جميع فصول : الفصل -الفصل 180

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第171話

清夏は、完全に言葉を失った。目の前にいるのは、本来なら最も近しいはずの二人。顔立ちは見慣れているはずなのに、今の彼らは恐ろしいほど他人に見えた。雅子だ。祖母が仕組んだのだ。その理解は唐突に、そして決定的に胸に落ちた。失望と裏切りが入り混じった冷たい感覚が、足の裏から頭頂まで一気に駆け抜ける。清夏は、郁美の手にあるスマートフォンを見つめた。次の瞬間、躊躇なくそれを奪い返そうと飛びかかる。「スマホを返して!」「返さないわ!」郁美は必死に端末を庇い、何度も後ずさった。玄関先で、母と娘の激しい揉み合いが始まる。孝一はその光景を苦悩に満ちた表情で見つめていたが、やがて意を決したように一歩踏み出し、背後から娘を抱え込んだ。「清夏、聞きなさい!お父さんとお母さんを困らせるんじゃない!」背後から羽交い締めにされ、清夏は身動きが取れなくなる。その隙に郁美はスマートフォンの電源を切り、書類鞄を隠した。それを、彼女はただ見ていることしかできなかった。瞳の光が、一つ、また一つと消えていく。「放して!」暴れながら叫ぶ。「こんなこと許されないわ!これは不法監禁よ!」だが、その抵抗も、「家族の情」という名を被った暴力の前では、あまりにも空しく、無力だった。結局、清夏は両親によって寝室へと押し込められる。ドアが閉まり、外から鍵のかかる音が冷たく響いた。「開けて!開けてよ!」彼女は狂ったようにドアを叩いた。叫び、懇願し、せめて心愛に一言だけでも連絡させてほしいと訴える。だが、ドアの向こうに広がるのは、息苦しいほどの静寂だけだった。……一方、心愛は自宅で午前中ずっと待ち続けていた。夜が明け、日が高く昇っても、清夏からの電話は鳴らない。胸の奥に巣食う不吉な予感は、重く、深く沈み込んでいく。彼女は清夏に電話をかけた。だが、受話口から流れてきたのは無機質なアナウンスだけだった。「おかけになった電話は、電源が入っていないか……」信じられず、二度、三度、十回とリダイヤルを繰り返す。しかし返ってくる結果は、すべて同じだった。そして、彼女は確信する。何かが起きた。清夏は、音信不通になったのだ。……貴臣は、その日一日、落ち着きを失っていた。車を走らせ、あてもなく街
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第172話

朝早くから、心愛は清夏に電話をかけ続けていた。受話口から流れてくるのは、いつも同じ無機質なアナウンスだ。「おかけになった電話は、電源が入っていないか……」まただ。心愛は通話を切ると、スマートフォンをソファに放り投げた。心臓が、ゆっくりと、氷のように冷たい深海へ沈んでいく。電源オフ。朝から今まで、まる十時間。清夏の携帯は、ずっと電源が切れたままだ。おかしい。清夏の性格は、誰よりもよく知っている。仕事柄、二十四時間スマホを手放すことなどない。たとえバッテリーが切れても、すぐに充電できる場所を探すはずだ。これほど長く音信不通になるなど、あり得ない。……誰かに拘束されているのでない限り。その考えが浮かんだ瞬間、心愛の全身の血が凍りついた。彼女はすぐに清夏の両親の番号を調べ、一人ずつかけ直した。結果は、清夏の時と同じだった。誰も出ない。心愛はソファにもたれ、頭を仰向けにして薄暗い天井を見つめた。せっかく掴み取った命綱。仇を地獄に突き落とすに足る、あの決定的な証拠。それが今、彼女の手の中で熱い石礫のように燻り、ぶつける先を失っている。桐生家。間違いなく、桐生家の仕業だ。清夏の両親までも動かし、音信不通にできるのは、あの有無を言わせぬ雅子以外に考えられない。雅子は清夏を隔離し、自分を助けられないようにしたのだ。心愛はゆっくりと体を起こした。スマートフォンを手に取り、冷たい画面をスライドさせ、連絡先を一行ずつ辿っていく。やがて、彼女の指がある名前の上で止まった。桐生貴臣。彼は桐生家の人間だ。そして、清夏の居場所を知っている可能性がある、唯一の人間。かけるべきか、否か。清夏は自分を助けようとして窮地に陥った。このまま座して死を待つわけにはいかない。これは助けを求めるためじゃない。ただの確認だ。この最後の道すら、すでに断たれているのかどうかを。心愛は深く息を吸い込み、ある種の決意を固めるように指先に力を込め、緑色の発信ボタンを押し込んだ。……桐生グループ最上階、社長室。貴臣は巨大な掃き出し窓の前に座り、指の間に半分ほど燃えた煙草を挟んでいた。デスクの上には、隆による調査報告書が広げられている。「……清夏さんは朝から外出された形跡がありません
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第173話

