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第241話

元より蒼白だった貴臣の顔は、今や死人の如き土気色に沈んでいた。辛うじて柱を支えていた掌が滑り、その膝ががくりと折れかける。「心愛……」貴臣は喘ぐような息を吐き出し、声を絞り出した。「俺は、ただ……ただお前に会いたかったんだ。本当に、心配で……」「私に会いたい、ですって?」心愛は、この世で最も下劣な冗談でも耳にしたかのように、冷ややかに唇を歪めた。彼女はようやく貴臣に正面から眼差しを向けた。しかし、その瞳に宿るのは愛憎などではなく、不浄なものを認めた時のような、底冷えのする嫌悪感のみだった。「貴臣、これを『一途な愛』だとでも思い込んでいるの?その死に損ないの体でここまで押しかけてきて、苦肉の策の芝居でも打てば、私が感極まって涙を流し、今までのあなたの愚行をすべて赦すとでも?勘違いしないで。これは愛じゃない。ただの醜悪な自己満足、独りよがりの執着よ」投げかけられる一言一言が、鈍色の刃となって、既に満身創痍であった貴臣の心臓を容赦なく抉り取っていく。彼は力なく唇を震わせたが、反論の言葉は喉の奥に張り付いて出てこない。胃を雑巾のように絞り上げる激痛が再び走る。それはこれまでのいかなる痛みをも凌駕するほどに猛烈で、五臓六腑を粉々に打ち砕かんばかりの衝撃だった。その時、背後から静かな足音が近づいてきた。瑞人が厚手のコートを手に戻り、それを慈しむように心愛の肩へと掛けた。彼は片手をポケットに滑り込ませ、心愛の肩越しに、玄関先で立ち尽くすずぶ濡れの男二人へと視線を投げた。視線が暁の姿で一秒ほど止まる。それは、同類の男が互いの器を推し量るような、鋭い値踏みの眼差しだった。次いで、その瞳が貴臣を捉えると、瑞人はわずかに眉を動かした。「……随分と賑やかなことだ」瑞人の声は、どこまでも淡々としていた。彼は心愛に向き直り、その瞳の奥に、微かな愉悦と探求の色を滲ませる。「心愛、こちらのお二方は……どちらもお兄さんなのかな?」それは実に巧みな問いだった。心愛に逃げ道を用意しながら、さりげなく闖入者たちの正体を引き出そうとする。暁の視線が瞬時にナイフの如く鋭利さを増し、瑞人が心愛の肩に置いたその手に突き刺さった。心愛?そんな親しげな呼び方をするのか?さらに追い打ちをかけたのは、彼女が身に纏っている、
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第242話

貴臣は完全に意識を失っていた。力なく折れた首、口角にこびりついた赤黒い血の筋。その相貌はすでに生気を失い、まるで死者のように土気色に沈んでいる。「おい、桐生!目を覚ませ!」暁は荒っぽく彼の頬を叩いたが、掌に伝わる肌は焼けるように熱い。「こんなところでくたばるな!車中であれほど耐えてみせたのは、単なる意地だったのか!」反応はない。暁の腕に力なく崩れ落ちる男を視界に入れ、心愛の瞳が微かに揺らいだ。それは抗いようのない本能的な反応だったが、彼女はすぐさま理性の力でそれを冷徹にねじ伏せた。「人の家の玄関先で、当たり屋のような真似はやめてもちょうだい」心愛は顔を背け、白雪に散った鮮血から視線を逸らした。「梅原さんの家は、死人などお断りよ」地面に滲む血を認め、瑞人は深く眉根を寄せた。元医師である彼には、この男の容態が深刻であることは一目瞭然だった。胃穿孔の手術後だというのに、再出血に加え、極度の疲労と激しい感情の昂ぶり。それは、自ら命を投げ出しているも同然の暴挙だった。「中へ運びたまえ。生憎と僕は医者だ。この嵐では病院へ担ぎ込むことも叶わないからな」瑞人は重い溜息をつき、道を開けるように身を引いた。「これ以上放置すれば、本当に物言わぬ骸になる。僕の家も死人はお断りだが、玄関先に死体を転がしておくのも寝覚めが悪いからね」暁は奥歯を噛み締め、腕の中で事切れたかのように動かない貴臣を一瞥した。「……失礼する」彼は低く応じると、貴臣を横抱きにして、大股で邸内へと踏み入った。