Semua Bab 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Bab 481 - Bab 490

588 Bab

第481話 華枝の企画書

 湊の斜め後ろ、議決権を持たないオブザーバー席に腰を下ろす。婚礼部門の外部アドバイザー候補として、私の同席は事前に通知されている。それでも、膝の上で組んだ両手は、無意識のうちにきつく握りしめられていた。  正面に座る初老の男が、手元の資料を捲りながら、隣の役員とヒソヒソと囁き合っている。 『……婚礼事業のテコ入れとはいえ、なぜあのような小娘を同席させる』 『CEOの肝煎りだそうですよ。例の、スキャンダル騒ぎになった……』 『契約から始まった関係だろう? 九龍の正妻に据えるには、いささか家柄が……』  囁き声は、意図的にこちらまで届くように調整された、質の悪い嫌味だ。  古い血筋主義を掲げる、遠縁の親戚筋や旧反対派の役員たち。九龍龍一郎という大敵が去った後も、この一族にはまだ、時代錯誤な選民意識の残滓がこびりついている。  言い返しかけた言葉を飲み込み、私は微笑んだ。  ブライダルサロンで気難しい親族を相手にしてきた経験が、こういう時に役に立つ。どれだけ腹の底で煮えくり返っていようと、顔には一切出さない。プロの笑顔という名の鉄壁の仮面だ。 「――定刻だ。始めよう」  会議室の空気を一刀両断するように、湊の声が響いた。  ざわめきが波を打って静まる。  湊は手元のファイルを広げ、冷徹なCEOの顔で全員を見渡した。 「今日の議題は、婚礼事業の再建だ。数字は見ての通りだ。富裕層のキャンセルは先月比で倍、成約率も戻っていない。……九龍の名前だけで選ばれる時代は、もう終わった」  数字を突きつけられた役員たちが、気まずそうに視線を逸らす。紙を捲る音だけが、数秒遅れて室内に落ちた。 「この流れを変える。中途半端な手では足りない」  湊はそう言うと、テーブルの中央に置かれたプロジェクターのスイッチを入れた。  背後の巨大なスクリーンに、一枚のスライドが映し出される。  古びた和紙のような背景に、流麗な筆記体で記されたタイトル。 『Imperial Vows』 「これは……」  初老の役員が、目を丸くして身を乗り出した。 「数日前、旧館の書庫から出てきた企画書だ。秘書室の保管台帳にも残っている。筆跡も、華枝様の署名資料と照合済みだ」  湊の声に、微かな熱が混じる。 「発案者は、先代当主……九龍華枝」  会議室に、息を呑む音が響いた。
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第482話 最後のページの指名

「華枝様の遺志とはいえ……誰が音頭を取るのですか」 「婚礼部門の責任者は、皆、腰が引けております。この規模の改革です。失敗すれば首が飛びます」  矢継ぎ早に飛ぶ懸念の声。  湊は、一つ息を吐くと、スクリーンを指し示した。 「最後のページに、華枝様からの『指名』がある」  スライドが切り替わる。  そこには、たった二行の短いメモが書き殴られていた。 『この企画は、茅野朱里に任せなさい。  あの子は血筋ではなく、人の心で式を作れる子です』  ――え。  頭を、鈍器で殴られたような衝撃が走った。  自分の名前が、スクリーンに大きく映し出されている。  心臓が、早鐘を打つ。手足の先から一気に血の気が引き、次の瞬間にはカッと顔中が熱くなった。  華枝様が、私を。  あのお茶の産地を当て、掛け軸の意味を必死に読み解いた日。「度胸だけはあるようだね」と笑ってくれた、あの日。  華枝は、あの時からずっと、試していたのだ。ただの飾り物ではない、本物のプランナーとしての腕を。  もう尋ねることのできない人の字を、私は目で追った。あの日の言葉を思い返すと、感謝と寂しさが一緒にこみ上げた。 「なっ……馬鹿な!」  旧反対派の役員が、勢いよく立ち上がった。 「茅野朱里だと!? 彼女はたしかに現場の経験はあるかもしれない。だが、九龍の看板を背負う新規事業の責任者など、正気の沙汰ではない!」 「その通りだ。彼女はそもそも、契約から始まった関係だろう。世間ではまだ、CEOの愛人上がりだという目で見られている。格式が違いすぎる!」 「伝統ある九龍の婚礼を、どこの馬の骨とも知れない平民に任せるなど、華枝様もご乱心だったとしか思えない!」  会議室は、あっという間に怒号と非難の渦に包み込まれた。  投げつけられる言葉の一つひとつが、紙の端で指先を切るように、じわじわと痛みを残していく。  膝の上で組んだ手が、ガタガタと震え出す。  怖い。  これだけの声に囲まれて、何を言えば届くのだろう。膝の上の手をほどこうとしても、指が離れなかった。  華枝の想いは嬉しい。けれど、私にこの巨大な船の舵取りができるのだろうか。  呼吸が浅くなり、視界がチカチカと点滅し始めた、その時だった。  ドンッ、と。  湊が拳でテーブルを叩いた。  会議室のざわめきが、
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第483話 白鳥真琴の挑戦

