「社長……ひとまず、一度会社へ戻りませんか」助手席に座る隆が、恐る恐る口を開いた。車内には濃い煙草の匂いが立ち込め、空気そのものが押し潰されたように重い。隆はもう、その息苦しさに耐えきれそうになかった。社長は朝から予定されていた公務をすべて放り出し、あろうことか加賀見本社ビルの前で張り込みを続けている。もしこの姿をパパラッチにでも撮られれば、ただでさえ不安定な桐生グループの株価は、さらに暴落しかねない。「黙れ」貴臣の声は、まるで紙やすりで擦ったように嗄れていた。その視線は加賀見本社ビルの正面入口へと貼り付いたまま、微塵も動かない。まるで、自らへの判決が下される瞬間を待っているかのようだった。その時だった。象徴的なブラックとシルバーのツートンカラーを纏ったマイバッハが、静かに車寄せへ滑り込んできた。そして、ビル正面の中央へぴたりと停車する。貴臣の瞳孔が、不意に収縮した。ドアが開く。先に降りてきたのは暁だった。彼は自然な足取りで車の前を回り込み、助手席側へ向かう。貴臣はその男を見つめていた。かつて、自分が最大のライバルだと認めていた男。ビジネスの世界では冷酷無比な手段を取り、男女の駆け引きにおいても、一歩たりとも引こうとしない男だ。暁は助手席のドアを開けた。だが、すぐにはその場を離れなかった。片手を車内ルーフの縁へ添え、降りてくる相手が頭をぶつけないよう、ごく自然に庇ったのだ。続いて、心愛が車から姿を現した。今日の彼女は、アイボリーのパンツスーツを纏っていた。仕立ての良いその装いは、引き締まった立ち姿をいっそう美しく際立たせている。髪は後ろで簡素にまとめられ、白く細い首筋がすっきりと覗いていた。顔色も良い。まだ多少痩せてはいるものの、その全身からは、かつて桐生家にいた頃には決して見られなかった、瑞々しい生命力が溢れていた。その自信。その余裕。そして、大切に愛されて育まれている者だけが纏う光。それらすべてが、貴臣の胸を鋭く刺し貫いた。彼は見た。暁が彼女へ顔を寄せ、何かを低く囁く姿を。その直後、まるで当然のような手慣れた動作で、心愛のビジネスバッグを受け取る姿を。二人は並んで回転ドアへ向かって歩いていく。身体が触れ合うことはない。だが、その間に流れる空
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