身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った のすべてのチャプター: チャプター 251 - チャプター 260

370 チャプター

第251話

「そんなこと、どうでもいいわ」心愛は顔を襟元に埋めた。「どうせ、もう二度と会うこともないだろうし」その「二度と会わない」という言葉を耳にした瞬間、暁の胸の奥で燻っていた正体不明の苛立ちは、ようやく少しだけ静まった。「ああ。今後は、あんな手合いには近づかないことだ」車が急カーブを曲がると、前方にかすかな灯りが見えてきた。宿泊先の村だ。「着いたぞ」暁は安堵したように息を吐いた。「俊輔たちは地下室にいるって言ってたな」「ええ。旅館のオーナーが、みんなをそこに集めたみたい」車が旅館の前で止まる。木造の建物は猛吹雪の中で頼りなく佇んでいたが、窓から漏れる柔らかな黄色の灯りだけは、凍えた心をほっと和ませた。二人がドアを開けて降り立った瞬間、中から一つの人影が飛び出してくる。「姉ちゃん!兄さん!」俊輔は吹き荒れる風雪もものともせず、砲弾のような勢いで心愛の胸に飛び込んだ。少年の身体は小刻みに震え、目は真っ赤に充血している。どれほど怯えていたか、一目で分かった。「やっと来た……もう、ダメかと思ったよ……」心愛は衝撃で一歩よろめいたが、背後にいた暁がしっかりと腰を支える。「大丈夫よ」心愛は弟の背を優しく叩いた。その目元にも、じわりと熱が滲む。「もう大丈夫。お姉ちゃんが来たから」暁は傍らに立ち、抱き合う姉弟を見つめながら、静かに目を細めた。やがて顔を上げ、今しがた通ってきた道を振り返る。そこには、漆黒の闇と吹き荒れる雪嵐しかなかった。あの「邸宅」も、カーペットの上で血を吐きながら倒れていた男も、すべては嵐の向こう側へ切り離されたかのようだ。あいつが死なない限り、この因縁は終わらないのだろう。「中に入ろう」暁は二人の肩を抱き寄せた。「外は冷える」地下室には、足止めされた観光客たちがひしめき合っていた。空気は決して良いとは言えず、カップ麺の匂いや様々な体臭が入り混じっている。それでも今この瞬間、ここは世界で最も安全な場所だった。心愛が隅の席に腰を下ろすと、俊輔は彼女が消えてしまうのを恐れるように、ぴたりと隣へ寄り添った。暁は濡れそぼった上着を脱ぎ捨てる。その下は、薄いシャツ一枚きりだった。彼はオーナーから白湯をもらってくると、紙コップを心愛へ差し出した。「
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第252話

俊輔は、心愛が瑞人に救われた経緯を何度も尋ねていた。今回の不測の事態は、それほどまでに彼を震え上がらせていたのだ。暁がオーナーの物資運搬を手伝いに行っていた時、不意に左前方から言い争う声が響いてきた。「お前だろう、さっきからこっちをコソコソ嗅ぎ回ってたのは。俺の財布、どこへやった?」怒鳴っていたのは、マウンテンパーカー姿の中年男だった。顔を真っ赤にし、隅にうずくまっていた一人の少女を強引に引きずり出そうとしている。少女は二十歳前後だろうか。不格好な団子頭に、寒さで赤くなった頬。鮮やかな黄色のパーカーだけが、薄汚れた人混みの中で妙に目を引いていた。「取ってないわ。手を離して」少女の声は、意外なほど澄んでいた。「取ってないだと?こんなところをウロウロしてるのはお前くらいだ。他に誰がいる!」男は乱暴に少女を突き飛ばした。少女はよろめき、危うく鉄製の棚へ身体を打ちつけそうになる。周囲の人々は冷めた視線を向けるだけで、誰一人として口を挟まない。誰もが自分のことで精一杯なのだ。こんな状況で、厄介事に関わりたがる者などいない。囲まれた少女を見た瞬間、心愛の胸に微かな痛みが走った。かつての自分を見ているようだった。孤独で、誰にも助けてもらえなかった頃の自分を。「手を離して」心愛は立ち上がると、ズボンについた埃を払って歩み寄った。男は振り返り、相手が華奢な若い女だと分かると、あからさまな軽蔑を浮かべる。「余計なお世話だ。この財布にはパスポートも数千ドルも入ってるんだぞ。失くしたら、お前が弁償するのか?」心愛はその怒声を意に介さず、男のマウンテンパーカーのポケットへ視線を落とした。ファスナーの開いたポケットの縁は、擦り切れて毛羽立っている。「彼女は財布なんて持っていないわ」心愛は淡々と言った。「あなたのフードの中にあるもの」男は呆気に取られ、周囲の空気までもが一瞬止まった。「デタラメを……フードの中だと……?」男は毒づきながらも、無意識に首の後ろへ手を伸ばす。その指先が硬い感触に触れた瞬間、動きがぴたりと止まった。男は気まずそうに、フードの中から黒革の財布を取り出した。先ほど荷物を持ち上げた際、滑り落ちて入り込んでしまったのだろう。人混みのあちこちから、低い失笑が漏れる。
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第253話

