ブロックした恋が、抱きしめてきたー冬空の告白、秋山真琴の選択ー のすべてのチャプター: チャプター 51 - チャプター 60

105 チャプター

第52話  逃げる背中、追う決意

 乾杯の音が店内に広がる中、真琴はグラスを口に運ぶことなく、そっとテーブルに戻した。  胸の奥がざわついて仕方がない。  ここにいること自体が、もう限界だった。「すみません、少し外します」 そう言って立ち上がる声は、驚くほど落ち着いていた。  誰の顔も見ない。  慎一の方も、見ない。 慎一は、その背中を見てはっきりとわかった。  ――拒絶だ。「真琴」 名を呼びかけるが、真琴は振り返らない。  そのまま、店の出口へ向かって歩いていく。 慎一が追いかけようとした、その瞬間だった。「先生!!」 茜が、袖を掴んだ。「行かない方がいいと思います」 慎一は、はっとして茜を見る。「今の真琴、先生に話しかけられたくない顔してましたよ?」 その言い方に、慎一の眉がわずかに寄る。「それに……」 茜は一歩近づき、声を落とした。「私と一緒に来たの、あれ、真琴に誤解されてますよね」 まるで、確信しているかのような口調だった。「誤解なら、このままにしておいた方が楽じゃないですか?」 慎一の中で、何かが音を立てて崩れた。「……違う」 低く、はっきりとした声。 茜は一瞬、言葉を失う。「先生?」「オレは、真琴に誤解されたままでいいなんて思ってない」 それは、これまで一度も口にしなかった本音だった。 茜の手を、慎一はそっと、しかし確実に外す。「今日は、もう帰ります」 茜の目が見開かれる。  拒絶されたことを、はっきりと理解した表情だった。 慎一はそれ以上何も言わず、店の外へと走り出した。 夜風が、頬を打つ。  通りの向こうに、真琴の背中が見えた。「真琴!」 思わず、声を張り上げる。 真琴は足を止めた。  だが、すぐには振り返らない。 慎一は息を切らしながら、距離を詰める。「……話をさせてくれ」 真琴は、ゆっくりと振り返った。「なにを?」 静かな声。  感情を抑え込んだ、その響きが胸に刺さる。「さっきのは違う。オレは、自分の意思であそこに行ったわけじゃない」「見てたよ」 真琴は短く言った。「茜と一緒に来た。それが、私の見た事実」 慎一は一瞬、言葉に詰まる。  だが、もう逃げないと決めていた。「オレが一緒に居たいのは、真琴だ」 夜の空気が、凍りつく。 真琴の目が、わずかに揺れた。「……そんな
last update最終更新日 : 2026-01-26
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第53話 触れない夜、揺れる想い

 その夜、真琴と慎一は、真琴のマンションへ一緒に帰った。 言葉は多くなかった。 タクシーの中でも、エントランスを抜けて部屋に入ってからも、互いに必要以上のことは語らない。 ただ、そばにいた、それだけだ。 ソファに並んで座り、肩が触れ合い、時折、慎一の指先が真琴の手に触れる。 それだけで、胸の奥が静かに満たされていく。 慎一は、ほとんど離れなかった。 だが、決して踏み込んではこない。 夜更けまで、同じ空間にいて、同じ時間を過ごしただけだった。 真琴は、ふと考えていた。 もし慎一が、もう一歩近づいてきたら。 もし、腕を引き寄せ、唇に触れてきたら。 ――拒む気は、なかった。 それどころか、自分から「慎一が好き」と言うための、 ほんの小さなきっかけを、ずっと待っていた。 けれど、慎一はキスすら求めてこなかった。 今夜、追いかけてきてくれた。 「一緒に居たいのは、真琴だけだ」と言ってくれた。 それは確かに、真琴の心を強く揺さぶった。 それでも―― 茜の存在が、頭から離れない。 楽しそうに話していた姿。 一緒に店へ現れた光景。 そして、慎一が“拒もうとしていた”とはいえ、結果的に彼女と並んでいた事実。(……私は、何に不安を感じてるんだろう) 慎一を信じたい。 でも、完全に信じ切るには、まだ何かが足りない。 慎一もまた、何かを言いかけては飲み込み、 真琴の表情をうかがうように視線を落とす。 結局、その夜は、何も起こらなかった。 翌日。 真琴のスマホに、楓からのメッセージが届いた。〈昨日、慎一と一緒だったんでしょ〉〈海斗から聞いたよ〉 少し間を置いて、通話がかかってくる。「ねぇ、真琴」 楓の声は、相変わらず落ち着いていた。「慎一、きっと、相当悩んでるよ」「……楓?」「踏み込まないんじゃなくて、踏み込めないだけ」 その言葉に、真琴は息を止める。「冬真がね、“慎一は一度、守れなかった経験があるから、 簡単に人を抱き寄せられない”って言ってた」 冬真の名前が出たことで、言葉に重みが増す。「慎一は、誰かを傷つけるくらいなら、自分が我慢するタイプなの。真琴もよく知ってるでしょ」」 真琴は、昨夜の慎一の横顔を思い出していた。 近くにいるのに、どこか距離を保っていた姿。「だからね、真琴。あの人、追いか
last update最終更新日 : 2026-01-27
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第54話 臆病になった心の行方

