All Chapters of 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った: Chapter 81 - Chapter 90

100 Chapters

第81話

葵は気だるげに画面をタップした。写真はわずかにぼやけ、物陰から盗撮したような角度で切り取られている。背景には、心愛が一人の男と並んで座っていた。男はすらりとした背中をこちらに向けているだけだが、その後ろ姿にはどこか見覚えがある気がした。葵がさらに詳しく確かめようとした、そのときだった。一本の電話が割り込んでくる。紘からだ。葵は、事がうまく運んだのだと早合点し、得意げな笑みを浮かべながら通話に出た。「片付いたの?」だが、スマートフォンから聞こえてきたのは成功の報告ではなく、紘の狼狽しきった声だった。「葵!大変だ!しくじった、バレたんだよ!」葵の顔から笑みが消え、ソファから勢いよく身を起こす。「何を言ってるの?そんなはずないわ!」「助けが来たんだ!正体不明の野郎だ!さらって間もないってのに、嗅ぎつけてきやがった!」紘の声は恐怖に震えていた。「おまけに俺の正体まで知ってやがる。いきなり名前を呼びやがって……あの気迫、ただ者じゃねえ!」葵の顔色が一気に沈む。心愛のような役立たずに、そんなつながりがあるはずがない。「……今、どこにいるの?」葵の声は、むしろ不気味なほど冷静だった。「俺は……逃げた。今は……隣の県だ」「どこかに身を潜めて、しばらくは姿を見せないで。私にも連絡しないでちょうだい。これからのことは、私からの連絡を待ちなさい」断固とした命令を言い切ると同時に、葵は通話を切った。苛立ちをぶつけるようにスマホをソファへ投げ捨て、フェイスパックを乱暴に剥ぎ取る。――心愛、なんてしぶとい女なの。あんな状況から助け出されるなんて。思考に沈みかけたそのとき、寝室のドアが開き、貴臣が入ってきた。ビデオ会議を終えたばかりらしく、その表情にはわずかな疲労が滲んでいる。険しい顔をしている葵に気づいた彼は、歩み寄って肩を抱き寄せた。「どうした?誰からの電話だ。そんな顔をして」葵の瞳に一瞬、動揺がよぎる。だが彼女は問いに答えず、何かを思い出したようにスマホを手に取り、その写真を差し出した。「貴臣、これを見て」貴臣は訝しげにスマホを受け取る。画面には、心愛と一人の男の後ろ姿が映っていた。背中しか見えないにもかかわらず、仕立ての良い高級スーツと、松のように凛とした佇まいが、その男が並外れた地位にある人
Read more

第82話

空気には、張り詰めた焦燥が漂っていた。貴臣はネクタイを乱暴に緩めた。指先には力がこもり、関節が白く浮き上がる。頭の中はひどく混乱していた。――あいつ、よくも……!「貴臣、コーヒーでも飲んで落ち着いて」葵がテーブルの上のカップを差し出す。だが貴臣は彼女を見ることもなく、受け取ったコーヒーに口をつけることもなかった。その視線は、葵のスマホの画面に釘付けになったままだ。葵は慎重に彼の顔色をうかがいながら、無垢を装った声で言う。「貴臣、怒らないで。心愛さんは……ただ具合が悪くて、この男の人がたまたま支えてあげただけかもしれないわ。梨紗がどういうつもりで撮ったのかは知らないけれど、誤解を招くようなことをして……本当に困るわよね」葵が心愛をかばうように「説明」すればするほど、貴臣の胸の奥で燃え上がる怒りに油が注がれていく。支える、だと?男の懐に体ごと預ける必要があるのか?「あいつが男に寄りかかっている姿を見ろ」貴臣は、葵の言葉をなぞるように吐き捨てた。「家を出て数日で、あそこまで露骨になるとはな。家にいた頃は、あんな女じゃなかったはずだ」「心愛さんの熱烈な求婚者、という可能性もあるわね」葵はそれ以上は口にしなかったが、その一言一言が、的確に貴臣の急所を突いていた。そうだ。桐生家にいた頃の心愛は、猫のように従順で、いつも伏し目がちで、大声一つ上げることもなかった。それがどうだ。家を出た途端に羽を伸ばし、外で平然と男を漁っているというのか。「貴臣、私が一番心配しているのは、そこじゃないの」葵はため息をつき、憂いを帯びた表情を作る。「心愛さんは今でも『桐生グループの若奥様』という肩書きを背負っているわ。外であんな振る舞いをして、世間が桐生家を、そしてあなたをどう見ると思う?」貴臣の顔は、闇のように沈み込んでいた。心愛は自分の所有物だ。たとえ不要になり、捨てたとしても、他人に拾われていい道理などない。たとえ一日でも自分の妻である以上、彼女は自分のルールに従うべきなのだ。「心愛さん、忘れてしまったのかしら。自分にお祖母様がいるということを」葵の声はさらに低くなり、どこか冷ややかな誘いを帯びていく。「ずっと病院で意識不明のままだなんて、もしかしたら今の病院に問題があるのかもしれないわ……ねえ、もし心愛さ
Read more

