All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 541 - Chapter 550

588 Chapters

第541話 本邸の温室の鍵

「手厳しいなあ。朱里ちゃん、姉妹揃って僕への扱いが雑じゃない?」 「征司さんは、そのくらいがちょうどいいと思います」 「ひどい」  征司さんが大げさに胸を押さえる。その横で、志保さんがごく小さく息を吐いた。 「朱里さん」 「はい」 「花は、本邸の温室の白を使うのね」  静かな問いだった。  私は頷いた。 「使いたいです。でも、全部を白一色にはしません。由理子様の白、華枝様の白、志保さんが守ってきた白。……そこに、私がここへ来てから出会った人たちの色も、少しずつ混ぜたいんです」  志保さんの指先が、膝の上でかすかに動いた。  彼女はしばらく黙っていたが、やがて静かに目を伏せた。 「では、本邸の温室の鍵はあなたに預けるわ」 「え」  思わず顔を上げる。  志保さんはいつもの無表情に近い顔で、バッグから小さな古い鍵を取り出した。  真鍮の表面は長い年月で少し曇り、持ち手の部分に小さな傷がいくつもついている。 「華枝様が使っていた鍵よ。由理子の頃から、ずっとあの温室を開けてきたもの」 「そんな大切なもの、私が持っていていいんですか」 「あなたが使わないなら、誰が使うの」  冷たい言い方だった。  けれど、その声の奥にある柔らかさを、もう私は聞き逃さない。  両手で鍵を受け取ると、金属は思っていたよりも温かかった。志保さんの手の熱が残っている。 「ありがとうございます」  深く頭を下げると、志保さんは視線を少しだけ逸らした。 「礼を言うのは、式が終わってからでいいわ。あなたの仕事は、まだ山ほど残っているのだから」 「はい」  その通りだ。  私は鍵を資料の横に置き、赤ペンを手に取った。  花、席、料理、音楽、動線。  ひとつひとつに、誰かの顔が浮かぶ。  自分の結婚式を作ることは、自分の人生に誰を招き、どんな場所を作りたいのかを選ぶことだった。  胸が怖いほど高鳴る。  花嫁としての緊張ではない。  仕事人として、人生の主役として、逃げずに立つための高鳴りだった。◇ 夕方になり、資料の山が少しだけ低くなった頃、会議室の扉が勢いよく開いた。  入ってきたのは、綾辻麗華さんだった。  艶のある黒髪を低い位置で束ね、シンプルな黒のパンツスーツを着ている。昔の彼女なら、部屋に入るだけで誰よりも高価なブランドロ
last updateLast Updated : 2026-07-15
Read more

第542話 最高の白を

「揉めるから先にやってるんですけど……」 「理屈は聞いてないわ」  麗華さんはテーブルの上の資料を容赦なく押しのけ、一冊の厚いスケッチブックを置いた。  表紙には、薄い鉛筆の粉と、小さな白い糸が付いている。 「最高の白を用意してやるわ」  その言葉に、会議室が静まった。  麗華さんは、少しだけ顎を上げた。 「勘違いしないで。あなたのためだけじゃない。私のためでもあるの。……昔の私は、誰かに勝つための服しか作れなかった。家柄を見せつけて、値段で黙らせて、着る人間を飾り台にするような服」  彼女の指先が、スケッチブックの角を掴む。  爪の横に、小さな針傷があった。 「でも、あなたは違うでしょう。服に負けない。服に隠れない。腹が立つくらい、どんな布を着せても中身が出てくる」 「それ、褒めてます?」 「褒めてるのよ。ありがたく聞きなさい」  相変わらずだ。  けれど、その相変わらずの棘が、今はひどく優しく聞こえた。  麗華さんはスケッチブックを開く。  そこには、白いドレスの線が描かれていた。  大きなプリンセスラインではない。肩から腕へ落ちる薄い袖、胸元に控えめに重なるレース、歩くたびに光を含むような柔らかなスカート。裾には、温室のマーガレットを思わせる小さな刺繍が、主張しすぎない位置に散っている。  白一色のはずなのに、鉛筆の濃淡だけで、朝靄のような奥行きが見えた。 「……綺麗」  思わず漏れた言葉に、麗華さんは当然という顔をした。 「当たり前でしょう。私が描いたのよ」  けれど、その耳がほんの少し赤い。 「今日は採寸。仮縫いの試着は三週間後よ。逃げたら許さないわ」 「逃げません」 「ならいいわ。……あと」  麗華さんは、少しだけ声を落とした。 「これは、あなたが九龍家に飲み込まれるためのドレスじゃない。あなたが、あなたの足であの家の扉を開けるための服よ」  喉の奥が熱くなった。  昔、彼女は私を見下していた。  安っぽい女。契約で買われた花嫁。湊に相応しくない人間。  その口で今、私のための白を作ると言っている。  人は、変われる。  壊れたものも、形を変えられる。  切られた花と同じように。 「麗華さん」 「何よ」 「ありがとうございます」  彼女は、露骨に顔をしかめた。 「そういう湿っぽ
last updateLast Updated : 2026-07-15
Read more