心愛の傍らを通り過ぎる瞬間、二人の視線が火花を散らすように交錯した。暁は、彼女の瞳に宿る冷徹な光と、その奥底に潜む、本人さえ自覚していない微かな震えを読み取った。彼は沈黙を貫いたまま、鉛のように重い「厄介者」を抱え直し、瑞人の先導に従って奥へと消えた。救急薬品の詰まったケースが再び開かれる。リビングのカーペットに横たえられた貴臣の傍らに、瑞人は膝をついた。雪に濡れそぼった入院着を剥ぎ取った瞬間、経験豊富な瑞人ですら、思わず息を呑んだ。腹部を覆うガーゼはとうに鮮血に染まり、傷口の肉と無残に癒着していた。周囲の皮膚は赤黒く腫れ上がり、深刻な感染症を併発しているのは明白だった。「この男は、鉄で鋳造されてでもいるのか?」瑞人は
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第243話

「心愛」暁は声を潜め、絞り出すように彼女の名を呼んだ。「……すまない」心愛が顔を上げると、その瞳に宿っていたのは責める色ではなく、ただ底知れぬ疲労の影だった。「……怒ってなんていないよ、お兄ちゃん」彼女の声は、凪いだ海のように静かだった。「私を捜すためだったって、分かっているから。あの状況なら、私だって同じ選択をしたかもしれない」彼女は言葉を切ると、暁の肩越しに、絨毯の上で力なく横たわる影を凝視した。「でも……今は、あの人の姿を見たくないの。ようやく、あの悪夢から目覚めたばかりなの。やっと、一人の人間として生きていけると思えるようになったのに」心愛は深く息を吸い込み、喉元までせり上げた嗚咽を無理やり押し殺した。「またあの地獄へ引きずり戻されるのは、もう耐えられない」「分かっている」暁は一歩踏み出すと、汚れを拭いきれていないその手で、彼女の細い体を力強く抱き寄せた。纏った外気の冷たさに反して、その腕の中は泣きたくなるほどに揺るぎない温もりに満ちていた。「風が止んだら、すぐに奴を叩き出す」暁は彼女の頭のてっぺんに顎を乗せ、低く凄みのある声で告げた。「国内へ送り返すか、道端に放り出すかだ。二度とあなたの視界には入れさせない」心愛はその腕の中で、そっと瞼を閉じた。言葉を返す気力もなく、ただ小さく頷くだけで精一杯だった。傍らの絨毯の上、意識を失っている貴臣の指先が、わずかに震えた。誰にも気づかれぬまま、一筋の涙が目尻から溢れ、こめかみの髪へと吸い込まれて消えていく。それは彼が果てしない闇と激痛の底で聞き届けた、最期の言葉だった。手を洗い終えて戻ってきた瑞人は、壁際で寄り添い合う兄妹を冷ややかな目で見つめ、それから床に転がる「死に損ない」へと視線を移した。彼は先ほど飲み残した赤ワインを手に取ると、一気に喉へ流し込んだ。この一幕は、彼がかつて手術台の上で見てきたどんな生別死離よりも、よほど見応えのある演劇だった。「お二人さん」瑞人が空のグラスをテーブルに置くと、チリンと硬質な音が静寂に響いた。「兄妹の情愛に水を差すつもりはないが、一つ忠告しておこう。外の暴風は、少なくとも丸一日は吹き荒れる。つまり、これからの二十四時間、君たちはこの『通りすがりの他人』と同じ屋根の下で、平和に共存しなければ
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第244話

雨に濡れそぼった髪が、幾筋も蒼白な貌に張り付いている。膝元の布地は無残に擦り切れ、滲み出した鮮血が泥水と混じり合い、うねりながら流れ去っていく。「謝れ」彼は眼下で跪く心愛を、冷徹な眼差しで見下ろした。「葵が許すと言うまで、何度でも、いつまでも謝り続けろ」心愛がゆっくりと顔を上げた。その瞳に涙はなく、身体の震えすら止まっていた。ただ、空虚な眼差しで彼をじっと凝視している。「……私は、葵を突き飛ばしてなんていない」雨音に掻き消されそうな、今にも壊れてしまいそうなほど、か細い拒絶だった。「まだ強情を張るつもりか!」怒りに駆られ、彼は傍らのサイドテーブルを蹴り飛ばした。陶器が粉々に砕け散る、乾いた音が響き渡る。