All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 531 - Chapter 540

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第531話 花に触れない指

 会場の扉の前で、私は両手を一度だけ握りしめた。  指先には、まだワイヤーを捻り続けた感触が残っている。親指の腹には細い赤い跡がいくつも走り、爪の間には、どれだけ洗っても落ちきらない薄い緑が残っていた。  徹夜明けの身体は、正直に言えば鉛のように重い。  けれど、扉の向こうから漏れてくるざわめきと、柔らかな音響チェックの旋律を聞いた瞬間、その重さが、ゆっくりと別のものへ変わっていく。  緊張。  期待。  そして、覚悟。 「茅野さん、ゲスト入場、あと三分です」  インカム越しに、若いスタッフの声がした。 「了解。受付のコサージュ配布は?」 『全員に説明済みです。お母様の車椅子周辺も、航平様側のご親族がサポートに入っています』 「ありがとう。無理に急がせないで。今日は、早く歩くことより、ちゃんと一緒に歩くことが大事だから」 『はい』  返事の向こうで、小さく息を吸う音がした。  昨日まで不安で青ざめていたスタッフたちの声に、今は少しだけ芯がある。  それだけで、胸が熱くなった。  肩にかけたジャケットの襟元を直していると、背後から静かな足音が近づいてくる。  振り返る前に、シトラスと微かなムスクの香りがした。 「朱里」  湊だった。  完璧に仕立てられた濃紺のスーツ。乱れた髪も、土で汚れていた袖口も、今はきちんと整えられている。けれど、近くで見れば、その目の下にはわずかな疲労の影が残っていた。  あの冷たい温室で、彼は最後までコサージュ作りに付き合った。  最初はワイヤーを捻る力が強すぎて、花首を何度か潰しかけ、大島さんに「社長さん、花は買収するものじゃなくて持ち上げるものだよ」と叱られていた。その時の、珍しく本気で困った顔を思い出し、こんな場面なのに口元が緩みそうになる。 「何を笑っている」 「いえ。湊にも、不得意な仕事があるんだなと思って」 「……あの作業は、合理的ではない」 「合理的です。力を入れすぎる人には、花を扱わせるのが一番です」  軽く言うと、湊は不満げに眉を寄せた。けれど、その視線はすぐに、私の胸元へ落ちる。  そこには、今朝、切られているのが見つかったマーガレットを使った、小さなコサージュが留められていた。  短い茎に細いワイヤーを通し、淡いグリーンの葉と銀色がかったハーブを添え、白いリボンで
last updateLast Updated : 2026-07-10
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第532話 母と歩くために

 頬に熱が上がりかけたのを、咳払いで誤魔化す。 「仕事中です」 「ああ。わかっている」  湊の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。 「だから、今はこれ以上言わない」 「……今は?」 「式が終わったら、まとめて言う」  心臓に悪い。  抗議しようと口を開きかけたところで、廊下の向こうから、車椅子のタイヤが床を滑る静かな音が近づいてきた。  相沢奈々さんだった。  彼女は、ドレス姿で、控室の扉の前に立っていた。薄いシフォンが朝の光を受けて淡く揺れ、緊張で強張った肩を包み込んでいる。派手な宝石はない。真珠の小さなイヤリングと、胸元のマーガレットのコサージュだけが、花嫁の白をそっと支えていた。  その隣には、痩せた女性が車椅子に座っている。  奈々さんのお母様だ。  病気療養中だと聞いていた通り、頬は少しこけ、手首は驚くほど細かった。けれど、膝の上の両手は大切なものを守るように重ねられ、胸元には、奈々さんと同じマーガレットのコサージュが留められている。 「茅野さん」  奈々さんの声は震えていた。 「本当に……母と、歩けるんですね」  その問いに、私はすぐには答えなかった。  代わりに、車椅子の横へ膝をつき、お母様の目の高さに合わせる。 「お母様。今日は、無理に立ち上がらなくて大丈夫です。扉から祭壇までの間に、二度止まれる場所を作っています。奈々様が歩く速さに、お母様が合わせるんじゃなくて、お母様の呼吸に、奈々様が合わせます」  お母様の瞳が、ゆっくりと揺れた。  薄く乾いた唇が、何かを言おうとして、うまく音にならない。  私は続ける。 「バージンロードの両側には、ゲストの皆様にマーガレットを胸元につけていただきました。大きな花道ではありません。でも、皆様の胸元の白が、お二人の歩く道になります」  奈々さんが、両手で口元を覆った。  お母様の細い指が、膝の上で震える。  その指先を、奈々さんがそっと包み込んだ。 「お母さん」  小さな声。 「ゆっくりでいいから。一緒に、歩いてくれる?」  お母様は、何度も瞬きをした。  目尻に浮かんだ涙が、頬のくぼみに沿って静かに落ちていく。  やがて、彼女はかすかに頷いた。  その瞬間、奈々さんの肩から、張り詰めていた糸が一本ほどけるのが見えた。 「……ありがとうございます」
last updateLast Updated : 2026-07-10
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第533話 胸元の花道

