All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 551 - Chapter 560

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第551話 家族に加わる約束

 昔、泣き疲れた私を寝かしつける時と同じ、少し乱暴で、照れ隠しの混じった手つきだった。 「あと、湊さんに一つだけ言っておいて」 「何?」 「妹を泣かせたら、内容証明では済まさない」 「それ、もう何回も言ってる」 「何回でも言うの。法的通知は繰り返しが大事だから」  笑った拍子に、また涙が落ちそうになった。  その時、扉の向こうで、ごく控えめなノックがした。  詩織姉が反射的に私から離れ、目元を乱暴に拭う。 「誰?」 「僕だ」  低い声。  湊だった。  心臓が、変な跳ね方をした。 「入らないで!」  私と詩織姉の声が、見事に重なった。  扉の向こうで、一瞬沈黙が落ちる。 「……承知した。見ていない」 「見たら、眼球を法的に差し押さえるわよ」 「詩織さん、眼球は差し押さえの対象として極めて不適切だ」 「冗談に真面目に返さないでちょうだい。腹が立つわね」  扉越しに、湊が小さく笑った気配がした。 「朱里にも聞いていて欲しい」 「はい」 「一つだけ、詩織さんに伝えたい」  詩織姉の表情が、少しだけ引き締まる。  湊の声は、扉を挟んでいても、まっすぐだった。 「僕は、朱里をいただくつもりはありません」  息が止まった。  詩織姉も、目を見開いて扉を見つめている。 「彼女をあなたから奪うのではなく、僕が、あなたたちの家族に加わらせてもらうつもりです」  静かな声だった。  飾り立てた誓いではない。けれど、その一文に、九龍湊という人の変化がすべて詰まっていた。  人を所有するように守ろうとしていた人が。  契約書で関係を縛ろうとしていた人が。  今、扉の向こうで、私の家族に頭を下げている。  詩織姉の唇が震えた。 「……そう」  彼女は、いつものように眼鏡を押し上げようとして、今日はかけていないことに気づいたらしく、指を宙で止めた。 「じゃあ、加わるからには覚悟して。茅野家は、面倒よ」 「知っている」 「妹は馬鹿みたいにお人好しで、放っておくと自分を後回しにする」 「ああ」 「あんたも、重すぎる愛で暴走する」 「否定はしない」 「なら、二人でちゃんと止まりなさい。どっちか一人が全部背負うんじゃなくて」  扉の向こうで、短い沈黙があった。  やがて、湊が低く答える。 「約束します」
last updateLast Updated : 2026-07-19
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第552話 母の真珠のヘアピン

 蓋を開けると、少し黄みを帯びた小さな真珠が二粒、銀色のピンに留められていた。  古くて、控えめで、光も強くない。  でも、不思議と目が離せなかった。 「……使っていいの?」 「使うために持ってきたの。しまい込んでいても、埃をかぶるだけでしょ」  詩織姉は箱からピンを取り出し、私の髪の横へそっと当てた。  鏡の中で、白いドレスに小さな真珠が重なる。  マーガレットの刺繍、銀のチュール、温室の白。  そこへ、茅野家の小さな白が一つ、加わった。 「お母さん、喜んでくれるかな」  思わず呟くと、詩織姉は鏡に映る私の横顔を見た。 「喜ぶに決まってるでしょ。あんたのドレス代を聞いたら、たぶん腰を抜かすけど」 「そこ?」 「そこよ。現実は大事」  言いながら、彼女はヘアピンを外し、箱へ戻した。 「これは式当日の朝、私がつける」 「詩織姉が?」 「嫌なの?」 「嫌じゃない」 「なら決まり」  詩織姉は封筒を抱え直し、急にいつもの仕事顔に戻った。 「それと、招待状の最終確認。席次表も明日までに仮組みする。感傷に浸るのは五分って麗華さんが言ったでしょ。もう七分経ってる」 「急に現実に戻った」 「現実を作るのが仕事なんでしょ、花嫁さん」  麗華さんと同じ言い方をされて、私は吹き出した。  詩織姉は、不機嫌そうに眉をひそめる。 「何笑ってるの」 「私、いい人たちに囲まれてるなって」 「今頃気づいたの? 遅い」  そう言いながら、詩織姉は私の肩についた小さな糸くずを摘まみ取った。  指先が離れる時、彼女はもう一度だけ、鏡の中の私を見た。  その目元には、まだ少し赤みが残っている。 「朱里」 「うん」 「本当に、綺麗よ」  今度は、ちゃんと笑って言ってくれた。  私は、泣かないように唇を噛んだ。  鏡の中で、白いドレスの私が少しだけ背筋を伸ばす。  嫁ぐということは、誰かを置いていくことではない。  家族が終わることでもない。  守ってくれた手から、今度は自分の足で歩き出すこと。  そして振り返った時、そこにいてくれる人の数が、少し増えることなのかもしれない。  アトリエの奥から、麗華さんの「そろそろいいかしら」という声が飛んできた。  詩織姉はすぐに涙の跡を隠すように顔を引き締め、いつもの調子で答えた。
last updateLast Updated : 2026-07-19
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第553話 並んだ大切な名前

