All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 451 - Chapter 460

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第451話 嘘にならない日々

「朱里、君のそういうところが嫌だったんだ。愛とか信頼とか言いながら、結局は体面とお金がすべてじゃないか。そんな嘘の塊みたいな君に、九龍グループの看板を背負う資格なんてあるはずがない」  四方八方から向けられる、無数の軽蔑の視線。  カメラのレンズが、一斉にこちらの表情を追い詰めるように狙いを定めている。  過去の恥部を晒し、公の場で「嘘つき」の烙印を押されること。  それは、想像していた以上の痛みと重圧を伴うものだった。  膝の上の手が微かに震えそうになる。  だが、湊の掌がその震えを包み込み、絶対に逃がさないというように強く握り締めてくれた。  手のひらから伝わる熱が、冷え切った血流を再び全身へと勢いよく巡らせていく。  ――もう、逃げない。  背筋を真っ直ぐに伸ばし、マイクに再び口を近づける。 「……確かに、私たちの始まりは嘘でした」  会場の騒音を切り裂くような、静かで、しかしよく通る声がスピーカーから響き渡った。 「見栄と、虚勢と、お金で縛られた契約関係。誇れるものなんて何一つない、泥沼のような、最低の始まりでした。……自分がどれほど愚かで、惨めなことをしたか、痛いほど理解しています」  美咲が、さらに言葉を被せようと口を開く。  だが、それを許さないほどの強い視線を、真っ直ぐに美咲と拓也の顔へと叩きつけた。 「でも」  マイクを握る手に、さらに力を込める。 「嘘から始まったからといって……一緒に過ごした時間や、分け合った体温、互いを信じようともがいた日々までが、嘘になるわけじゃありません」  美咲の口の動きが、ピタリと止まった。 「私たちが契約書という紙切れで繋がっていたことは事実です。でも、その紙切れ一枚の向こう側で、私たちは本音をぶつけ合い、傷を晒し合い、誰にも言えなかった孤独を分け合ってきました」  隣に座る湊の横顔を見る。  あの狭いアパートの部屋で、インスタントの安っぽいコーヒーを一緒に飲んだ夜。  九龍という巨大な家の重圧に押し潰されそうになっていた、大きくも脆い背中。  熱を出した時、不器用な手つきで氷嚢を変えてくれた、冷たくて心地よい手のひら。  それらの記憶が、確かな重さと匂いを伴って脳裏を駆け巡る。 「あなたがたに、嘘だ、偽物だと笑われても構わない。世間の皆様に、金銭で結ばれた打算的な関
last updateLast Updated : 2026-06-02
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第452話 人前で繋ぐ手

 テーブルの下で繋いでいた手を、ゆっくりと上に持ち上げ、マイクの横、テーブルの上へと置いた。  大きくて骨ばった手と、自分の手が、しっかりと指を絡め合わせている。  その確かな熱と結びつきを、隠すことなく無数のフラッシュの下へと晒した。 「私たちは、もう過去の嘘には縛られません。……今、ここにあるものがすべてです」  言い切った瞬間、肺の底に溜まっていた重たい泥のような空気が、すべて外へと抜け出していくのを感じた。  冷や汗で濡れていた背筋が、不思議と力強い熱を帯びている。  恥や恐怖は、もうどこにもない。  あるのは、自分の足で立ち、自分の人生を自分の言葉で語り切ったという、揺るぎない強さだけだった。  最前列の美咲と拓也の顔から、完全に冷笑が消え失せていた。  美咲は赤く塗られた唇を震わせ、何かを言い返そうとしているが、言葉が出てこないのか、金魚のように口をパクパクと動かしているだけだ。  拓也に至っては、テーブルの上に置かれた繋がれた手から目を逸らし、居心地悪そうに丸まった肩をさらに縮めている。  彼らが振りかざしていた「被害者という正義」の刃は、隠さないという覚悟の前に、あっけなく砕け散っていた。  だが、記者たちの追及がそれで終わるわけではなかった。  中段の席から、鋭い声が飛んでくる。 「茅野さん! 始まりが契約だったことは認められました。では、現在の関係はどうなのですか!」  記者がボイスレコーダーを握りしめ、身を乗り出す。 「九龍家の新当主の婚約者という立場は、今もその『月額三百万円の契約』の延長線上にあるということですか!? 契約期間が終われば、関係を清算するつもりなのですか!」  別の記者が続く。 「九龍湊氏は、この事実をどう受け止めているのですか! ご自身の意思で契約を持ちかけたとはいえ、現在のこの騒動について、CEOとしての見解を伺いたい!」  容赦なく浴びせられる質問の波。  それに答えるべく、再びマイクに顔を寄せようとした、その時だった。  ガタッ、と。  隣で革張りの椅子が押し下げられる、重い音が響いた。  視界の端で、濃紺のスーツがゆっくりと立ち上がる気配がする。  湊が、繋いでいた手を優しく解き、自らの前に置かれたマイクの軸を、その大きな手で静かに引き寄せた。  ホールの喧騒が、潮が
last updateLast Updated : 2026-06-02
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第453話 契約を持ちかけた男

