《身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った》全部章節:第 331 章 - 第 340 章

370 章節

第331話

彼はゆっくりと身体を後ろへ預け、革張りのチェアの背もたれにもたれかかった。喉仏が大きく上下し、そのまま喉を傾けるようにして、焼けつくほど辛い液体を一気に飲み下していく。「誰が美味しくないと言った?」空になったカップをデスクへ戻し、飾り気のない指先でティッシュを一枚引き抜くと、軽く口元を押さえた。「妹が自ら台所に立って煮出してくれた薬だ。どれだけ辛くても、ありがたく飲み干すさ」心愛は、空っぽになったマグカップを見つめ、ほっとしたように微笑んだ。けれど。彼女は、この男のそういう平然とした顔がたまらなく嫌だった。どれだけ痛くても、どれだけ苦しくても、いつだって何でもないように笑って流してしまう。まるで、自分の痛みなど存在しないみたいに。「よくそんな白々しい嘘がつけるわね」心愛はマグカップをひったくるように奪い取り、そのまま彼を見下ろした。声音には、押し隠しきれない焦りが滲んでいる。「辛いもの苦手なくせに、最初の一口飲んだとき、明らかに眉間に皺寄ってたじゃない。それなのに、どうしてそこまで強がるの?あの夜だってそうよ。近藤さんが、お兄ちゃんは真夜中に急性胃腸炎で点滴まで受けたって言ってたのに、あなた、自分からは何も言わなかった。私がやれって言ったら、お兄ちゃんは何でもするつもりなの!?」暁は答えなかった。ただ静かに、感情をぶつける彼女を見つめている。「そうやって耐えることが立派だとでも思ってるの?」心愛の声は震えていた。「今日、車の中であの薬を見つけたとき、私がどんな気持ちだったか分かる?自分が最低な人間みたいに思えたのよ。私はただ、自分の懐かしさを満たしたかっただけなのに、そのせいであなたを救急室送りにしかけたんだから……!」言葉を吐き出すたびに感情が溢れ、瞳にはみるみる涙が滲んでいく。今にも零れ落ちそうだった。暁は小さく息を吐いた。次の瞬間、彼が足先に軽く力を入れると、キャスター付きの椅子が静かに後ろへ滑る。机一枚分あった距離が、一気に消えた。そして彼は手を伸ばし、カップを持っていない方の心愛の手首を正確に掴む。乾いた温かな掌の感触。そのまま軽く引き寄せられ、心愛は不意を突かれて二、三歩よろめいた。気づけば、彼の両脚の間へ飛び込むような格好になっている。一瞬で
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第332話

心愛は完全に焦っていた。無意識のうちに声が上ずり、その口調には、自分でも気づかないほどの甘えと理不尽さが滲んでいる。「次また我慢できなくなって食べたら、もう二度とこの生姜湯、作ってあげないんだからね!もしまた私が作ったら、私は……!」彼女は必死に脳を回転させ、最大級の威嚇効果を持つ脅し文句を探し始めた。「あなたが、どうするって?」暁は余裕たっぷりに心愛を見つめていた。彼は彼女の手首を離し、両腕を気怠げにチェアの肘掛けへ預ける。身体を引くどころか、むしろわずかに前へ傾いた。冷たいウッド系の香水の香りに、先ほどの生姜の刺激が混ざり合う。その気配が、侵食するような圧をもって彼女を包み込んでいた。「お母さんに言いつけるんだから!」心愛は散々悩み抜いた末、幼稚園児レベルの最終兵器を繰り出した。「お兄ちゃんのマンションのキッチンを封鎖してもらって、お小遣いも止めてもらって、それから、あのスポーツカーも全部没収してもらうんだから!……お兄ちゃんの真似をしただけよ!」その必死の虚勢に、暁は完全にやられた。喉の奥から低い笑い声が次々と漏れ出し、普段の冷徹で隙のない社長の威厳は、この瞬間ばかりは跡形もなく崩れ去っている。「いいだろう、好きに言いつければいい」彼は笑い混じりにそう言うと、不意に目を細めた。「だが、その前に――」次の瞬間、暁は突然手を伸ばし、マグカップを持っている側の彼女の腕を片手で掴んだ。「こんな真夜中に寝もせず私の書斎へ押しかけて、喉が焼けるようなものを無理やり飲ませた責任を、先に取ってもらうべきじゃないか?」心愛は元々、警戒心をむき出しにしていた。不意に掴まれたことで身体が反射的に後ろへ引ける。しかし足元は滑りやすいルームシューズ。磨き上げられた無垢材の床に足を取られ、バランスが崩れた。「きゃあっ――」短い悲鳴。そのまま心愛の身体は前方へ倒れ込む。だが、その瞬間の暁の反応は異常なほど速かった。彼は自分の体勢など一切構わず、瞬時に前腕へ力を込める。隆起した筋肉が動き、強靭な両腕がまるで鉄枷のように彼女の腰を正確に捕らえた。落下の衝撃を和らげるため、暁自身も勢いのまま深く背もたれへ身体を預ける。そして次の瞬間には、心愛は完全に彼の胸の中へ飛び込んでいた。正確に言
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第333話

