復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました のすべてのチャプター: チャプター 81 - チャプター 90

131 チャプター

第81話 継母の秘密③

 玄関で出迎えたのは、いつもの女中頭だった。 そして、その奥から、氷の上を滑るような音のない足取りで現れた人物。 継母、九龍志保。「……おかえりなさいませ、湊様。茅野様」 感情の読めない能面のような表情。 けれど、その視線が私に向けられた時、一瞬だけピクリと眉が動いた気がした。 以前のような、蔑むような冷たさではない。けれど、決して歓迎もしていない、何かを探るような深い色の目。「華枝様がお待ちです。……書斎へ」「ああ」 湊は志保を一瞥もせず、吐き捨てるように言うと、私を連れて奥へと進もうとした。 その時だ。「……湊様」 志保が、背後から声をかけた。「昨夜のパーティーの件……。あの機転は見事でしたわ」 予想外の言葉に、湊も私も足を止めた。 振り返ると、志保は真っ直ぐにこちらを見ていた。いや、正確には私を見ていた。「料理が出せないという失態を、あのような演出で覆すとは。……九龍家の嫁として、恥ずかしくない振る舞いでした」 それは、彼女なりの最大限の賛辞なのだろうか。 あのプライドの高い彼女が、私の行動を認めた。 私は驚きで目を見開いたが、湊の反応は冷淡だった。「……朱里の実力だ。アンタに評価されるまでもない」「……そうですか」 志保はふいと視線を逸らし、また能面に戻った。 その横顔に、ふと影が差したように見えたのは気のせいだろうか。 どこか、疲れ切った人のような色が濃い。「行くぞ、朱里」 湊に背中を押され、私は歩き出した。 すれ違いざま、志保さんから漂ってきた香りが鼻をかすめた。 いつも焚き染めている高価な白檀の香りに混じって、微かに香る……湿った土と、青臭い植物の匂い。(…&hellip
last update最終更新日 : 2026-01-31
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第82話 継母の秘密④

 しんと静まり返った和室で、庭から聞こえる虫の声だけを聞いていると、余計なことを考えてしまう。 征司さんのあの不気味な笑顔。 麗華さんの刺すような視線。 そして、今日すれ違った時の、志保さんの様子。(……あの匂い) 気になって仕方がない。 志保さんは、いつも完璧に身だしなみを整えている。お香の香りこそすれ、泥や草の匂いなんてさせるはずがない。 まさか。 いや、でも。「……喉が渇いたな」 私は誰に聞かせるでもなく独り言を呟いて立ち上がった。 部屋に用意された水差しは空だ。これ幸いと、私は部屋を出る口実を見つけた。 台所へ行って水をもらうついでに、少しだけ夜風に当たろう。 そう自分に言い訳をして。 廊下はしんと静まり返っている。 使用人たちも既に下がったのか、人の気配がない。 足音が響かないように、そっと抜き足差し足で歩く。 台所で水を一杯飲み、渇きを癒やす。 でも、私の足は部屋には戻らなかった。 何かに吸い寄せられるように、縁側へと向かう。 ガラス戸の向こう、闇に沈む庭園。 その奥にある、あの場所へ。「……何してるんだろ、私」 湊にあれほど怒られたのに。『二度と近づくな』と言われたのに。 でも、胸騒ぎが止まらないのだ。 昨日の雨で、あの温室のバラたちはどうなっただろうか。 湊は「誰も世話をしていない」と言った。 でも、私は確信している。誰かが守っていると。 その「誰か」の正体を知りたいという欲求が、恐怖を上回っていた。 サンダルを突っ掛け、庭に出る。 夜の空気はひんやりと冷たく、湿っている。 月明かりを頼りに、綺麗に刈り込まれた庭を抜け、あの鬱蒼とした木立へと進む。 心臓が早鐘を打つ。 これは裏切りだ。湊との約束を破る行為だ。 わかっている。 それでも、足
last update最終更新日 : 2026-01-31
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第83話 継母の秘密⑤

