All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 511 - Chapter 520

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第511話 手配の行方

 ツーツーツー、という無機質な音が、耳の奥を冷たく引っ掻いていく。  三度目の切断音。スマートフォンのプラスチックの角を握りしめる指先が、じっとりと湿っていく。  デスクの上に広げられた進行表のラフには、何度も消しゴムで消した跡が白く残っていた。相沢奈々のために選んだマーガレットの配置、ウェディングケーキの段数、当日の音響のタイミング。鉛筆の細い線で細かく書き込まれた文字のすべてが、先ほど流れた短い通話によって、一瞬にしてただの無駄な線の集まりへと変わっていく。  既存の設備や手配が残っていても、今回の式のために頼んだ分が欠ければ、進行表は組み直しになる。  窓の隙間から滑り込んできた夕暮れ時の風が、ひんやりと首筋を撫でていく。  頭の芯が、冷たい水に浸されたように急速に冷えていく。白鳥真琴のあの隙のない白いレースのドレスと、唇の端を僅かに吊り上げた微笑みが、まぶたの裏にべっとりと張り付いて離れない。ビジネスは理想論だけでは動かないと言い切ったあの声音の冷酷さが、今になって肌の表面をチリチリと焦がしていた。  大手の問屋が、仮押さえの追加分だけを「在庫都合」で引き揚げる。小さなパティスリーが、まだ契約書を交わす前だった特注ケーキの相談を白紙に戻す。音響会社は、正式発注外の追加機材だけを「別案件と重なった」と断ってきた。正式な契約を交わす前だったことが、業者たちには断る理由になる。ただの取引の引き揚げ、評判への配慮、あるいは大きな力への忖度。それだけで、長年培ってきたはずの信頼関係の糸が、ハサミでぷつりと断ち切られるように解けていく。  ガチャリとドアノブが回り、廊下の空気が流れ込んできた。  漂ってきたのは、いつもの研ぎ澄まされたシトラスの香りと、それを上書きするほどの強い熱。  顔を上げると、九龍湊がチャコールグレーの上着のボタンを外しながら、大股でデスクへと歩み寄ってくるところだった。仕立ての良い生地が擦れる音が、静かな室内に低く響く。  その黒い瞳は、すでにすべてを察知したように鋭く細められていた。 「……業者が降りたな」  低い、地を這うような響き。  湊はデスクの端に両手を突き、覗き込むようにしてこちらを見下ろした。ネクタイの結び目が僅かに歪んでいるのが、内側の焦燥を物語っている。 「報告は上がっている。白鳥の系列と取引のある業
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第512話 私に任せて

 いつでもそうだ。私が立ち往生していると、この人は自分の持つ力で道を開こうとしてくれる。それが、不器用で、歪なまでの愛情表現なのだと、今なら痛いほどわかる。  けれど。  デスクの上に広げられた、相沢奈々の手書きのメモに視線を落とす。マーガレットの小さなイラスト。病気のお母様と一緒にバージンロードを歩きたいと、涙を流しながら語ってくれた、あの小さな花嫁の震える声。 「……待って。お金をかければいいって話じゃないの」  手を伸ばし、湊のジャケットの袖口をきつく掴んだ。  ウールの確かな厚みと、肌に伝わる高い体温が、指先を通じて胸の奥へと染み込んでくる。 「何?」 「フランスの薔薇じゃなくて、奈々様は実家の庭に咲いているようなマーガレットがいいって言ったの。……九龍の都合で、何千万もかける派手な式に書き換えたら、あの花嫁の本音が消えちゃうよ」  掴んだ袖を、ぐっと手前に引く。 「予定よりお金をかけて別の式にしてしまったら、意味が変わってしまう。真琴さんの言う通り、ただの『お金で厄介払いをした式』になっちゃう。……それじゃ、私の仕事じゃない」 「朱里」  名前を呼ぶ湊の声に、焦れったいような、もどかしい響きが混じる。  彼は掴まれた腕を引くこともせず、ただその大きな掌をこちらの頬へとそっと添えてきた。親指の腹が、皮膚の表面をやわらかくなぞる。触れられた場所が熱を持ち、胸の奥が不自然に跳ねた。けれど、今はその熱に寄りかかっている場合ではなかった。 「君がプロのプランナーとして意地を通したいのはわかる。だが、現実も見てくれ。仕入れ先がなければ、一本の花すら飾れない。……ここは戦場だ。君を安全な場所に置くためなら、僕はどんな手段でも使う」  独占欲と、失うことへの恐怖が混ざり合った、暗い目の光。  いつもなら、その過保護な熱に絆されて、胸の奥が高鳴ってしまうところだった。けれど、今は唇を強く噛み締め、その掌をそっと両手で押し返した。 「ありがとう、湊。……でも、今回は私のやり方でやらせて」  息を深く吸い込み、デスクの上の図面をしっかりと見つめる。 「力でひっくり返すんじゃなくて、現場の調整力で、あの花嫁の夢を形にしてみせる。……それが、新ブランドの責任者としての、私の戦い方だから」  湊は、しばらく無言のままこちらを見つめ返していた。
last updateLast Updated : 2026-07-01
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第513話 夜更けの来客

