All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 441 - Chapter 450

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第441話 契約花嫁の見出し

 一族の呪縛から解放され、ただの飾りではない実力で道を切り拓いた実感が、冷たい風に乗って心地よく全身を駆け抜けていく。  しばらく歩いた後、交差点の近くで待機していたハイヤーへと乗り込む。  ドアが重い音を立てて閉まり、街の喧騒が遮断される。  その静かな空間で、湊は再び私の手を引き寄せ、掌にそっと額を押し当てた。 「……お疲れ様。朱里」  その言葉は、何重もの誓約書よりも重く、深く、二人の絆を繋ぎ止めていた。◇ 翌朝。  冬の澄んだ空気を震わせるように、本邸の玄関にある新聞受けに重い束が落ちる音が響いた。  パジャマの上に厚手のカーディガンを羽織り、寝ぼけ眼をこすりながらリビングへ向かう。  テーブルの上には、湊がすでに淹れたコーヒーの深い香りが漂っていた。  ふと、昨夜から小刻みに震え続けていたスマートフォンの通知を思い出し、ロック画面をタップする。  画面が発する青白い光が、薄暗い部屋の空気を不自然に照らした。  ――視界に飛び込んできたのは、大手ニュースサイトのトップページ。  そこには、昨日、私たちが本社の会議室へ入る直前の、並んで歩く後ろ姿が、隠し撮りのような粗い画質でありながらもはっきりと映し出されていた。 『九龍グループ新CEO、波乱の再建。その影に潜む「契約花嫁」の真実』 『独占スクープ。茅野朱里氏と九龍湊氏の馴れ初めは、月額三百万円の偽装契約から始まった?』 『元婚約者・拓也氏、元親友・美咲氏の驚愕証言。「彼女は昔から虚飾と打算の塊だった」』  スワイプしようとした指先が、一瞬にして感覚を失ったように冷え固まった。  スマートフォンの画面が、自身の浅い呼吸で白く曇っていく。  先程まで心地よかったコーヒーの香りが、突如として泥のような重たい匂いに変わったような気がした。 「……朱里? どうした」  奥の部屋から湊が呼ぶ声が聞こえる。  手から滑り落ちそうになるスマートフォンを握り直す。  画面をスクロールすると、SNSのタイムラインには、事実と憶測が入り混じった無数の悪意が濁流のように溢れ返っていた。 『金で買われた花嫁』 『復讐のためにCEOを利用した女』 『九龍の玉座を狙う、契約終了後のシナリオとは』  せっかく自らの足で登りきったと思った坂の頂上で、背中から見えない巨大な手で奈落へと突
last updateLast Updated : 2026-05-28
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第442話 朝の週刊誌

 スマートフォンの液晶画面が放つ青白い光が、冬の早朝の薄暗いリビングを不気味に切り裂いている。  指先を滑らせるたびに更新されるSNSのタイムライン。そこには、数時間前まで抱いていたはずの、実力で道を切り拓いたという高揚感を一瞬で泥に沈めるような、毒々しい見出しの数々が躍っていた。  ――『九龍グループ、崩壊の先に待つのは「買われた花嫁」の支配か?』  ――『独占スクープ。CEO九龍湊、婚約者との始まりは月額三百万円の金銭契約』  ――『レンタル彼氏から始まった偽装工作。茅野朱里の驚愕の正体』  胃の奥を冷たい氷の塊で直接押さえつけられたような、鋭い不快感がせり上がってくる。  画面上の文字が、自身の浅い呼吸で白く曇っては消え、また新たな悪意を伴って浮かび上がる。  昨夜、湊と繋いでいた手のひらの温もりが、今は遠い異世界の出来事のように感じられた。 「……朱里」  背後から、低く、抑制された声が届いた。  振り返ると、そこには寝室から出てきたばかりの湊が立っていた。  着崩したシャツの襟元から覗く鎖骨が、窓から差し込む朝陽を浴びて鋭い陰影を落としている。  湊の視線は、震える指先が握りしめているスマートフォンへと向けられた。  その瞳の奥には、動揺よりも先に、研ぎ澄まされた刃のような冷徹な静けさが宿っている。 「……見たのか」 「……ええ。驚くほど、詳しく書いてあるわ」  口を開こうとすると、喉の奥がカラカラに乾いていて、声が掠れた。  スマートフォンの画面を湊に見せるように差し出す。  湊は画面を一瞥し、それから無造作にテーブルの上にあった自身のデバイスを手に取った。  流れるような指の動きで数回タップし、いくつかのニュースサイトを巡回する。 「……龍一郎の残党か、あるいは情報のリークで一儲けしようと企む輩の仕業だな」  湊の声に、感情の起伏はない。だが、デバイスを握りしめる右手の指先が、白く変色するほど強く力んでいるのを、すぐ傍らで見逃すことはできなかった。  バタン、と。  玄関の重厚な扉が開閉する音が静かな邸内に響き、荒々しい足音が廊下を駆けてくる。 「兄貴! 朱里ちゃん! 起きてるか!?」  リビングに飛び込んできたのは、息を切らした征司だった。  手には、駅の売店で買ってきたばかりと思われる、インクの匂
last updateLast Updated : 2026-05-29
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第443話 悪意の再現記事

