All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 521 - Chapter 530

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第521話 切られた白い花①

 湿った土の匂いに混じって、植物の水分が強引に搾り取られたような、えぐみのある青臭さが温室の隅々にまで立ち込めていた。 入り口のガラス扉を押し開けたまま、足が床に張り付いたように動かない。白いタイルの上を埋め尽くしているのは、数日前まで元気に葉を広げていた伝統品種のマーガレットの残骸だった。数え切れないほどの白い花びらが、ちぎられ、踏みにじられたように散らばり、夜明け前の薄暗い光の中で、まるで不吉な雪模様のように床を白く染めている。 すぐ目の前には、太い茎が斜めに鋭く切られた株が、痛々しくのぞいていた。ハサミの金属刃が擦れたのであろう、表皮がめくれ上がった傷口から、透明な汁が涙のようにぽつぽつと溢れ出ている。「ひどい……」 喉の奥から漏れた声は、自分でも驚くほど小さく、掠れていた。 相沢奈々の式のために、大島花園から苦労して仕入れる約束を取り付け、この温室で出番を待っていた花たち。病気のお母様が最も愛し、花嫁がその手を握ってバージンロードを歩くための、たった一つの道標だったはずの白が、跡形もなく切り刻まれている。 後ろから、激しい衣擦れの音が近づいてきた。 振り返るよりも早く、室内の空気が一気に張り詰める。 九龍湊が、捲り上げられていたワイシャツの袖のまま、大股で踏み込んできた。磨き上げられた革靴が、床に散らばる白い花弁の手前で、ぎりぎり踏みとどまる。「……っ」 男の短い息遣いが、静かな温室に低く響いた。 手元で固く握りしめられた拳が、小刻みに、けれど激しく震えている。チャコールグレーのスラックスのポケットに突っ込まれたもう片方の手も、生地を突き破らんばかりに強く強張っていた。 その瞳を見た瞬間、背筋の裏側が冷たい水に浸されたように冷えていく。 いつもなら、どんな窮地に陥っても唇の端を僅かに吊り上げ、冷徹な経営者としての計算を巡らせているはずの男だ。傲慢で、不遜で、周囲をすべて見下ろすような王の余裕。それが、今は完全に消え失せていた。 黒い瞳の奥で、濁った熱がせわしなく渦巻いている。 剥き出しになったのは、理不尽に大切なものを奪
last updateLast Updated : 2026-07-06
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第522話 切られた白い花②

 この温室は、湊の亡き実母・由理子様との数少ない思い出の場所であり、大奥様である華枝が朱里を責任者に指名した、新プロジェクトの心臓部だ。そこを正確に狙い撃ちしてきた悪意。白鳥側の関係者を疑いたくなるほど、狙いは正確だった。けれど、今ここで誰かの名を口にすれば、私たちは怒りのまま相手の土俵に乗せられてしまう。 すぐに警備責任者が、防犯カメラの映像保全と搬入口の記録確認に走っている。けれど、この温室の奥には古い配管の死角がある。犯人を今すぐ特定できる状況ではなかった。 湊の一歩が、切り落とされた花の塊へと向けられる。その靴底が、さらに白い花びらを文字通り粉砕しようとした。 ――ダメ。このままじゃ、この人が怒りに呑まれて壊れてしまう。 床を蹴り、一歩前に飛び出す。 躊躇なく、湊のワイシャツの腕を両手で強く掴み取った。 薄い生地越しに伝わってくる、岩のように硬直した筋肉の感触。そして、触れた手のひらから伝わってくる、尋常ではない高い体温。「離せ、朱里!」 湊が腕を振り払おうとする。その力強さに体ごと持って行かれそうになりながらも、指先に力を込め、必死にぶら下がるようにして踏みとどまった。「離さない! 落ち着いて、湊さん!」「落ち着いていられるか! すべて台無しにされたんだぞ! 花がなければ、あの式は成立しない。九龍のメンツも、新ブランドも、ここで終わりだ!」 激しい呼吸が、顔のすぐ近くでぶつかり合う。 シトラスの香水の奥にある、男自身の剥き出しの熱い匂いが、肺の奥を重く満たしていく。 いつもはあんなに偉そうに口を挟んでくるくせに、今は今にも何かに噛みつきそうな、迷子みたいに暴れている。内心で『この大型犬、本当に手が付けられないんだから』と鋭く毒づく余裕を無理やり絞り出し、真っ直ぐにその黒い瞳を睨み据えた。「終わらせない! まだ、何も終わってないわよ!」 ◇ 叫んだ声が、ガラスのドームにビリビリと反響して消えていく。 湊の動きが、ピタリと止まった。 腕を掴む指の力を僅かに緩め、そのままのろのろと床の上へと視線を落とす。 高級なスラックスの
last updateLast Updated : 2026-07-06
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第523話 切られた白い花③

