身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った のすべてのチャプター: チャプター 151 - チャプター 160

370 チャプター

第151話

俊輔はゆっくりと顔を上げた。赤く充血したその瞳には、茫然自失の色が滲んでいた。暁は彼を見つめ、それから隣で不安に駆られている心愛へと視線を移すと、静かな声で告げた。「これほどまでに完璧な計画であるということは、背後に周到な策士がいる証です。仕組まれた罠である以上、必ずどこかに綻びがある。今君がすべきなのは、自分を責めることではありません。気力を蓄え、私がその綻びを見つけ出すのを待つことです」それは、刑務所を出た直後のことだった。外の少し冷ややかな空気を吸い込んだ瞬間、心愛のスマートフォンが鳴った。見知らぬ番号だった。通話ボタンをスライドすると、受話口の向こうから事務的な男の声が流れてくる。「もしもし、深水心愛さんでしょうか。私、地域再開発事務局の者です。ご連絡ですが、お祖母様名義の清水町の物件について、一帯の全面的な取り壊しと再開発が決定いたしました。至急お越しいただき、立ち退き合意書へのご署名をお願いいたします」――取り壊し?心愛の胸がぎゅっと締め付けられた。あの通りは、祖母が生前、長い時間を過ごした場所だった。「……すぐに向かいます」電話を切るや否や、彼女はタクシーを拾い、清水町へと急いだ。暁はその焦りを帯びた様子を見て、何も問わずに車へ同乗した。車内では、昂一からの着信が鳴りやまない。心愛は暁に急用があると察し、通りの入り口で降ろしてもらうと、すぐに彼を促して送り出した。古い通りの入り口は、すでに工事用フェンスで完全に囲われ、「工事現場につき関係者以外立ち入り禁止」と書かれた看板が掲げられている。その脇には、黄色いショベルカーが無機質に佇んでいた。フェンスの隙間から中を覗くと、見覚えのある大きな槐の木はまだ残っていたが、周囲の石畳はあちこち無残に掘り返されている。ふと視線を巡らせると、見覚えのある人物が白いヘルメットを被り、大きな図面を指し示しながら、スーツ姿の男たちに何事かを指示していた。――葵だ。その瞬間、心愛の胸の奥で怒りがぱっと燃え上がる。彼女はフェンスの入り口へ回り込み、ためらうことなく中へ踏み込んだ。「葵!」歩み寄りながら、氷のように冷えた声を投げつける。「珍しいこともあるものね。弁護士として順風満帆かと思っていたら、いつから現場監督に転職したのかしら?」葵は得意げ
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第152話

葵はその場に立ち尽くし、決然と去っていく心愛の背中を見つめていた。立ち退き合意書を握りしめる指先は、力が入りすぎて白く染まり、爪は紙面に深く食い込み、今にも破り裂きそうなほどだった。――サインをしない?どの口がそれを言うのか。家族も家も失った負け犬の分際で。殺人犯の姉の分際で。いったい何の権利があって、自分に楯突くというのか。胸の奥で、得体の知れない怒りが猛然と燃え上がる。頬は熱を帯び、理性がじわじわと焼き尽くされていく。葵はスマートフォンを取り出し、震える指で画面を乱暴に叩きつけるように操作すると、慣れ親しんだ番号を呼び出し、すぐさま発信した。呼び出し音が途切れ、回線が繋がった瞬間――その顔に宿っていた鋭さと憎悪は、まるで見えない手で拭い去られたかのように消え失せた。代わりに浮かび上がったのは、屈辱に耐える悲劇のヒロインの貌。声には、今にも崩れ落ちそうな泣き声が滲んでいる。「……もしもし……貴臣……」電話の向こうの貴臣は、ちょうど重要な取締役会の最中だった。数人の古参株主たちが、新プロジェクトの利益配分を巡って顔を紅潮させ、激しく議論を交わしている。本来なら応じるはずのない電話だったが、相手が葵だと分かった瞬間、なぜか受話ボタンを押していた。彼は席を立ち、無言で会議室の外へと出る。「どうした」その声には、わずかな苛立ちが滲んでいた。「貴臣……ううっ……」葵の嗚咽は、無力な被害者の絶望を巧みに演じ、絶妙な間で響く。「私……いじめられたの……」貴臣の眉が即座に跳ね上がる。「誰にだ」「心愛さんよ……」葵はすすり泣きながら、先ほどの出来事に尾ひれをつけて語り始めた。「今日、工事現場の進み具合を見に来たら、偶然彼女に会ったの。私はただ親切で、立ち退きの説明をして、早く補償金を受け取れるようにって合意書にサインを勧めただけなのに……それなのに心愛さん、いきなり怒鳴り出して……彼女の居場所を奪ったとか、弁護士界を追い出されたから現場で食い繋いでるんだとか……そんなことまで……」声を震わせ、さらに言葉を重ねる。「大勢の作業員が見ている前で言われて……私、もう恥ずかしくて顔向けできないわ……ううっ……」理不尽に騒ぎ立てる元妻に、公衆の面前で辱められた哀れな被害者として完璧に演出し
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第153話

