All Chapters of 入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~: Chapter 731 - Chapter 740

752 Chapters

第731話

「彼は私に借りなんてないし、私だって彼に借りはないわ」絵里はドアを開け放ち、きっぱりとした足取りで出て行った。章は、この二人、揃いも揃ってひねくれているなと思った。彼はその後を追って部屋を出る。絵里は梨乃と共に、廊下の突き当たりにあるエレベーターホールへと真っ直ぐに向かっている。章はそれ以上追いかけることはせず、きびすを返して廊下の反対側へと歩き出す。歩きながら、隆に電話をかける。「お前も、命の恩人がどうのって話を絵里に伝えるのはやめとけ。裕也が言った通り、知ったところでどうにもならない」感情のこもらない淡々とした口調で言う。隆はデスクの前に座ったまま、解せないというように眉をひそめる。「どういうことだ?絵里は裕也に対して、これっぽっちも感情がないってのか?あの時助けたのが裕也だって知っても無駄?」「最近起きたことも忘れたのか?裕也があいつをかばって刺されたことも、自分の母親を刑務所に送ったことも、あいつは知ってるくせに、裕也に対して一線を引いたままだろ」「でも、それとこれとは話が別だろ……」隆は反論しようとしたが、次の言葉が続かなかった。以前、絵里と和也のことにそれほど関心がなく、絵里に対する印象もごく普通のものだった。ただのわがままな令嬢が、恋に盲目になり、和也を追いかけ回しているだけだと思っていた。だが少し前になって、ようやく不自然な点に気づいた。絵里はかつての命の恩人を人違いし、感謝の念と恋心を取り違えたからこそ、和也と付き合うようになったのではないかと疑い始めたのだ。「他人の心配をする暇があるなら、自分の心配でもしたらどうだ。今年、会社の売り上げはいいのか?また実家で役立たず呼ばわりされないようにな」章は決して意地悪な人間ではないが、相手の急所を的確に突く術を心得ていた。医者という職業柄、そういうスキルが自然と身についたのかもしれない。隆はバツが悪そうにぼやく。「わかったよ、白けるな」通話を切り、スマホを机の上に放り投げた。コンコンとドアをノックして、霞が入ってくる。愛らしい顔をびくびくと伏せながら、デスクの前まで歩み寄る。「社長」霞の声は小さく、微かに震えている。隆は、彼女が絵里の脚本執筆を通じて知り合った友人であることを知っていた。ここ最近の
Read more

第732話

「頑張って」それは、ただの何気ない励ましの言葉に過ぎなかった。しかし、霞はそれに大きく勇気づけられ、嬉しそうに力強く頷いた。自分ならきっとできる。絵里の助けを無駄にはできないし、何より社長を失望させるわけにはいかない。……絵里は家に戻ると、真っ先に悟史に連絡を取り、最近の仕事の進捗状況を確認した。幸い、すべて順調に進んでいるようだった。以前藤原グループと提携した四号地の件も含め、先方からの資金もすでに振り込まれていた。報告を終えた悟史は、気遣うように尋ねた。「もうお体は大丈夫ですか?」絵里は数秒間呆然とし、なぜ悟史が交通事故のことを知っているのかと驚いた。事故発生後、そのニュースは裕也によってすぐに揉み消されていたからだ。一つにはじいちゃんに心配をかけないため、そしてもう一つは、メディアに大々的に報じられれば、水原グループの株価に影響を及ぼしかねないからだった。今の自分は、水原の中核を担っている。少しのミスも許されない立場なのだ。「大したことないわ。明日には会社に出るから、その時に最近の書類を全部持ってきて見せてちょうだい」「はい。秘書に準備させて、明日の朝一番にお持ちします」悟史は面白がるようにスマホを弄りながら、その瞳に何かを閃かせた。「ええ」絵里は電話を切り、梨乃と簡単な食事を済ませた。梨乃は彼女が電話を終えたのを見て、ソファから身を起こし、からかうように言った。「退院したばかりだってこと忘れないでよ。そんなに急いで仕事漬けじゃ、回復に良くないわよ」絵里は彼女を見て微笑んだ。「寝ていた分だけ怠けちゃったから。会社は最近大きなプロジェクトがたくさんあるし、これ以上怠けてるわけにはいかないの」梨乃は傍らにあった大きな黒い袋を引き寄せ、中からいくつかウィッグを取り出した。「ほら、どれが好き?今のあなたの髪色に合わせて買ってきたのよ」絵里は頭を縫っており、手術の際に傷口の周りの髪を剃られていた。会社に行くのにずっと帽子を被っているわけにもいかず、ウィッグの方が手っ取り早かった。梨乃はしっかりと下調べをし、どんなウィッグがより自然で質が良いかを調べてくれていた。ここにあるのはどれも厳選されたもので、巻き髪、ストレート、肩までのボブなど様々だった。絵里はこれ
Read more