「斜めに、綺麗に切られてる。……これはね、悪意でめちゃくちゃに引きちぎったんじゃないの。道具の扱いを知っている誰かが、時間をかけて、確実に『装花として使えなくするために』落としたのよ」 茎の断面を指先でそっとなぞる。「水分がまだ残ってる。切り落とされてから、まだ一時間も経ってないわ。……花びらだって、一枚も萎れてない。まだ、生きてるのよ」「生きているから何だというんだ」 湊は、膝をついたままのこちらを見下ろし、悔しそうに拳を壁に叩きつけた。硬質な金属フレームが、鈍い音を立てて微かに震える。「茎がなければ、式場は飾れない。白鳥の完璧な白薔薇の前に、首を撥ねられた花を並べて、何が勝負だ! 役員たちに、またあの女の言いなりになる言い訳を与えるだけだ!」「首を撥ねられた死体なんて言わないで!」 立ち上がり、至近距離で男の胸板を小突くようにして見上げる。 逞しい大胸筋の厚みが、指先を通じてこちらの意地を押し返してくるようだった。「装花として飾れないなら、形を変えればいいの。……結婚式に使う花に、無駄なものなんて一つもないんだから」 手の中の白い一輪を見つめる。「丈が足りないなら、茎の代わりにワイヤーを通せばいい。……折れた花でも、まだ誰かの胸元で咲けます。会場の花瓶じゃなくて、ゲスト一人ひとりの胸元を飾る、小さなコサージュに仕立て直すのよ」 湊の黒い瞳が、驚いたように僅かに見開かれた。 言葉のラリーが止まり、温室の中に、ハァ、ハァ、という二人の荒い呼吸の音だけが重なり合う。「コサージュ……だと?」「そうよ。奈々様のお母様にも、航平様のご親族にも、みんなの胸元にこのマーガレットを飾ってもらうの。……式場全体を花で埋めるんじゃない。この会場にいる全員の心で、花嫁の歩く道を白くするの。白鳥真琴の高級な薔薇のアーチでも真似できない、世界に一つだけの式になるわ」 一気に吐き出すと、喉の奥がカラカラに渇いた。 けれど
last updateLast Updated : 2026-07-07
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第524話 切られた白い花④

 自嘲するような、けれど、底知れない安堵と熱を孕んだ低い響き。 見つめ合う視線の距離が、呼吸が触れ合うほどに縮まっていく。彼の体温に包まれているだけで、張り詰めていた胸の奥が不自然に熱を持ち、指をほどくタイミングを見失いかけた、その時だった。 カサリ、と。 温室の入り口の影から、衣服の擦れる静かな音が響いた。 ◇ ハッとして顔を向ける。 そこに立っていたのは、一分の隙もない上質な訪問着を完璧に着こなした女性――湊の義母、九龍志保だった。 いつも通り表情は端正で、簡単には揺らがない。けれど、その手には、古いガーデニング用の和綴じのノートが、きつく握りしめられていた。「……母さん」 湊の声から、先ほどまでの甘さがすっと消えた。代わりに混じったのは、案じるような硬い緊張だった。彼は私の前に一歩踏み出したが、それは責めるためではなく、母の足元に散った花やガラス片を踏ませまいとするような動きだった。「どうしてここに。……危ないだろう。まだ床に、細かな破片が残っているかもしれない」「相変わらず、心配の仕方が不器用な子ね、湊」 志保さんは、湊の硬い声を前にしても、ピクリとも表情を変えなかった。 彼女は、音もなくタイルの上を歩み寄ってくると、手にした古いノートを、デスク代わりのワゴンの上へ静かに置いた。 表紙には、亡き大奥様・華枝の力強い手書きの文字で『庭仕事覚書』と記されている。「華枝様はね」 志保さんは、こちらの目を真っ直ぐに見つめながら、静かな声で語り始めた。「華枝様は、いつも最悪の場合まで考えていらしたわ。……特に、この温室のマーガレットは繊細で、気候にも病気にも弱い。もし、この白が全滅した時のための『代替草花』の組み合わせを、このノートに残されていたのよ」 ノートのページが、志保さんの細い指先によって捲られる。 そこには、手書きのスケッチと共に、地方の無名の農家から仕入れられる、白に近い淡いグリーンの野草や、頑強なハーブの名前が、びっしりと並んでいた。
last updateLast Updated : 2026-07-07
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第525話 切られた白い花⑤