「そう、その角度です。もう少し拡大して見せてください……」電話の向こうで、貴臣は携帯から流れる「おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか……」という無機質なアナウンスを聞きながら、顔をみるみる険しく沈ませていた。出ないだと?心愛が、俺の電話を無視したというのか。無視された屈辱と、挑発された怒りが胸中で激しく爆ぜる。社長室の空気は一気に冷え込み、窓の外に差し込む陽光さえ凍りついたかのようだった。夜の帳が下りる頃。加賀見本社ビルでは、暁が昂一に紘の行方を探るよう命じていた。昂一が訝しげに問う。「どうして急に宇佐美紘のことを?」「いいから調べろ。以前、深水さんを誘拐した件で指名手配されている。それなのに、これほど時間が経っても見つからないのは不自然だ」「見つけた場合、社長のもとへ連れてきますか。それとも警察へ?」暁はわずかに思案し、「まずは私のところへ連れてこい。聞きたいことがある」と答えた。昂一が退室すると、暁は時刻を確かめた。そろそろ自分も退勤の時間だ。明日は加賀見ジュエリーの四半期発表会。心愛はまだ残業しているはずだと思い、彼女へメッセージを送る。デザイン室では、心愛がようやく最後のディテールを確定させ、大きく息を吐いた。凝り固まった首をほぐし、パソコンの電源を落として帰り支度を始めたその時、スマートフォンの画面が明るく灯る。暁からのメッセージだった。【仕事は終わったか?】「ええ」と短く返信すると、すぐに着信が入る。「下で待っている」受話口から伝わる暁の声には、かすかな温もりが滲んでいた。その一言だけで、胸の奥に柔らかな灯がともる。連日の疲労が、ふっと軽くなるのを感じた。心愛はバッグを掴み、重い体を引きずるようにビルを後にした。「お疲れ様」暁の姿を目にした瞬間、張り詰めていた神経がようやくほどけ、心愛の唇に疲れ混じりの微笑みが浮かぶ。彼女が身をかがめて車に乗り込もうとした、その時だった。街角から、刺すようなヘッドライトが放たれる。黒塗りのベントレーが猛然と突っ込み、耳を裂く急ブレーキの音とともにランドローバーの前に横付けされ、乱暴に進路を塞いだ。ドアが乱暴に開く。凍てつくような気配をまとい、貴臣が降り立った。彼は、心愛のためにドアを押さえている暁を、まるで路
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第154話