第733話

絵里は目頭を熱くし、振り返って梨乃をきつく抱きしめる。「いいじゃない。私が大人になったって証拠でしょ」その言葉は梨乃へ向けているようで、むしろ自分自身に言い聞かせているようだった。梨乃の瞳に涙が浮かぶ。泣くまいと堪えていたが、こらえきれずにこぼれ落ちた涙が絵里の肩を濡らした。彼女は必死に嗚咽を噛み殺したが、その声はひどく震えていた。「何があっても、絶対に生きててよ。この数回、私がどれだけ生きた心地がしなかったか……」「わかった、約束する」絵里は目を赤くしながらもニッと笑い、なだめるように彼女の背中を数回ポンポンと叩く。これほど多くの人が自分を心配してくれているのだ。まだ死ぬわけにはいかない。たとえ死ぬとしても、先に死ぬべき連中を地獄へ送ってからだ。翌日、絵里は会社に出社する。梨乃が選んでくれたウィッグを被り、今日はフェミニンな装いでまとめているはずなのに、どこか華やかで堂々としたオーラを放っている。社内の人間は誰も彼女が交通事故に遭ったことなど知らず、半月ほど海外出張に行っていたのだと思い込んでいた。その息を呑むような美しさに、社員たちは陰で次々と羨望の声を漏らす。「肌も綺麗だし、スタイルも抜群。おまけに家柄まで最高なんて。信じられない、あんな人生チートすぎるでしょ」「それだけじゃないわよ。あの方、十二歳から開発に携わってるのよ。頭の出来からして私たちとは違うの」「……」絵里は会議をこなし、それが終わると悟史をオフィスへ呼び出す。悟史は秘書に直近のプロジェクト資料を持ってこさせ、彼女のデスクに置く。秘書が退出すると、悟史は感嘆の眼差しを彼女に向ける。「今日は一段とお美しいですね」絵里は数秒ほど虚を突かれたが、淡々と頷く。「ありがとう。紫垣さん、私たち間の取り決めを忘れないでね。土地の開発プロジェクトはあなたに任せるわ。その代わり、見事な成果を見せてもらうから」「お嬢様のご信任とあらば、当然、完璧な実績を上げてご覧に入れますよ。お嬢様も、以前僕に約束してくださったことをお忘れなきよう」悟史は椅子を引き、紳士的で優雅な身のこなしで腰を下ろす。絵里は昔から彼のことがよくわからず、その本心も読めなかった。だが、じいちゃんが彼に全幅の信頼を寄せているうえ、ここ数年、彼が会社
Read more