「心愛、お前は嫉妬に狂っているだけだ。桐生の妻という立場なら、何をしても許されるとでも思っているのか?跪け、正座しろ!」夢の淵に佇む貴臣は、その凄惨な光景を眺めながら、心臓を見えない巨手に握り潰されるような錯覚に陥っていた。――よせ……やめてくれ……!駆け寄りたい。椅子に踏ん反り返っている自分を殴り飛ばしたい。地面に這いつくばる心愛を、今すぐ抱き起こしたい。だが、指一本動かすことさえ叶わなかった。かつての、傲慢さと独善に塗り固められた「愚かな自分」が、地べたを這う心愛を幾度も踏みにじるのを、彼はただ無力に、指をくわえて見守ることしかできなかった。場面が暗転し、再び切り替わる。豪邸の門扉の外で、心愛が悲痛な声を上げていた。「貴臣!お願い、おばあちゃんに会わせて!一目だけでいいの!おばあちゃんは病弱なの。お薬を飲まないと、死んでしまう……お願い!」彼は車内にいた。マジックミラー越しに外を遮断し、指先には煙草を燻らせている。隣では葵が、毒を含んだ甘い声で囁きかけていた。「貴臣、心愛さんは取り乱しているわ。今おばあさんに会わせたら、万が一のことがあったらどうするの?しばらく頭を冷やしてもらった方が、彼女のためだわ」彼は冷酷に窓を閉ざし、あまつさえ運転手に命じて音楽の音量を上げさせた。外で叫び続ける女の声を、完全に拒絶するために。――クズだ……お前は、救いようのない最低の屑だ!貴臣は目撃した。心愛が、縋るように門を掴んでいた手を、ゆっくりと離す瞬間を。彼女はもう叫ばず、泣かず、乞うことも
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第245話

「心愛はどこだ?」暁は雑誌を閉じると、傍らのテーブルへ無造作に放り出した。静まり返った部屋に、パサリという乾いた音が空虚に響く。「梅原の薬は、実によく効くようだな」暁の唇が冷酷な弧を描く。「このまま永眠するかと思ったぞ……先ほどから酷い悲鳴を上げていたが、夢の中で己が犯した罪の数々でも反芻していたのか?」貴臣の顔から、さらに血の気が引いていく。夢の残滓がもたらす恐怖が消えぬうちに、暁の言葉が急所を正確に射抜いたのだ。反論する力どころか、その気力すら残っていない。「……心愛に、会わせてくれ……」貴臣はカーペットの毛足に指を食い込ませ、その関節は白く浮き上がっている。その瞳に宿るのは、執着にも似た切実な懇願だ。「加賀見……一目でいい。彼女が無事であることを、この目で確かめさせてくれ……」その時、階段の方から足音が降りてきた。貴臣は反射的に顔を上げ、その瞳に微かな希望を灯す。しかし、現れたのは心愛ではなかった。黒のタートルネックを纏った、見知らぬ男だった。瑞人は、淹れたてのコーヒーが二つ載ったトレーを手にしていた。立ち上る湯気が、理知的でありながらも底知れぬ凄みを湛えた彼の貌を曖昧にぼかしている。彼は暁の傍らへ歩み寄ると、カップの一つを手渡し、床に這いつくばる貴臣を悠然と見下ろした。その視線には、冷徹な観察と明らかな嘲弄が入り混じっている。「……こいつが、例の男か」瑞人はコーヒーを一口啜り、わずかに眉を動かした。「心愛が言っていたよ。彼女を身代わりに仕立て上げ、愛人のために絶望へと突き落とし、家族さえも奪い去った……あの『クズの元夫』か」瑞人の言葉は、淡々と、そして静かに紡がれた。「クズの元夫」という無機質な響きが、初対面の男の口から漏れる。その破壊力は、暁のいかなる罵倒よりも遥かに苛烈だった。心愛は、見ず知らずの他人にそこまで打ち明けていたのか。貴臣は、まるで白日の下に晒され辱めを受けているような、あるいは死体を鞭打たれるかのような耐え難い羞恥に苛まれた。「貴様……何者だ」貴臣は奥歯を噛み締め、辛うじて残っていた滑稽なまでの自尊心を振り絞る。「これは、俺と彼女の問題だ。部外者が口を挟む余地はない」「部外者、か」瑞人は鼻で笑った。彼はもう一口、コーヒーを啜る。漂う芳醇な