暁の、心愛の腰へ回された指先がゆっくりと力を帯びる。薄手のルームウェア越しに、驚くほど熱い体温がじわりと伝わってきた。彼はわずかに首を傾け、その顔をほんの少しずつ、確実に彼女へ近づけていく。成熟した男特有のフェロモンを含んだ気配が、逃げ場を塞ぐように圧し掛かってきた。心愛の呼吸は、完全に乱れていた。まるで猛獣に狙われた小動物のように、抵抗することも、突き放すことも忘れ、瞳の奥までかすかに震えている。近い。さらに近づいてくる。深い眼窩が落とす影まではっきり見えた。彼の熱い吐息が、すでに自分の唇へとかかっている。その薄く冷ややかな唇が、今にも重なろうとした、その瞬間。カチリ――書斎のドアが、なんの前触れもなく外から開かれた。「暁、もう何時だと思っているの。まだそんなデータシートばかり見ているなんて。さっき心愛が台所で何をバタバタしていたのかしら、家中、生姜の匂いでいっぱいなんだけれど……」静香が、出来たてのたまご雑炊を載せたトレイを手に、独り言のように呟きながら入ってきた。その足が書斎のペルシャ絨毯へ踏み込んだ瞬間。彼女の身体は、まるで時間を止められたように硬直した。静香は目を見開き、手にしていたトレイをぶるりと震わせる。スプーンが器の縁に当たり、カラン、と乾いた音を立てた。その音に、心愛は高圧電流でも流されたかのように弾け飛んだ。自分でもどこから出たのかわからないほどの力で、彼女は暁の腿の上から転がるように飛び退いた。だが、慌てすぎたせいで膝が紫檀木のデスクの角へ強烈にぶつかる。「っ……!」痛みに一瞬目を閉じる。込み上げた悲鳴を、彼女は必死に喉の奥へ押し込めた。暁の動きも、ほんの一瞬だけ止まった。だが次の秒には、彼は即座に心愛の腰へ回していた手を引き、誤魔化すように拳を口元へ当てて低く咳払いをする。そしてそのまま背筋を伸ばし、シャツの裾を軽く整えた。ほんの数秒前まで漂っていた危うい熱など存在しなかったかのように、彼はいつもの、人を寄せ付けない冷徹な社長の姿へ戻っていた。ただ、平静を装うその瞳の奥には、消えきらない暗い熱がまだ燻っている。「お、お母さん……」心愛はしどろもどろになりながら、ようやく声を絞り出した。身体は極限まで張り詰めた弓の弦のように硬
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第334話