 逃げちゃダメだ。  華枝が託してくれた企画。そして、湊がこれほどまでに信じてくれている。  ここで怯んでしまえば、本当にただの「CEOに守られるだけのお人形」になってしまう。  奥歯を噛み締め、ゆっくりと立ち上がる。  足の震えは、もう止まっていた。 「……お言葉ですが」  自分の声が、驚くほど冷静に、会議室の隅々まで通っていく。 「格式や家柄で、結婚式が成功するわけではありません。大切なのは、新郎新婦が何を誓い、ゲストに何を伝えたいのかを形にすることです。……私は現場で、何百組ものカップルを見てきました。その経験は、血筋よりも確かなものだと自負しております」  初老の役員が、顔を真っ赤にして睨みつけてくる。 「現場の小間使いと、事業の責任者は違う! 経営の何がわかるというのだ!」 「数字は、現場で積み上げた式の質が作ります。……やらせてください。逃げません」  一歩も引かずに、真正面から見据える。  会議室は、水を打ったような静寂に包まれた。  賛同の空気ではない。圧倒的な「異物」に対する、戸惑いと反発の沈黙。  このまま平行線を辿るかと思われた、その瞬間だった。  カチャリ、と。  秘書が小さく頭を下げ、扉の隙間から来客を告げた。白鳥ブライダルとの提携候補として、後半の議題から招かれていた人物らしい。だが、その登場は、あまりにもこちらの空気を読んだようなタイミングだった。  全員の視線が、入り口へと一斉に向く。  そこには、楚々とした白いスーツに身を包んだ、一人の女性が立っていた。  ツンとした、それでいてどこか高貴な百合を思わせる香水の匂いが、流れ込んできた風に乗って鼻腔をくすぐる。  完璧にセットされた黒髪、真珠のような白い肌。そして、その美貌に張り付いた、氷のように冷たく、挑戦的な微笑み。  旧華族系ブライダルブランド『Swan Bridal』代表。  かつて、湊の婚約者候補として名が挙がっていた女性。  白鳥真琴。  彼女は、コツ、コツ、とヒールの音を高く鳴らしながら、テーブルの端へと歩み寄った。  真琴は役員たちには目もくれず、真っ直ぐに私を見ていた。 「……随分と、熱のこもった演説でしたわね」  鈴を転がすような、けれどゾクリとするほど冷ややかな声が、部屋の空気を震わせた。 「現場の経験。人の
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第484話 サロンの品定め