貴臣は煙草を揉み消すと、静かに立ち上がった。「今から様子を見てくる」それだけ言い残して電話を切り、スーツのジャケットを掴むと、大股でオフィスを後にした。二十分後、貴臣の車は清夏の自宅の前に滑り込むように停まった。ドアを開けたのは郁美だった。彼女は貴臣の姿を見た瞬間、わずかに表情を歪めたが、すぐに無理やり笑みを作る。「貴臣くん、いらっしゃい。さあ、中へどうぞ」「清夏は?」貴臣は単刀直入に尋ねた。「あの子は……病気なの。二階で休んでいるわ」郁美の視線が落ち着かず泳ぐ。貴臣は二階を一瞥した。灯りの消えたまま、物音ひとつしない部屋。それだけで、すべてを悟るには十分だった。彼はそれ以上何も言わず、踵を返してその場を後にした。その足で実家へ向かい、彼はドアを蹴破るかのような勢いで中へ踏み込んだ。リビングに足を踏み入れた瞬間、目に刺さる光景が飛び込んでくる。葵が林檎の皮を丁寧に剥き、一口大に切り分けては、愛想笑いを浮かべながら雅子の口元へと運んでいる。仲睦まじい祖母と孫。そんな作り物めいた情景が、針となって彼の視界を刺し貫いた。「おばあちゃん」貴臣の声は、削り出した氷のように冷たかった。「清夏を監禁させたのですか?」バンッ!雅子はサイドテーブルを叩きつけ、猛然と顔を上げた。濁った瞳に怒火が燃え上がる。「ようやく帰ってきたと思えば、その口の利き方は何だ……あの疫病神のために、おばあちゃんを見捨てるつもりか!」葵はすぐに林檎を置いて立ち上がり、貴臣のそばへ寄ると、宥めるように柔らかな声をかけた。「貴臣、おばあちゃんを怒らせないで。お体も良くないのだから。清夏さんの件だって、すべては桐生家のためなのよ……」「桐生家のためだと?」貴臣は冷ややかに笑った。葵の手を振り払うと、燃えるような眼差しで彼女を射抜く。「家のためか、それとも後ろ暗い悪事のためか?」ついに、その仮面を剥ぎ取った。雅子は怒りに震え、指を突きつけたまま言葉を失っている。葵の顔からは一瞬で血の気が引き、涙が溢れ出した。胸を押さえ、深く傷つけられたかのように見せながら、今にも泣き崩れそうな瞳で貴臣を見つめる。「貴臣……どうしてそんなひどいことが言えるの?清夏さんは……あの殺人犯の冤罪を晴らそうとしているのよ!そんなことが
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第174話

