All Chapters of ブロックした恋が、抱きしめてきたー冬空の告白、秋山真琴の選択ー: Chapter 21 - Chapter 30

105 Chapters

第21話  再会の夜

 それから、しばらく忙しく時間が過ぎた。  季節は静かに移り変わり、真琴の毎日は、相変わらず忙しさに追われていたが、その中で少しずつ、自分の足で立っているという感覚を取り戻しつつあった。 肩に入っていた力が、ほんの少しだけ抜ける。  それだけで、呼吸が楽になるのだと、最近ようやく気づいた。 そんなある週末。  久しぶりに、大崎から連絡が入った。『今夜、飲みに行かない?』 特別な意味はない、軽い誘い。  断る理由もなかった。 指定されたバーは洒落ていて、落ち着いた照明と心地よい音楽が流れていた。  グラスを傾けながら、仕事の話、昔の広告代理店時代の話、互いの近況。  会話は途切れず、笑い声もある。 それなのに――。(なんだろう……) 盛り上がっていないわけではない。  沈黙も気まずくない。  大崎は変わらず優しく、程よい距離感で接してくれる。 けれど、真琴の胸の奥には、言葉にできない空白が残っていた。 以前なら、この“安心”に、何も考えず身を預けていたかもしれない。  でも今は、それをどこかで拒んでいる自分がいる。「……そろそろ、帰ろっか」 自分でも驚くほど、あっさりと言葉が出た。「え、もう?」 「うん。明日ちょっと用事もあるし」 大崎は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつもの穏やかな笑顔に戻り、頷いた。「じゃあ、またな」 駅前で別れ、真琴は一人、夜の街を歩き出す。 明日、特に用事があるわけではなかった。ただ、大崎と別れる『理由』が欲しかっただけ。でもまだ家には帰りたくない。  気づけば、足は自然と、あの方向へ向かっていた。 ――Night Indigo。 ネオンサインが視界に入った瞬間、迷いは消えた。  今夜は、誰かと来る場所じゃない。 ドアを開けると、低く流れるジャズと、落ち着いた空気が迎えてくれる。  久しぶりの感覚に、胸の奥がじんわりと温かくなった。 カウンターへ向かおうとした、そのとき。  真琴は、ふと足を止めた。 ……見覚えのある背中。  姿勢がよく、どこか静かな存在感。 思わず、その隣の席に腰を下ろす。 その人物が、ゆっくりと顔を向けた。「……真琴?」 その声に、真琴は目を見開いた。「……慎一?」 そこにいたのは、旧友――後藤慎一だった。「すっごい久しぶりじゃん!」
last updateLast Updated : 2026-01-14
Read more

第22話

 慎一との久しぶりの再会に、真琴の心の堰は、少しずつ外れていった。  カウンター越しに流れるジャズの音色が、まるで背中を押すように、言葉を引き出していく。 楓の病院に勤めたこと。  最初は必死で食らいついていたこと。  新しい環境に慣れようと、毎朝早く家を出て、夜遅くまで残っていた日々。  周囲に迷惑をかけまいと、弱音を吐かずに踏ん張っていたこと。 けれど、少しずつ、呼吸が浅くなっていった。  笑顔を作るのがつらくなり、朝が来るのが怖くなり、気づけば心よりも体の方が先に限界を迎えていた。 簡単に諦めたように思われて、陽斗とはケンカばかりするようになり、結局振られてしまったこと。 そして……病院を辞めてしまったこと。  逃げたのではないか、と何度も自分を責めたこと。  その後の就職活動が、思うようにいかなかったこと。  面接を受けては落ち、期待しては裏切られ、やっと決まった別の病院に身を置いたこと。「広告代理店時代の友達、大崎慎也に助けられてさ。結局、元の職場に戻れたんだよね」 言葉は止まらなかった。  整理されていない思考のまま、次から次へと、胸の奥に溜め込んでいたものが溢れ出す。 慎一は、嫌な顔ひとつせず、グラスを手にしたまま、静かに頷く。「うん」 「それで?」 それだけでよかった。  話を遮られないこと。  評価されないこと。  「正解」を求められないこと。 否定もしない。  助言もしない。  ただ、そこにいる。 それが、今の真琴には、何よりありがたかった。  気づけば、肩に入っていた力が、少しずつ抜けていく。 一気に話し終えると、喉の渇きを覚えた。  真琴はカウンターの向こうにいる榊レンに向かって声をかける。「レンさん、もう一杯ください」 グラスを磨いていたレンが、静かに頷いた。  手際よく作られたカクテルが運ばれ、真琴はそれを受け取る。 一口含み、深く息をつく。  塩気と柑橘の酸味が、胸の奥まで染み渡る。「慎は慎でも、やっぱ、こっちの慎の方が居心地がいいわ~」 何気なく、冗談めかして言ったその言葉に、慎一は一瞬きょとんとした顔をしてから、声を上げて笑った。「なんだそれ!」 その笑い声に、真琴もつられて口元を緩める。  場の空気が、ふっと軽くなる。 そして、慎一はレンに向かって言
last updateLast Updated : 2026-01-15
Read more