 招待状の封筒は、白い紙のはずなのに、一枚ごとに重さが違うように感じた。  九龍ホテルのブライダルサロン。閉館後の打ち合わせスペースには、昼間の華やかさが嘘のような静けさが落ちている。壁際の間接照明だけが柔らかく灯り、ガラスの花器に活けられた白い花の影が、テーブルの上で薄く揺れていた。  目の前には、発送前の招待客リスト。  その隣に、手書きのメモ、席次表の下書き、同封する未記入の返信はがき、未発送の封筒が並んでいる。  自分の結婚式のための書類なのに、私はいつもの癖で、ボールペンを持つ手に仕事用の力を込めていた。右上の日付、名前の漢字、肩書、敬称。席の位置。通路の幅。車椅子の動線。アレルギーの有無。受付に渡すリストの差し替え箇所。  確認すべきことはいくらでもある。  けれど、目が止まるのは、どうしても名前だった。  名前は、ただの文字ではない。  その人と自分の間にあった時間が、一行の中に凝縮されている。  相沢奈々様。相沢航平様。  奈々さんのお母様の名前も、丁寧に記されている。式当日のバリアフリー動線欄には、詩織姉が赤字で「休憩スペースを二箇所確保。人目が少ない位置」と書き込んでくれていた。  大島花園 大島様。  新藤様。  佐藤工場長。  かつて私が担当した花嫁たちの名前。小さな工場で、九龍の無理難題に付き合ってくれた人。白鳥側の圧力がかかっても、最後まで残ってくれた現場の人たち。華枝様の古い縁から、今の私へ手を伸ばしてくれた人たち。  綾辻麗華様。  その名前の横には、本人の強い希望により「肩書不要」と書かれている。けれど、席次表の下書きで私は、小さく鉛筆で「ドレス制作」とだけ添えた。本人に見つかったら怒られるだろう。でも、消せなかった。  九龍征司様。  その隣に、詩織姉の名前。  その前の欄に並ぶ、父と母の名前へ目を戻した。母には、父を早めに休ませられる部屋も用意していると伝えてある。それでも父は、最後までいると言い張るのだろう。式の準備をしているのは私なのに、実家へ電話をすると、ちゃんと食べているかと先に聞かれる。忙しい、と返して切った日のことを思い出し、あとでこちらからかけようと思った。  征司さんと詩織姉を同じテーブルにするか、隣同士にするか、私はこの三日間で何度悩んだかわからない。隣にすれば征司さんが
last updateLast Updated : 2026-07-20
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第554話 招待しない二人

