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第161話

暁の視線は、静かに客席を見渡した。心愛の姿はない。底知れぬその瞳の奥に、誰にも気づかれぬほど微かで淡い失望の色がよぎる。彼は一度、そしてもう一度、会場の端から端まで目を走らせた。だが、見慣れたあの姿はどこにも見当たらない。――彼女はいない。暁の眉が、ほんのわずかに動いた。やがて視線を戻すと、司会者から差し出されたマイクを受け取る。スピーカーを通して会場全体に響き渡ったその声は、低く、しかし抗いがたい力を帯びていた。「今夜はお集まりいただき、感謝します」……タクシーが古い路地の入口で急ブレーキをかけた。心愛は車が完全に止まるのも待たず、ドアを押し開けて飛び出した。代金は乱暴に運転手の手へ押し付ける。目の前に広がる光景に、全身の血が一気に頭へとのぼった。見慣れた大きな槐の木の下には、数台の黄色いショベルカーが並んでいる。高く掲げられた重機の腕――その暗い穴のようなバケットは、今まさに灰色の二階建ての古民家を狙っていた。青い作業服にヘルメット姿の男たちが建物を取り囲み、手にはバールや鉄槌を握りしめている。その表情は一様に冷淡で、無機質だった。頬に肉のついた、煙草をくわえた工事長が腰に手を当て、怒鳴り散らす。「さっさと動け!日が暮れる前に、こんなボロ屋は更地にしちまうんだ!」「やめて!」心愛は悲鳴に近い声を上げ、放たれた矢のように駆け出した。作業員の群れに飛び込み、両腕を広げて、その華奢な体で斑模様の古びた木製の扉の前に立ちはだかる。予期せぬ乱入者に、その場の全員が呆然とした。煙草をくわえた工事長が振り返り、イブニングドレスに身を包み震える女の姿を認めると、目を細めて吸殻を吐き捨てた。苛立ちを隠そうともせず、ゆっくりと歩み寄る。「てめえ、どこのどいつだ?死にてえのか。ここが取り壊し現場だって分かってんのかよ」「ここは私の家よ!」心愛は顔を上げ、真正面から睨みつけた。瞳には怒りの炎が燃え盛っている。「私はまだ合意書にサインなんてしてない!どんな権利があって、私の家を壊そうっていうの!」「お前の家だと?」工事長は滑稽な話でも聞いたかのように鼻で笑い、心愛を頭の先からつま先まで値踏みする。その視線は軽薄で、露骨な侮蔑に満ちていた。「お嬢ちゃん、邪魔しねえ
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第162話

発表会会場。碧は依然として、「新生」シリーズがもたらした巨大な成功と衝撃の余韻に浸っていた。まるで雲の上を歩いているかのように、体はふわりと浮き立ち、現実感が希薄になっている。彼女はシャンパングラスを手に、祝福に沸く人混みをすり抜けながら、興奮に頬を紅潮させていた。やがて司会者が、今夜最後の煽り文句を口にする。「それでは、万雷の拍手でお迎えください。加賀見グループ社長、加賀見暁氏の登壇です!」――加賀見暁?碧の思考が一瞬、完全に停止した。心愛の向かいの部屋に住んでいる、あの毒舌な隣人も確かそんな名前だったはずだ。でも、彼は会社の法務担当じゃなかったっけ?まさか……彼女は「考えすぎよ」と自分に言い聞かせる。同姓同名などいくらでもある。そんな偶然があるはずがない。碧はつま先立ちになり、首を伸ばして、期待に胸を膨らませながらランウェイの入口を見つめた。スポットライトが差し込み、高く逞しい人影が光の輪の中から悠然と姿を現した瞬間――碧の顔に浮かんでいた笑みが、徐々に、確実に凍りついていった。手にしたグラスが揺れ、シャンパン色の液体が縁からこぼれ落ちる。それにも彼女はまったく気づかない。口は次第に大きく開き、卵が丸ごと一つ入ってしまいそうなほどだった。「あ……あの人?」間違いない。本当に、あの人だ。ダークカラーのスーツに身を包み、ネクタイは締めず、シャツの襟元のボタンを二つ無造作に外している。全身から人を寄せつけない圧倒的なオーラを放つその男は、紛れもなく暁だった。