先日の黒川アルアセットグループ主催レセプションパーティーは、業界でも語り草になるほどの成功を収めていた。高級感と未来性を融合させた演出、スクリーン演出の鮮烈なフィナーレ、招待客の熱狂――そのすべてを統括した秋山真琴の名は、広告業界の社内外で急速に評価を高めていた。その余波は、彼女自身のキャリアにも大きく作用した。会社は即座に真琴を次のステージへ押し上げ、より規模の大きい複数案件を抱えるエース級チームへ合流させる決定を下した。昇進や肩書が変わったわけではない。それでも、「彼女が入れば現場の空気が変わる」とまで言われる存在感を持つようになっていた。しかし、華やかな成功の裏で、人間関係は思わぬ方向へ転がっていた。打ち上げ以降、城里茜との距離は驚くほどあっさりと遠ざかった。廊下やオフィスですれ違うとき、会議室で偶然隣席になったとき、資料の受け渡しで短く言葉を交わすとき――口に出るのは決まって、乾いた定型句だけだった。「おはよう」「お疲れさま」そこには、以前の軽妙な掛け合いも、空気を共有する安心感も、ふっと笑いがこぼれる瞬間もない。ただ淡々と音だけを置いていく、温度のない挨拶だった。茜は今も変わらず、黒川アルアセットグループ案件のリーダーだ。だからこそ、海斗や慎一とも会う機会があるのだろうと、真琴は勝手に頭の中で線を結んでしまう。事実確認も、詮索も、言葉にすることもない。それでも「きっとそうだ」と想像してしまう自分が嫌でたまらなかった。(邪推なんて私らしくない)(でも、仕事だから…割り切らなきゃ)そう言い聞かせ、感情の芽を押し潰すように思考を遮断した。恋愛に関しては、慎一とも何一つ進展がないままだった。あの夜、互いの距離が一番近づいたはずのレセプションの日から、関係は逆に後退しているかのように静止していた。やり取りはメッセージだけ。「忙しかった?」「うん、ちょっと立て込んでて」「お疲れ、身体壊すなよ」そんな言葉のキャッチボールは続いても、恋愛の核心には触れない。慎一は昔からそうだった。楓を好きだったときも、彼女の様子をうかがってばかりで、一歩も踏み出さないまま時間を浪費していた。弁護士としては冷静で切れ味があるのに、恋愛では驚くほど不器用で受け身だ。相性のいい相手が楓に現れるたびに、慎一は振られていた。まるで恋愛だけ、別人格のように
last update最終更新日 : 2026-01-27
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第55話 和食と弱音と赤ワインの余韻