第543話 三種類の白

 採寸から三週間後の朝、仮縫いのために麗華さんのアトリエに足を踏み入れた瞬間、鼻先をくすぐったのは高級な香水ではなかった。  スチームアイロンの湿った熱。裁断された布の乾いた匂い。糸と紙と、少しだけコーヒーの苦みが混じった、徹夜明けの仕事場の匂い。  壁一面には、ドレスのスケッチがピンで留められていた。白、生成り、淡い銀、ほんのわずかなグリーン。色鉛筆で添えられたメモには、細かなレース幅や、縫い目の向き、光の当たり方まで書き込まれている。  中央のトルソーには、まだ仮縫いのドレスがかかっていた。  完成品ではない。  しつけ糸が見え、裾は仮留めのまま。背中の一部には、布が足される前の空白が残っている。  それなのに、息が止まりそうになった。  白が、そこに立っていた。  飾り立てるための白ではない。誰かを遠ざけるための、冷たい白でもない。  朝の温室に差し込む光を、そのまま布に移したような白だった。 「口、開いてるわよ」  横から麗華さんの声が飛んできた。  彼女は大きなマグカップを片手に、作業台の前に立っている。目の下には薄い影があり、髪も少しだけ乱れていた。けれど、その姿勢だけは、刃物のようにまっすぐだった。 「すみません。綺麗で」 「謝るところじゃないわ。もっと堂々と感動しなさい。作り手が報われないでしょう」 「じゃあ、堂々と感動します」 「素直すぎるのも腹が立つわね」  理不尽だ。  けれど、彼女の口元がほんのわずかに緩んでいるのを見て、私も笑ってしまった。  アトリエの隅では、若いスタッフたちが布を運び、ミシンの糸を替えている。昔、綾辻家の令嬢として誰かを従えていた彼女とは違う。今の麗華さんは、職人たちの真ん中に立ち、誰よりも布に触れていた。  その指先には、絆創膏が二枚貼られている。 「指、大丈夫ですか」 「大丈夫に決まってるでしょう。この程度で騒ぐなら、ドレスなんて作れないわ」 「でも」 「あなたに言われたくないの。ワイヤーで傷だらけの指で花嫁の顔をしていたくせに」  言い返せなかった。  麗華さんは満足げに鼻を鳴らし、トルソーの前に立った。 「今回の白は、三種類使うわ」  彼女が指先で布を持ち上げる。 「一番下は、少し温かみのあるシルク。真っ白すぎると、あなたの顔が負ける。中のチュールは薄い銀
last updateLast Updated : 2026-07-16
Read more