「ねえ、君、名前は?どうして何も喋らないの?そのパスポートカバー、可愛いね。どこで買ったの?何歳?もう成人してる?なんか、まだ学校に通ってる真面目な優等生って感じだけど」俊輔は長い間刑務所の中で過ごしたせいで、性格がひどく塞ぎ込んでいた。心愛以外の人間とは、誰とも口を利きたくなかったのだ。だが、悠花という少女は生まれついての社交家だった。彼女はポケットから少し潰れたチョコレートを二枚取り出すと、有無を言わせず俊輔の手に握らせた。隣に座る心愛は、悠花が身振り手振りを交えながら、I国で石拾いをした話を楽しそうに語る様子を眺めていた。俊輔は相変わらず無口なままだったが、眉間に張りついていた陰鬱な影は不思議と薄れており、時折、彼女の話に聞き入っているような表情さえ見せていた。その光景を見つめながら、心愛はふと意識が遠のくような感覚に襲われた。――かつて、自分もあんなふうに貴臣に付きまとっていた。あの頃の貴臣は、桐生グループを継いだばかりで、一日中書斎に閉じこもっていた。彼女はあれこれ手を尽くし、菓子やコーヒーを運んでは、相手が顔を上げることすらなくても、その傍らで延々と独り言のように喋り続けていたのだ。あれこそが愛なのだと。冷たい石でさえ温められる勇気なのだと。当時の彼女は、そう信じて疑わなかった。「心愛?どうした」暁が顔を寄せ、彼女の額へそっと手の甲を当てた。「顔色が悪いぞ。ぼーっとしてる」心愛ははっと我に返り、首を振って自嘲気味に笑った。「何でもないわ。この子が賑やかすぎて、ちょっと気が抜けただけ」――あの男の名前なんて、口にしたくなかった。その時、悠花が不意に身を乗り出し、屈託なく笑った。「お姉さん、嫌がらないでね。私、お喋りくらいしか取り柄がないの。お兄ちゃんにもよく言われるわ。こういう性格の女が一番可愛がられるんだって。私を嫁にする人は、先祖代々の運を使い果たしたような幸運者ねって」隣で俊輔が思わず小さく吹き出した。地下室の電灯が、ちらりと不安定に明滅する。その瞬間、心愛のスマートフォンが震えた。取り出して画面を見る。登録のない番号。だが、その数字の並びは、たとえ灰になっても見間違えるはずがなかった。心愛は画面を見つめたまま、指一本動かせずにいた
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第254話