廊下のブラケットライトが、ほの暗い琥珀色の光を落としていた。心愛の慌ただしい足音は、とっくに階段の向こうへ消えている。それでも静香は、トレイを抱えたまま、まるで彫像のように書斎の入り口で立ち尽くしていた。トレイの上のたまご雑炊は、まだかすかに湯気を立てている。静香は無意識のうちに指先へ力を込めていた。トレイの縁を強く握り締めていたせいで、関節が白く浮き上がっている。スプーンが器の縁へ触れ、チリン、チリン、と細い音を鳴らした。その音だけが、静まり返った二階の廊下に妙に耳障りに響く。静香はゆっくりと顔を巡らせ、わずかに開いたままのドアの隙間から、もう一度書斎の奥へ視線を向けた。暁は相変わらず、紫檀木のデスクの向こうへ腰掛けている。後ろめたいことをした者特有の狼狽や焦りは、どこにも見えなかった。「暁。心愛は、さっき書斎で何をしていたの?」問い掛けられても、暁は顔色一つ変えない。「今日退院したばかりでしょう。数日前に私が胃を壊したことを、車の中で昂一から聞いたらしい。さっき、生姜湯を煮て持ってきてくれたんです」そこで一度言葉を切り、逆に問い返す。「母さんこそ、どうしてここに?」静香は薄く微笑んだ。「あなたたち兄妹がそんなに仲良しで安心したわ。毎日仕事ばかりじゃ駄目よ、身体を壊してしまうもの」彼女はトレイを少し持ち上げる。「ほら、出来立てのたまご雑炊。これを食べて、早く休みなさい」暁は立ち上がり、歩み寄った。トレイの上にある雑炊へ視線を落とし、その声音をわずかに和らげる。「ありがとうございます。母さんも早く休んでください」静香は頷き、そのまま身を翻して部屋を出た。だが、先ほど暁の腕の中にいた心愛の姿。そして二人の間に流れていた、あの奇妙な空気。それが脳裏を過ぎった瞬間、不意に彼女の足が止まった。静香は振り返る。ちょうど暁が、雑炊へ口をつけようとしていた。「暁」呼び止められた彼が視線を向ける。静香は息を整え、ゆっくりと言った。「あなたと心愛は、どこまでいっても兄妹なのよ。お兄ちゃんとして、ちゃんと面倒を見てあげなさいね」暁は、静香が「兄妹」という言葉をわざわざ強調したことに気づいていた。それでも彼は、淡々と答える。「ああ。妹のことは、ちゃんと面倒を見ま
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第335話

「仕事の話じゃないのよ、家の中の話!」静香は焦りのあまり、正国の腿を思わずピシャリと叩いた。「暁と心愛のことよ!」正国は呆気に取られたように目を瞬かせた。彼はコップを手に取り、ぬるま湯を一口含んで喉を潤す。「あの二人がどうかしたのか。ここ二日ほど、暁はずいぶん甲斐甲斐しく心愛の世話を焼いていたし、今日の退院だって自分から迎えに行った。兄妹仲がいいのは、むしろ喜ばしいことじゃないか。お前だって前は、暁の性格が冷たすぎて心愛と打ち解けられないんじゃないかって、よく心配していただろう」「何が兄妹仲がいい、よ!」静香は興奮のあまり、自分の腿をバシバシと叩いた。声は完全に裏返っている。「私がさっき何を見たと思うの!?夜食を届けに書斎へ行ったのよ。そしたら、ドアがちゃんと閉まってなくてね、私が開けた瞬間――心愛が、暁の膝の上に跨がって座っていたのよ!暁の両手は、心愛の腰を後ろから抱きすくめていて……顔なんて、これっぽっちしか離れてなかったの!」静香は震える二本の指を突き出し、一センチにも満たない隙間を作って見せる。「あと半秒、私が入るのが遅れていたら、あの子たち絶対キスしてたわ!これ、完全にインセストでしょう!?世間に知られたら、加賀見の面目なんて丸潰れよ!」部屋の中は、死んだような静寂に包まれた。ただ壁に掛けられたドイツ製の機械式時計だけが、カチ、カチ、と規則正しい音を刻んでいる。静香は正国を凝視した。机を叩いて激怒するか、今すぐ一階へ降りて暁を殴り飛ばすか、そんな反応を待っていた。だが、正国は動かなかった。驚きの表情が浮かんだのは、ほんの数秒だけ。やがて彼は静かにコップを置き、再びヘッドボードへ背を預けた。両手を腹の前で組み、幾多の修羅場を潜り抜けてきた男らしい静かな眼差しを細める。その瞳の奥には、やがて複雑な――どこか打算めいた色さえ浮かび始めていた。「膝の上に座っていた、か」正国の声は、拍子抜けするほど穏やかだった。「……何よ、その反応は!」静香は完全に逆上し、勢いよく立ち上がって正国を指差した。「暁が心愛に手を出してるって言ってるのよ!?それなのに、そんな落ち着き払ってるなんて!あなた、本当に焼きが回ったんじゃないの!?」「声を張り上げるな」正国が低く一喝する。「真
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第336話

