All Chapters of 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った: Chapter 181 - Chapter 190

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第181話

和弘の反応は迅速だった。最後の一縷の望みにすがりつこうと、必死に抗う。それを見た暁の口元に、冷酷で、どこまでも無慈悲な弧が浮かんだ。葵の体が激しく揺れ、今にも椅子から滑り落ちそうになる。だが、これで終わりではなかった。「裁判長。当方は本件の鍵を握る証言者、猿渡健介(さるわたり けんすけ)氏の出廷を申請します」裁判官の許可が下りると、法廷の側門が静かに開いた。かつて「サル」と呼ばれていた少年が、暁のチームスタッフに守られながら証言台へと歩み出る。その顔には緊張が色濃く浮かんでいた。だが、対面に座る心愛の励ますような視線に気づいた瞬間、彼は深く息を吸い込んだ。そして事件当夜、俊輔と交わした通話の一部始終を、細部に至るまで克明に語り始めた。その証言は、先ほど再生された録音と、一秒の狂いもなく完全に一致していた。人証と物証。互いに補完し合う、逃れようのない完全な証拠の鎖が、今この場に提示されたのである。動かぬ証拠を突きつけられ、葵の弁護団は明らかに動揺した。和弘は咄嗟に論点をすり替え、たとえ録音が本物だとしても、それは紘に重大な嫌疑があることを示すに過ぎず、葵の関与を直接証明するものではないと弁明を始める。裁判官の厳しい視線が、ゆっくりと葵へ向けられた。「被告人、原告側が提示した証拠について、何か陳述はありますか」その瞬間、葵の目から涙があふれ出した。彼女は立ち上がり、嗚咽をこらえながら、か細い声で訴える。「裁判長……私、本当に何も知らなかったんです。紘は友人ですが、あんな恐ろしいことをするなんて思いもしませんでした。私も彼に騙されていたんです……もし、そんな企みを知っていたら、必ず止めていました……!」その演技は、かつてならば幾ばくかの同情を誘えたかもしれない。だが、今の暁にとっては、もはや取るに足らぬものだった。彼は静かにその芝居を見届け、葵が泣き止むのを待ってから、冷然と口を開く。「被告人。あなたは宇佐美紘の計画を一切知らず、関与もしていないと主張するのですね」そして、最後にして決定的な問いを投げた。「では、なぜ事後に、あなたの口座へ宇佐美紘から一億もの口止め料が振り込まれているのですか」葵は口を開きかけた。否定しようと、あるいは言い逃れを試みようとした。だが、暁の射抜
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第182話

休廷を告げる槌の音が響き渡った瞬間、法廷全体はまるで一時停止ボタンを押されたかのように、一秒間、死のような静寂に包まれた。次の瞬間、フラッシュが豪雨のごとく降り注ぐ。記者たちは血の匂いを嗅ぎつけた鮫のように、法廷警備員が辛うじて維持していた規制線を一気に突破し、被告席へとマイクとカメラを狂ったように突きつけた。「加賀見葵さん!あの録音は本物ですか!」「本当に虚偽告訴に関与していたのですか!」葵の身体がぐらりと揺れる。立ち上がろうとしたが、指一本動かす力すら残っていなかった。耳鳴りが響き、フラッシュの光と容赦ない追及の声が、割れるような頭痛となって襲いかかる。――あの録音、どうして向こうが持っているの。ありえない。紘のあの役立たず。携帯はすべて処分したと言っていたはずなのに。隣の弁護団も完全に浮き足立っていた。和弘は顔色を赤から青へと変えながら、額の冷や汗を拭い続け、「ありえない……論理的におかしい……」と呟いている。傍聴席では、雅子が手すりを強く握り締めていた。丹念に整えられたその顔には、初めて本当の意味での恐怖が浮かんでいる。被告席で蒼白となり、今にも崩れ落ちそうな「孫嫁」を見つめながら、彼女の頭の中は真っ白だった。――どうやら今回は、本当に賭ける相手を誤ったらしい。その事実を、ようやく悟った。「静粛に!静粛に!」裁判官が力いっぱいガベルを打ち鳴らすが、その音は巨大な喧騒に呑み込まれていく。混乱の渦中、暁がゆっくりと立ち上がった。狂乱する記者たちには一瞥もくれず、ただ静かに裁判官席へと向き直り、第二の証拠申請を提示する。「裁判長。当方には新たな証拠があります。直ちに提出いたします」――まだあるのか。和弘は、心臓が止まるかと思った。この新証拠を提出したのは清夏だった。彼女は心愛の脇を通り過ぎる際、その手を強く握る。黒いUSBメモリが廷吏から技術担当者へと渡され、ほどなくして法廷の大型スクリーンに映像が映し出された。暗く粗い画質ながら、それが南川埠頭であることは明白だった。白いマセラティの傍らで、葵と紘が取引を交わしている。音声はないが、紘が何かを手渡し、葵がキャッシュカードを投げ渡す様子が鮮明に記録されていた。続いて、銀行の振込記録のスクリーンショット。海外の暗号化口座か
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第183話