スマートフォンは執拗に震え続けていた。心愛は深く息を吸い込み、ようやく端末を手に取った。指先が画面の上で一瞬ためらい、それから静かにスライドして通話に出る。繋がった瞬間、耳に当てる暇もないほど鋭い怒声がレシーバー越しに炸裂した。静まり返った地下室の片隅で、その声だけが異様に耳障りに響き渡る。「深水心愛!この疫病神!よくもまあ、私の電話を切るなんて図太い真似ができるわね!?」雅子の声は酷く掠れていた。長時間叫び続けていたのだろう。その声音には、理性を失った狂気じみた響きが混じっている。「最初から分かっていたわ、あなたがろくでもない女だって!嫁に来た時から、夫を不幸にする女だと言っていたけれど、案の定ね。離婚はした。なのにまだグズグズ引きずってる。貴臣をあんな辺境まで誘い出して死なせようとするなんて!言っておくけれど、もし貴臣に万が一のことがあったら、あなたの一家全員、道連れにしてやるから!」心愛はスマートフォンを少し耳から遠ざけた。その表情は、どこか麻痺していた。こんな罵倒は、桐生家で過ごした三年間で嫌というほど聞かされてきた。以前の彼女なら、きっと膝をつき、涙ながらに許しを乞うていただろう。だが今は――ただ、騒がしいとしか感じなかった。「雅子さん」心愛は地下室の薄暗い照明を見上げながら、静かに口を開く。「足がついているのは彼自身です。飛行機に乗ったのも彼の意思。誰かが銃を突きつけて、無理やり連れてきたわけではありません」「まだ口答えするの!?あなたみたいな女狐を追いかけるのでなければ、あの子があんな鳥も通わない場所へ行くはずないでしょう!最初から仕組んでいたのね!貴臣を殺すつもりだったんだわ、全部分かってるのよ」その瞬間、スマートフォンが彼女の手からひったくられた。暁だった。彼は端末を取り上げると、そのままスピーカーへ切り替えた。だが、すぐには口を開かない。向こう側から流れ続ける、まるで市場の喧嘩のような罵声を、数秒間ただ静かに聞かせ続けた。悠花は驚きに目を丸くし、口に入れたリンゴを噛むことすら忘れている。「……気は済みましたか」不意に、暁が口を開いた。声量は決して大きくない。だが、その一言には、支配者特有の威圧感が滲んでいた。その圧が、無線越しに相手へ叩きつけら
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第255話

「あなた……よくも……!」電話の向こうで、何かが激しく砕け散る音がした。続いて、慌ただしい物音と悲鳴が入り混じる。「雅子様!雅子様が倒れられた!早く医者を!」そのまま通話は途切れた。暁は静かに終了ボタンを押し、慣れた手つきで桐生本家の番号を着信拒否リストへ放り込む。そしてスマートフォンを心愛へ返す頃には、彼はすでに、いつもの穏やかな表情へ戻っていた。「よし、これで静かになった」心愛が受け取った端末には、まだ彼の掌の熱が残っていた。彼女は俯き、無意識のうちに指先でスマートフォンの縁をなぞる。胸の奥に、何かが詰まったような感覚が広がっていた。甘酸っぱく、そして熱を帯びた、どうしようもない感情。先ほど電話越しに毅然と言い放っていた時の、暁の引き締まった横顔。なりふり構わず自分の前に立ち、盾になってくれるその姿を思い出すだけで、涙が滲みそうになる。けれど、同時に、言葉にできない気まずさも押し寄せていた。あの日、酒の勢いで一線を越えてしまってからというもの、二人の距離はどこか歪になっていた。あの「兄妹」という薄い紙一枚の境界を越えなければ、彼は理想的な兄だった。だが、一度踏み越えてしまえば、その庇護は別の意味を帯び始める。彼が向けてくれる優しさのすべてに、特別な感情が滲んでいるように思えてしまう。そして、自分はその想いを利用している卑怯者なのではないか、そんな罪悪感さえ胸を刺した。「……ありがとう」心愛は乾いた声で礼を言った。意識して作った、よそよそしい距離。彼女の髪へ触れようとしていた暁の手が、空中でわずかに止まる。だが彼は何事もなかったかのように、その手を静かに引っ込め、ズボンのポケットへ差し込んだ。「私に他人行儀な態度はやめてくれ」暁は笑った。その笑みには、どこか諦めにも似た切なさが滲んでいる。「早く寝なさい。明日、風が止めば出発だ」それ以上、二人は何も言わなかった。俊輔一人分ほどの距離を空け、それぞれ黙り込む。心愛は壁に浮いたカビの跡をじっと見つめ、暁は無言でナイフを弄び始めた。そんな重苦しい沈黙を破るように、色とりどりのフルーツキャンディを掴んだ手が、ひょいと二人の間に差し出される。「ちょ、ちょっと!そんな暗い顔しないでよ!」悠花がひょ
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第256話