第83話

「安心を買ったと思えばいいです」暁は報告書を丁寧に畳み、彼女に返した。「あなたは今や加賀見グループの社員です。来期のジュエリーデザインも任されているのでしょう。木村さんも、戻りを急かしているのではありませんか。ずいぶん時間をロスしましたからね」その事務的な物言いに、心愛は思わず愚痴をこぼした。「よく言いますわ。私が途中でくたばって、加賀見グループの顧問弁護士であるあなたの顔に泥を塗ったり、賠償金を払わされたりするのが怖いだけでしょ」暁はその言葉に、わずかに目を細めて笑った。「あなたがそう解釈するなら、それでも構いません」心愛がスマホに目を落とすと、SNSには理恵や碧から見舞いのメッセージが届いていた。「安心してください。私が休暇の手配をしておきました。あなたが拉致されたことは、誰も知りません」その言葉に、心愛は思わず息を呑む。暁の立ち回りの巧みさには驚かされる。でなければ、出勤した際にどう説明すればいいのか、見当もつかなかったはずだ。「……言っておきますが、ヌード写真の件を認めた影響は計り知れません。職場に戻れば、心ない噂も耳にするでしょう。耐えられますか」「そんなの、どうってことありません。SNSに投稿した時から、覚悟はできていますもの」「深水さんは、案外、図太いんですね」実際のところ、図太いわけではない。ただ、祖母を連れて別の街へ移り住めば、どんな噂が立とうと関係ないと考えているだけだ。新しい場所なら、誰も自分のことを知らないのだから。言葉を交わすうちに、拉致事件以来張り詰めていた心愛の緊張も、ようやくほどけていった。彼女は大きく息を吸い込み、軽やかな足取りで祖母の病室へ向かう。「行きましょう。おばあちゃんに会いに。私が無事だって伝えて、安心させてあげたいんです」心愛は病室のドアを押し開け、いつものように声をかけた。「おばあちゃん……」だが、病室はもぬけの殻だった。真っ白なシーツは隙なく整えられ、布団はきっちりと四角く畳まれている。ベッドサイドのテーブルにあったはずの、祖母が愛用していた古い水差しも老眼鏡も消えていた。部屋全体が、まるで最初から誰も住んでいなかったモデルルームのように整然としている。心愛の心臓が、どくん、と大きく跳ねた。「看護師さん!」彼女はナースステーションへ駆
Read more

