All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 561 - Chapter 570

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第561話 私からの誓い

 司式者が、今度は私を見た。  私の番だ。  胸の奥に、たくさんの言葉が詰まっている。用意してきた誓いの文はある。昨日の夜、詩織姉に誤字を確認され、「長い。三割削りなさい」と言われたものだ。  けれど、いま口を開いたら、その文面通りには出てこない気がした。  私は一度、息を吸った。 「湊」  声が、思ったよりもまっすぐ出た。 「私、ずっと、誰かの幸せを整える仕事をしてきました。打ち合わせ表を作って、予算を見て、親族の顔色を読んで、花の向きを直して。小さなことを積み重ねて、誰かの一日を支えるのが好きでした」  手の中のブーケが、かすかに揺れる。 「でも、自分の幸せだけは、うまく扱えませんでした。傷ついた時、見返したくて、意地を張って、復讐のために湊の腕を掴みました。最初は、湊のことを道具にしようとしたんです」  会場は静かだった。  誰も笑わない。誰も軽蔑しない。  過去を隠すためではなく、過去から逃げないために、私は言葉を続ける。 「それなのに、湊は私の思い通りの道具にはなってくれませんでした。怒って、守って、間違えて、謝って、何度も私の前に立ってくれました。大切にされるたびに、正直、怖くもなりました。こんな幸せ、私に似合うのかなって」  湊の目が、苦しそうに揺れる。  だから、私は少し笑った。 「でも、もう疑いません」  言い切る。  その瞬間、胸の奥に残っていた小さな影が、すっと薄くなった。 「私は、九龍家に飾ってもらうためにここにいるんじゃありません。湊と一緒に、新しい家族を作るためにここにいます。湊がCEOでなくても、九龍の当主でなくても、たとえ不器用で、過保護で、たまに話が重くても」  どこかで征司さんが吹き出し、すぐに誰かに肘で叩かれた音がした。  湊の口元も、少しだけ緩む。 「私は、湊を選びます」  今度は笑わずに言った。 「湊が守ろうとしてくれるものを、私も一緒に守ります。湊が迷ったら、たぶん叱ります。疲れているのに平気な顔をしたら、ご飯を食べさせます。一人で全部背負おうとしたら、書類ごと取り上げます」 「それは困るな」  湊が、小さく呟いた。 「どうぞ困ってください」  会場に、温かな笑いが広がる。  笑いが消えるのを待って、私は彼の目を見つめた。 「愛してるよ、湊。これからも、私の隣にい
last updateLast Updated : 2026-07-23
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第562話 二つの輪と祝福

 湊が、私の左手を取った。  薬指の先に、冷たい金属が触れる。  その冷たさは、すぐに彼の指の熱で温まった。  ゆっくりと、指輪が嵌まる。  逃げ道を塞ぐ重さではなかった。  ここに戻ってきていい、という印のようだった。  私も、湊の左手を取る。  長い指。契約書にサインし、敵の資料を捲り、花を壊さないように拾い上げ、私の涙を不器用に拭ってくれた手。  その指に、指輪を通す。  途中で少し引っかかった。 「あ」 「大丈夫だ」 「緊張で手、むくんでない?」 「君にだけは言われたくない」  小声のやり取りに、また会場の前列が少し揺れた。  なんとか指輪が収まると、湊がほっと息を吐いた。  湊もこんなふうに息を詰めていたのだ。指輪の収まった手を見つめていたら、また視界が滲んだ。  司式者が、誓いの成立を告げる。  拍手が起きる前の、ほんの一瞬の静寂。  湊が、私のベールへ手を伸ばした。  指先が、頬の横で止まる。  私の目を確かめるように、湊がかすかに首を傾けた。伸びてきた指を待ちながら、私はそっと顎を上げる。緊張しているのは彼も同じだとわかって、胸が甘く痛んだ。  ベールが上がる。  薄い布越しではない湊の顔が、目の前にあった。  こんなに近い距離で何度も見てきたはずなのに、今日は初めて見る人みたいだった。  湊が、私の額に一度、唇を落とす。  それから私の目を覗き込み、最後に、唇へそっと口づけた。  激しいキスではなかった。  けれど、会場の音が一瞬で消えるほど、深く、静かなキスだった。  離れた時、湊の額が私の額に触れていた。 「逃げなかったな」 「湊も」 「僕は、ずっと待っていた」 「知ってる」 「君が仕事で遅くなっても、待ってる。ただ、連絡くらいはしてくれ」 「先に寝ててもいいのに」 「それができれば苦労しない」  こんな場所で、もう帰りの心配をしている。私は笑いを堪えながら、彼の指を握り返した。  そう言って、湊がようやく笑った。  拍手が、一気に会場を満たした。  詩織姉は、とうとうハンカチで目元を押さえていた。征司さんがそれを見て何か言い、次の瞬間、また足を踏まれている。麗華さんは、拍手をしながらも私の裾をまだ見ていた。志保さんは、胸元で両手を重ね、涙をこぼさないように唇を噛ん
last updateLast Updated : 2026-07-23
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第563話 不揃いの祝宴