第734話

絵里は異様なほど落ち着き払っており、むしろ冷淡ですらある。「人間の本性なんてそんなものよ。利益のためなら手段を選ばない」寿樹はこれほど多くのことが起きるとは予想していなかった。絵里が水原を引き継いでからというもの、立て続けに起きる出来事は、そのすべてが意図的に彼女を狙っているかのようだった。すべては、水原が狙われていることに関係している。そのことが、寿樹に懸念と怒りを抱かせていた。「藤原家の連中は、どいつもこいつも一筋縄じゃいかない。お前が手に入れたその20パーセントの株式は、まさに焼け火箸だ。洋二がこのまま引き下がるわけがない。今回、裕也はお前の気持ちを無視して奴を見逃したが、次また同じようなことが起きたらどうするんだ?」絵里は言葉に詰まった。かつて誇りに思い、裕也に固く選ばれたと心から喜んでいたことが、まるで笑い話のように思えた。再び、痛烈な教訓を思い知らされたのだ。「その話はもういいわ。今回あなたを呼んだのは、システムの件以外にもう一つ、見張っててほしいことがあるからなの」丈裕を除けば、今彼女が信じられるのは寿樹だけだった。「なんだ、言ってみろ」「以前、雪枝が一本のボイスレコーダーのために、人を送り込んで田中さんを殺そうとしたでしょう。あのレコーダーには、彼女にとって重要なものが入っていると思うの。一刻も早く見つけ出したい」丈裕はこれからしばらくの間、この件から手を引かざるを得ないため、寿樹に頼るしかなかった。「わかった。俺の方で手配しよう」「ありがとう」寿樹は彼女をじっと見つめる。「俺に礼なんて水臭いぞ。お前のことなら、どんなことでも労は惜しまない」絵里は彼を見つめ返し、安堵の笑みを浮かべる。その頃、隣の個室では。裕也が数人の男たちと商談をしていた。彼は終始冷ややかな表情を崩さず、口数も少なかった。男たちは皆、裕也と関係を築き、提携を結ぼうと必死だった。だが、裕也にその気はなく、顔色は常に氷のように冷たく、彼らの話すらまともに聞いていなかった。絵里がトイレへ向かおうとした時、ちょうどそちらから歩いてくる洋二と鉢合わせる。無視しようとしたが、彼女に気づいた洋二は、見逃すつもりはないようだった。「あれでも死なんとは、つくづく悪運の強い女だ。両親と同じように
Read more

第735話

絵里は裕也の存在に気づかず、洋二を睨みつけ、その瞳の奥では憎悪が煮えたぎっている。「この平手打ちはお返しよ。これ以上私や私の周りの人間に手を出したら、いくら裕也でもあなたを守りきれない」絵里の纏う空気はかつての冷ややかなものから一変し、ぞっとするほどの凄みを帯びている。修羅場をくぐり抜けてきた洋二でさえ、その姿に一瞬、背筋が凍るような恐怖を覚えた。「今日という今日は、身の程というものを教えてやる」洋二はすぐに激昂し、再び腕を高く振り上げ、彼女の頬を思い切り張ろうとする。絵里は避けるつもりなど毛頭なく、真っ向から受けて立つ覚悟を決めている。しかし、洋二の平手打ちが振り下ろされることはなかった。次の瞬間、絵里は腰に強い力を感じ、そのまま誰かの腕の中に引き寄せられる。彼女はハッとして顔を上げる。そこには至近距離に裕也の顔があり、鼻先には彼特有の香りが漂っている。「こんな時に、まだ自分を危険に晒すつもりか」裕也はそう咎めると、冷ややかな視線を洋二へと向ける。「父さん、本当に絵里を殴るつもりなら、残りの人生をどう過ごすかよく考えるんだな」裕也は険しい表情で、洋二の腕を乱暴に振り払う。洋二は怒りで胸を押さえたが、それでも警戒したのか矛を収めた。忌々しげに絵里をしばらく睨みつけると、怒りを全身から立ち上らせながらその場を去ろうとする。「待ちなさい!」絵里の胸中では依然として怒りが煮えたぎり、その顔には激しい怒りが張り付いている。血走った目で洋二を恐ろしいほどに睨みつけながら、裕也の腕の中で暴れる。裕也は彼女をきつく抱きしめ、逃がさないようにする。「離して。離しなさいよ!」絵里は怒鳴りつけるが、裕也の腕は微動だにせず、彼女をがっちりとホールドしたままだ。洋二が数歩遠ざかるのを見て、絵里はやり場のない怒りに駆られ、大きく口を開けて裕也の手を力いっぱい噛みつく。容赦なく噛みつく彼女に対し、裕也は眉をひそめながらもじっと耐え、されるがままにしている。口の中に血の味が広がり、顎が痛くなるまで噛み続けて、絵里はようやく歯を離す。「一体何を考えてるの?」裕也の手には血のにじむ歯形がくっきりと残っており、一目で深く噛まれたことがわかる。それでも彼は、一言も発しない。「怒る気持ちはわ
Read more