 ――そこには、あの因縁の結婚式の日のことが、悪意に満ちた物語として再構成されていた。 『……もともと、茅野氏は元婚約者に捨てられた惨めな女だった。その復讐のために、金で湊氏を雇い、嘘の恋人を演じさせたのだという。証言してくれたのは、かつて彼女を一番近くで見ていた親友の美咲氏と、元婚約者の拓也氏だ』  記事には、美咲と拓也の、どこか勝ち誇ったような、それでいて被害者を装ったコメントが並んでいる。 『朱里は昔から、自分のプライドを守るためなら平気で嘘をつく子でした。湊さんとの関係も、最初からお金が目的だと本人から聞かされました。正直、恐怖を感じていました(美咲氏談)』 『彼女は、僕たちの幸せを壊すために、湊氏という権力を利用したんです。僕が彼女を振った腹いせに、あんな見せかけの茶番を演じるなんて……。信じていた分、ショックは大きいです(拓也氏談)』 「……よく、ここまで平気で嘘を」  喉の奥から、絞り出すような声が漏れた。  拳を固く握りしめると、爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが走る。  美咲。拓也。  一度は完全に断ち切ったはずの、過去の呪縛。  それが、これほどまでに醜悪な形で、今の自分を、そして湊を汚そうとしている。  記事の隣には、あの日、湊が私と交わした「契約書」のコピーとされる写真まで掲載されていた。  月額三百万円という具体的な金額。  期間を定めた契約関係。  そして、「恋人役」としての報酬。 「……契約書の実物が流出しているわけではないな。これは、証言を元に作成された精巧な合成か、あるいはメモ書きの再現だ」  湊が、紙面をなぞる指を止め、冷静に分析する。 「だが、世間からすれば、本物かどうかなんて関係ない。月額三百万円という具体的な数字と、CEOが女を金で買ったという見出しさえあれば、それは真実として消費される」 「……私のせいね、湊」  足元が、崩れ落ちていくような感覚。 「私が、復讐なんていう浅ましい動機であなたを巻き込んだから。あの時、契約なんていう形であなたを繋ぎ止めたから……」 「朱里」  湊の強い手が、肩に置かれた。  上質なシャツ越しに伝わるその指先の熱が、全身の震えを無理やり押さえ込むように伝播してくる。 「顔を上げろ。……あの日、あの場所で僕を選んだのは君だが、その契約にサインし、
last updateLast Updated : 2026-05-29
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第444話 逃げないための会見