 錆びた扉が、わずかに開いている。  そこから、中を覗き込む。  ムッとするような濃密な湿気と、噎せ返るようなバラの香り。  そして、その奥に、人影があった。  作業着を着ているわけではない。  日中と同じ、簡素だが上質な部屋着に身を包み、肩からショールを羽織った女性。  彼女は、片手に懐中電灯を持ち、もう片方の手で……古びて錆びついたジョウロを持っていた。 「……志保さん?」  声には出さず、唇だけでその名を呼んだ。  間違いなかった。  湊の継母、九龍志保だ。  彼女が、なぜここに?  志保は、私が先日手入れをしたオールドローズの前に、泥を気にする様子もなくしゃがみ込んでいた。  その背中は、普段の凛とした威厳のある姿とは程遠い。  小さく、震えているように見えた。 「……ああ、よかった」  静寂の中に、ぽつりと彼女の声が落ちた。  独り言だ。  けれど、その声は涙で湿っていた。 「昨日の雨で、心配していましたけれど……。蕾は落ちていないわね」  彼女は、棘だらけの枝を、素手で愛おしげに撫でた。  指先に泥がつくのも、鋭い棘が刺さるのも厭わないように。 「誰かが……手入れをしてくれたのね。……枯れた枝がなくなって、息がしやすそう」  彼女は気づいている。私がやったことに。  怒っている口ぶりではない。むしろ、心の底から安堵しているようだった。 「ごめんなさいね。……私がもっと早く、堂々と手入れをしてあげられればよかったのだけれど」  志保は、バラに向かって語りかけていた。  いや、バラを通して、別の誰かに語りかけているようだった。 「……お姉様」  お姉様?  志保さんがそう呼ぶ相手は、一人しかいない。  湊の実母。病で早世した湊の父が娶った最初の妻、由理子(ゆりこ)様だ。  彼女は、同じく病で亡くなった前妻を「お姉様」と慕っていたそうだ。 「ごめんなさい、お姉様……。私、約束を守れませんでした」  志保の声が、嗚咽混じりに震え始めた。  私は息を呑んだ。  あの鉄の女と呼ばれた継母が、泣いている。 「湊を……あの子を、守ると誓ったのに。……あの子は、あんなに傷ついて、心を閉ざしてしまった。……私のせいです。私が、もっと上手く立ち回れていれば……」  彼女は、バラの根元に崩れ落ちるように
last update最終更新日 : 2026-02-01
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第84話 継母の秘密⑥

 九龍家の先代……おそらく湊の祖父にあたる人物が、由理子様の痕跡を消そうとした。 それを阻止するために、志保さんはあえて「ここはもう荒れ果てた禁忌の場所だ」と周囲に思わせ、誰も近づけないようにした。 そして、人目を盗んで、たった一人でこの場所を守り続けてきたのだ。「湊には……恨まれたままでいいのです」 志保は、涙を拭いもせず、独白を続けた。「あの子が私を憎むことで、九龍家という冷酷な場所で生き抜く強さを得られるなら。……情に流されない、強い当主になれるなら。……私は、悪役で構わない」 なんてこと。 彼女は、湊のために、あえて「冷酷な継母」を演じていたというの? 湊の孤独も、怒りも、すべて一身に受け止めて。 彼が「母を蔑ろにした女」として自分を憎むことで、彼の中に「母への愛」と「戦う意志」が燃え続けるように。「でも……あの子が苦しむ姿を見るのは、辛いのです。……お姉様、どうか……あの子に安らぎを」 志保の肩が、小刻みに震えている。 彼女もまた、孤独だったのだ。 愛する人の子供を守るために、誰にも理解されないまま、泥を被り続けてきた。 この温室のバラと同じだ。 誰にも見られない暗闇の中で、必死に根を張り、花を咲かせようとしていた。(……誤解だったんだ) 湊の憎しみも。私の偏見も。 全部、彼女の深い愛情によって作られた「演出」だった。 目頭が熱くなる。 知ってしまった。 この秘密を。このあまりにも悲しく、尊い献身を。 私は、動けなかった。 出るべきか、引くべきか。 ここで私が出て行けば、彼女の二十年間の演技を無駄にしてしまうかもしれない。 でも、このまま彼女を一人で泣かせておくなんて、できない。 その時。 パキッ。 
last update最終更新日 : 2026-02-01
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第85話 継母の秘密⑦

