《身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った》全部章節:第 351 章 - 第 360 章

370 章節

第351話

碧は言えば言うほど怒りが込み上げてきたのか、スマートフォンの画面を心愛の目の前へ突きつけた。「ネットの反応、見てください!私だって黙って見てたわけじゃありませんからね。さっき捨て垢を何十個も作って、葵が昔、桐生家でやらかしたあのゲスな悪事とか、深水さんを土下座させた動画とか、全部トレンドの最上位にぶち込んでやりました!保釈令が何だって言うんですか。あいつが少しでも街に顔を出そうものなら、世間の唾で溺れ死にさせてやりますよ。これぞ大衆の力ってやつです!」猛烈な勢いで流れていくリプライの数々。そして、興奮で顔を真っ赤に染めている碧の姿。凍りついていた心愛の胸に、小さな火が灯ったような気がした。「碧、ありがとう」心愛は静かに微笑む。「お礼なんて水臭いですよ!私たち、一緒に修羅場を潜り抜けてきた戦友じゃないですか!」碧は勢いよく自分の太腿を叩いた。「あの梅原って男は、先輩の優しさにつけ込んでるだけです。命の恩人だからって何なんですか?この世に命の恩人なんていくらでもいますけど、恩を売った相手の家を後ろから放火するような奴、聞いたことありませんよ!それ、もう恩を盾にした脅迫です!」「昂一」暁はオフィスの入り口に向かって声をかけた。ずっとで控えていた昂一が、すぐさま分厚い書類の束を抱えて部屋へ入ってきた。「社長」「洗え。康永メディカルの過去五年分の全収支だ。特に、奴らが経営しているあの私立精神病院を徹底的に調べろ。不法収容の疑いがある。それから法務部長を呼んで。俊輔の件は、今日から一切妥協なしで再告訴の手続きを進める。あの保釈令を、二十四時間以内にただの紙屑へ変えてみせなさい。梅原家が葵を囲い込みたいなら、身ぐるみ剥がされるまで追い詰めてやるだけだ。名雲市に、法律を玩具にするような『名門』はいらない」「承知いたしました!」昂一は短く応じると、風を切るような足取りで即座に立ち去った。心愛は席に座ったまま、暁の背中を静かに見つめる。「梅原。あんたが葵を守るというのなら、私はこの手で、彼女をあの檻の中へ引き戻してみせる。あんたがI国で助けてくれた恩も、今日ここで徹底的に帳消しにしてあげるわ」その瞳から、生気のない虚無は消えていた。そこに宿っていたのは、幾多の試練を経て研ぎ澄まされた、冷徹な
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第352話

デザイン部の休憩エリアでは、コーヒーマシンが豆を挽く音だけが、なおも静かに響いていた。悠花はその場に立ち尽くし、両手でデスクの角を死に物狂いで掴んでいた。爪が白く裏返るほど、指先には凄まじい力が込められている。床には、瑞人の写真が表紙になった学術雑誌が落ちていた。かつては端正で知性に満ちて見えたその顔も、今では無惨に引き裂かれ、星形の破片となって埃まみれに転がっている。「悠花さん、もうやめて。手が痛むでしょう」心愛が歩み寄り、その手をそっと止めようとした。「痛む?痛いのは私の心よ!」悠花は弾かれたように顔を上げた。その瞳は恐ろしいほど赤く充血し、大粒の涙が今にも溢れそうに滲んでいた。けれど、彼女特有の意地と激しさだけが、かろうじて涙を堰き止めている。「心愛さん、私……今まで瑞人のこと、この世で一番潔白な人間だと思ってた。あの手は、人を救うためにあるんだって。なのに結果はどう!?あいつはその手で、葵っていうあの腐った生ゴミを泥沼から引っ張り上げたのよ!こんなの人助けなんかじゃない。私たちの心臓に刃物を突き立てる裏切りじゃない!」悠花は怒鳴りながら、半分だけ残っていた雑誌を掴み上げると、まるで憎き仇を引き裂くかのように、バリバリと音を立てて真っ二つに破り捨てた。「私、本当に目が腐ってたわ。あいつを浮世離れした高潔な聖人だなんて思ってたなんて……ペッ、ただの善悪の区別もつかない偽善者じゃない!母親の遺言なんて大義名分を振りかざして、殺人犯を庇うなんて……そんなに理想論を語りたいなら、今すぐあの世の母親のところへ行って添い遂げればいいのよ!」悠花は引き裂いた紙屑を床へ叩きつけ、荒い呼吸を繰り返した。胸が激しく上下している。「心愛さん、本当にごめんなさい。私、今まで何度もあいつを褒めて、あなたの前で持ち上げたりして……もう、自分の頬を引っぱたいてやりたいくらいよ」床一面に散らばる惨状を見つめながら、心愛は、自分の胸の奥に沈殿していた瑞人への冷え切った絶望が、悠花の燃え上がる怒りによって、少しだけ薄れていくのを感じていた。彼女はそっと腕を伸ばし、悠花を抱き締める。その身体は、怒りと悔しさで小刻みに震えていた。「あなたのせいじゃないわ」心愛は静かに言った。「人は変わるものよ。それとも……私たちは最初か
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第353話