 披露宴会場に入った瞬間、料理の温かな香りと、グラスの触れ合う澄んだ音がふわりと広がった。  式場の静けさとは違う。こちらには、少し緩んだ笑い声と、椅子を引く音と、スタッフが料理皿を運ぶ足音がある。誰かが感極まって鼻をすすり、隣の人にハンカチを借りている気配まで混じっていた。  あたたかい。  そう思った。  九龍家の披露宴と聞けば、もっと重々しく、硬く、息の詰まるものを想像する人も多かったはずだ。家柄、格式、社交辞令。銀食器の位置を間違えただけで誰かが眉をひそめるような、完璧で冷たい箱。  でも、今この会場には、少し不揃いな温度があった。  奈々さんのお母様が、隣の席の志保さんに花の名前を尋ねている。志保さんは最初、いつもの無表情で答えていたけれど、お母様が「育てるのは難しいの?」と聞くと、少しだけ身を乗り出した。白い花の水やりの量について、思ったより長く説明している。  麗華さんはスタッフに紛れて、なぜか私のドレスの後ろ姿をまだ確認していた。 「麗華さん」  小声で呼ぶと、彼女は平然とした顔でこちらを見る。 「なに」 「もう、お料理が来ますよ。麗華さんもお席へ」 「座る時、後ろの裾を巻き込まないでね。せっかく綺麗に広がっているんだから」  麗華さんはレースをひと撫でし、私の椅子を指した。 「あなた、気づくと仕事の顔で走り回っているから、心配なのよ」 「今日はおとなしくしてますって」  隣で湊が、低く笑った。 「僕も同意見だ」 「湊まで」 「今日くらい、他人の式の進行表ではなく、自分の皿を見てほしい」 「見てるよ」 「さっき、配膳スタッフの動線を目で追っていた」 「……つい、気になっちゃうの」 「知っている」  言い返そうとして、やめた。  湊の声が、あまりにも柔らかかったからだ。  新郎新婦席に座ると、真正面のテーブルから詩織姉の視線が飛んできた。口が動く。  姿勢。  今度ははっきり読めた。  私は背筋を伸ばす。  湊が、それを見てまた笑った。 「詩織さんには、一生勝てそうにない」 「私も、一度も勝てたことないよ」 「心強いな」 「湊の味方でもあると思うよ。たぶん」 「たぶんか」 「詩織姉の審査、一生終わらないと思う」  湊は、少し真剣な顔で頷いた。 「努力しよう」  そのあまりの本
last updateLast Updated : 2026-07-24
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第564話 遅いと言われた日