 役員会議室の重苦しい空気を切り裂くように響いた、凛とした宣戦布告。  あの日、百合の香水と共に残された言葉が、まだ鼓膜の奥にこびりついている。  会議では、まず私が立ち上げを担い、正式な事業責任者はその実績を見て決めることになった。華枝様の指名を受け止めた以上、任された現場で答えを出すしかない。  数日後。  足を踏み入れたのは、都内の一等地に残る洋館を改装したプライベートサロンだった。  旧華族系ブライダルブランド『Swan Bridal』。その名にふさわしい、磨き上げられた寄木細工の床と、天井から下がるクリスタルのシャンデリアが、初夏の柔らかい日差しを反射して眩しく瞬いている。  用意されたベルベットのソファに腰を下ろすと、ふわりとダージリンの渋みと、焼き菓子の甘いバターの匂いが鼻先を掠めた。  隣に座る湊のスーツの袖が、そっと二の腕に触れる。上質なウール越しに伝わる高い体温が、ドレスの下で粟立とうとする肌を温めるように押しとどめていた。 「まあ。こちらが、湊様の……」  正面に座る着物姿の夫人が、扇子で口元を隠しながら、値踏みするように目を細めた。  サロンに集められているのは、政財界の重鎮を夫に持つ夫人たち。白鳥真琴が主催する、新作ドレスのお披露目を兼ねたお茶会という名目の、実質的な顔合わせの場だ。  夫人たちは穏やかに微笑んでいた。けれど、その目は私の顔から服へ、服から手元へと移り、なかなか離れなかった。 「茅野朱里と申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます」  膝の上で指先を重ね、一番綺麗に見える角度でゆっくりと頭を下げる。  ブライダルサロンで毎日繰り返してきた、完璧な営業スマイル。頬の筋肉を引き上げ、声のトーンをワントーン高く保つ。  顔を上げると、隣の夫人がティーカップの縁を指でなぞりながら、ふうとため息をついた。 「湊様も、随分と可愛らしいお嬢さんをお選びになったのねぇ。……華枝様も、さぞ驚かれたでしょうに」 「ええ、本当に。九龍家の奥様といえば、代々、それなりのお家柄の方ばかりでしたから。……現場でお仕事をされているなんて、新鮮ですわね」  言葉の端々に、チクリと刺さる棘。 『現場の仕事』。それはつまり、自ら汗水垂らして働く労働階級だという、遠回しな格下扱いだ。  隣で湊の手が止まった。カッ
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第485話 白薔薇のアーチ

 真琴が指を鳴らすと、控えていたスタッフが、数枚の分厚いパネルとタブレット端末をテーブルの上に広げた。 「実は今日、皆様にご意見を伺いたい案件がございまして」  パネルに映し出されたのは、一面を埋め尽くす真っ白な薔薇のアーチ。スワロフスキーのシャンデリアが何層にも重なり、光の海を作り出しているような、圧倒的な豪華さを誇る披露宴会場のパース図だった。 「来月、女優の佐倉レイナ様が挙げられる結婚式のプランですの。テーマは『クリスタル・スワン』。……佐倉様のご実家と、新郎様である代議士の御家系の格式に恥じないよう、最高級の白薔薇を三万本手配しております」  夫人たちから、ほう、という感嘆の溜息が漏れる。 「まあ、なんて美しい……」 「これなら、各界のVIPをお呼びしても見劣りしませんわね」 「白鳥さんのブランドらしい、本当に品のある空間だわ」  称賛の嵐の中、真琴はゆっくりとこちらに顔を向けた。  氷のように冷たい、挑戦的な視線が交差する。 「茅野さん。……現場のプロのお目に、このプランはどう映ります?」  サロンの空気が、一瞬にして静まり返った。  夫人たちの目が、面白がるようにこちらに突き刺さる。  どうせ、粗探しなんてできないでしょう。この完璧な空間美に、庶民の口出しする隙なんてないのだから。  そんな無言の圧力が、肌をジリジリと焦がす。  ゆっくりと息を吸い込み、目の前に広げられたパネルに視線を落とした。  たしかに、美しい。予算を度外視した、夢のような空間だ。写真映えという点では、これ以上のものはないだろう。  けれど。  タブレットの画面をスワイプし、会場の平面図と進行表のラフに目を通した瞬間、頭の中で『現場の時計』がカチリと音を立てて回り始めた。  装飾の配置。ゲストの動線。スタッフの動くスペース。  図面の上に、仮想の新郎新婦とゲストの姿が浮かび上がる。  プロとして何百回と繰り返してきた、脳内シミュレーション。 「……綺麗です。白薔薇の香りが会場に満ちて、写真も、きっと映えます」  ニコリと笑って前置きをする。  夫人たちが、つまらなそうに扇子を揺らした。「やっぱり、その程度の感想しか言えないのね」という空気が漂う。 「ただ」  テーブルの上のタブレットを指先で手前に引き寄せ、平面図の一点をトントンと叩
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第486話 図面の中の人の心

