All Chapters of 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話

その先の言葉を貴臣が口にするより早く、心愛はすべてを悟っていた。なるほど――これが「偏愛」というものか。貴臣は、人を愛することのできる男だったのだ。「……つまり、あの写真に写っているのは自分だと認めろ、ということ?」心愛は彼を見つめた。その声には、自分でも気づかぬほどの、現実味を欠いた乾いた笑いが滲んでいた。隣に座る葵は、緊張のあまり指をきつく握りしめ、呼吸さえ浅くなっている。心愛の顔を見る勇気すらないようだった。貴臣は否定しなかった。ただ、いまの心愛の眼差しに、どこか異様な攻撃性を感じ取り、視線を逸らしてテーブルのコーヒーカップへと目を落とした。「認めてくれさえすれば、お前の祖母の今後の治療費はすべて俺が負担する。最高の病院と、最高の医師を用意しよう」一拍置き、彼は続ける。「それとは別に、六千万円を支払う」六千万円。それに、祖母の医療費。それは紛れもなく、一つの「取引」だった。祖母がいつまで意識不明のままなのかは分からない。自分には金がない。弟の俊輔の事件を再審請求し、弁護士を雇い、各所に働きかけるにも、やはり資金が足りない。ここで激昂し、その場を立ち去るのが当然の反応だろう。だが、心愛はそうしなかった。尊厳?面目?祖母と俊輔のことに比べれば、そんなものは取るに足らない。心愛は冷静に算盤を弾き始めていた。この金さえ手に入れば、離婚協議書も効力を持つ。そうなれば祖母を連れて国外へ出て、誰も自分たちを知らない場所へ行ける。そこにはヌード写真の噂も、殺人犯の姉という烙印も存在しない。この取引は、案外……割に合う。その考えが浮かんだ瞬間、心愛自身が愕然とした。自分は、ここまで追い詰められていたのかと。貴臣の顔を見ていると、急に滑稽に思えてくる。三年間、この男を愛し、塵にまみれるほど卑屈に尽くしてきた――その果てがこれだ。彼は金で自分の名声を買い、別の女の進む道を舗装しようとしている。それでもいい。この三年の青春に対する、せめてもの手切れ金だと思えばいい。沈黙が三人のあいだに広がり、一秒が一世紀のように長く引き延ばされていく。貴臣はいら立ち始めていた。心愛がわざと答えを引き延ばしているのだと感じたからだ。一方で、葵の心臓は今にも口から飛び出しそうだった。心愛の口から「拒絶」の言葉
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第72話

心愛はバス停に立ち、やってくる車を待っていた。湿り気を帯びた風が薄い襟元から忍び込み、彼女は身をすくめて襟をかき合わせる。そのとき、貴臣の車が目の前を猛スピードで通り過ぎていくのが見えた。助手席に座る葵と、ふと視線が合った気がした。彼女の瞳に宿る嘲りを、心愛ははっきりと見て取る。なんと滑稽なことだろう。心愛はゆっくりと背を向け、ちょうど後ろからやってきたバスに乗り込んだ。マンションの階段のセンサーライトは壊れていた。暗がりの中、手探りで鍵を取り出すが、手は激しく震え、何度も鍵穴を外してしまう。ガチャリ――ようやくドアが開いた。部屋の中は死んだように静まり返り、明かりもついていない。心愛はふらりとソファまで歩み寄ると、そのまま崩れ落ちるように身を沈めた。手にはまだスマホが握られている。画面には、葵から送られてきた口座番号と、簡潔なメッセージが表示されていた。【取引成立ね】おばあちゃん……これでやっと、お金の心配をせずに、あなたを連れて遠くへ行ける。心愛は無表情のまま、並んだ「0」の羅列を見つめ、貴臣との約束を思い出す。トレンドの「#明石葵 流出画像」というワードはすでに削除されていたが、タイムラインには野次馬たちのスクリーンショットや議論の残り火がなお燻っていた。心愛は自分のSNSの投稿画面を開き、キーボードの上で指を止めたまま、長い時間動けずにいた。頭の中は、空っぽだった。