発表会の翌日、デザイン部は大成功の余韻に包まれ、まるで祭りのような賑わいに満ちていた。碧は午前中ずっと心愛の姿を探していたが、どこにも見当たらない。コーヒーを手にしながらも、胸の奥にざわつく不安が消えず、落ち着かないまま携帯に手を伸ばした。何度も呼び出し音が鳴った末、ようやく通話が繋がる。「深水さん!どこに行ってたんですか?体調でも悪いんですか?」碧の声には、抑えきれない心配が滲んでいた。「あなたが帰ったあと、どれほど大変なことが起きたか分かってるんですか?」「大丈夫よ」受話口の向こうから聞こえた心愛の声は、異様なほど静かで冷ややかだった。「高橋さん、木村部長に伝えて。私、会社を辞めるわ。退職願は後で正式に出すから」碧の顔から笑みが一瞬で消え、コーヒーを持つ手が宙で止まる。「辞めるって……深水さん、正気ですか?今がキャリアの絶頂期なんですよ!どうして――」「何でもないの」心愛は説明を拒んだ。「それじゃあ、切るわね」碧が言葉を継ぐ前に、通話は一方的に途切れた。呆然とスマートフォンを握りしめる碧の胸で、不吉な予感だけが膨らんでいく。彼女はすぐにディレクター室へ駆け込み、理恵に心愛の退職の意向を伝えた。それを聞いた理恵の表情も険しくなる。迷わずLINEを開き、昂一へメッセージを送った。【深水さんが退職を申し出てきました】メッセージを受け取った昂一は、猶予はないと判断し、即座に社長室のドアを叩いた。暁は昨夜の発表会後の後処理に追われていたが、「退職」の二文字を聞いた瞬間、資料をめくる手が止まった。彼はすぐさま個人用スマートフォンを取り上げ、心愛の番号を呼び出す。だが、受話口から流れてきたのは、無機質なアナウンスだった。「おかけになった電話は、電源が入っていないか……」暁の心臓が、重く沈む。彼はすでに、心愛がどこへ向かったのかを悟っていた。……静寂に包まれた墓地。木々を抜ける風がさらさらと葉を鳴らしていた。心愛はスマートフォンの電源を切り、外界との繋がりを完全に断っていた。白いデージーの花束を抱え、小さな墓石の前へと歩み寄る。遺影の中の祖母は、まるで今もそばにいるかのように、変わらぬ微笑みを湛えていた。彼女は静かに膝をつき、指先で冷たい墓石を撫でるように拭い、わ
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第175話

暁は、彼女の言葉に含まれた棘に傷つく素振りも見せず、ただ静かに歩み寄ると、手にしていた花束を墓石の傍らに供えた。心愛の花束と、整然と並ぶように。彼の声は低く、微かに、しかし隠しきれない疲労を帯びていた。「ここ以外に、あなたが行く場所なんて思いつきませんでした」たった、それだけの言葉だった。心愛が必死に保っていた強がりも、武装も、警戒も、そして作り物の冷淡さも――その一瞬で、すべてが音を立てて崩れ去った。この男は、なぜいつもこうなのだろう。いつも、自分が最も無様で、最も弱っている時に現れる。そしていつも、たった一言で、自分の脆すぎる虚勢を正確に撃ち抜いてしまう。心愛は、もう自分を抑えることができなかった。勢いよくその場に崩れ落ち、両手で顔を覆う。溜まりに溜まった嗚咽が、ついに喉を突き破って溢れ出した。その泣き声には、あまりにも多くの絶望と無力感が混じっていた。暁の心臓が、誰かに力任せに握り潰されたかのように痛んだ。彼は何も言わず、黙ってトレンチコートを脱ぐと、歩み寄って腰をかがめ、そっと彼女の肩に掛けた。心愛はその馴染みのある香りに包まれ、さらに激しく泣きじゃくった。連日の重圧、昨夜の心をへし折るに足る二重の嵐、そして一睡もしていない疲労――それらがついに、彼女の身体に残された最後の力をも使い果たさせた。心愛の視界がふっと暗転し、意識が完全に途切れた。崩れ落ちる彼女の体を、暁は確かに受け止めた。暁は心愛を横抱きにした。その際、何気ない動作を装いながら、彼女の肩にかかる髪の間から一本の長い髪を抜き取り、誰にも悟られぬよう指先で慎重に掴んだ。腕の中で意識を失った心愛を抱えたまま、足早に車へと向かいながら、昂一に電話をかける。電話はほとんど一秒でつながった。「調べろ!」暁の声には抑えきれない怒りが滲んでいた。「葵が清夏に一体何をした?漏れなく、すべての事実を把握しろ。それから、近藤を私のマンションに呼べ。今すぐだ!」……心愛が再び目を覚ました時、自分が柔らかな大きなベッドの上に横たわっていることに気づいた。鼻先をかすめるのは、馴染みのあるシダーウッドの香り。体には軽やかな羽毛布団が掛けられている。横を向くと、サイドテーブルに一杯の白湯が置かれていた。ここは、暁のマンションだ。
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第176話

