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第411話 壊れた鉄門の朝④

 湊は、胸ポケットから取り出した万年筆を、テーブルの上で弄るように指先で転がした。 コロ、コロと、樹脂製の軸が木材の表面を滑る小さな音。「……さて。ここで、皆様に確認したいことがあります」 湊の視線が、テーブルの右側に座る、白髪の初老の男の顔でピタリと止まった。 男の肩が、目に見えて跳ね上がる。「西崎常務。あなたは先週の取締役会で、龍一郎の当主就任に最も強く賛同し、彼の提案した不透明な海外投資案件を推し進めようとしていましたね」「そ、それは……! わ、私はただ、会社の利益を第一に考え……龍一郎氏の言葉を信じて……」 西崎常務の口から、脂汗にまみれた震える言い訳が漏れ出す。 湊は視線を外し、今度は左側に座る恰幅の良い男を見た。「高島専務。あなたは、私の妻である朱里の実家の印刷所に対し、銀行に圧力をかけて融資を停止させるよう、裏で手を回していましたね」「ち、違います! あれは龍一郎の指示で、逆らえば自分の首が飛ぶと脅されて……!」「なるほど。指示されたから、罪のない人間の生活を破壊しようとしたと」 湊の指先が、万年筆の動きをピタリと止めた。 会議室の空気が、一瞬にして凍りつく。「九龍グループは、長年、血の繋がりや一族のしがらみという名の下に、腐敗を溜め込んできた。権力を持つ者にすり寄り、己の保身のためなら平気で嘘に加担し、他者を蹴落とす。……龍一郎はその腐敗の象徴にすぎない」 湊の両手が、テーブルの縁を力強く掴む。 スーツの肩から腕にかけての筋肉が隆起し、生地が悲鳴を上げるのが見えた。「九龍を食い物にする寄生虫は、一族から、そしてこの会社から、永久に追放する」 その言葉は、冷たい刃となって、テーブルを囲む役員たちの喉元に突きつけられた。「龍一郎の不正に少しでも加担した者、己の利益のために会社の資産を私物化した者は、本日付けで全員解任します。辞表の提出すら認めない。懲戒解雇とし
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第412話 壊れた鉄門の朝⑤

 空調の低い駆動音だけが、広すぎる室内を満たしていた。 重厚な黒革のソファに腰を下ろし、深く息を吐き出す。 革の表面が体の重みでゆっくりと沈み込み、キュッという小さな音を立てた。 湊は、部屋の隅にあるサイドボードからクリスタルのグラスを二つ取り出し、ミネラルウォーターを注いで、片方を私の目の前のローテーブルに置いた。 水滴がグラスの表面に結露し、冷たい光を反射している。「……お疲れ様。見事だったわ」 グラスを手に取り、冷たい水を一口喉に流し込む。 乾き切っていた食道が、心地よい冷感とともに潤っていく。「ありがとう。……でも、まだ始まりにすぎない」 湊は自分のグラスを持ったまま、窓辺へと歩み寄り、眼下の景色を見下ろした。 背中越しに見るそのシルエットは、先ほどの会議室での圧倒的な威圧感を完全に解き放ち、どこか穏やかな丸みを帯びているように見えた。「腐った根を切り落とした後には、新しい土を入れ、種を蒔かなければならない。会社を立て直し、信頼を回復するまでには、気の遠くなるような時間と労力がかかる」 湊は振り返り、グラスを片手に持ったまま、私に向かってわずかに口角を上げた。「……君には、苦労をかけるかもしれない」 グラスをテーブルに置き、立ち上がる。 窓辺に立つ彼の隣へと歩み寄り、その腕にそっと自分の腕を絡ませた。 上質なウールの感触と、その奥にある確かな体温。 湊の腕が自然に開き、私の肩を包み込むようにして引き寄せてくれる。「苦労なんて、最初から覚悟の上よ。……それに、あなたとなら、どんな土でも最高のバラを咲かせられる気がするわ」 湊の胸元から、低く、くぐもった笑い声が漏れた。「君のその根拠のない自信には、いつも救われる」 彼の大きな手が、私の髪をそっと撫で下ろす。 窓ガラス越しに差し込む午後の光が、私たちの足元に、一つの重なり合った影を長く落としていた。 ふと、湊の視線が私の顔に向
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第413話 警察聴取と血の証言①