言葉が終わった瞬間、二人の廷吏が左右から歩み寄り、葵の両腕をがっしりと掴んだ。冷たい手錠が「カチャリ」と音を立て、彼女の細い手首を容赦なく縛り上げる。「嫌!離して!私を捕まえるなんて許されないわ!」葵は完全に理性を失い、まな板の上で跳ねる魚のように狂乱して暴れた。「私は加賀見家のお嬢様なのよ!父は加賀見正国よ!私に指一本でも触れてみなさい!」彼女は必死に顔を向け、助けを求めるように傍聴席の雅子を見た。「おばあちゃん!助けて!おばあちゃん!」雅子は、その冷たい手錠と、狂気に歪んだ葵の顔を目の当たりにした瞬間、視界が暗転した。呼吸が詰まり、身体ががくりと崩れる。そのまま椅子から滑り落ち、意識を失った。法廷は再び、巨大な混乱の渦に呑み込まれた。葵は二人の廷吏に力ずくで引きずられ、法廷の外へと連行されていく。原告席の前を通り過ぎたその時、彼女の目に暁の姿が映った。「お兄ちゃん!」葵は最後の一縷の望みに縋るように、悲痛な声で叫んだ。「助けて!私、あなたの妹でしょ!こんなことさせちゃダメ!早く言ってよ、私はあなたの妹だって!」暁はただ、冷ややかな視線で葵を見据えていた。その眼差しは、見知らぬ他人を見るよりもなお冷酷だった。彼は一言も発しない。葵の絶叫は、やがて遠ざかり、やがて完全に消えた。……裁判所の外。心愛が正門を出ると、刺すような日差しが顔を照らし、彼女は眩しげに目を細めた。清夏が駆け寄り、彼女を力いっぱい抱きしめる。泣き笑いのまま、声を震わせた。「心愛、勝ったわ!私たち、勝ったのよ!」心愛はその肩にそっと身を預け、抜けるような青空を見上げながら、音もなく涙を流した。――おばあちゃん、俊輔。見ている?悪は、いつか必ず裁かれる。遅かれ早かれ、正義は必ず来る。……名雲第一病院、VIP病棟。正国と静香はテレビの前で、判決の行方を固唾をのんで見守っていた。画面の中でニュースキャスターが、淀みのない口調で告げる。「被告人・加賀見葵および宇佐美紘に対し、虚偽告訴の罪により、有罪判決が言い渡されました」その一言が放たれた瞬間、静香の視界が暗くなり、手にしていたリモコンが「ドサッ」と床に落ちた。「葵……」彼女は信じられないものを見るように、唇を震わせたまま言葉を失
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第184話