第23話  静かな男の本音

 真琴がグラスに残った氷を見つめている間、慎一は、カウンター越しに流れるジャズに耳を傾けていた。グラスの中で溶けゆく氷は、時折小さく触れ合っては淡い音を立てる。その揺らぎを真琴が追うように見つめている横で、慎一は指先でロックグラスの脚を軽く支えながら、音楽を聞いているふりを続ける。低く甘いサックスの余韻が店内を満たし、ボトルの影と客の声が溶け合うこの場所は、どこか現実と距離がある。 音楽を聞いているふりをしながら、実際には、隣に座る真琴の横顔を、意識の端で捉えている。視線を向ければ気付かれてしまいそうで、慎一はあえて真正面を見つめる。だが彼の心は隣の輪郭をなぞっていた。 (変わったな……)と慎一は思う。胸に浮かんだ言葉は、氷の溶ける速度よりもゆっくりと広がっていく。 昔の真琴は、もっと勢いがあった。言いたいことを言い、迷いがあっても、それを冗談に変えて笑い飛ばすタイプだった。慎一の記憶の中で、彼女は声も歩幅も大きく、迷う姿すら周囲を巻き込むエネルギーに変えてしまう人だった。だが今の真琴は、少し違う。強がりの奥に、迷いが透けて見える。まるで照明に薄く滲むグラスの輪郭のように、はっきりしないのに確実にそこにある。 それでも必死に前を向こうとしている、その姿が――なぜか胸に引っかかった。慎一は自分でも理由を説明できないまま、心がざらつくのを感じる。それは同情とも違う。ただ視線を逸らせなくなる種類の痛みだった。 慎一自身も、ようやく“過去”と折り合いをつけたところだった。楓のこと。一緒にいた時間。手を離した瞬間の後悔。すべてをなかったことにしたわけではない。ただ自分の中で整理し、抱えたまま進む覚悟を決めただけだ。 (幸せでいてくれたら、それでいい)と、あの時自分に言い聞かせた言葉が今もある。嘘ではない。だが本当は、少しだけ、寂しさが残っていることも慎一は自覚していた。人は前へ進むと決めても、感情が同じ速度でついてくるとは限らない。 そのとき。「お二人、似てますよ」と榊レンの声が割って入った。カウンターでグラスを磨きながら、こちらを見ずに言う。プロらしい所作は止まらない。磨かれたグラスが照明を受け、淡く光る。 真琴が顔を上げる。「え、何がですか?」と問い返す声は少しだけ掠れていた。レンは手を止めず、淡々と続けた。 「話しすぎる人と、聞きすぎる人。どちらも、
last updateLast Updated : 2026-01-15
Read more