第84話

「心愛、また何の真似だ。気でも触れたのか」「おばあちゃんはどこ?病室にいないの。どこに連れて行ったのよ!」心愛は電話越しに、貴臣へ向かって叫んだ。電話の向こうで、貴臣は本革のオフィスチェアに深く身を沈めていた。そういえば昨夜、葵に心愛の祖母を転院させるよう命じたことを思い出す。あの老婆だけが、心愛の感情を揺さぶることができる――それを彼はよく理解していた。「病院で一緒に検査を受けていたあの男は誰だ。先に答えろ」心愛ははっと息を呑んだ。まさか、貴臣がそんなことを問いただしてくるとは思ってもいなかった。この期に及んで、彼が気にしているのはそんなことなのか。「……あなたには関係ないわ」奥歯を噛み締め、地を這うような声で絞り出す。「私は約束を守って、あの写真は自分だって認めた。それなのに、どうしておばあちゃんを連れ去ったのよ」「質問に答えろ。病院にいた男は誰だ」貴臣の口調は、あくまでも平静を保っていた。心愛の感情が激しく揺れ動く。「関係ないって言ってるでしょう!あなたこそ、散々葵と一緒に人前に現れておきながら、桐生グループの名声なんてこれっぽっちも気にしていなかったじゃない!」「そうか。俺には関係ないか」貴臣は低く笑った。その声音には、冷え切った響きが混じっている。「なら、二度とあの老婆には会えないと思え」心愛は言葉を失った。――この男は、どうしてここまで残酷になれるのか。祖母が自分の唯一の弱点だと知りながら、最も卑劣なやり方で自分を操ろうとしている。心愛は目を閉じ、溢れかけた熱い涙を無理やり押し戻した。今は感情に呑まれている場合ではない。祖母の体は、すでに限界に近いのだ。心愛はすぐに冷静さを取り戻した。「……宇佐美紘に拉致されたの」感情を一切排し、まるで他人事のように淡々と事実を告げる。「あの人は加賀見グループの顧問弁護士よ。たまたま通りかかって、私を助けてくれただけ」心愛は説明した。自分のプライドを捨て、ただ貴臣が祖母の居場所を教えてくれることだけを願い、精一杯の譲歩を見せた。だがその歩み寄りは、貴臣の耳には体裁を取り繕った挑発として響いた。――加賀見グループの顧問弁護士だと?心愛が加賀見本社に入社して、まだどれほど経つというのか。それなのに、すでに加賀見の人間と深く関わ
Read more

第85話

「貴臣、あなた、どうしてそんなふうになってしまったの」心愛は乱れた髪をそっとかき上げた。「前からグランヴィラに戻れと言っているだろう。お前は今でも桐生家の若奥様だ。自分の立場を忘れたのか」隣にいた暁が、少し退屈そうに煙草を吸いに行くと合図を送る。心愛は小さく頷き、電話の向こうへと言い放った。「あの写真は、自分だと認めることもできれば、否定することだってできるのよ」貴臣は、心愛が自暴自棄になりかけているのを察したのか、すぐに言葉を重ねた。「俺の前で跪いて乞い、素直に家に戻るなら、おばあさんの身の安全は保証してやる」その卑劣な言い分に、心愛は心の底から吐き気を覚えた。これ以上、彼の戯言に付き合うつもりはない。そのまま通話を切る。電話は唐突に遮断され、貴臣の顔色は一瞬にしてどす黒く沈んだ。スマホを握る指の関節が、過剰な力によって青白く浮き上がる。――俺の電話を切っただと?あいつが、よくも……!一方で、心愛はスマホを置くと、全身の力が一気に抜け落ちたように壁へともたれかかった。薄い衣服越しに伝わる壁の冷たさが、胸の奥に広がる凍てついた感覚をいっそう際立たせる。少し離れた場所に立っていた暁が、手元で煙草の火を消した。会話の内容までは聞こえなかったが、彼は心愛の表情の変化をすべて見ていた。祖母が彼女にとってどれほどかけがえのない存在かも、理解している。暁は歩み寄ったが、安易な慰めの言葉は口にしなかった。「おばあさんが、あなたにとって大切な人だということは分かっています」心愛はゆっくりと顔を上げる。充血した瞳で暁を見つめるその眼差しは、どこか空虚だった。「私が探してやります。あなたを見つけ出せたのですから、おばあさんを見つけることくらい、造作もありません」暁の声は落ち着いており、不思議と人を安心させる力を帯びていた。「おばあさんの写真はありますか。私は顔が広い。すぐに見つけ出せるはずです」心愛の唇がかすかに震え、瞳に一瞬だけ光が宿る。しかしそれもすぐに陰り、彼女はまつげを伏せ、消え入るような声で言った。「……あなたには、もう返しきれないほどの恩がありますわ」行き倒れた自分を助けてくれたこと。暁の家で目覚めたこと。加賀見グループに入社したこと――何度も、何度も救われてきた。その恩はあまりに重く、息が詰ま
Read more