「梅原の件は、俺に任せてくれ。感染症証明書の偽造に司法妨害か……あの書類に署名した二人の医師には、すでにこちらの人間を張り付かせてある。あいつらが証言を翻した瞬間、梅原は二度とメスを握れない身体になる」二人は、ほんの数言を交わしただけで梅原家の破滅を決定づけた。それは相談などではない。ただの処刑宣告だった。「あの葵って女はどうする」潤が低い声で尋ねる。「南郊の別荘地に潜んでいる」暁の瞳は氷のように冷え切っていた。「梅原は、自分名義の不動産だから私が踏み込めないとでも思っているらしい。だが忘れているな。あの区画の管理会社には、私も出資しているということを」ちょうどその時、心愛がドアを押し開けて入ってきた。彼女の耳に、最後のその言葉が飛び込んでくる。潤は振り返ると、加賀見家の娘である心愛へ軽く頷いてみせた。その眼差しには、わずかな賞賛の色が滲んでいる。「心愛さん、災難だったな」潤は立ち上がり、スラックスの皺を軽く払った。「今回ばかりは、あの梅原のせがれがどれだけ足掻こうが、判決を覆す道なんてどこにも残させねぇよ」心愛は静かに暁の傍らへ歩み寄った。自分のために怒りを形にし、罠を張り巡らせてくれる二人の男を見つめる。かつて桐生家にいた頃、どれほど理不尽な目に遭っても、貴臣はただ耐えろとしか言わなかった。周囲の面子を保つために、波風を立てるなと。だが、今の心愛には違う。彼女には、背中を預けられる仲間がいる。胸の奥から湧き上がる揺るぎない自信が、心愛の背筋をかつてないほど真っ直ぐに伸ばしていた。「お兄ちゃん、潤さん。ありがとうございます。でも、私から一つだけお願いがあります」心愛は暁を見つめた。その瞳には、一歩たりとも退かない強い意志が宿っている。「言ってみろ」「今夜のメディア記者会見、予定通り行ってください」心愛は一語一語を噛み締めるように続けた。「私は皆の前で、あの偽りの診断書を暴きたいんです。梅原が自分の名誉を賭けて葵を保証するというのなら――私はこの手で、彼のその名誉を完膚なきまでに叩き潰します」悠花が横から勢いよく口を挟む。「そうよ!今夜そのまま人を動かして、葵が隠れてるあの別荘地を包囲してやりましょうよ!あの女に、この名雲市で好き勝手できると思うなって思い知らせてやる
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第354話