第544話 鏡の中の花嫁

「これ……」 「目立たないでしょう」 「はい。でも、ちゃんとあります」 「そういう花だったじゃない。あなたが拾ったあれも」  胸の奥が、静かに震えた。  切られた花。  胸元に咲いた白。  奈々さんとお母様の歩いた道。  あの日の記憶が、布の上で別の形になっている。 「ドレスに、奈々様の式を入れてくれたんですか」 「入れたというより、外せなかったのよ」  麗華さんは少しだけ視線を逸らした。 「あなたはもう、ただ湊様に選ばれた女じゃない。九龍の婚礼を作る側の人間になった。だったら、その証を身につけるべきでしょう」  彼女の声は、淡々としていた。  でも、その言葉の奥にある熱が、私にはわかった。 「さあ、着るわよ」 「はい」 「下着のライン、確認するから。恥ずかしがっても無駄よ」 「突然現実に戻さないでください」 「現実を作るのが仕事でしょう、花嫁さん」  その呼び方に、少しだけ胸が跳ねた。  花嫁さん。  私は、今まで何百回もその言葉を誰かに向けてきた。けれど、自分がそう呼ばれる側になると、こんなにもくすぐったく、重く、温かいものなのか。  フィッティングルームでドレスに袖を通す。  肌に触れたシルクは、思っていたよりも柔らかかった。冷たい布ではない。手の熱をすぐに受け取り、体温と一緒に落ち着いていく。  背中のファスナーが上がる音が、やけに大きく聞こえた。 「肩、力を抜いて」  麗華さんが背後から言う。 「抜いてます」 「嘘。新婦の肩こりまで見抜けないデザイナーだと思わないで」 「職業病ですね」 「お互い様よ」  肩に触れる彼女の指は、思ったよりも丁寧だった。  昔、私のドレスを踏みにじるように見下していた人と、同じ人だとは思えない。けれど、完全に別人になったわけでもない。口は悪いし、プライドは高いし、こちらが感傷的になればすぐに刺してくる。  そのままの彼女が、変わったのだ。  だから、胸に響く。  姿見の前に立たされた。 「目を開けて」  言われて、自分がいつの間にか目を閉じていたことに気づいた。  ゆっくりと瞼を上げる。  鏡の中に、白いドレスの女がいた。  一瞬、それが自分だとわからなかった。  細い袖が腕を包み、胸元のレースが呼吸に合わせてかすかに上下する。ウエストは締めつ
last updateLast Updated : 2026-07-16
Read more

第545話 仕事の鎧

 鏡の中の女は、五万円のレンタル彼氏を待って、式場のエントランスで震えていた女と同じ顔をしている。  元彼と元親友を見返してやりたくて、嘘の恋人を探していた。  自分のプライドを守ることだけで精一杯で、誰かの人生にこんなふうに自分が立つ日が来るなんて、想像もしなかった。  あの日の私は、可哀想だった。  情けなかった。  でも、あの夜があったから、湊に出会った。  契約があったから、九龍家に入った。  傷があったから、誰かの傷を見落とさなかった。  鏡の中の自分の目から、涙がぽろりと落ちた。 「ちょっと」  麗華さんの声が、背後で尖る。 「泣くなら、せめて本縫いが終わってからにしてくれる? 涙染みになったら、私が倒れるわ」 「すみません」 「謝るくらいなら泣かない」 「無理です」 「でしょうね」  彼女は、諦めたように息を吐いた。  そして、鏡越しに私を見る。  その表情に、いつもの嘲りはなかった。 「似合ってるわ」  たったそれだけ。  でも、その一言を言うまでに、麗華さんがどれほど自分の中の何かと戦ったのかが、わかった。  私は涙を拭こうとして、慌てて手を止めた。ファンデーションがつく。職業病で反射的にそう思ったのが、自分でも可笑しい。 「ありがとうございます」 「礼は式が終わってから。式の打合せでも誰かが同じこと言ってたでしょう」 「志保さんですね」 「似たようなものよ。九龍家に関わる女は、どうしてこうも面倒なのかしら」 「麗華さんも、その一人ですよ」  麗華さんが、露骨に嫌そうな顔をした。 「巻き込まないで」 「もう巻き込まれてます」 「本当に腹が立つ花嫁ね」  そう言いながら、彼女は私のスカートの裾を整える。指先が、驚くほど優しくレースを撫でた。◇ 仮縫いの細かな調整が始まると、麗華さんは一気に職人の顔になった。 「右肩、一ミリ落とす」 「一ミリで変わるんですか」 「変わるわ。湊様は間違いなく横から見る。あなたが歩く時、肩の線が硬いとすぐ気づく」 「湊、そんなところまで見ます?」 「見るに決まってるでしょう。あの男、あなたに関してだけは視線が気持ち悪いくらい細かいもの」 「気持ち悪いって」 「褒めてないわよ」  若いスタッフが笑いを堪えて、ミシンの方へ顔を背けた。  麗華
last updateLast Updated : 2026-07-17
Read more