スマホの光だけが、暗闇の中で彼女の顔を青白く照らしている。【掲載されている写真は私です。明石さんは関係ありません。このたびは、私の軽率な行動により多くの方にご迷惑をおかけし、申し訳ございませんでした。今後はこのようなことのないよう、自覚を持って行動いたします。明石さんにこれ以上ご迷惑が及ばないよう、心よりお願い申し上げます】――送信。すべてを終え、スマホを放り出す。風に当たり続けたせいか、頭が重い。心愛はそのまま顔を埋めるようにして、眠りへと落ちていった。目が覚めると、スマホが狂ったように振動していた。暗闇の中で、画面が断続的に点滅している。清夏から、暁から、そして無数の見知らぬ番号から。通知音が途切れることなく鳴り響く。【心愛!正気なの!?自分が何をしたか分かってるの!?】【深水さん、電話に出
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第73話

暁はあまりの怒りに、皮肉めいた笑いを漏らし、口元を歪めた。「金?いくらです?いくら払えば、そんな真似ができるんです?」一歩踏み出した彼の長身が、瞬時に心愛を覆い尽くす。凄まじい圧迫感が押し寄せた。「私が昨日、どれほどの労力を費やしてトレンドを抑え込ませたか、分かっているんですか。どれだけのコネを使い、どれだけ奔走したか……それを何です、あなたは自分からさらに大きな醜聞をばら撒いたと?深水さん、その頭には一体何が詰まっているんですか」彼の詰問は連射のように、容赦なく心愛の胸を撃ち抜く。「天下の桐生グループの社長夫人が、金のためにあんなことを認めるとはな」暁の言葉が、心愛の急所を正確に突いた。「……ごめんなさい。会社に迷惑をかけました。私……辞職します」その言葉が口をついた瞬間、暁の表情は完全に凍りついた。「辞職?辞職すればすべてが解決するとでも思っているんですか。デザイナーになる夢はどうしたんです。あれほど必死に努力してきたのに、たかが金のためにすべてを捨てるというのですか」暁は言葉で彼女を断罪し続ける。「金に困っているなら貸してやります。いくら必要なんです?」そう言うや否や、彼はバッグから小切手帳を取り出し、金額を書き込もうとした。「いりません。あなたの助けは受けられません」激昂する彼を前にしても、心愛は淡々と言い放った。そこに、一線を引くように。「……いいでしょう。勝手にしなさい」暁はそれ以上何も言わなかった。ただ一度、心愛をじっと見つめる。その瞳には、彼女には読み解けないほど複雑な感情が渦巻いていた。やがて彼はきびすを返し、荒々しい足取りで去っていく。バンッ――!凄まじい音が響き、建物全体が震えたかのように錯覚する。力任せに閉められたドアの音が、重たい静寂を連れてきた。心愛はドアに背を預けたまま、ずるずると床に崩れ落ちる。今度はもう、涙を堪えることができなかった。大粒の雫が、音もなく床へと落ちていく。……一方、桐生家の別荘。葵はブランケットに身を包み、ソファに腰掛けながら、優子が温めてくれたミルクを手にしていた。貴臣は彼女を落ち着かせると、緊急の案件を処理するため、そのまま会社へ向かった。そこへ梨紗がやって来て、隣に腰を下ろすと、スマホでSNSをチェックし
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第74話

梨紗が去ったあと、葵は画面に表示されたトレンドトピック――「#深水心愛 写真の人物は私」というハッシュタグを見つめ、唇の端を氷のように冷たく歪めた。かつての謝罪動画は、貴臣に半ば強引に撮らされたものだった。だが今回、この件を再びトレンドの頂点へと押し上げたのは、他でもない彼女自身が裏で手を回した結果である。目的はただ一つ。心愛の最後の面目を踏みにじり、粉々に砕くこと。自分が留学しているあいだに貴臣と結婚した、その代償を思い知らせるためだ。再びトレンドを席巻したことで、世間は皆、「桐生家の奥様はヌード写真を撮るような恥知らずな女だ」と認識することになる。