「終わらないのか」 「あと少しだけ」 「その『あと少し』を、僕はこの一週間で十七回聞いた」 「もう、数えないでよ」 「君に関することは、嫌でも覚える」  さらりと言われて、頬が熱くなる。  湊は向かいの椅子に腰を下ろし、テーブルの上のリストを覗き込んだ。大きな手が、私のペンのすぐそばに置かれる。指先に、わずかなインクの跡があった。 「湊、手」 「ん?」 「インク、ついてるよ」  ハンカチを差し出すと、湊は自分の指を見て、小さく眉を上げた。 「久しぶりに手書きで招待状に添える挨拶を書いていた」 「CEOが自分で?」 「君が、招待状は手で出したいと言ったから」  胸が、静かに揺れた。  何気なく言ったことを、この人は拾ってくれる。重いと言えば重い。でも、その重さが、今は私を縛る鎖ではなく、足元に敷かれる柔らかな絨毯のように感じられる。 「……ありがとう」 「礼を言うのは僕の方だ」 「どうして」 「九龍の結婚式に、こんなに人の名前が並ぶ日が来るとは思わなかった」  湊の視線が、リストの上をゆっくり滑っていく。  古い血筋を示す名ばかりではない。  役員、親戚、政財界の名士。その横に、工場長、花屋、音響スタッフ、かつての花嫁たち、姉、従兄弟、デザイナー。肩書も立場も違う人たちが、一枚の紙の上で同じ余白を分け合っている。 「華枝様が見たら、なんて言うかな」 「まず、席次表の字が小さいと文句を言う」 「言いそう」 「その後で、たぶん笑う」  湊の声が少しだけ低くなった。  私は、リストの隅に置いていた白い花の押し花を指で撫でた。温室で育った白。奈々さんの式で胸元に咲き、麗華さんのドレスに刺繍され、今、招待状の束のそばに静かに置かれている。  白い花は、何度も姿を変えながら、私たちの前に現れる。  終わったものではなく、受け継がれるものとして。 「……美咲さんと、拓也さんの名前は?」  湊が、静かに言った。  責める声ではなかった。  確認する声だった。  私は、一瞬だけペン先を止めた。  リストの下の方には、空白が三行ある。途中で削除したせいではない。最初から、入れなかった。 「入れてないよ」 「そうか」 「二人は、呼ばない」  口にしてみると、思っていたよりも声は震えなかった。  美咲。  拓
last updateLast Updated : 2026-07-20
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第555話 剣吾からの封筒

 痛みは、ある。  傷跡も、消えてはいない。  けれど、もうそれは私の未来の席を決めるほどの力を持っていなかった。 「許したわけじゃないよ」 「ああ」 「顔を見たら、たぶん嫌な気持ちにもなると思う。昔のことを思い出して、少しは腹も立つと思う」 「それでいい」 「でも、私たちの式に、二人のための席は作らない」  言いながら、私は空白の三行をそっと指でなぞった。 「これからも一緒にいたい人に、来てほしいんだと思う」  湊の目が、静かにこちらを見た。 「誰を見返すかじゃなくて、誰に見ていてほしいか。誰と同じ空気の中で、誓いたいか。だから……あの二人は、ここにはいらない」  湊は、しばらく黙っていた。  そして、私の手からペンをそっと取り、空白の三行の上に小さな線を引いた。  削除線ではない。  何かを消すための線ではなく、そこから先へ進むための、静かな区切りのような線。 「なら、その席は空けておこう」 「空席にするの?」 「いや」  湊は、少しだけ口角を上げた。 「当日、急に誰かが泣き出した時のための予備席だ。君の周りには、涙腺の壊れた人間が多い」 「詩織姉に聞かれたら、怒られるよ」 「詩織さんだけとは言っていない」 「もしかして、湊も?」  からかうと、湊は視線を逸らした。  その仕草があまりにも分かりやすくて、私は思わず笑ってしまった。 「……君のドレス姿をまだ見ていない」 「見たら、泣いちゃう?」 「わからない」  正直すぎる答えに、胸の奥が甘く痛んだ。  湊はごまかすようにリストへ目を落とし、次の封筒を手に取った。  その時だった。  サロンの扉が、控えめにノックされた。 「茅野さん」  ホテルスタッフが顔を覗かせる。少し緊張した表情だった。 「お忙しいところ申し訳ございません。こちら、九龍家宛に届いたものなのですが……茅野様に直接お渡しするよう、差出人の代理人から指定がございました」  差し出されたのは、白い封筒だった。  招待状よりも少し厚手で、飾り気のない事務用のもの。表には、達筆とは言えない硬い文字で、私の名前が書かれていた。  茅野朱里様。  差出人の欄を見た瞬間、息が止まった。  九龍剣吾。  湊の表情が、一瞬で冷えた。 「開けなくていい」  低い声だった。  彼の
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第556話 未来へ渡す招待状