 静まり返ったホールに、金属同士が擦れる微かな音が響いた。  立ち上がった濃紺のスーツの気配。引き寄せられたマイクの軸に、大きな手が添えられている。  無数のカメラレンズが、一斉に向きを変えた。フラッシュの白い光が、彫りの深い横顔を滝のように照らし出し、壇上の水差しの水面を激しく揺らしている。  吐く息の音すら聞こえそうなほどの静寂の中、湊の唇がゆっくりと開かれた。 「……先程の証言や報道について、九龍グループ代表としての見解を述べます」  低く、地を這うようなバリトンの響き。スピーカーを通したその声は、会場の隅々の空気をビリビリと震わせるような重さと密度を持っていた。 「茅野朱里の口から語られた通り、私たちの関係は、金銭を介した契約から始まりました」  シャッター音が、一瞬だけ止まる。 「ここで、私自身の責任を明確にしておきます。……月額三百万円という報酬を提示し、偽装婚約の契約を持ちかけたのは、先程彼女が説明した通り、この私です」  CEO本人が契約の責任を引き受けると、ホールは先程以上の爆発的なざわめきに包まれた。  パイプ椅子が倒れる音。記者たちが身を乗り出し、一斉にマイクを突き出す。  最前列に座っていた美咲の赤い唇が、自ら非を認める湊の態度を信じられないというように半開きになり、隣の拓也はハンカチを握りしめたまま完全に固まっていた。 「九龍社長! それは、ご自身が彼女を金で買ったと認めるということですか!」 「どういう目的でそんな契約を!?」  怒号のような質問の礫を、湊は片手を軽く上げるだけで制した。  その圧倒的な威圧感の前に、記者たちの声がスッと引いていく。 「当時の私は、九龍という血の呪縛と内部抗争の中で、足場を固めるための強固な『盾』を必要としていました。一族の干渉を跳ね除け、誰の紐付きでもない、完全にコントロール可能な偽りの花嫁を」  湊の言葉が、冷徹な響きを持ってホールを満たしていく。 「その時、式場の前で偶然出会ったのが、絶望の淵に立たされていた彼女でした。……私は、彼女の傷と、見栄を張りたいという弱さにつけ込み、月額三百万円という金額で『九龍の婚約者』という役割を演じるよう強要した。……打算と計算で動いていたのは、他でもないこの私です」  隣に立つ湊の横顔を見上げる。  冷たい照明の光の下で、その
last updateLast Updated : 2026-06-03
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第454話 生涯を共にする人