◇ 現実は、甘い言葉だけでひっくり返せるほど優しくはなかった。  廊下の向こうから、時折通りすがる現場スタッフたちの視線が、ガラス扉越しにチラチラと部屋の中に注がれる。彼らの目にあるのは、明らかな困惑と、巻き込まれたくないという強い警戒の色だった。 『おい、聞いたか? 新ブランドのせいで、白鳥グループとの取引が危うくなってるらしいぞ』 『一般客の一組のために、どうして私たちがこんなリスクを背負わなきゃいけないんだ』  そんなひそひそ話が、隙間風に乗って事務室の隅々まで染み渡っていく。  夕方から夜にかけて、何人かのスタッフに協力を仰ごうと声をかけたが、返ってきたのは一様に、泳ぐ視線と言い淀む言葉ばかりだった。 「すみません、茅野さん……。来月はシフトがすでにいっぱいで」 「うちの部署、今度の騒動の後処理で手一杯なんです。新規のプロジェクトのお手伝いは、ちょっと……」  誰も、直接的な拒絶は口にしない。けれど、少しずつ、確実に周囲から人が離れていく不気味な静けさが、部屋の中に澱のように溜まっていく。  ぽつんと一人、パイプ椅子に座って、シャーペンを動かす指先を止めた。  シャーペンを押すカチカチという音が、やけに大きく響く。  味方だと思っていた現場の人間すら、大企業の圧力の前では、自分の保身を最優先にするのが当然なのだ。それを責める権利は、私にはない。  けれど、胸の奥のあたりが、冷たい水で満たされていくように重く、苦しくなる。 「……はぁ」  誰もいない部屋で、思わず小さいため息が漏れた。  プロとして何年もやってきたはずなのに、こんな分かりやすい妨害の前に、何もできない自分がどうしようもなく滑稽で、惨めに思えてくる。  やっぱり、私には荷が重すぎたのだろうか。華枝様の遺した企画書という名の看板に、ただ寄りかかっていただけなんじゃないか。  ふと、入口の方で衣擦れがした。開け放たれた扉の脇に、人の気配がある。  ハッとして顔を向ける。  そこに立っていたのは、一分の隙もない上質な着物を纏った女性――湊の義母、九龍志保だった。  感情を大きく表に出さない、いつもの端正な表情。けれど、あの日の和解を知っている今の私には、その奥に隠れた気遣いまで少しだけ読める。いつも焚き染めている白檀の香りが、部屋の中の油臭いインクの匂いを一瞬
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第514話 古い住所録