第86話

二人は疲れ切った体を引きずるようにして、ようやく家へと戻った。「何か食べるものはありますか。腹が減って死にそうです」暁は勝手知ったる様子で靴を脱ぎ捨てると、そのままソファに深く腰を沈め、気の抜けた声で尋ねた。「うどんを作りますわ。それを食べて、早く休みましょう。私のためにあちこち駆け回らせて、疲れさせてしまいましたわね」拉致という災難の直後で、心愛には手の込んだ料理を作る気力は残っていなかった。そう言い残し、彼女は台所へと向かう。家の中は静まり返り、流れる水音と、食器の触れ合うかすかな響きだけが空間を満たしていた。立ち上る湯気が、心愛の清らかな横顔を淡く曇らせる。心愛は手慣れた手つきで冷蔵庫から卵を二つ取り出し、落とし卵を作った。そのうち一つは、白身が黄身をやさしく包み込むようにフライ返しで形を整え、黄身が固まりきる寸前を見極めてすくい上げる。そして、そっと片方の器に添えた。それは、暁のための半熟卵だった。澄んだ出汁に、数本の青菜と落とし卵。小さな食卓に並べられた二つの器へ、仕上げに刻みネギが散らされる。暁は自分の器の中で、ぷるりと揺れる丸い半熟卵を見つめ、胸の奥に温かなものが静かに広がっていくのを感じた。箸を取り、勢いよく食べ始める。「……ありがとうございます」低くこぼれたその言葉に、心愛は顔を上げることなく、小さく「ええ」とだけ応じた。そして一筋のうどんを啜り、そのまま黙々と食事を続ける。静かな時間が流れた。暁が器を空にして箸を置いたとき、ようやく心愛がほとんど手をつけていないことに気づいた。彼女はただ箸を動かし、上の空で麺を弄んでいるだけだった。「宇佐美に捕まっていた間、何か食べさせられたんですか?どうして腹が減っていないんです?」暁の問いに、心愛はゆっくりと首を横に振る。「加賀見さん」「何ですか?」「……どうして、私にそんなに優しくしてくださるんですか?」あまりにも直截な問いに、暁がコップへと伸ばしかけた手を止めた。心愛は逃げ道を与えないように、独り言のように言葉を重ねる。「考えてみたんです。最初は、桐生の本家の前で倒れていた私を、あなたが家へ運んでくださったことから始まって。加賀見グループへの入社、そして……ネットの騒ぎを抑えて、宇佐美の手から私を助け出してくださったことま
Read more

第87話

「深水さん?」「帰ってください。私は私です。誰かの身代わりになんて、絶対になりません」心愛の声は静かだったが、その言葉には、底の見えないほどの拒絶が込められていた。暁はその場に立ち尽くした。心愛がこれほど激しい反応を示すとは、まったく予想していなかったのだ。「……どうしたんですか?」「帰ってって言ってるんです!」心愛は不意に顔を上げた。瞳は瞬く間に赤く潤み、抑えきれない震えとともに、鋭い声が空気を裂く。「誰かの身代わりなんて、一番嫌いなんです!汚らわしい……!」三年間の結婚生活。心愛はずっと、葵の影の中で生きてきた。貴臣が自分を見つめるとき、その瞳に映っていたのは葵だった。抱きしめるとき、その胸の内で思い描かれていたのも、やはり葵だった。自分の存在意義は、ただ「葵に似ている」という一点にすべて収束していたのだ。ようやくあの泥沼から這い上がったというのに――今度は別の男が、自分に優しくする理由は、また別の「故人」に似ているからだと言うのか。ふざけないで。この私、深水心愛という人間は、ただ一人の人間として大切にされ、愛される資格すらないというの?「誤解です。あなたが思っているような意味じゃありません」暁はすぐに立ち上がり、必死に言葉を尽くそうとした。「じゃあ、どういう意味なんですか!」心愛は冷ややかな笑みを浮かべ、溢れそうな涙を必死に堪える。「その故人って誰?別れた元カノ?加賀見さん……あなたたちお金持ちは、みんなこういう遊びが好きなんですか?」その一言一言が鋭い棘となって相手に突き刺さり、同時に自分自身の心も深く切り裂いていく。暁は言葉を失った。どう説明すればいいのか。その「故人」が、長年行方不明となっている自分の妹だと?確証もないままそんなことを口にすれば、「忘れられない想い人」という説明よりも、さらに荒唐無稽に響いてしまうだろう。「おばあさんのことですが……」暁は話題を変え、なんとか心愛を落ち着かせようとする。「おばあちゃんは自分で探します!加賀見さんの手を煩わせる必要なんてありません!」心愛は叫ぶように言い放ち、必死に自分を保とうとした。「深水さん、冷静になってください!」暁は深く眉をひそめる。身代わりという言葉が心愛の逆鱗に触れ、抑え込まれていた感情を一
Read more