普段はラフな格好でマンションを出入りし、食事ひとつで心愛と口喧嘩をし、毒舌を吐きながらも内心では彼女を気遣っていた――あの男が。まさか、加賀見家を死の淵から救い上げたという、あの伝説的で謎多き社長だったなんて。この世界……ファンタジーか何か?碧の思考は完全にシャットダウンした。数秒後、衝撃と野次馬根性が入り混じった巨大な感情が、火山のように胸の内で噴き上がる。彼女は慌てて隣の見知らぬ同僚にグラスを押しつけ、バッグからスマホをひったくった。人混みの最前列まで強引に割り込み、スマホを高々と掲げ、ステージ上で注目を一身に浴びるその姿に向かって、狂ったようにシャッターを切り続けた。十数枚撮ったところで、ようやく満足して手を止
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第163話

心愛の全神経は、目の前で繰り広げられる一触即発の対峙と、ショベルカーのエンジンが苛立たしげに唸る轟音に支配されていた。「お嬢ちゃん、最後にもう一度だけ言ってやる」顔に肉のついた工事長は、新しい煙草を口にくわえると、隠そうともしない軽蔑の眼差しで彼女を舐めるように見た。「この一帯は、とっくに危険家屋に指定されてるんだ。周りを見てみろ、誰か住んでるか?残ってるのはてめえの家一軒、いわゆる『立ち退き拒否』ってやつだ。家はもう住める状態じゃない、これが現実なんだよ。俺たちが壊してやって、てめえは補償金を受け取って出ていく。新しい家なんてどこでも買えるだろ?これはてめえのためなんだ。素直に言うことを聞かねえと、痛い目を見るぜ」彼の後ろに控える数人の作業員たちも、鉄槌やバールを手に、じりじりと間合いを詰めてくる。無言ながら、その獲物を狙うような視線がすべてを物語っていた。心愛は、力ずくで抗うことが不可能であると悟っていた。男たちを見つめ、今にも動き出しそうなショベルカーへと視線を移す。胸の奥で渦巻く怒りは、巨大な氷に押し潰されたかのように燃え上がることもできず、ただ骨の髄まで凍りつくような冷たさを放っていた。おばあちゃんが遺した最後の形見を、冷たい瓦礫の山に変えさせるわけにはいかない。だがそれ以上に、あの中にある遺品――幼い頃の温かな記憶が詰まった品々を、建物ごと廃墟の下に埋もれさせるわけにはいかなかった。掌に食い込んだ爪の鋭い痛みが、混乱する思考を強引に引き戻す。「……分かったわ」心愛は歯の隙間から、かすれた声で一言だけ絞り出した。工事長は、彼女が突然折れるとは思っていなかったらしく一瞬呆気に取られたが、すぐに「最初からそうすればいい」と言わんばかりの表情を浮かべた。「合意書にサインするわ」心愛は彼をまっすぐ見据えた。その瞳に温度はなく、ただ死んだような静寂だけが宿っている。「でも、少し時間を頂戴。中に入って、おばあちゃんの遺品を整理したいの」工事長は面倒くさそうに眉をひそめた。これ以上時間を無駄にしたくないのは明らかだった。「三十分だけだぞ」心愛は埃をかぶった段ボール箱を見つけると、おばあちゃんの気配がまだ残る古い品々を、一つ一つ、壊れ物を扱うように丁寧に詰めていった。最後にもう一度だけ、彼
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第164話

夜。マンションに戻った心愛は、おばあちゃんの家から持ち出したあの段ボール箱を、リビングの床にそっと置いた。皺だらけになったカクテルドレスを脱ぎ捨て、清潔な部屋着に着替えると、そのまま箱の前に膝をつき、微動だにせず座り込んだ。部屋の灯りはつけない。ただ窓の外から差し込む街のネオンだけが、ガラス越しにまだらな光と影を壁に落としている。彼女は手を伸ばし、震える指先で箱の封に触れた。中には、祖母が整理してくれていた俊輔のものが詰まっている。古い教科書、賞状、彼が好きなバスケットボール選手のポスター、そして幾重にも丁寧に畳まれた制服。