 精一杯のウィットを混ぜて、口角を無理やり引き上げてみせる。  志保さんは、その言葉を前にしても眉一つ動かさず、ただ伏せられた目をゆっくりとこちらへ向けた。 「口だけは相変わらず達者ね、朱里さん。……そういうところは、嫌いではないわ」  相変わらず素っ気ない。けれど、以前のような刺ではなく、どこか涙を堪えるような震えを孕んだ声だった。  彼女は、置いたバインダーの表面を、細い指先で静かになぞった。 「……それは何ですか?」 「華枝様が、まだご健在だった頃……。このホテルの婚礼事業が、一番輝いていた時代の記録よ」  志保さんは、バインダーの最初のページを、音もなく捲ってみせた。  そこに並んでいたのは、印刷された綺麗な書類ではない。  すべて、華枝自身が、地方の小さな花卉農家や、無名の職人たちに向けて、手書きで認めた礼状のコピーの山だった。  力強く、迷いのない筆致。 『素晴らしいマーガレットを届けてくださり、感謝いたします。あなた方の育てた花が、今日、一組の家族の未来を確かに彩りました』  一枚一枚の日付を追うごとに、胸の奥がドクリと大きく脈打った。 「華枝様はね」  志保さんは、目を伏せたまま語り始めた。 「華枝様は、大手の問屋や有名ブランドばかりと取引をしていたわけではないのよ。……まだ名も知られていない、でも腕だけは確かな町工場や職人たちと、一軒ずつ、膝を突き合わせてこられた。白鳥の圧力が届かない、九龍だけの財産がそこに眠っているわ」  彼女は、バインダーの最後に挟まれていた、黄ばんだ住所録の紙切れを指先でトントンと叩いた。 「……どうして、これを私に?」 「勘違いしないでちょうだい。あなたの代わりに戦いに来たわけではないわ。……でも、家族が困っている時に使える資料を眠らせておくほど、意地悪でもないの。華枝様が遺した『Imperial Vows』を、白鳥の小賢しい真似のせいで看板だけにするわけにはいかないでしょう」  志保さんは、そう言うと、羽織っていたショールを整え、きびすを返した。  去り際、その横顔を見ていると、あの温室の湿った土の匂いまで思い出された。  彼女なりの、不器用で、けれど確かな支え。  かつて「悪役」を演じ続けてきた人が、今は家族として、私に戦うための最大の武器を届けてくれたのだ。  手の中のバ
last updateLast Updated : 2026-07-02
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第515話 繋がらない電話

◇ プルルル、プルルル。  受話器を耳に押し当て、古い住所録の最初の番号をタップする。  一本目のコール音。事務室の窓の外は、すでに完全な暗闇に包まれ、ガラスには、受話器を握りしめる私の姿が薄く映っていた。 『……はい、大島花園ですが』  受話器の奥から聞こえてきたのは、少し警戒したような、年配の男性の声だった。 「夜分遅くに恐れ入ります。九龍ホテルの婚礼部門、茅野と申します。……突然のお電話で失礼いたします。九龍華枝様の古い記録を拝見し、ご連絡いたしました」 『九龍……? ああ、あの大きなホテルか。悪いが、うちはもう何年も、あそこへ花は納めてねえよ。最近は騒動ばかりだってテレビで見たし、うちみたいな小さな農家じゃ、お相手できねえよ』  冷淡な、拒絶の言葉。  受話器を握る指先が、微かに湿っていく。けれど、ここで引いたら、あの花嫁に約束した花を用意できない。 「おっしゃる通りです。私たちの不徳で、ご心配をおかけしました。……ですが今回、どうしても大島様が育てていらっしゃる、あの伝統的なマーガレットが必要なのです」  華枝のバインダーに記されていた、花のディテールを必死に言葉にする。 「利益率や、ホテルの箔付けのためではありません。……病気のお母様と一緒に、あの花に囲まれて歩きたいと願う、一組のカップルのためです。どうか、お話だけでも聞いていただけないでしょうか」  長い、長い沈黙。  受話器の向こうから、深い溜息の音が聞こえた。 『……悪いな、お嬢ちゃん。気持ちは嬉しいが、うちは別の問屋との関係があってね。……九龍さんとは、もう関わりたくねえんだ』  ガチャリ。  無機質な切断音が、部屋の中に冷たく響き渡る。  手元のリストの一行目に、シャーペンで静かに斜線を引いた。  二軒目、今度は千葉にあるウェディングケーキの土台を専門に焼く、頑固な職人のアトリエへ電話を入れる。 「もしもし、九龍ホテルの茅野と申します。華枝様の……」 『ああ、お嬢様かい。懐かしい名前だけどねぇ、うちはもう、あの大きな組織のスピードにはついていけないんだよ。……すまないね』  三軒目、音響の古い機材を大切にメンテナンスし続けている、個人の音響エンジニア。 『九龍さんねぇ……。あそこの新しい責任者って、例の週刊誌の? 悪いけど、ややこしいトラブルに巻き
last updateLast Updated : 2026-07-03
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第516話 最後の番号