 詩織の声は、いつになく鋭利で、冷徹な響きを帯びていた。 「龍一郎を倒して、一族の血の問題が解決したと思った矢先に、これよ。……相手は龍一郎のような巨悪じゃない。正義の味方(ヒーロー)を叩いて楽しみたい、顔の見えない大衆と、その欲望に餌をやる週刊誌よ。……ある意味、龍一郎より厄介な相手ね」  詩織はリビングのソファに腰を下ろすと、湊を真っ直ぐに見据えた。 「湊さん。征司さんから聞いたけれど、広報部は早く声明を出したいそうね。……ただの『否定』では済まない。何しろ、契約そのものは……存在していたんだから」  室内に、重苦しい静寂が満ちる。  冬の乾燥した空気が、皮膚をチリチリと焼くような感覚。  嘘ではないのだ。  始まりは確かに、金銭による契約だった。  復讐のために偽の恋人を求め、やがて湊と月額三百万円の婚約者契約を結んだ。  その歪な土台の上に、今の愛が積み上げられていることは、紛れもない事実だった。 「……否定はしない」  湊が、静かに口を開いた。  その言葉に、征司が「兄貴、正気か!?」と声を上げる。 「契約があったことを認めるのは、世間の餌食になるようなもんだぜ! あの週刊誌のハイエナどもが、待ってましたとばかりに食いついてくる!」 「認めた上で、上書きするんだ。……だが、その前にやるべきことがある」  湊は、視線を私へと戻した。 「朱里。……君を、再びあの二人と同じ土俵に立たせることになるかもしれない。……耐えられるか」  湊の手が、頬に添えられる。  親指の腹が、皮膚を優しくなぞる。  その不器用な愛おしさが、胸の奥で燻っていた恐怖を、静かな覚悟へと変えていった。 「……逃げないわ。私が始めた物語だもの。私が終わらせなきゃ」 「決まりね」  詩織がタブレットを叩き、顔を上げた。 「広報に伝えてもらうわ。明日の午後なら、本社の会場を使えるそうよ。湊さん、その日程で進めていい?」  湊が頷くと、征司は電話を手に廊下へ出た。姉は私の隣へ座り直し、膝の上で組んでいた私の手をほどいた。指先が冷えていることに、その時初めて気づいた。 「契約のことも、話すのね?」  私は姉を見て尋ねた。 「ええ。契約があったことも含めてね。……ただし、ただの告白で終わらせるつもりはないわ。渡せる資料は、弁護士にも確認してもらって
last updateLast Updated : 2026-05-30
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第445話 最前列の二人

 不意に、詩織が険しい表情でこちらへと歩み寄ってきた。 「……湊さん、朱里。予定外の事態よ」 「どうした」  湊が、結んでいたタイを指先で整えながら振り返る。 「……あいつらが、来ているわ」  詩織の言葉に、心臓が大きく跳ね上がった。 「……あいつらって、美咲と拓也?」 「ええ。週刊誌側の『重要証人』として、会見場の最前列に招待されているわ。……カメラの前で、朱里の嘘を暴き、自分たちが被害者だと訴えるつもりね。……会見が始まれば、一気に修羅場になるわよ」  パンプスの底から、冷たい床の感触が伝わってくるような錯覚。  あの日。  シャンパンゴールドのドレスで招待客の冷笑にさらされるのを恐れ、ホテルの入口で立ち尽くしていた、あの日の自分が、鏡の向こうからこちらをじっと見つめているような気がした。  ――まさか。  人生には三つの坂がある。  上り坂、下り坂。そして、三つ目の。  ようやく辿り着いた幸福の頂で、最悪の脚本家が再び筆を執ったのだ。 「……大丈夫よ」  自分でも驚くほど、声は震えていなかった。 「あの日とは、違うもの。……私の隣には、もう、偽物じゃないあなたがいてくれる」  湊の手を取り、その指を深く絡ませる。  湊は何も言わず、ただ私の手を、骨が軋むほどの力で強く握り返してくれた。 「……お時間です」  スタッフの低い声が響く。  重厚な二枚開きの扉が、吸い込まれるような音を立てて開き始めた。  真っ白なフラッシュの奔流。  怒号のようなシャッター音。  その光の渦の中心に、こちらを汚物でも見るような目で睨みつける、美咲と拓也の姿が見えた。  私は、湊の腕に手を添え、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、その戦場へと足を踏み入れた。  冬の朝陽よりも残酷な光が、私たちのすべてを白日の下に晒そうと、牙を剥いて待ち構えていた。  一歩。また一歩。  革靴が床を叩く乾いた音が、ホールの静寂を上書きしていく。  湊の隣で、私は今、かつてないほどの静かな闘志が、自身の内側で静かに燃え上がるのを感じていた。  フラッシュの残像が、網膜に焼き付く。  その光の向こう側で、美咲が嘲笑うように口角を上げたのが見えた。  会見場の最前列。  マイクが、私たちの声を、そして真実を待っている。  一陣の冷たい風が、
last updateLast Updated : 2026-05-30
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第446話 光の中の証言者