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第246話

瑞人の放つ言葉のひとつひとつは、残酷なまでに真実を抉る嘲弄であった。すべてを見透かしたような暁の冷笑を前に、貴臣はただ、沈黙に搦め取られるしかなかった。いかなる弁明も、あの血塗られた事実の前ではあまりに虚しく、滑稽でさえあった。「俺は……ただ……本当に、彼女に会いたいだけなんだ……」貴臣は瞼を閉じ、目尻から一滴の濁った涙を溢れさせた。消え入りそうなその声は、死に瀕した獣が最後に漏らす哀鳴のようでもあった。それは罪を雪ぐための弁明などではなく、剥き出しの本能による渇望だった。夢の中で冷徹に去っていったあの背中が、あまりにも恐ろしかった。この先一生、二度と彼女の影さえも掴めぬのではないかという恐怖が、呪いのように彼を支配していた。瑞人は、その死に損ないのような惨状を視界に収めると、瞳の奥に宿していた揶揄の色を僅かに潜めた。「彼女に会いたい、か」瑞人は手にしたカップを置くと、顎で二階を示した。「上で眠っているよ。昨夜は吹雪を避けるのに、すっかり疲れ果てていたからね」だが、心愛は眠ってなどいなかった。彼女はとうに意識を取り戻していたのだ。階下から漏れ聞こえる男たちの声で、貴臣が目覚めたことを悟っていた。傷を負った身で、これほど遠い場所まで自分を追ってきた。だが、それが今更何を証明するというのか。かつて彼は、同じ献身を葵のためにも捧げていたではないか。それでも、心愛はもう逃げ隠れするつもりはなかった。いつかは対峙しなければならない宿命なのだ。彼女は静かに身なりを整えると、意を決して階段を下りた。貴臣の霞む視界に、心愛の姿が結ばれた。「こ、心愛……」縋り付くように上半身を起こそうとしたが、腕に力を込めた刹那、点滴のチューブをどす黒い血が逆流した。心愛は一歩も動かなかった。ただ足元に這い寄ろうと足掻く男を、氷のような眼差しで見下ろす。「……意識があるなら、もう死ぬことはないでしょうね。貴臣、最後にもう一度だけ告げておくわ。貴方と私の関係は、とっくに潰えている。私はただの身代わり、貴方の想い人を埋めるための器に過ぎなかった。貴方が本当に愛していたのは、あの頃の葵よ。だからこそ、彼女が異国へ去った隙に私に目をつけたのでしょう?」「違う……そんなことは……」貴臣の喉は枯れ果て、反論する言葉さえ紡げなかっ
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第247話

「分かっている」心愛はようやく背を向け、瑞人を正面から見据えた。「憎んでいる人間と同じ空気を吸い続けていれば、いつしか自分までもが醜く染まってしまいそうで、それが何より恐ろしいの」その瞬間、貴臣の顔からさっと血の気が引き、透き通るほどに蒼白となった。嫌いな人間。その言葉が、鋭い刃となって彼を貫く。「……俺が、出るよ。心愛」貴臣は奥歯を噛み締め、サイドテーブルの縁を掴んで、震える体を引きずるようにして立ち上がった。急激な動きに視界が暗転し、激しい眩暈が彼を襲う。身体は大きく揺らぎ、今にもその場に崩れ落ちそうだった。「心愛、お前が俺の顔など見たくもないことは、痛いほど分かっている」彼は片手で胃を強く圧迫し、もう片方の手で壁を支え、辛うじて均衡を保った。「お前の瞳を、これ以上濁らせるべきではなかったのだ。お前たちはここに残れ。ここは安全だ」貴臣の声は喘ぐように断続的で、ひどく震えていた。「俺が……外へ行く」一歩外へ踏み出せば、待っているのは確実な死かもしれない。それでも、心愛をその危険に晒すわけにはいかなかった。それが、今の彼にできる唯一の、そしてあまりに無力な贖罪だった。彼は心愛の傍らを、すり抜けるように通り過ぎようとする。「……すまなかった」地を這うような低い声で一言だけ告げ、彼は重厚なドアノブに手をかけようとした。「止まりなさい」心愛の冷徹な一喝が響いた。貴臣の手が、凍てつく空気の中で静止する。彼は縋るような眼差しで振り返った。「心愛……」「自分を悲劇の主人公か何かだと、酔いしれているの?」