 その瞬間、湊の指がテーブルの下で私の手を探した。  私はそっと握り返す。  強くはない。  ただ、そこにいると伝える程度の力で。  やがて、司会者が湊の名を呼んだ。 「続きまして、新郎、九龍湊様より、ご挨拶をいただきます」  拍手が起きる。  湊が立ち上がった。  黒のジャケットのボタンを留める仕草は、いつものCEOのそれだった。だが、マイクを受け取る手元を見て、私は気づいた。  左手の指輪に、彼の親指が一度だけ触れた。  緊張している。  湊が緊張する姿を見るのは、何度目だろう。  プロポーズ前夜、役員会、温室、そして今日。  完璧な人に見えた彼の中に、揺れる場所があることを知るたび、私はこの人をもっと好きになる。  湊は、会場をゆっくり見渡した。 「本日は、僕たちのためにお集まりいただき、ありがとうございます」  僕。  公の場でそう言ったことに、何人かの役員が小さく眉を動かした。普通なら「私」と言う場面だ。九龍グループのCEOとして、格式を守るなら、なおさら。  でも、湊は言い直さなかった。 「先ほどの誓いで、僕たちの始まりに少し触れました。披露宴で話すには格好の悪い話ですが、今日は、初めて会った日のことをお聞きいただければと思います」  会場の空気が、静かに張り詰める。  私は背筋を伸ばした。  来る。  過去を隠さないと、私たちは何度も決めてきた。週刊誌に書かれた時も、白鳥側に突かれた時も、役員たちに嘲られた時も。  それでも、自分の結婚式の披露宴で、その始まりを語られるのは、やっぱり少し怖い。  湊は、私を見た。  逃げてもいい、と言う目ではなかった。  一緒に立てるか、と聞く目だった。  私は、小さく頷く。 「初めて彼女に会った日、僕は式場のエントランスで、突然腕を掴まれました。そして、開口一番に叱られた」  会場のあちこちで、微かなざわめきが起きる。  湊の口元に、薄い笑みが浮かんだ。 「『遅い』と」  笑いが、今度ははっきり広がった。  詩織姉が額に手を当てている。麗華さんは「やりそう」とでも言いたげな顔で私を見た。征司さんは肩を震わせ、斜め向かいの詩織姉に睨まれて慌てて真面目な顔に戻す。  顔が熱い。  でも、不思議と嫌ではなかった。  あの日の私は、確かに最悪だった。焦
last updateLast Updated : 2026-07-24
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第565話 嘘の始まりごと

 マイクを持つ手に、力が入るのがわかった。 「でも、本当は違いました。僕は、彼女の強さに惹かれていた。利用しているふりをしながら、隣にいる時間を手放したくなかった。契約という形がなければ、自分の寂しさを認めることもできなかった」  会場の奥で、志保さんが目を伏せた。  彼女の指が、膝の上のナプキンをそっと握っている。 「僕は、愛というものを信じていませんでした。家族も、誓いも、無償の思いも、どこかで壊れると思っていた。だから、すべてを管理しようとした。契約書に書けないものを、最初からないものとして扱おうとした」  湊の視線が、私へ戻る。 「朱里は、その僕の世界に、土足で入ってきました」 「土足……」  思わず小声で呟くと、前列の奈々さんが笑いを堪えた。  湊の目にも、少しだけ笑みが浮かぶ。 「怒って、泣いて、笑って、料理をして、花を拾って、誰かのために走り回って。僕が閉じ込めれば、そこから出てきて叱る。僕が全部買い取ろうとすれば、それでは意味がないと手を止める」  温室の冷たい床。  切られた白い花。  彼の怒りに触れながら、私は花を助けることを選んだ。  その記憶が、指輪の下で静かに脈を打つ。 「僕が金を出せば済むと思っていた場所で、彼女は手を汚して働いていました。守っているつもりで、その仕事まで奪おうとしていたんです。……今日ここに、彼女と働いてきた皆さんと、母がいてくれる。血筋ばかりを気にしていた頃の僕には、この席を思い描くことさえできませんでした」  湊の声が、少し低くなる。 「出会いは嘘でした。関係も、最初は契約でした。復讐も、意地も、誤解もありました。それでも、そのすべてがなければ、僕は今日ここに立っていません」  胸の奥が、ぎゅっと痛む。 「僕は、嘘だった始まりを消したいとは思いません。あの日の不完全な僕たちがいたから、今日の誓いがあります。だから、どうか、その不格好な始まりごと、僕たちを見守ってください」  湊が、深く一礼した。  拍手が、すぐには起きなかった。  静寂が、会場を満たす。  重すぎたのかもしれない。  そう思った瞬間、どこかで一人、ゆっくりと手を叩く音がした。  志保さんだった。  彼女は席に座ったまま、背筋を伸ばし、涙をこぼす寸前の顔で手を叩いている。  次に、詩織姉。  それ
last updateLast Updated : 2026-07-24
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第566話 予定外の新婦挨拶

