復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました のすべてのチャプター: チャプター 61 - チャプター 70

131 チャプター

第61話 パーティーの危機⑥

 あの絶対的な自信に満ちたCEOが、初めて見せる弱音。 その背中が、私の知っている彼よりもずっと小さく、脆く見えた。 志保はもはやパニックで役に立たない。総支配人もおろおろするばかり。 麗華は高みの見物を決め込んでいる。 誰も、動けない。 ――カッ、と。 私の腹の底で、熱い火種が爆ぜた。 冗談じゃない。 こんな、しょうもない悪意に負けてたまるか。 私の雇い主を、私の「婚約者」を、こんな形で笑い者になんてさせてたまるか! これは結婚式じゃない。 でも、状況は同じだ。 一生に一度の晴れ舞台。楽しみにしているゲストたち。そして、予期せぬトラブル。 それを何とかして、「最高の時間」に変えるのが、私たちプロの仕事じゃないの! 私は、ドレスの裾を強く握りしめると、ヒールの音を高く鳴らして前に出た。「――まだ、終わってません」 私の声は、騒然とするバックヤードの空気を切り裂くように、凛と響いた。 全員の視線が、私に集まる。 湊が、驚いたように目を見開いて私を見た。 志保が、呆然と顔を上げる。 麗華が、不快そうに眉をひそめる。「朱里……? 何をしている、ここは関係者以外……」「関係者です。あなたの婚約者ですから」 私は湊の言葉を遮り、まっすぐに彼を見据えた。 今の私は、ただの「雇われ人」じゃない。 数々の修羅場をくぐり抜けてきた、ブライダルコーディネーター・茅野朱里だ。「総支配人さん、今の厨房にある食材のリストと、すぐに動けるスタッフの人数を教えてください。それと、冷蔵庫にあるドリンクの在庫表も」「は、はい……? いや、しかし……」「急いで! 時間がないの!」 私の剣幕に押され、総支配人が慌ててタブレットを差し出す。 私はそれをひったくるように受け取り、高速で画面をスクロールさせた。「…
last update最終更新日 : 2026-01-26
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第62話 パーティーの危機⑦

「……何をする気だ」「『ピンチョス・パーティー』に切り替えるの」「ピンチョス……?」「そう。今の食材で、一口サイズのアペタイザーなら無数に作れる。クラッカーにチーズとフルーツを乗せるだけ、ハムで野菜を巻くだけ、パンをカットして彩りよく並べるだけ。……これなら、火を使わなくても、高度な調理技術がなくても、スタッフ総出でやれば十五分で数百個は用意できる!」 私は周りのスタッフを見渡した。「盛り付けが勝負よ。大皿に山盛りにするんじゃなくて、鏡やアクリル板を使って、ジュエリーみたいに美しく並べるの。高さと彩りを意識して。……会場の照明を少し落として、各テーブルにキャンドルを増やして。料理の少なさを誤魔化すんじゃない、あえて『フィンガーフードを片手に会話を楽しむ、洗練された大人の夜会』という演出に変えるのよ!」 スタッフたちが、顔を見合わせた。 絶望に染まっていた彼らの目に、微かに光が宿り始める。 できるかもしれない。 いや、やるしかない。「……ふん、馬鹿馬鹿しい」 麗華が冷ややかに笑った。「そんな貧乏くさいおつまみで、舌の肥えたVIPたちが満足するとでも? 九龍家の恥の上塗りよ」「満足させます」 私は麗華を睨み返した。 「空腹は最高のスパイス、なんて言葉に甘えるつもりはありません。……演出次第で、ただのクラッカーも宝石に変わる。それが、私の仕事です」 そして、湊を見た。 彼の瞳が、揺れている。 私を信じるか、それとも拒絶するか。「……湊。あなたが選んだ女は、ただの人形じゃないんでしょ?」 私の挑発に、湊の口元が――ほんの数ミリだけ、上がった気がした。 あの、不敵な笑みの欠片。「……総支配人」 湊の声が、低く響いた。 そこにはもう、迷いも焦りもなかった。あ
last update最終更新日 : 2026-01-26
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第63話 逆転のコーディネート①