「今見たことは、すべて忘れなさい。……誰にも、特に湊には、絶対に言ってはなりません」「……どうしてですか」 私は一歩、踏み出した。「どうして、隠すんですか。……貴女が、本当はずっと湊のことを想っていたこと。お母様との約束を守り続けてきたこと。……伝えれば、湊だって……」「伝えて、どうなるというの」 志保が声を荒らげた。「『実は良い継母でした』? ……そんな安いお涙頂戴で、あの子の二十年間の憎しみが消えるとでも? あの子の人格形成の核になっているのは、私への反発心よ。……それを今さら奪って、あの子を腑抜けにさせるつもり?」「腑抜けになんてなりません! 湊は……そんなに弱くない!」 私は叫んでいた。「彼は傷ついてる。ずっと孤独だった。……でも、本当の愛を知れば、もっと強くなれるはずです。貴女の愛は……彼にとって呪いじゃなくて、力になるはずです!」「……何も知らないくせに」 志保は、唇を噛み締めた。 その表情が、泣き出しそうに歪む。「……あの子を守るためには、こうするしかなかったのよ。……この家で、正気を保つためには……!」 彼女の悲痛な叫びが、ガラスドームに反響する。 私は、彼女に歩み寄った。 そして、その泥だらけの手を、両手で包み込んだ。「……志保さん」 彼女の手は、驚くほど冷たかった。 でも、その指先には、確かな土の温もりと、バラの香りが残っていた。「……綺麗なバラですね」 私は、花壇のバラを見た。 闇の中で、凛と咲く深紅のバラ。「貴女が守ってきたん
last update最終更新日 : 2026-02-01
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第86話 和解への第一歩①

 風が唸りを上げ、庭の木々をざわつかせている。嵐が来るのかもしれない。 温室で触れた秘密の熱が冷めやらぬまま、私たちは言葉もなく母屋へと戻ってきた。「……部屋に来なさい」 廊下の突き当たりで、志保さんが短く言う。 その声はいつものように氷のような響きをまとっていたけれど、語尾がかすかに震えているのを私は聞き逃さなかった。 通されたのは、彼女の私室だった。 この巨大な九龍家を取り仕切る女主人、その城とも呼ぶべき場所。 けれど、足を踏み入れて息を呑む。そこは驚くほど殺風景だった。豪華な調度品など何ひとつなく、壁を埋め尽くす本棚には経営書や分厚い専門書、そして植物図鑑だけが整然と並んでいる。「座って」 志保さんは私を古いソファに促すと、手ずからポットの湯を注ぎ始めた。 使用人は呼ばない。カチャリ、と陶器が触れ合う乾いた音が、静まり返った部屋に響く。 湯気とともに立ち上るベルガモットの香りが、張り詰めた空気を少しだけ緩めた気がした。 私はカップを両手で包み込み、向かいに腰を下ろした志保さんをじっと見る。泥だらけだった手は綺麗に洗われていたけれど、その細い指先には、まだ冷たい夜気と土の匂いが染みついているようだった。「……さっきの話の続きです」 私はカップを置き、意を決して口を開く。「志保さん。……やっぱり、湊さんに本当のことを話すべきです」 志保さんの睫毛が、ぴくりと揺れた。「あの温室を、あなたがずっと守ってきたこと。湊さんのお母様……由理子様の思い出を、あなたが誰よりも大切にしてきたこと。それを知れば、湊さんのあなたへの誤解は解けます。これ以上、お互いに憎しみ合って傷つく必要なんてなくなるはずです」 言葉が、勝手に熱を帯びていく。 湊のあの孤独な背中を知っているから。 彼が「母の思い出さえ守れなかった」という悔いと、「母を蔑ろにした継母」への煮えたぎるような怒りだけを薪にして、ギリギリのところで立っているのを知っているか
last update最終更新日 : 2026-02-02
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第87話 和解への第一歩②