◇ 扉が開いた瞬間、会場の空気が、静かに揺れた。  白鳥真琴が用意していたような、天井まで届く白薔薇のアーチはない。スワロフスキーの光の海も、何層にも重なるシャンデリアもない。  あるのは、木目の温かい小さなチャペルと、初夏の朝の光を透かす薄いカーテン。  そして、左右に並ぶゲストたちの胸元に咲いた、小さな白いマーガレットだった。  一輪ずつは、本当に小さい。  けれど、全員の胸元に同じ白が灯った光景は、思っていた以上に美しかった。  花びらの白が、人の呼吸に合わせて微かに揺れる。淡いグリーンの葉が、スーツやワンピースの布地の上で、静かに命の色を添える。高価な装花で埋め尽くすのではなく、そこにいる人たち自身が、花嫁の道を形作っている。  介助のスタッフが車椅子を押し始め、奈々さんとお母様が、一歩目を踏み出した。  車椅子のタイヤが、ゆっくりと床を転がる。  奈々さんは、その横で歩幅を小さくし、お母様の手を握っていた。ドレスの裾が床を滑り、薄いレースが朝の光を受けて、かすかに震える。  会場の誰も、急かさなかった。  咳払い一つ、椅子の軋み一つさえ、遠慮するように小さくなる。  祭壇の前に立つ航平さんは、もう涙を隠せていなかった。  それでも、彼はまっすぐに二人を見ていた。  奈々さんが一度立ち止まる。  お母様が、細い腕を伸ばし、娘のベールの端をそっと直した。  たったそれだけの仕草に、会場のあちこちで、小さく息を呑む音が重なった。  私の隣で、湊が無言で立っている。  その横顔には、CEOとしての冷静な計算も、九龍の当主としての威圧もなかった。  ただ、一人の人間が、誰かの願いが叶う瞬間を見守っている顔だった。 「……これが、君の式か」  彼が、ほとんど息だけで呟いた。 「私だけの式じゃありません」  視線は祭壇に向けたまま、そっと返す。 「奈々様と航平様と、お母様と、ここにいる皆様の式です」 「そうだな」  湊は、ほんの少しだけ目を伏せた。 「……華枝様が、君を指名した理由がわかる」  その言葉に、胸の奥が静かに震えた。  嬉しい。  けれど、誇らしさより先に、肩の力が抜けるような安堵が来た。  私は、完璧な花嫁ではない。  完璧な令嬢でも、九龍家に相応しい血筋でもない。  それでも、誰かの人生
last updateLast Updated : 2026-07-11
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第534話 小さい式はない