第546話 往生際の悪い白

 営業用の笑顔。  どれだけ傷ついても、壊れそうでも、口角を上げて、背筋を伸ばす。ブライダルコーディネーターとして身につけたその仮面は、何度も私を助けてくれた。  でも、湊の隣に立つ時まで、それを着続ける必要はないのかもしれない。 「……脱げますかね、私」  思わず漏らすと、麗華さんの手が一瞬止まった。  鏡越しに、視線が合う。 「脱げなくてもいいんじゃない」  意外な答えだった。 「その鎧で戦ってきたんでしょう。だったら、捨てなくていい。ただ、式の日くらい、誰かにファスナーを下ろさせればいいのよ」 「……湊に?」 「そこは姉にでも頼みなさい。今、変な想像をさせないで」 「してません」 「嘘が下手ね」  頬が熱くなる。  麗華さんは呆れたように息を吐いたが、その目は少しだけ笑っていた。 「朱里さん」  突然、名前で呼ばれた。  いつもより少しだけ低い声だった。 「私は、あなたが嫌いだった」  針を持つ手が、布の上で止まる。 「知ってます」 「でしょうね。隠してなかったもの」 「はい」 「あなたが湊様の隣にいるのが、許せなかった。家柄も、立場も、努力の方向も、何もかも違うのに。どうしてこの人は、あんなふうに笑えるのかって」  麗華さんの声には、自嘲が混じっていた。 「昔の私は、選ばれなかったことが悔しかったんじゃないの。……たぶん、自分では一度も誰かを本気で選んだことがなかったのよ。服も、人も、全部、勝つための道具だった」  鏡の中で、彼女の睫毛が少し伏せられる。 「だから、あなたが腹立たしかった。人に踏まれても、馬鹿みたいに拾い上げる。捨てられたものに価値を見つける。そんなの負け惜しみだと思っていたのに」  彼女は、小さく笑った。 「奈々さんの式の日、胸元のマーガレットを外せなかった」  胸が、きゅっと締めつけられた。 「外そうと思えば、外せたのよ。私は白鳥真琴より先に、あなたを認めたくなかった。でも、外せなかった。あの花が、あまりにも往生際悪く咲いていたから」 「……麗華さん」 「だから、このドレスにも入れたの。往生際の悪い白を」  彼女は再びピンを打った。  布が、私の身体に沿って少しだけ形を変える。 「あなたには、綺麗なだけの白は似合わない。傷があって、意地があって、泣きながらでも前に進む
last updateLast Updated : 2026-07-17
Read more

第547話 立ち止まった姉

◇ 仮縫いが終わった頃には、窓から差す光が少し傾いていた。  私はドレスを着たまま、仕上がりのシルエットを確かめるため、アトリエ奥の大きな鏡の前に立った。麗華さんが後ろで裾を広げ、スタッフが照明の角度を変えると、レースの陰に隠れていた小さなマーガレットが浮かび上がった。正面から見ただけでは気づかないほど、控えめな刺繍だった。  歩いてみて、と促されて一歩踏み出す。スカートの内側で銀のチュールが揺れ、足元に朝靄のような淡い光がこぼれた。  温室のガラス越しに見た夜明けを、ふと思い出した。  その時、ノックもなくアトリエの扉が開いた。 「あんた、仮縫い終わった? 書類の確認が……」  詩織姉の声が途切れた。  入口に立った姉は、クリアファイルと分厚い封筒を抱えたまま、私を見ていた。急いで来たのだろう、肩からバッグの紐がずり落ちかけている。それを直そうともせず、ドレスの裾から私の顔へ、ゆっくりと目を上げた。 「詩織姉?」 「……あんた」  そこまで言って、姉は口をつぐんだ。見慣れないものを見るような顔をされて、私は鏡の中の自分を確かめた。 「変、かな」 「何言ってるの。そんなわけないでしょ」  返事だけは早かった。けれど、その先が続かない。  姉は封筒をクリアファイルの下へ重ね直し、端を揃えた。もう揃っているのに、指先でもう一度押さえている。目元が赤くなっているのに気づいて、私は鏡から姉へ向き直った。  いつもなら、何か言ってくれるはずだった。姿勢が悪いとか、そんなにぼんやり立っていないでとか。私が困るより先に手を出し、泣けば呆れながらも、最後まで話を聞いてくれる姉だった。  その姉が、今は唇を噛んでいる。  胸が詰まった。さっきまで鏡に映るドレスばかり見ていたのに、姉の顔を見た途端、式の日が急に近づいた気がした。私はこの姿で湊の隣に立ち、姉はきっと、こんなふうに私を見るのだ。  麗華さんが裾から手を離し、作業台へ戻った。 「当日はメイクを直すのも大変なんだから、泣くなら今のうちにしておいてね」 「……うるさいわね」  姉はすぐに言い返したが、麗華さんの方は見なかった。  私は少し笑いかけて、うまく笑えなかった。姉の目尻に溜まった涙が、瞬きをするたびに膨らんでいた。  ドレスの裾を両手で持ち上げ、一歩近づいた。 「詩織姉」
last updateLast Updated : 2026-07-17
Read more