 美咲の言葉は、もう誰の耳にも届かない。記者たちの興味はすでに、美咲たちが持ち込んだ「復讐劇」というチープなシナリオから、九龍グループCEO自らが仕掛けた「偽装婚約」という巨大なスキャンダルへと完全に移っていた。  湊は、マイクを握る手に少しだけ力を込めた。 「始まりは、確かに冷たい契約書一枚でした。血も涙もない、ただの利害の一致。……ですが」  湊の視線が、ふとこちらへと向けられた。  その漆黒の瞳の奥に、いつかアパートの狭いキッチンで向けられたような、不器用で、けれど火傷しそうなほどの熱が灯っているのを見た。 「その偽りの関係の中で、私という人間を根底から救い上げたのは、他でもない彼女でした」  ホールが再び静まり返る。 「九龍の重圧に押し潰されそうになっていた夜、彼女は温かいコーヒーを淹れてくれた。一族の誰も信じられなかった私に、真っ直ぐな言葉で怒り、そして笑いかけてくれた。……契約という枠組みの中で、彼女だけが、唯一の呼吸ができる場所だった」  湊の声に、微かな震えが混じった。それは、完璧なCEOとしての仮面の下から覗く、生身の一人の青年の声だった。 「契約の終了日が近づくにつれ、私は恐れました」  湊の言葉が、マイクを通じて真っ直ぐに胸の奥へと飛び込んでくる。 「この関係が終われば、二度とこの手を握れなくなることを。……私が、この偽物の関係を本物にしたくて、手放したくなくなったのです。契約関係を清算し、本当の意味で人生を共に歩んでほしいと願ったのは、私の方です」  私は椅子から立ち上がり、彼の隣へ並んだ。  湊は、マイクからゆっくりと口を離した。  そして、私の前に立って庇うのではなく、一歩横へと動き、肩を並べるようにして立ち直した。  大きな手が、私の冷たくなっていた手をしっかりと握り込む。  指と指が隙間なく絡み合い、岩のように硬く、確かな熱が流れ込んできた。 「茅野朱里は、私を救った女性であり、共に九龍を立て直した人生の共同経営者であり……私が生涯をかけて愛し抜く、未来の妻です。過去がどれほど歪なものであったとしても、今ここにある絆と、これから築き上げる未来は、揺るぎない本物だ」  フラッシュの光が、絡み合った二人の手を容赦なく照らし出す。  胸の奥底で燻っていた、過去への恥じらいや、美咲たちへの恐れが、その熱に
last updateLast Updated : 2026-06-03
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第455話 仕事への糾弾

「美談にすり替えないでください、九龍社長!」  鋭い声が、ホールの空気を切り裂く。 「どれだけ綺麗事を並べても、始まりが『お金で結ばれた偽装』だったという事実は消えません! そもそも、茅野朱里さんはブライダル業界の人間でしょう!」  記者の目が、血走ったようにこちらを睨み据えた。 「一生に一度の結婚を演出する立場の人間が、自らの見栄と復讐のために、金銭で偽の婚約をでっち上げた。これは、ブライダルという仕事そのものへの冒涜ではないですか!? これまで担当してきた顧客たちを、根底から裏切る行為だ!」  その言葉が、鋭いナイフのように心臓に突き刺さった。  呼吸が、一瞬だけ止まる。  結婚という儀式の尊さ。それに人生を懸けてきたという誇り。  それを自らの行いで汚してしまったという事実は、どれだけ湊に愛されようとも、決して消えることのない罪だった。 「そうよ! その通りよ!」  最前列で息を吹き返した美咲が、甲高い声で叫んだ。 「人の幸せをプロデュースするだなんて、どの口が言えるの! 自分の結婚すらお金で捏造するような女に、誰が一生に一度の式を任せたいと思うのよ! あんたなんて、この仕事をする資格なんてない!」  フラッシュが連続して焚かれ、視界が白く点滅する。  記者たちからの同調するような声が、さざ波のようにホールに広がっていく。 「茅野さん、顧客に対してどう責任を取るつもりですか!」 「この事実を知った新郎新婦たちは、どう思うでしょうか!」  浴びせられる糾弾の嵐。  繋いでいた湊の手に、ぎゅっと力を込める。  湊が庇おうと口を開きかけた、その時だった。  バンッ!!  ホールの最後方。重厚な二枚開きの扉が、壁に激突するほどの凄まじい音を立てて開け放たれた。  怒号のようなシャッター音も、記者たちの追及も、そのあまりの衝撃音に一瞬でピタリと止む。  全員の視線が、一斉に後方へと向けられた。  開け放たれた扉の向こう。  そこには、冷たい冬の空気と共に、何十人もの人影が立っていた。  フラッシュの残像でチカチカする視界の中、先頭に立つ一人の女性の姿が、鮮明に浮かび上がる。 「……いいえ、そんなことは絶対にありません!」  マイクを通していないにも関わらず、ホールの隅々にまで響き渡る、凜とした、怒りに満ちた声。  
last updateLast Updated : 2026-06-03
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第456話 花嫁たちの来訪