その言葉は、死寂とした病室の中で爆発した。怒りと悲しみに歪んでいた静香の瞳が、驚愕に大きく見開かれる。暁を打ち据えていた手は止まり、糸の切れた人形のように全身から力が抜け落ちた。彼女は信じがたいものを見るかのように、呆然と息子を凝視した。「あなた……何を言っているの……?」正国もまた、その場に凍りついた。妻を支える腕に力がこもる。その眼差しには、驚きと、にわかには信じがたい困惑が入り混じっていた。「暁!正気か?よくもそんな出鱈目が言えたものだ!」どうしてそんなことが言えるのか。葵は、自分たちが長年探し求め、二十年もの歳月を想い続けてきた宝物だ。加賀見家の血を引く、唯一無二の娘ではないのか。それを、赤の他人のために否定するというのか。「暁、私を見て……」静香の声は震えていた。彼女は縋りつくように息子の腕を掴む。その爪が肉に食い込むほど、彼女は必死だった。「あの深水心愛に毒されてしまったの?一体どんな呪いをかけられれば、自分の妹を認めないなんてことになるっていうの!」暁は、苦悶と詰問に満ちた母の瞳を、静かに見つめ返した。「お母様……」暁が重い口を開く。その声には、かつてないほどの疲弊が滲んでいた。「本当に……葵が、自分に似ていると思っているのですか?」その問いに、静香は言葉を失った。「あの勾玉よ!」静香は、最後の一筋の希望に縋るように叫んだ。「あの勾玉!お父様が私に贈ってくれた、世界に二つとない婚約の証よ!葵はあれを持って現れた。間違いなんてあるはずがないわ!検査だってした。医師は、彼女の血液型も骨髄も私と適合すると言ったわ。私たちは間違いなく、血の繋がった母娘なのよ!」ほとんど絶叫に近いその言葉は、暁を説得しているようでもあり、自分自身に言い聞かせているようでもあった。暁は母を見つめ、その瞳に微かな憐憫を宿した。「その検査は、葵自身が手配したものだったでしょう」彼は言葉の一つ一つを、脆く危うい真実を切り裂く刃のように突きつけた。「最初から最後まで、すべて葵が仕組んだ罠だとは考えなかったのですか?葵はあらかじめ勾玉の由来を知り、お母様の血液型さえ調べていた。偽造された鑑定書と、どこからか手に入れた勾玉を使い、お母様を信じ込ませた。……お母様は、騙されていたんですよ」
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第185話

暁の心に、理由のない安らぎがふっと兆し、直後、細い針で抉られるような鋭い痛みが広がった。「あの子はずっと、そばにいたんです」暁は視線を戻し、両親を真っ向から見据えた。静かなその声は、千斤もの重さを湛えた槌となって、二人の胸に容赦なく打ち込まれた。「二十年以上も探し続け、掌中の珠として慈しむはずだった実の娘を――あなたたちはあろうことか、疎ましい棘のように扱い、目の敵にしてきた。偽物に肩入れし、本物を虐げ、苦しめ、家族を奪い、逃げ場のない淵まで追い詰めたんだ。これ以上、あいつを惨めな目に遭わせれば気が済むというのですか?」暁が言葉を重ねるたび、静香の顔からは見る間に血の気が失せていった。彼女はたじろぎ、よろめきながら後退すると、ベッドの縁を掴んでかろうじて崩れ落ちるのを堪えた。息子の瞳を凝視する彼女の脳裏には、否定したくてたまらない、けれど狂おしいほどに叫びを上げる一つの疑念が鎌首をもたげていた。「まさか……」震えるその声は、もはや言葉の形をなしていない。「そ、それは……深水心愛のことなの?」暁は答えを返さなかった。彼はただ、スーツの内ポケットから茶封筒を取り出し、中から数枚の書類を引き抜くと、突きつけるように二人の前に差し出した。それは、親子鑑定の報告書だった。【被検者:加賀見静香、深水心愛】そして鑑定結果の欄には、『親族関係である確率は99.99%以上』という一文が、赤いマーカーで執拗なまでに囲まれていた。白い紙面に並ぶ無機質な黒い文字は、まるで死を宣告する呪詛のようだった。静香はその報告書を、そして「深水心愛」という鋭く刺さる四文字を見つめた。視界が激しく揺らぎ、あらゆる音が遠のいていく。耳の奥では、ただ不快な金属音のような耳鳴りだけが鳴り響いていた。あの子だったというの?よりによって、なぜあの子だったのか。初めて対面した時から、理由もなく鼻について仕方がなかった、あの娘?自分の「娘」を苦しめる元凶だと信じ込み、「疫病神」だの「邪魔者」だのと、指を差して罵倒してきたあの娘だというのか。彼女の脳裏に、記憶が奔流となって押し寄せた。雅子の前で葵の肩を持ち、天涯孤独なあの娘を一緒になって糾弾したこと。葵の嘘泣きに容易く欺かれ、心愛に対して異常なまでの偏見と嫌悪を剥き出しにし、あの子
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第186話