 真琴の口元の笑みが、わずかに強張った。  構わずに続ける。 「次に、親族席の配置です。新婦側のテーブルが、高砂の真正面、最も目立つ位置に設定されていますが……」  タブレットの画面を拡大する。佐倉様と実のお母様の長年の確執や、結婚への反対を伝えていた週刊誌の記事が頭をよぎった。けれど、私自身が味わったばかりだ。記事の言葉だけで、人の関係を決めつけてはいけない。 「お顔がよく見える席ですが、撮影中もずっと向かい合うことになりますね。この位置は、ご本人たちのご希望でしょうか」 「配置も含め、こちらにお任せいただいておりますわ」 「でしたら、一度ここに座って、見え方を確かめていただきたいです。新婦の一挙手一投足が見え、マスコミのカメラにも映りやすい席です。くつろいでお食事をするにも、人目が気になるかもしれませんから」  夫人たちの扇子が、ピタリと止まる。 「親族席を少し斜めにずらし、柱のそばの落ち着いた位置にする案もお見せしたいです。装花も、白薔薇にお母様の故郷の県花や、思い出の花を混ぜることができる。まずは、ご本人の好みを伺ってみたいです。……娘の晴れ姿を、人目を気にせず静かに見守れる場所を選んでいただくんです」  言葉を切って、真琴の目を見据える。 「それから、お色直しの動線です。この図面だと、控室へ行く途中でメインキッチンとバックヤードの交差点を通ります。料理の匂いも、スタッフの声も出ます。緊張している花嫁に、そこは通らせたくありません。手前の予備室を専用の通路として押さえた方がいいです」  一気に言い切った。  喉がカラカラに乾いていることに、今更気づく。  サロンの中は、水を打ったような静けさに包まれていた。  ティーカップから立ち上る湯気だけが、ゆらゆらと宙を舞っている。  誰も、言葉を発しない。  豪華な装飾や、目に見える『美しさ』にしか意識が向いていなかった空間に、泥臭いまでの『現実』を叩きつけた。  ドレスが引っかかる物理的なリスク。  親子の間にあるかもしれない、言葉にしにくい感情の逃げ場。  バックヤードの油の匂い。  結婚式は、絵画ではない。  生身の人間が動き、感情をぶつけ合い、泣いて笑って、数時間を過ごす『現場』なのだ。 「……なるほど」  重い沈黙を破ったのは、真琴だった。  彼女は伏せていた
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第487話 帰り際の囁き

「我慢を強いる結婚式に、本当の笑顔は生まれません」  即座に言い返した。  ここだけは、絶対に譲れない。 「花嫁が裾ばかり気にして歩いていたら。お母様が、カメラを気にして泣くのをこらえていたら。……どんなに綺麗な白薔薇も、ただの背景です」  膝の上で、きつく拳を握りしめる。 「私たちの仕事は、夢を見せて終わりではありません。夢みたいな一日を、ちゃんと笑って過ごしてもらうための土台を作ることです」  真っ直ぐに真琴の目を見つめ返す。  視線のぶつかり合い。  空気がビリビリと震え、火花が散るような錯覚。  真琴の口元から、完全に笑みが消えた。 「……素晴らしいお考えですこと」  数秒の睨み合いの後、真琴は静かにティーカップを手に取った。  カチャリ、とソーサーに置く音が、終了の合図のように響く。 「今日は、面白いご意見をいただけましたわ。……華枝様があなたを指名された理由、少しだけ見えた気がいたします」  褒められたとは、思えなかった。  真琴がカップへ目を落としてからも、私はまだ背筋を緩められずにいた。 「悪いが、次の予定がある。ここで失礼する」  隣で沈黙を守っていた湊が、唐突に立ち上がった。  時計を見る仕草すら、計算されたように優雅だ。  彼は差し出した大きな手で、こちらの腰をそっと抱き寄せる。  ジャケット越しに伝わる体温が、緊張で強張っていた背中をゆっくりと解かしていく。 「行くぞ」 「はい」  立ち上がり、夫人たちに向かって深く一礼する。  誰も、引き留める言葉を発しなかった。ただ、明らかに最初とは違う、困惑と、ほんの少しの警戒が混じった視線が背中に突き刺さるのを感じる。  エスコートされるまま、サロンの出口へと向かう。  乗り切った。泣き出したり、感情的に怒鳴ったりせずに、自分の仕事の言葉だけで反撃できた。  小さく息を吐き出した、その時。  ふわり、と。  百合の香水が、鼻先を掠めた。  すれ違いざま。見送りに立った白鳥真琴が、至近距離に顔を近づけてきた。  周囲の夫人たちには聞こえない、息の音のような囁きが、耳の奥に滑り込んでくる。 「……あなたが昔、復讐のためにレンタル彼氏を雇おうとした記録」  心臓が、ドクンと激しく跳ね上がった。 「私の手元に、ありますの」  頬から血の気が
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第488話 蒸し返される予約