 開け放たれた重厚な二枚扉の向こうから、冷たい冬の空気がホールへと流れ込み続けていた。  暖房と人いきれで淀んでいた空気が掻き回される。扉の衝撃音に遮られた質問は途絶えたままで、怒号のようなシャッター音も、まだ戻らない。  後方へ向けられた無数のカメラレンズが、進み出る一団を追う。  フラッシュの白い残像でチカチカと明滅する視界の中、レッドカーペットの端に立つ何十人もの人影が、逆光の中に黒いシルエットとして浮かび上がっていた。 「そんなことは絶対にありません」――先ほど響いた声の主が、光の中へ進み出る。  マイクを通さず、広大なホールの隅々にまで届いた声の余韻。  聞き覚えのある、芯の通った凜とした響きに、思わず息を呑む。  足元から伝わるリノリウムの硬い振動。  幾多の靴音が、レッドカーペットを踏みしめながら、迷いのない足取りで壇上の方へと向かってくる。  記者たちが戸惑いながら道を開けると、照明の下にその姿がはっきりと現れた。  先頭を歩いていたのは、薄手のベージュのコートを羽織った若い女性だった。  隣には、スーツ姿の背の高い男性がしっかりと手を繋いで寄り添っている。  その顔を見た瞬間、心臓の奥がドクンと大きく跳ね、マイクの金属軸を握る指先から力が抜けそうになった。  ――沙也加さん。  一年半前、私が『Felice Luce』で担当した新婦だった。  彼女の後ろには、さらに見覚えのある顔が続いている。  三ヶ月前に式を挙げたばかりの夫婦。春に担当した家族。そして、制服姿のまま駆けつけてきたような、『Felice Luce』で共に働く同僚や後輩スタッフたちの姿まであった。  総勢二十名ほどの集団が、記者たちの最前列のすぐ後ろで立ち止まる。 「ちょっと、何なのよ……部外者が勝手に入ってきて!」  最前列に座っていた美咲が、甲高い声を上げて立ち上がった。赤いリップを塗った口元が、苛立ちでヒクヒクと引き攣っている。  拓也も状況が呑み込めないのか、椅子に半ば腰を浮かせたまま、きょろきょろと周囲を見回していた。  進行役のスタッフが慌てて駆け寄ろうとするのを、湊が片手を軽く上げて無言で制した。  沙也加が、前に出る。  大勢の記者とカメラに囲まれ、肩が微かに震えているのが見えた。それでも彼女は、真っ直ぐに壇上のこちらを見
last updateLast Updated : 2026-06-04
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第457話 一針ずつの証言

 言葉を紡ぐ沙也加の瞳に、うっすらと涙が浮かんでいる。 「茅野さんは、夜を徹してアトリエを駆け回り、自らの手で、破れたレースを一針一針縫い直してくれました。……翌朝、完璧に修復されたドレスを持ってきてくれた時、茅野さんの指先には針で刺した傷が無数にあり、絆創膏が貼られていました」  胸の奥が、熱い塊で塞がれるような感覚に陥る。  あの夜のことは、今でも鮮明に覚えている。指先から血を流しながら、這いつくばるようにしてドレスの裾を縫い合わせた。睡眠時間は一分もなく、ボロボロの状態で迎えた朝。  でも、ドレスに袖を通した沙也加が鏡の前で流した嬉し涙を見た瞬間、すべての疲れが吹き飛んだのだ。 「そんな人が……自分の担当する花嫁の幸せのために、文字通り血を流して奔走してくれるような人が、ブライダルの仕事を冒涜しているはずがない!」  沙也加の叫びに、隣に立つ夫が深く頷き、その肩をそっと抱き寄せた。 「そうです!」  沙也加の後ろから、別の新郎が進み出て声を上げた。 「私の時は、両家の親族間で深刻なトラブルがあり、式の中止まで考えました。しかし茅野さんは、何日も両家に足を運び、頭を下げ、私たちの思いを代弁してくれた。……茅野さんがいなければ、私たちが今こうして夫婦として笑い合っている未来はなかった。茅野さんは、ただのプランナーじゃない。私たちの人生の恩人なんです!」 「私たちもです!」「茅野さんのおかげで、最高の式になりました!」  集まったかつての顧客たちが、次々と声を上げ始める。  ホールの中に、悪意の塊だった週刊誌の追及を洗い流すような、熱を帯びた波が広がっていく。  記者たちのノートを取る手が止まり、その顔に明らかな戸惑いと、事態の反転を感じ取る色が浮かび始めた。  視界が、急激に滲み始める。  マイクの金属軸を握る指先から、ポタポタと透明な水滴が落ちていくのが見えた。  声が出ない。  必死に築き上げてきた自分の仕事。  九龍という巨大な看板の前に立てば、ちっぽけで無力だと思っていた自分の過去が、これほどまでに強固な盾となって、自分を守りに来てくれたのだ。  椅子に座り直すと、湊も隣へ腰を下ろし、テーブルの下で震える手をぎゅっと包み込んでくれた。  湊の横顔を見上げると、その漆黒の瞳は真っ直ぐに花嫁たちを見据え、誇らしげに、そし
last updateLast Updated : 2026-06-04
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第458話 消せない仕事の日々