 CEO室の壁一面を覆う巨大なガラス窓に、寄り添う二人の影が淡く、しかし確かな輪郭を持って映り込んでいた。 夕闇が降り始めた都心のビル群が、宝石を散りばめたような瞬きを始め、室内の静寂をより深いものへと変えていく。 混じり合う呼吸の音。 鼻先が触れ合い、互いの体温が混ざり合う寸前。胸の奥を締め付けるような、どこまでも清潔で、かつ重厚な気配が空間のすべてを支配しようとした、その時だった。 ブーッ、ブーッ。 重厚なマホガニーのデスクの上で、無機質な振動音が遠慮なく鳴り響いた。 湊の肩がピクリと動きを止める。 数秒の静止の後、深く、そして小さな舌打ちが静まり返った室内に落ちた。「……空気というものを読めない人間が多すぎる」 湊は静かに身を離し、指先でネクタイの結び目をわずかに整えながらデスクへと歩み寄った。 液晶画面に目を落とした瞬間、その横顔から先ほどまでの柔らかな温度がスッと引いていく。「警察からだ」 低い声が、革張りのソファの奥まで届く。「……事情聴取?」 問いかけに、湊は短く顎を引いた。「ああ。龍一郎と剣吾の件で、今すぐ本署まで足を運んでほしいそうだ。参考人として、早急に確認したい供述があるらしい」「行くわ。一緒に」 迷うことなく口に出すと、湊はわずかに目を見張り、それから自嘲気味に、だが愛おしそうに口角を上げた。「疲れているだろう。ここは僕一人でも……」「ダメ。一人で行かせたりしないって、もう決めたのよ」 一歩踏み出し、上質なスーツの袖口を指先で軽く、しかし離さないという意志を込めて掴む。 ウールの生地越しに伝わる硬い腕の筋肉が、一瞬だけビクッと強張り、すぐにふっと緩むのを感じた。「……分かった。同行を頼むよ、朱里」 湊の大きな手が、袖口を掴んでいた手を優しく包み込み、そのまま指の間に滑り込んできた。 絡み合う指先から、これから向かう場所の冷たさをあらかじめ打ち消
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第414話 警察聴取と血の証言②

「単刀直入に申し上げます。逮捕された剣吾容疑者ですが……見事なまでに洗いざらい、すべてを吐き出していますよ」 刑事は皮肉な笑みを浮かべ、ワイシャツのポケットからしわくちゃのハンカチを取り出して額を拭った。「すべて、ですか」「ええ。父親である龍一郎容疑者が主導した一連の横領スキーム、裏帳簿の保管場所、隠しパスワード、海外口座に紐付いたダミー会社のリスト……。驚くべきことに、自分がいつかトカゲの尻尾切りにされることを予見していたようでね。数年前から龍一郎容疑者の不適切な指示をすべて秘密裏に録音し、クラウド上の別サーバーにバックアップを取っていたようです。実の父親を地獄へ送るための準備を、何年も前からコツコツと進めていたわけだ」 刑事の言葉に、湊は表情一つ変えることなく、ただ静かに伏せられた睫毛の影を落とした。「……親子の間にすら、一片の信頼もなかったということか」 湊の呟きは、冷え切った室内の空気をさらに凍りつかせるような鋭さを持っていた。「ええ。我々も長年いろいろな被疑者を見てきましたが、あそこまで周到に、笑顔で身内の背中を撃つ準備をしている例はそう多くありません。自分が助かるためなら、親が死のうが構わない。それが彼の出した『正解』だったのでしょう」 刑事はファイルを開き、数枚の調書を指先で弾いた。紙が擦れるカサカサとした不快な音が、沈黙の中で妙に大きく聞こえる。「剣吾容疑者の詳細な証言と、提出いただいた華枝氏の裏日記、そして再鑑定されたDNA鑑定書。これらすべてのピースが、今、完璧に噛み合いました。龍一郎容疑者が二十年前、宗一氏の主治医を買収して死因を隠蔽し、鑑定書をすり替えたこと。……もはや、逃げ道はありません」 刑事の口から淡々と語られる事実。 それは、湊が二十年という長い歳月、その細い肩に背負わされてきた「偽りの呪い」の正体だった。 隣に座る湊の横顔を、盗み見る。 視線は一点を見つめたまま動かず、膝の上で組まれた両手の指の関節が、血の気を失って真っ白になるほど強く握りしめられていた。
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第415話 警察聴取と血の証言③