 湊は、ワゴンの上のノートをじっと見つめたまま、拳の力をゆっくりと抜いた。 その広い肩から、張り詰めていた無駄な緊張が、確かに引いていくのが後ろ姿からでも伝わってくる。「……朱里」 振り返った彼の瞳には、もう暗い炎はなかった。「……すぐに、大島花園と、このリストの農家に連絡を入れろ。……新藤の照明チームにも、タイムラインの変更を伝える」「うん。……わかったわ、ボス」 私はノートをひったくるように抱きしめ、いつもの営業用の笑顔ではない、心からの生々しい笑みを浮かべてみせた。 どんなに踏みにじられても、私たちはその破片を拾い集めて、何度でも立ち上がる。 ◇ 作業を開始しようと、デスクの上のインカムを手にした、まさにその瞬間だった。 プツン、という、不自然に低い、不穏な機械音が温室の天井裏から響いた。 それまで、ずっとバックヤードの背景音として流れていた、ゴーーーという微かな空調の駆動音が、前触れもなく完全に停止した。 一瞬にして、温室の中が、耳鳴りがしそうなほどの奇妙な静寂に包まれる。「……え?」 顔を上げると、天井近くのダクトから吹き出していた、生温かい温風の気流が、ピタリと止まっていた。 夜明け前の午前五時半。一日のうちで気温が下がる時間帯とはいえ、初夏の東京で、普通なら花が凍るほど冷えるはずがない。けれど、この温室は古い全館空調に加えて、花の状態を保つための冷却・湿度管理設備まで一体化している。暖房側だけが止まり、冷却側の送風弁が開いたままになれば、外気温とは関係なく、足元から冷えが這い上がってくる。 みるみるうちに、全面ガラス張りの大ドームの表面が、内側からの結露によって白く曇り始めた。ガラスの向こうに見える東京の朝焼けの輪郭が、歪み、ボヤけ、急速に闇へと溶けていくように消えていく。 足元のタイルから、氷のような冷たい感触が、スラックスの裾を透過して肌へと這い上がってきた。 息を吐き出すと、温度差を
last updateLast Updated : 2026-07-07
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第526話 凍る温室と、残された花①

 ポタ、ポタ、と。 古い配管の隙間から落ちる水滴の音が、異様なほど大きく聞こえた。 温室のガラスは内側から白く曇り、朝焼けに染まりかけていたはずの空を、濡れた硝子越しのぼやけた灰色へと塗り替えていく。足元のタイルから這い上がってくる冷気が、パンプスの底を通り抜け、爪先の感覚をじわじわと奪っていった。 十七度。十六度。十五度。 壁の丸い温度計の針が、さっきまでよりもずっと生き物めいた動きで、ゆっくりと下へ落ちていく。 床に散らばったマーガレットの花びらは、まだ白かった。けれど、その白の縁が、結露で濡れたタイルに吸い付くたび、透明な傷を増やしているように見える。 このままでは駄目だ。 切られた花は、まだ使える。 でも、濡れて、冷えて、傷んでしまったら、本当に終わる。「全員、手を止めて!」 自分の声が、ガラスの天井へ向かって鋭く跳ね返った。 走り出しかけていたスタッフたちが、一斉にこちらを振り向く。誰もが青ざめた顔をしていた。花を切られたショックと、設備停止の異常事態で、現場全体が足元から崩れかけている。 けれど、今、最初に崩れてはいけないのは私だ。「濡れた花は重ねないでください。キッチンペーパーかリネンのクロスを間に挟んで、浅いトレーに一輪ずつ並べて。茎が短いものは向きを揃えなくていいです。花びらが潰れないことを優先してください」 言いながら、床に膝をつく。 冷たいタイルが膝の骨に容赦なく食い込んだ。ワンピースの裾が濡れる感触がしたが、気にしている余裕はない。「手袋をして。素手の体温と水分で花びらを傷めます。使える花、傷みの強い花、花びらだけ使えるもの。三つに分けて」「茅野さん、トレーはどこに……!」「厨房から浅いホテルパンを借りてください。深いバットは駄目、重ねたら潰れます。クロスはリネン室。新藤さんの音響チームには段ボールを。風を直接当てない壁を作ります」 自分の口から出る指示が、思ったよりも冷静だった。 胸の奥は、まだ熱い。怒りで、悔しさで、今にも涙が溢れそうなほど熱い。 それでも、
last updateLast Updated : 2026-07-08
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第527話 凍る温室と、残された花②