心愛は視線を落とし、スマートフォンを見つめた。そこには文字はなく、ただ一枚の写真だけが添付されていた。写っているのは、ワイングラスを手にした一本の腕。背景には、最高級の本革ソファと、巨大な掃き出し窓が映り込んでいる。その手首には、かつて貴臣がオークションで莫大な金額を投じて落札した、あのダイヤモンドのブレスレットが巻かれていた。間を置かず、二通目のメッセージがポップアップする。【いいワインだわ。外の空気って、あの薄汚い拘置所の中より何倍も甘いのね。さっきオフィスで泣きそうになってたんですって?本当に哀れ。世の中のルールって、結局は私たちみたいな「本物の金持ち」のためにあるのよ。あなたのおばあ様が、あの世で私がこうしてラフィットを飲みながら、あなたの無様な姿を笑ってるって知ったら、悔しさのあまりもう一回死んじゃうんじゃないかしら?】その文章からは、甘やかされて育った人間特有の、底なしの傲慢さと悪意がむき出しになって滲み出ていた。すぐ隣にいた悠花も、一目で画面の内容を把握する。「ふざけんじゃねえよ!」悠花は勢いよくオフィスデスクを叩きつけた。衝撃で、上に置かれていたペン立てが派手な音を立てて倒れる。「完全に調子に乗ってるわね!よくもおばあ様のことを口にできたものだわ!心愛さん、スマホ貸して。知り合い使ってこの番号のGPSを追跡させる。今すぐあいつを八つ裂きにしてやる!」碧も横から画面を覗き込み、怒りのあまり地団駄を踏んでいた。だが、心愛は静かにスマートフォンを取り上げた。その手は驚くほど落ち着いていた。震えもなければ、取り乱して投げつけることもない。むしろ、その顔には微塵の動揺すら浮かんでいなかった。彼女はもう、悪意ある言葉をぶつけられただけで理性を失うような段階など、とっくに通り過ぎていた。檻から野良犬が這い出てきたのなら、直接叩き潰せばいいだけの話だ。わざわざ犬の遠吠えに付き合う必要などない。心愛は入力欄をタップすると、淀みない指先で文字を打ち込んでいく。【そのワイン、せいぜい美味しく味わっておきなさい。首を洗って待っていなさい。裁判所で会いましょう】送信を終えると、彼女は鮮やかな手つきでその番号をブロックリストへ叩き込み、画面をロックして、スマートフォンをデスクの上へ裏返しに置いた。「
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第355話

葵は姿見の前へ歩み寄り、ここしばらくの栄養不足でわずかにくすんだ頬へそっと触れた。明日になったら、瑞人に頼んで最高級のビューティシャンを呼ばせよう――そんな算段を胸の内で巡らせる。それに、もう一度桐生家へ戻らなければならない。貴臣のような頭の弱い男なら、涙を数滴見せて、少し殊勝な態度を取ってやれば、遅かれ早かれまた自分の元へ戻ってくるはずだ。自分は再び、華やかなセレブ妻として返り咲く。そんな甘い幻想に酔いしれていた、その時だった。玄関から、慌ただしく鍵を解錠する音が響く。次の瞬間――バァン!!重厚な無垢材のドアが外側から乱暴に蹴り開けられ、壁へ激突して凄まじい轟音を響かせた。葵は飛び上がり、手にしていたワイングラスを危うく取り落としかける。そこへ、大股で踏み込んできたのは瑞人だった。だが、今の彼の姿は、普段の冷静沈着な面影など微塵もない。仕立ての良いスーツは皺だらけに乱れ、ネクタイは首元でだらしなく緩み、髪もひどく掻き乱れている。何より恐ろしかったのは、その顔色だった。青白いというより、もはや死人のような土気色。眼鏡の奥の瞳は真っ赤に充血し、極限まで追い詰められた獣のような危うさを帯びていた。「お兄ちゃん?どうしたの、そんなに怒って。びっくりしたじゃない」葵は胸元へ手を当て、いつものように庇護欲を誘う表情を浮かべて迎え入れようとする。しかし瑞人は、彼女に視線すら向けなかった。その目はレーダーのようにリビング全体を素早く見回し、最後にソファへ放り出されていた真新しいスマートフォンへと鋭く定まる。それは、連絡用として、ここへ向かう途中に瑞人が適当に買い与えた予備端末だった。瑞人は荒々しい足取りで近づき、そのスマートフォンをひったくるように掴み上げる。ロックはかかっていない。画面をスワイプすると、すぐにメッセージ画面が表示された。そこには、葵が心愛へ送りつけた、あまりにも悪趣味で醜悪な挑発写真がそのまま残されていた。その瞬間。瑞人の脳内で、「キィン」と耳鳴りのような音が激しく響いた。張り詰めていた理性の糸が、一瞬で弾け飛ぶ。彼はゆっくりと振り返り、未だ何も理解していない顔をしている葵を睨みつけた。次の瞬間、瑞人は腕を振り上げ、その高価なスマートフォンを大
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第356話