第548話 書類を握る手

 鏡の中の白いドレスから、私は詩織姉の姿へ視線を移した。  同じ鏡に映っていても、並んでいると言えるほど、詩織姉は近くにいない。アトリエの入口に立ったまま、片手で目元を覆い、もう片方の手でクリアファイルと分厚い封筒を握りしめている。いつものように背筋は伸びているのに、その肩だけがほんの少し、頼りなく震えていた。  麗華さんが、作業台の上のピンクッションを静かに持ち上げた。 「仮縫いの確認は終わり。スタッフ、奥で糸番を確認して。ここは五分だけ空けるわ」 「え、麗華さん」 「邪魔なのよ、姉妹の湿っぽい空気は」  そう言いながら、麗華さんは私のスカートの裾をもう一度だけ整えた。指先がレースに触れる動きは、言葉とは反対にひどく丁寧だった。 「朱里さん、動く時は裾を持つ。踏んだら縫い直し。泣くなら、涙は下へ落とさない。横に拭きなさい」 「泣き方まで指示されるんですか」 「花嫁は泣き方にも責任があるの」  詩織姉が、目元を隠したまま低く言った。 「聞いたでしょ、朱里。そこでじっとしてて」  詩織姉はファイルを抱え直し、空いた手の甲で目元を押さえた。私が近づこうとすると、レースの裾へちらりと目をやる。 「抱きついて何十万円分も台無しにしたら、請求書を切るからね」 「詩織姉、こんな時までお金の心配?」 「こんな時だからよ。あとで泣いても知らないわよ」  言い返す声はいつもの調子に近かった。けれど、語尾だけが少し濡れている。  麗華さんは「何十万円かでは済まないわよ」と冷静に訂正し、スタッフたちを連れて奥へ消えた。アトリエの扉が静かに閉まる。ミシンの低い駆動音も、裁断ばさみが布を噛む音も遠のき、広い鏡の前に、私たち二人だけが残された。  白いドレスの裾が、私の足元でかすかに揺れた。 「……詩織姉」  返事の代わりに、姉は鼻をすすった。目を合わせようとすると横を向き、鏡に映った私を見て、また困ったように唇を結ぶ。 「高級なアトリエの空気って、合わないのよね。庶民には」 「ハンカチ、ある?」 「あるわよ。あんたの分まで用意してきたんだから」  封筒を脇に挟んでバッグを探る姉を見て、私はかえって何も言えなくなった。  くだらない言い訳なのに、笑いきれなかった。  詩織姉の手の中のクリアファイルが、かすかに軋んでいる。中にはきっと、式当日の
last updateLast Updated : 2026-07-18
Read more