「関係ないだと?」貴臣は、あまりにも荒唐無稽な冗談を聞いたかのように鼻で笑った。一歩踏み出すと、その長身で心愛を覆い隠すように迫り、圧倒的な威圧感を放つ。怒りに満ちたその気配は、息が詰まるほど重苦しかった。彼はじりじりと距離を詰め、見下ろしながら一言一言を噛み締めるように言い放つ。「心愛、忘れたのか。お前が外で誰と遊び回ろうが、法的には今でも俺の妻なんだ!」その言葉は、鋭い平手打ちのように心愛の頬を打った。――妻?そうだ。彼はまだ、自分たちがすでに離婚していることを知らない。心愛は顔を上げ、怒りに燃える彼の瞳を真っ直ぐに見据えた。喉の奥に焼けた炭を押し込まれたかのような痛みが走り、言葉が喉に張り付いて出てこない。貴臣は言い終えると、高圧的な態度のまま、鋭い警告と露骨な敵意を込めた視線を暁へと突き刺した。その眼差しは、まるで「これは俺の所有物だ。指一本触れてみろ」と語っているかのようだった。それ以上、彼はその場に留まらなかった。暴風のような怒りは、ただ己の主権を誇示するためだけに現れたかのように、去るのもまた早い。乱暴に身を翻して黒いベントレーへ乗り込むと、エンジンを苛立たしげに唸らせ、砂埃を巻き上げて走り去った。夜風が吹き抜け、地面の落ち葉を巻き上げる。張り詰めていた空気に満ちていた一触即発の火薬の匂いも、やがて静かに霧散していった。心愛はその場に立ち尽くしていた。血の気を失った顔は、今にも裂けそうなほど白く、脆い紙のようだった。暁は闇に溶けていく車を見送り、それから隣で青ざめ、かすかに震えている心愛へと視線を戻した。何かがおかしい――そう直感していた。眉をひそめ、静かに問いかける。「『もう関係ない』……あの言葉は、どういう意味ですか?」心愛は顔を背け、探るようなその視線から逃れるように、人気のない道路へと目を向けた。風にかき消されそうなほど小さな声で答える。「……深い意味はありません」だが、暁の洞察は鋭い。その一言に潜む矛盾を、瞬時に見抜いていた。「あなたが彼と離婚したことを、彼は知らないんですか?」心愛は沈黙した。空気が凍りついたかのようだった。彼女は無意識のうちに、体の脇で服の裾をぎゅっと握りしめる。長い沈黙が流れる。暁が、もう答えは返ってこないのではないかと思い始めた頃。
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第155話

「よし、そんな悩みはもう終わりにしましょう」暁は微笑み、軽やかな口調で続けた。「それより、今夜はどんな美味しいものを作ってくれるのか、そっちを先に考えましょう」わざと話題を逸らし、心愛がこれ以上無力感に沈まないよう気遣っている。心愛はその唐突な切り替えに一瞬呆気に取られたが、すぐに我に返ると、呆れたように彼を横目で見た。「こんな時によく食べることなんて考えられますね。本当に呑気なんだから」口ではそう言いながらも、こわばっていた口元は知らぬ間にわずかに緩んでいた。……貴臣は猛スピードで車を走らせ、桐生の屋敷へと戻った。玄関の扉を乱暴に蹴り開けると、凍てつくような怒気を纏ったまま中へ踏み込む。リビングでは、雅子と葵が並んで腰を下ろし、目の前には切りたての果物が整然と並べられていた。和やかで温かな空気に満ちたその光景――それを目にした瞬間、貴臣の怒りは再び激しく燃え上がる。数歩で距離を詰めると、彼は車のキーをコーヒーテーブルに叩きつけた。耳をつんざくような鋭い音が室内に響く。雅子は思わず身を震わせて彼を見上げ、眉をひそめて叱責した。「何を血迷っているんだい!帰ってくるなり物に当たるなんて、みっともない!ほら見てごらん、これは葵さんがあなたに買ってきてくれた服だよ。葵さんはこれほどまでにあなたのことを思い、桐生家のことを考えてくれている。あの心愛とは大違いだ」だが貴臣は、その言葉に耳を貸そうともしない。隣に座る葵を、射抜くような冷たい視線で見据えた。その瞳は氷のように凍りついている。ふと、目の前の女が見知らぬ他人のように思えた。かつての彼は、葵を純粋で善良な少女だと信じていた。雅子に追い詰められ、帰る場所を失った哀れな存在だと。だが今、彼女は自分を海外へ追いやったはずの雅子と、まるで本当の家族のように親密にしている。これほど不自然なことがあるだろうか。貴臣は冷笑を浮かべ、嘲るように言い放った。「ずいぶん仲がいいんだな」葵の顔から笑みが凍りつく。言葉の棘に気づいた彼女は立ち上がり、彼の腕に手を伸ばした。いつものしおらしい表情を作りながら。「貴臣、どうしたの?外で何か嫌なことでもあったの?」しかし貴臣はその手を振り払い、一歩後ずさった。そのあからさまな拒絶に、葵の顔色が一瞬で青ざめる。「触る
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第156話