 私がしたことは、謝罪の言葉で消えるものではありません。  あなたを傷つけ、兄貴を追い詰め、九龍家の名を汚したことを、一生かけて償います。  招待状を望む資格がないことは理解しています。  ただ、あなたが作る式が、血筋ではなく、人を選び直す場になることを、心から願っています。  九龍剣吾』  読み終えても、しばらく文字から目を離せなかった。  怒りが湧くと思っていた。  嫌悪が先に来ると思っていた。  けれど、胸に残ったのは、もっと静かなものだった。  便箋の端が、少しだけ滲んでいる。書き損じを直した跡なのか、握りしめた指の汗なのかはわからない。完璧な謝罪文ではない。むしろ、不格好だった。  でも、その不格好さが、少しだけ剣吾という人間の今を示している気がした。  少なくとも、この手紙には、また私たちの前に敵として立とうとする言葉はない。  許しを強いる言葉もない。  遠くで、自分の罪を抱えながら生きようとしているのだろう。どこまで変われるかは、この一枚だけではまだわからなかった。 「……招待状は、送らない」  私は便箋を丁寧に畳んだ。 「でも、この手紙は取っておくね」  湊は何も言わなかった。  ただ、私の手に重ねるように、自分の手を置いた。  その体温が、迷いをほどく。 「……まだ、許せないんだけど」 「ああ」 「忘れなくても」 「忘れる必要はない」 「でも、憎み続けなくてもいい」  湊の指が、私の指先をそっと包み込む。 「君がそう選ぶなら」  私は、小さく頷いた。  便箋を、招待状の束とは別の封筒へ入れる。  未来へ連れていく人の名簿には載せない。  でも、過去の箱の中へ乱暴に押し込めることもしない。  その中間に置く。  それが、今の私にできる区切りだった。◇ 夜が深くなる頃、招待状の最終確認はようやく終わった。  詩織姉からのメッセージが届く。 『誤字なし。席次表の敬称も確認済み。あんたは今すぐ寝なさい。肌荒れした花嫁ほど迷惑なものはない』  その後に、もう一通。 『追伸。泣きすぎ注意』  思わず笑ってしまった。  湊が、隣からスマートフォンを覗き込む。 「詩織さんか」 「うん。相変わらず厳しいよ」 「優しいな」 「どこが?」 「全部だ」  即答されて、私は何も言え
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第557話 花嫁の朝の支度

◇ 招待状を送り出してから六週間後。式当日の朝。  まだ外の空が薄青い時間、控室にはアイロンの蒸気と、温かい紅茶の香りが満ちていた。  鏡の前に座る私の髪を、詩織姉が後ろから整えている。 「動かないで」 「動いてないってば」 「息で動いてる」 「それくらいは許してよ」  詩織姉は不満げに鼻を鳴らしながら、仮縫いの日に見せてくれた母のパールのヘアピンを、私の髪の横へ慎重に差し込んだ。  小さな真珠が、照明を受けて控えめに光る。 「……はい」  鏡越しに、詩織姉の目と合った。  今日は、泣いていない。  けれど、その目元は少しだけ赤い。 「似合ってるわよ」 「ありがとう」 「お母さんも、まあ、文句は言わないんじゃない」 「詩織姉は?」 「私は文句だらけよ。ドレスが高い。新郎が重い。式場が広い。親族席の老人たちが面倒。あと、征司さんが朝から浮かれてる」 「最後のは、私のせいじゃない気がするんだけど」 「だいたい九龍家のせいよ」  控室の端で、麗華さんが最終チェックをしながら呆れたように言った。 「花嫁の支度中に現実を叩きつける姉って、なかなか希少ね」 「現実を知らない花嫁よりましです」 「同感だけど、今日くらいは少し黙っていて」 「努力します」 「今すぐして」  二人のやり取りに、メイク担当のスタッフが笑いを堪えていた。  緊張で冷たくなっていた指先に、少しだけ血が戻る。  ドレスを着る。  背中のファスナーを上げる音が、試着の時よりもずっと大きく聞こえた。  麗華さんが裾を整え、詩織姉がベールを持つ。白い布がふわりと肩へ落ちた瞬間、世界の音が少し遠のいた。  私は鏡の中の自分を見る。  時給五万円の恋人を待っていた女。  契約書にサインした女。  九龍家で何度も泣いて、それでも立ち上がった女。  花を拾い、胸元に咲かせ、自分の式を作ると決めた女。  全部、私だった。 「朱里」  詩織姉が、ベール越しに私の肩を軽く叩いた。 「行きなさい」 「うん」 「転ばないでよね」 「それ、今言う?」 「大事でしょ」 「大事といえば大事だけど」  笑った瞬間、喉の奥が熱くなった。  泣かない。  まだ、泣かない。  控室の扉が開く。  廊下の向こうから、式場の音がかすかに聞こえた。弦楽の
last updateLast Updated : 2026-07-21
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第558話 白い道の向こう