◇ 披露宴会場の片隅で、白鳥真琴は微笑んでいた。  完璧な微笑みだった。  唇の角度も、顎の位置も、揃えられた指先の優雅さも、一分の隙もない。  けれど、その目だけは笑っていなかった。  彼女の周囲には、役員会で私を値踏みしていた面々と、Swan Bridalのお茶会で見た夫人たちが並んでいる。彼らの胸元にも、受付で配られたマーガレットのコサージュがついていた。  誰も外さなかった。  それが、何よりも強い答えだった。 「見事ですわね、茅野さん」  真琴さんが、グラスを片手にこちらへ近づいてくる。  百合の香水が、柔らかな料理の香りの中へ、冷たい刃のように入り込んできた。 「まさか、切り落とされた花を、ああいう形で使うなんて。……庶民的な発想というものは、時に侮れませんわ」  褒めているのか、貶しているのか。  たぶん、両方だ。  私は軽く頭を下げた。 「ありがとうございます。花は、値段だけで咲くわけではありませんので」  真琴さんの睫毛が、わずかに震えた。  彼女はすぐに微笑みを深くする。 「ただ、格式というものは、一朝一夕には作れません。今日の式が感動的だったことは認めます。けれど、九龍の新ブランドが今後もその路線で通用するかは、また別の話ですわ」 「はい。だから、今日だけで終わらせるつもりはありません」  真琴さんの目が、細くなる。 「強気ですのね」 「強気というより、現場が残っていますから」  私は会場を見渡した。  奈々さんは、テーブルラウンドの途中で、お母様の膝掛けを直している。航平さんは慣れないタキシード姿で、ゲスト一人ひとりに深く頭を下げていた。スタッフたちは、料理のタイミングを調整し、新藤さんは音響卓の前で、二人が選んだ曲の入りを見計らっている。  その一つひとつが、私にとっては机上の理想論ではなかった。  触れられる仕事だった。 「この式は、白鳥さんのようなブランドから見れば、小さいのかもしれません。予算も、装花も、会場の規模も」  一度、言葉を切る。 「でも、小さい式なんてありません。誰かにとっては、たった一度の、一番大きな日です」  真琴さんの表情から、笑みが薄くなった。  周囲の役員たちが、気まずそうに視線を交わす。そのうちの一人、最初に私を『どこの馬の骨』と言った初老の役員が、
last updateLast Updated : 2026-07-11
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第535話 人生を結び直す場

「私、少し泣いてしまいましたわ。お母様がベールを直されたところで」 「ええ。あれは……演出ではありませんものね」  演出ではない。  その言葉が、胸に深く染み込んだ。  真琴さんは、静かにグラスを置いた。  硬い音はしなかった。けれど、白いクロスの上で、グラスの底がわずかに震えたのを、私は見逃さなかった。 「……皆様、随分とお優しいこと」 「白鳥さん」  湊の声が、背後から落ちた。  振り返ると、彼は私の一歩後ろに立っていた。  守るために前へ出るのではなく、私の言葉を遮らない位置で。  けれど、必要な時には、確実にその存在を示す位置で。 「本日の式に対する評価は、後日、正式な場で集計する。だが、少なくとも一つは確認できた」 「何でしょう、湊様」  真琴さんは優雅に首を傾げた。 「Imperial Vowsは、白鳥の模倣ではない」  低く、揺るぎない声。 「九龍がこれから作る婚礼は、家柄を飾るための箱ではない。人生を結び直すための場だ。……華枝様の言葉通りにな」  真琴さんの目が、冷たく光った。 「ずいぶん、茅野さんに感化されましたのね」 「違う」  湊は即座に否定した。  胸が一瞬だけ痛んだ。  けれど、次の言葉で、その痛みは別の熱へ変わった。 「僕が、ようやく九龍の古い鎧を脱ぐ覚悟をしただけだ」  真琴さんの唇が、ほんのわずかに引き結ばれる。  その時、会場の中央から、小さなマイクのハウリング音がした。  航平さんが、マイクを握って立っている。  隣には、奈々さん。車椅子のお母様は、二人のすぐそばで、胸元のマーガレットを指で撫でていた。 「本日は、私たちのためにお集まりいただき、本当にありがとうございます」  航平さんの声は震えていた。 「正直に言うと、何度も諦めようと思いました。母の体調も、準備のことも、色々な事情もあって、式なんてしなくてもいいんじゃないかと」  奈々さんが、隣で小さく頷く。航平さんからマイクを受け取ると、彼女は会場をゆっくり見渡した。 「でも、茅野さんが言ってくれました。小さい式なんてありませんって」  会場の視線が、こちらに集まる。  思わず一歩下がりそうになった私の背に、湊の掌がそっと添えられた。  押し出すのではない。  逃げなくていい、と言うような、静かな体温
last updateLast Updated : 2026-07-12
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第536話 次は私の式