第736話

寿樹は数歩近づき、警告するような口調で言った。「絵里を幸せにする覚悟がないなら、手を引け」裕也は陰鬱な顔つきになり、皮肉げに唇を歪める。「部外者のお前には関係ないだろう」寿樹も負けじと言い返した。「このままじゃ、お前も遅かれ早かれ部外者になる。いや、敵になるかもな」裕也を蔑むように一瞥すると、きびすを返して立ち去った。裕也は低く笑い声を漏らし、手の甲についた血の滲む歯型を見つめる。心の奥底に、鋭い痛みが走った。ずいぶんと強く噛んでくれたものだ。絵里が会社に戻り、ようやく落ち着きを取り戻した頃、丈裕の代わりに一時的に業務を引き継いでいる村田秘書が朗報をもたらした。「絵里様、H自動車から連絡がありまして、新エネルギー車に関する提携について話し合いたいとのことです」絵里は驚いた。H自動車は国内でその名を轟かせており、販売台数も評判も他を大きく引き離している。傘下のブランドは中高級路線を歩み、長年にわたり国内の売上ランキングで首位を独走していた。もし水原が彼らと提携できれば、そのブランド力だけで事の半分は成功したようなものだ。彼女はすぐに村田に連絡をさせ、面会の時間を調整するよう指示した。村田が連絡を取ったところ、先方は時間が確定し次第知らせるとのことだった。絵里は以前から、H自動車と交渉する計画を立てていた。まさかこちらからアプローチする前に、向こうから声がかかるとは思ってもみなかった。しかし、裕也がすでに彼らと接触していたはずだ。なぜ藤原を差し置いて、わざわざこちらに話を持ちかけてきたのだろうか。絵里の心に疑問が湧き、その瞳に微かな疑念がよぎる。その日の退社後、絵里は治夫を安心させるため、実家に戻って一緒に夕食をとった。「やっと帰ってきたか。ずっと海外にいて、もう戻ってこないのかと思ったぞ」治夫は不満げに愚痴をこぼす。絵里の入院中、心配をかけまいとずっと事実を伏せていたのだ。だから今に至るまで、治夫は彼女が入院していたことを知らない。「私が好きで一生海外にいるわけないじゃない。ほんの数日いただけなのに、もうじいちゃんに会いたくてたまらなかったんだから」絵里が甘えるように言うと、治夫はたちまち相好を崩した。それでようやく、治夫も気が済んだようだった。「それな
Read more

第737話

H自動車の責任者は、四十代半ばの中年男性で、岡山崇史(おかや たかふみ)という人だ。食事をしながらの商談は、序盤こそ順調に進んでいた。絵里自身、H自動車との提携を成立させたいと強く望んでいた。水原が海外市場へ進出するための第一歩になるからだ。終盤に差し掛かった頃、崇史が唐突に条件を切り出してきた。「水原さん、ぜひとも前向きにご検討いただきたい。藤原グループと水原グループ、両社に参画していただければ、今回のプロジェクトは間違いなく成功します。我々三者にとって、非常に有益な話になるはずです」絵里は思わず目を見開いた。水原と藤原が、H自動車と共同でプロジェクトを?確かに両社はもともと関係が深く、共同プロジェクトも少なくない。ここにもう一つ提携案件が加わったところで、何の問題もない。だが、絵里は腑に落ちなかった。なぜH自動車はわざわざ自分たちに声をかけてきたのか。まさか、裕也が絡んでいるのだろうか。絵里は崇史に問いかけた。「ぶしつけな質問で恐縮ですが、御社は以前から藤原と提携の交渉を進めていらっしゃいましたよね。なぜ今になって、水原とも組もうとお考えになったのでしょうか。藤原だけでも十分すぎるほどの条件が揃っています。御社と藤原の二社だけでもウィンウィンの関係を築けるはずですが、なぜ水原を考慮に入れられたのですか?」「おっしゃる通り、藤原との交渉はすでに大詰めを迎えています。しかし、弊社も私個人も、水原さんを高く評価しているのですよ。あなたには、システム開発の技術があります。藤原には影響力と資金力があり、我々は実務チームを提供する。まさに持ちつ持たれつです。そこに水原が加われば、当然ながら百利あって一害なしというわけです。ご安心ください。システム開発の件は、水原さん個人の特許として扱わせていただきます。そちらさえよろしければ、三社で席を設け、じっくりと詳細を詰めたいと考えております」崇史は絵里の疑問に対し、非の打ち所がない回答を返した。だが、それでも絵里には分かっていた。H自動車が接触してきた裏には、確実に藤原が絡んでいる。ビジネスの観点から見れば、躊躇する理由は見当たらない。水原にとって海外市場を開拓する絶好のチャンスであり、新エネルギー車の普及を後押しすることにもなる。会社の時価総額も跳ね上
Read more