瑞人は葵が何を言おうとも構わず、そのまま背を向けて立ち去った。午前三時の加賀見家の本家は、墓地のように静まり返っていた。窓の外にある古いエンジュの木が風に吹かれて不気味に枝を伸ばし、枯れ果てた細い枝がガラスをパチパチ、パチパチと叩いている。その高い音が、聞く者の胸をひどくざわつかせた。書斎では、心愛が大きなマホガニーのデスクの前に座っていた。目の前のパソコンの画面から放たれる青白い光が彼女の顔を照らし、まるで拭い去ることのできない灰の層のようだった。右手に握られた万年筆は、原稿用紙の上で長い間止まったままだ。一滴のインクが紙の上で滲み、腐った黒い花のようになっていた。彼女はそのインクの染みを見つめながら、頭の中を今日見たあの刑務所の前の写真でいっぱいにしていた。葵のあの眼差しには、地獄から這い上がってきたようなねっとりとした悪意が宿り、自分の首に死に物狂いで巻き付いているかのようだった。ブルル、ブルル――デスクの上のスマートフォンが突然激しく震え、息が詰まるような静寂を打ち破った。心愛は驚き、指先が激しく跳ねて、万年筆の先が紙の上に耳障りな長い線を引いた。画面の上で、二つの文字が踊っている。「俊輔」心愛は目を閉じ、心臓がどきりと跳ねた。L市は今、午後のはずだ。俊輔がこの時間に電話をかけてくるなど、無事を知らせるためであるはずがなかった。彼女は少し苦しげに画面をスワイプして通話をつなげた。声を出すよりも早く、受話口からは少年の狂わんばかりの咆哮が聞こえてきた。「お姉ちゃん!なんで葵が外に出てるんだよ!?どうして出られるんだよ!」背景の音はひどく雑多で、L市の街頭を吹き抜ける風の音や、俊輔の激しい呼吸の音が混じっていた。心愛は深く息を吸い込み、口元まで込み上げてきた苦しさを無理やり飲み込んで、極めて平坦な声を出した。「ニュースを見たのね」「ネット中が大騒ぎだよ!海外の留学生もみんな噂してる!」俊輔の声は涙声に変わっていた。その極限の怒りと悔しさが、海を越えて激しく燃え盛るように伝わってくる。「お姉ちゃん、教えてよ、法律なんて死んでるのか?あいつはおばあちゃんを殺して、僕たちの家をめちゃくちゃにしたんだぞ!なんで保釈されて治療なんて受けられるんだよ!?病気だって?あいつの顔はめちゃくち
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第357話

心愛は、電話越しに聞こえていた俊輔の呼吸が少しずつ落ち着きを取り戻していくのを感じながら、その骨の髄にまで染みついた恐怖と狂躁を、ゆっくりと宥め、溶かしていった。長い沈黙の末、俊輔はようやく掠れた声を絞り出した。「お姉ちゃん、ごめん……僕、さっきは頭に血が上ってた」「いいのよ。でも、もう二度とあんな馬鹿なことは言わないで」心愛は穏やかに言葉を重ね、弟の情緒が完全に落ち着いたことを確認してから、静かに通話を切った。スマートフォンが手から滑り落ち、絨毯の上に鈍い音を立てる。心愛は、全身から力が抜け落ちたように、そのまま窓枠へ身体を預けた。その瞬間、張り詰めていた脳の糸がぷつりと切れる。これまで必死に保ち続けていた強固な仮面は、薄氷が砕け散るように、通話が終わった途端、足元で無惨に崩れ落ちた。窓の外では、エンジュの木が不気味に枝を揺らしている。その影は、まるで亡者の手のように見え、自分の無力さを嘲笑っているかのようだった。瑞人の裏切り。葵の挑発。そして、弟の怯え。そのすべてが巨大な重圧となって心へとのしかかり、呼吸をするだけで胸が引き裂かれそうに痛んだ。心愛はゆっくりと身体を丸め、膝を抱き寄せるようにして顔を埋めた。誰にも見られていない深夜。だからこそ彼女は、ようやく「姉」であり、「親代わり」であり続けなければならない重い鎧を脱ぎ捨てることができた。傷ついた小動物のように、押し殺した嗚咽が喉の奥から漏れ出していく。ギィ……重厚な無垢材の書斎の扉が、静かに軋みを上げた。心愛は弾かれたように顔を上げる。その瞳には、まだ拭いきれない涙の膜が揺れていた。いつの間にか、暁が入り口に立っていた。黒いシルクのルームウェアを纏い、帯は無造作に緩められている。鍛え上げられた胸元が大きく覗き、手には湯気の立つ温かなミルクのグラスが握られていた。足元にはスリッパすらない。裸足のまま絨毯を踏んでいたため、その足音を心愛はまったく聞き取れなかった。暁はただ静かに立ち尽くし、床にしゃがみ込んだまま弱り切った姿を晒している心愛を見下ろしていた。海の底のように深い双眸。薄暗い灯りの中、その眼差しは不気味なほど底知れず、まるで彼女の魂の奥底までも見透かしているようだった。心愛は慌てて涙を拭い、窓枠に
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第358話