「……朱里さん。あなたは、湊の『過去』をどこまで知っていて?」「過去……?」「あの子が、どうしてあんなふうに……誰も信じようとせず、すべてを支配しようとする歪んだ性格になってしまったのか。その理由を」 私は言葉に詰まる。 詳しくは知らない。ただ、実母を早くに亡くし、継母や親族との争いの中で育ったということくらいしか。「……教えてください」 私が頼むと、志保さんは小さく息を吐き、遠い昔を見るように窓の外へと視線を移した。「あれは……湊がまだ、八つの頃でした」 ◇「湊の実母、由理子お姉様は……とても優しく、そして儚い方でした」 ポツリ、ポツリと、志保さんは雨だれが落ちるように語り始めた。「家同士の決まり事でこの家に入られましたが、先代……湊の祖父にあたる舅との折り合いが悪く、ずっと心をすり減らしておられた。九龍家の嫁として『完璧』であることを求められ続け、心がもたなかったのです」 九龍家の重圧。 たった数日滞在しただけの私でさえ、胃がきりきりと痛むような閉鎖的で威圧的な空気だ。それを何年も、逃げ場なく浴び続ければどうなるか。想像するだけで肌が粟立つ。「それでも、お姉様は湊のためだけに生きておられました。あの温室だけが、唯一息ができる場所だった。……幼い湊の手を引いて、バラの世話をしている時だけが、彼女が心から笑える時間だったのです」 脳裏に、あの古い日記の記述が浮かぶ。『あの子の隠れ家になればいい』 母の愛が詰まった、小さな庭。「けれど……お姉様は、病に倒れました」 志保さんの声が微かに震える。「ただの病ではありません。……心が、壊れてしまったのです。食事も喉を通らなくなり、日に日に痩せ細っていかれました。……そしてあ
last update最終更新日 : 2026-02-02
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第88話 和解への第一歩③

 愛する姉のような人の忘れ形見。  若き日の志保さんは、きっと希望と使命感を抱いて湊の前に立ったはずだ。  私が新しいお母さんよ、と優しく手を差し伸べただろう。 「けれど……湊は、私を受け入れませんでした」  当然かもしれない。  母を奪った家が、すぐに別の女を「母親」としてあてがったのだ。  八歳の少年には、志保さんもまた「母を消し去ろうとする敵の一味」にしか見えなかったに違いない。 「『帰れ』『母さんの代わりに座るな』……あの子は私に物を投げつけ、噛み付き、泣き叫びました。……それでも、私は時間をかけて愛情を注げば、いつか分かってくれると信じていました。……あの日までは」 「あの日?」 「……湊が、先代に逆らった日です」  志保さんは、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。爪が食い込み、白くなるほど強く。 「湊は、処分されそうになったお姉様の遺品……小さなロケットペンダントを隠し持っていました。それが先代に見つかってしまったのです」  嫌な予感がして、背筋が凍る。 「先代は激怒し、湊からペンダントを取り上げ……あの子の目の前で、それを庭の池に投げ捨てました。『死人に執着するな』と怒鳴りつけ、泣きじゃくる湊を……杖で打ち据えたのです」 「……っ!」  息が止まるかと思った。  そんなに小さな子供に。 「私は止めに入りました。湊をかばって、先代に頭を下げました。『許してください、この子はただお母様が恋しいだけなのです』と。……湊を抱きしめて、一緒に泣きました」  それは、正しい行いだ。  人として、当たり前の優しさだ。  でも。 「それが……間違いだったのです」  志保さんの声が、絶望に染まる。 「私の言葉を聞いた先代は、冷たく言い放ちました。『甘やかすな。これだから母親のいない子は駄目なのだ。……そんなに母親が恋しいなら、心を入れ替えるまで蔵に放り込んでおけ』と」 「……嘘でしょう」 「湊は、あの暗く寒い蔵に三日三晩閉じ込められました。……私が食事を運んでも、先代の監視があって扉を開けることすら許されなかった。……あの子は、暗闇の中で泣き叫び、やがて声も枯れて……」  想像するだけで、胸が張り裂けそうだ。  暗闇。孤独。寒さ。飢え。  八歳の子供が味わうには、あまりに過酷な仕打ち。 「三日後、扉が開けられた時……
last update最終更新日 : 2026-02-02
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第89話 和解への第一歩④