心愛はそれらを一つずつ、壊れ物に触れるように慎重に取り出していった。やがて、指先が箱の底にあった小さな箱に触れる。蓋を開けると、そこには使い古された一台のスマートフォンが静かに横たわっていた。俊輔が高校生になったとき、彼女がアルバイトで貯めた給料で買ってあげた誕生日プレゼントだ。彼はそれを一度も買い替えることなく使い続けていた。本体の角は擦り減り、白いプラスチックが剥き出しになっている。画面には気泡だらけの安価な保護フィルムが、いまだ貼られたままだった。それを手にした夜、嬉しさのあまり一睡もできなかった。そんな彼の姿を、心愛ははっきりと覚えている。俊輔はよくこのスマホで写真や動画を撮っていた。生活を記録する、などと格好をつけてはいたが、実際にはただ、愛おしい日常を切り取っていただけだった。料理中に手際が悪くて慌てる心愛の姿や、庭で日向ぼっこをしながら居眠りするおばあちゃんの様子を撮り、滑稽な音楽をつけて二人を笑わせていた。あの笑い声が、まるで昨日のことのようによみがえる。胸の奥がきつく締めつけられ、幾重にも重なった悲しみが込み上げてくる。涙が音もなく頬を伝い落ちた。ただ、もう一度だけ、見たかった。もう戻ることのできない、弟が写真に閉じ込めたあの幸福な時間を。心愛は涙を拭うと、引き出しをかき回した。幸い、古い充電器が残っていた。部屋の隅のコンセントに差し込み、コードを繋ぐ。画面は反応しない。長く放置されていたせいで、バッテリーは完全に死んでいるのかもしれない。それでも、心愛は諦めなかった。どれほど時間が経っただろうか。諦めかけたその時、真っ暗だっ
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第165話

心愛は指を伸ばし、その通話履歴をタップした。すると、画面に再生ボタンが浮かび上がる。――録音?俊輔のこの古いスマートフォンには、通話の自動録音機能が備わっていたのだ。彼女は思い出した。講義の要点を記録するために、彼がわざわざダウンロードしたアプリのことを。その瞬間、心愛の呼吸が止まった。指先は小さな三角形の再生マークの上で宙に浮いたまま、どうしても押すことができない。何かを聞いてしまうのが怖い。同時に、何も聞こえないことも、同じくらい怖かった。やがて心愛は目を閉じ、意を決してボタンを押し込んだ。「もしもし、サル? 何してんの?」録音の冒頭から、俊輔の軽やかで、少年特有のどこか気だるげな声が流れてくる。「何って、三者面談でボロクソ言われて、親父に吊るし上げられてんだよ!」電話の向こうの友人の声も、聞き覚えのあるものだった。「お前こそ、バイト中だろ?なんで電話なんてしてくるんだよ」「変な客に捕まっちゃってさ。この店で一番高い酒を入れろって聞かなくてさ。リーダーに運べって言われて、今、個室でそいつが戻るの待ってんだ。立ちっぱなしで足が痺れてきたから、トイレに行ってる隙に愚痴らせてくれよ。あ、そうだ、この前言ってた限定モデルのスニーカー、リンク送ったっけ……」背景には、カラオケの個室特有のかすかな音楽が流れている。二人の少年は、試験のことやスニーカーの話を他愛もなく続け、ふざけ合っていた。すべてがあまりにも日常的で、何の異変もない。心愛の心は、少しずつ落ち着きを取り戻していった。録音を消そうとした、その時だった。突如として――鋭く、聞き慣れた声が、ざわめく背景音を突き破るように響き、彼女の耳に飛び込んできた。紘の声だった。電話の向こうで、紘は少し離れた場所に移動したらしく、声を潜めながらも、もう一人の誰かに向かって悪辣に言い放っている。「……薬で眠らせた。後でこいつをあの女の上に転がして、警察を呼べ。『色欲に溺れて暴行した末の殺害だ』ってな!成功したら、たっぷり礼はしてやるよ!」スマートフォンを握る心愛の手が、激しく震えた。録音は続いている。電話の向こうで、俊輔の友人も異変に気づいたようだった。「俊、今の何の音だ?誰か喋ってんのか?」――ゴンッ!鈍い衝