週末。真琴は海斗と、落ち着いた和食レストラン「旬彩堂(しゅんさいどう)」で向かい合っていた。レセプションパーティーの成功で評価は上がった。仕事は確実に前へ進んでいる。それなのに、心だけが取り残されているような日々が続いていた。慎一の笑顔、茜との距離、踏み出せない自分――それらが彼女の胸の奥で渦を巻き、薄い膜のような息苦しさを生んでいた。週末の外出は久しぶりだというのに、気分は晴天とは程遠かった。白木の格子戸をくぐると、店内は品のある静けさに満ちていた。天井は高く、竹を編んだ照明から柔らかな光が落ち、影すら優しく輪郭をぼかす。ほのかに漂うだしの香りは、懐かしさと安堵を同時に呼び起こす。畳の匂い、炭火焼きの煙の気配、器が触れ合う小さな音までが、騒がしさとは無縁の和の余韻を刻んでいた。座敷でもカウンターでもなく、ほどよく仕切られた半個室のテーブル席。人の気配はあるのに、距離は保たれている。まるで、誰かの体温に触れたいのに傷つきたくはない今の真琴の心に、妙にしっくりくる場所だった。「ここ、いい店でしょ? オレ、接待じゃなくて普通に来るんですよ。こういう店でほっとしたい日あるんで」海斗は笑って言い、湯呑みでほうじ茶をすすった。湯気の立たない冷えた茶でも、仕草は温かい。家柄を背負っているはずなのに、肩書よりも先に人間味が前へ出るタイプなのだと、真琴は密かに感じていた。真琴は、彼の服装を眺めながら少しだけ肩の力を抜いた。今日はスーツではない。濃紺のニットに黒のスラックス。シンプルなのに、袖口の折り返しも、襟の立ち方も妙にこなれている。革靴だけが妙に良い。磨き込まれた光沢は、本人の性格より先に、父親の存在感を匂わせた。黒川アルアセットグループの御曹司の気配はそこだけだ。だが話し方も仕草も、どこか市井の青年のまま。ホストクラブ「club Algo」で夜の世界を泳いでいた頃の名残は、甘く人懐こい笑い方に残っていた。客の懐に入るのが上手かっただろうその微笑は、今は打算よりも「人を安心させる柔らかさ」に変わっていた。料理が運ばれてきた。銀だら西京焼き、刺身三点盛り、土鍋炊きの白米、赤だし、そして香の物。丁寧に並んだ膳は、派手さはないのに主役の貫禄があった。西京味噌の照りは濃密で、白米の艶は凛としている。器の余白まで計算されたような品の良さ。けれど決して高圧的では
last update最終更新日 : 2026-01-27
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第56話 逃げ道の代償

慎一は、弁護士事務所の自分の個室の机の前に座り、積み上げられた書類の束をぼんやりと眺めていた。窓の外には冬の薄い青空が広がり、冷たい陽光がブラインドの隙間から細い線となって差し込んでいる。いつもなら書類の内容を一瞥しただけで全体像を掴み、優先順位を瞬時に組み立て、ペンを走らせる慎一だった。だが今日の彼の視線は、紙面に留まっているのに焦点が合っていない。黒いインクで並ぶ文字は意味の塊のはずなのに、音を持たない記号のように無音で流れていくばかりだった。書類の文字は、全く頭に入って来ない。その代わりに、頭の中では、あの日の「真琴との夜」が渦巻いていた。レセプションパーティーの喧騒が嘘のように消え去った後、道路を走って追いかけた靴音、真琴の背筋の張り方、赤ワインの香り、彼女の呼吸の揺れ、言葉を選び損ねた瞬間の自分の鼓動――その全てが、今も鮮明に体内のどこかで脈打っている。あの日、黒川アルアセットグループのレセプションパーティーの打ち上げの後。慎一は帰ろうとしていた真琴の背中を追いかけた。立ち止まらせたくて、失いたくなくて、胸の奥がちぎれそうで――それなのに自分の口から飛び出した言葉は「好きだ!!」ではなかった。なぜ、「好きだ!!」ではなかったのだろうか。彼は机に両肘をつき、指先で額を押さえた。法律相談の場では相手の逃げ道すら塞ぐほど鮮やかに論点を切り込むくせに、恋愛では自分だけがいつも逃げ道を探してしまう。自分はいつもそうだ。 知らずに「逃げ道」を用意している。言い訳ができる余白、否定された時の予防線、偶然や仕事のせいにできる保険――自分でも気づかぬうちに用意してしまう癖。それは他人に対しては優しさとして働くのに、自分の恋では臆病さという名前に変わる。大学の頃から、楓を想い続けていた頃もそうだった。楓が笑いながら近づいてきた時だけ、「楓が好きだ」と周りに気付かれるような態度を取っていた。言葉ではなく態度だけで。距離を縮めるのはいつも相手の方で、自分はそれを受け取るだけ。だが楓に新しい彼ができると、自分の心はまるで世界が終わったかのように落ち込んだ。「振られた」と。だが実際は、告白すらしていない。失恋という名前を自分でつけているだけ。逃げ道を用意しすぎた男の、逃げられない現実だった。慎一は自分に問うてみた。「自分から前に出たこと
last update最終更新日 : 2026-01-28
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第57話 最上階の宣言