悠花は「へへっ」と笑うと、そのまま寝袋へ潜り込んだ。「了解。私も寝不足を解消しなきゃ。あの頼りないお兄ちゃんを捜しに行かないといけないしね」悠花が茶化してくれたおかげで、重苦しかった空気はようやく和らいだ。俊輔も再び横になり、しばらくすると規則正しい寝息を立て始める。心愛は壁にもたれ、口の中でレモン飴がゆっくり溶けていくのを感じていた。最後に残ったのは、ほんのわずかな甘みだけ。彼女はそっと隣へ視線を向け、暁を盗み見る。暁はすでに目を閉じ、腕を組んだまま柱にもたれていた。眉間には薄く皺が寄っていて、あまり深く眠れてはいないようだった。何があっても、この人は本気で自分を守ろうとしてくれている。その思いが胸を掠め、心愛は小さく息を吐くと、肩に掛けた毛布をぎゅっと引き寄せた。---瑞人の別荘。風は幾分弱まったものの、外ではなお不気味な唸り声が続いていた。リビングのカーペットはすでに綺麗に清掃され、あの血溜まりの痕跡も消えている。ただ、空気の奥には微かに消毒液の匂いだけが残っていた。貴臣はソファに横たわり、厚手のウールブランケットを掛けられている。顔色は相変わらず紙のように白い。だが、呼吸は多少落ち着いていた。点滴の瓶から液体が一滴ずつ垂れ、透明なチューブを通って静かに血管へ流れ込んでいく。瑞人は向かいのパーソナルチェアに腰掛け、本を読んでいた。足元では、だいぶ元気を取り戻した茶トラの子猫が丸くなっている。「ミャー」子猫は大きく伸びをすると、サイドテーブルへ飛び乗り、ソファの端から垂れ下がった貴臣の手へ前足を伸ばした。その小さな肉球が指先に触れた瞬間、貴臣の指がぴくりと動く。次の瞬間、彼は勢いよく目を見開いた。その瞳に広がっていたのは、混乱と驚愕だった。「心愛……!」掠れた声で叫び、身体を起こそうとする。だが腹部に走った激痛が、彼を容赦なくソファへ叩き戻した。「大声を出すな」瑞人はページをめくりながら、顔も上げずに言う。「心愛なら、とっくに帰ったよ。今頃、君のことなんて綺麗さっぱり忘れてるだろうね」貴臣の胸が激しく上下する。彼は天井のシャンデリアを見つめたまま、徐々に焦点を取り戻していった。そして次第に、その瞳は深い絶望に染まっていく。「帰った……本当に、行
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第257話

「そのつもりはない」貴臣は毛布を跳ね除けた。「帰国する」その瞳には、絶体絶命の淵へ追い込まれた者だけが宿す、反撃の炎が燃えていた。「あちらの道が閉ざされているなら、戻るだけだ。そして、行く手を塞ぐ邪魔なものを一つずつ片付けていく」彼は低く、押し殺した声で続ける。「桐生家が彼女にしたこと。葵が彼女にしたこと。そして、俺が彼女にしてきたこと……全部だ。一つ残らず、利息付きで清算させてやる」瑞人はしばらく無言で彼を見つめていた。やがて、不意に吹き出す。「……いい目になったじゃないか」そう呟くと、彼は薬品棚の前へ歩み寄った。「いいだろう」瑞人は赤い薬液の入った注射器を取り出し、指先で軽く弾く。「これは強化型のアドレナリンだ。昔、戦地の病院で使われていた代物でね。十二時間ほどなら、健康体と変わらない動きができるようになる」彼は注射器を光に透かしながら続けた。「ただし、薬が切れた後は地獄だ。死にたくなるほどの激痛に襲われるし、心臓に不可逆な損傷が残る可能性も高い」瑞人はゆっくりと視線を上げる。「それでも使う覚悟はあるか?」貴臣は無言で手を差し出した。その腕には、点滴の痕が青紫の痣となって残っている。「打ってくれ」躊躇いは、一瞬たりともなかった。すべての障害を薙ぎ払い、彼女の心を少しでも取り戻せるのなら、こんな命など安いものだった。……その頃、心愛は眠れずにいた。雅子の言葉が、頭から離れない。貴臣は今も瑞人のところにいる。あれから、どうなったのだろう。そんなことを考えていた、その時だった。地下室の扉が、外から勢いよく押し開かれる。「みんな!吹雪が収まったよ」旅館の女将――いかにも肝っ玉母さんといった風貌の女性が、赤ら顔に満面の笑みを浮かべ、パンパンと手を叩いた。「嵐は去ったわよ!部屋へ戻るもよし、出発するもよし、好きにしてちょうだい。ただし道路にはまだ雪が残ってるから、運転には気をつけてね!今回の騒ぎが、みんなの嫌な思い出にならないことを祈ってるわ!」その瞬間、地下室に淀んでいた空気が一気に動き出した。悠花が真っ先に飛び起きる。「あーっ、やっと出られる!コンクリートの上で寝てたせいで、腰が砕けるかと思ったわ!」その大声に、隣でうたた寝して
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第258話