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第166話

心愛は古びたスマートフォンを強く握りしめた。そして、笑った。次第に感情が静まり返るにつれ、凄まじい狂喜と憎悪は底へと沈み、代わりにかつてないほど研ぎ澄まされた冷静さが浮かび上がってくる。真っ先に思い浮かんだのは、清夏のことだった。この動かぬ証拠――この録音だけは、今すぐ最も信頼できる相手に伝えなければならない。彼女はふらりと立ち上がった。長時間膝をついていたせいで足は痺れていたが、構わずリビングのローテーブルへとよろめきながら歩み寄り、自分のスマートフォンを手に取る。一刻も早く清夏に連絡しなければ。暗い画面に指先が触れた瞬間、ぱっと光が灯り、碧から届いた未読メッセージが視界に飛び込んできた。赤い感嘆符がいくつも並んでいる。心愛は無意識のまま、それを開いた。鮮明な横顔の写真が、何の前触れもなく目に飛び込んでくる。そこに写っていたのは、見慣れているはずの男だった。発表会の眩いスポットライトを浴び、ダークカラーのスーツに身を包み、凛とした佇まいで立つその姿。その顔には、これまで一度も見たことのない、統治者に特有の気品と隔絶が宿っている。暁だった。写真の下には、碧の興奮に満ちたメッセージが並んでいる。【深水さん!誰が来たか見てください!あなたの隣人、うちの社長だったんですよ!法務担当が社長だったなんて!】【マジでありえない!彼が加賀見の社長様だったんですよ、あああああ!】――時が、この瞬間に凍りついた。心愛は全身を氷に閉ざされた彫像のように、その場に立ち尽くした。暁が……加賀見の社長?ならば、葵は――祖母を死に追いやり、弟を陥れたあの仇は――彼の、妹なのか?力なく手を離れたスマートフォンが、ぱさりと音を立てて床に落ち、虚しく響いた。過去の光景が、無数の鋭い鉤を持つ破片となって脳裏に逆流する。凄まじい勢いでフラッシュバックしていく。なぜ暁は、いとも容易く会社のリソースを動かせたのか。なぜ理恵は、あれほどまでに自分を特別視したのか。なぜ暁は、加賀見内部の構造や人事に精通していたのか。なぜ社長秘書の昂一が、あそこまで彼に従っていたのか。なぜ暁は、自分を「故人」のようだと言うのか。すべての「なぜ」が、この瞬間、ひとつの答えへと収束する。どんな嘘よりも残酷で、人
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第167話

「加賀見社長」心愛が口を開いた。その声は氷の粒のように冷え切り、一言一言が鋭い刃のような切っ先を帯びていた。「本当にご苦労さまですこと。私という笑い草を見るために、わざわざこんなボロマンションの向かいにお住まいになるなんて、さぞご立派なご身分でしょうね」暁は写真を見た瞬間、わずかに呆然とした表情を浮かべたが、すぐにすべてを察した。一歩踏み出し、言葉を紡ごうとする。「深水さん、これには事情が――」「どんな事情かしら?」心愛は激しく一歩退き、まるで感染源を避けるかのように距離を取った。その瞳から光は次第に失われ、やがて残ったのは、果てしない荒涼と鋭い警戒だけだった。「全部知っていて、私を弄んでいたとでも言うつもりですか?弟の事件に行き詰まっている私を、滑稽だと眺めるのは、さぞ楽しかったでしょうね。それとも――」彼女は鼻で笑った。その音は、泣き声よりもなお惨めに響く。「身内を裁く芝居でも演じて、あの可愛い妹の罪滅ぼしでもするおつもり?本当に、不愉快ですわ」堰を切ったように、感情が溢れ出した。言葉の一つ一つが血を滲ませ、最も信じていた相手に背後から刺されたような激痛を伴っている。「葵はあなたの妹で、家族でしょう!じゃあ私は何?あなたたち一家の掌の上で転がされていた、ただの道化じゃないですか!」真っ赤に充血した瞳で彼を射抜く。その視線に宿る拒絶と憎悪は、鋭い刃となって暁の胸を深く抉った。「あなたの助けなんて、まっぴらごめんです。この事件は最初から最後まで、私一人の問題です!」