 湊が、驚いたように私を見る。 「朱里」 「少しだけだから」  私はマイクを受け取る。  手のひらに汗をかいていた。  披露宴の進行表には、こんな項目はない。詩織姉があとで絶対に「予定外の発言は五分以内」と説教する。麗華さんは、私が立ったことで裾が乱れないか見ている。  でも、今言わなければいけないと思った。 「湊のスピーチで、だいたい全部言われてしまったので、私は短めにします」  会場に、小さな笑いが起きる。  湊が、困ったように眉を下げた。 「私も、最初からそんなに綺麗な人間だったわけではありません。裏切られて、悔しくて、見返したくて、誰かを道具にしようとしました。自分の誇りを守れるなら、嘘でもなんでも使ってやるって、本気で思っていました」  マイクを握る指に、力が入る。 「でも、その時の私を、今の私は責めきれません。あんなふうに強がらないと、たぶん、立っていられなかったからです」  詩織姉が、静かに目を伏せる。  あの日、泣く私に水を飲ませ、時系列を書けと言った姉。  私は、その記憶を胸の中で一度抱きしめた。 「湊と出会って、契約をして、たくさん間違えました。たくさん泣かせましたし、たぶん、たくさん心配もかけました」 「たぶんではない」  湊が小さく言った。  マイクが拾ってしまい、会場が笑う。 「……たくさん心配をかけました」  訂正すると、湊は真面目な顔で頷いた。 「でも、今はもう、誰かを見返すためにこの人の隣にいるのではありません。九龍家の名前がほしいからでも、守られるだけで楽をしたいからでもありません」  湊を見る。  彼は、まっすぐ私を見返していた。 「この人が笑っているところを、隣で見たいんです。疲れた時は、ちゃんと休ませたい。間違えた時は、一緒に立て直したい。仕事で怒っている時は、正直ちょっと面倒だなと思いながら、それでもそばにいたい」  また笑いが起きる。 「あの変な始まりを知って、それでも今日、ここへ来てくださった皆さんに、お礼を言いたいです。嘘から始まった私たちが、こうして祝っていただけるとは思っていませんでした。……あの日の私にも、この景色を見せてあげたいです」  言い終えて、私は一礼した。  拍手が起きる。  今度は迷いなく、温かかった。  湊が、隣で私の手を取る。  指輪
last updateLast Updated : 2026-07-25
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第567話 ライバルの祝辞

「良い式でしたわ」 「ありがとうございます」 「悔しいことにね」  さらりと付け足され、私は思わず瞬きをした。  真琴さんは、シャンパングラスを持つ指をわずかに揺らす。 「格式だけでは届かない場所があるのだと、今日の皆様は思われたでしょうね。……腹立たしいほど、説得力がありました」 「それ、褒めてます?」 「半分は」 「残り半分は?」 「競争心ですわ」  彼女は、微笑んだ。  敵意ではない。  けれど、馴れ合いでもない。 「Swan Bridalは、簡単には負けません。あなたのような花嫁がいるなら、こちらも美学を磨き直さなければなりませんもの」 「私、真琴さんの式も見てみたいです」  言うと、彼女の目がわずかに細くなった。 「ずいぶん余裕ですこと」 「余裕じゃありません。勉強です」 「本当に腹立たしい方ね」  そう言いながら、真琴さんはグラスを軽く掲げた。 「お幸せに。茅野さん。……いえ」  ほんの一瞬だけ、彼女は言葉を選んだ。 「九龍朱里さん」  その響きに、胸が小さく跳ねる。  まだ慣れない。  けれど、嫌ではなかった。 「ありがとうございます」  頭を下げると、真琴さんは優雅に背を向けた。  白鳥は、敵のまま去るのではない。  同じ業界で、違う美学を持つライバルとして、そこに残っていくのだろう。  それでいい。  全部を味方にする必要はない。  ただ、互いの仕事を認め合える場所まで来られたなら、それは一つの勝利だ。  もちろん、温室の件も業者への働きかけも、今日の一言で済んだことにはできない。調べは続いているし、警戒も解かない。その上で、この祝いの言葉は言葉として受け取ろうと思った。◇ やがて、司会者が次の進行を告げた。  中座前の花束贈呈。  両親には、宴の終わりに手紙と花を渡すことにしてある。その前に、いつも支えてくれた詩織姉へも、小さな花束を贈る予定にしていた。母のパールのヘアピンと同じ、控えめな白い花を束ねたもの。  けれど、進行表には、もう一つだけ空白の欄があった。  湊の希望で、最後まで詳細を伏せられていた部分だ。  スタッフが、舞台袖から二つの花束を運んでくる。  一つは、私が詩織姉に渡す小さな白。  もう一つは、温室の花を束ねた、少し大きな花束だった。  マー
last updateLast Updated : 2026-07-25
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第568話 母さんへ贈る白