 隣の部屋では、湊がいつでも動けるように、明かりを灯したまま待ってくれているはずだ。彼をこれ以上、心配させるわけにはいかない。志保さんから託された、あの不器用な信頼を、無駄にするわけにはいかないんだ。  ふう、と深く、熱い息を吐き出し、最後の番号に指をかけた。  リストの最下部、擦り切れた文字で『音響・照明 新藤』と書かれた、都内の古い下町にある機材倉庫の番号だ。余白には、華枝の字で小さく『夜間緊急可。電話では不機嫌でも、困った時は必ず頼りになる』と添えられている。  プルルル、プルルル。  受話器から響く、何度目になるか分からない機械的なコール音。  指先が、スマートフォンの硬いプラスチックの角を、壊れそうなほど強く握りしめる。  五回、六回。  もう出ないか、あるいは留守電に切り替わるかと思われた、その瞬間。  カチャリ、と。  受話器が上げられる、独特の硬質な雑音が耳の奥に飛び込んできた。 『夜中に、誰だい』  低く、しわがれた、地響きのような老人の声。  私は、擦り切れかけた声を精一杯振り絞り、真っ直ぐに受話器へと語りかけた。 「夜分遅くに大変申し訳ありません。九龍ホテルの、茅野朱里と申します。……大奥様である、九龍華枝様の古いノートを拝見し、ご連絡いたしました」  受話器の向こうの空気が、一瞬にして静まり返るのがわかった。  風の音さえしない、完全な静寂。  老人はしばらく何も言わず、ただ深く、重い呼吸を繰り返している。 『……華枝様の、ノートだと?』 「はい。……新藤様が、かつて九龍の式場ですべての照明のタイミングを手動でコントロールされていたという記録がありました。……『彼にしか作れない、本当の光がある』と、華枝様のメモに」  受話器を握る手のひらの汗が、じわりとプラスチックの表面を滑る。  老人は、しばらく無言のままだったが、やがて、喉の奥で小さく、懐かしむように息を吐き出した。 『……あの、頑固な老婆め。死んでからも、まだ人をこき使う気かい』 「新藤様……」 『……お嬢ちゃん。あんたが、あの週刊誌で騒がれてる、新しい責任者かい』 「はい。……完璧な花嫁ではありません。たくさん間違えましたし、お金で解決しようとした無様な過去もあります。……でも」  胸元のバインダーの感触を確かめるように、力を込める。
last updateLast Updated : 2026-07-03
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第517話 眠れないふたり

 受話器を耳に押し当てたまま、小さく息を吐き出した。  通話を終え、スマートフォンをデスクに置くと、ようやく部屋の静けさに気づいた。下町にある古い機材倉庫の主、新藤が最後の最後で首を縦に振ってくれた。  手元の古い住所録。擦り切れた鉛筆の線の最後に、ぎゅっと力を込めて丸印を書き込む。 「……繋がった」  掠れた声が、狭い臨時オフィスの中にぽつりと落ちた。  新藤と機材や当日の段取りを確かめ、その内容を書き込んでいるうちに、時計の針は午前二時を回っていた。蛍光灯の白い光が、疲弊した眼球の奥を容赦なく刺して、視界の端がチカチカと点滅していた。  音響と照明の命綱は、かろうじて繋ぎ止めた。けれど、まだ一番の難関が残っている。花嫁の身体を包む衣装、そして、式場を埋め尽くすべきマーガレットの確保。白鳥真琴の張り巡らせた業界圧力の網は、今もホテルの外側で、じわじわとこちらの呼吸を止めようと身構えているはずだ。  カリカリ、とシャーペンの芯が図面の上を滑る音だけが響く。  その時、背後のガラス扉が、わずかに数センチだけ開いた。蝶番の小さな音と共に、深く香ばしいコーヒーの匂いが滑り込んでくる。  振り返らなくても、誰がそこにいるかは分かった。研ぎ澄まされたシトラスの香りが、夜気の中に混ざり合う。 「まだ起きているのか」  低い、少しだけ焦れったそうな響き。  九龍湊が、マグカップを片手にデスクの脇へと歩み寄ってきた。完璧に着こなしていたはずのスリーピーススーツの上着は外され、白いワイシャツの袖が肘のあたりまで雑に捲り上げられている。はだけた襟元から覗く鎖骨のラインに、書類を見つめるふりをして視線を落とした。 「当たり前でしょう。進行表のタイムライン、新藤さんの機材に合わせて全部組み直さなきゃいけないんだから。……湊さんこそ、どうして起きてるの。CEOの睡眠不足って、株価に影響しません?」 「僕の睡眠時間は、今は優先順位が低い。……それより、顔色が悪い。これ以上無理をするなら、僕の方で補助のチームを入れたい」 「もう、その過保護な大型犬みたいなの、一回お預けにしてって言ったでしょ」  差し出されたマグカップを奪い取るように受け取り、冷めかけた液体を一口すする。苦味が喉の奥を刺激して、消えかけていた意識が僅かに引き戻された。  湊は、不満げに眉間へ深い
last updateLast Updated : 2026-07-04
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第518話 真夜中のデッサン