暁は自分のスマートフォンを仕舞うと、その古い端末を受け取った。薄手の白い手袋をはめる一連の動作は、いかにもプロフェッショナルで、寸分の隙もない厳格さを帯びていた。彼はすぐに録音を再生しようとはせず、まず端末の外観や接続端子を丹念に検査した。物理的な損傷がないことを確認すると、専用のデータケーブルを接続し、内部のコアファイルをバックアップする。そこまで終えて、ようやくヘッドホンを装着し、あの録音を最初から最後まで――一分一秒も漏らさず聴き通した。再生が終わると、彼はゆっくりとヘッドホンを外し、深い沈黙に沈んだ。「……薬で眠らせた。後でこいつをあの女の上に転がして、警察を呼べ。『色欲に溺れて暴行した末の殺害だ』ってな!」紘が吐き捨てたおぞましい指示は、改めて耳にすると、一語一語が毒を塗った氷の楔のように鋭く響いた。暁の視線はノートへと落ち、静かにペンを走らせる。――第三の人物。そう書きつけると、その言葉を強く丸で囲んだ。紘は、誰か別の人間に命令を下している。つまり現場には、俊輔と紘のほかに、少なくとももう一人が存在していたということだ。暗がりに潜み、一連の実行を担った共犯者が。暁はすぐに内線電話を取り、波紋一つ立たない冷静な声で告げた。「昂一、入ってくれ」昂一は小走りで入室した。暁の周囲に漂う、嵐の前の静寂にも似た重苦しい気配を、肌で感じ取っていた。「第一に」暁が口を開く。「『サル』という男に連絡を取れ。録音の中で俊輔くんと通話していた友人だ。直ちに所在を特定し、あらゆる手段を講じて身の安全を確保しろ。本件における最重要証人だ」「第二に」一度言葉を切ると、暗号化されたルートで録音ファイルを技術部責任者へ送信した。「技術部に、録音された宇佐美の音声の音紋鑑定を行わせろ。同時に、発言時の背景音や環境音の解析も進めさせる。当時の正確な位置を特定し、微細な雑音から、彼が指示を出した『第三の人物』に繋がる手がかりを一つ残らず洗い出せ」「承知いたしました」昂一は迅速にメモを取り、張り詰めた緊張の中で即答した。オフィスに、再び静寂が落ちる。暁は巨大な掃き出し窓の前に立ち、眼下を流れる車列を無言で見下ろした。やがてスマートフォンを取り出し、ほとんど使ったことのない実名認証済みのSNSアカウントにログイン
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第177話

あの人……あの人は、どうしてあんな真似ができるの?正気なの?葵は雅子の驚愕した表情を確認する余裕すら失い、自分のハンドバッグを掴むと、よろめきながら二階のゲストルームへ駆け込み、ドアを乱暴に閉めて鍵をかけた。雅子も、この突発的な事態にしばし言葉を失っていた。冷酷で利益のみを重んじるはずの加賀見の小僧が、なぜ心愛ごときのためにここまでやるのか。ビジネスの論理からすれば、まったく筋が通らない。ゲストルームの中では、葵が体勢を立て直す間もなく、紘からの執拗な着信が追いかけてきた。震える手で通話ボタンをスライドさせると、開口一番、紘のこれまでにないほどの恐慌と苛立ちが入り混じった絶叫が耳を打った。「葵!お前の兄貴はイカれてんのか!本人が直接俺たちを訴える気だぞ!お前はあいつの妹じゃねえのかよ?一体あいつにどんな説明しやがった!」葵は、もはや自分を抑えられなかった。受話口に向かって、狂ったように怒鳴り返す。「あの人が何を考えてるかなんて、私が知るわけないでしょ!あの女のためにここまでやるって分かってたら、死んでもあんたの偽証なんて手伝わなかったわよ!全部あんたのせいよ!何一つまともにできない無能なクズ!あの時、あんたが泣きついてこなければ、私がこんな汚れ仕事に関わるはずなかったのに!今やあの加賀見暁が自ら出てきたのよ、私たちはおしまいよ!何もかもおしまいなんだから!」口を極めて罵るその最中、彼女は「偽証を手伝った」という、最も決定的な事実を、何の躊躇もなく叫び散らしていた。その頃、ドアの外ではゲストルームエリアの清掃を担当する家政婦の優子が、重い清掃用カートを押して通りかかった。室内から漏れ聞こえる激しい口論と、何かが壊れる音に驚き、慌ててその場を離れようとする。しかし動揺のあまり手元が狂い、制御を失ったカートが、壁際に飾られていた磁器の花瓶に激突した。ガシャンッ!澄んだ破裂音が廊下に響き渡り、花瓶は光沢のある大理石の床の上で粉々に砕け散った。部屋の中の罵り合いが、ぴたりと止まる。次の瞬間、ドアが内側から勢いよく開け放たれた。葵は目を真っ赤に染め、髪を振り乱し、狂った魔女のような形相で立っていた。目の前で顔を蒼白にしている優子と、足元に散らばる無惨な破片を認めた瞬間、その瞳に猛毒を孕んだ陰険な光が宿る
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第178話