心愛の声は震えながらも、決して折れなかった。「加賀見の人間が、今さら善人面して首を突っ込まないでください!」外を指差し、全身の力を振り絞って叫ぶ。「出て行って!それを持って、今すぐ消えて!」暁は、傷ついたハリネズミのように全身の棘を逆立て、誰の接近も拒む彼女の姿を見て悟った。いま、どんな弁明も届かない。瞳の光がかすかに翳る。喉がわずかに上下したが、結局、何も言葉にはしなかった。彼は手にしていたコンビニ袋を、静かに玄関の靴箱の上へ置いた。そして、彼女を見つめる。その眼差しには、やるせなさと後悔、そして言葉にしがたい愛おしさが混ざり合い、荒れ狂う海のように揺れていた。背を向けた、その瞬間――バン
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第168話

電話は、ほとんど間を置かずにつながった。パーティー後の興奮をそのまま纏った清夏の騒がしい声が、受話口越しに飛び込んでくる。「心愛!どこ行ってたのよ?打ち上げにも顔出さないし。自分がどれだけとんでもないネタを見逃したか、分かってるの!?」「清夏」心愛の声が、その言葉を静かに遮った。決して大きくはない。だが、人を寄せつけない冷ややかさを帯びていた。「証拠を見つけたわ」その一言で、電話の向こうの熱気は一瞬にして凍りついた。「……何だって?」心愛は余計な前置きを一切排し、極めて簡潔に、感情を交えず録音の内容を語った。紘が吐いた「暴行殺害」というおぞましい言葉から、俊輔が殴られて倒れた、あの鈍い衝撃音に至るまで。話し終えた瞬間、電話の向こうは完全な静寂に包まれた。あまりの沈黙に、回線が切れたのかと錯覚しかけた頃――ようやく、清夏が息を呑む音が微かに響いた。続いて、歯の隙間から押し出すような、極限まで抑え込まれた声が漏れる。「……マジかよ。心愛、待ってなさい!」次の瞬間、その声は爆ぜた。火薬に火がついたかのように、抑えきれない怒りと興奮が一気に噴き出す。「夜が明けたら、すぐ裁判所に訴状を叩き込んでやる!今度こそ、あのクズどもを一生刑務所にぶち込んでやるわ!」「清夏」心愛は、どこか疲れを滲ませた声で再び遮った。「今回は……弁護士を探してほしいの」一拍置いて、言葉を継ぐ。「絶対に信頼できて、桐生家とも加賀見家とも、一切関わりのない人を」「弁護士を探すって、どういうことよ?」清夏は即座に違和感を嗅ぎ取ったが、それ以上は踏み込まなかった。代わりに、有無を言わせぬ口調で断言する。「私が、あんたの一番信頼できる弁護士よ。この件は私が直接やる。誰の顔色も見ないし、誰の顔も立てるつもりはないわ!」――言ったことは、即座に実行された。空が白み始めた頃。清夏は大きな隈を目の下に浮かべたまま、派手な赤いスポーツカーを飛ばし、心愛のマンションの下に現れた。一睡もしていない二人は、リビングで向かい合って座る。清夏はスマートフォンに残された録音を再生した。その顔色は、赤から白へ、そして白から青へと変わっていく。すべてを聴き終えた瞬間――彼女はスマホをテーブルに叩きつけた。「畜生……!人間
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第169話

葵が柔らかな声で未来を語っている最中、手元のバッグに入れていたスマートフォンが、不意に、鋭く鳴り響いた。着信画面には、「紘」の名が躍っている。葵は不快そうに眉をひそめた。あの馬鹿、また何の用かしら。彼女はエレガントにナプキンで口元を拭うと、貴臣に申し訳なさそうな笑みを向けた。「ごめんなさい。少し電話に出てくるわね」スマートフォンを手に取り、個室の外にある回廊へ向かう。通話がつながった瞬間、彼女が口を開くよりも早く、受話器の向こうから紘の自暴自棄な、ほとんど絶叫に近い怒鳴り声が叩きつけられた。「葵、てめえ、ふざけんじゃねえぞ!俺が訴えられたんだよ!さっき警察が家に来て、事情聴取に連れていかれそうになった!虚偽告訴の疑いだってよ!