第24話  揺れる輪郭

 慎一がグラスを置いた、その仕草が、妙に目に焼き付いた。  指が長く、動きが静かで、無駄がない。  昔から知っているはずの相手なのに、今さらそんなことに気づいた自分に、真琴は戸惑った。(……あれ?) 慎一の横顔を見る。  柔らかく笑っているわけでも、気取っているわけでもない。  ただ、そこにいるだけなのに、不思議と視線が外せない。 さっきまで、自分の話を聞いてもらっていたはずなのに。  今は逆に、慎一の沈黙が、真琴の意識を占領していた。 ――この人、こんなに落ち着いた雰囲気だったっけ。 昔は、もっと軽口を叩いていた。  仲間内では、ムードメーカー寄りだったはずだ。  それが今は、必要なことだけを口にし、余計な感情を表に出さない。 その「余白」が、妙に大人びて見えた。「……何、見てんだよ」 気づいたのか、慎一がちらりと視線を向ける。「え? な、何でもない!」 慌てて視線を逸らし、グラスに口をつける。  心臓が、少しだけ速く打っている。(やば……) 自覚した瞬間、真琴は焦った。  これは違う。  今は、誰かを恋愛対象として見る余裕なんてない。 そう思おうとするほど、意識は慎一へと引き戻される。 慎一が、何気なく袖をまくる。  グラスに残った水滴を、親指で拭う。  その何でもない動作ひとつひとつが、やけに生々しい。 ――男だ。 友達でも、旧友でもなく。  ひとりの「男」として、認識してしまった瞬間だった。 真琴は、無意識に背筋を伸ばす。  髪を耳にかけ、自分の姿勢を気にしていることに気づき、さらに動揺する。 そのとき。「真琴さん」 低く、落ち着いた声。  榊レンだった。 慎一がトイレに立った隙を見計らったように、レンは真琴の前にグラスを置きながら言う。「……今の顔、気づいてました?」 真琴は、ぎくりとした。「な、何のことですか?」 レンはカウンター越しに、真琴だけを見る。  いつもの穏やかな微笑みではない。  逃げ道を与えない、静かな視線。「彼を“男として”見た顔です」 心臓が、どくん、と音を立てた。「ち、違……」「違わない」 レンは即座に言い切る。「真琴さん、あなたはいつも、自分の感情だけ後回しにする。  仕事も、人間関係も、全部整理してからじゃないと、感じちゃいけないと
last updateLast Updated : 2026-01-16
Read more

第25話  静かな自覚

 Night Indigoを出たあと、慎一は一人、夜風に当たりながら歩いていた。湾岸から吹き上がってくる冬の空気は、冷たいというより鋭く、スーツの生地を通して身体の芯まで刺してくる。それでも不思議と不快ではない。火照った体温と夜気がぶつかり合うこの感覚を、慎一はどこかで望んでいた。酔いを散らすためでも、気持ちを切り離すためでもなく、ただ“自分の輪郭を確かめるため”に。 アルコールの熱は、もう引いているはずなのに、頭だけが妙に冴えている。ジャズの余韻がまだ鼓膜の裏に残っているせいか、思考が濁らない。むしろ澄みすぎて困るほどだ。冷たい空気が肺に落ちるたび、思考は余計に鮮明になる。仕事の段取りでも訴訟の戦略でもない。今夜だけは扱いに困る種類の感情だった。(……なんで、今さら) 歩調に合わせるように、真琴の顔が何度も脳裏に浮かぶ。楽しそうに笑う表情。声が弾むように跳ね、視線がグラスの塩粒を拾うように細かく動いていた。慎一の記憶の中で、彼女の笑顔はいつも“勢い”の象徴だったが、今夜のそれはどこか違った。迷いも、強がりも、過去の影も全部まとめて押し込んだ上で、なお笑おうとしている顔だった。 一気に話して、ふっと黙る瞬間の、あの癖。昔から知っている。言葉が止まるのに、感情だけは止まらない独特の間。慎一は何度もその間合いに付き合ってきた。だからこそ気付く。今夜の沈黙は“余白”ではなく、“堪えている重さ”だった。 ただの旧友だ。そう言い聞かせるほど、違和感が増していく。言葉でラベルを貼ろうとするほど、胸の奥のざらつきが強まる。Night Indigoを出た瞬間に区切りをつけたはずの時間が、まだ慎一の中で続いている。 慎一は立ち止まり、ポケットからスマホを取り出した。画面の光が夜に浮かび、指先の温度まで照らし出す。連絡先は、ずっと残っている。削除ボタンの上で指が迷ったことは一度もない。だがそこへ触れる理由も、これまで一度もなかった。つまり“揺れる理由すらなかった”のだ。(……綺麗になったな) ふと、そう思ってしまったことに、慎一は自分で驚いた。立ち止まった身体より、心の方が先に硬直した。だがそれは表層の美醜の話ではない。化粧がどうとか、服装がどうとか、そういう話じゃない。大学時代の真琴は確かに魅力的だったが、今夜の彼女は“削ぎ落とされた強さ”の中にあった。強くなった分
last updateLast Updated : 2026-01-16
Read more