病院最上階のVIP病室は、壁に掛けられた時計の秒針の音さえはっきりと聞こえるほど、静まり返っていた。果物ナイフが葵の手の中で静かに光る。刃先は瑞々しいリンゴの皮に吸い付くように沿い、一定のリズムで滑っていく。剥かれた皮は細く長くつながったまま、重力に従って静かに垂れ下がった。その一連の所作はどこまでも優雅で、細部に至るまで行き届いた気遣いがにじみ出ている。ベッドの上では、雅子が薄い毛布をかけて上半身を起こしていたが、その顔色はまだ青白さを残していた。目の前で健気に振る舞う「孫嫁」を見つめるうちに、昨日、自分に真っ向から楯突いた不孝な孫の姿が脳裏によみがえり、胸の奥から湧き上がる怒りをどうしても抑えきれなくなる。「はあ……」雅子はため息をつき、リンゴを剥いていた葵の手を止めさせた。「やっぱりあなたが一番気が利くよ、葵さん。昨日も、あなたが機転を利かせてすぐに病院へ運んでくれなかったら、この老い先短い体、あの子に本当にやられていたかもしれないね」葵は動きを止めると、すぐに心配そうに眉を寄せた。ナイフとリンゴをそっと置き、雅子の手を包み込む。声は綿菓子のように甘く、やわらかい。「おばあちゃん、そんなことを仰らないでください。お医者様も静養が必要だとおっしゃっていましたし、決して感情を昂ぶらせてはいけませんわ。貴臣も……今は少し、魔が差しているだけですから」「魔が差しているだと?」その言葉に雅子は激昂した。枯れ枝のような手でベッドの縁を強く叩く。「魔が差しているどころじゃないよ。狐にでも憑かれたんだ!あの心愛とかいう疫病神にね!」言葉を重ねるごとに興奮は増し、血の気のなかった顔が不自然なほど赤く火照っていく。「今のあの子の様子を見てごらん。あの女のために、あろうことか私にまで口答えするなんて!私の人生で、こんな屈辱を味わったことはないよ!心愛の奴、一体どんな手であの子をたぶらかしたんだい!両親もいなければ、弟は殺人犯――そんな落ちぶれた女のどこが、あなたより優れているっていうんだい!」雅子の吐き出す罵詈雑言は心愛へ向けられていたが、その一つひとつが、同時に葵の胸にも鋭く突き刺さっていた。――そうよ、あんな女のどこがいいの?今の自分は加賀見家の令嬢であり、名雲市すらひれ伏す存在だ。それに引き換え、
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第157話

ドアが背後で閉まった瞬間、葵の顔に貼り付いていた優雅で大人しい仮面は、音を立てて崩れ落ちた。代わりに現れたのは、骨の髄まで凍りつかせるような冷徹さだった。彼女は廊下の突き当たりにあるゴミ箱へ歩み寄ると、手首を軽く返した。丹念に切り揃えられたリンゴの欠片は、一切の躊躇もなくゴミ箱の中へと投げ捨てられる。バッグからウェットティッシュを取り出すと、何度も、何度も、力を込めて自分の指を拭った。まるで、この世で最も穢れたものに触れてしまったかのように。「くたばり損ないのババアに、親不孝者の孫……疫病神。どいつもこいつも、ろくな人間じゃないわね」吐き捨てるように呟くと、彼女は人目のない非常階段へと移動し、スマートフォンを取り出した。細長い指が画面を滑り、「ゴミ」と登録された番号を呼び出し、ためらいなく発信する。もう、これ以上待つ余裕はなかった。心愛は、叩いても死なないゴキブリのように、絶望の底から何度も這い上がり、あろうことか自分を挑発してくる。あの女は――徹底的に消し去らなければならない。長いコール音の後、ようやく通話が繋がった。向こうからはテレビの音と女の騒ぎ声が混じり、紘のひどく不機嫌な声が響く。「また何だよ!」「以前頼んだ件、どうして今まで音沙汰がないの?」葵の声は氷のように冷え切り、わずかな温度すら感じさせなかった。「できるわけねえだろ!」紘は、彼女以上の怒りをぶつけてきた。声を潜めながらも、荒々しい罵声が漏れる。「お前、俺を神様か何かだと思ってんのか?名雲に戻った途端、親父に監禁されてんだよ。入口には二十四時間見張りがついてて、ハエ一匹出られやしねえ!外じゃサツが俺を指名手配して探し回ってるんだ。そんな状況でどうやって動けってんだよ?こっちは自分の身を守るだけで精一杯なんだ!」スマホを握る葵の指の関節が、一本一本浮き上がり、死人のように青白く変色していく。「……役立たずね」歯の隙間から絞り出すように、ただ一言。「誰が役立たずだ、この野郎!」紘も完全に激昂していた。「いいか、もう二度と俺に関わるな!俺は残りの人生を刑務所で過ごす気はねえんだよ!お前の汚ねえ仕事は、自分で何とかしやがれ!」言い終えるや否や、彼は一方的に通話を切った。葵は怒りに震えた。右手を勢いよく振り上げ、最新型のス
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第158話