慎一が電話に出ると、低く落ち着いた第一声が鼓膜を震わせた。「元気か?」父・一成の声だった。普段の一成は、医師としても教授としても言葉に無駄がなく、時に豪快で、時にからかうような軽さすら漂わせる男だ。だがその日の声には、慎一ですら聞き慣れない硬度があった。息の奥に沈んだ真剣さが、言葉の裏から押し出されている。「お前と楓ちゃんに話がある」その言い方は、どこか緊張した響きがあった。(俺と楓に話?)慎一は思わず背筋を伸ばした。胸の奥が小さく波立ち、仕事で法廷に立つ時の緊張とは違う種類の警戒が心臓を掴んだ。だが次の瞬間、父から告げられた待ち合わせ場所に、慎一は一瞬だけ肩の力を抜いた。呼ばれた先は―― 以前も親子4人で集まった、ホテル最上階のレストランだった。待ち合わせ当日。慎一はホテルロビーの大理石の床を踏みしめ、シルバーのエレベーターに乗り込んだ。上昇する箱の中で、静かなBGMが流れているのに、慎一の頭の中は雑音だらけだった。数字が階を刻むたび、彼は自分の癖のように未来の言い訳を探しそうになる自分を戒めた。「チン…」最上階の到着音が、妙に澄んで聞こえた。ホテルの最上階にあるレストランへ着くと、楓親子と、父・一成はすでにテーブルについて談笑していた。外壁一面のガラスの向こうには、冬の夕闇がゆっくりと滲み、街の光が宝石の粉のように散っている。そこだけが時間の流れを持っていて、テーブルの上は不思議と穏やかだった。楓がいち早く気づき、無邪気な声で空気を揺らした。「慎!こっちだよ」軽く伸びた腕、指先の揺れ。迷いのない呼び方。慎一がかつて楓に抱いていた距離は、いつもこうして彼女側から縮められていたのだと思い出させる仕草だった。慎一は歩み寄りながら会釈し、椅子を引いた。「遅れてすみません」そう言って父の横に座る。楓の母・渡辺桜。 名高い弁護士であり、慎一と同じ「先生」と呼ばれる世界の人間だ。彼女はワインボトルを片手に、慎一へ優雅に微笑んだ。「相変わらず忙しそうね、後藤先生」その声音には、息子を見るような親密さと、法廷で人心を掴むプロの柔らかさが混ざっている。慎一も微笑みで応じた。「渡辺先生ほどではないですが………先生は、ボクの目標ですよ」彼の声は敬意そのものだった。楓を想っていた頃も、真琴を想っている今も、彼は誰かの心を読み取ること
last update最終更新日 : 2026-01-28
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第58話 義理の兄妹の夜

照れまくって赤くなっている父・後藤一成と、ワインのグラスを握ったまま視線を泳がせている渡辺桜をそのまま残し、慎一と楓はレストランを後にした。二人は満面の笑みを浮かべながら、ホテル最上階からロビーへ直通するエレベーターに乗り込んでいた。ドアが閉まると同時に、さっきまでの大人二人のぎこちなさが嘘のように、兄妹となった二人の間にはくすぐったい沈黙だけが残る。エレベーターの壁面はシャンパンゴールドの金属で、慎一の横顔をぼんやり映していた。階数表示の数字が下へと降りていくのを眺めながら、慎一はまだ父の宣言の余韻に胸をくすぐられていた。「チン…」到着音と共にロビーに降り立つと、楓は間髪入れずに慎一の袖を掴んだ。遠慮も躊躇もない、いつもの楓の動きだった。「慎!!たまには二人で飲みに行こう!」その言葉は誘いというより命令に近い。慎一は驚きながらも苦笑し、袖を引かれたまま歩き出す。「楓!ちょっと!!」と言いながらも、足はしっかり楓のペースに合わせている。ロビーの中央には巨大なクリスマスツリーが飾られ、サンタクロースが、トナカイと一緒に、たくさんのプレゼントをソリに積んで立っていた。慎一は歩きながら楓の横顔をちらりと見て、気になっていた名前を口にした。「冬真くんはいいのか?」楓は振り返り、あっけらかんと笑う。「今日は家族で楽しんでおいでって言ってくれてるの!」その返事を聞いて慎一は納得した。冬真という男は、かつてホストクラブで楓の周囲を守る影のような存在だったが、今は楓の未来を支える太陽側の人間になっている。そう思うと、慎一はほんの少しだけ、冬真への敬意と嫉妬のない安堵を胸の奥で同時に抱いた。結局二人が辿り着いたのは、いつものイタリアンレストラン「トラットリア・オリゾンテ」だった。ホテルとは違い、そこは木目のテーブルとオリーブオイルの香り、そして気取らない喧騒がある場所。赤いチェックのテーブルクロスに、手書きのメニュー。飾られたドライハーブのリース。どこか「家族の食卓」の延長線上にある店だった。席に着いた二人は、目が合うなり同時に吹き出した。「私たち、家族になっちゃったね」楓が言うと、慎一もグラスを回しながら笑う。「ああ。ホントに結婚するとは思ってなかったよ」慎一の言葉は少し呆れを含んでいるのに、声は嬉しそうだった。楓はワイングラスを軽
last update最終更新日 : 2026-01-28
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第59話 すれ違う季節の足音

