All Chapters of 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った: Chapter 221 - Chapter 230

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第221話

心愛は動かなかった。頭は激しく揺れ、視界も霞んでいるのに、心だけは不思議なほど澄み切っていた。雨の夜、彼が傘を差して現れたあの姿を思い出す。法廷で、自分のために宇佐美家や葵を敵に回して戦ってくれた、あの背中を思い出す。彼は児童養護施設から加賀見家に引き取られた養子だ。その事実は、家に戻った初日、静香が彼女の手を取り、涙を浮かべながら打ち明けてくれたものだった。二人の間に血の繋がりという鎖はない。あるのは名目だけの薄いベールと、世間の冷ややかな視線だけだ。けれど、これほどの苦難をくぐり抜け、一度は死んだも同然の身となった今、世間の目など何の意味があるというのだろう。心愛は手を伸ばし、少し硬い彼の髪に指を差し入れた。押し返す代わりに、そのまま力強く自分の方へ引き寄せる。暁の理性を繋ぎとめていた糸が、音もなく断ち切れた。視界がぐらりと回る。二人は柔らかなベッドへと倒れ込み、どちらのものともつかぬ吐息が激しく絡み合った。この夜、心愛は初めて知った。誰かに大切にされるとは、こういうことなのだと。壊れ物に触れるように遠慮がちに扱われるのではない。骨の髄まで溶け合うほどに強く抱きしめられ、肌のひとひら、体のわずかな震えに至るまで、余すことなく愛されるという感覚を。……再び目を開けたとき、窓の外はまだ薄暗い灰色に包まれていた。身をよじると、全身の骨を一度ばらばらにして組み直したかのような鈍い痛みが走る。二日酔いの頭痛に、思わず眉が寄った。ふと隣を見る。暁はまだ眠っている。その寝顔は、驚くほど無防備で、どこか子供のようにも見える。険の取れた眉。顎にはうっすらと青い無精髭。長い腕は、彼女がどこかへ逃げてしまうのを恐れるかのように、独り占めするような仕草で腰に回されていた。心愛はその寝顔を、長い時間見つめ続けた。――後悔しているだろうか。胸の内で、静かに問いかける。かつて桐生家にいた頃、貴臣に触れられたことは一度もなかった。最初は自分に何か足りないのだと思っていた。だが後になって知った。彼の心には葵がいて、身代わりに過ぎない自分には手を出せなかったのだと。けれど今、暁を見つめる心には、確かな温もりと安らぎがあった。後悔はしていない。心愛は彼の腕をそっとほ
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第222話

暁は、執拗に鳴り響く着信音に叩き起こされた。「心愛?」勢いよく目を見開き、半ば反射のようにその名を呼ぶ。――返事はない。部屋は水を打ったように静まり返り、点けっぱなしのフロアランプだけが、空虚な寂しさをいっそう際立たせていた。隣のシーツはすでに冷え切っている。枕元にだけ、自分のものではない石鹸の匂いと、彼女特有の甘い香りがかすかに残っていた。昨夜の記憶が、潮の満ち引きのように脳裏へと溢れ返る。夢ではない。アルコール、熱い接吻、理性を喪った睦み合い……そして、耳元で洩れた彼女の堪えた啜り泣きと、受け入れるような吐息。暁は弾かれたように身を起こした。毛布がするりと滑り落ち、引き締まった上半身が露わになる。誰もいない部屋を見渡した瞬間、これまで味わったことのない焦燥が、心臓をきつく締めつけた。どこへ行った?逃げたのか?着信音は諦めることなく鳴り続け、床に脱ぎ捨てられたスラックスのポケットで低く震えている。暁は苛立ちを隠しもせずズボンを掴み、スマートフォンを引き抜いた。発信者も確かめぬまま通話ボタンをスライドさせ、氷の粒を含んだような冷たい声を落とす。「何か用」電話の向こうの昂一は、その地を這うような低い声に身震いし、危うく端末を取り落としそうになった。「しゃ、社長……?」昂一はおずおずと時計に目をやる。「あの……もう十時です。今朝の役員会議、皆さんがお待ちでして。なかなかお見えにならないし、家の電話も出られないので、執事に聞いたら部屋に鍵がかかっていると……」十時だと?暁は眉間を指で押さえた。二日酔いの頭痛が、こめかみをズキズキと突き上げる。「会議は午後に延期だ」「えっ?ですが……」「言葉が通じないのか?」暁の声の温度が一段下がり、刃のように鋭くなる。「は、はい!すぐに手配します!」電話越しにも伝わる社長の殺気に、昂一は命を守るように慌てて通話を切った。部屋に、再び死のような静寂が戻る。暁はスマートフォンをベッドへ放り投げ、両手で髪をかき上げる。悔恨に満ちた表情のまま、目を閉じた。自分は何をしている。あの子は心愛だ。名目上は妹であり、一生守り抜くと誓った相手だ。それなのに昨夜、酒の勢いに任せて、あの子を……血の繋がりはない。心の底では、とっくに妹だなどと思っていなか
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第223話