静香は、まだ頭の整理が追いついていなかった。脳裏を埋め尽くしているのは、世間の偏見と悪意ばかりだった。「でも、世間の人たちはそんな事情まで知らないわよ!この三年間、暁はずっと外では加賀見の長男として振る舞ってきたの。心愛が家に戻った今、あの子は加賀見のお嬢様なのよ。名雲市の上流階級で、加賀見に一人息子と一人娘がいるって知らない人なんていないわ」彼女は焦りのあまり、ソファのクッションを抱きしめるように掴み、そのまま正国へ必死に訴えかけた。「あなたは社交界に顔を出さないから分からないのよ。あのマダムたちの口がどれほど毒々しいか。血も流さず人を殺せる人種なんだから!昨日のチャリティディナーだってそうよ。木村夫人と渡辺夫人に手を握られて、うちの心愛は本当に気品があるって褒められたの。そのあと、次はどんな縁談を考えているのかって聞かれたわ。もし明日、この話が広まったらどうなると思う?あの人たちはきっと言うわ。加賀見家は息子の嫁候補を家で囲っていたんだって。破廉恥だって面白おかしく叩かれるに決まってる!心愛は、桐生家という地獄からやっと這い出してきたばかりなのよ。今回のデザインプロジェクトをきっかけに、ようやく自分の力で立とうとしているのに……こんなスキャンダルが出たら、クライアントはあの子をどう見ると思う?あの人たちは平気で言うのよ。心愛がプロジェクトを取れたのは、兄に媚びを売ったからだって……!」言葉を重ねるほど、静香の胸の奥には湿った薪が詰め込まれていくようだった。火はつかず、ただ重苦しい煙だけが肺を満たしていく。「私は心愛が不憫でならないの……あの子はもう十分すぎるほど傷ついてきたわ。女にとって名誉がどれだけ大事か、あなたには分からないの?それなのに暁は……どうしてあんな馬鹿な真似をするの。病み上がりで弱っている心愛につけ込むみたいに、あんな……!」正国は最後まで静かに聞き終えると、ゆっくりと目を細めた。その眼差しは、次第に冷えていく。彼は静香の懸念を否定しなかった。彼女の言葉は、どれも現実として起こり得ることだったからだ。噂というものは、昔から人を殺す。それは時代が変わっても変わらぬ、人の世の理だった。だが、だからといって、正国が彼女の考えに同意するわけではない。「スキャンダル、か」正国は
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第337話

静香はそこまで聞くと、はっとしたように両目を見開いた。顔には、隠しきれない驚愕が浮かんでいる。暁のあの繊細な胃のことは、家族なら誰もが知っていた。普段の食事ですら、料理に唐辛子がひとさじ多いだけで眉をひそめる男だ。その暁が、よりにもよって路地裏の屋台へ足を運んだというのか。「あいつは、心愛のためなら命だって惜しまないさ」正国はそう言って、静かに結論を下した。「旨い話を他人に渡す馬鹿はいない。心愛をあいつに任せるなら、俺だって安心できる。暁が加賀見グループの実権を握っている限り、この名雲市で心愛の前で陰口を叩ける人間など存在しない。誰かが半言でも不満を漏らせば、暁はその相手の飯の種ごと叩き潰すだろう。それこそが、本当の意味での保護だ」部屋の中は、再び静寂に包まれた。静香はクッションを抱き締めたまま、頭の中が粥のようにぐちゃぐちゃに煮崩れていた。理性では理解している。正国の言葉は間違っていない。暁には力があり、手段があり、そして何より、心愛を守り抜こうとする覚悟がある。娘をあいつに託すことは、どこの誰とも知れない男に嫁がせるより、よほど安全だ。それでも、感情だけは、どうしてもその境界を越えられなかった。「でも……」静香は唇を噛み締め、胸の奥に沈んでいた最大の不安を吐き出した。「あなた、暁の気持ちは分かったわ。でも、心愛のほうはどうなの?あの子、ただでさえ繊細なのよ。今は復讐と仕事のことで頭がいっぱいで、恋愛どころじゃないわ。あの子の中で暁は、自分を地獄から救ってくれたお兄ちゃんなの。今日だって、どう見ても暁が強引に迫って、心愛は怯えて逃げ出したようにしか見えなかったのよ」静香は立ち上がり、ベッド脇を落ち着きなく二、三歩行き来した。歩けば歩くほど、胸のざわめきが大きくなっていく。「私たち、やっとあの子を連れ戻せたのよ。今の心愛は、恋愛なんて泥棒でも警戒するみたいに拒絶してる。それなのに暁が無理に距離を詰めたら……もしまた、あの子が逃げ出したらどうするの?桐生家のあの地獄からだって、自力で這い出してきた子よ。追い詰められたら、家出くらい平気でやるわ!」その言葉は、正国の急所を正確に突いた。彼は暁の能力を信頼していた。だが同時に、心愛の頑なさにも手を焼いていた。あの子は見た目こそ柔らかく儚
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第338話