隆は距離を置いて立っていたため、葵がどのような言葉で脅したのかまでは聞き取れなかった。だが、あの鬼気迫る形相と、床に崩れ落ちた優子の恐怖と絶望に満ちた様子は、焼き付くように脳裏に刻み込まれた。隆は音も立てず、気配を消すようにその場を後にした。その頃、桐生グループでは、貴臣の個人用スマートフォンが短く震えた。暗号化メールの受信通知だ。送り主は――「K」。金さえ積めばいかなる依頼も引き受ける、業界屈指の私立探偵だった。数時間前、貴臣はその「K」に命じていた。「報酬はいくらでも払う。五年前の深水俊輔の事件の全貌と、葵が帰国して以降の動向を、すべて洗い出せ」暗号化されたファイルを開いた瞬間、画面の光が彼の顔を照らし出し、その表情をいっそう険しく、暗く浮かび上がらせた。さすがは業界屈指の探偵だ。調査の手際は、恐ろしいほどに速い。彼は葵からではなく、最も突破しやすく、かつ見落とされやすい駒――紘を起点に切り込んでいた。一つ目の添付ファイルは、防犯カメラのスクリーンショット数枚。画質は粗く、南川埠頭だと辛うじて判別できる程度だったが、そこに映る白いマセラティと、その傍らで挙動不審に動く男の姿。その車を、貴臣が見間違えるはずもない。葵の愛車だった。二つ目の添付ファイルは、一枚の写真。それが画面いっぱいに表示された瞬間、貴臣の全身の血が凍りついた。写真の中には、心愛の祖母が高級病室の白いシーツの上に横たわり、幾つもの精密な医療機器に繋がれている姿があった。その画像のプロパティ情報は、「K」によって赤枠で強調されている。加工日時、そして作成者――「UH」。UH――USAMI HIROSHI。貴臣の脳裏に、かつて葵が涙ながらに語った言葉が蘇る。心愛がいかに強欲で、金と家のために、危篤の祖母すら見捨てたかという話。彼は無理やり心を鎮め、さらに先を読み進めた。三つ目の添付ファイルは、銀行の振込記録のスクリーンショットだった。海外の秘匿口座から、紘の口座へ一億が送金されている。取引日時は、あの防犯カメラに映っていた南川埠頭での密会の翌日。一億。決して軽い額ではない。これらの証拠に思考が揺らぎかけたその時、オフィスのドアがノックされた。隆が入室した。その顔色は、これまでにないほど重い。「社長、
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第179話