桐生家は何よりも体面を重んじる。雅子も、これではもはや心愛を許すはずがない。葵はトレンド画面を閉じると、ある番号を探し出し、発信した。長く続く呼び出し音ののち、紘のどこか卑屈で脂ぎった笑い声が受話口から流れ込んできた。「おや、敏腕弁護士の明石先生じゃないか。どうして俺なんかに電話を?もう連絡しないって言ってたはずだろ」「紘」葵の声が、ふっと柔らかくなる。「この前のは、ただの強がりよ。ペンダント、見たわ。さすが、あなたが手配してくれた修復師ね。見事な仕上がりだったわ」「そりゃそうだ。お前に頼まれたことで、俺がしくじったことなんてあったか?」紘は鼻を鳴らし、得意げに言ったが、すぐに声音を変えた。「それよりさ、ネットに出回ってるあの写真……本当はお前なんだろ?へへっ、なかなかいい体してるじゃないか」葵の表情が、一瞬で険しくなる。「軽々しく口にしないで」葵は冷ややかに言い放った。「心愛本人が認めた以上、あれはあいつよ。これ以上余計なことを口にすれば、災いは自分に跳ね返ってくるわよ」葵は、紘という男の本性をよく知っていた。酒と女に溺れた無能で、頭の中は卑猥な欲望で満たされている。電話の向こうが一瞬静まり、やがて紘の下卑た笑い声が再び響いた。「はいはい、お前の言う通りにしとくよ。でも正直なところ、あの心愛って女……確かにそそるよな。あの冷たそうな顔が、ベッドの上じゃどうなるのか……」葵の瞳に、鋭い光が走った。――獲物がかかった。「あら?彼女に興味があるの?」葵はわざと間を引き延ばすように言った。「へっ、興味があったってどうにもならねえよ。あれは桐生貴臣
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第75話

葵はソファにスマホを放り出した。紘の女遊びのえげつなさは、嫌というほど知っている。彼に目をつけられて無事に済んだ女はほとんどいない。中には命を落とした者さえいたが、そのたびに宇佐美家が金で揉み消してきたのだ。心愛が死ねば、人殺しの紘は全国に指名手配されることになる。まさに一石二鳥。葵の口元が、冷酷に吊り上がった。……プルルルル――心愛は驚き、肩をびくりと震わせた。画面に表示されているのは、桐生家本家の番号だった。一瞬ためらいながらも、彼女は通話ボタンを押す。「もしもし」「心愛!」電話の向こうから、雅子の怒声が鋭く響いた。「よくもまあ、平気な顔で電話に出られたものね!」心愛はスマホを握る指に、ぐっと力を込める。「おばあさま……」「おばあさまと呼ぶな!あなたのような役立たずの孫嫁を持った覚えはないわ!ネットの件は見たわよ。自分の夫ひとり繋ぎ止めておけないくせに、よくもまあ、自分から進んで汚名を被ったものね!桐生家の面目は丸潰れよ!」心愛は、ただ沈黙を守った。雅子はすべてを知っている。写真に写っているのが本当は誰なのかも。それでも彼女が叱責しているのは、騒ぎを引き起こした葵ではなく、身代わりとなった自分だった。桐生家にとって、自分という存在がどれほど無価値であるか――それを改めて突きつけられた気がした。やがて雅子は罵倒に疲れたのか、荒い息を吐きながら命じる。「今すぐ貴臣を連れて本家に来なさい!あの子がどこの誰に惑わされているのか、この目で確かめてやるわ!」本家へ行く。前回、貴臣を誘って帰ったとき、彼は葵のために自分を置き去りにし、自分はひとりで半日も雑巾がけをさせられた。「……分かりました、おばあさま」彼女はおとなしく返事をした。一度、貴臣とのチャット画面を開き、そしてそのままスマホを閉じる。誘おうが誘うまいが、結果は同じだ。桐生家で罰せられるのは、いつだって自分なのだから。本家に足を踏み入れた、その瞬間――「貴臣はどうした?」雅子の冷ややかな声が、すぐさま飛んできた。「彼は……会社にいます」心愛はうつむいたまま答える。「役立たずめ!」雅子は手にしていた数珠を、机に叩きつけた。心愛は目を伏せ、長い睫毛で瞳の奥の感情をすべて覆い隠す。「葵を見なさい。戻ってきて