朝七時。屋敷のカーテンが、使用人の手によって一枚ずつ丁寧に開けられていく。初冬の淡い陽光がようやくダイニングへ差し込み、磨き上げられたボーンチャイナの食器棚に冷ややかな光を反射させていた。心愛は階段の踊り場に立ち尽くし、滑らかな手すりを強く握り締めていた。手のひらにはじっとりと汗が滲み、木肌を湿らせそうになる。昨夜は、ほとんど眠れなかった。目を閉じれば、暁のあの剥き出しの侵略性を宿した瞳が蘇る。今にも一線を越えそうだった、あの危うい距離感。そして何より致命的だったのは、静香が書斎へ入ってきた、あの瞬間だった。もし以前の桐生家で同じことが起きていたなら、「はしたない」――その一言で断罪され、雅子に正座を命じられ、膝が潰れるまで折檻されていただろう。では、今の加賀見家ではどうなのか。静香はいつだって、実の娘のように自分を可愛がってくれていた。だが今回ばかりは、一族の体面に関わる問題だ。名家において、こうした「誤解を招く関係」は、往々にして最も嫌悪される。心愛は深く息を吸い込み、胸の奥に溜まった淀んだ空気をすべて吐き出すと、どこかぎこちない足取りで階段を下りていった。ダイニングは水を打ったように静まり返っていた。響くのは、食器が触れ合う微かな音だけ。静香は主座の左側に腰掛け、朝刊を広げていた。鼻梁にはチェーン付きの金縁眼鏡。表情はいつになく真剣だ。その向かいには暁が座り、皿の上の目玉焼きをゆっくりと切り分けていた。その所作は、まるで精密な外科手術でも行っているかのように無駄がなく、美しかった。「お母さん……お兄ちゃん、おはよう」心愛の声はわずかに掠れていた。彼女は椅子を引いたが、いつものように暁の隣へは座らなかった。あえて一席分空け、その隣に腰を下ろす。あまりにも露骨で、かえって何かを隠そうとしているのが丸分かりな行動だった。空気が、一瞬だけ凍りついた気がした。心愛は俯き、目の前のお粥と焼き鮭を見つめる。静香からの問い詰めるような視線も、暁からの冷淡な反応も、彼女はすでに覚悟していた。だが、静香から返ってきたのは、拍子抜けするほど軽やかな声だった。「おはよう、起きたのね」彼女は新聞を畳み、眼鏡を外すと、窓から差し込む朝日よりも柔らかな笑みを浮かべた。「早く食べなさい。お
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第339話