結局のところ、自分は単なる節穴どころか、救いようのない屑だったのだ。弄ばれていたことへの憤怒、心愛へ向けた遅すぎた罪悪感、そして自らの愚かさへの憎悪。綯い交ぜになった負の感情が、胸の奥で凄まじい音を立てて爆ぜた。彼は猛然とデスクに拳を叩きつけた。常に冷静沈着を貫いていたその瞳に、初めて悍ましいほどの殺気が宿る。顔を上げた彼の声は掠れていたが、そこにはかつてない峻烈な響きが込められていた。「今すぐ田中とその家族を送り出せ。最速だ。何人たりとも彼女らには接触させるな!それと、調べ上げろ。あの夜、南川埠頭で葵と宇佐美が密会した際、他に何が起きたのか……すべてを洗いざらい突き止めるんだ!」側近の隆は、主人のこれほどの変貌をかつて見たことがなかった。背筋を走る戦慄を抑えながら、命を受けるや否や部屋を飛び出していく。独り残された貴臣は、手元の報告書を見つめ、微塵も笑みのない、氷のように冷たい弧を唇に刻んだ。あの一億の振込記録と照らし合わせれば、真相はもはや明白だった。葵は、「文子の写真が欲しい」という自分の要求を煙に巻くため、紘に命じて加工した写真を作成させたのだ。この女……長年、心の拠り所として慈しんできたはずの「想い人」は、ただ心が醜いだけでなく、反吐が出るほど残忍で狡猾な本性を隠し持っていたのだ。彼は目を閉じ、冷たい椅子の背もたれに身を預けた。底なしの疲労感と自己嫌悪が、潮水のように彼を呑み込んでゆく。長い沈黙の果てに、ようやく再び目を開いた彼は、静寂とした暗闇の中でスマートフォンを手に取った。見慣れたはずの番号が、今はあまりに遠く感じる。かつては苛立ちとともに一方的に切り捨ててきたその番号に、今は発信ボタンを押すことすら、絶大な勇気を必要とした。幾度も呼び出し音が虚しく響き、やがて聞こえてきたのは、予想通りの話中音だった。心愛はもう、二度と自分の電話には出ないだろう。その確信が、見えない大きな手となって彼の胸をきりきりと締め付けた。貴臣は通話を切り、今度は清夏の番号を探した。今、心愛との橋渡しとなり、自らの微かな謝罪と釈明を届けてくれる可能性があるのは、清夏しかいない。しかし、その電話も繋がることはなかった。そこでようやく思い出す。清夏もまた、あの独りよがりで愚鈍な祖母によって監禁されているのだ
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第180話

虚偽告訴事件の初公判当日、名雲地方裁判所の正門前は、身動きも取れぬほどの黒山の人だかりに呑み込まれていた。幾重にも林立するカメラのレンズは、冷然とそそり立つ鋼鉄の森を彷彿とさせる。加賀見グループの総帥が自ら法廷に立ち、迎え入れたばかりの実妹を断罪する――名雲の社交界史に深く刻まれるであろうこの未曾有の修羅場に、群がるメディアは野獣のごとき嗅覚で血の匂いを嗅ぎつけていた。喧騒から離れた側門に、一台の控えめな黒のセダンが、音もなく滑り込んだ。清夏を傍らに、心愛が静かにその姿を現した。装飾を削ぎ落とした白いシャツに黒のスラックス。一切の虚飾を廃した面差しは、底知れぬ淵のごとく静まり返っている。だが、その瞳の奥だけは、凍てつくような鋭さと、決して絶えることのない執念の焔を宿していた。ほぼ時を同じくして、正門付近に怒号にも似た喧騒が沸き起こった。葵が、漆黒のスーツに身を包んだ護衛たち、そして雅子が巨額を投じて招聘した国内最強の弁護団に守られ、メディアの荒波の前に現れたのだ。大きなサングラスで顔を半分ほど覆い隠し、その顔色は病的なまでに蒼白で、唇は一文字に結ばれている。それでもなお、剥げかかった体面を死守せんとするがごとく、彼女は必死にその背筋を正していた。無数のフラッシュとシャッター音が狂乱の極致に達した、その瞬間。一台の漆黒のマイバッハが、悠然とVIP専用通路へと滑り込んだ。最後に姿を現したのは、暁だった。隙のない仕立ての黒のスリーピースを纏い、風を切り裂くように歩を進めるその佇まい。周囲に放たれる冷徹かつ圧倒的な威圧感に、先ほどまでの喧騒さえもが氷結したかのように静まり返る。彼は、群がる記者たちに視線を向けることすらなく、真っ直ぐに法廷の奥深くへと消えていった。午前九時。法廷内は、文字通り立錐の余地もないほどの傍聴人で埋め尽くされていた。裁判官が静かにガベルを打ち下ろし、厳かに開廷が宣言された。葵の代理人として立ったのは、法曹界きっての辛辣な弁舌で知られる練達の士、寺田和弘(てらだ かずひろ)である。彼は即座に先制の一撃を放った。和弘は悠然と立ち上がると、朗々と響き渡る声で、緻密に構成された論理を組み立てていく。まず、当時の俊輔が関わった事件の判決がいかに揺るぎない正当性を持ち、証拠が堅実であったかを強く訴え
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