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第76話

夕食の時間が近づき、桐生家の茶の間には柔らかな灯りがともされた。食卓には豪奢な料理が並び、雅子と千恵が席に着いている。貴臣は今日も帰らないらしい。心愛は、なおも居間に正座したままだった。「心愛、もういいわ。立って、何か食べてから帰りなさい」いたたまれない様子で千恵が声をかけ、手を貸そうと立ち上がる。しかし、その動きを遮るように、雅子が銀の箸で茶碗の縁を鋭く打ち鳴らした。視線すら上げぬまま、冷ややかに言い放つ。「自分の男の心ひとつ繋ぎ止めておけず、あんな屈辱を受け入れてくるなんて。桐生家に、そんな役立たずを養う余裕はありません。食事など結構。さっさと帰りなさい」千恵の手は空中で止まり、顔色を変えながら気まずそうに引っ込められた。心愛は両手をぎゅっと握りしめる。貴臣は、桐生家が育てた息子でしょうに。それさえ私のせいにするなんて――自嘲気味に口元を歪め、かすかな笑みを浮かべる。「結構です、お義母さん。失礼します」そう言い残すと、心愛は未練を一片も残さぬように背を向けた。夜風は冷たく、頬に刺さるようだった。薄い上着をきつくかき合わせながら、心愛は大通りへと歩き出す。タクシーを拾うには、しばらく歩かなければならない。頭の中は空虚で、ただこれからの計画だけが浮かんでは消える。それだけが、今の自分にとって意味を持つものだった。街灯の途切れた暗い道に差しかかった、そのとき――後頭部に、凄まじい衝撃が走った。視界が一瞬で闇に閉ざされる。声を上げる暇もなく、心愛の体から力が抜けていった。意識が、深い闇へと沈み込んでいく。……どれほどの時間が過ぎたのか。意識が、暗い淵の底からゆっくりと浮かび上がる。――うるさい。目は布で覆われ、辺りは完全な闇に閉ざされていた。手首は縄で固く縛られ、擦れた皮膚が焼けるように痛む。湿った空気には、カビ臭さが混じっている。ここは……どこ……?身をよじった瞬間、全身を走る激痛に思わず息を呑んだ。拉致されたのだ。その事実に気づいた瞬間、血の気が一気に引いていく。「お目覚めか?」男の声が響いた。どこか軽薄さを含んだ響き。この声――!心愛の体が強張る。宇佐美紘だ。俊輔を陥れ、刑務所送りにした張本人。「俺のこと、覚えてるみたいだ
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第77話

貴臣の存在は、心愛にとって最後の命綱だった。たとえそれが、当の本人でさえ信じきれないほど頼りないものだとしても。「はっ」紘は、とんでもない冗談でも聞いたかのように噴き出した。「桐生貴臣の妻?まさか忘れたのか?お前なんか、とっくに桐生の家を追い出された身だろう。今さらその名前を出して、俺をビビらせるつもりか」最後の希望が、無情にも打ち砕かれる。心愛の顔から、さっと血の気が引いた。「どうしてそれを……?」「そりゃあな、物好きな誰かさんが教えてくれたのさ」紘は手をこすり合わせ、その瞳に卑猥な光を宿す。「まあいい。俺はもう待ちきれないんだ」言い終わるや否や、紘は心愛に飛びかかった。「やめて!どいて!……その『誰かさん』って、誰なの!」心愛は悲鳴を上げ、必死に身をよじって後退する。手首に食い込む縄が皮膚を裂き、じわりと血が滲んだ。紘は彼女に蹴りを入れられたが、怒るどころか、むしろ愉しげに笑みを深める。本来であれば、葵の指示通り、心愛を遠くの街へ連れ去るはずだった。だが今の彼には、もはやそんな余裕はなかった。「今さら聖女ぶるなよ」紘は驚くべき怪力で心愛の足首を掴み上げた。「ネットに自分のヌード写真をさらして注目を集めるような女が、俺の前で清純を装う気か?」ヌード写真――?抗っていた心愛の動きが、ぴたりと止まる。頭の奥で、何かが弾けるような音がした。違う――!稲妻のように、一つの可能性が脳裏を貫いた。「……あれは葵よ!」心愛は叫ぶように声を張り上げた。「写真に写っているのは葵!