復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました のすべてのチャプター: チャプター 561 - チャプター 570

573 チャプター

第561話 CEOの花嫁④

 司式者が、今度は私を見た。 私の番だ。 胸の奥に、たくさんの言葉が詰まっている。用意してきた誓いの文はある。昨日の夜、詩織姉に誤字を確認され、「長い。三割削れ」と言われたものだ。 けれど、いま口を開いたら、その文面通りには出てこない気がした。 私は一度、息を吸った。「湊」 声が、思ったよりもまっすぐ出た。「私、ずっと、誰かの幸せを整える仕事をしてきました。打ち合わせ表を作って、予算を見て、親族の顔色を読んで、花の向きを直して。小さなことを積み重ねて、誰かの一日を支えるのが好きでした」 手の中のブーケが、かすかに揺れる。「でも、自分の幸せだけは、うまく扱えませんでした。傷ついた時、見返したくて、意地を張って、復讐のために湊の腕を掴みました。最初は、湊のことを道具にしようとしたんです」 会場は静かだった。 誰も笑わない。誰も軽蔑しない。 過去を隠すためではなく、過去から逃げないために、私は言葉を続ける。「それなのに、湊は私を道具のままにはしませんでした。怒って、守って、間違えて、謝って、何度も私の前に立ってくれました。大切にされるたびに、正直、怖くもなりました。こんな幸せ、私に似合うのかなって」 湊の目が、苦しそうに揺れる。 だから、私は少し笑った。「でも、もう疑いません」 言い切る。 その瞬間、胸の奥に残っていた小さな影が、すっと薄くなった。「私は、九龍家に飾ってもらうためにここにいるんじゃありません。湊と一緒に、新しい家族を作るためにここにいます。湊がCEOでなくても、九龍の当主でなくても、たとえ不器用で、過保護で、たまに話が重くても」 どこかで征司さんが吹き出し、すぐに誰かに肘で叩かれた音がした。 湊の口元も、少しだけ緩む。「私は、湊を選びます」 今度は笑わずに言った。「湊が守ろうとしてくれるものを、私も一緒に守ります。湊が迷ったら、たぶん叱ります。疲れているのに平気な顔をしたら、ご飯を食べさせます。一人で全部背負おうとしたら、書類ごと取り上げます」「それは困る
last update最終更新日 : 2026-07-23
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第562話 CEOの花嫁⑤

 湊が、私の左手を取った。 薬指の付け根に、冷たい金属が触れる。 その冷たさは、すぐに彼の指の熱で温まった。 ゆっくりと、指輪が嵌まる。 逃げ道を塞ぐ重さではなかった。 ここに戻ってきていい、という印のようだった。 私も、湊の左手を取る。 長い指。契約書にサインし、敵の資料を捲り、花を壊さないように拾い上げ、私の涙を不器用に拭ってくれた手。 その指に、指輪を通す。 途中で少し引っかかった。「あ」「大丈夫だ」「緊張で手、むくんでません?」「君にだけは言われたくない」 小声のやり取りに、また会場の前列が少し揺れた。 なんとか指輪が収まると、湊がほっと息を吐いた。 その息があまりにも人間らしくて、私はまた泣きそうになった。 司式者が、誓いの成立を告げる。 拍手が起きる前の、ほんの一瞬の静寂。 湊が、私のベールへ手を伸ばした。 指先が、頬の横で止まる。「触れても?」「今さらですか」「今だから、聞く」 その言葉に、胸が甘く痛んだ。「はい」 ベールが上がる。 薄い布越しではない湊の顔が、目の前にあった。 こんなに近い距離で何度も見てきたはずなのに、今日は初めて見る人みたいだった。 湊が、私の額に一度、唇を落とす。 それから、目元に触れるように視線を落とし、最後に唇へそっと重なった。 激しいキスではなかった。 けれど、会場の音が一瞬で消えるほど、深く、静かなキスだった。 離れた時、湊の額が私の額に触れていた。「逃げなかったな」「湊も」「僕は、ずっと待っていた」「知ってます」「これからも、待つ。君が仕事で遅くなっても、怒りながら待つ」「怒るの?」「心配はする」「それ、怒るより面倒じゃない?」「覚悟してくれ」 そう言って、湊がようやく笑った。 拍手が、一気に会
last update最終更新日 : 2026-07-23
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第563話 すべての嘘が愛に変わる日①