「はい。今は、婚礼現場責任者として命令しています」 言い切ると、湊の瞳がわずかに揺れた。 いつもなら、そこで皮肉の一つでも返してくる。『随分偉くなったものだな』とか、『僕を使うとはいい度胸だ』とか。けれど、彼は唇を一度きつく結んだだけで、何も言わなかった。 代わりに、膝を折った。 高級なスラックスが濡れるのも構わず、私の隣に屈み込み、床に落ちた一輪をそっと拾い上げる。 普段、万年筆や契約書を扱う長い指が、白い花を壊さないよう、驚くほど慎重に動いた。「……わかった」 低く、掠れた声。「僕は、誰に何をさせればいい」 その一言で、胸の奥に詰まっていたものが、危うくこぼれそうになった。 守ってもらうのではない。 一緒に、立て直す。 それをこの人が選んでくれたことが、温室の冷気の中で、ひどく温かかった。「征司さんを呼んでください。建物管理の担当と一緒に、設備室の制御盤を確認してもらいます。詩織姉には記録の保全を。触る前に全方向から撮影。防犯カメラ、搬入口、空調操作ログ。全部、弁護士と法務部に回せる形で残します」「犯人探しを、今すぐ始めるべきではないのか」 湊の声が、また低くなる。 その気持ちは痛いほどわかる。 私だって、今すぐ誰かの胸ぐらを掴んで問い詰めたい。なぜこんなことをしたのか。どうして、花嫁の願いを踏みにじるのか。どうして、華枝様が遺したものを、こんな形で汚せるのか。 けれど、喉の奥まで込み上げてきた怒鳴り声を、奥歯で噛み潰す。「探します。必ず。……でも、その前に、花を助けます」 床の白い花を見下ろす。「この花が傷んだら、犯人の思い通りです。証拠は残します。責任も取らせます。だけど今、最優先は、奈々様とお母様の式を成立させることです」 湊は、しばらく私を見ていた。 黒い瞳の奥に、まだ荒れた海のような感情がうねっている。けれど、その波が、少しずつ、こちらの言葉を飲み込み、形を変えていくのがわかった。 やがて彼は、手にしていた花
last updateLast Updated : 2026-07-08
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第528話 凍る温室と、残された花③

 こんな時なのに、少しだけ笑いそうになった。 その瞬間、温室の入り口から、硬いヒールの音が響く。「笑ってる場合じゃないでしょ、このお人好し」 詩織姉だった。 髪はいつもより少し乱れ、薄手のジャケットの前を片手で押さえている。おそらく、連絡を受けてほとんど着の身着のまま駆けつけたのだろう。けれど、その目だけは、眠気も動揺も一切感じさせないほど冴えていた。 彼女は温室の惨状を一瞥し、息を止めた。 ほんの一秒。 それだけだった。 次の瞬間には、バッグからスマートフォンと手袋、小さなメジャー、透明な証拠袋のようなものまで取り出している。「朱里。花の救出はあんたがやりなさい。私は記録を取る。スタッフの動線、発見時刻、通報時刻、設備停止の時刻。全部、時系列にする」「詩織姉、そんなものまで持ってるの?」「役所勤めを舐めないで。あと、妹が九龍家に関わってから、私の鞄はだいたい非常用装備よ」 言いながら、詩織姉は床にしゃがみ込む。白い花びらには触れず、スマートフォンのカメラで角度を変えながら、黙々と記録を残していく。 その横顔を見て、胸の奥が少しだけ緩んだ。 私には、現場がある。 湊がいる。詩織姉がいる。征司さんがいる。志保さんが遺してくれた華枝様のノートがある。 奪われたものばかり数えていたら、見落としてしまう。 私の周りには、こんなにも残っている。「朱里さん」 志保さんの声が、静かに落ちた。 彼女は先ほど置いた華枝様のノートを開き、細い指であるページを押さえていた。「このページ。マーガレットの応急処置について、華枝様が書かれているわ」 慌てて覗き込む。 古いインクで書かれた文字は、ところどころ滲んでいた。けれど、その筆跡は強く、迷いがない。『茎を失った花でも、すぐに命を失うわけではない。水に沈めすぎるな。風を直接当てるな。白は、湿気で汚れる。人の手で温めすぎるな。咲かせる場所を変えればよい』 最後の一文に、目が留まった。 咲かせる場所を変えればよい。 まる
last updateLast Updated : 2026-07-08
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第529話 凍る温室と、残された花④