 湊の肩が、目に見えてわずかに下がる。「……ご報告、感謝します」 湊は短く頭を下げ、静かに椅子から立ち上がった。 キィッ、という金属の擦れる音が、静寂の部屋に響き渡る。「まだ取り調べは続きます。後日、また詳細な調書の作成にご協力いただくことになりますが……本日は、これでお引き取りいただいて結構です。長い一日でしたでしょう、ゆっくりお休みください」 刑事も立ち上がり、扉を開けて道を作った。 ◇ 警察署の重い強化ガラスの扉を押し開け、夜の空気の中へと踏み出す。 冷たい風が、暖房で火照った頬を心地よく撫でていった。 見上げれば、都心のビル群の隙間から、細い三日月が剃刀のような鋭さで光っている。 アスファルトの冷たい感触を靴底で確かめながら、数歩歩いたところで、湊がふと足を止めた。「少し、冷えるな」 湊が立ち止まったのは、歩道の隅で煌々と青白い光を放つ自動販売機の前だった。 スーツのポケットから小銭入れを取り出す指先の動きすら、どこか洗練されて見える。 硬貨が吸い込まれるチャリンという金属音と、重い缶が取り出し口に落ちるガコンという音が、静まり返った夜道に響く。 湊の手から渡されたのは、温かいコーンポタージュの缶だった。「ありがとう」 両手で包み込むと、ジンジンとした熱が凍えかけていた指先をじんわりと溶かしていく。 隣を見ると、湊はプシュッと小気味よい音を立てて自分の缶のプルタブを開け、一口飲んだ。 その缶のパッケージには、可愛らしい牛のイラストと『特濃ロイヤルミルクティー』という文字が大きく躍っている。「……湊。それ、もしかして一番甘いやつ?」 問いかけると、湊はプルタブに口をつけたまま、ピタリと動きを止めた。「……極度の緊張状態の後は、脳が糖分を求めているんだ。CEOとしての、あくまで生理的かつ合理的な判断だ」 少しだけ気まずそうに、街灯の光から逃れるように視線を逸らす横顔。
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第416話 警察聴取と血の証言④

「あの二人の間にあったのは、ただの主従関係よ」 湊の目が、わずかに見開かれる。「愛や信頼の代わりに、権力と恐怖で縛り合っていただけ。……だから、簡単に壊れたの」 頬を包む手に、少しだけ力を込める。「湊のお父様とお母様は、真実を隠し通した。湊を守るために。華枝もそう。志保さんもそう。……湊、あなたは一人じゃないわ。あなたが守ってきた人たちが、今度はあなたを守ってくれた。それが、血よりもずっと濃い、私たちの『九龍』よ」 湊は、頬に添えられた手を大きな手でそっと覆い、そのまま目を閉じた。 深く、静かな呼吸の音が、夜の空気に溶けていく。「……本当に不思議な人だ。どんなに分厚い氷でも、その言葉一つで簡単に溶かしてしまう」 湊の唇の端が、柔らかく弧を描いた。「氷を溶かすのは、言葉じゃないわ。湊自身の熱よ」 目を開けた湊の瞳に、先ほどまでの空虚な影はもうなかった。 代わりに、確かな体温を持った、穏やかで強い光が宿っている。「……帰ろう。僕たちの、家に」 湊が、包み込んでいた手から指を滑らせ、しっかりと私の指を絡め合わせてくる。「ええ。帰りましょう」 握り返された手のひらから、心地よい重さと熱が伝わってくる。 夜の冷気の中、清潔なシャツとかすかな体温の混じり合った匂いが鼻腔を掠めた。 歩き出した二人の足音が、静まり返った歩道に、一定のリズムを刻んでいく。 ふと、湊のポケットの中でスマートフォンのバイブレーションが鳴った。 一度、二度。 湊はそれを取り出すこともなく、ただ私の手を強く握り直した。 だが、私のコートのポケットに入ったスマートフォンもまた、絶え間なく震え始める。 たまらず画面を覗き込むと、そこにはニュースアプリの速報が、濁流のような勢いで並んでいた。『九龍グループ、衝撃の崩壊――龍一郎前当主ら逮捕、背任横領の全貌』『名門一族の醜聞、親子間での裏切り工作か。録音データ流出の噂
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第417話 剣吾の土下座①