 そのバックヤードは、戦場というよりも、高熱に浮かされたボイラー室のようだった。 怒号と金属音、そして焦げた油の匂いが入り混じる中、私はイブニングドレスの上に業務用の白いエプロンをきつく締め直した。乱れかけた髪を一本に括り上げ、総支配人からひったくるように受け取った在庫リストを睨む。「いい、聞いて! 目指すのは『五感で味わう宝石箱』。それだけ頭に叩き込んで!」 私の声が、食器の触れ合う音を切り裂いて響く。 厨房のスタッフたちが一斉にこちらを向いた。その目には戸惑いと、わずかな期待の色が混じっている。「冷蔵庫のフォアグラのテリーヌ、残さず出して。サイコロ状にカットして、トップにはドライフルーツのイチジクを。ピックは金色のもの以外使わないで」 矢継ぎ早に指示を飛ばす。迷っている暇はない。「スモークサーモンは薔薇の花に見立てて巻くの。敷くのはクラッカーをやめて、スライスしたキュウリにして。緑とオレンジのコントラストを際立たせたいのよ」「チーズはあるだけ全部盛って。でも、ただ並べるのは無しよ。カッティングボードの上に高さを出して、立体的に積み上げて。ブドウの枝をあしらって、静物画(スティル・ライフ)みたいに見せるの」 私の言葉が具体的な作業へと変換されるにつれ、シェフたちの目の色が変わっていくのがわかった。 彼らは超一流の職人だ。何をすべきかという「設計図」さえ示せば、その腕は確かだった。バラバラに散らばっていた彼らの熱量が、私の指先一つで束ねられ、同じ方向へと走り出す。 絶望的な状況が、熱狂へと変わる予感がした。「茅野様! パンが足りません!」 パントリー担当の若いスタッフが、裏返った声を上げた。 その悲鳴で、厨房の空気が一瞬で凍りつく。「予定していたバゲットは、メイン料理の付け合わせ分しか残っていなくて……これじゃあ、全員分のピンチョスの土台(ベース)が作れません!」 血の気が引く音が聞こえた気がした。 ピンチョスパーティーにおいて、手でつまめる土台は命綱だ。それがなければ、ただ具材を皿に乗せただけの、みすぼらしい試食会になってしまう。
last update最終更新日 : 2026-01-27
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第64話 逆転のコーディネート②

 エプロンのポケットで、スマホが短く震えた。 画面には「詩織」の文字。『朱里、あんた今どこ? テレビでそのホテルの近くで事故があったってニュースやってるけど』 ――これだ。 私は祈るような指先で通話ボタンを押し、耳に当てた。「お姉ちゃん! お願い、助けて! 今すぐパンが必要なの!」『はあ? あんた何言ってんの。人が心配してる時に』「緊急事態なの。今、ホテルのパーティーでトラブルがあって、あと二十分でバゲットかクラッカーを三百人分、用意しなきゃいけないの。お姉ちゃん、区役所の産業振興課にいたでしょ? この辺りで、この時間に無理を聞いてくれる業務用卸のパン屋さん、知らない!?」 電話の向こうで、姉が息を呑む気配がした。 ほんの数秒の沈黙。だが、私の姉は優秀だ。瞬時に「呆れた姉」から「冷徹な公務員」へとモードを切り替えたのが、声のトーンでわかった。『……場所はインペリアル・ドラゴンね。あそこの裏手、桜通りの一本裏に、老舗の「ベーカリー・ミヤマ」がある。区のイベントでよく使わせてもらってる店よ。店長とは顔なじみ』「そこ! 今すぐ連絡取れる!?」『やってみる。ちょうど来週の夜間防災訓練の差し入れ用に、大量のバゲットを焼いてもらってたはず。それをそっちに回してもらうように交渉するわ。……その代わり、あとで湊さんにたっぷりと請求書回すからね』「お姉ちゃん、愛してる! 一生恩に着る!」 通話を切り、私は天を仰いで小さく拳を握った。 首の皮一枚で繋がった。 振り返り、総支配人に叫ぶ。「裏口に搬入車を回して! 十分以内に『ベーカリー・ミヤマ』から焼きたてのバゲットが届くはずよ! 到着次第、薄くスライスしてオリーブオイルを塗って!」「は、はいっ! すぐに!」 総支配人が弾かれたように走り出す。 よし、これで「食」の問題は片付いた。 次は――「空間」だ。 私は熱気のこもった厨房を飛び出し、パーティー会場へと続く廊下を走った。 ふと、窓の外に広がる闇が目に入り
last update最終更新日 : 2026-01-27
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第65話 逆転のコーディネート③