それでいい。暁はベッドを降り、素足で絨毯を静かに踏みしめた。心愛が立っていたであろうその場所には、いまだ彼女の淡い体温が、澱のように沈殿している気がした。浴室へと向かい、氷のように冷え切ったシャワーを浴びる。叩きつけられる水流に身を任せ、未だ燻り続ける火照りと、胸の奥を突き上げる疼きを強引に鎮めようとした。鏡の中、濡れた男の首筋には、鮮烈な紅い痕が刻まれている。昨夜、情欲のままに彼女が爪を立てた、剥き出しの証だ。暁は指の腹で、その痕を愛おしむように、あるいは呪うようになぞった。その眼差しは、底知れぬほどに暗く、深い。「なかったことに」、だと?一生かかっても、そんな真似はさせない。身支度を整えた暁は、ダークグレーのスーツに身を包んだ。表向きはいつもの清廉で禁欲的な男に戻っていたが、目の下に落ちたわずかな影だけが、隠しきれない疲弊を物語っていた。階下へ降りると、リビングでは静香がテレビを眺めていた。彼の姿を認めると、彼女は意外そうに眉を上げた。「あら暁、ずいぶん遅いお目覚めね。昨夜は飲みすぎて気分でも悪いの?」静香は案じるように言葉を継いだ。「心愛と俊輔くんなら、もう出発したわよ。あなたを起こして見送ってもらおうと思ったのだけれど、心愛に止められてしまって。あの子ったら、本当に胸が痛くなるほど聞き分けがいいんだから」心愛の名を耳にした瞬間、ネクタイを整える暁の指が止まった。「……出発しましたか」彼は玄関へ向かい、靴を履き替えながら、極めて平然とした口調で返した。「聞き分けがいいんじゃない。ただ、私を煩わせたくなかっただけです」静香はその言葉の裏にある機微に気づくことなく、頷いた。「そうね、あの子も嬉しくてつい羽目を外してしまったのでしょう。さあ、行ってらっしゃい。道中気をつけて、運転手さんに任せるのよ」暁は短く応じ、重いドアを押し開けて外へ出た。冬の陽光は網膜を刺すほどに眩しかったが、肌に触れる光に熱は宿っていなかった。車の後部座席に深く身を沈めると、バックミラー越しに昂一が戦々恐々とした面持ちでこちらの様子を伺っているのが分かった。乗車してからというもの、社長はずっとスマートフォンを凝視している。眉間に険を帯びたかと思えば、微かに口角を綻ばせたりと、その表情は千変万化だった。昂一は生きた心地が
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第224話