 扉が、開いた。  細く差し込んでいた白い光が、一気に視界を満たす。  弦楽の前奏が、ほんの少しだけ揺れた。演奏者の指が緊張したのか、それとも私の耳が勝手にそう聞いたのかはわからない。ただ、そのかすかな震えまで、やけにはっきり届いた。  白い花の香りがした。  温室のマーガレットと、淡いグリーンの草花。奈々さんの式の花と同じ組み合わせで、この日のために本邸の温室から摘み、志保さんが新しく束ねてくれたものだ。華枝様の温室で育った白は、今度は切られた痛みではなく、祝福の匂いとして私の胸元にある。  足元で、ドレスの内側の銀のチュールが、さらりと鳴った。  その音に、現実へ引き戻される。  進まなきゃ。  一歩、踏み出す。  柔らかな絨毯がヒールの音を吸い込んだ。あの日、拓也と美咲の披露宴会場へ乗り込んだ時は、石の床にヒールの音がやけに大きく響いていた。逃げられないと自分に言い聞かせるために、私はわざと強く床を踏んだ。  今日は、音がしない。  それなのに、心臓だけがうるさい。  バージンロードの両側には、たくさんの顔が並んでいた。  奈々さんと航平さんがいる。奈々さんのお母様は車椅子の上で、胸元に飾った白い花を指先で撫でながら、私のほうへ小さく頷いてくれた。佐藤工場長は不器用に背筋を伸ばし、隣の奥様に肘でつつかれて慌ててハンカチを取り出している。  麗華さんは、腕を組んでいた。  泣くつもりは一切ない、という顔をしているのに、私が歩くたびに視線がドレスの裾へ落ちる。右肩のライン、胸元のレース、内側で光る銀のチュール。自分の作ったものが、ちゃんと花嫁を支えているか。その確認を、彼女は一ミリも怠らない。  その少し後ろで、詩織姉が立っていた。  腕は組んでいない。クリアファイルも持っていない。ただ両手を前で握りしめ、唇をきつく結んでいる。今朝、私の髪に母のパールのヘアピンを挿してくれた時と同じ目をしていた。  泣かないために、全身で踏ん張っている目。  視線が合った瞬間、詩織姉の口が小さく動いた。  背筋。  声は聞こえなかった。  でも、確かにそう言われた気がして、私は肩の力を少しだけ抜き、まっすぐ前を向いた。  その先に、湊がいた。  黒のフォーマルスーツ。普段の濃紺のスリーピースよりもずっと静かな色なのに、彼だけが会場の
last updateLast Updated : 2026-07-22
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第559話 選んだ手を取る