「その時、私は悟ったのです。……この九龍家という場所で、中途半端な優しさは毒にしかならないのだと」「毒……」「私が湊をかばえば、先代はさらに湊を厳しく罰する。私が優しくすればするほど、湊は『弱さ』を見せ、それが弱点となって敵に突け込まれる。……九龍家で生き残るためには、誰にも頼らず、誰も信じず、ただ『力』だけを求める鬼になるしかなかったのです」 志保さんは、震える手で自身の胸を押さえた。「だから……私は心を決めました」 彼女の決断。 それは、あまりにも悲壮な覚悟だった。「私は、湊の前で優しい継母であることをやめました。……先代の意向に従うふりをして、お姉様の痕跡を冷徹に排除する『悪役』になったのです」『お母様のことは忘れなさい』『いつまでメソメソしているの』『弱い人間はこの家には不要よ』「私が湊を突き放し、冷たく当たるたびに……あの子の瞳に、色が戻りました。……『憎しみ』という、強烈な色が」 志保さんは、泣くように微笑んだ。「あの子は私を憎むことで、生きる活力を得たのです。『いつかこの女を追い出してやる』『母さんを虐げたこの家を、僕が乗っ取ってやる』……その復讐心だけが、あの子を支える柱になった」 湊の、あの完璧なまでの上昇志向。 敵を容赦なく叩き潰す冷徹さ。 そのすべてが、継母への憎しみと、母の尊厳を取り戻すための戦いから生まれていたのだ。「温室のこともそうです。……私があそこを手入れしていると知れば、湊はどう思うでしょう?」 志保さんは問いかけた。「『あの女も、本当は母さんを想っていたのか』と知って、あの子の憎しみが揺らいだら? ……あの子が私に心を許し、牙を抜かれた狼になってしまったら?」 征司や、剛造といったハイエナたちが、その隙を見逃すはず
last update最終更新日 : 2026-02-03
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第90話 和解への第一歩⑤

 志保さんの言葉は、重く、そして揺るぎなかった。  私は、何も言えなかった。 「本当のことを話すべきだ」という私の正義感なんて、彼女の二十年の覚悟の前では、あまりに浅はかで子供じみたものだった。  彼女は、湊を守るために、湊から愛されることを諦めた。  母親としての幸せをすべて捨てて、ただひたすらに「湊を生かす」ことだけを選んだのだ。  これが、九龍家の愛の形なのか。  あまりにも不器用で、痛々しくて、尊い。  私は、ソファから立ち上がり、志保さんの前に膝をついた。  そして、彼女の冷えた手を取った。 「……わかりました」  涙が、頬を伝う。 「話しません。……あなたが、そう望むなら」 「……ありがとう、朱里さん」 「でも……これだけは約束してください」  私は彼女の目を真っ直ぐに見つめた。 「湊さんが……いつか全てを知った時。あなたが一人ぼっちにならないように。……私が、必ず湊さんの手を引いて、あなたの元へ連れてきます。……『お母さん、ありがとう』って、言わせますから」  志保さんの瞳が、大きく見開かれた。  そして、堪えきれないように、大粒の涙がこぼれ落ちた。 「……お節介な人ね」  彼女は泣き笑いのような表情で、私の手を握り返してくれた。  その手は、冷たい鉄の女の手ではなく、温かい、一人の母親の手だった。 「……頼みましたよ。私の、可愛い味方さん」  その夜、私たちは奇妙な約束を交わした。  湊には秘密の、嫁と姑の同盟。  それは、世界で一番孤独な王様を守るための、優しくて悲しい嘘の同盟だった。 ◇ 志保さんの部屋を辞したのは、日付が変わる頃だった。  長い話を聞き終えた私の身体は、鉛のように重く、それでいて心は不思議なほど澄み渡っていた。  廊下に出ると、ひやりとした冷気が足元を這ってくる。  窓の外には月が出ていた。  あの月を、幼い日の湊も見ていたのだろうか。  暗い蔵の中で、寒さに震えながら、お母さんを呼んで泣いていた小さな男の
last update最終更新日 : 2026-02-03
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