 拍手が起きた。  最初は、まばらに。  やがて、それは会場全体へ広がっていく。  豪華な音響ではなく、人の手のひらが作る、温かい音。  私はその中で、胸元のマーガレットをそっと押さえた。  切られた花は、咲いた。  踏みにじられた願いは、折れなかった。  そして、私も。 「茅野さん」  真琴さんの声が、拍手の隙間から聞こえた。  振り向くと、彼女は先ほどよりもずっと静かな顔でこちらを見ていた。  怒りでも、嘲りでもない。  ただ、自分の美しい世界に、小さな亀裂が入ったことを認めざるを得ない人の顔だった。 「今日は、あなたの勝ちですわ」  その一言に、周囲が息を呑む。  けれど、真琴さんはすぐに微笑みを戻した。 「ただし、これで終わりではありません。九龍の花嫁になるということは、一つの式を成功させることとは違いますもの」  百合の香りが、また近づく。 「次は、あなた自身の番ですわ。茅野さん」  言葉の意味を理解するより早く、心臓が跳ねた。  私自身の番。  湊の掌が、背中でわずかに強張る。  真琴さんは、私の左手の薬指をちらりと見てから、優雅に頭を下げた。 「本物の花嫁が、どのような式を作るのか。楽しみにしております」  彼女が去っていく。  白いレースの裾が、床の上を静かに滑った。  会場には、まだ拍手の余韻と、料理の温かい香りと、マーガレットの青い匂いが残っている。  私はしばらく、自分の左手を見つめていた。  まだ、そこに結婚指輪はない。  けれど、不思議と怖くなかった。  いつか湊の隣に立つ日が来るなら。  その日、私は誰かが用意した完璧な箱に入る花嫁ではなく、自分の足で、自分の仕事で、自分の人生を選ぶ花嫁でありたい。 「湊」  背中に触れていた掌が、ゆっくりと離れる。 「何だ」  振り返ると、彼は真剣な顔で私を見ていた。  さっきまで会場を包んでいた拍手が、遠くなる。  私は胸元のマーガレットを一度だけ撫で、少し笑った。 「私、自分の結婚式は、自分で作ります」  湊の瞳が、驚いたように見開かれる。  次の瞬間、その奥に、困ったような、嬉しそうな、どうしようもなく甘い熱が灯った。 「……それは」  彼は、言葉を選ぶように一度唇を閉じた。 「僕に、出番はあるのか」 「ありま
last updateLast Updated : 2026-07-12
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第537話 新郎役ではなく

 拍手が、少しずつ遠ざかっていく。  披露宴会場の中央では、奈々さんと航平さんが、ゲストに囲まれて笑っていた。お母様は車椅子の上で膝掛けを直されながら、胸元のマーガレットに何度も指先を添えている。花びらは朝の光を受けて、まだ柔らかく白かった。  切られた花が、最後まで咲いている。  その光景を見ているだけで、胸の奥のどこかがじんわりと熱くなった。 『ありますよ。新郎役が』  さっきそう言った私を、湊はしばらく無言で見つめていた。  黒い瞳の奥に、驚きと、戸惑いと、どうしようもなく甘いものが順番に浮かんでは沈んでいく。いつもならすぐに皮肉の一つでも返してくるはずなのに、彼は珍しく、言葉を見失ったように唇を結んだ。  その沈黙が、なんだか可笑しかった。 「……湊?」 「朱里」  低い声が、拍手の余韻の中に落ちる。 「それは、僕にとっては最大級の名誉だ」  まっすぐすぎる言葉に、心臓が一拍遅れて跳ねた。  慌てて視線を逸らす。会場の片隅で、詩織姉がこちらを見ているのがわかった。腕を組み、目だけで「何を甘ったるい空気を出してるの」と言っている。征司さんはその隣で、にやにやしながらグラスを傾けていた。  勘弁してほしい。  仕事中なのに。いや、今もまだ仕事中のはずなのに。  湊はそんな周囲の視線など気にする様子もなく、私の胸元のマーガレットに一度視線を落とした。 「だが、その前に一つだけ、訂正させてほしい」 「訂正?」 「新郎役、ではない」  彼は、静かに手を差し出した。  白い手袋をしたスタッフが差し出すエスコートとは違う。もっと無骨で、熱を持った、逃げ道のない掌だった。 「僕は役ではなく、本物として君の隣に立ちたい」  胸の奥が、音を立てて崩れた気がした。  この人は、どうしていつも、私がどうにか仕事の顔で立っている時に限って、こういう言葉を真っ直ぐ投げ込んでくるのだろう。 「……今、それを言います?」 「今だから言う」 「ゲストもスタッフもいます」 「知っている」 「詩織姉も見てます」 「それは少し怖いな」  真顔で言うから、思わず吹き出しそうになった。  笑いかけた唇が、次の瞬間、ゆっくりと震えに変わる。  湊は私の手を取った。左手ではない。仕事で荒れた、ワイヤーの跡が残った右手を、両手で包むように持ち
last updateLast Updated : 2026-07-13
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第538話 君がいい