 数日後。 排気ガスと湿ったコンクリートの匂いが重く滞留する、九龍グループ本社ビルの地下駐車場。 等間隔に並んだ天井の無機質な蛍光灯が、薄暗い空間に青白い光のプールをいくつも落としている。 磨き上げられた革靴とパンプスの靴底が、硬いウレタン塗装の床を叩く音が、静まり返った地下空間に一定のリズムで反響していた。 スマートフォンを震わせた逮捕劇のニュース速報から数日。 世間の熱狂は今も勢いを衰えさせることなく、連日のようにワイドショーやネットニュースが九龍という巨大な看板の崩壊をセンセーショナルに消費し続けている。 隣を歩く湊の横顔を、歩きながらそっと見上げる。 連日の事後処理やメディア対応、役員会の再編で、蓄積した疲労は確実にあるはずだ。 だが、その足取りには一片の淀みもない。 新しく仕立てられた濃紺のスリーピーススーツは、どんな嵐の中でも決して崩れない強固な城壁のように、端正で揺るぎない肩のラインを保っていた。 専用の送迎車が待機するVIPスペースまであと数メートルという距離に差し掛かった、その時だった。 太いコンクリートの柱の陰から、突然、一つの人影がふらりと飛び出してきた。 数歩前方を歩いていたスーツ姿の護衛たちが、瞬時に革靴を鳴らして壁のように立ち塞がる。「み、湊……っ! 待ってくれ!」 酷く掠れた、湿り気を帯びた粘着質な声が駐車場に響き渡った。 その声の響きに、思わず足が止まる。 護衛たちの肩越しに見えたのは、保釈されたばかりの剣吾だった。 つい先日、大会議室で顔を真っ赤にして喚き散らしていた傲慢な男の面影は、そこには微塵も残っていない。 何日も着の身着のままで過ごしたのか、かつては彼の虚栄心を象徴していたはずの薄いグレーの高級スーツは無惨に皺だらけになり、膝のあたりには白っぽい埃や泥の汚れがべったりとこびりついている。 高価なポマードで撫でつけられていた髪は乱れて額に張り付き、無精髭がまばらに伸びた顔には、睡眠不足による濃い隈と、剥き出しの狼狽が張り付いていた。「…&hel
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第418話 剣吾の土下座②

「……保釈されたばかりだと聞いている。これ以上、僕に何を話す必要がある」 湊の静かな問いかけに、剣吾はズズッと音を立てて鼻を啜り、必死に言葉を紡ごうと乾いた唇を動かした。「お、俺は……俺はお前の味方だ! 分かってるだろ? 俺が親父の……龍一郎の裏帳簿の隠し場所とパスワードを警察に渡したから、すべてがこんなに早く解決したんだ。俺の内部告発がなかったら、あのタヌキ親父はまだシラを切ってたはずだ。俺が九龍を、お前を救ったんだよ!」 あまりにも身勝手で、耳を疑うような論理。 湊の隣で、思わず奥歯を強く噛みしめる。 湊の腕がわずかに動き、ウールの生地越しに筋肉が波打つのが伝わってきた。「救った?」 湊の整った唇が、冷笑の形に歪む。「沈みゆく船から真っ先に逃げ出し、自らの保身のためだけに親の背中を撃った男が、随分な物言いだな。剣吾」「ち、違う! あれは正義からの、正当な告発だ! 俺はずっと親父の強引なやり方に疑問を持っていたんだ。お前を不義の子だなんて嘘で固めて追い出そうとするのも、関係ない印刷所を無理やり潰そうとするのも、俺はずっと心苦しくて……っ!」 芝居がかった剣吾の瞳から、濁った水滴が溢れ出し、無精髭の生えた頬を伝ってコンクリートの床へと落ちた。 その白々しい言い訳の羅列が耳を掠めるたび、背筋を這い上がるような不快な寒気が通り抜けていく。 実家の印刷所の機械が止められ、父が取引先に何度も頭を下げ、母が夜通し青い顔をして帳簿を見ていたあの削り取られるような時間が、この男にとっては単なる「心苦しい」という薄っぺらい自己弁護のアクセサリーでしかなかったのか。 湊は、すがりつこうとする剣吾の手を、無造作に、けれど決定的な拒絶の意思を持って振り払った。 バシッ、という乾いた音が鳴る。「もういい。見苦しい」「待てよ! 湊、頼む! 保釈金は親戚中に泣きついて頭を下げてなんとか工面したけど、このままじゃ俺は……一族から放り出されるだけじゃ済まないんだ。世
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第419話 剣吾の土下座③