第738話

「表面上はただの提携に見えるかもしれませんが、よく考えてみてください。いざプロジェクトが始動し、もし彼らが結託して水原を標的にした場合、システムの特許はおろか、会社そのものが計略に嵌められ、乗っ取られる危険性すらあるのです」企業間の駆け引きは、底知れぬほど陰湿で狡猾だ。もしあの二社が手を組めば、確かに水原は窮地に立たされる。絵里は、裕也が洋二を見逃したことに対して不満を抱いてはいたものの、彼が水原に牙を剥くとはどうしても思えなかった。「この件の責任者は裕也よ。いくら洋二が水原を狙おうとしたところで、手出しはできないはず」「お嬢様がそれほどまでに藤原社長を信頼しておられるとは、実に感動的ですね。ですが、お考えになったことはありますか?あれほど名高いH自動車が、なぜわざわざ我々に提携を持ちかけてきたのかを」悟史の言葉は鋭く核心を突く。「現在、新エネルギー車市場には多くの企業が参入しています。とりわけ藤原はすでに優秀な開発チームを擁しているのですから、わざわざ水原を巻き込む必要など皆無のはずです。僕に言わせれば、今回の提携は、お嬢様のシステム特許、ひいては水原全体を狙ってのことに他なりません」絵里は心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受け、その顔に一瞬だけ戦慄の色を浮かべたが、すぐに気を取り直した。「私がきちんと調べるわ。ただの憶測だけで提携を白紙に戻すわけにはいかないもの」「もちろんです」悟史は淡く唇の端を吊り上げた。絵里の元を辞して自身のオフィスに戻ると、一本の電話をかけた。「彼女は疑念を抱き始めたが、まだ俺を完全に信じたわけではない。何か裏付けを見つければ、諦めもつくだろ」一方、修司は黒のシャツに身を包み、イヤホンを耳に当てたまま、社長室でゴルフのパター練習をしていた。「諦めがつかないのなら、諦めざるを得ないような機会を作ってやればいい」修司がクラブを振り抜く。そのフォームは優雅にして完璧。ボールは吸い込まれるようにカップに落ちた。彼が口角に弧を描くと、電話の向こうから悟史の声が聞こえてきた。「つまり、決定的な証拠を見せろと?」修司はクラブを元の場所に戻し、窓辺へと歩み寄る。林立する高層ビル群を見下ろすその瞳に、冷酷な光が走った。「見るだけでは足りない。当然、聞かせる必要もある。
Read more