 背後で、重厚な二枚開きの扉が音を立てて閉じられた。  壇上へ向き直った瞬間、数百台のカメラから放たれる真っ白なフラッシュの奔流が、網膜に鋭く突き刺さる。カシャカシャという、無数の乾いたシャッター音が幾重にも重なり合い、ホールの高い天井に反響して巨大な唸りとなって鼓膜を揺さぶった。  足元から伝わるリノリウムの床の硬い感触が、一歩ごとに膝を伝って全身を強張らせていく。段差の手前で、湊の手のひらが私の右腕にそっと添えられた。上質なダークネイビーのウール生地越しでも、そこから発せられる岩のような熱量だけが、今この場に立っているという確かな感覚を繋ぎ止めていた。  壇上のレッドカーペットに足を踏み出し、客席を見渡す。眩い照明に照らされた記者会見場の最前列に、周囲の空気から明らかに浮き上がった一団が陣取っていた。週刊誌側に「重要証言者」として招かれたであろうその顔ぶれを見た瞬間、心臓の奥がドクンと大きく波打つ。  派手な原色のワンピースに身を包み、赤すぎるリップを吊り上げてこちらを睨みつける美咲。その隣で、サイズの合っていないブランド物のジャケットの襟を落ち着かなげに弄りながら、卑屈な笑みを浮かべる拓也。  かつて親友と呼び、恋人と呼んでいた二人が、今度は真実を告発する被害者のような顔をして、この神聖な会場に紛れ込んでいる。  鼻腔を突くのは、真新しい紙の束の匂いと、大勢の人間が密集して吐き出す湿った熱気。湊と共に壇上の中央に置かれたマイクの前へと進み、椅子を引く微かな金属音を立てて着席した。 「これより、九龍グループ代表・九龍湊、ならびに婚約者・茅野朱里による緊急記者会見を開始します」  進行役の事務的な声が響く中、最前列の美咲が、待ってましたとばかりに片手を高く挙げた。 「質問いいですかぁ!?」  美咲の、耳の奥をひっかくような高音がスピーカーを通して増幅される。周囲の記者たちが一斉にざわめき、カメラのレンズが美咲の歪んだ口元と壇上の表情の間を忙しなく往復した。 「茅野朱里さん、久しぶり。……ううん、『九龍の夫人候補』様って呼んだほうがいいのかな? 随分と偉くなったものね」  美咲は立ち上がり、手に持っていた週刊誌を誇示するように掲げた。 「ここにいる皆さんに、本当のことを教えてあげなよ。あんたが湊さんと出会ったのは、運命なんかじゃない。私と拓
last updateLast Updated : 2026-05-31
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第447話 来なかった男の声

「……朱里、君は昔からそうだった」  拓也が、美咲に促されるようにしてふらふらと立ち上がった。ハンカチで額の汗を拭うその手は、隠しきれないほど震えている。 「自分のプライドを守るためなら、平気で嘘を重ねる。あの日、式場で君が連れてきた『彼』を見た時、僕は自分の至らなさを責めた。でも、それは全部君が金で買った『演出』だったんだね。……君が彼を雇って、僕たちを辱めるための資金を用意していたのは、僕も美咲もこの耳ではっきりと聞いている。君がやっているのは愛じゃない。ただの、金を使った醜い報復だ」  フラッシュの瞬き。拓也の言葉の一つひとつが、あの日、シャンパンゴールドのドレス姿で、惨めな思いをすることを恐れていた記憶を鮮烈に呼び覚ます。招待客たちの冷たい嘲笑。背中から氷を流し込まれたような、あの日の孤立感。  畳み掛けるように、中段に座っていた週刊誌の記者が立ち上がり、録音レコーダーをマイクに向けた。 「茅野さん、証言者は彼らだけではありません。我々は、あなたが湊氏を捕まえる直前、ネットの『レンタル彼氏サービス』を利用していた事実も掴んでいます。……当時のキャストの音声を流します」  スピーカーから流れてきたのは、軽薄な、しかし確信に満ちた若い男の声だった。 『ああ、あのネット予約、よく覚えてますよ。時給五万のVIPコースで、元彼の結婚式に同伴して非の打ちどころのない彼氏を演じてほしいって依頼でした。俺、前日の酒が残ってて当日寝ブッチしちゃって、結局行かなかったんですけど……。まさかその直後に、式場の前で本物のCEOを捕まえて代役に仕立て上げるなんてね。執念っていうか、もはやホラーですよ』  会場の空気が、一段と重く、粘りつくような嫌悪感に塗り替えられていく。  あの日の記憶。充電の切れたスマートフォンを握りしめ、約束の時間を過ぎても現れないレンタル彼氏を待っていた自分。エントランスの大理石の柱に寄りかかり、屈辱で視界が滲んでいたあの瞬間。  美咲が鼻で笑い、拓也が憐れむような目を向けてくる。 「聞きました? 皆さん。彼女は最初から、誰でも良かったんです。自分のプライドさえ守れれば、相手がホストだろうがネットのレンタル男だろうがね。……それが、たまたま式場の前で九龍湊っていう『最高の獲物』にすり替わっただけ。あの日、あんたが彼を『レンタル』しようとし
last updateLast Updated : 2026-05-31
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第448話 事実を引き受ける