私じゃない!」はっきりと覚えている。あの写真は髪に隠れて顔こそ判別しづらかったが、今、紘の口から出た言葉で確信に変わった。「私なわけないわ。あの謝罪投稿だって無理やりやらされたものよ。あの写真の主は間違いなく葵!本当よ。今すぐ写真を出して見比べて。彼女の肩には赤い痣がある――確認して。そうしないと、後悔することになるわよ」紘は一瞬ひるんだが、すぐに鼻で笑った。そして心愛の顎を掴み、無理やり顔を上げさせる。「ふざけるな。葵本人がはっきり否定したんだよ。あれは彼女じゃない、お前だってな」その言葉は、雷鳴のように心愛の脳裏を打ち抜いた。葵が自ら否定した。紘に対して。つまり、二人は繋がっている
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第78話

倉庫の重厚な鉄扉が、外側からの凄まじい衝撃によって蹴破られた。「ゴンッ」という、心臓の奥まで響くような鈍い重低音が静寂を切り裂く。全身を震わせながら顔を上げた心愛の視界に、こちらへとひた走る一筋の人影が映り込んだ。桐生邸を後にして間もなく起きた拉致事件など、一体誰が知り得るというのか。……貴臣だろうか。一瞬、そんな淡い期待が脳裏をよぎるが、彼女はすぐさまそれを自嘲気味に振り払った。いや、来るはずがない。彼は今頃、あの葵に寄り添っているはずなのだから。傍らまで辿り着いたその男の、凛然とした顔立ちを間近に捉えた。暁だった。痺れた体を辛うじて動かそうとした心愛だったが、あまりの意外さに、喉が張り付いたように言葉を失った。窮地を救いに現れたのが、まさか彼であったとは。紘にしても、不意の乱入者は想定外だったのだろう。ナイフを握る手に力を込め、剥き出しの敵意を怒号に変えて吐き捨てた。「てめえ、どこのどいつだ!余計な首を突っ込みやがって!」暁は無言を貫き、冷徹な双眸で紘を見下ろした。その視線は相手を透過するように通り抜け、壁際でうずくまる心愛へと注がれる。拘束され、顔色は蒼白だが、その瞳にはまだ確かな生の色が宿っている。それを確認すると、暁は再び視線を紘へと戻した。「宇佐美紘?」暁が静かに口を開く。低く抑えられたその声は、倉庫の隅々にまで明晰に響き渡った。紘は一瞬、呆気に取られて立ち尽くした。なぜこの男が自分の名を知っているのか。彼はすぐさま顔を歪ませ、凶悪な表情を貼り付けた。「俺の名前を気安く呼ぶんじゃねえ。一人で乗り込んできやがって……ちょうどいい、あいつと一緒にあの世へ送ってやるよ」「宇佐美家の御曹司、か」暁の口調は、凪のように静かだった。「早くに両親を事故で亡くし、宇佐美家唯一の血脈となったお前を、当主は掌中の珠として慈しんで育ててきた。この数年、お前が繰り返してきた度重なる不始末を、当主は老骨に鞭打って揉み消し続けてきたわけだ」紘の顔から、不遜な笑みがじわりと剥がれ落ちていく。「脅してんじゃねえぞ。てめえ、一体何者だ!」家柄を考えれば、社交界に身を置く者なら聞き及んでいる話かもしれない。だが、本人の目の前でこれほど露骨に突きつける不届き者は存在しない。誰もが多かれ少なかれ、宇佐美の当
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第79話

紘は心愛を視界に捉えると、なおも手にしたナイフで彼女を脅そうとした。「宇佐美家のすべてを、お前の手で破滅させたいなら――好きにしろ」暁が放ったその一言に、紘の足がぴたりと止まる。床にへたり込む心愛を一瞥したあと、傍らに立つ暁を睨み据えた紘の瞳に、どす黒い悪意が走った。次の瞬間、彼は猛然とナイフを暁めがけて投げつけ、そのまま脱兎のごとく倉庫の反対側にある壊れた窓へと駆け出した。暁はわずかに身をかわす。ナイフは「カラン」と虚しく音を立てて床に転がり、彼の衣の端に触れることさえなかった。だが、暁は追おうとはしなかった。そのまま、心愛へと視線を向ける。「……どうして追わないんですか?」紘は俊輔の事件に深く関わっている。