「母さん」  その一言は、マイクを通さなかった。  けれど、花束を持って少し後ろまでついていった私の耳には、確かに届いた。  湊の声は大きくなかった。役員会で空気を一瞬で凍らせる時の声でも、相手の逃げ道を塞ぐ時の低い声でもない。ほんの少し掠れていて、言葉にする直前まで迷っていたことがわかる声だった。  花束を持つ指先が、わずかに白い。  志保さんは席に座ったまま、動かなかった。背筋は相変わらず美しい。留袖の黒も、結い上げた髪も、九龍志保という人の輪郭を一分の隙もなく保っている。  けれど、膝の上に置かれたナプキンだけが、ほんの少し歪んでいた。 「今日まで」  湊はそこで一度、息を吸った。  ほんの短い沈黙だった。  それなのに、本邸の長い廊下の冷たさも、温室に積もっていた白い時間も、由理子さんの名前を挟んで向き合えなかった年月も、全部そこに集まったように見えた。 「僕を守ってくれて、ありがとう」  志保さんの睫毛が震えた。  会場の誰も、音を立てなかった。  グラスの泡が弾ける音まで聞こえそうな静けさの中、湊は花束を少しだけ差し出す。  白いマーガレットが揺れた。  奈々さんたちの式で切られた花と同じ白が、今度は本邸の温室で育ち、今朝、志保さんの手で束ねられた花束になっている。華枝様が遺した場所で咲き、由理子さんの記憶を吸って育った白い花。  それは、ただの感謝の花束ではなかった。  由理子さんを忘れないまま、母と呼ぶようになった志保さんへの感謝を、今度は人前で示す。  その難しい線の上に、湊は今、自分の足で立っている。 「湊」  志保さんの唇が、ようやく動いた。  声は、ひどく乾いていた。 「私は……あなたに、感謝されるようなことはしていません」  会場の隅で、誰かが息を呑む。  志保さんは、その視線から逃げなかった。ただ、湊だけを見上げていた。 「あなたを傷つけました。何度も、必要以上に。守るためだと言い訳をして、言葉を選ばず、距離を置き、あなたに母を二度失わせたようなものです」  淡々としているのに、語尾だけがわずかに崩れていた。  人前で泣かない人が、最後に残った薄い紙で、自分の感情を押さえ込んでいる時の声だ。 「だから、私は――」 「資格の話なら、聞きません」  湊が静かに遮った。  志保さん
last updateLast Updated : 2026-07-26
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第569話 生きていてくれて