「けれど、それでは君が君でなくなる」  湊の声は、少し掠れていた。  奈々さんの式で使われた曲が、会場の奥で小さく流れている。グラスの触れ合う音、誰かが涙を拭う気配、スタッフが料理皿を下げる静かな足音。その全部が遠ざかり、彼の声だけが、私の耳の奥に残った。 「君を雇ったのは、僕だった。君を契約に縛ったのも、僕だ。……だが、救われたのは僕の方だった」  指先に、温かいものが落ちた気がした。  自分の涙だと気づくまでに、少し時間がかかった。 「朱里」  湊は、私の右手を胸元へ寄せた。 「契約でも、責任でも、九龍の都合でもない。僕の人生として、君の隣にいたい。君が誰かの式を作る時も、自分のことで迷う時も、泣く時も、怒る時も、僕を使ってくれ。隠れる壁としてではなく、同じ場所に立つ人間として」  喉が詰まって、息がうまく吸えなかった。  周囲の人たちは、きっと気づいている。詩織姉も、征司さんも、志保さんも、もしかしたら白鳥真琴さえも。  それでも、不思議と恥ずかしさより先に、温かいものが胸の奥を満たしていった。 「……ずるいです」  やっと出た声は、情けないほど涙に濡れていた。 「式の後にまとめて言うって、言ってたじゃないですか」 「まとめきれなかった」 「CEOなのに?」 「君に関することだけは、いつも計算が狂う」  そんな顔で言われたら、もう何も返せない。  私は俯き、湊の掌の中で自分の指を少しだけ動かした。傷の残る指先が、彼の手のひらの熱を確かめる。 「……本当に、私でいいの?」  言ってから、しまったと思った。  こんな問いは、もう何度も越えてきたはずだった。契約の過去も、家柄も、週刊誌も、白鳥真琴の品定めも。全部越えて、私は今日、自分の仕事で立ったはずだった。  それでも、左手の薬指にまだ結婚指輪がないことを意識した瞬間、胸の奥に小さな影が落ちた。  九龍家の花嫁。  その響きは、今も少しだけ重い。  今日の進行表なら、次に何をするのか確かめられた。けれど自分たちのこれからには、まだ時刻も手順も書かれていない。だからこそ、彼の返事をもう一度、私の耳で聞きたかった。  湊は、私の迷いを笑わなかった。  ただ、私の手をさらに強く握った。 「君がいい」  短い言葉だった。  けれど、それ以上の説明はいらなかった
last updateLast Updated : 2026-07-13
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第539話 花嫁の計画書