昨夜の記憶が脳裏を掠めた瞬間、心愛の頬は瞬く間に朱に染まった。熱はなんの予兆もなく、首筋から耳の付け根へと一気に駆け上がり、ダウンジャケットの襟に隠された肌までもが焦がれるように熱を帯びる。なんと返すべきだろう。「うん」の一言ではあまりに素っ気ない。「おはよう」?いや、時差を考えればあまりに的外れだ。いっそ、このまま既読スルーを決め込んでしまおうか。入力欄の上で親指を彷徨わせ、「あの……」と打っては、すぐに消した。今の自分には、あの人をどう受け止めればいいのか正解が見つからない。果たして、まだ「お兄ちゃん」と呼んでも許されるのだろうか。理性が溶けていくようなあの禁断の感触と、拭い去れない羞恥が綯い交ぜになり、異国の空港ロビーに立っているはずの足元は、頼りなく宙を浮いているかのようだった。「姉ちゃん?」唐突に、視界を塞ぐように大きな顔が割り込んできた。心愛は心臓を跳ねさせ、危うくスマートフォンを取り落としそうになった。慌てて画面を暗転させ、胸元に抱え込むようにして隠す。その挙動はあまりに露骨で、やましさを隠しきれていない。俊輔は怪訝そうに首を傾げ、彼女の横顔を覗き込んで眉をひそめた。「顔、真っ赤だぜ?熱でもあるんじゃないか。だから飛行機の中じゃ冷房が強いから、ちゃんと毛布をかけろって言ったのに」そう言いながら、俊輔は心愛の額に手を伸ばそうとした。「そんなんじゃないわよ」心愛は一歩後ずさり、差し伸べられた弟の手を避けた。泳ぐ視線を無理やり傍らの案内板へと向ける。「……ただ、空港の暖房が効きすぎているだけ。厚着のせいで、少しのぼせちゃったみたい」「暖房?効いてるか?」俊輔は不可解そうに自分の襟元を弄った。「僕はむしろ、少し肌寒いくらいだけど」「それはあんたが元気すぎるせいよ」心愛は弟と目を合わせることを避け、スーツケースのハンドルを強く握りしめた。逃げるように出口へと歩を進める。「ほら、行くわよ。レンタカーのスタッフを待たせちゃうわ」俊輔は、どこか浮き足立った姉の後ろ姿をしばらく見つめていた。不可解そうに頭をかき、彼女の指先が白くなるほど強く握られたスマートフォンへ一瞬だけ視線を落としたが、それ以上は追及することなく、カートを押して彼女の後に続いた。……空港から宿泊先へと続
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第225話

続いて、心愛はカメラを自分の方へと向け、豪快な滝と弟を背負うようにしてシャッターを切った。画面の中の彼女は、吹き荒ぶ風に髪を乱し、鼻先を赤く染めていたが、その瞳にはもはや微塵の陰りも存在せず、ただどこまでも澄み渡っていた。夜、二人は海岸沿いの鄙びた村にあるゲストハウスへと身を寄せた。木の温もりが肌に伝わる、素朴なログハウス風の造りだ。窓の向こうには、漆黒の砂浜が果てしなく横たわっている。打ち寄せる波が黒い岩礁を噛み、重低音の如き轟鳴を夜の静寂に響かせていた。暖房の効いた室内は、外の寒さが嘘のように暖かい。心愛は絨毯の上に胡坐をかき、熱いココアの入ったマグを両手で包み込んで暖を取りながら、カメラに収めた写真を整理し始めた。シャワーを浴び終えた俊輔が、タオルで髪を拭いながら声をかけてきた。「姉ちゃん、読み込みは終わった?何枚かピックアップしてお父さんたちに送ってよ。さっきお母さんから、無事着いたかってボイスメッセージが入ってたから」「今やってるわ」心愛は短く応じると、撮影したデータの中から珠玉の九枚を慎重に選び出した。見渡す限りの苔の原野、滝飛沫の中で咆哮する俊輔、道端で出会った愛くるしい馬。そしてその中心に、風に翻弄されながらも微笑む自撮り写真を据えた。家族と親友のグループチャットを開き、送信ボタンをタップする。送信。その直後に、静香からボイスメッセージが舞い込んだ。「まあ!これがI国なの?ずいぶん寂しげな場所だけど、溜息が出るほど綺麗ね。この真っ黒な砂、なんだか石炭の屑みたいに見えるけれど、今の若い子たちはこういうのがお洒落に感じるのかしらね」次いで届いたのは正国のメッセージだった。背景に書類を捲る音が混じっているのは相変わらずだが、その声には隠しようのない慈しみが滲んでいる。「いいじゃないか。俊輔くんも元気そうで安心した。心愛、お前も顔色が良くなったな。小遣いは足りているか?足りなくなったら遠慮せず言え、すぐに送ってやるぞ」さらに、普段はめったに浮上しない清夏までが顔を出し、涎を垂らした絵文字を連打してきた。【わあぁぁ!裏山過ぎる!心愛、そこで待ってて!今抱えてる案件さえ片付ければ、速攻で飛んでいくから!】グループ内は、まるで正月が来たかのような賑わいを見せた。心愛は一条ずつメッセージを再
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第226話