暁もまた、呆然としていた。彼は目を細め、目の前に立つ無精髭だらけの、どこかだらしない男をじっと観察する。すると脳裏の奥で、いつも白衣を纏い、研究室の机を三度拭かなければ気が済まないほどの潔癖症だった男の面影が、ゆっくりと重なっていった。「潤……?」暁は眉を上げ、意外そうに声を漏らした。「お前、Z市で脳神経の研究をしてるんじゃなかったのか」「マジかよ!」佐伯潤(さえき じゅん)は駆け寄るなり、力いっぱい暁を抱き締め、その背中をバンバンと叩いた。「本当に暁じゃねえか!この嵐のせいで幻覚でも見てるのかと思ったぞ。俺はサンプル採取のために来たんだ。ついでに、このバカ妹を連れ戻しにな」潤は身体を離すと、改めて暁をまじまじと見つめた。「それよりお前こそ、国内で会社やってるんじゃなかったのか?なんでまた、こんな場所で苦労してるんだよ」暁は小さく笑ったが、詳しい説明はせず、ただ顎で隣を示した。「私も、人を連れ戻しに来たんだ」潤はその視線を追い、傍らに立つ心愛へ目を向けた。心愛はわずかに戸惑っていた。目の前の潤という男の眼差しが、あまりにも率直だったからだ。軽薄な値踏みではない。まるで、長年引っかかっていた謎がようやく解けた時のような――すべての辻褄が合った、とでも言いたげな顔だった。「こちらは……」潤は心愛を指差し、それから暁を見て、意味ありげに笑った。「まさか『ただの通りすがりです』なんて言わないよな?」「深水心愛だ」暁の紹介は簡潔だった。だが、その口調に滲む重みは、誰の耳にもはっきりと伝わった。「私の妹だ」「妹?」潤は一瞬ぽかんとしたものの、次の瞬間、何かを思い出したように勢いよく膝を叩いた。「ああ、あの『妹』か!」その言い方に、悠花と俊輔は揃って困惑した顔を見せる。「あの妹って何よ?」悠花がすかさず口を挟んだ。「お兄ちゃん、暁さんの知り合いなの?それに最初から妹って言ってたじゃない。なんでそんな意味深な言い方するわけ?」潤は悠花を完全に無視し、花でも愛でるような熱量で心愛を見つめた。「いやあ、すげえな」感心したように何度も頷く。「暁、お前のはもう人探しってレベルじゃねえよ。二十年間ずっと海の底から一本の針を探し続けて、ようやくその針を釣り上げたようなもんだ」
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第259話