第549話 姉の寂しさ

「あんた、昔からそういうところがあるのよ。言うことを聞いているふりをして、結局、自分の行きたいところへ行くんだから」 「たぶん、詩織姉に似たんだと思う」 「私のせいにしないの」  あと二歩。  近づくほど、詩織姉の顔がよく見えた。いつもきっちり引かれているアイラインの端が、ほんの少しだけ滲んでいる。唇は固く引き結ばれていて、泣かないために全身で踏ん張っているのがわかった。  私の知っている姉は、強い。  内容証明を送りつける時も、役所の窓口で理不尽な相手に対応する時も、私が泣きながら電話をかけた夜も、詩織姉はまず水を飲めと言い、それから事実を時系列に並べろと言った。  でも、その強さは、最初から彼女の中にあったものではない。  父が倒れた時、姉だって怖かったはずだ。それでも私より先に電話をかけ、事情を調べ、できることを探してくれた。  私が泣いているあいだ、姉はいつ泣いていたのだろう。 「詩織姉」 「……ちょっと待って。今、こっち見ないで」 「ありがとう」  詩織姉の息が止まった。  私は足を止めた。抱きつける距離ではない。手を伸ばしても、届くか届かないか。そのくらいの距離で、私は頭を下げた。  ドレスのレースが、膝のあたりで静かに波打つ。 「今まで、ずっと守ってくれてありがとう」  言った瞬間、詩織姉の顔が歪んだ。 「……やめなさい」 「やめないよ」 「そういうの、本当に苦手なの。感謝は現金振込でお願い」 「金額いくら?」 「一生分だから、分割不可」 「じゃあ、払えないね」 「最初から期待してないわよ」  詩織姉はそう言って笑おうとした。  けれど、失敗した。  目尻から、ぽろりと涙が落ちる。  白い床に落ちた一滴は、小さすぎて音もしなかった。それでも、私にはその音が聞こえた気がした。ずっと硬く閉ざされていた箱の鍵が、ようやく外れたような音。 「……なんで、あんたが先にお嫁に行くのよ」  低く、悔しそうな声だった。 「普通、こういうのって、姉が先じゃないの」 「詩織姉、そういう順番とか気にしない人だと思ってた」 「気にしないわよ。制度上も法的にも、婚姻順序に意味なんてないし」 「うん」 「でも」  詩織姉は、唇を噛んだ。 「でも、あんたが先に行くのは、寂しいじゃない」  その言葉は、小さか
last updateLast Updated : 2026-07-18
Read more

第550話 たった一人のお姉ちゃん

「馬鹿みたいだけど。わかってるけど。あんたの制服にアイロンをかけて、寝坊したあんたの髪を結んで、弁当箱に冷凍食品を詰めて、先生からのプリントをなくしたあんたを怒って」  一つひとつ、彼女の声に昔の生活音が戻ってくる。  朝の狭い台所。焦げた卵焼き。片方だけ見つからない靴下。雨の日に乾かなかった体操服。夜中、こっそり泣いていた私の布団を、何も言わずに直してくれた姉の手。 「そうやって、気づいたら、あんたを送り出す側になってた」  詩織姉は、クリアファイルを胸に抱え直した。 「私、あんたの親じゃないのにね」  胸が、ぎゅっと縮んだ。 「親じゃないよ」  詩織姉が顔を上げる。  その目が少しだけ傷ついたように見えて、私は慌てて首を振った。 「違うの。詩織姉は、お姉ちゃんだよ。親の代わりじゃなくて、私の、たった一人のお姉ちゃん」  詩織姉の指先が、封筒の角を強く掴んだ。 「お父さんとお母さんが仕事で帰りの遅い夜、寂しくなかったわけじゃない。でも、私はずっと一人じゃなかった。詩織姉がいた。うるさくて、怖くて、すぐ証拠を出せって言う姉がいた」 「最後の評価、悪口じゃない?」 「褒めてる」 「嘘が下手」  同じ言葉を返されて、今度は私が泣き笑いになった。  詩織姉はしばらく黙っていた。  そして、諦めたように息を吐くと、ゆっくりこちらへ歩いてきた。 「裾、もう少し持ち上げて。踏んじゃう」  言われた通りにすると、姉はようやく近づいてきた。顔を伏せかけた私にハンカチを渡し、レースへ涙が落ちないよう目で促す。 「世話が焼けるんだから。返事だけは昔からいいくせに」 「ちゃんと自分で動くこともあるでしょ」 「復讐にレンタル彼氏を雇おうとした話なら、今はやめて」  その時ばかりは言い返せず、私たちは濡れた目を見合わせて笑った。  ようやく、詩織姉が私の正面に立った。  ドレスを挟んで、ぎこちない距離。  彼女は私の肩に手を伸ばしかけ、触れる直前で止めた。 「……麗華さんに、怒られないかしら」  肩のすぐそばでためらっている手に、私は自分の指を重ねた。 「大丈夫。詩織姉、お願い」  詩織姉は、眉間に皺を寄せた。  それから、壊れ物に触れるみたいに、そっと私の肩に手を置いた。  あの人らしくないほど、慎重な手だった。 「……綺
last updateLast Updated : 2026-07-18
Read more
PREV
1
...
5354555657
...
59
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status