 披露宴会場に入った瞬間、料理の温かな香りと、グラスの触れ合う澄んだ音がふわりと広がった。 式場の静けさとは違う。こちらには、少し緩んだ笑い声と、椅子を引く音と、スタッフが料理皿を運ぶ足音がある。誰かが感極まって鼻をすすり、隣の人にハンカチを借りている気配まで混じっていた。 あたたかい。 そう思った。 九龍家の披露宴と聞けば、もっと重々しく、硬く、息の詰まるものを想像する人も多かったはずだ。家柄、格式、社交辞令。銀食器の位置を間違えただけで誰かが眉をひそめるような、完璧で冷たい箱。 でも、今この会場には、少し不揃いな温度があった。 奈々さんのお母様が、隣の席の志保さんに花の名前を尋ねている。志保さんは最初、いつもの無表情で答えていたけれど、お母様が「育てるのは難しいの?」と聞くと、少しだけ身を乗り出した。白い花の水やりの量について、思ったより長く説明している。 麗華さんはスタッフに紛れて、なぜか私のドレスの後ろ姿をまだ確認していた。「麗華さん」 小声で呼ぶと、彼女は平然とした顔でこちらを見る。「なに」「もう披露宴です」「知ってるわよ」「私、着替えてないんですけど」「だから見ているの。椅子に座った時の裾の落ち方が気になるのよ。あなた、すぐ仕事の顔で動き回るから」「今日は花嫁なんですけど」「ええ。だから動き回らないで」 隣で湊が、低く笑った。「僕も同意見だ」「湊まで」「今日くらい、他人の式の進行表ではなく、自分の皿を見てほしい」「見てます」「さっき、配膳スタッフの導線を目で追っていた」「……癖です」「知っている」 言い返そうとして、やめた。 湊の声が、あまりにも柔らかかったからだ。 新郎新婦席に座ると、真正面のテーブルから詩織姉の視線が飛んできた。口が動く。 姿勢。 今度ははっきり読めた。 私は背筋を伸ばす。 湊が、それを見てまた笑った。「詩織さんには、一生勝
last update最終更新日 : 2026-07-24
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第564話 すべての嘘が愛に変わる日②

 その瞬間、湊の指がテーブルの下で私の手を探した。 私はそっと握り返す。 強くはない。 ただ、そこにいると伝える程度の力で。 やがて、司会者が湊の名を呼んだ。「続きまして、新郎、九龍湊様より、ご挨拶をいただきます」 拍手が起きる。 湊が立ち上がった。 黒のジャケットのボタンを留める仕草は、いつものCEOのそれだった。だが、マイクを受け取る手元を見て、私は気づいた。 左手の指輪に、彼の親指が一度だけ触れた。 緊張している。 湊が緊張する姿を見るのは、何度目だろう。 プロポーズ前夜、役員会、温室、そして今日。 完璧な人に見えた彼の中に、揺れる場所があることを知るたび、私はこの人をもっと好きになる。 湊は、会場をゆっくり見渡した。「本日は、僕たちのためにお集まりいただき、ありがとうございます」 僕。 公の場でそう言ったことに、何人かの役員が小さく眉を動かした。普通なら「私」と言う場面だ。九龍グループのCEOとして、格式を守るなら、なおさら。 でも、湊は言い直さなかった。「今日、ここで皆様にお伝えしたいことがあります。僕と朱里の出会いは、決して胸を張って語れるようなものではありませんでした」 会場の空気が、静かに張り詰める。 私は背筋を伸ばした。 来る。 過去を隠さないと、私たちは何度も決めてきた。週刊誌に書かれた時も、白鳥側に突かれた時も、役員たちに嘲られた時も。 それでも、自分の結婚式の披露宴で、その始まりを語られるのは、やっぱり少し怖い。 湊は、私を見た。 逃げてもいい、と言う目ではなかった。 一緒に立てるか、と聞く目だった。 私は、小さく頷く。「初めて彼女に会った日、僕は式場のエントランスで、突然腕を掴まれました。そして、開口一番に叱られた」 会場のあちこちで、微かなざわめきが起きる。 湊の口元に、薄い笑みが浮かんだ。「『遅い』と」 笑いが、今度ははっきり広がった。
last update最終更新日 : 2026-07-24
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第565話 すべての嘘が愛に変わる日③