「あなたが僕の実母、由理子の友人として約束を守ろうとしていたことも、華枝様を支え、九龍家の中で僕が潰されないよう盾になっていたことも、今は知っています」  そこで、湊は小さく息を吐いた。 「だから、母さん。これは裁判でも、判決でもありません。僕が、あなたに渡したいだけです」  言い方が、あまりにも湊らしかった。  周囲の評価ではない。正しさの証明でもない。  自分で選ぶ。  その頑固さが、今はひどく優しく見える。 「受け取ってください。僕の母として」  志保さんは、しばらく動かなかった。  やがて、椅子から立ち上がろうとして、足元を少し乱した。  隣の親族が手を貸すより早く、湊が一歩近づき、花束を持っていない手で志保さんの肘を支えた。  支えられた瞬間、志保さんの顔がくしゃりと歪む。  きっと、長い間、彼女は支える側だったのだ。  由理子さんの記憶を支え、華枝様の厳しさを支え、湊の未来を支え、九龍家の醜い部分が彼に届かないよう、自分の身体を壁にしてきた。  支えられることに、慣れていない。 「……湊」  志保さんは両手をそろえて、花束を受け取った。  白い花が、留袖の黒の上でふわりと明るく浮かぶ。  彼女は花に顔を近づけ、香りを確かめるように息を吸った。  その頬を、一筋の涙が滑り落ちる。  誰も、それを指摘しなかった。  湊が、静かに頭を下げる。  母に向けるには少し堅すぎる。けれど、湊らしい、精一杯の礼だった。 「ありがとう、ございました」  過去形と現在形の間で迷ったような言葉。  志保さんは花束を抱きしめ、唇を震わせた。 「こちらこそ」  その声は、ほとんど吐息だった。 「生きていてくれて、ありがとう」  会場のどこかで、小さく鼻をすする音がした。  それを合図にしたように、拍手が起きた。  最初は遠慮がちだった。家族の傷口に触れてしまわないよう、そっと布をかけるような拍手。  けれど、少しずつ大きくなる。  奈々さんが泣きながら手を叩いている。麗華さんは横を向いて、指先で目尻を押さえていた。征司さんは軽口を探している顔をして、結局何も言えずに拍手だけしている。詩織姉は、両手を胸の前で重ねたまま、瞬きの回数を明らかに増やしていた。  私の手も、震えていた。  結婚式は、二人だけのものではな
last updateLast Updated : 2026-07-26
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第570話 お姉ちゃんでいてくれて

 全部が、今日ここにある。  誰一人、最初から綺麗な形でここに来たわけではない。  それでも、来てくれた。  湊が私のもとへ戻ってくる。  目元が、少し赤かった。 「泣いてる?」  小声で聞くと、彼は眉間に皺を寄せた。 「君の目のほうが、ひどい」 「質問に答えていません」 「僕は合理的に話題を逸らした」 「今、自白したわよね」  湊は口を閉じた。  その沈黙が答えだった。  思わず笑うと、目尻から涙がこぼれた。湊が親指でそっと拭ってくれる。  会場の視線に気づき、慌てて顔を背けた。 「人前だよ」 「知っている」 「だったら、もう少し遠慮して」 「今日は、僕の結婚式だ」 「私の結婚式でもあるんですけど」 「なら、君にも同じ権利がある」 「何その権利」 「人前で少しくらい甘やかされる権利」  さらりと言われて、私は反論の言葉を失った。  こういう時だけ、この人は本当にずるい。◇ 次は、私の番だった。  司会者に促され、私は白い小さな花束を持って、詩織姉の席へ向かう。  歩き始めた瞬間、姉の顔が変わった。  泣かないための顔から、説教をする時の顔へ。  あ、逃げた。  そう思って、胸が少し軽くなった。 「詩織姉」 「先に言っておくけど」  マイクを通さない距離で、姉が低く言った。 「長い感謝状なら却下。涙でメイクが崩れた場合、補修費はそっち持ち」 「式場のメイクさんに怒られるのは私です」 「だったら簡潔に」 「はい」  私は、花束を差し出した。  母のパールのヘアピンと同じ色の、控えめな白。目立たないけれど、近づくとちゃんと香る花。  詩織姉みたいだ、と言ったら怒られるだろうか。  たぶん怒られる。  でも、今日は言う。 「詩織姉、ここまで連れてきてくれて、ありがとう」  詩織姉の眉が、ぴくりと動いた。 「自分の足で歩いてきたつもりだったけど、後ろを振り返ったら、いつも詩織姉がいた。怒りながら、呆れながら、時々ものすごく怖い顔で」 「余計な形容詞が多い」 「でも、いてくれた」  詩織姉が黙る。  私は花束を少し持ち上げた。 「お父さんとお母さんもいてくれた。でも、誰かの代わりとしてじゃなくて、詩織姉は詩織姉だから。私のお姉ちゃんでいてくれて、ありがとう」  最後の言葉で
last updateLast Updated : 2026-07-27
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