心愛の胸が、不意にどくりと大きく脈打った。白黒写真。おさげ髪。まだ歯の生え揃わない幼い笑顔。それは幼い頃、静香が知人に頼んで撮ってもらった、紛れもなく彼女自身の写真だった。まさか、あの写真を暁がずっと持っていたなんて――「その後、一度だけあったんだ。図書館で、こいつが財布を盗まれたことがあってな」潤は、面白い昔話でも思い出したように続けた。「その時の暁の荒れっぷりがまた凄かったんだよ。普段はあんなに冷静な男が、気でも狂ったみたいに街中を走り回って泥棒を捜してさ。そのあとには遺失物のビラまで配り始めて、懸賞金には財布の中身の何百倍もの額を提示してた。俺たちは不思議でたまらなかったよ。ただのボロ財布に、なんでそこまで必死になる必要があるんだって。結局、財布が戻ってきた時には、こいつの目、真っ赤になってたんだ。金なんてどうでもいい、学生証だって再発行できる。でも、あの写真を失くしたら、本当に妹を見失ってしまう気がするって……そう言ってた」潤はそこで言葉を切り、今度は真面目な眼差しで心愛を見つめた。「その時になって、俺たちは初めて知ったんだ。それが、生き別れた妹さんの写真だったってことをな。こいつ、俺たちにこうも言ってたよ。『妹がこの世界のどこかで息をしている限り、たとえ地球をひっくり返してでも必ず見つけ出す。そうじゃなきゃ、一生眠れない』って」地下室は、水を打ったように静まり返っていた。悠花でさえ口を閉ざし、ぽかんとした顔で聞き入っている。隣では俊輔が鼻をすすり、暁へ向ける瞳には、ほとんど崇拝にも似た色が宿っていた。心愛はただその場に立ち尽くしていた。喉の奥に、濡れた綿でも詰め込まれたような苦しさが広がっていく。自分はずっと、孤児院に捨てられた子供なのだと思っていた。けれど今、誰かが教えてくれた。世界中の誰からも見放されたと思っていたあの長い歳月のあいだ、地球の反対側では、自分のたった一枚の古びた写真を宝物のように抱きしめ、狂ったように探し続けていた人がいたのだと。自分は、誰にも望まれなかった子供なんかじゃなかった。ずっと、自分の帰りを待っていてくれた人が、本当にいたのだ。心愛はゆっくりと顔を上げ、暁を見た。彼もまた、その視線に気づいたのだろう。壁から目を逸らし、静かにこちらへ顔を
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第260話

I国の風は、まるであの大仰な防風扉の向こうへ本当に閉じ込められてしまったかのようだった。それからの数日間、この地は、あの凄まじい吹雪を埋め合わせるかのように信じられないほどの快晴に恵まれた。夜空には、ひっくり返した絵の具皿のようなオーロラが広がり、幾筋もの光が縦横無尽に闇を染め上げていく。暁は、あの夜のことも、貴臣のことも、二度と口にしなかった。彼は完璧なガイド兼ボディガードに徹し、オフロード車を走らせながら、心愛と俊輔を連れてI国南海岸を隅々まで巡っていった。俊輔の中に閉じ込められていた少年らしい快活さも、ようやく完全に解き放たれていた。浜辺で波にズボンの裾を濡らしても、彼は白い歯を見せ、屈託なく笑っている。そんな弟の笑顔を眺めるたび、心愛の胸に空いていた腐った穴も、少しずつ塞がっていくような気がした。やがて飛行機が名雲国際空港へ降り立ち、湿り気を帯びた、どこか醤油の匂いが混じる空気に包まれた瞬間、心愛は心の底から「帰ってきた」と実感した。加賀見家の屋敷には、煌々と灯りがともっていた。庭先に車が止まり、エンジンを切る間もなく、玄関の扉が勢いよく開かれる。静香はエプロン姿のまま、手にフライ返しを握って飛び出してきた。その後ろからは、普段は冗談ひとつ言わない厳格な正国まで、これまで見たこともない勢いで駆けてくる。「ああ、私のかわいい子たち!」静香は危うくフライ返しを暁の顔面にぶつけそうになりながら、そのまま彼を素通りし、車から降りたばかりの心愛を力いっぱい抱き締めた。その抱擁は、まるで娘を骨の髄まで溶かし込んでしまいたいかのようだった。「お母さんに見せて。痩せたんじゃない?凍えたりしなかった?」静香は目を真っ赤にしながら、心愛の腕や頬を何度も撫でる。「ニュースで『五十年に一度の大嵐』だって言ってたでしょう。この数日間、心臓が止まりそうだったのよ。見て、顔までこんなにほっそりしちゃって。向こうでちゃんと食べてなかったんじゃないの?」母から漂う味噌汁の匂いと暖房の熱気に包まれ、心愛は鼻の奥がつんと痛んだ。「お母さん、大丈夫よ」彼女は静香の首元に顔を埋め、家の匂いを貪るように吸い込んだ。「痩せるどころか、暁……お兄ちゃんが毎日洋食ばっかり食べさせるから、むしろ太っちゃったくらい」「何言ってるの。どう
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