 マイクを持つ手に、力が入るのがわかった。「でも、本当は違いました。僕は、彼女の強さに惹かれていた。利用しているふりをしながら、隣にいる時間を手放したくなかった。契約という形がなければ、自分の寂しさを認めることもできなかった」 会場の奥で、志保さんが目を伏せた。 彼女の指が、膝の上のナプキンをそっと握っている。「僕は、愛というものを信じていませんでした。家族も、誓いも、無償の思いも、どこかで壊れると思っていた。だから、すべてを管理しようとした。契約書に書けないものを、最初からないものとして扱おうとした」 湊の視線が、私へ戻る。「朱里は、その僕の世界に、土足で入ってきました」「土足……」 思わず小声で呟くと、前列の奈々さんが笑いを堪えた。 湊の目にも、少しだけ笑みが浮かぶ。「怒って、泣いて、笑って、料理をして、花を拾って、誰かのために走り回って。僕が閉じ込めれば、そこから出てきて叱る。僕が全部買い取ろうとすれば、それでは意味がないと手を止める」 温室の冷たい床。 切られた白い花。 彼の怒りに触れながら、私は花を助けることを選んだ。 その記憶が、指輪の下で静かに脈を打つ。「僕は彼女から、仕事とは何かを教わりました。愛とは、相手を自分の箱に入れて守ることではなく、その人が立つ場所を信じることなのだと知りました。家族とは、血筋だけで決まるものではなく、選び直せるものなのだと知りました」 湊の声が、少し低くなる。「出会いは嘘でした。関係も、最初は契約でした。復讐も、意地も、誤解もありました。それでも、そのすべてがなければ、僕は今日ここに立っていません」 胸の奥が、ぎゅっと痛む。「僕は、嘘だった始まりを消したいとは思いません。あの日の不完全な僕たちがいたから、今日の誓いがあります。だから、どうか、その不格好な始まりごと、僕たちを見守ってください」 湊が、深く一礼した。 拍手が、すぐには起きなかった。 静寂が、会場を満たす。 重すぎたのかもしれない。 そう思った瞬
last update最終更新日 : 2026-07-24
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第566話 すべての嘘が愛に変わる日④

 湊が、驚いたように私を見る。「朱里」「少しだけ」 私はマイクを受け取る。 手のひらに汗をかいていた。 披露宴の進行表には、こんな項目はない。詩織姉があとで絶対に「予定外の発言は五分以内」と説教する。麗華さんは、私が立ったことで裾が乱れないか見ている。 でも、今言わなければいけないと思った。「湊のスピーチで、だいたい全部言われてしまったので、私は短めにします」 会場に、小さな笑いが起きる。 湊が、困ったように眉を下げた。「私も、最初からそんなに綺麗な人間だったわけではありません。裏切られて、悔しくて、見返したくて、誰かを道具にしようとしました。自分の誇りを守れるなら、嘘でもなんでも使ってやるって、本気で思っていました」 マイクを握る指に、力が入る。「でも、その時の私を、今の私は責めきれません。あんなふうに強がらないと、たぶん、立っていられなかったからです」 詩織姉が、静かに目を伏せる。 あの日、泣く私に水を飲ませ、時系列を書けと言った姉。 私は、その記憶を胸の中で一度抱きしめた。「湊と出会って、契約をして、たくさん間違えました。たくさん泣かせましたし、たぶん、たくさん心配もかけました」「たぶんではない」 湊が小さく言った。 マイクが拾ってしまい、会場が笑う。「……たくさん心配をかけました」 訂正すると、湊は真面目な顔で頷いた。「でも、今はもう、誰かを見返すためにこの人の隣にいるのではありません。九龍家の名前がほしいからでも、守られるだけで楽をしたいからでもありません」 湊を見る。 彼は、まっすぐ私を見返していた。「この人が笑っているところを、隣で見たいんです。疲れた時は、ちゃんと休ませたい。間違えた時は、一緒に立て直したい。仕事で怒っている時は、正直ちょっと面倒だなと思いながら、それでもそばにいたい」 また笑いが起きる。「湊の言った通り、私たちの始まりは、嘘でした。でも、嘘で始まったから本物になれないなんて、今は思
last update最終更新日 : 2026-07-25
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第567話 すべての嘘が愛に変わる日⑤