 革張りのシートが微かに軋む音だけが、密室の車内に響いている。  お茶会を出た車が、ホテルの地下駐車場へ入っていく。私は後部座席で両手を膝に重ねた。指の先が冷えきって、握ってもなかなか温まらなかった。  まとわりつくような百合の香水が、まだ鼻の奥にこびりついている気がする。 『あなたが昔、復讐のためにレンタル彼氏を雇おうとした記録。私の手元に、ありますの』  耳元で囁かれた、あの涼やかで残酷な声。  呼吸をするたびに、冷たい空気が肺の奥を引っ掻いていく。  拓也と美咲の結婚式に乗り込むため、なけなしの貯金をあてに、時給五万円の「完璧な彼氏」をネットで予約した、あの惨めな日。  結局その男は現れず、隣の湊を巻き込んでしまった。予約のことも、契約のことも、記者会見で説明した。それで済むとは思っていなかったけれど、新しい仕事を任された途端、またあの日を突きつけられるとは思わなかった。  今度は、どこを切り取られるのだろう。 「朱里。……息が浅い」  隣から伸びてきた大きな手が、膝の上で固く組まれた指先をすっぽりと包み込んだ。  ビクリと肩が跳ねる。  スーツの袖口から覗く骨張った指が、強張った関節を一つずつ解きほぐすように撫でていく。高い体温が、冷え切った皮膚の表面からじんわりと染み込んできた。 「サロンを出てから、ずっと黙っている」  覗き込んでくる黒い瞳には、隠しきれない心配の色が揺れている。  唇を噛み締め、何でもないように口角を引き上げようとしたが、頬の筋肉がうまく動かない。 「……大丈夫。少し、気疲れしただけ」 「嘘が下手なのは、相変わらずだな」  大きな手が、手の甲から手首へと滑り、脈打つ血管の上を親指の腹でゆっくりとなぞる。 「あの女が、去り際に何か言ったな」  見透かされている。  隠しても無駄だと思い知らされ、小さく息を吐き出した。 「……もし」  声が震えないように、喉の奥に力を込める。 「また『契約で買われた女』だって騒がれたら……今度は、仕事まで駄目になるのかな」 「君の仕事まで、あんな記事で決めさせない」  間髪入れずに返ってきた言葉は、拍子抜けするほど淡々としていた。 「世間が何を言おうと、君が僕の隣にいることは変わらない。……それに、まだ僕たちをただの契約だと思っているなら、その勘違いは、
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第489話 発売前のゲラ