車は市街地へと滑らかに走り、窓の外では街の景色が飛ぶように後方へ流れていく。心愛は助手席の背もたれに身を預け、一言も発さず、ただ窓外を見つめていた。裁判所の門前で巻き起こったあの喧騒の嵐は、車の窓一枚を隔てただけで、まるで別世界の出来事のように遠ざかっていく。清夏はハンドルを握りながら、時折ちらりと心愛の様子を窺った。沈黙を貫く彼女の姿に、胸の内は穏やかではいられない。「心愛」ついに耐えきれず、清夏が口を開く。「あんた……大丈夫?」心愛はゆっくりと顔を向け、清夏を見返した。表情に大きな変化はない。だが、張り詰めていた瞳には、ようやくかすかな安らぎの色が宿っていた。「大丈夫よ」一拍置いて、彼女は胸の奥で最も気にかかっていた問いを口にする。「清夏、俊輔は……いつ頃出てこられそう?」「裁判所の判断次第だけど、おそらくここ数日のうちよ!」清夏は即答した。その声には抑えきれない高揚が滲んでいる。「さっき確認したわ。葵と宇佐美――主犯の二人に実刑判決が下って、俊輔の無罪が確定すれば、すぐにでも迎えに行けるって!」心愛の心臓が、温かな手にそっと包み込まれたような感覚に満たされた。連日、胸の奥に重く沈んでいた巨石が、ようやく完全に取り払われたのだ。彼女は長く、深く息を吐き出し、全身の力を抜いてシートに身を沈める。唇の端が、無意識のうちにほんのわずかに持ち上がった。だが、その笑みは広がりきる前に、静かに消えていった。ふと、今自分が暮らしているマンションのことを思い出す。1LDK、ベッドは一つ。もともとは貴臣から逃れるための仮の避難場所であり、しかも加賀見グループの福利厚生の一環として提供されたものだった。だが、これから俊輔が帰ってくる。あれほどの苦難を背負ってきた彼を、あの狭く息苦しい空間に押し込めるわけにはいかない。彼に与えたいのは、本当の「家」だ。広く、明るく、陽光が差し込み、温もりに満ちた場所を。「清夏、あなた顔が広いでしょ」心愛は姿勢を正した。その瞳には新たな目標が宿り、再び光を取り戻している。「どこかいい賃貸物件、心当たりを探してほしいの。2LDKか3LDKで、静かで環境のいいところがいいわ」清夏はすぐに意図を察し、力強く頷いた。「任せて!私の意地にかけて、俊輔が出てくるまでに最高の家を
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第187話

「大丈夫よ」心愛は彼女の言葉を遮り、穏やかな声で言った。「何が大丈夫なもんですか!」電話の向こうで、碧の声がいきなり泣き声に変わる。「深水さん、どうして何でも一人で背負い込むんですか!あなた……あんなに酷い目に遭わされて、どうして私たちに言ってくれなかったんですか……もし知っていたら……あの加賀見葵があんな人間だって知っていたら、私……」彼女は言葉を続けながら、ついに自分のほうが先に声をあげて泣き出してしまった。友人の心からの気遣いと、自責の念に満ちた声を耳にし、心愛の胸の奥にあった最も硬い部分が、ふっとほどける。「もう終わったことよ」彼女はやさしく諭すように言った。「ほら、今はもう全部、いい方向に向かっているでしょう?」「何がいい方向ですか!」碧は鼻をすすりながら声を張る。「あなたが出した退職願、木村部長は受理していないんです!自分の一存では決められないって言って、報告書は今も社長室に留め置かれたままなんですよ。深水さん、本当に行ってしまうつもりなんですか?やっと大きな勝利を掴んだばかりなのに、今辞めるなんてもったいなさすぎます!」心愛はその話を聞いても、少しも驚かなかった。あの広いオフィスで、暁が彼女の退職願に目を落としながら、静かにすべてを掌握している――そんな光景が、ありありと脳裏に浮かんだからだ。彼は、こういうやり方で自分を引き留めるつもりなのだろうか。心愛の口元に、わずかな自嘲の笑みが浮かぶ。「木村部長に、お礼を伝えておいて」心愛は電話に向かって静かに言った。「でも、やっぱり私は出て行くわ。俊輔を迎えに行って、落ち着いたら、彼を連れて名雲を離れるつもり。別の場所で、やり直すの」「名雲を離れるって……」碧の声が一気に跳ね上がる。「深水さん……どこへ行くつもりなんですか?」「まだ決めていないわ。海の見える小さな町もいいかもしれないわね」心愛は窓の外へ視線を向ける。その瞳に、かすかな憧れが灯る。「静かな場所で、小さなデザイン事務所を開いて、毎日海を眺めながら花を育てて……そんな暮らしも、悪くないわ」電話の向こうが、ふっと沈黙した。碧は悟る。もう、心愛を引き留めることはできないのだと。「名雲を離れる」と口にしたその瞬間から、彼女は――かつて自分が戦ってきた舞台にすら、何の未練も残して
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第188話