「良い式でしたわ」「ありがとうございます」「悔しいことに」 さらりと付け足され、私は思わず瞬きをした。 真琴さんは、シャンパングラスを持つ指をわずかに揺らす。「格式だけでは届かない場所があるのだと、今日の皆様は思われたでしょうね。……腹立たしいほど、説得力がありました」「それ、褒めてます?」「半分は」「残り半分は?」「競争心ですわ」 彼女は、微笑んだ。 敵意ではない。 けれど、馴れ合いでもない。「Swan Bridalは、簡単には負けません。あなたのような花嫁がいるなら、こちらも美学を磨き直さなければなりませんもの」「私、真琴さんの式も見てみたいです」 言うと、彼女の目がわずかに細くなった。「ずいぶん余裕ですこと」「余裕じゃありません。勉強です」「本当に腹立たしい方ね」 そう言いながら、真琴さんはグラスを軽く掲げた。「お幸せに。茅野さん。……いえ」 ほんの一瞬だけ、彼女は言葉を選んだ。「九龍朱里さん」 その響きに、胸が小さく跳ねる。 まだ慣れない。 けれど、嫌ではなかった。「ありがとうございます」 頭を下げると、真琴さんは優雅に背を向けた。 白鳥は、敵のまま去るのではない。 同じ業界で、違う美学を持つライバルとして、そこに残っていくのだろう。 それでいい。 全部を味方にする必要はない。 ただ、互いの仕事を認め合える場所まで来られたなら、それは一つの勝利だ。 ◇ やがて、司会者が次の進行を告げた。 中座前の花束贈呈。 本来なら、新婦から姉へ、あるいは両親への感謝として用意される場面だ。両親のいない私は、詩織姉へ小さな花束を贈る予定にしていた。母のパールのヘアピンと同じ、控えめな白い花を束ねたもの。 けれど、進行表には、もう一つだけ空白の欄があった。 湊
last update最終更新日 : 2026-07-25
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第568話 母に贈る花束①

「母さん」  その一言は、マイクを通さなかった。  けれど、会場の端にいた私の耳にも、確かに届いた。  湊の声は大きくなかった。役員会で空気を一瞬で凍らせる時の声でも、相手の逃げ道を塞ぐ時の低い声でもない。ほんの少し掠れていて、言葉にする直前まで迷っていたことがわかる声だった。  花束を持つ指先が、わずかに白い。  志保さんは席に座ったまま、動かなかった。背筋は相変わらず美しい。留袖の黒も、結い上げた髪も、九龍志保という人の輪郭を一分の隙もなく保っている。  けれど、膝の上に置かれたナプキンだけが、ほんの少し歪んでいた。 「今日まで」  湊はそこで一度、息を吸った。  ほんの短い沈黙だった。  それなのに、本邸の長い廊下の冷たさも、温室に積もっていた白い時間も、由理子さんの名前を挟んで向き合えなかった年月も、全部そこに集まったように見えた。 「僕を守ってくれて、ありがとう」  志保さんの睫毛が震えた。  会場の誰も、音を立てなかった。  グラスの泡が弾ける音まで聞こえそうな静けさの中、湊は花束を少しだけ差し出す。  白いマーガレットが揺れた。  奈々さんたちの式で一度切られ、温室で拾い集められ、志保さんの手で束ね直された花。華枝様が遺した場所で咲き、由理子さんの記憶を吸って育った白い花。  それは、ただの感謝の花束ではなかった。  由理子さんを忘れないまま、志保さんを母として受け取る。  その難しい線の上に、湊は今、自分の足で立っている。 「湊」  志保さんの唇が、ようやく動いた。  声は、ひどく乾いていた。 「私は……あなたに、感謝されるようなことはしていません」  会場の隅で、誰かが息を呑む。  志保さんは、その視線から逃げなかった。ただ、湊だけを見上げていた。 「あなたを傷つけました。何度も、必要以上に。守るためだと言い訳をして、言葉を選ばず、距離を置き、あなたに母を二度失わせたようなものです」  淡々としているのに、語尾だけがわずかに崩れていた。  人前で泣かない人が、最後に残
last update最終更新日 : 2026-07-26
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第569話 母に贈る花束②