心愛は男のルームウェアの襟元を死に物狂いで掴み、それまで胸の奥に押し込めていた理不尽な感情を、一気に決壊させた。彼の胸の中で、今にも壊れてしまいそうなほど激しく震えながら泣きじゃくるその姿は、まるでこれまでの人生で流し損ねてきた涙を、今この瞬間にすべて流し尽くそうとしているかのようだった。暁は彼女の頭を優しく、それでいて確かな力で撫で続けながら、底知れぬ冷徹な眼差しで窓の外のエンジュの木を見据えていた。瑞人が救世主気取りでいたいのなら。葵が炎の中から蘇る不死鳥の真似事をしたいのなら。望むところだった。その二人も、そして己の力を過信している梅原家もまとめて、この古くから続く本家の泥土の底へ、自らの手で叩き沈めてやる。胸元で響いていた心愛の泣き声は、やがて少しずつ小さくなり、嗚咽だけがか細く残る。暁はわずかに身体を離し、泣き腫らして赤くなった彼女の顔を覗き込んだ。そのあまりに無防備で愛らしい姿に、彼の喉仏がかすかに上下する。「泣き止んだか」心愛は気まずそうに視線を伏せ、彼の胸元から離れようとした。だが、暁はそれを許さなかった。彼女の腰をがっしりと抱え込み、逃げ場を塞ぐように自分へと引き寄せる。「泣き止んだなら、次はもう一つ、話をしようか」その声は途端に、男としての危険な熱を帯びていた。逃げ道を塞ぐような濃密な気配が、一瞬で心愛を絡め取る。「さっきの電話で、俊輔に何て約束した?」心愛は不意を突かれたように、呆然と彼を見上げた。「何があっても、自分が支えてやる――そう言ったな?」暁の唇が、彼女の耳朶に触れそうなほど近づく。熱を孕んだ吐息が肌を撫で、そのたびに細かな震えが背筋を走った。「心愛、忘れたわけじゃないだろうな。それは、本来私の役目だ」低く囁かれる声音には、静かな独占欲が滲んでいた。「私を差し置いて勝手に他人へ約束をするなんて、少し調子に乗りすぎじゃないか?……それについて、何か言うことはないのか」心愛は肩をすくめ、胸の奥で心臓が激しく暴れるのを感じた。「あれは、俊輔を落ち着かせるための……ただの気休めで……」「気休め、か」暁は低く笑った。その笑い声には、腰が抜けそうになるほど妖しく危険な色気が滲んでいる。不意に彼は腰を落とし、心愛の身体を軽々と横抱
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第359話