 もう、完全に甘い監視体制に入っているじゃない。内心で小さくツッコミを入れながら、手元の資料に無理やり意識を戻そうとした、その時だった。  コン、コン、と。  静まり返った廊下から、不釣り合いなほど鋭く、硬質な音が響いた。  扉が遠慮なく押し開けられる。滑り込んできた風に乗って、ツンと鼻を突くような、高貴な薔薇の香水が室内に充満した。 「随分と、みすぼらしい部屋に篭って油を売っているのね」  一分の隙もない、完璧に巻き上げられた黒髪。紫がかった仕立ての良いタイトジャケットを隙なく着こなし、真紅のピンヒールを高く鳴らして立っていたのは、綾辻麗華だった。 「……麗華さん?」  驚いて立ち上がると、パイプ椅子がガタリと軽い音を立てた。  かつて社交界で悪女と叩かれ、没落の憂き目を見たはずの元ライバル。なぜ、こんな真夜中に九龍ホテルのバックヤードに現れたのか、すぐには事情が飲み込めない。 「勘違いしないでちょうだい。ただのパトロールよ。九龍の新しいプロジェクトが、白鳥の小賢しい真似で一晩のうちに潰れていないか、夜間警備員の代わりに確認しに来てあげたの」  午前二時にパトロールって、どこの熱血警備員よ。内心で激しくツッコミを入れながらも、彼女の腕に抱えられた、大きな黒いポートフォリオに目が釘付けになった。 「ほら、見なさい。突っ立ってないで、そこに座りなさいよ」  麗華は、デスクの上の進行表を乱暴に脇へ押しやると、ポートフォリオをドンと広げた。  捲られたページに描かれていたのは、一見すると驚くほどシンプルな、けれど、どこか凛とした芯の強さを感じさせるウェディングドレスのデッサンだった。 「これは……」 「相沢奈々とかいう、あのパッとしない泣き虫花嫁のための戦闘服よ」  麗華は、細い指先でデッサンの胸元の部分をトントンと叩いた。そこには、執拗なほど細かく、手書きの指示がびっしりと書き込まれている。 「胸元に……マーガレット?」 「そうよ。薔薇や百合みたいな派手な花だけがドレスを引き立てると思ったら大間違いだわ。……あの娘は、病気のお母様と一緒に歩きたいと言ったのでしょう? だったら、歩く姿が一番美しく見える線が必要なの。この胸元の刺繍は、手縫いでマーガレットの花びらを立体的に出す。裾には、シルクの小さな飾りボタン。……光が当たった時に、ただ
last updateLast Updated : 2026-07-04
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第519話 その名を添えて