第88話

翌朝、心愛のスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。彼女はひどく苦労しながら、ようやく片目を細く開ける。カーテンの隙間から差し込む光が網膜を刺し、あまりの眩しさに慌てて再び目を閉じた。ついさっき眠りに落ちたばかりのような気がするのに、もう夜は明けてしまっている。枕元でスマホがなおも震え続けている。心愛は手探りで画面をスライドさせ、かすれた声で応じた。「深水さん?ちょっと、まだ寝ているんですか?」電話の向こうから、碧の声が飛んできた。「もうすぐお昼ですよ」まだ寝ている?心愛の思考は鈍く回り始め、やがて昨夜、暁と口論したことを思い出す。そして、彼のあの言葉が再び脳裏に蘇る。――あなたが、ある故人に似ているからです。故人、か。心に「忘れられない誰か」を抱えながら、それでも自分にあれほどの優しさを向けていたというのか。やっていることは、貴臣と何も変わらないではないか。心愛の喉の奥に、苦く酸っぱいものが込み上げた。どうして、ありきたりなドラマの中でしか見ないような泥沼が、こうも次々と現実として降りかかってくるのか理解に苦しむ。貴臣に葵の身代わりにされ、三年間も屈辱を味わわされた。それだけでも十分に異常だった。ようやくその泥濘から抜け出し、かすかな光を見出したと思った矢先、手を差し伸べてくれたその人は、ただ「故人」に似ているから助けただけだと言う。では、自分は何なのか。その「故人」たちを引き立てるための、ただの書き割りに過ぎないというのか。荒唐無稽だ。思わず笑えてくる。昨夜、心愛はほとんど一睡もできなかった。漆黒から灰色へ、やがて白んでいく天井を、ただ目を開けたまま見つめ続けていた。意識がようやく溶けるように途切れたとき、深い眠りに落ちたのだ。「深水さん?深水さんってば。まさかまた寝ちゃったわけじゃないですよね」碧の声に呼び戻され、心愛ははっとして現実へ引き戻された。意識がわずかに澄む。「……ううん、聞いてます。どうしたんですか」「木村部長から伝言です。今日から仕事に戻ってきなさいって」碧の声はどこか弾んでいた。「深水さんの席はそのままですし、荷物も誰も触ってませんから」出勤?心愛は無意識に眉をひそめる。あの写真の件はまだネットに晒されたままだし、つい
Read more