 あの日。  そこに現れた、圧倒的な存在感を放つ湊。 「遅い!」と怒鳴りつけ、その腕を力任せに掴んだ自身の無謀さ。  湊の指が、テーブルの下で指の間に深く絡み付いた。  横を見ると、湊は微動だにせず、ただ静かに前を見据えている。隣から漂う、雨上がりの森のような澄んだ気配が、わずかに呼吸を楽にしてくれた。  湊は、私が自分自身の力で、この過去という名の痛みを登り切るのを待っている。その信頼の重さが、折れそうだった背筋を強引に引き起こした。  美咲の、真っ赤なネイルを施した指先が、膝の上で忙しなく踊っている。拓也は鼻を啜りながら、自らが作り上げた「騙された被害者」という役割に陶酔していた。  この二人は、自分たちが犯した最低の裏切りを、過去の「嘘」を暴くことで帳消しにしようとしている。  顔を上げ、冷たい照明の光をその瞳に真っ向から受け止めた。  壇上の水差しの水面に、フラッシュの瞬きが反射して激しく揺れている。  沈黙が、ホールを支配する。  指先が、マイクの金属製の軸に、ゆっくりと触れた。  自身の荒い呼吸がマイクを通して会場全体に響き渡る。その音さえも、今は身体を支える鼓動の一部のように感じられた。 「……茅野朱里さん。答えてください」  記者の催促が、鋭く空間を裂いた。  美咲が、勝ち誇ったように唇を歪める。  隣に座る湊の掌の熱を最後にもう一度だけ確かめると、ゆっくりと唇を開いた。 「……ええ。お答えします」  自身の声が、スピーカーを通じて会場の隅々まで染み渡っていく。 「美咲さん、拓也さん。あなたがたが仰ったこと、そして先程の音声の証言は……」  会場の全員が、固唾を呑んで次の言葉を待った。カメラのシャッター音が、一瞬だけ止まる。 「……概ね、事実です」  その一言が落ちた瞬間、ホールは爆発したような騒然とした空気に包まれた。  美咲が「ほら見たことか」と声を上げ、記者たちが一斉に席を立ち、マイクを突きつける。  湊の手が、重ね合わせた手をさらに強く握りしめた。  目は逸らさなかった。  あの日の冷や汗の感触も、屈辱も、そして湊の腕を掴んだ時の驚くほどの硬さも。すべてを自分のものとして引き受けるための、長い沈黙。  本当の戦いは、ここから始まる。  認めた言葉を、ここで取り消すことはできない。けれど、
last updateLast Updated : 2026-05-31
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第449話 告白の余波