その、久しく忘れていた絶対的な安心感に――それまで首に力強く回していた心愛の手が、ゆっくりと緩んでいった。心愛は抵抗をやめ、まるですべての力が抜けてしまったかのように、背後の広く逞しい胸へ完全に身を委ねる。「お兄ちゃん……」か細い声でそう呟いた瞬間、暁の瞳は、夜の底よりなお深い色に沈んだ。彼は腕にさらに力を込め、心愛を強く引き寄せると、その頭頂に顎を乗せる。そして、彼女の髪から漂う淡い香りを、貪るように深く吸い込んだ。月光と室内灯が織りなす陰影の中、世界そのものが息を潜めてしまったかのような静寂が広がる。心愛は完全に警戒を解き、ただ窓の外を吹き抜ける風の音に耳を傾けていた。さっきまで自分を押し潰しそうだった脅威の数々も、暁の腕の中にいると、驚くほど取るに足らないものに思えた。空気の中に、甘く危うい気配がゆっくりと満ちていく。濃密に溶け合った熱が、今にも形を持ってしまいそうだった。暁の手のひらが、ゆっくりと上へ這い上がる。その熱に、心愛は軽い眩暈を覚えた。彼はわずかに顔を下げ、先ほど泣いたせいでいっそう艶を帯びた彼女の紅い唇へと視線を落とす。心愛もまた、どこか夢を見るように顔を上げた。暗い炎を宿した暁の瞳と、真っ直ぐに視線がぶつかり合う。その瞬間――兄妹という禁忌も、静香の言いつけも、外の世界の喧騒も、すべて忘れていた。ただ本能のまま、この熱源へ、あと少しだけ近づきたい。そう願ってしまっていた。暁の顔が、一寸ずつ近づいてくる。鼻先が触れ合おうとしたその時――理性を焼き尽くす情欲が、最後の防波堤を破ろうとした瞬間。ガチャリ。死んだように静まり返った廊下に、ドアノブが回る微かな音が響いた。小さな音だった。だが、その場の空気を切り裂くには十分すぎるほど耳障りだった。心愛の瞳孔が、瞬時に収縮する。脳内で何かが弾けたように、飛びかけていた理性が一気に引き戻され、凄まじい羞恥が全身を呑み込んだ。完全に正気へ戻った彼女は、両手を暁の胸へ強く押し当て、この致命的な罠から逃れようと必死に彼を突き放そうとした。しかし、暁は微動だにしない。まるで山のようにびくともせず、腕を解くどころか、逆に彼女の腰をさらに強く抱き締めた。その力は、自分の骨と肉へ溶け込ませようとしているか
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第360話

足音が、静まり返った廊下に重く響き渡った。一歩、また一歩と近づいてくる。それは、紛れもなく正国の足音だった。心愛は必死になって、自分の腰を強く抱え込んでいる暁の腕を掴み、振り払おうとした。爪が彼の手の甲へ深く食い込み、赤い筋がいくつも浮かび上がるほど力を込める。「お兄ちゃん、早く放して……お父さんに見られたら、本当に全部終わってしまうわ」だが、暁は微塵も動じなかった。頑丈な両腕は、なおも彼女の腰を離さない。緩めるどころか、むしろさらに強く、自分の胸元へと押しつける。「怖がるな。私がいる」頭上から降ってきた声は、恐ろしいほど穏やかで、一切揺らいでいなかった。そして――書斎の入り口に、正国が姿を現す。濃いグレーのカシミアコートを羽織ったその男の視線は、まず絨毯へ広がるミルクの染みを捉え、それから怒りに肩を震わせる静香を越え、デスクの奥の二人へと真っ直ぐ突き刺さった。その眼差しは、まるで刃そのものだった。正国は、暁と心愛の重なり合った手を、蛇でも見るかのように睨み据える。「……何をしている」低く落とされた声が、空気を震わせた。静香の目元は真っ赤に染まっていた。彼女は暁を指差し、その指先を怒りと共に激しく震わせる。「暁、あなた、自分が何をしているのか分かっているの!?その子はあなたの妹なのよ!それなのに、どうして……!」「分かっています」暁は、静香の言葉を容赦なく遮った。彼は心愛の手を引いて立ち上がらせ、そのまま自分の斜め後ろへ引き寄せる。高く逞しい身体が、光すら通さない壁のように彼女を完全に庇い、両親から向けられる刃のような視線をすべて遮断した。暁は、正国の裁きを下すような視線を真正面から受け止める。その表情は、鉄のように硬かった。「父さん、母さん。お二人が見た通りです」喉仏が上下し、吐き出される一言一言が、床板へ突き刺さるように重く響く。「私が心愛に心を奪われ、彼女を追いかけている」その瞬間、書斎は死んだような静寂に包まれた。聞こえるのは、窓の外で風に揺れる木々のざわめきだけ。暁の背後へ庇われた心愛は、頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けていた。彼女は呆然と顔を上げ、この男の背中を見つめる。暁が何か言い訳をするのだと思っていた。妹が取
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