「あなたが僕の実母、由理子の友人として約束を守ろうとしていたことも、華枝様を支え、九龍家の中で僕が潰されないよう盾になっていたことも、今は知っています」  そこで、湊は小さく息を吐いた。 「だから、母さん。これは裁判でも、判決でもありません。僕が、あなたに渡したいだけです」  言い方が、あまりにも湊らしかった。  周囲の評価ではない。正しさの証明でもない。  自分で選ぶ。  その頑固さが、今はひどく優しく見える。 「受け取ってください。僕の母として」  志保さんは、しばらく動かなかった。  やがて、椅子から立ち上がろうとして、足元を少し乱した。  隣の親族が手を貸すより早く、湊が一歩近づき、花束を持っていない手で志保さんの肘を支えた。  支えられた瞬間、志保さんの顔がくしゃりと歪む。  きっと、長い間、彼女は支える側だったのだ。  由理子さんの記憶を支え、華枝様の厳しさを支え、湊の未来を支え、九龍家の醜い部分が彼に届かないよう、自分の身体を壁にしてきた。  支えられることに、慣れていない。 「……湊」  志保さんは両手をそろえて、花束を受け取った。  白い花が、留袖の黒の上でふわりと明るく浮かぶ。  彼女は花に顔を近づけ、香りを確かめるように息を吸った。  その頬を、一筋の涙が滑り落ちる。  誰も、それを指摘しなかった。  湊が、静かに頭を下げる。  母に向けるには少し堅すぎる。けれど、湊らしい、精一杯の礼だった。 「ありがとう、ございました」  過去形と現在形の間で迷ったような言葉。  志保さんは花束を抱きしめ、唇を震わせた。 「こちらこそ」  その声は、ほとんど吐息だった。 「生きていてくれて、ありがとう」  会場のどこかで、小さく鼻をすする音がした。  それを合図にしたように、拍手が起きた。  最初は遠慮がちだった。家族の傷口に触れてしまわないよう、そっと布をかけるような拍手。  けれど、少しずつ大きくなる。  奈々さんが泣きなが
last update最終更新日 : 2026-07-26
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第570話 母に贈る花束③

 全部が、今日ここにある。 誰一人、最初から綺麗な形でここに来たわけではない。 それでも、来てくれた。 湊が私のもとへ戻ってくる。 目元が、少し赤かった。「泣いてる?」 小声で聞くと、彼は眉間に皺を寄せた。「君の目のほうが、ひどい」「質問に答えていません」「僕は合理的に話題を逸らした」「今、自白しましたよ」 湊は口を閉じた。 その沈黙が答えだった。 思わず笑うと、目尻から涙がこぼれた。湊が親指でそっと拭ってくれる。 会場の視線に気づき、慌てて顔を背けた。「人前ですよ」「知っている」「だったら、もう少し遠慮して」「今日は、僕の結婚式だ」「私の結婚式でもあるんですけど」「なら、君にも同じ権利がある」「何その権利」「人前で少しくらい甘やかされる権利」 さらりと言われて、私は反論の言葉を失った。 こういう時だけ、この人は本当にずるい。 ◇ 次は、私の番だった。 司会者に促され、私は白い小さな花束を持って、詩織姉の席へ向かう。 歩き始めた瞬間、姉の顔が変わった。 泣かないための顔から、説教をする時の顔へ。 あ、逃げた。 そう思って、胸が少し軽くなった。「詩織姉」「先に言っておくけど」 マイクを通さない距離で、姉が低く言った。「長い感謝状なら却下。涙でメイクが崩れた場合、補修費はそっち持ち」「式場のメイクさんに怒られるのは私です」「だったら簡潔に」「はい」 私は、花束を差し出した。 母のパールのヘアピンと同じ色の、控えめな白。目立たないけれど、近づくとちゃんと香る花。 詩織姉みたいだ、と言ったら怒られるだろうか。 たぶん怒られる。 でも、今日は言う。「詩織姉、ここまで連れてきてくれて、ありがとう」 詩織姉の眉が、ぴくりと動いた。
last update最終更新日 : 2026-07-27
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