「概ね、事実です」――自分の声の余韻が、まだ耳の奥に残っていた。  その短い返答を、それぞれに解釈した叫びが重なっていく。  張り詰めていたホールの空気は、いったん弾けると、容易には静まらなかった。  記者たちが一斉にパイプ椅子を蹴立てて立ち上がり、録音用のICレコーダーや黒いマイクを、壇上へと力任せに突き出してくる。怒号のような質問の礫が飛び交い、無数のフラッシュが白い嵐となって視界を暴力的に塗り潰した。 「事実とお認めになるんですね!?」 「契約関係というのは本当だったと!?」 「九龍グループの当主を、復讐のための道具として使ったということですか!」  最前列で、美咲が甲高い笑い声を上げた。 「ほら、見たことか! やっぱり全部嘘っぱちじゃない!」  美咲は隣に座る拓也の腕をバシバシと叩き、勝ち誇ったように赤いネイルの指先を壇上へと突きつけている。 「聞いたでしょ、拓也! こいつ、あんたに見栄を張るためだけに、見ず知らずの男を引っ張ってきたのよ! 惨めで滑稽で、お腹が痛いわ!」  拓也もまた、額に滲んだ汗をハンカチで拭いながら、大きく息を吐き出していた。その顔には、自分たちを脅かしていた見えない重圧から解放されたという安堵と、露骨なまでの優越感が浮かび上がっている。 「……信じられない。僕への当てつけのために、そこまでするなんて。九龍のCEOともあろう人が、こんな見栄っ張りの女の狂言に付き合わされているだけだったとはね。本当に、僕たちこそが被害者だよ」  拓也の言葉に、周囲の記者たちが色めき立ち、一斉にペンを走らせるシャカシャカという音が不快な羽音のように響く。  冷たく無機質な照明の光が、容赦なく全身を照らし出している。  喉の奥が砂を噛んだように乾き、奥歯がガチガチと鳴りそうになるのを、下唇を強く噛み締めて堪えた。  ずっと胸の奥底に隠しておきたかった、一番醜い過去。  見栄と、虚勢と、惨めな執念だけで動いていた、一番愚かな頃の自分。  それを今、何百台ものカメラの前で、自らの口で曝け出そうとしている。  テーブルの下で、膝の上に乗せられた湊の掌が、ぎゅっと力を込めてきた。  上質なダークネイビーのウール生地越しに伝わる、岩のように硬く、そして熱い感触。先日、温室のレンガを積み直した時にできた、指先の微かなざらつきまでが
last updateLast Updated : 2026-06-01
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第450話 始まりを語る

 真っ直ぐに、最前列で嘲笑を浮かべる美咲と拓也の目を見据えた。 「……あの日」  マイクに唇を近づけ、静かに言葉を紡ぎ始める。  声を発した瞬間、会場の喧騒が水を打ったようにスッと引いていった。残るのは、絶え間ないシャッターの機械音だけ。 「私は、美咲さんと拓也さん、二人の裏切りを知り、足元の地面が崩れ落ちたような気になっていました。恋人に裏切られ、一番信頼していた親友にまで裏切られた。……手の中に残っていたのは、ズタズタに引き裂かれた、ちっぽけなプライドだけでした」  フラッシュの光が網膜に焼き付く中、あの日々の記憶が、焦げ付くような匂いと共に鮮明に蘇ってくる。 「二人の結婚式に出席し、惨めな負け犬として笑われることだけは、どうしても耐えられなかった。だから私は、インターネットの『レンタル彼氏サービス』に縋りました。お金を払って、誰でもいいから、元恋人よりも遥かに魅力的な男を横に立たせ、見栄を張りたかった」  会場のあちこちから、呆れたようなため息や、衣擦れの音が漏れる。  美咲が、鼻でフンと笑う音が、マイクを通さずともはっきりと耳に届いた。 「でも、式の当日、手配したキャストは現れませんでした。スマートフォンの充電も切れ、パニックになっていた私の目の前に、偶然通りかかったのが……九龍湊さんでした」  視界の端で、隣に座る湊の気配を感じる。  湊は微動だにせず、ただ前を向いて言葉の続きを待っている。 「私は、初対面の湊さんを、手配したキャストだと完全に勘違いし、その腕を力任せに掴んで式場へと引っ張っていきました。……そして、後日、私が湊さんの素性と自分の勘違いを知った後も、私は自らの見栄を守り、彼に復讐の片棒を担いでもらうために……湊さんから提示された『偽りの花嫁』という条件を飲み、月額三百万円の報酬を伴う契約関係を結びました。……それが、私たち二人の始まりです」  告白が終わると同時、ホールは再び制御不能な熱狂に包まれた。  記者たちが口々に叫び、身を乗り出してくる。 「では、交際宣言も、これまでの振る舞いも、すべて金銭で結ばれたお芝居だったということですね!」 「九龍社長を利用していたという認識で間違いないですか!」 「そうよ! 全部嘘っぱち!」  美咲が立ち上がり、ホールの後方まで届くような大声で叫んだ。 「あんたは昔か
last updateLast Updated : 2026-06-01
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