第89話

【桐生貴臣は前に、わざわざ奥さんに釈明動画を投稿させていたよな。今頃、面目丸潰れじゃないか?目が節穴なだけじゃなく、心まで腐っているのかよ】【奥さんが気の毒でならない。あんなクズな二人組に捕まるなんて、前世でどんな業を背負っていたんだか】【今のネット民、何でも特定してしまうんだな】心愛はそれらのコメントを眺めていたが、胸の内に晴れやかな快感は微塵も湧かなかった。ちょうどその時、画面の上端に着信通知が飛び込んできた。貴臣からの電話だった。「あの女、本当に最低ですよね。深水さん、どうしてちゃんと確かめもしないで声明なんて出したんですか」心愛はトレンドのページを閉じ、電話の向こうでなおも話し続ける碧に対し、落ち着き払った声で応じた。「高橋さん、分かりましたわ。午後から会社に向かいます」通話を切ると、彼女は深く息を吸い込み、貴臣からの着信に応答した。繋がった瞬間、抑えきれない怒りを孕んだ詰問が飛んでくる。「ネットのニュースはどういうことだ!心愛!」一言一言に、激しい疑念と苛立ちが滲んでいた。心愛はスマホをわずかに耳から離し、淡々とした口調で返す。「……さあ。私も今、ニュースを見たばかりよ」「お前じゃなければ誰だ!心愛、とぼけるのもいい加減にしろ!」「とぼける?」心愛は口元にわずかな冷笑を浮かべた。「貴臣、忘れたの?釈明動画を投稿したのは私よ。あなたの指示通り、一言一句違わずにね。正体が特定されたのは、葵自身のせい。あの人、写真をSNSに上げるのが趣味でしょう?自分のスタイルの良さを見せつけたくて仕方がないのよ」電話の向こうに、重苦しい沈黙が落ちた。荒い鼻息だけが、不穏に響く。数秒後、何かに思い至ったのか、貴臣はさらに陰湿な声を絞り出した。「お前じゃないなら……昨日、病院にいたあの男の仕業か!」あの男、暁。昨夜の言い争いが、鮮明に蘇る。「あなたが、ある故人に似ているからです」――その言葉が、耳の奥で繰り返し響いた。自嘲と名もなき怒りが、胸の奥で静かにせめぎ合う。「私を買いかぶりすぎよ」心愛は皮肉を込めて言った。「あれはただの同僚。ネットの世論を動かすような、そんな大それた力なんてないわ」「調べてやる……もし嘘だったら承知せんぞ!だが、今はどうすればいい。葵は今ここにいるが、法律事務
Read more

第90話

「もしもし?おい!」一方、心愛に通話を断たれた貴臣は、スマートフォンを机へ叩きつけ、忌々しげに吐き捨てた。「あいつ……俺の電話を切りやがったな!」口では怒りをあらわにしながらも、胸の奥に広がるざわめきは、むしろいっそう強まっていく。心愛はもはや、かつての従順な女ではない。以前なら祖母を盾に脅せば、どんな要求にも従った。だが今の彼女は、貴臣が祖母に手出しできないことを見透かしているかのように、奔放に振る舞っている。傍らでは、葵が電話を切られた貴臣の様子を窺い、その怒りを敏感に感じ取っていた。葵の嗚咽はなおも続いている。ひっく、ひっくと、か細く震えながら。「……もう泣くな」ようやく貴臣が口を開いた。顔を向けると、涙に濡れた葵を見つめる。そのか弱い姿に、怒りの半分は霧散していった。「今回の件は、確かにあいつのせいとは言い切れん」貴臣は淡々と続ける。「動画を特定したのはネットの連中だ。あいつは関係ない」葵の泣き声がぴたりと止まった。信じられないものを見るように顔を上げ、涙で崩れた顔のまま貴臣を見つめる。精巧だった化粧は無残に崩れ、どこか痛々しい印象を与えていた。「関係ない?」葵は、あまりにも突飛な冗談を聞かされたかのように声を張り上げた。「貴臣、そんな偶然あるわけないじゃない!昨日、心愛さんは祖母が転院させられたことを知ったのよ。それで『約束は果たした』って、あの写真を盾にあなたを脅したの……今の彼女なら、ネットの特定班を雇うくらい、やりかねないわ!」葵は机に手をついて立ち上がり、貴臣の前へ一歩、また一歩と詰め寄った。「今、私の法律事務所の入り口にも、マンションの下にも、記者が群がっているのよ!仕事にも行けない!キャリアも、名誉も、全部台無しだわ!……私、これからどうすればいいの!」貴臣は葵を見つめたが、無意識に眉間へ深い皺が刻まれていた。胸の奥からこみ上げる苛立ちに、呼吸がわずかに詰まる。彼は煙草を一本取り出して口にくわえ、ライターを「カチリ」と鳴らして火をつけた。白い煙が唇からゆらりと溢れ、冷えた横顔の輪郭を曖昧に滲ませる。「貴臣、お願い……もう一度助けて」貴臣が沈黙しているのを見て、葵は態度を低くした。袖を掴み、縋るような声で訴える。「私を助けられるのは、あなただけなの。中傷の投稿を全部削
Read more
PREV
1
...
5678910
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status