第26話

 真琴は職場復帰を果たし、ほどなくして「チーフ」に任命された。  一度は退職した身でありながらの抜擢に、周囲は少なからず驚いた。社内チャットでも、休憩スペースでも、「なんで真琴が?」という声がゼロだったわけではない。だが、会社側の判断は極めて現実的だった。 この業界は若手が多く、勢いと瞬発力には溢れている。だがその反面、経験に裏打ちされた調整力や、クライアントの無理難題を“現場の言葉”へ翻訳して伝えられる中堅が不足していた。企画書は作れても、制作と営業の板挟みを裁ける人間は限られる。そんな穴を埋められる存在として、真琴の実力は突出していた。実務能力、現場対応力、数字感覚、交渉の胆力――どれも申し分ない。役職を付けたほうが、周囲も動きやすい。表向きは「実力評価」、本音は「現場が回るための最適解」。それが三浦をはじめとする経営陣の判断だった。 これに抗うよりも認めるしかない現実を、仕事ではすでに理解している。だが、自分が“役職を背負う側”になった現実を受け入れるのは、また別の話だった。重責は増える。それでも真琴は、久しぶりに仕事が楽しいと感じていた。  数字への責任、部下のマネジメント、クライアント対応。決して楽な立場ではない。それなのに、朝PCを立ち上げる瞬間すらワクワクする。コピー案を練るときも、イベントの構成を頭で組み立てるときも、血が通っている感覚がある。(ここだ。やっと戻ってきた。私の居場所はやっぱりここなんだ) そう自分に言い聞かせるのではなく、自然とそう思えた。以前の自分なら、役職はプレッシャーの象徴だった。だが今は違う。“任されること”が、素直に誇らしい。 そんなある日、マネージャーの三浦から新規顧客の話が持ち込まれた。 「真琴、今度の案件、お前に任せたい」  迷いなく頷いた自分の首の角度まで覚えている。 数名の部下を連れて、営業兼打ち合わせに向かうことになる。  同行するのは、真琴のチームのひとつ。リーダーは城里 茜(31歳)。判断が早く、若手をまとめる力もある。デスクの散らかり方まで実務的で、余計な装飾はない。自分と似た“叩き上げの匂い”がする女だ。だからこそ気を遣わずに話せる。仕事では敬語、ランチでは呼び捨て。そんな関係性も心地よい。 メンバーは、 ・水嶋 朔(27歳)――データ分析と企画立案を担当。無駄な発言はせず、数
last updateLast Updated : 2026-01-17
Read more

第27話  届いた一文

  黒川アルアセットグループの案件は、順調に動き出していた。初回の打ち合わせで描いた全体像はぶれず、その後に発生した細かな修正や確認の往復も、真琴のチームは驚くほど軽やかに捌いていた。業界全体がスピードを求める中でも、彼らはただ急ぐのではなく、意図と品質を見失わずに前へ進んでいる。真琴はその事実を誇らしく感じていた。 会議の中心には、いつも城里茜がいた。31歳、同い年。切れ味のある判断と、若手をまとめる包容力のバランスが抜群で、クライアントからの意図を素早く理解し、噛み砕いてチームへ共有する力もある。彼女の存在は、真琴がチーフとして立つ土台を、目に見えない形でしっかり支えていた。 制作フロアの会議テーブルには、資料とノートPC、そしてサンドイッチの包み紙とコーヒーカップが混在していたが、誰もそれを雑然とは感じていない。意見が生まれ、整理され、次のアクションに変換される。その循環が、今のこのチームの呼吸そのものだった。「チーフ、ここの導線、もう少しシンプルにした方がいいかもです」 神谷の提案は、若手特有の飾り気のなさと直線的な思考で放たれた一言だった。慎一の「余白の多い短い言葉」とは別種の静けさだが、核心に触れるという点では似ている。真琴は資料から顔を上げた。赤ペンで書き込まれた修正跡が並ぶ紙面から視線を切り離し、神谷のノートに描かれた導線スケッチへ目を落とす。「いいね。じゃあ、その案で一度組み直そう」 口にした瞬間、迷いのなさに自分で驚いた。以前の自分は、決断をしても心のどこかで「正しいのか」と常に裏返しで考えていた。だが今は違う。即座に「いいね」と言える。アクションに変換できる。誰かの視線を気にするより、結果の視線だけを見ている。そんな自分の変化を、真琴自身が一番よく分かっていた。(迷いがない。仕事って、こんなに楽しかったっけ) 心の中で言葉が転がる。抗うのではなく、乗りこなせる自分がいる。 夜、オフィスを出たとき、空はすっかり暗くなっていた。冬の入り口の冷気を含んだ夜風が、ビル街の間を吹き抜けていく。コートの襟を立てる人々が行き交う中で、真琴だけは疲労より達成感の方が勝っていた。今日の自分の判断ひとつひとつが、チームの前進になっている。その実感が、体の重さを上回っている。 スマホを取り出し、時間を確認した、そのときだった。  ――通知が、
last updateLast Updated : 2026-01-17
Read more