心愛の眉間がぴくりと跳ねた。彼女は、暁が俊輔の事件のために葵と対峙し、加賀見家全体を敵に回すことさえ厭わなかったことを知っている。胸の奥に鋭い痛みが走り、不吉な予感が頭をもたげた。暁は葵や桐生家から報復を受けたのではないか――病院に運び込まれるほどの怪我を負っているのではないか。「怪我をしたんですか?」自分でも気づかぬほど焦燥を滲ませた声が、かすかに震えた。暁は一瞬だけ沈黙し、含みを持たせた低い声で答えた。「来ればわかります」否定はしなかった。その事実だけで、心愛の心臓は強く締めつけられ、指先が氷のように冷えていく。「……わかりました。すぐに行きます」電話を切ると、運転席の清夏が訝しげに彼女を見た。「どうしたの?加賀見さん、本当に怪我でもしたの?そんな顔して」「……行けばわかるわ」心愛は深く息を吸い込んだ。清夏に病院の入口まで送ってもらい、心愛は暁が指定したVIP病室へとまっすぐ向かった。廊下の突き当たりでは、昂一が重苦しい面持ちで扉の前に立っていた。彼は心愛の姿を認めると、何か言いかけて唇を動かしたが、結局は何も言わず、顎で室内を示しただけだった。心愛はドアに手をかけ、ゆっくりと押し開けた。病室の中では、正国がベッド脇の椅子に座り、土気色の顔で俯いている。ベッドの上には静香が横たわり、蒼白な顔で目を閉じていた。まだ意識は戻っていないようだった。そして暁は窓際に立ち、こちらに背を向けている。その背中はどこか以前よりも細く、孤独の影をまとっているように見えた。静香の姿を目にした瞬間、心愛の胸は沈んだ。暁の母親――なぜここに?葵の件で衝撃を受け、倒れてしまったのだろうか。そう思った矢先、暁がゆっくりと振り返った。「来てくれたんですね」かすかに掠れた声だった。心愛は小さく頷く。その視線が再び静香へと落ちた、その時――静香が、ゆっくりと目を開けた。その視線は暁を通り過ぎ、やがて心愛の顔に吸い寄せられるように止まった。次の瞬間、静香の瞳が大きく見開かれる。「あなた……あなたは……」震える唇から、かすれた声が一文字ずつ零れ落ちる。「……心愛?」心愛はその場に凍りついた。なぜ、この女性が自分の名を知っているのか。無意識に暁を振り返り、困惑の色を宿
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第189話