 絵に描いたような、そしてこの上なく浅ましく、滑稽な土下座。「……っ、湊……! お前は正統な当主だ、俺もそれは心から認める! だから、お願いだ。俺を、俺を九龍から追い出さないでくれ! 関連会社の平役員でも、窓際部署の雑用係でもいい。清掃員だってやる! お前の言うことなら何でも聞く、お前の犬にだってなるから!」 額を冷たい床に押し付けたまま、剣吾の背中は小刻みに、みすぼらしく震えている。 擦り付けられた無機質なコンクリートには、彼の脂汗と涙と鼻水が混じり合い、不気味な黒い輪染みが広がり始めていた。「俺にはもう、これしかないんだ! 九龍の名前がなきゃ、俺はただのゴミなんだよ! 借金もある、龍一郎が勝手に作った投資の穴埋めが俺にも回ってきてるんだ。今ここでお前に見捨てられたら、俺は首を吊って死ぬしかないんだ……!」 床の底に吸い込まれるような、湿って粘り気のある懇願。 かつての煌びやかな婚約パーティーの会場で、高級なシャンパングラスを片手に、私や湊を見下して鼻で笑っていた男の面影は、もはや世界のどこを探しても見つからなかった。 ただ、自らが積み上げてきた嘘と見栄の重みに耐えきれず、泥の中で這いつくばって必死に酸素を求める生き物の無様な姿がそこにあった。 湊は、車のドアノブに手をかけたまま、足を止めた。 振り返ることはなく、ただ広い背中でその醜態を受け止めている。 周囲の喧騒が遠のき、剣吾の気管が鳴る荒い鼻息と、数メートル先でアイドリングを続ける黒塗りの車の低いエンジン音だけが鼓膜を打つ。 湊の隣に並び立ち、その横顔を下から覗き込んだ。 蛍光灯の青白い光の下で、長い睫毛に縁取られた瞳は、研ぎ澄まされた日本刀のような冷たい輝きを放っている。 湊は静かに革靴の向きを変え、足元で丸まっている剣吾を見下ろした。 その距離は、ほんの数歩。 けれどそこには、果てしない断崖絶壁のような、決して埋まることのない隔たりが存在していた。「……顔を上げろ。剣吾」 湊の声は、耳元で
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第420話 剣吾の土下座④

 磨き上げられた黒い革靴の先が、剣吾の鼻先に触れるか触れないかの距離で止まる。「あなたが失うのは、九龍という名前だけではない。あなたが今まで『血の繋がり』という実体のない盾を使い、他人の尊厳を踏み躙って得てきた安寧のすべてだ。……それは僕が決める罰ではない。あなたが自らの手で選び取り、積み上げてきた結末だ」「そんな……! 頼むよ、湊! 朱里ちゃんからも言ってくれ! 僕たちは一時期、親戚になるはずだっただろ!? そのよしみで、口利きしてくれよ!」 剣吾の矛先が、狂乱したようにこちらへ向けられる。 身勝手で、あまりにも都合の良い執着。 胸の奥に湧き上がる感情の温度を、静かに確かめる。 怒りでも、復讐を遂げた高揚感でもない。 ただ、目の前で必死に喚き散らすこの男が、中身が空っぽの、形のない影のように見えていた。「……剣吾さん」 口から出た声は、自分でも驚くほど平坦で、凪いでいた。「あなたは私の実家を容赦なく潰そうとしましたけれど、父は、最後まであなたたちのことを恨んではいませんでした。ただ、『どうしてこんなことになってしまったのか』と、悲しそうに空を見て、黙々と機械の手入れをしていただけ」 剣吾の瞳が、激しく左右に泳ぐ。「今、あなたが額を擦り付けて土下座をするべき相手は、私たちではありません。……あなたが今まで見下し、軽んじて、消費してきた、あなた自身の人生に対してではありませんか」 剣吾の口が、陸に打ち上げられた魚のようにパクパクと動く。 反論の言葉が喉の奥で詰まり、ヒュー、ヒューという音にならない呻きとなって溢れ出した。「行こう。朱里」 湊の大きな手が、肩を優しく、けれど絶対に振り返らせないという強固な意志を持って包み込んだ。 その場に崩れ落ちたまま、もはや指一本動かせなくなった剣吾の横を通り過ぎ、待機していた送迎車の後部座席へと向かう。 背後で、剣吾が爪でコンクリートの床を掻き毟るような、ガリッという鈍い音が聞こえたが、足取りを緩めること
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