第739話

裕也の瞳が激しく揺れ動き、すぐに思い当たる節がある。「岡山は、お前がすでに提携に同意したと言っていた。もし俺の顔を見たくないなら、健を交渉に行かせる」彼女が提携を拒む理由として、裕也に思いつくのはそれくらいしかない。絵里の胸は引き裂かれるように痛むが、それもほんの一瞬のことで、彼女は無理やりその感情を押し殺す。「私の方から、あなたたちとの提携をお断りするわ。裏で色々動いていたみたいだけど、残念ながら計算違いだったわね」絵里の言葉には嘲笑が滲んでいる。その声はひどく冷たく、裕也の背筋を凍らせるほどだった。電話は絵里によって容赦なく切られる。裕也はスマホを握り潰さんばかりに指に力を込める。彼から放たれる気配は、突如として氷室のように冷たくなる。胸の奥で怒りの炎が燃え上がり、理性が怒涛に呑み込まれそうになる。しばらくしてようやく冷静さを取り戻すと、健を部屋に呼び入れた。「調べてくれ。絵里がここ二日間、誰と会い、何をしていたかを」今回の提携が三社合同であることは、絵里も最初から知っていたはずだ。岡山が絵里の意図を誤解したのではないとすれば、絵里が何らかの理由で突然心変わりしたとしか考えられない。漆黒の瞳の奥に鋭い光が走り、その顔は陰りを帯びている。健はびくっと肩を震わせた。社長のその陰鬱な表情を見れば、また交渉が決裂したのだとすぐに察しがついた。慌てて承諾し、足早に社長室を退出する。十分後、調査結果を裕也に報告した。「奥様は最近、洋二様と岡山崇史の過去についてお調べになっていたようです。おそらくそれが原因で何かを誤解し、提携を拒否されたのではないかと」絵里が洋二を嫌悪していることは、健も以前から知っていた。もし今回の提携に洋二が関わっていると彼女が思ったのなら、突然前言を撤回して拒否するのも無理はない。「それだけか?」「はい」裕也は眉をひそめ、その目に疑念の色を浮かべる。そんな単純な話であるはずがない。あの二人に過去の因縁があることなど、自分もとうに承知している。しかも、それが今回の提携に影響を及ぼすことはない。もしそれだけの理由で絵里が提携を蹴ったのだとしたら、あまりにも感情的で愚かすぎる。一方その頃、絵里はちょうど技術部に足を踏み入れたところで、小さくくしゃみをする。
Read more

第740話

絵里は再び、胸を鋭い刃で貫かれたかのような痛みに襲われる。あまりの痛みに、感覚すら麻痺してしまいそうになる。息を吸うだけで、胸の奥に重苦しい鉛のような塊を感じる。「H自動車とは提携するわ。でも、今じゃない」絵里は質問には直接答えず、自身の考えを口にする。経営の意思決定に関することには、寿樹は一切口出ししない。彼女がこれ以上語りたがらないのを察し、彼も空気を読んで追及しなかった。「そういえば、ボイスレコーダーの件、調べてみたよ。田中さんが事故に遭ってから、二日おきに浅見美月という使用人が例の部屋に出入りしている。しかも、毎回一時間ほど滞在しているんだ」通常の清掃なら、そこまで時間はかからないはずだ。絵里は不穏な気配を感じ取る。「彼女がボイスレコーダーを探していると?」「その通り」寿樹はさらに絵里に一部の資料を手渡す。「ここには、彼女の休日や藤原家を離れる時間が記録されている。彼女から探りをつければ、突破口が見つかるはずだ」絵里は一筋の光明を見出した思いで、寿樹に何度も礼を言う。この浅見美月(あさみ みつき)は絶対に何かを知っている。この線からいけば、すぐにでもボイスレコーダーの在り処を突き止められるかもしれない。開発部を後にした絵里は、セーフハウスへ向かう。田中の傷はとうに癒えていたが、記憶は一向に戻る気配がない。時折、絵里はこうして話し相手になりに来ていた。外出も許可しているが、基本的にはボディガードを同行させ、安全を確保している。田中は相変わらずで、やはり何も思い出せないままだった。「ごめんなさい。私の頭、本当に駄目みたいで……どうしても思い出せないんです」田中が自責の念に駆られて自分の頭を何度か叩くと、絵里は慌ててその手を掴んで止める。懸命になだめすかして、ようやく田中は落ち着きを取り戻す。「ゆっくり休めばいいのよ。自分をそんなに追い詰めないで」「ありがとうございます」田中は絵里を見つめ、その瞳には深い感謝の色が浮かんでいる。絵里は彼女の肩を軽く叩く。すっかり落ち着かせ、セーフハウスを出る頃には、すでに夜の帳が下りている。家まで戻り、エントランスに入ろうとしたその時、傍らに佇む人影がふと目に入る。背筋の伸びたそのシルエットは、月明かりに照らされて息を呑
Read more
PREV
1
...
717273747576
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status