「あなた……あの勾玉のペンダント……あれを持って帰ってきたのね、そうでしょう?」静香の声には、すがるような希望が満ちていた。勾玉?「勾玉は……壊されてしまったのね?」静香は続ける。「葵が……あの子が奪ったの……壊してしまえば、あなたの身分を証明できなくなると……そう言っていたわ……」心愛は息を呑んだ。勾玉が葵に奪われ、粉々に砕かれたのは事実だ。だが、なぜ静香がそれを知っているのか。「私……勾玉のペンダントは持っていません」心愛は静香を見つめた。すると静香は、はっと思い出したように、震える手で枕の下からベルベットの小箱を取り出した。箱が開かれると、そこには修復され、元の姿を取り戻した勾玉のペンダントが静かに横たわっていた。心愛の身体が、びくりと強張る。このペンダントは――「これは……」彼女の声が詰まる。「そのペンダントは、加賀見家の娘の証です」暁が静かに告げた。「お母様があなたを産んだとき、体調を崩して生死の境をさまよった。加賀見家は、あなたに万が一のことがないよう、守りとしてそのペンダントを授けたんです。葵はそれを奪い、利用して親子鑑定を偽造し、加賀見家に入り込んだ」心愛はそのペンダントを手のひらに載せ、胸元へと押し当てた。かつて暁が、彼女を「故人に似ている」と言った理由が、ようやく一本の線となって繋がる。自分が……加賀見家の娘?暁の妹?葵は、他人の巣を乗っ取った偽物だったというのか。そして、暁は――私の実の兄だというのか。心愛はペンダントを握りしめたまま、暁を見つめた。その瞳には、言葉では言い尽くせないほどの複雑な感情が渦巻いている。胸の内は、甘さや苦さ、酸っぱさや渋さがごちゃ混ぜになって、自分でもどう整理していいのかわからなかった。ずっと、暁が助けてくれたのは、葵の罪を償うためだと思っていた。自分は利用される道具か、あるいは同情の対象にすぎないのだと。だが今、彼は、自分たちが血の繋がった兄妹だと言う。その瞬間、心の奥底に押し込めていた暁への名もなき情愛――抱いてはならなかったはずの依存やときめきが、鋭い刃で断ち切られた。そして、そのまま冷たい深淵へと投げ落とされたような感覚に襲われる。兄妹。なんと皮肉な言葉だろう。暁の前で何度も見せた崩壊と無力。
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第190話

病室の中、静香の目から一気に涙が溢れ出した。目の前にいる娘を見つめ、その細い肩や蒼白な頬に視線を落とした瞬間、胸が締めつけられるように痛んだ。「心愛……私の子……」彼女は手を伸ばし、娘に触れようとした。だが、ようやく手にしたこの奇跡のような瞬間を壊してしまうのが怖くて、手は宙に浮いたまま、下ろすべきか引くべきかも分からず止まってしまう。正国は傍らで、取り乱す妻の姿と、ようやく見つけ出した娘を交互に見つめていた。そして、長く、本当に長い溜息を吐いた。その溜息には、安堵、激しい後悔、そして一人の父親として二十年以上も遅れてしまった罪悪感が、重く混じり合っていた。「心愛」正国が一歩前に踏み出す。その声は、いつもの厳格さよりもわずかに掠れている。「俺たちと一緒に……家に帰ろう。加賀見家こそが、お前の家なんだ」――家に帰る。温かく、それでいてあまりにも遠い響きを帯びた言葉だった。心愛は、目の前にいる「世界で最も近い血縁」であるはずの二人を見つめた。「裁判の判決を待ちます」静かに、しかしはっきりとした声で言う。「おばあちゃんと約束したんです。俊輔を無事に助け出すって。あの子が出てきたら、まずは落ち着ける場所を探して、二人で生活を整えたいんです」俊輔の名が出た瞬間、静香の顔からさらに血の気が引いた。かつて葵が自分の前でどれほど泣き崩れ、俊輔が卑劣な欲望に溺れ一人の少女の人生を狂わせたと訴えたか――その光景が蘇ったからだ。あの時、自分はそれを疑いもせず信じ、一緒になってあの子を罵った。こんな悪魔は一生刑務所にいるべきだとさえ思った。だが、悪魔だと決めつけていたその少年こそが真の被害者だった。そして、掌中の珠のように慈しんできた「自慢の娘」こそが、すべてを画策した冷酷な存在だったのだ。「ごめんなさい……私たちのせいで、あなたたち姉弟に……」静香の涙はさらに激しくこぼれ落ちた。口元を押さえ、声を詰まらせる。「全部……私のせいよ……あの時、あまりに嬉しくて……あのペンダントを見ただけで、すべてを信じ込んでしまったの……あの子が用意していた鑑定報告書が、どうしてあんなに手際よく揃っていたのか、疑いもしなかった……私は……」それ以上は言葉にならず、彼女は顔を伏せて泣きじゃくった。正国は妻を抱き寄せ
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