母親から届いた他愛のないボイスメッセージ、父親が好んで使うどこか古めかしいスタンプ、そして心愛が弾むような筆致で返す数々の言葉。暁は、それらが織りなす賑わいをただ静かに見つめていた。心愛は、誰とでも楽しげに言葉を交わしている。たった一人、彼という存在だけをその輪から疎外して。個人チャットの画面にぽつりと取り残された【おはよう】という四文字は、深い海の底へ投じられた石のごとく、水飛沫一つ上げることなく静寂の中へと沈み込んでいた。暁はスマートフォンの冷たい縁を親指でなぞり、自嘲気味に唇の端を吊り上げた。どうやら、本気で避けられているらしい。彼女は怯えているのだ。――何を?私という存在に追い詰められることを、だろうか。「臆病者め」暁は低く毒づいた。しかし、その言葉に怒りの色はなかった。そこにはむしろ、抗いがたいほどの愛おしさが、毒のように滲み出していた。彼は再びグループチャットを開き、履歴を上に辿る。指が止まったのは、あの九枚組の写真の上だった。流れていく風景には目もくれず、中央に配置された一枚の自撮り写真をタップする。画像が拡大され、彼女の相貌が画面を埋め尽くした。フィルターも加工も施されていないその一枚には、産毛の柔らかな質感や、寒さで赤らんだ鼻先までもが鮮明に映し出されている。数筋の髪が顔にかかり、片方の目を隠していたが、露わになったもう一方の瞳には、零れんばかりの笑みが湛えられていた。それは、あらゆる防備も重荷も脱ぎ捨てた、心底からの笑顔だった。桐生家で過ごした日々の、顔色を窺うような空虚なお世辞でも、加賀見家に戻ったばかりの頃の、どこか余所余所しい遠慮でもない。彼女は今、鮮烈に「生きて」いた。暁は長い間、その写真から目を離せなかった。画面が自動で暗転しては、その都度、指先で光を灯し直す。あの一夜、指先に残った熱い感触が蘇る。異国の風がどれほど冷たくとも、滝の前で首をすくめる心愛の姿は、容易に目に浮かんだ。心愛が、健やかでさえあればいい。あんな風に、笑ってさえいれば。暁は静かに指を動かし、その写真を保存した。名雲の夜景は相変わらず眩暈を誘うほどに煌びやかで、果てしなく続く車列が光の河となって流れている。彼は一本の煙草を抜き取り、火を点した。立ち上る青白い煙が
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第227話

タブレットの画面を占拠していたのは、禍々しい赤の太字が躍る国際ニュースの速報だった。【速報:I国南部を五十年に一度の猛烈な極地低気圧が急襲。全土に最高レベルの警戒警報が発令され、国道一号線の広範囲が封鎖。多数の観光客が孤立か……】添付された写真はピントが甘く、吹き荒れる吹雪はさながら白い獣のごとく天地のすべてを飲み込んでいた。路肩では数台の車両が横転し、無残な車輪を寒空の下に晒している。暁の手に握られたペンが、乾いた音を立てて折れた。指先に飛び散ったインクが、不吉な痣のように黒く滲んでいく。「いつのことだ?」彼は弾かれたように立ち上がった。椅子の脚が床を激しく抉り、鼓膜を劈くような悲鳴を上げる。報告の最中だった部長は、あまりの剣幕に動転してレーザーポインターを取り落とし、列席していた役員たちは突如として現れた静かなる怒りに、ただ呆然と目を白黒させるばかりだった。「発令されたのは三十分ほど前です」昂一が早口で応じる。「ですが、現地のリアルタイム気象図を照合したところ、嵐の眼はちょうど、あの海岸沿いの村を通過しようとしています」あの、海岸沿いの村。心愛が昨日、位置情報と共に写真を送ってきた場所だ。暁の脳内で、理性の糸がぷつりと断たれる音がした。彼はスマートフォンを掴み取ると、閉会の辞すら待たずに大股で会議室を蹴った。「チケットを手配しろ」歩みを止めぬまま、怒声に近いトーンで指示を飛ばす。「航空会社はどこでもいい、経由地がいくつあろうが構わん。最短の便だ。今すぐ、一刻も早くだ」「承知しました!」昂一は余計な問いを一切挟まず、即座に運航管理部へ連絡を入れた。滑り込んだエレベーターの中で、暁は見慣れた番号を画面に叩きつけるようにタップした。幾度となく繰り返される、虚しい呼出音。反応はない。一度切り、再び発信する。それでもやはり、応答はなかった。磨き上げられたエレベーターの鏡面に、蒼白な男の顔が映し出される。常に氷のように静謐だったその瞳には、今や外の世界を凌ぐほどの激しい嵐が渦巻いていた。出ろ。出てくれ。心愛、頼むから電話に出てくれ……!「おかけになった電話は、現在……」機械的なアナウンスを遮るように、彼は震える指先で、連絡先リストの奥底に眠っていた番号を必死に手繰り寄せた
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第228話