加賀見グループ年度ジュエリー発表会の会場。入口では無数のフラッシュが焚かれ、絶え間ないシャッター音が来場したゲストたちの鼓膜を打ちつけていた。舞台裏は、張り詰めた緊張感に満ちた、秩序ある混乱に包まれている。ヘアメイクはモデルの最終仕上げに追われ、アシスタントたちはハイヒールやアクセサリーを手に慌ただしく駆け回っていた。「深水さん!見てください、これ!」碧が今にも跳び上がりそうな勢いで興奮し、心愛の腕を掴んだ。まるで彼女自身が発光しているかのような熱量だった。「トレンドですよ!私たちのプロジェクト、トレンド入りしてます!」彼女が心愛の目の前に突き出したスマホの画面には、「加賀見社長、初お目見え」というワードが、目に見える速度で順位を駆け上がっていた。「聞きました?加賀見家の、あの伝説的な若き社長が、ついに今日初めて公の場に出るんですって!ずっと人前に姿を見せないって噂だったのに。一体どんな方なのかしら。沈みかけていた加賀見家という泥舟を立て直して、こんな大舞台まで仕掛けるなんて……ねえ、やっぱり白髪のおじいさんだと思います?」碧の瞳には、好奇心と野次馬根性の炎が激しく燃え上がっていた。だが、心愛はそれに興味を示さなかった。彼女は碧の手をやんわりと外し、視線を目の前のモデルへと戻す。すべての神経を一点に集中させ、手を伸ばしてモデルの首元にかかるネックレス――「雛」と名付けられた作品の角度を微細に調整した。そのデザインは、極めて大胆だった。プラチナで砕けた卵殻の輪郭を形作り、鋭利なエッジはあえて丸みを帯びるように研磨されている。そしてその中心には、あえて一切の彫琢を施さないサファイアが、静かに光を宿していた。「動かないでください」心愛はモデルに優しく囁き、指先でサファイアの冷たい表面をなぞる。「いいですか。ステージに出た瞬間、あなたは殻を破ったばかりの雛鳥です。瞳には世界への好奇心を……でもそれ以上に、恐れを知らない意志を宿らせて」モデルは彼女を見つめ、真剣な面持ちで頷いた。「……ねえ深水さん、よくそんなに落ち着いていられますね」碧はその余裕に呆れたように肩をすくめた。「外のメディア、もう狂ったみたいに騒いでるのよ?少しも緊張しないんですか?」心愛はようやく振り返り、淡く問い返した。
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第159話