心愛は彼を射抜くように見つめた。その瞳には、彼が淡く期待したであろう感傷など微塵も存在しなかった。「そんな死に損ないの体で私の前で果ててみせて、『桐生貴臣は深水心愛のために命を投げ出した』と、世間に美談として知らしめるつもり?」心愛は一歩詰め寄り、冷ややかな眼差しで彼の瞳の奥を凝視した。「死を以て、私の残りの人生を呪縛しようというの?」貴臣は、言葉を失い呆然とした。震える唇を動かし、必死に弁明を試みる。「違う……そんなつもりじゃ……ただ、お前を危険な目に遭わせたくない、それだけで……」「そんな独りよがりの親切、必要ないわ」心愛は容赦なくその言葉を遮った。「今
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第248話

重厚な防風扉が閉まった瞬間、その音は決して大きくはなかったものの、鈍い衝撃となって貴臣の側頭部を直撃した。扉の開閉に伴って流れ込んだ狂おしいほどの寒風が、室内に辛うじて残っていた熱気を無慈悲に根こそぎ浚っていく。貴臣の身体は、抗う術もなく壁を伝って崩れ落ちた。「彼女に一目会いたい」という、狂気にも似た執念だけで繋ぎ止めていた身体の節々は、今や音を立ててバラバラに砕け散っていた。カーペットの上に力なく横たわる彼には、疼く胃を押さえる手さえ、自分を護るために丸めることさえ、もはや叶わぬほどの消耗が押し寄せていた。霞みゆく視界の中で、固く閉ざされた扉だけが激しく歪んで見えた。つい先ほどまで、あそこに心愛が立っていたのだ。彼女が向けた眼差しは、手術台の上で麻酔が切れた瞬間の激痛よりも鋭く、彼の身を切り刻んだ。それは「憎しみ」ですらなかった。憎しみはまだ執着の残り香であり、復讐心の裏返しに過ぎない。だが、彼女の瞳に宿っていたのは、純然たる「嫌悪」だった。路傍に転がる鼠の死骸を見つけ、ただ不浄なものを避けるように、一刻も早くその場を立ち去りたいという切実な拒絶だった。「……げほっ」喉の奥からせり上がる鉄の味に、貴臣が顔を伏せると、再び血の混じった飛沫が床を汚した。瑞人は玄関の棚に気だるげに寄りかかり、片付け損ねた空の薬瓶を弄んでいた。地べたを這い、死に体となっている男に手を貸そうともせず、まるで佳境を迎えた舞台でも鑑賞するように、その無様な姿を眺めていた。「桐生さん、僕なら今のうちに呼吸を整えておくよ」瑞人は薬瓶をゴミ箱へと放り投げた。ガランと乾いた音が、虚無的に響く。長い脚を運び、貴臣の傍らへと歩み寄ると、彼は医師特有の冷徹さと傍観者としての嘲弄を湛えた瞳で、男を見下ろした。「さっきの苦肉の策は見事にスベったようだ。今ここで死んだところで、涙を流してくれる観客はもういない。無駄な真似はやめたらどうだ?」貴臣には、その言葉すら届いていないようだった。虚ろな瞳でただ扉を凝視し、目尻から滲んだ涙が冷や汗と混じり合い、土気色の頬を伝って髪の生え際へと消えていく。「……行ってしまった……」貴臣の唇が、羽虫の羽ばたきのように微かに震えた。その声は陽炎よりも細く、窓を叩く風の咆哮にかき消されてしまいそうだった。
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第249話

今の貴臣は、自らの身体を両断し、鮮血に濡れた心臓をその手に捧げ持って、跪きながら一瞥を乞うているかのようだった。だが、心愛にとっては、それはただただ忌まわしく、不潔なものに過ぎなかった。胃を抉るような激痛が、棘を帯びた見えざる手に掻き毟られるかの如く襲いかかる。全身を痙攣させる貴臣は、混濁する意識と覚醒の狭間を必死に彷徨っていた。瑞人に反論したかった。言い返したかった。自分と心愛の間にも、かつては確かに、美しくも幸福な時間が流れていたのだと。だが、喘ぐように開いた口からは熱い吐息が漏れるばかりで、一言の言葉も紡ぐことは叶わない。焼き上がったばかりのステーキを携え、瑞人が戻ってきた。芳醇な肉の香りが、静謐な部屋の空気を塗り潰していく。