「家から出るな!」暁は切り裂くような鋭い声で一喝した。「何があっても、一歩も外に出ることは許さん。部屋の中で暖房を最大にしていろ。兄さんが行くまで……それまで絶対に待つんだ!」通話を切ると同時に、エレベーターが一階に滑り込んだ。暁はロビーを疾走する。外には眩い冬の陽光が降り注ぎ、名雲の街を柔らかな光が包み込んでいたが、彼の内面は、底の見えない氷穴に突き落とされたかのような極寒に支配されていた。昂一が正面玄関に車を回したが、完全に停車するより早く、暁はドアをこじ開けるようにして運転席へ乗り込んだ。「社長!」昂一が驚愕して声を上げる。「降りろ」暁は冷徹な一言を吐き捨てた。「航空券の情報をスマホに送れ。貴様はビザの手続きだ。最短の便で後を追ってこい」言い放つや否や、アクセルを深く踏み込む。黒塗りのマイバッハは、制御を失った猛獣のごとき咆哮を上げ、主道へと躍り出た。三つの赤信号を猛然と無視し、一直線に加賀見の本邸へと突き進む。……加賀見邸。静香はソファに腰を下ろし、届いたばかりのコチョウランを優雅に剪定しながら、穏やかに鼻歌を口ずさんでいた。昨夜送られてきた写真は何度も見返し、業者に特注して現像させ、フォトフレームに収めさせたほどのお気に入りだ。そこへ、玄関の重厚なドアが荒々しく押し開けられた。全身から峻烈な殺気を放ちながら、暁が飛び込んできた。靴を履き替える間も惜しみ、脇目も振らずに二階へと駆け上がる。「暁?」その尋常ならざる動揺ぶりに、静香は思わずハサミで花びらを傷つけそうになった。「どうしたの?今は会議中ではないの?なぜそんなに血相を変えて……」物音を聞きつけ、書斎から正国も顔を出した。老眼鏡を外し、怪訝そうに眉をひそめる。「何事だ、騒々しい」暁は足を止めることなく、短く一言だけ投げ捨てた。「I国で異変が起きたんです」五分後。彼は手早くまとめたボストンバッグを手に、二階から下りてきた。仕立てのいいスーツは防風性の高いタクティカルウェアに着替えられ、その手にはパスポートが握られている。静香もその頃にはスマホのニュース速報を目にしており、顔色は土気色に変わっていた。「最高レベルの警戒警報……観光客が孤立……」彼女の唇が激しく震える。「心愛……心愛がまだあそこにいるのよ……」
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第229話