 美咲は記者たちに向かって腕を振り回し、必死に同意を求めようとする。  だが、記者たちの目はもはや冷ややかだった。カメラのレンズは、喚き散らす美咲の醜悪な姿を、ただの哀れなノイズとして記録している。  拓也に至っては、周囲の空気の明らかな変化を察知し、美咲の服の裾を引っ張って「もうやめろ」と小声で制止しようとしていた。  沙也加が、美咲の方を向き、一歩も引かずに見下ろした。 「……お金? 私たちが、一生に一度の結婚式を守ってくれた恩人を、お金なんかで売るはずがないでしょう」  沙也加の静かな、しかし氷のように冷たい声が、美咲の喚き声を一刀両断する。 「私たちは、ニュースを見て自分の意志でここに来ました。……あなたたちみたいに、人の幸せを平気で踏みにじり、お金と嫉妬のために他人の過去を売り飛ばすような人間には、一生わからない感情でしょうね」  美咲の真っ赤なリップが、ヒクヒクと無様に引き攣った。  言い返そうと口をパクパクさせるが、音にならない空気だけが漏れる。ハイヒールがリノリウムの床を意味もなく擦る、キュッという不快な音だけが響いた。 「茅野チーフの仕事を冒涜しているのは、あなたたちです!」  今度は、サロンの後輩スタッフが、列をかき分けて前に出た。 「チーフは、自分のことより常にお客様を優先する人でした。……恋人と親友に裏切られて一番辛い時期でさえ、サロンでは絶対にお客様の前で笑顔を絶やさなかった。裏の休憩室で、一人で泣きながら冷たいお弁当をかき込んでいたのを知っています! それでも、お客様の前では完璧なプランナーだったんです!」  後輩の女の子の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちる。 「そんなチーフの真っ直ぐな生き方を、お金で買われたなんて侮辱するの、絶対に許しません!」  胸の奥底に溜まっていた、黒く重たい泥のような澱。  拓也と美咲に裏切られ、一人で泣いていたあの頃の孤独と屈辱。  それが今、彼女たちの温かい言葉の熱に溶かされ、とめどない涙となって頬を伝い落ちていく。  顔を覆うこともできず、ただ流れるままに任せた。  私の仕事は、私の人生は、決して嘘なんかじゃなかった。  偽りの契約から始まった恋だったかもしれない。  見栄と虚勢に塗れた最低のスタートだったかもしれない。  でも、私が血の滲むような思いで積み
last updateLast Updated : 2026-06-05
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第459話 姉が歩み出る