 いつもの余裕のある笑みも、皮肉も、完璧な表情管理もない。黒い瞳がわずかに見開かれ、唇がほんの少しだけ開いている。まるで、言葉を出す前に息の仕方を忘れてしまったみたいだった。  その顔を見た瞬間、喉の奥が熱くなる。  泣かない。  まだ、泣かない。  ここで泣いたら、詩織姉に「メイク担当に謝りなさい」と叱られる。麗華さんには「だから泣き方にも責任があると言ったでしょう」と冷たく言われる。  そう思ったら、少し笑えた。  笑った私を見て、湊の目がさらに揺れた。  ああ、だめだ。  あの人のほうが先に泣きそうだ。  一歩、また一歩。  私は誰かの腕に縋って歩いているわけではない。  親族席で、父が膝の上の手を握り直した。母は私の髪を見てから、そっと口元を押さえる。二人のそばで、詩織姉だけがまだ背筋を伸ばしていた。一人で歩くと言った私を、誰も止めなかった。その人たちの前を通り、私は湊へ向かった。  自分の足で歩く。  この道の先にいる人を、自分で選んだのだから。  ドレスの裾が、ほんの少し絨毯に引っかかった。  反射的に手を伸ばし、裾を持ち上げる。スタッフが慌てて動こうとした気配がしたが、それより早く、私は自分で布を逃がした。  会場のどこかで、小さな笑いが起きる。  完璧な花嫁ではない。  でも、それでいい。  私はずっと、そうやってやってきた。転びそうになったら、自分で布を持つ。足元を見すぎたら、また前を見る。  湊まで、あと三歩。  二歩。  一歩。  最後の距離で、彼がようやく動いた。  差し出された手は、少し震えていた。  私はその震えを見て、胸が詰まった。いつも私を引き寄せ、守り、時には閉じ込めようとした大きな手。その手が、今日は私を待っている。  掴むのではなく、選ばれるのを待っている。  私は、右手を差し出した。  湊の指が、私の指先を包む。  体温が重なった瞬間、バージンロードの長さも、会場の広さも、周囲の視線も、全部が一度遠くなった。 「……来てくれて、ありがとう」  湊が、私にだけ聞こえる声で言った。  こんな日に言う言葉としては、少し変かもしれない。  でも、あの日の私たちには、似合っていた。  私が勝手に彼の腕を掴み、「遅い!」と怒鳴った、あの始まり。時給五万円で予約したはずの恋
last updateLast Updated : 2026-07-22
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第560話 人生の共同経営

「だから、僕は今ここに立っていられる」  司式者が、やわらかく咳払いをした。  湊は、名残惜しそうに私の手を離す。私も離したくなかったけれど、そっと手を引き、両手でブーケを持ち直した。ベール越しに見えた詩織姉が、目だけで「式を進めなさい」と言っている。  はい。  心の中で返事をして、私は祭壇の前に立った。  式は、驚くほど静かに進んだ。  豪華な演出も、過剰な照明もない。白い花、木目の椅子、淡い光。九龍の名を掲げるには控えめすぎる、と昔の誰かなら言ったかもしれない。  けれど、そこにいる人たちは皆、息を潜めるようにこちらを見つめていた。  誓いの言葉の時間になる。  司式者が合図をし、湊が一歩、私のほうへ向き直った。  その瞬間、彼の顔からCEOの仮面が完全に消えた。  残ったのは、不器用で、誠実で、少し怖がりな、一人の男だった。 「朱里」  低い声が、会場に落ちる。 「僕は、君との始まりを美しい物語として語ることはできない」  会場の空気が、わずかに揺れた。  私の心臓も、同じように揺れる。  けれど湊は、逃げなかった。 「誤解があった。契約があった。僕の都合も、君の意地もあった。人に誇れるような、清らかな始まりではなかったと思う」  胸の前で重ねていた手が、わずかに動いた。  緊張している。  そう気づいた瞬間、不思議と私のほうが落ち着いた。 「それでも、君はその不完全な始まりから、僕にたくさんのものを見せてくれた。壊れた家族を結び直す力。誰かの願いを最後まで拾う強さ。泣きながらでも現場に立つ覚悟。……それと、愛されることから逃げていた僕を、何度も引き戻す手」  湊の目が、私だけを見る。 「僕は今日、君を妻として選ぶ。九龍の花嫁として飾るためではない。僕の人生の隣に立つ人として。僕が迷った時に叱ってくれる人として。そして、守るだけではなく、共に守り合う人として」  息が、うまく吸えない。  会場のどこかで、誰かが小さく鼻をすすった。詩織姉か、志保さんか、征司さんが泣いているふりをして踏まれたのかはわからない。 「君の仕事を奪わない。君の夢を買い取らない。君が立つ場所を、僕の権力で塗り替えない。僕は君の隣で、同じ景色を見る」  湊の声が、ほんの少し震えた。 「愛している。朱里。これから先の人生を、僕と共同
last updateLast Updated : 2026-07-22
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