 むっとするような、雨上がりの土の匂いが鼻孔をくすぐる。 私は躊躇なく、庭師が手入れしたばかりのハーブや、色づき始めた紫陽花、そして地面を這うアイビーの蔓に手を伸ばした。 少しだけ、命を分けて。 ドレスの裾が泥で汚れるのも構わず、私は手当たり次第に「使える」植物をむしり取っていく。 指先に触れる冷たい植物の感触が、ふいに昨日の記憶を呼び覚ました。 温室で、湊に向けられた冷たい視線。『僕の目の前から消えろ』という拒絶の声。 胸の奥が、ずきりと痛む。 でも、今は感傷に浸っている場合じゃない。 彼が守ろうとしているこのホテルを、九龍家の誇りを、私が守るんだ。 それが、私ができる唯一のこと。プロとしての意地であり、彼へのせめてもの償いなのだから。 抱えきれないほどの緑と花を持ってバックヤードに戻ると、スタッフたちがぎょっとして目を丸くした。「か、茅野様、それは……?」「お皿の余白を埋めるの。料理の周りにアイビーを這わせて。紫陽花は花びらを散らして、水滴がついたままの方がフレッシュに見えるわ! ……これは『自然との調和』をテーマにした、新しいスタイルのビュッフェよ」 私の言葉に、スタッフたちが力強く頷く。 迷いは消えていた。 全員が、「この夜を成功させる」という一つの熱狂に向かって、全速力で走り出していた。 ◇ そして、その時が来た。 会場の照明が、ふっと落とされる。 ざわめきが波のように広がる中、スタッフの手によって無数のキャンドルに火が灯されていく。 揺らめく炎が、会場を柔らかく、幻想的なオレンジ色に染め上げた。 明るすぎて粗が見えてしまう蛍光灯の光ではなく、すべてを美しく、ロマンティックに包み込む夕暮れ時の光。 重厚な扉が、ゆっくりと左右に開かれる。「皆様、本日はようこそお越しくださいました」 マイクを通した湊の声が、静まり返った会場に響いた。 ステージの中央に立つ彼は、計算されたスポットライトを浴びていた
last update最終更新日 : 2026-01-27
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第66話 逆転のコーディネート④

 宝石のように輝く、無数の料理たち。 黒いスレート皿の上で、フォアグラと琥珀色のイチジクが金色のピックに刺さり、キャンドルの光を吸い込んで艶やかに光っている。 焼きたてのバゲットの上には、彩り豊かな野菜のムースや、新鮮な魚介が踊るように盛り付けられている。 そして、それらの隙間を埋め尽くすのは、瑞々しいアイビーの深緑と、紫陽花の鮮烈な青や紫。 まるで、テーブルの上に小さな森が出現したかのような、圧倒的な生命力と美しさだった。「おお……!」「なんて美しいんだ……」 ゲストたちの間から、ため息のような感嘆の声が漏れる。 本来なら「料理が間に合わなかった」という致命的な失態であるはずの光景が、今は「計算され尽くした演出」として、驚きを持って受け入れられている。「どうぞ、お手に取ってご覧ください。……私の婚約者が、皆様のために心を込めてコーディネートいたしました」 湊が、会場の隅に控えていた私に向かって、ゆっくりと手を差し伸べた。 スポットライトが動き、私を照らし出す。 エプロンはもう外した。髪の乱れも直した。 私は深く息を吸い込み、完璧な「淑女の微笑み」を唇に乗せて、彼のもとへと歩み出した。 心臓が早鐘を打っている。 でも、足取りは乱さない。 私は湊の隣に立ち、差し出された彼の腕にそっと手を添えた。 スーツ越しに伝わる筋肉が、岩のように硬く強張っている。彼もまた、平然とした顔の下で、ギリギリの戦いをしていたのだ。「……皆様。限られた時間ではございますが、この空間と、この瞬間を、心ゆくまでお楽しみくださいませ」 私が深く一礼すると、会場中から割れんばかりの拍手が湧き起こった。「素晴らしい! こんなお洒落な演出は初めてだ!」「コース料理だと座りっぱなしで疲れるけれど、これなら色々な方と話せるわね」「このフォアグラ、絶品だ! シャンパンによく合う!」 称賛の声が、あちこちで花開く。
last update最終更新日 : 2026-01-27
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第67話 逆転のコーディネート⑤

