ブロックした恋が、抱きしめてきたー冬空の告白、秋山真琴の選択ー のすべてのチャプター: チャプター 41 - チャプター 50

105 チャプター

第42話  帰り道、慎一が真琴を送る理由

 会計を終え、二人は並んで店を出た。 夜風が、火照った頬をやさしく冷やす。「楓、相変わらずだな」 慎一が苦笑まじりに言う。「ほんと。でも、冬真と幸せそうでよかった」 真琴も笑ったが、その声はどこか落ち着かなかった。 駅までの道を歩きながら、会話は途切れがちになる。 沈黙が気まずいわけではない。 ただ、二人とも、次にどんな言葉を置けばいいのかを測っているようだった。「忙しそうだね」 真琴が先に口を開いた。「まあな。でも、今日は来てよかった」 慎一は、はっきりと言った。 その一言に、真琴の胸が、また小さく跳ねる。 信号待ちで立ち止まったとき、慎一が自然な調子で言う。「家、どっち?」「あっち」 真琴が指さす方向は、慎一の帰り道とは反対だった。「……じゃあ、送る」 一瞬の間もなかった。 確認でも、遠慮でもない。 決めていたような口調だった。「え、いいよ。駅近いし」 真琴は反射的にそう言ったが、慎一は首を横に振る。「送る」 その声は穏やかだったが、揺るぎがなかった。 真琴は、それ以上何も言えなくなった。 二人は並んで歩き出す。 肩が触れそうで触れない距離。 真琴は、足元ばかり見ていた。 前を向くと、慎一を意識しすぎてしまうから。「最近、どう?」 慎一が聞く。「忙しいけど……楽しいよ。仕事」「そっか」 短い返事だったが、慎一の声は、どこか安堵を含んでいた。 しばらく歩いて、真琴のマンションが見えてくる。「あ、ここ」 そう言って立ち止まると、慎一も足を止めた。「……送ってくれて、ありがとう」「うん」 慎一はそれだけ言って、少しだけ間を置く。 街灯の下、二人の影が重なっていた。 慎一は、一度視線を外し、それから真琴を見た。「……また、会える?」 それは、控えめな言い方だった。 けれど、真琴には、それが勇気のある一言だとわかった。「……うん」 真琴は、すぐに答えていた。 慎一は、ほんの少しだけ笑う。「連絡する」 それだけ言って、踵を返す。 去っていく背中は、迷いがなかった。 真琴は、マンションの前に立ち尽くしながら、その背中を見送った。(……送ってくれた理由) それは、もう「安全のため」なんかじゃない。 真琴は、はっきりとそう感じていた。 胸の奥が、静かに、確かに満たさ
last update最終更新日 : 2026-01-23
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第43話  静かな部屋で、名前を呼ぶ

 慎一は自宅マンションの鍵を開け、部屋に入ると、スーツの上着だけを脱いでソファに放り投げた。 照明もつけず、立ったまま深く息を吐く。「……ふぅ」 静かすぎる。 さっきまでいたイタリアンレストランのざわめきが、嘘のようだった。 靴を脱ぎ、ゆっくりと部屋の奥へ進む。 ネクタイを外しながら、慎一の脳裏には、今夜の光景が繰り返し浮かんでいた。 真琴の声。 笑った顔。 少しだけ潤んだ目。 そして―― マンションの前で立ち止まったときの、あの一瞬。「……また、会える?」 自分の口から出た言葉を思い出し、慎一は小さく苦笑する。(何を確認してるんだ、俺は) 答えなんて、もう分かっていたはずなのに。 キッチンで水を飲み、グラスをシンクに置く。 そのまま窓辺に立ち、夜景を眺めた。 以前なら、こんな夜はなかった。 仕事が終われば、資料を読み、判例を確認し、眠る。 感情を引きずる余裕なんて、なかった。 ――楓のことがあったからだ。 思い出さないようにしていた名前が、自然と浮かぶ。 冬真と並んだ姿を思い出し、胸の奥が、少しだけ痛んだ。(もう、違う) そう、慎一ははっきり分かっていた。 楓を想うときにあった、後悔や自己嫌悪。 取り戻せない時間への執着。 それらは、今はもう、ない。 代わりに浮かぶのは――「……真琴」 無意識に、名前を口にしていた。 声に出した瞬間、慎一ははっとする。 だが、否定する気にはなれなかった。 彼女は、無理に踏み込んでこない。 傷を暴こうともしない。 ただ、隣に座って、話を聞く。 それなのに―― いつの間にか、視線を追っている。 表情の変化に、心が揺れる。(女性として、見てる) 慎一は、はっきりと認めた。 友人としてでも、昔馴染みとしてでもない。 「大丈夫か」と気遣う対象でもない。 ――会いたいと思う。 ――触れたいとは思わないが、近くにいたい。 ――笑ってほしい。 それは、恋だった。 スマホを手に取り、真琴とのトーク画面を開く。 今すぐ何かを送る気はなかった。 でも、そこに彼女の名前があるだけで、気持ちが落ち着く。(急がなくていい) 慎一は、そう思った。 今度は、失わないために。 相手の歩幅を、ちゃんと見ながら。 スマホを置き、ソファに深く腰を下ろす。 天
last update最終更新日 : 2026-01-23
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第44話  真琴の側に訪れる“小さな不安”