「お母さん、ううん、大丈夫よ!」心愛はグラスをひったくるように掴むと、ジュースを勢いよく喉へ流し込んだ。「タクシーだって便利だし。それに、お兄ちゃんは社長でしょう?私はデザイン部に行くんだから、いくら道すがらとはいえ、一緒に出勤なんて目立ちすぎて……」「何が目立つというの」静香は眉をひそめ、有無を言わせぬ口調で遮った。「加賀見のお嬢様が、加賀見の長男の車で出勤するなんて至極当然のことよ。誰が余計な口を叩くというの。不満があるなら、私のところへ来させなさい」そう言うと、静香は意味ありげな視線を暁へ向けた。「それに、お兄ちゃんが妹の面倒を見るなんて当たり前でしょう?そうよね、暁?」暁は手元のナイフとフォークを静かに置き、一見穏やかでありながら、その実、強い警告と牽制を含んだ静香の視線を受け止めた。彼は聡い男だ。わずか一秒で、母親の眼差しに込められた真意を読み取ってみせる。――私は全部分かったうえで、あえて止めはしない。でも、あなたに節度があるなら、あの子を怯えさせて逃げ出させるような真似だけは絶対にしないで。何より、妹に恥をかかせるような事態は許さないわ。暁の口元が、ごくわずかに弧を描いた。「母さんの言う通りです」彼は立ち上がり、椅子の背に掛けてあったスーツジャケットを手に取ると、なおも必死に抵抗しようとしている心愛を見下ろした。「行くぞ、加賀見グループのデザイナー様。遅刻したら、今月の皆勤手当は全額カットだからな」……マイバッハの車内は、恐ろしいほど静かだった。外界の喧騒は、分厚い防弾ガラスによって完全に遮断されている。車内に残されているのは、エアコンの送風音と、二人の浅い呼吸だけだった。心愛は助手席の奥へ身を縮め、できる限りドア側へ身体を寄せていた。いっそ自分が一枚の紙になって、そのまま窓ガラスに貼り付いて消えてしまえたら――そんなことまで考えてしまう。彼女はひたすら窓の外を眺め続けていた。たとえ目に映るのが、冬枯れたプラタナス並木だけだったとしても、まるでそこに見たこともない花でも咲いているかのように、必死に視線を逸らし続ける。暁は片手でハンドルを握り、もう片方の手をシフトレバーへ気怠げに置いていた。その視線の端は、しかし、自分から距離を取ろうと必死に縮こまっている小さ
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第340話

心愛は、あらかじめ用意していた台詞を暗唱するかのように、早口で言葉を吐き出した。「私は、ようやくこの家を手に入れたのよ。物心ついた頃から、どこにいても自分だけが余計な部外者みたいだった。深水家でもそうだったし、桐生家ではなおさらだったわ。でも今は、お父さんもお母さんも、こんなに大切にしてくれている。あなたも……あなたも、私にこんなによくしてくれてる」心愛の声は次第に小さくなり、その奥には隠しきれないかすかな震えが滲み始めていた。「お兄ちゃん、私はこの全部を壊したくないの。ほんの一時の衝動なんかで、この家をぎくしゃくさせたり、バラバラにしたりしたくない。今の私は、ただ必死に働いて、俊輔をちゃんと一人前に育てて、加賀見グループのデザイン部を軌道に乗せたいだけなの。それ以外のことなんて、本当に考える余裕がないし……考えること自体が怖いのよ」それが、彼女の切り札だった。――お願いだから、これ以上私を追い詰めないで。あなたを「お兄ちゃん」として見ること。それだけが、今の私に許された唯一の、安全な距離なの。もしその線を越えようとするなら、私は逃げる。この家を失うことになったら、今の私は耐えられないから。暁は、緊張でわずかに赤く染まった彼女の瞳を見つめた。その奥には、小動物のように張り詰めた警戒と怯えが、ありありと浮かんでいる。まるで誰かに心臓を容赦なく鷲掴みにされたように、胸の奥が甘く、鈍く疼いた。「私がいる限り、この家が壊れることなどない」そう告げてやりたかった。「私ならあなたに、もっと揺るぎない、二人だけの家を与えられる」そう言って抱きしめてやりたかった。だが、それはできなかった。今の心愛は、罠からようやく逃げ出したばかりの狐のようなものだ。わずかな風の音や草の揺れですら、神経を過敏に刺激してしまう。ここで無理に距離を詰めれば、彼女は完全に殻へ閉じこもり、最悪の場合、自分の前から永遠に姿を消してしまうだろう。信号が青へと変わった。後続車が、待ちきれないと言わんばかりにクラクションを鳴らす。暁は静かに視線を前へ戻し、再び車を発進させた。「……分かった」その声は驚くほど穏やかで、感情の起伏はほとんど読み取れなかった。けれど、不思議と人を安心させる静けさだけは確かにあった。「昨
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