空港へと続く道を、暁は猛烈な速度で駆け抜けていた。車載ハンズフリーからは、昂一の焦燥の混じった、途切れがちな声が響いている。「社長、最短ルートはH市経由のL市行きですが、出発は十時間後です。それに、現地の空港に着陸できる保証が……」「チャーター機を手配しろ」暁はその言葉を強引に遮った。「片端からプライベートジェットの運営会社に当たるんだ。飛べるなら三倍……いや、十倍の額を積んでも構わん。この嵐に耐えうる機体を用意させろ。直ちに航路を申請しろ!」「すでに当たっておりますが、気象条件があまりに劣悪で、多くの機長が首を縦に振りません……」「なら、飛べる奴を意地でも探せ!」暁が怒鳴り声を上げる。「私をI国へ送り届けられるなら、条件は望み通りにしてやると伝えろ!」通話が切れた後の車内には、死のような静寂が沈殿した。カーナビの音声だけが「この先、速度取り締まりがあります」と、無機質に告げていた。暁の脳裏には、昨夜見たあの写真が焼き付いて離れなかった。写真の中の心愛は、鼻の先を赤く染め、あんなにも楽しそうに笑っていた。それは、彼女がようやく取り戻した、かけがえのない笑顔だった。桐生家という泥沼から這い出し、肉親を失った苦しみを乗り越えて、ようやく手にした新しい人生。神はどうして、これほどまでに残酷なのだろうか。ようやく差し込んだ一筋の光を、掴んだ瞬間にまた握り潰そうというのか。「心愛……」暁は奥歯を噛み締めたが、こらえきれずに溢れた涙がハンドルに零れ落ちた。「約束しただろう」彼は心の中で、絶望的な祈りのようにその言葉を繰り返した。「すべては過ぎ去ったと言ったじゃないか……これからはちゃんと生きると言ったじゃないか。嘘をつくな……今度だけは、頼むから嘘をつかないでくれ」もし、これが罰だと言うのなら。あの夜、ついに一線を越えてしまった己の、卑劣な欲望に対する報いだと言うのなら――そのすべてを私一人に下せばいい。心愛が無事に戻ってくるなら、どんな代償でも払ってやる。一生ただの兄でいろと言うなら、その通りにしよう。彼女が誰かと結ばれるのを見届けろと言うなら、それも見届けよう。一生泥沼の中で生きていけと言うなら、喜んでそうしよう。ただ、心愛が生きてさえいれば、それでいい。不意に、スマートフォ
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第230話

心愛は、震える茶トラの子猫を壊れ物を扱うように抱きかかえ、男の背を追って雪を噛むように一歩一歩足を進めた。襟元から容赦なく侵入する雪混じりの突風に、吐き出した吐息が空気に触れるそばから凍りついてしまうのではないかと錯覚する。男が重厚な合金製のドアを押し開け、心愛を中へ促すと同時に、背後で扉が重く閉ざされた。すべてをなぎ倒さんばかりに荒れ狂っていた気流が、その一枚の隔たりによって完全に遮断される。心愛には周囲を伺う余裕などなかった。ただ、腕の中の小さな塊に視線を落とす。その小さな命は丸まり、か細い鳴き声さえもはや途切れがちだった。白いダウンジャケットには、子猫の首筋から溢れた鮮血が、刺すような赤さでじわりと滲んでいた。「こちらへ」男の低く響く声に導かれる。彼は霜に覆われたコートを脱ぎ捨て、入り口のウォールナットのハンガーに無造作に掛けると、慣れた足取りで奥へと進んでいった。足裏に沈み込む厚手のウール絨毯の感触を確かめながら、心愛はようやく面を上げ、室内を見渡した。視界に飛び込んできたのは、無駄を極限まで削ぎ落とした北欧ミニマリズムの空間だった。しかし、その静謐な佇まいの細部からは、隠しきれないほどの洗練された贅が漂っている。巨大な掃き出し窓の向こうでは暴風が荒れ狂っているが、厚い防弾ガラスは微かな震えさえ見せず、外界を拒絶していた。リビングの中央に吊るされた、歪んだ造形の真鍮製ペンダントライトが、鈍い光沢を放ちながら静かにその存在感を誇示している。部屋の隅に鎮座するベヒシュタインの最高級ピアノは、微光を吸い込み、冷ややかな黒い輝きを放っていた。心愛は内心、驚きを禁じ得なかった。これほど辺鄙な場所に、国際的な建築雑誌を飾るような邸宅を構えている。この男の素性は、想像をはるかに超えて浮世離れしたものかもしれない。「薬箱はキャビネットの中だ。先にバスルームへ向かってくれ。床暖房が入っている」男は角の部屋を指し示すと、自身は手際よくキッチンへと向かった。心愛は子猫を抱き、バスルームへと急いだ。洗面台にそっと猫を横たえたところへ、男が木製のトレイを手に現れた。そこには救急セットと温水、そして細かく刻まれた新鮮なマグロの身が整えられていた。「先に体力を回復させなければ、傷口の洗浄に耐えられないだろう」
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