 デッサンに描かれたオーガンジーの重なりやボタンの配置を目で追ううち、まだ触れてもいない布の柔らかさまで想像できた。母親と並んで歩く奈々の姿が、紙の上に浮かんでくる。これこそが、白鳥真琴の言う『完璧な夢』にはない、生身の人間を輝かせるための本当の服だ。 「……フン。当然よ、私がデザインしたんだから」  麗華はふいと顔を背け、組んだ脚をイライラと揺らした。ピンヒールの先端が、虚空を小さく小刻みに叩く。  だが、次の瞬間、彼女の纏う空気が、すうっと冷たく沈み込んだ。 「……でも、私の名前は絶対に表に出さないで」 「え? どうしてですか。こんなに素晴らしいデザインなのに、デザイナーの名前を隠すなんて……」 「馬鹿ね。本当にあなたはおめでたいお花畑の住人だわ」  麗華の声から、先ほどまでの熱が消え、乾いた自嘲の響きが混じる。 「忘れたの? 私は一度、世間から『悪女』だと叩かれて、すべてを失いかけた身よ。……今、私の名前が表に出れば、白鳥の思う壺だわ。ネットがまた騒いで、『曰く付きの没落令嬢が作った呪われたドレス』なんて言い出したらどうするの。……あの花嫁の一日まで、私の過去で汚されたら、私は……」  麗華の手が、ポートフォリオの端をきつく、指先が白くなるほど握りしめていた。  不器用な、あまりにも切ない優しさ。  自分の過去が、誰かの幸福の足枷になることを、彼女は誰よりも恐れているのだ。 「嫌です」  私は、麗華の目を真っ直ぐに見つめ返した。 「何言ってるのよ、このお人好し」 「お人好しじゃありません。プロのプランナーとしての、当然の判断です」  一歩、距離を縮める。 「あの花嫁の本音を、ここまで形にできるデザイナーは、麗華さんしかいません。過去に何があったかじゃない。今の麗華さんが、あの花嫁のために夜を徹して縫う白だから、意味があるんです。……私は、麗華さんの名前を隠して勝つつもりはありません。綾辻麗華の服で、白鳥真琴を黙らせたいんです」  麗華は、信じられないものを見るように目を見開いた。  長い睫毛が、微かに震える。 「……本当に、生意気な口を利くようになったわね。……誰のせいで私がこんな泥臭い現場に駆り出されてると思ってるのよ」  彼女は、ふいと顔を背けた。けれど、その耳の縁が、ほんのりと赤くなっているのを私は見逃さなかった
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第520話 白い花の朝

◇ 室内の空気は、高熱を帯びたボイラー室のように熱く、張り詰めていた。  あの夜から、業者との打ち合わせや衣装の準備に追われるうち、一か月が過ぎた。相沢様の挙式を迎えた朝も、私たちはこの部屋にいた。時計は、まだ午前五時を指している。  窓ガラスの向こうの東京の空が、濃紺から、ゆっくりと白磁のような淡い灰色へと切り替わっていく。ガラスの表面には、室内の熱気と外の冷気の温度差で、細かな水滴がびっしりとつき、街の光を滲ませていた。  シャッ、シャッ、という小気味よいハサミの音が、静かな室内に響く。  麗華はジャケットを脱ぎ捨て、白いシャツの袖を捲り上げて、花飾りに足すシルクを切っていた。傍らには仕上がったドレスが掛かり、裾が床に触れないよう白い布が敷かれている。ピンクッションから針を取る目付きは、夜が明けようとしても少しも緩まない。  私はその傍らで、新藤から送られてきた音響の進行表と、自分の図面を何度も照らし合わせ、シャーペンを動かし続けていた。  誰も、言葉を発しない。  けれど、室内に響くハサミの音、針を運ぶかすかな衣擦れ、そして、時折漏れる短い息遣い。相手が手を止めた時に顔を上げれば、何を求めているのか、言われる前に分かるようになっていた。  デスクの隅に置かれたマーガレットの布製の試作品が、蛍光灯の光を吸い込んで、静かに、けれど確かに完成への時間を待っている。  その時だった。  廊下の奥から、バタバタと慌ただしい、狂ったような足音が近づいてきた。  バンッ、と。  臨時オフィスの扉が、激しい勢いで押し開けられる。  滑り込んできた冷たい風と共に、一人の若い現場スタッフが、顔を真っ青にして飛び込んできた。息を切らし、肩が激しく上下している。 「茅、茅野さん……! 大変です、今すぐ、温室へ……!」 「どうしたの、落ち着いて」  立ち上がると、手元のペンが床へ転がり、コロコロと乾いた音を立てて止まった。 「は、花が……! 華枝様ゆかりの、あの、式で使う予定だった温室の白い花が……すべて、何者かによって……!」  頭の芯が、氷水を浴びせられたように一瞬で冷え切った。  案内された温室の入り口。  重厚なガラス扉を押し開けた瞬間、鼻を突いたのは、瑞々しい植物の匂いではなかった。  熟しすぎた果実が潰れたような、青臭い、生々しい
last updateLast Updated : 2026-07-05
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