昔、泣き疲れた私を寝かしつける時と同じ、少し乱暴で、照れ隠しの混じった手つきだった。 「あと、湊さんに一つだけ言っておいて」 「何?」 「妹を泣かせたら、内容証明では済まさない」 「それ、もう何回も言ってる」 「何回でも言うの。法的通知は繰り返しが大事だから」 笑った拍子に、また涙が落ちそうになった。 その時、扉の向こうで、ごく控えめなノックがした。 詩織姉が反射的に私から離れ、目元を乱暴に拭う。 「誰?」 「僕だ」 低い声。 湊だった。 心臓が、変な跳ね方をした。 「入らないで!」 私と詩織姉の声が、見事に重なった。 扉の向こうで、一瞬沈黙が落ちる。 「……承知した。見ていない」 「見たら、眼球を法的に差し押さえるわよ」 「詩織さん、眼球は差し押さえの対象として極めて不適切だ」 「冗談に真面目に返さないでちょうだい。腹が立つわね」 扉越しに、湊が小さく笑った気配がした。 「朱里にも聞いていて欲しい」 「はい」 「一つだけ、詩織さんに伝えたい」 詩織姉の表情が、少しだけ引き締まる。 湊の声は、扉を挟んでいても、まっすぐだった。 「僕は、朱里をいただくつもりはありません」 息が止まった。 詩織姉も、目を見開いて扉を見つめている。 「彼女をあなたから奪うのではなく、僕が、あなたたちの家族に加わらせてもらうつもりです」 静かな声だった。 飾り立てた誓いではない。けれど、その一文に、九龍湊という人の変化がすべて詰まっていた。 人を所有するように守ろうとしていた人が。 契約書で関係を縛ろうとしていた人が。 今、扉の向こうで、私の家族に頭を下げている。 詩織姉の唇が震えた。 「……そう」 彼女は、いつものように眼鏡を押し上げようとして、今日はかけていないことに気づいたらしく、指を宙で止めた。 「じゃあ、加わるからには覚悟して。茅野家は、面倒よ」 「知っている」 「妹は馬鹿みたいにお人好しで、放っておくと自分を後回しにする」 「ああ」 「あんたも、重すぎる愛で暴走する」 「否定はしない」 「なら、二人でちゃんと止まりなさい。どっちか一人が全部背負うんじゃなくて」 扉の向こうで、短い沈黙があった。 やがて、湊が低く答える。 「約束します」
Last Updated : 2026-07-19 Read more