 会場の喧騒の中、呆然と立ち尽くしている二つの影があった。 九龍剛造と、綾辻麗華だ。 剛造はグラスを持ったまま彫像のように固まり、麗華に至っては、能面のように表情を失っている。 彼女たちが描いた「九龍家の没落」というシナリオは、私の「宝石箱」によって、跡形もなく粉砕されたのだ。 ざまあみろ。 心の中で舌を出してやる。 その時。 人垣がさざ波のように割れ、一人の人物がこちらへ近づいてくるのが見えた。 コツ、コツ、と杖をつく音が、不思議なほど鮮明に響く。 九龍華枝だ。 小柄な老婆は、私の目の前でぴたりと足を止めた。 その鋭い眼光が、私を射抜くように見据える。 隣で湊が身構え、私の手を守るように握りしめたのがわかった。 華枝は何も言わず、近くのワゴンからピンチョスを一つ――スモークサーモンのバラを手に取った。 そして、ゆっくりと口に運ぶ。 長い、長い沈黙。 誰かが息を呑む音が、鼓膜を打つ。 やがて、華枝はナプキンで口元を丁寧に拭うと、私を見た。「……あり合わせの食材。庭の草花。そして、急場しのぎの演出」 淡々とした声で、事実だけが並べられる。 背筋が凍りつく。 バレている。当然だ。この人の目を誤魔化せるはずがない。 怒られるだろうか。九龍家の品位を下げたと、ここで罵られるだろうか。 けれど、華枝の口から出た言葉は、予想もしないものだった。「……だが、悪くない」「え……?」「ピンチを好機に変える機転。そして何より、客を楽しませようというもてなしの心意気。……それが、この皿の上には確かにある」 華枝の厳格な口元が、ほんの微かに緩んだように見えた。 あの「お茶会」の時と同じ。いや、それ以上に明確な、肯定の色。「度胸だけはあるようだね。……茅野朱里」「……
last update最終更新日 : 2026-01-27
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第68話 従兄弟・征司の接近①

 宴の熱気は、まだ会場のあちこちに澱(おり)のように残っていた。 急遽変更した立食形式のパーティー――「ピンチョス・スタイル」への転換は、私の予想を超えてうまくいったようだ。 去りゆく招待客たちが口にする「素晴らしい機転だ」「九龍家の新しい風を感じた」という賛辞が、さざ波のように耳に届く。 けれど、その言葉は私の胸を素通りして、どこか遠い場所へ消えていくようだった。 会場の出口では、湊が主催者としてゲスト一人ひとりを見送っている。 手入れの行き届いたスーツを隙なく着こなし、優雅に頭を下げるその横顔は、まさしく「若き帝王」のそれだ。自信に満ち、冷ややかなほどに美しい。 ついさっきまで私の隣にいた時の、あの少しだけ肩の力が抜けた、人間味のある湊はもうどこにもいなかった。 魔法が解けたみたいに、彼はふたたび雲の上の人へと戻ってしまったのだ。「……はぁ」 私は人目を盗むようにして、会場の隅にあるテラスへのガラス戸を押し開けた。 夜の湿り気を帯びた風が、火照った頬を撫でていく。 途端に、堰を切ったように泥のような疲れが全身にのしかかってきた。 張りつめていた緊張の糸が、ぷつりと切れたせいかもしれない。あるいは、履き慣れないハイヒールで走り回った代償だろうか。足の裏が脈打つように熱を持ち、ジンジンと痺れるような痛みを訴えている。 手すりに身体を預け、眼下に広がる夜景を見下ろした。 ここから見える東京の街は、誰かが宝石箱をひっくり返したみたいに輝いている。さっきまで私が会場で演出していた「偽物の宝石箱」とは違う、残酷なほどに美しい本物の光だ。(……終わったんだ) なんとか、守りきった。 湊の顔も、ホテルの信用も。 でも、胸の奥には風が吹き抜けるような穴が空いたままだ。 パーティーの最中、湊はたしかに私を見て「ありがとう」と言ってくれた。あの瞬間、ほんの一秒だけ、私たちの間に通うものがあった気がした。 けれど、ゲストの見送りが始まった途端、彼の瞳から私の姿は消えた。 まるで
last update最終更新日 : 2026-01-28
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第69話 従兄弟・征司の接近②