第28話

メッセージを送信したあと、慎一はしばらく、スマホの画面を見つめたまま動けずにいた。(……余計だったか) たった数行。  体調を気遣っただけの、他愛のない一文。  それでも、送信ボタンを押した瞬間から、胸の奥に小さな波紋が広がっている。 慎一はソファに背を預け、天井を仰いだ。  仕事から戻り、シャワーを浴びて、落ち着くはずの時間。  なのに、頭の中は静まらない。 真琴のことを考えていた。 Night Indigoで再会した夜から、彼女の存在は、思っていた以上に慎一の中に残っている。  昔の延長線上にある関係だと、最初は思っていた。 だが――違った。 仕事の話をしているときの真剣な表情。  少し疲れたように笑う、その目元。  グラスを持つ指先の細さ。(……綺麗になった) そんな言葉が浮かんだことに、慎一自身が一番戸惑っていた。  褒めるつもりでも、口に出すつもりでもない。  ただ、自然にそう感じてしまっただけだ。 スマホが震えた。 画面を確認すると、真琴からの返信だった。『忙しいけど、大丈夫。仕事、ちょっと楽しい』 短い文面。  それでも、慎一はふっと息を吐いた。(よかった……) 忙しさに押し潰されているわけじゃない。  前を向いている。 それが分かっただけで、胸の奥が少し軽くなる。 数分迷ってから、慎一は返信を送った。『それならよかった。無理はするなよ』 送信。 それ以上、続ける言葉は思いつかなかった。  ――正確には、思いついても、送らなかった。(踏み込みすぎるな) 自分に言い聞かせる。  真琴は今、仕事に集中している。  やっと掴んだ場所だ。 そこに、自分の感情を割り込ませる理由はない。 慎一はスマホを伏せ、静かに目を閉じた。 楓のことを思い出す。  あの日、自分が守れなかった関係。冬真は迷わず、楓を救いに走ったのに。  同じ後悔を繰り返す気はなかった。 ――それでも。 真琴と、もう一度ちゃんと向き合う可能性を、  完全に否定できない自分がいる。(次に会うときは……) その続きを考えかけて、慎一は苦笑した。 今はまだ、ただの連絡だ。  ただの気遣いだ。 そう言い聞かせながら、  慎一は再びスマホを手に取り、通知が来ていないことを確認してから、静かに画面を伏せた。
last updateLast Updated : 2026-01-18
Read more