 最上階のCEO執務室に戻った直後だった。  デスクの上に放り出していたスマートフォンが、けたたましいバイブレーションの音を立てて震え出した。  画面に表示された名前は『詩織姉』。  普段なら仕事中に電話などかけてこない姉からの着信に、嫌な予感がした。  通話ボタンをスワイプして耳に当てた瞬間、鼓膜を突き破らんばかりの怒声が飛び込んできた。 『あんた、今すぐ湊に代わりなさい!』 「お姉ちゃん? いきなりどうしたの……」 『どうしたのじゃないわよ! 役所の広報課のツテで、とんでもないものが回ってきたの。今すぐあんたのスマホに画像送るから、見なさい!』  電話がブツリと切れ、すぐにメッセージアプリの通知が光った。  送られてきた画像を開く。  それは、明日発売される予定の週刊誌の、ゲラ刷りの一部だった。  黒々とした見出しが、まず目に飛び込んできた。 『スクープ! 九龍CEOの婚約者は、復讐のために男を買った女』  画面を持つ手が冷たくなった。  見出しの下には、モザイク処理こそされているものの、明らかに私のシルエットだとわかる写真。そして、あの日のレンタル彼氏サイトの予約完了画面のスクリーンショットが、生々しく掲載されていた。  予約日時、指定された式場の名前、そして『時給五万円』という金額の記載まで。 「……なに、これ」  喉から絞り出した声は、ひどく掠れていた。  真琴さんは、この画像を見ていたのだろうか。あの囁きが耳に蘇る。けれど、記録を持っていることと、記事を書かせたことは、まだ同じではない。  手からスマホが滑り落ちそうになるのを、横から伸びてきた手がガシッと掴み取った。 「見せてくれ」  いつの間にか隣に立っていた湊が、画面を睨みつける。  次の瞬間、彼の纏う空気が一変した。  室温が急激に下がり、肌を刺すような冷たい怒気が吹き荒れる。  スーツ越しにもわかるほど、肩から背中にかけての筋肉が岩のように硬直していた。 「……白鳥周辺の仕業か」  低い、地鳴りのような声。  私は、サロンの出口で言われたことを今度は最後まで話した。記録の流出経路も、まだ確認しなければならなかった。  湊はスマホをデスクに放り投げると、自分の端末を取り出し、猛烈な勢いで画面をタップし始めた。 「法務部を繋げ。今すぐだ。……
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第490話 自分で剥がす値札

 けれど。 「待って」  一歩踏み出し、電話を耳に当てる湊の腕を両手で掴んだ。  ワイシャツ越しに伝わる腕の筋肉が、ピクリと反応する。 「……なんだ。すぐに終わる」 「ダメ。……差し止めなんて、しないで」  電話の向こうで法務部のスタッフが何か言っているのを無視し、湊は怪訝そうにこちらを見下ろした。 「何を言っている。こんな記事が出回れば、君がどれだけ好奇の目に晒されるか分かっているのか」 「分かってる。嘘の部分には訂正を求めたい。でも、予約したことまで隠したらダメなの。そこは会見でも話したでしょう」  掴んだ腕に、さらに力を込める。 「これを力で揉み消したら、白鳥側の思う壺だよ。……私は結局、『CEOの権力に守られているだけの、過去が真っ黒な女』のままになっちゃう」 「そんな下世話な連中の評価など、どうでもいいだろう!」  湊が声を荒らげた。  その瞳の奥には、私が傷つくことへの強い恐怖と、自分の力で守り切れないことへの焦燥感が渦巻いている。 「僕が全て買い取る。誰にも指一本触れさせない。……君に、こんなものを見せたくない。僕の背中に隠れていてほしいと、そう思ってしまう」 「隠れない!」  腕から手を離し、真っ直ぐに黒い瞳を睨み返した。 「私はもう、お人形じゃないの。……Imperial Vowsの立ち上げの責任者として、自分の足で立つって決めたんだよ」  息を深く吸い込む。 「たしかに、あの日レンタル彼氏を雇おうとしたのは事実だもん。復讐なんていう浅はかな理由で、時給五万円で恋人役を頼もうとした。……凄く惨めで、恥ずかしい過去だけど、それを無かったことにはできない」  喉の奥が熱い。  でも、ここで目を逸らしたら、私は一生この過去に縛られ続ける。 「隠して、揉み消して、その上にいくら綺麗なドレスを着たって……私につけられた『契約の女』っていう値札は、剥がれないの」  湊の顔が、僅かに歪んだ。 「だから……私についた値札は、私が自分の手で剥がす。……逃げずに、ちゃんと説明するから」 「……」  湊は無言のまま、眉間に深い皺を寄せて私を見下ろしている。  葛藤。  愛する女を安全圏に閉じ込めておきたいという本能と、目の前で戦おうとしている一人のプロフェッショナルとしての覚悟を尊重すべきだという理性のぶつかり合い
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