 厨房スタッフたちが、浅いステンレスのトレーを何枚も積んで走ってくる。リネン担当の女性たちが、白いクロスを抱えて続く。新藤さんの音響チームは、寝癖のついた頭のまま段ボール箱を抱え、温室の隅に風除けの壁を作り始めた。「こっち、直接風が当たらないように塞ぐぞ!」「トレー、ここに置きます!」「茅野さん、使える花の見分け、教えてください!」 声が増えていく。 さっきまで凍りついたように沈黙していた温室に、人の動く音が戻ってくる。 ハサミではなく、手袋が花を拾う音。 怒号ではなく、短い確認の声。 散らばった白を、踏みにじるのではなく、すくい上げるための時間が始まった。 ◇ 午前六時四十分。 温室の外の廊下に並べられたトレーには、救出されたマーガレットが薄い布に包まれて、静かに横たわっていた。 大きな花は百二十七輪。 小ぶりだが使えるものが八十四輪。 花びらだけなら使えるものが、数え切れないほど。 茎を失った白たちは、確かに傷ついていた。けれど、死んではいなかった。 私は最後の一輪をトレーに並べ、背中を伸ばそうとして、そこで初めて腰に鈍い痛みが走った。「いたた……」「自業自得よ。現場で格好つけるから」 詩織姉が横から冷たく言いながら、手元のメモを差し出してくる。「発見から現在までの記録。空調停止時刻は、設備ログ上では五時二十七分。ただし、制御盤の手動切替レバーが動かされてる。鍵は破壊されてない」「鍵を持っている人間がやった、ということ?」「もしくは、合鍵か、管理権限のある誰かを使ったか。どちらにしても、ただのいたずらじゃない」 詩織姉の声は低かった。 湊が無言でそのメモを受け取る。紙の端を持つ指に、力が入りすぎて、白くなっていた。「僕が動く」「動くのはあと」 詩織姉が、恐れもせずに言った。 湊の視線が、彼女へ向く。張り詰めた沈黙が一瞬走ったが、詩織姉は眉一つ動かさなかった。「今、九龍さんが怒りに
last updateLast Updated : 2026-07-09
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第530話 凍る温室と、残された花⑤

 廊下の向こうから、花屋の作業着を着た年配の女性が、小走りに近づいてきた。大島花園の大島さんだ。後ろには、見慣れない小型トラックの運転手たちが、淡いグリーンの草花を入れた箱を抱えて続いている。「間に合ったよ。華枝様のリストに載っていた農園、全部じゃないけど、連絡がついたところからかき集めてきた」 箱の中には、白に限りなく近い淡い緑の小花、細い葉のハーブ、柔らかな銀葉が詰められていた。 高価な花ではない。 派手さもない。 けれど、夜明けの光を含んだその草花たちは、不思議なほど温かく、命の匂いがした。「ありがとうございます……!」 頭を下げようとすると、大島さんは皺だらけの手で私の肩を乱暴に叩いた。「礼は式が終わってからだよ。ほら、泣くんじゃない。花嫁さんを泣かせるならまだしも、プランナーが先に泣いてどうするんだい」「泣いてません」「泣きそうな顔してる」 言い返せなかった。 喉の奥が、熱くて痛い。 その時、湊が私の隣に立った。 スーツの上着はいつの間にか脱いでいて、白いシャツの袖口には、薄く土の汚れがついている。冷徹なCEOの完璧な装いは崩れていた。けれど、今の彼は、会議室で誰かを威圧する時よりもずっと頼もしく見えた。「朱里」「はい」「立て直せるか」 短い問い。 その言葉には、疑いはなかった。 ただ、私の答えを待っている。 任せるために、尋ねている。 私は、トレーに並んだ白い花と、箱いっぱいの淡いグリーンを見た。 そして、温室の奥に残る切り株を見た。 傷は消えない。 切られた花は、元通りには戻らない。 けれど、元通りにならなくても、咲ける場所がある。「勝ちます」 はっきりと言うと、湊の口元が、ごくわずかに上がった。「では、僕は、何を手伝えばいい」「手を洗って、コサージュのワイヤリングを覚えてください」 一瞬、周囲の空気が止まった。 湊が、まさか自分にそんな作業
last updateLast Updated : 2026-07-09
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