第29話  偶然の約束

 黒川アルアセットグループの案件は、一旦、一区切りを迎えていた。  初動の反応もよく、クライアントからの評価も上々。  チーム内の空気は明るく、真琴自身も、ようやく肩の力を抜ける瞬間を迎えていた。 その日の夜。  真琴は自宅のソファに腰を下ろし、久しぶりに何も考えずテレビをつけていた。  画面の内容は、ほとんど頭に入っていない。 スマホが震えた。 また、慎一かもしれない。  そんな予感がして、画面を見る前に、ほんの一瞬だけ間が空く。 ――予感は、当たっていた。『仕事、少し落ち着いたか?』 それだけの文。  聞き覚えのある、あの慎一らしい距離感。 真琴は、思わず小さく笑った。(なんで分かるんだろ) 考えてから、短く返す。『うん。ひと山越えた感じ』 すぐに既読がつき、少し間を置いて返信が来た。『それなら、よかった』 そこで会話が終わると思った。  実際、慎一も、これ以上続けるつもりはないように見えた。 だが、数分後。『Night Indigo、最近行ってるか?』 画面に表示されたその文字に、真琴の指が止まる。 偶然だ。  誘っているわけでも、誘っていないわけでもない。  ただの質問。 けれど――。 真琴の胸の奥が、静かにざわついた。『最近は、行ってないかな』 そう返してから、少し考えて、続けて送る。『仕事落ち着いたら、行こうかなって思ってた』 送信した瞬間、  “言い過ぎたかも”という思いが、遅れてやってくる。 しばらくして、慎一からの返信。『そうか』 一言。  やっぱり、これで終わりか。 そう思った、次の瞬間。『じゃあさ』 続く通知に、真琴は画面を凝視した。『今週末、俺も行く予定なんだ。もし、タイミング合えば』 はっきりした約束じゃない。  日時も、待ち合わせも決めていない。 ――偶然、同じ場所にいるかもしれない。  ただ、それだけ。 なのに。 真琴の心臓は、少しだけ速くなった。『うん。行けたら、行く』 そう返すと、慎一からすぐに既読がついた。『無理しなくていいからな』 最後まで、慎一らしい言葉だった。 スマホを置き、真琴は深く息を吐く。  約束でもない。  確約でもない。 それでも、週末の夜に、ひとつの場所を意識している自分がいる。(……偶然、ね) そ
last updateLast Updated : 2026-01-18
Read more

第30話  服を選ぶ理由

 土曜の夕方。  真琴は、クローゼットの前に立ったまま、しばらく動けずにいた。 週末に予定はない。  誰かと約束をしたわけでもない。  ただ――Night Indigoに、行くかもしれない。それだけだ。 ハンガーに掛かった服を、指先で一枚ずつずらしていく。  仕事用のジャケット。  無難なワンピース。  少しだけ華やかなブラウス。(……何やってるんだろ) 思わず、心の中で自分に突っ込む。  行くかどうかも決めていない店のために、  こんなふうに服を選んでいる自分が、どこか滑稽に思えた。 けれど、手は止まらない。 鏡の前に立ち、トップスを当ててみる。  次に、スカート。  ヒールの高さも、何足か履き比べる。(……別に、誰に見せるわけでもないのに) そう思った瞬間、  ふっと、慎一の横顔が頭をよぎった。 カウンターに肘をつき、  少しだけ肩を落としてグラスを傾ける、あの姿。 ――同じ慎でも、こっちの慎の方が居心地がいい。 あの夜、何気なく口にした言葉が、今になって胸に残る。(……ああ、そうか) 真琴は、ゆっくりと息を吐いた。 誰かのためじゃない。  “女として見られたい”とも、はっきり思っているわけじゃない。 ただ。 もし、あの店で慎一と会ったとき。  そのときの自分が、  仕事帰りの延長みたいな姿だったら――  少しだけ、後悔する気がした。 それは、期待とは違う。  もっと、静かで、現実的な感情。(今の自分で、会いたい) そう思った瞬間、  服を選ぶ理由が、はっきりと形を持った。 真琴は、少しだけ身体のラインがきれいに出るワンピースを選び、  上に羽織るジャケットを、いつもより軽いものに替えた。 鏡に映る自分は、  昔のように派手ではない。  でも、下を向いてもいない。 背筋を伸ばし、軽く顎を上げる。「……うん。悪くない」 そう呟いて、バッグを手に取る。 Night Indigoへ行くかどうかは、まだ決めていない。  けれど、行ける準備をしている自分がいる。 それだけで、十分だった。 玄関を出る前、ふと立ち止まり、  スマホを手に取るが、画面は開かない。 連絡はしない。  約束もしない。 ただ、同じ夜に、  同じ場所を思い浮かべているかもしれない。 それだけ
last updateLast Updated : 2026-01-19
Read more
PREV
123456
...
11
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status