硬い胸板に額がぶつかり、シトラスの香りが全身を包み込んだ。「……わかった。君のしたいようにしていい」 頭上から降ってくる声は、観念したような、甘い降伏宣言だった。「だが、一人で矢面に立つことだけは、見過ごせない。……説明の場には、僕も同席させてほしい。これだけは譲れない」「うん。……ありがとう、湊」 背中に腕を回し、スーツの生地をぎゅっと握りしめる。 守られるだけじゃない。背中を預け合える関係に、私たちは少しずつ近づいている。 ◇ 翌日。 週刊誌の発売と共に、ネット上には案の定、面白おかしい見出しが踊り始めた。『CEOの仮面夫婦疑惑』『五万円で買われたシンデレラ』。 サロンのスタッフたちにも動揺が走ったが、事前に詩織姉が外部弁護士に確認した法的な見解を整理し、スタッフ向けのQ&Aを作ってくれていたおかげで、パニックには至らなかった。 午後。 私は、九龍ホテルの1階にあるラウンジカフェにいた。 相沢奈々さんとの打ち合わせの前に、少しだけ頭の中を整理しておきたかったのだ。 運ばれてきたカモミールティーのカップに手を伸ばした、その時だった。「……相席、いいかな」 頭上から、不意に声が降ってきた。 顔を上げると、そこには見覚えのない長身の男が立っていた。 派手にセットされた明るい茶髪に、仕立ての良いカジュアルなジャケット。昼のホテルラウンジには少し浮く、夜の店の名残をまとった華やかな顔立ち。 そのくせ瞳の奥には、愛想笑いと保身が半分ずつ混じったような、落ち着きのない光が揺れていた。「あ、ええと……」 打ち合わせの相手ではない。記者だろうか。身構えて背筋を伸ばす。「あ、待って待って。記者じゃない。そういう面倒なやつじゃないから、そんな怖い顔しないで」 男は軽い調子で両手を上げ、こちらの返事を待たずに、向かい
Huling Na-update : 2026-06-21 Magbasa pa