 湊の言葉が落ちた瞬間、ホール全体が完全な沈黙に包まれた。  もはや、誰も「契約」という言葉を口に出して追及する者はいなかった。  真実の重みが、週刊誌の作り上げた薄っぺらい悪意のスキャンダルを、完全に押し潰したのだ。  世論が反転していく空気を、肌で痛いほどに感じる。 「でも……でも契約は事実じゃない!」  静まり返ったホールで、美咲の往生際の悪い金切り声が、場違いに響き渡った。 「お金で騙した事実は消えないわよ! こいつは月額三百万円で雇われた女なのよ! 綺麗事で誤魔化さないでよ!」  美咲は髪を振り乱し、週刊誌を床に叩きつける。  拓也はすでに顔面を蒼白にし、席から立ち上がって逃げ出すタイミングを図っているようだった。  その時だった。  カツン、カツン、カツン。  ホールの下手側、ステージ袖の薄暗がりから、硬いヒールがリノリウムの床を叩く、一定のリズムを持った足音が響き始めた。  全員の視線が、音のする方へと吸い寄せられる。  黒いタイトスーツを一点の隙もなく着こなし、冷たい光を放つ銀縁眼鏡をかけた詩織が、分厚いファイルの束を腕に抱えて、ゆっくりと歩み出てきた。  その歩調には、獲物を完全に袋小路へと追い詰めた猟犬のような、絶対的な余裕が漂っている。 「……ええ。契約があったことは事実よ。誰もそれを隠そうとはしていないわ」  詩織は、マイクを通さない生声で、しかしホールの最後方まで届く通る声で言い放った。  美咲の目の前まで歩み寄り、ピタリと足を止める。 「でも、週刊誌に売られたあなたたちの『証言』とやらが、どこまで事実に基づいているかは……また別の話ね」  姉の横顔を見ているうちに、涙で滲んでいた視界が少しずつ戻ってきた。区役所で働く姉が、誰かの話を聞く時にも、こんなふうに相手の目を見ていたことを思い出す。今、ここに立っているのは九龍の役員でも弁護士でもない。私がうまく言葉にできなかった痛みを、ずっと傍らで聞いてくれた姉だった。  紙を押さえる指先が、ほんのわずかに白くなっている。平然として見えても、怒りをこらえているのだ。そのことに気づくと、私は膝の上の手を開き、ゆっくり息を吐いた。  詩織が、腕に抱えていた分厚いファイルの中から、一枚の書類を抜き出した。  中指で眼鏡のブリッジをクイッと押し上げる。その奥の瞳
last updateLast Updated : 2026-06-05
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第460話 机に置かれた証拠

 静まり返ったホールに、姉の靴音が途絶えたあとの余韻だけが残っていた。  一分の隙もない黒のタイトスーツ。その肩越しに、銀縁眼鏡が冷たい光を返すのが見える。詩織の視線は、美咲と拓也から一度も逸れなかった。  腕に抱えられた分厚いファイルを、姉は記者席の長机へ置いた。重い紙の束が、ドン、と低い音を立てる。乾いた空気に、インクと真新しい紙の匂いが混じった。  美咲は床へ落とした週刊誌を拾い上げた。今度は振り回すこともできず、胸の前で固く抱え込んでいる。  記者たちが左右に少しずつ身を引き、机のまわりに空間ができた。詩織は内容証明の控えを一枚抜き出し、見出しが読める向きに置く。送付先や請求に関する説明のため、隣には九龍側の弁護士が進み出た。会見前に姉と確認していた資料を、その手にも持っていた。  姉が示すのは、私たち家族が把握している事実。正式な法的説明は、この人が引き受ける。二人が言葉を交わして頷くのを見て、ようやくその役割が私にもはっきりした。  空調の微かな稼働音だけが耳に届く。机に並べられた書類から逃れるように、美咲の視線が何度も客席へ泳いだ。  詩織が最初の一枚を開くと、美咲の肩がビクッと跳ねた。 「な、何よこれ。法廷って……ただの脅しのつもり? 私たちは、実際にあったことを話しただけよ!」  赤いリップを塗った唇がヒクヒクと引き攣り、言葉の端々から明らかな動揺が漏れ出している。握りしめていた週刊誌が、細かく震えていた。  詩織は中指で眼鏡のブリッジをクイッと押し上げ、冷ややかな笑みを浮かべた。 「脅しではないわ。妹が黙っていると思った? あなたたちが週刊誌で話したことと、私たちが確かめた事実には食い違いがある。……今日は、こちらの話も聞いてもらうわ」  詩織は束の一番上にあった書類をめくり、記者たちにも見えるように向きを変えた。 「週刊誌『週刊東洋』の編集部名義から、あなたたち二人の指定口座に振り込まれた情報提供料。その額、計三百万円。送金日時は、記事が掲載される三日前の午後二時十五分。ご丁寧に、それぞれ百五十万円ずつ折半しているわね。……これのどこが『騙された被害者の悲痛な告発』なのかしら? ただの金銭目的のゴシップ売り飛ばしでしょう」  ホールに、ドッと大きなどよめきが走った。  先程まで美咲たちの証言を熱心にメモしていた記者
last updateLast Updated : 2026-06-06
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