「おや。シンデレラの魔法は、もう解けちゃったのかな?」 背後から、歌うような、それでいてどこか粘り気のある男の声が鼓膜を震わせた。 ビクリと肩が跳ねる。 誰かに見られた。 慌ててヒールを履き直そうとして、バランスを崩した私の身体が大きく傾く。「わっ、と……!」「おっと、危ない」 コンクリートの床に叩きつけられると身構えた瞬間、伸びてきた腕がふわりと私を受け止めた。 湊の、あの拘束するような力強い腕とは違う。 もっと柔らかく、まるで壊れ物を扱うように繊細で、女性の扱いに慣れきったスマートな手つきだった。 鼻をくすぐったのは、甘いバニラの香りと、残り香のような煙草の匂いが混じり合った、退廃的な香り。「……大丈夫? 無理して履かなくていいよ。痛いんでしょう?」 顔を上げると、驚くほど近くに端正な顔があった。 茶色がかった髪を無造作に遊ばせ、切れ長の瞳が優しげに弧を描いている。造作は湊によく似ているのに、彼のような人を寄せ付けない威圧感はない。代わりに、人懐っこい犬のような、あるいは甘い蜜で虫を誘う毒花のような、危険な愛嬌が漂っていた。「……ありがとうございます。あの、あなたは……?」 私は体勢を立て直し、乱れた髪を直しながら少し距離を取った。 この会場にいるということは、かなりのVIPなのだろうか。「九龍征司(せいじ)。……さっき挨拶に来た、剛造の息子だよ」「征司、様……」 喉の奥で息を呑む。 湊のライバル。九龍家の次期当主の座を虎視眈々と狙う、もう一人の候補者。 そして、湊からかつて「大切なもの」を奪ったという因縁の男。 私は反射的に身体を強張らせ、一歩後ろへ下がった。「はは、そんなに警戒しないでよ。僕は親父みたいな古狸じゃないし、湊みたいな堅物でもないからさ」 征司は、私の警戒心などお見通しだと言わんばかりに、両手
last update最終更新日 : 2026-01-28
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第70話 従兄弟・征司の接近③

 それは馬鹿にするような色ではなく、純粋な称賛の響きを含んでいるように聞こえた。「綺麗に着飾っただけのお人形かと思ってたけど……君は、ちゃんと生きてるね。あの血も涙もない湊の隣にいるには、もったいないくらいだ」「……湊は、血も涙もない人なんかじゃありません」 考えもしないうちに、言葉が口をついて出ていた。 自分でも驚く。あんなに冷たくされているのに、どうして彼を庇うようなことを言ってしまうのだろう。「へえ? 随分と愛されてるんだな、兄貴は」 征司は面白そうに目を細めた。 彼はポケットからハンカチを取り出すと、何かを包んで私に差し出した。「ほら。これ、使いなよ」「え……?」 差し出されたハンカチは、冷たい水滴を帯びていた。中に入っているのは氷だ。おそらく、会場のドリンクコーナーから拝借してきたものだろう。「足、痛いんだろ? 冷やすと少しはマシになるよ。……湊はそういう細かいとこ、気がつかないからなぁ」 そのさりげない気遣いに、強張っていた胸の奥が少しだけ緩む。 湊なら、「我慢しろ」と切り捨てるか、あるいは有無を言わさず抱き上げて運ぶかのどちらかだ。こんな風に、目線を合わせて労ってくれることなんて、きっとない。「……ありがとうございます」 私は素直に礼を言い、ハンカチを受け取った。 布越しに伝わる氷の冷たさが、熱を持ってズキズキと痛む足首に染み渡り、心地いい。「ねえ、朱里ちゃん。……って呼んでいい?」 ふわり、と甘い匂いが近づいた。 征司が、音もなく距離を詰めてきている。 私の名前を呼ぶ声が、妙に馴れ馴れしく、それでいて拒絶できない甘さで絡みつく。「君、無理してない?」「……え?」「顔に書いてあるよ。『疲れた』『寂しい』『褒めてほしい』って」 図星だった。 心臓が早鐘を打ち、息
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