イタリアンレストランを出た慎一と楓は、駅へと続く通りを並んで歩いていた。冷えた空気が頬を刺し、コートの裾が歩幅に合わせて小さく揺れる。店の扉を閉めた瞬間から、二人の間には“家族になった余韻”と、言葉にしない感情のざわめきが混ざり合っていた。街路樹は葉を落とし、濡れた舗道には冬の匂いがしみ込んでいる。慎一は、ふと視線を下げた。ここはかつて、楓に振り向いてほしくて「送る」と言い、ぎこちなく肩を並べた道だった。楓が笑うたび、心臓が騒いだ季節。だが今、慎一の胸中を占めているのは別の女――真琴だった。(俺の歩く理由は、いつの間に変わったんだろうな)そう思うと、過去の自分を誰かに見透かされたようで、吐く息さえ重くなる。楓は夜風を切りながら、迷いなく言葉を投げた。「慎。真琴はもともと『恋多き女』なのよ。ぐずぐずしてたら、他の誰かの所に行っちゃうよ」楓の声は冷たくない。だが鋭い。慎一は歩きながら短く返した。「わかってるよ」その返事は淡々としていたが、胸の内側では焦りが小さな火花のように散っていた。そのことは、自分が一番わかっているつもりだった。真琴は立ち止まらない女だ。愛も痛みも、人の温度も、風のように受け止めては次へ進む。慎一は、彼女の歩く速さを誰より恐れていた。駅前へ近づくにつれ、遠くのクリスマスのイルミネーションが淡く滲んで見える。赤と白の光が冬の闇を縫うように揺れていた。楓は慎一の顔を見ず続けた。「もうすぐ、真琴の誕生日だよ、12月23日。ちょうど金曜日だから、その日にお祝いしてあげて、そのまま二人でクリスマスを祝って!!」宣言だった。提案ではない。楓はいつもそうだ。人の背中を押す時だけは、より強引になる。慎一は思わず立ち止まりそうになり、困ったように眉を寄せた。「楓……なんか強引じゃないか?」問いは弱い。だが本音だ。楓は振り返り、くしゃりと笑う。「私は冬真とそう約束してるの!今年は絶対に、用事を入れないように」その笑顔には “選んだ男と交わした約束を守る女の顔”だった。慎一は、かつて夜の世界で冬真を尊敬していた青年の横顔を思い出す。海斗が語った“冬真への憧れ”と同じ光を、楓もまた一度は抱いていたのだと気付く。楓は慎一の肩を、ためらいなく叩いた。「だから、慎も頑張って!」その衝撃は軽いのに、慎一の心に確かに届いた。(ああ、俺はまた
last update最終更新日 : 2026-01-29
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第60話 改札の向こうの不穏