逃がすわけにはいかないはずだ。そのとき、遠くからサイレンの音が響き渡り、暁の低く落ち着いた声が静かに重なった。「逃げられはしません。ここへ来る途中で通報しておきました」暁は心愛の前に歩み寄ると、膝をつき、彼女の手首を縛る縄を解き始めた。白い肌には、縄が食い込んだ跡がくっきりと残り、青あざが浮かんでいる。幾重にも巻かれた縄がほどかれていくにつれ、痺れていた手首がようやく自由を取り戻した。「動かないでください」低く制する声に、心愛は息を呑む。目の前の端正な顔を見つめた。その表情はかつてないほど険しく、圧倒的な威圧感と支配者めいた気配が周囲を支配している。思わず舌を噛みそうになるほど、張り詰めた緊張が走った。「な、何するの……?」整った顔がさらに近づく。その凍てつくような気迫に、心臓がきゅっと縮み上がる。「足の縄がまだ解けていません。このまま歩いて出るつもりですか」心愛は思わず息を詰めた。「……どうして私がここにいると分かったのです?」この問いをぶつけないほど、自分は愚かではない。暁は一度立ち上がった。「約束したじゃないですか、毎日ご飯を作ってくれると。夜中になっても姿が見えないのですから、自分で探しに来るしかなかったんです」そう言いながら、暁は再び腰をかがめ、影を落として心愛の顔を覆う。その声音は、まるで氷の礫を含んでいるかのように冷たい。心愛は男を見上げた。「……本当のことを教えてください、加賀見さん」真剣な口調で問い詰める。「私が聞きたいのは
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第80話

「ああ、認めます。確かに、誰かに知らせてもらいました」「……私を尾行させていたのですか?」心愛の問いには、詰問にも似た鋭い疑念が滲んでいた。暁は視線を窓の外へと向ける。「あなたはメディアの前で、あの写真に写っていたのが自分だと認めた。ネット上でどれほどの非難や罵倒を浴びているか、分かっていないはずはないでしょう」その言葉に、心愛の胸の奥にくすぶっていた怒りが一気に燃え上がった。「それは私の勝手です。プライベートなことだって言ったはず――」言い返そうとしたその瞬間、暁の一言が鋭くそれを断ち切った。「あなたが、自暴自棄になるんじゃないかと思ったんです」あまりにも簡潔なその言葉は、冷水を浴びせられたかのように心愛の怒りを一瞬で鎮めた。残ったのは、戸惑いと、わずかな湿り気を帯びた視線だけだった。――私が、自暴自棄に?この人は……私が、自殺でもするんじゃないかって、心配してくれたの?言葉にならない温かな感情が、前触れもなく胸の奥から込み上げる。鼻の奥がつんと熱くなった。昨日の午後、暁がドアを叩きつけるようにして出て行ったのは、自分に愛想を尽かしたからでも、面倒になったからでもなく――ただ、心配だったからなのか。心愛は口を開きかけた。喉元まで込み上げた「余計なお世話よ」という刺々しい言葉は、結局、飲み込まれる。その代わりに、これまで何度も拒んできた「ありがとう」という言葉が、今にもこぼれ落ちそうになっていた。だが、その瞬間。暁の次の一言が、その感情を無情にも押し戻した。「それに、あなたは今でも加賀見グループの社員です。万が一あなたに何かあれば、会社が支払うべき賠償金は相当な額になる。ボディーガードを数人雇う方が、その補償に比べれば安上がりで合理的です」言い終えると、暁は横目でちらりと心愛を見た。心愛は完全に言葉を失った。――資本家め。心の中で何度も毒づく。この男の頭の中には、利益と契約条項以外に何もないのだろうか。それでも、不思議なことに、先ほど胸に灯った微かな温もりは消えず、しつこく残り続けていた。昨日、背を向けて去っていった暁の強張った背中と、今目の前にいる冷徹な「ビジネスマン」の顔。その対比を思い浮かべ、心愛はふと、胸の奥に小さな後ろめたさを覚えた。――私、誤解していたのか
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