 抱きしめられるかと思った。けれど、彼は一度だけ深く息を吸い、私の手をそっと離した。 「抱きしめたいが、君の仕事がまだ終わっていない」 「……よく分かってるじゃないですか」 「学習した」  その言い方があまりに真面目で、涙の中で笑ってしまった。  すると、背後から冷たい声が飛んだ。 「感動的なところ悪いけど、撤収指示と精算確認と、奈々さんたちへの最終挨拶が残ってるわよ」  詩織姉だった。  彼女はハンカチで目元を押さえた形跡を、完全に誤魔化し損ねた顔で立っていた。鼻の頭が赤いくせに、口調だけはいつも通り鋭い。 「あと九龍さん。正式な求婚らしきものをしたなら、婚姻に伴う手続きと財産関係について、あとで一覧を出してください。妹を感情だけで嫁に出すほど、私は甘くありません」 「承知した」 「即答しないで。そこは少し引きなさいよ」  征司さんが横で肩を震わせて笑っている。  志保さんは、わずかに口元を押さえた。笑ったのか、咳払いをしたのか、判別がつかないくらい小さな仕草だった。  その光景を見て、胸の奥がまた熱くなる。  血のつながりだけではない。  敵だった人も、怖かった人も、守ってくれた人も、迷惑をかけた人も、いつの間にか一つの場所に立っている。  私が作りたい式の輪郭が、そこで初めてはっきりと見えた。◇ 翌日の午後、九龍ホテルの小会議室には、花嫁らしからぬ量の資料が積み上がっていた。  会場候補図、席次表のたたき台、招待客リスト、装花案、ドレススケジュール、料理の試食日程、警備計画、動線確認表。普通の花嫁なら、ここまで事務的な資料を前にして目を回すかもしれない。  けれど、私はむしろ落ち着いていた。  誰かの式を作っている時と同じ匂いがする。  新しい紙と、インクと、コーヒーと、少しだけ胃が痛くなる責任の匂い。 「……これは、結婚式というよりプロジェクト計画書だな」  湊が資料を一枚捲りながら呟いた。  彼はいつもの濃紺のスーツ姿で、長い脚を組み、真剣な顔で席次表を見ている。CEOの顔をしているのに、手元にあるのは私たちの結婚式の資料だと思うと、少しだけ可笑しい。 「結婚式はプロジェクトですよ。しかも、一日限りでやり直しがきかない、責任重大なやつです」 「では、予算は上限なしでいい」 「却下です」  即答する
last updateLast Updated : 2026-07-14
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第540話 選んだ家族の席

「九龍家の格式を無視したいわけじゃないんです。むしろ、ちゃんと向き合いたい。……でも、豪華な花を並べて、有名なシェフを呼んで、高いドレスを着れば本物になる、とは思わないんです」 「君は昨日、それを証明した」 「はい。だから、自分の式でも、そこから逃げたくないんです」  私は席次表の中央に、鉛筆で一本の線を引いた。 「テーマは、選んだ家族」  口に出した瞬間、会議室の空気が少しだけ変わった。  壁際に控えていた志保さんが、静かにこちらを見る。詩織姉は腕を組んだまま、眉をほんの少しだけ上げた。征司さんは椅子の背もたれにだらしなく寄りかかっていた姿勢を、わずかに正す。 「血筋を飾るだけの式じゃなくて、ここまで一緒に来てくれた人たちに、ちゃんと席を用意したいんです」  招待客リストに目を落とす。  詩織姉。志保さん。征司さん。麗華さん。新藤さん。大島花園の大島さん。奈々さんと航平さん。これまで私が担当してきた花嫁たち。華枝様の古い客。九龍側の役員たち。旧反対派の中にも、昨日の式で胸元のマーガレットを外さなかった人たちがいる。  すべてを綺麗に分けることはできない。  味方だけで固めれば楽だ。けれど、九龍家の式は、二人だけのものではない。これから湊が背負う会社と家の形を、外へ示す場でもある。 「旧反対派も招くのか」  湊の声が低くなる。 「はい」 「君を傷つけた連中だ」 「だからこそ、見てもらいます。私が隠れて守られるだけの人形じゃなくて、自分の足でここに立っているところを」  彼の眉間に皺が刻まれる。  すぐにでも反論したそうな顔だった。けれど、湊は口を閉じたまま、指先でテーブルを一度だけ叩いた。  待ってくれている。  それがわかったから、私は続けた。 「もちろん、何でも許すつもりはありません。無礼な言動があれば退席していただきます。席も主賓席ではなく、九龍側の歴史を見届ける位置に置きます。……ただ、締め出すより、変わった九龍を見せる方が強いと思うんです」  詩織姉が小さく鼻を鳴らした。 「甘いけど、計算としては悪くないわね」 「褒めてる?」 「半分だけ」 「残り半分は?」 「あんたが相変わらず面倒くさい女だっていう感想」  ひどい。  でも、その言葉に会議室の空気が少しだけ緩んだ。  征司さんが席次表を覗き込み
last updateLast Updated : 2026-07-14
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