それは、旧時代の終焉と新時代の幕開けを告げる、鮮烈な宣戦布告だった。客席のファッション評論家たちは驚嘆の色を隠せず、最前列のバイヤーたちは早くもアシスタントと小声で打ち合わせを始めている。カメラを構えるメディア陣は、完全に熱狂の渦へと呑み込まれていた。シャッター音は再び鳴り響き、その密度は開演時の比ではない。まるで十倍にも膨れ上がったかのようだった。ほぼ同時に、インターネット上でも激震が走る。公式ライブ配信の画面は、白一色のコメントで埋め尽くされていた。【マジか!これが加賀見?見間違いじゃないよな?】【この発表会、涙なしじゃ観られない!デザインが神すぎる!】【今までの加賀見はおばあちゃん向けだと思ってた。でも今はこう言いたい――給料全部貢ぐからそのネックレスを私に!】【このデザイナー誰?神の降臨?センスがど真ん中すぎて無理!】Xでは、「#加賀見新生」が圧倒的な勢いでトレンド一位へと躍り出た。それに続くように「#神デザイナー」「#加賀見の本気」といったハッシュタグが次々と並ぶ。バックステージでは、碧がスマホを掲げ、跳ね上がり続ける数値と絶賛のコメントに目を輝かせていた。感極まった彼女は隣の同僚に抱きつき、その場で飛び跳ねる。今にも涙が零れ落ちそうだった。心愛は少し離れた場所に立ち、モニター越しにランウェイで輝く自らの作品を見つめていた。モデルたちの瞳には、彼女が吹き込んだ魂が宿り、確かな光を放っている。幾日も胸の奥に積もっていた疲労が、この瞬間、すべて洗い流されていくようだった。張り詰めていた口元が、ようやく――無意識のうちに、わずかな弧を描く。理恵がバックステージに戻ってきた。その顔には、隠しきれない賞賛と誇りが滲んでいる。歓喜に沸くスタッフの間を抜け、一直線に心愛のもとへ歩み寄ると、何も言わずにその肩を力強く叩いた。「私の目に狂いはなかったわ」理恵の瞳は、これまでにないほどの光を宿していた。「深水さん、あなたには本当に才能がある」心愛は静かに彼女を見返す。「……ありがとうございます、木村部長」その時、不意に鋭い着信音が鳴り響いた。心愛のスマートフォンだった。取り出して画面を見ると、見知らぬ地元の番号が表示されている。彼女は人目の少ない隅へ移動し、通話ボタンをスライドさせた。
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第160話

心愛の顔から血の気が一瞬にして引いた。人混みをかき分け、碧がこちらへ駆け寄ってくる。パーン!すぐ近くで祝杯のシャンパンが開き、凄まじい破裂音と四方に弾ける歓声が重なった。再開発事務局の職員の言葉が、なおも脳裏に焼き付いて離れない。「一時間です」「その後の責任は負いかねます」心臓は、見えない手に強く握り潰されているかのように、収縮するたび窒息しそうな激痛をもたらした。――おばあちゃん……あの古い家は、おばあちゃんがこの世に遺した、形ある最後の痕跡だ。中にある一つ一つの古びた品も、壁に刻まれた無数の傷も、そのすべてに彼女の想いが宿っている。だめだ。絶対に、あんなことは許さない。心愛は我に返ると、椅子の背に掛けていたバッグを掴み、脱兎のごとく外へと飛び出した。「深水さん!どこへ行くんですか?これから打ち上げが始まりますよ!」碧がグラスを手に呼び止めたが、心愛とぶつかってよろめき、シャンパンが床にこぼれ落ちた。それでも心愛は振り返らず、人の波を押し分けて進む。「木村部長!」雑踏の中に理恵の姿を見つけ、一言だけ投げた。「家に急用ができました!お先に失礼します!」誰かと談笑していた理恵は、心愛の顔に浮かぶ崩壊寸前の焦燥を一瞬で見抜いた。問いかける間もなく、彼女の背はバックステージの出口へと消えていった。心愛は会場を飛び出し、狂ったように走り続けた。発表会用に着替えたカクテルドレスのまま、鼻先にはまだバックステージの濃密な香水とヘアスプレーの匂いが残っている。豪華絢爛なホテルの大門を抜けると、夜の冷気を含んだ風が頬を打った。その寒さを感じる余裕もないまま、心愛は路肩に飛び出し、必死に手を振る。「タクシー!」一台のタクシーが急停車し、彼女はドアを開けて転がり込んだ。激しく走ったせいで、声がかすかに震えている。「運転手さん、清水町まで!急いでください、出せるだけ速度を上げて!」……同じ頃、発表会の会場。司会者の扇情的な語り口に煽られ、会場の熱気は今夜最高の高まりを見せていた。「ご来場の皆様、そしてメディア関係者の皆様!今夜、皆様がこの『新生』シリーズのためにお集まりくださったことは言うまでもありません。しかし、それ以上に期待されている『新生』があることを、私は知っており
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