あいつら、証拠を握ってやがる!」「――っ!」葵の脳裏で何かが弾け、血の気が一瞬で引いた。スマホを握る手に力がこもり、指の関節が白く浮き上がる。「ありえないわ!」思わず叫ぶ。「証拠はとっくに処分したはずよ!あなた、あいつらに何を喋ったの?」「知るかよ!」紘は電話の向こうで怒り狂っていた。「相手の弁護士は桐生清夏だ!あの女狐め、どこから証拠を嗅ぎつけたのか、直接裁判所に突き出しやがった!いいか葵、これはお前が言い出したことだ。もし俺を見捨てるようなことがあれば、全部ぶちまけてやる。お前もタダじゃ済まさないからな」清夏――あの桐生家の、怖いもの知らずのわがままお嬢様。なぜ彼女が、心愛を助けるというのか。足の裏から頭頂まで、凍りつくような寒気が一気に駆け上がり、葵の思考は完全にパニックに陥った。視界がぐらりと揺れ、立っていることすらおぼつかない。清夏のやり方は知っている。一度食いつかれたら、決して逃がさない。終わりだ。今度こそ、本当に終わる。葵は通話を切り、背中に冷や汗が滲むのを感じた。冷たい壁に身を預け、何度も深呼吸を繰り返して、ようやく乱れた呼吸を整える。回廊の突き当たりにある鏡の前に立ち、無理やり笑みを作って髪を整える。そうして何事もなかったかのように装い、個室へと戻った。だが、その蒼白な顔色と動揺を隠しきれない瞳は、貴臣の目をごまかせるはずもなかった。彼はグラスを静かに置き、感情の読み取れない淡々とした眼差しで彼女を見つめる。
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第170話

病院の一室で、雅子は葵からの泣き声まじりの救いを求める電話を受け、あまりの衝撃に息を詰まらせ、視界が暗転した。手にしていたスマートフォンを、彼女はベッドの上へ叩きつける。弾かれた端末は絨毯の上へ転がり落ちたが、画面だけが虚しく光を放ち続けていた。「清夏……!」奥歯を噛み締める。「随分と偉くなったものね。私の言葉に背くなんて!」枕元のサイドテーブルに置かれたもう一台のスマートフォンを掴み、清夏の父――あの頼りない三男、桐生孝一(きりゅう こういち)に圧力をかけようとした、その瞬間。端末が先に鳴り出した。着信画面に表示されたのは、長年の友人である紘の祖父、宇佐美秀夫(うさみ ひでお)の名。雅子の心臓が、どくりと跳ねる。不吉な予感が胸の奥に広がった。「もしもし、秀夫さん……」「雅子さん」受話口の向こうの声には、かつての慇懃さは欠片もなかった。単刀直入に、糾弾する響きで言い放つ。「お宅の孫娘は、今の情勢が分かっていないようだな。私の出来損ないの孫が名雲に戻ってきて二日も経たぬうちに、訴えられた。この件、納得のいく説明をしてもらわねば、我ら両家の長年の付き合いも、ここまでだ」雅子が言い返す暇も与えず、通話は一方的に切れた。しばし、彼女は動けなかった。目を閉じ、頭の中で素早く損得を計算する。やがてゆっくりと瞼を開いたとき、その濁った瞳には、冷酷な光が宿っていた。外敵を払うには、まず内を固めるべきだ。宇佐美家に対処する前に、最大の懸念――己の権威に泥を塗った反抗分子、清夏を排除しなければならない。彼女は看護師の制止の声も無視し、手の甲の点滴針を乱暴に引き抜いた。コートを掴み、そのまま外へ歩き出す。執事に電話をかけた。「車を出しなさい。孝一の家へ行くわ」……深夜。突然訪れた雅子の、怒りに震え青ざめた顔を見た孝一は、思わず身をすくませた。雅子は挨拶を一切省き、リビングの主座へと腰を下ろすや否や、ローテーブルを激しく叩いた。「あんたたちの自慢の娘は、なかなかの度胸だこと!」鋭い視線で孝一夫婦を射抜く。「清夏が葵さんを訴える――それが何を意味するか、分かっているのか?葵さんは今や加賀見家の令嬢だ。清夏のしていることは、加賀見家全体の顔に泥を塗り、桐生グループに歯向かうの
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