような清々しさが宿っていた。  湊の腰のポケットには、あの古びた手袋が、大切に仕舞い込まれている。  玄関ホールから、征司が顔を出した。 「おーい、兄貴! 志保さん! いつまで泥遊びしてんだよ。会社から緊急の電話が鳴り止まないぜ。……それと、詩織が『お茶が冷めるから早く来い』ってさ」  征司の能天気な声が、静かな庭園の空気を軽快に跳ねる。  湊は、泥のついた軍手をパンパンと叩き、立ち上がった。 「行くぞ。……今日は、甘いお茶が飲みたい」 「あら、贅沢を言うのね。とっておきの和菓子があるわよ」  志保が湊の先を歩き、玄関へと向かう。  湊は、最後にもう一度だけ、修復した温室の壁を振り返った。  西日に照らされた新しいレンガの色は、九龍の古い歴史の中に、確かな新しい血を注ぎ込んだ証のように輝いていた。  湊が、私の手を力強く握る。  その手のひらには、作業でできた新しいマメの感触と、泥のざらつきがあった。  けれど、その不器用な感触こそが、今、私たちが手にしている「家族」という名の、何物にも代えがたい真実だった。  一陣の風が、庭の奥の木々をざわめかせ、枯れ葉を宙に舞い上げた。  本邸の窓
last updateDernière mise à jour : 2026-05-22
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第430話 紋付の白檀

 絹擦れの音が、静まり返った和室にひんやりと響き渡った。  固く締め上げられた帯の圧迫感が、みぞおちのあたりで呼吸を浅く制限している。着付け師の手によって最後に帯締めが結ばれ、背中にポンと軽い手が添えられた。 「仕上がりました。とてもよくお似合いですよ」  鏡の前に立つ自身の姿は、淡い桜色の色無地に身を包み、髪を隙なく結い上げた見慣れないものだった。背筋が強制的に伸ばされ、足袋に包まれた足裏から、畳の冷たさがじわじわと這い上がってくる。  襖が静かに滑る音がして、振り返る。  そこに立っていたのは、九龍の家紋が染め抜かれた黒の紋付袴を纏った湊だった。  普段のスリーピーススーツ姿が放つ鋭利な冷たさとは違う、ずっしりとした大木の幹を思わせる重厚な威圧感。ただ部屋に足を踏み入れただけで、空気がピンと張り詰め、周囲の温度が数度下がったような錯覚に陥る。  湊は着付け師に短く目礼をして退出させると、ゆっくりとした足取りでこちらへ近づいてきた。  白い足袋が畳を擦る、シュッ、シュッという音が耳に届く。  目の前で立ち止まった湊の、深く澄んだ色の瞳が、結い上げた髪から帯の結び目までを静かに滑り降りた。 「……苦しくないか」  低く、胸の奥を直接震わせるような声。 「少しだけ。でも、これくらいの方が背筋が伸びてちょうどいいわ」  そう答えると、湊の大きな手が伸びてきて、襟足のすぐ横、髪の結い目にそっと触れた。  先日、庭のレンガを積んだ時にできた指先のかすかなささくれが、肌に触れて微かな摩擦を生む。その不器用な感触が、なぜかたまらなく愛おしかった。 「……綺麗だ」  ぽつりとこぼれ落ちた言葉に、顔の温度が一気に上がるのがわかる。 「湊も。……すごく、堂々としてる。お父様が着ていたものなの?」 「ああ。志保さんが、桐の箪笥の奥から出してきてくれた。丈を少し直しただけで、驚くほど身体に馴染む」  湊は自身の袖口に視線を落とし、それからゆっくりと息を吐いた。  微かに漂う、白檀の防虫香の匂い。それは、九龍という家が積み重ねてきた長い時間の匂いそのものだった。 「行こう。皆が待っている」  差し出された手のひらに、自身の冷えた指先を乗せる。  力強く握り込まれた熱が、帯の苦しさを忘れさせてくれるほどの安心感を全身に巡らせていった。◇ 本邸
last updateDernière mise à jour : 2026-05-23
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