彼はカーペットの上で虚脱状態に陥りかけている貴臣を一瞥し、吐き捨てるように溜息をつくと、皿をテーブルへと置いた。「いい加減、死体ごっこはやめろ」瑞人は歩み寄り、手慣れた仕草で貴臣の手首を掴んで脈を検じた。「太鼓でも叩いているような速さだ。当分は死ねそうにないな」彼は懐から一本の注射器を取り出した。強力な鎮痛剤だ。それを貴臣の腕の筋肉へ、容赦なく突き刺した。「この薬は心愛に免じて与えてやる。こんなところで死なれて、警察の事情聴取に付き合わされるのは御免被りたいからな」薬液が身体を巡ると、身を焼くような激痛は次第に凪いでいった。貴臣の瞳にわずかな光が戻り、頭上で燦然と輝くシャンデリアを凝視した。「……彼女は、無事か?」瑞人は注射器を片付け、呆れ果てたように眼を剥いた。「彼女の心配をするより、自分が明日の朝まで生きていられるかを心配した方がいい」瑞人はソファに深く座り直し、肉を切り分けて淡々と口に運ぶ。「加賀見という男は、君よりよほど頼りになりそうだ。少なくとも、彼は心愛をいつ連れ出し、いつ守るべきかを弁えている。君のように、ただ彼女を損なうだけの存在ではないということだ」貴臣は、静かに目を閉じた。加賀見暁。そうだ、あの男がいま、心愛の隣にいる。いつから、その守護者の座は、自分の手から零れ落ちてしまったのだろうか。……門の外に広がる世界は、混沌とした白一色の情景に塗り潰されていた。暁は片手で車のドアハンドルを必死に掴み、もう片方の手で自らの厚手の
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第250話

男の髪はぐっしょりと濡れそぼり、その毛先からは絶えず滴が零れ落ちていた。常に氷のような冷静さを湛えていた瞳は、今は赤く血走り、拭いきれぬ不安に激しく揺れている。「あの時は、ほかに術がなかったんだ」暁は焦燥に突き動かされるように言葉を重ねた。大切なものを失うことへの根源的な恐怖が、彼の語気を荒げ、速めていく。「ここの航路はすべて封鎖されていた。あの状況で飛ばせるのは、桐生の重型輸送機だけだったんだ。あのクルーはあいつの承認コードしか受け付けない。あなたを、こんな場所に一人きりにはしたくなかった……」「お兄ちゃん」心愛の静かな声が、暁の弁明を遮った。彼女はそっと手を伸ばし、ハンドルを軋むほどに握りしめる暁の手の甲に、己の手を重ねた。心愛の指先は氷のように冷え切っていたが、それが暁のひりつくような焦燥を、瞬時にして凪へと変えた。「分かっているわ」心愛は彼をじっと見つめた。その瞳に責める色はなく、ただ底知れぬ疲弊だけが沈殿している。「もしこれが国内の出来事で、私がどうしてもお兄ちゃんを見つけられずにいたら……私も、一番憎い相手に縋っていたかもしれない。たとえ膝を屈してでも。私を捜し出すために命を賭してくれたあなたを、責める資格なんて私にはないわ」暁は、重ねられた心愛の手を力強く握り返した。その掌は焼けるように熱く、己の生命力をすべて彼女に注ぎ込もうとしているかのようだった。「ただ、あなたに拒絶されるのが怖かったんだ」暁は声を震わせるように低めた。「あいつと通じていると思われるのが……またあなたをあの泥沼に突き落としたのだと、そう思われるのが耐えがたかった」「そんなことない」心愛は首を振り、痛々しいほど微かな微笑を浮かべた。「何が正しく、誰が味方かくらい判別できるわ。お兄ちゃんは私を連れ戻すために来てくれた。けれど、あいつは私を……不快にさせるために現れた。それは、似て非なるものよ」心愛は力なくシートに頭を預け、そっと瞼を閉じた。「お兄ちゃん、車を出して。俊輔が待っているわ」「……ああ、分かった」暁は深く息を吐き出した。それはまるで、長い苦行の末に赦しを得たかのような、安堵の吐息だった。彼はギアを入れ、慎重にアクセルを踏み込んだ。路面状況は、想像を絶するほどに劣悪を極めていた。視界は五メー
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