駅のコンコースに辿り着いたとき、冬の夜はすでに深く、外気の冷たさがガラス越しにも伝わっていた。ホテル最上階のレストランでの食事会からここまで、慎一と楓は互いの“新しい距離”を確かめるように肩を並べて歩いてきた。かつての恋の駆け引きも、嫉妬に似た焦燥も、今はない。だが、その代わりに流れる沈黙には、家族になったからこそ芽生える気恥ずかしさと、慎一の胸の奥で絡まる別の名前――真琴の存在が、微かな波紋となって揺れていた。改札へ向かう人々の足音はまばらで、スーツ姿の会社員や買い物帰りの家族連れが、早足で帰路を急いでいる。正月前の名残で駅の柱にはまだ小さな紅白の装飾が残り、竹細工のオブジェが控えめに季節を主張していた。楓は時折スマホを確認しながらも、慎一の横顔を視界の端に置いていた。慎一もまた、電光掲示板に視線を向けるふりをしながら、どこか落ち着かない気配を漂わせている。「……じゃあね」二人は同時に口を開きそうになった。視線が合い、苦笑が漏れ、言葉の終点を揃えようとしたその瞬間だった。「後藤先生!!」背後から飛び込んできたのは、若い女性の声。慎一の背筋が反射的に伸びる。呼ばれ慣れた仕事の呼称なのに、その声色には仕事だけではない温度が混じっていた。慎一と楓は同時に振り返った。そこに立っていたのは、城里茜だった。薄いベージュのロングコートに身を包み、髪はいつもより少し巻かれている。駅の照明が彼女の瞳に反射し、潤んだ光を宿していた。だがその光は甘さではない。刺すような鋭さだった。「偶然ですね、後藤先生。こちらは、お知り合いですか?」茜は笑っている。唇の形だけは笑っている。だが視線はまっすぐ楓を射抜いていた。その目は、慎一へ向ける好意とは別の種類の感情――嫉妬と警戒、そして不安が煮詰まった色を帯びている。楓は、その視線の痛みを“知っていた”。――宮里亜里沙。亮と共にいた頃、楓を見た亜里沙の目もまた、同じように湿り、絡み、敵意と執着でぎらついていた。空気を震わせる重さと緊張。あの夜の亮の部屋で感じた不穏と同じ振動が、確かに楓の皮膚感覚を逆撫でした。しかし、目の前の女は亜里沙ではない。楓は一度まばたきをし、コートの袖を整え、意識的に背筋を伸ばした。いま自分が取るべき立場を瞬時に見定めた顔だった。「兄がいつもお世話になっております」名乗らない。余計な情
last update最終更新日 : 2026-01-29
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第61話 冬空を切り裂く音楽の号砲

「おい秋山。今度の案件だ」 マネージャーの三浦が無造作に資料を差し出した。コーヒーの香りとプリンターの駆動音が混じる年末のオフィス。忙しさが空気に貼り付いている。真琴は資料の表紙をめくる。『AURORA FES 2026 -冬空に響く光の歌声-』文字は読めるのに、なぜか視界の端が滲む。レセプションパーティーの熱がまだ胸の奥でくすぶっているせいだ。「今回のは、年末から広告を打って、バレンタインデー辺りに本番という、長期の広告だ。 オーロラ・エンタテインメント・ホールディングスって聞いたことあるか?」「ありますよ」 即答だった。オーロラ・エンタテインメント・ホールディングスは、イベント業界でトップを争う新興企業。若い才能を抜擢し、広告の導線設計と演出をとことん突き詰めることで有名だ。ステージ映像の美しさと心理を突く企画で、客の感情を揺さぶるのが得意な会社。三浦は続ける。 「このイベントの会議が明後日開かれる。お前が選んでチームを連れて参加しろ」真琴は立ち上がり、すぐに人選を始めた。AURORA FES 2026の本質は「冬の光と心臓の鼓動」だった。イベントの舞台は真冬の巨大アリーナ。音楽だけでなく、会場全体が一つの物語になる。オーロラ社の狙いはこうだ。ステージ背面にはLED大型スクリーンを設置し、曲ごとに「極光(オーロラ)」が変化し、出演者の心情を色で描く。観客のスマホライトを同期させ、会場が星空のように点滅する。ラストは暗転→一瞬の無音→オーロラ爆光→終幕。“光の波”で客の心を掴み、恋が動き出すバレンタイン前に本番を置くといった、切なさと高揚を同時に味わわせる計算された導線だ。出演者は、実力派アーティストだけでなく、ドラマ仕立ての演出に強い若手も抜擢。ステージ上で誘拐や相続争いをモチーフにした短編ドラマが楽曲とリンクして展開されるという異色の構成。音楽と脚本の融合。恋愛、緊迫、切迫、裏切り、救済が「光」で描かれる。まさに、真琴が得意とする領域――人の心理を動かす導線設計と現場で培った“空気を読む力”が求められる案件だった。会議当日。 オーロラ・エンタテインメント・ホールディングスのビルに足を踏み入れると、エントランスの壁面がゆっくりと青白く光っていた。音声センサーで光量が変わるインスタレーションだ。人の足音ですら演出にな
last update最終更新日 : 2026-01-29
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