 黒川アルアセットグループのタワーマンション・レセプションパーティー当日。  会場となったのは、都心の高層ホテル最上階のバンケットホールだった。 大きな窓からは夜景が一望でき、間接照明に照らされた空間は、上質で落ち着いた華やかさに満ちている。  真琴はチームのメンバーとともに、受付を済ませて会場に入った。「やっぱり規模が違いますね……」 水嶋朔が、低く感想を漏らす。  城里茜は周囲を見回しながら、楽しそうに微笑んだ。「このクラスのマンションなら、これくらいの演出は当然かも。でも、うちの企画、ちゃんと映えてる」 真琴は頷きながら、胸の内で小さく息をついた。  企画、動線、演出、ドレスコード、招待状――  すべてが想定通りに回っている。(よかった……) チーフとして、これ以上ない形で結果を出せている。  そう思えたことが、素直に嬉しかった。 会場内では、上品なジャズが流れ、モデルルームを再現した映像が大型スクリーンに映し出されている。  高級タワーマンションらしく、「日常の延長にある贅沢」というコンセプトが、来場者にも伝わっていた。 そんな中、黒川アルアセットグループの担当者が、真琴たちの元へ歩み寄ってきた。「本日はありがとうございます。改めてご紹介します」 そう言って指し示された先にいた人物を見て、真琴は一瞬、言葉を失った。「先日から、弊社の顧問弁護士に就任していただいた、後藤慎一先生です」 ――え? 視線の先には、見慣れた横顔があった。  スーツ姿の慎一は、いつもの穏やかな雰囲気はそのままに、仕事の場らしい引き締まった表情をしている。(顧問……弁護士……?) 胸の奥が、わずかにざわついた。 慎一と目が合う。  一瞬だけ、驚いたように目を見開き、それから静かに微笑んだ。「お久しぶりです。今日はお仕事ですね」「……はい」 声が少しだけ、上ずった気がした。 仕事としての再会。  それだけなのに、心の奥が落ち着かない。 紹介が終わり、慎一は他の来賓へ挨拶に向かっていった。  その背中を見送りながら、真琴は自分の鼓動が早くなっていることに気づく。(知らなかった……) 慎一がこの案件に関わっていたこと。  しかも、顧問弁護士という立場で。 もちろん、悪いことではない。  むしろ、仕事としては心強い。
last update最終更新日 : 2026-01-24
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第45話  

 パーティー会場は、想像していた以上に人で溢れていた。  黒川アルアセットグループ主催のレセプションパーティーというだけあって、会場には業界関係者や取引先、政治家の秘書らしき人物まで入り混じり、どこを見渡してもスーツとドレスの波が続いている。 真琴はその中を行き来しながら、自然な笑顔を貼り付け、与えられた役割を黙々とこなしていた。  名刺交換、簡単な案内、トラブルが起きないかの目配り。  それが今日の彼女の任務だった。 慎一の姿を探そうと、何度も視線を巡らせたが、結局、近づくことも、姿をはっきりと見かけることもないまま、時間だけが過ぎていく。  この会場のどこかにいるはずなのに、不思議なほど距離が遠い。 ――今日は仕事。  余計な感情は持ち込まない。 真琴は心の中でそう言い聞かせ、背筋を正した。  今日のパーティーが無事に終わること、それだけに集中しよう。  そう自分を励ますように、グラスを運ぶスタッフや、談笑する来賓たちに目を配る。 パーティーも終盤に差し掛かった頃だった。 ふと、背後から近づく気配を感じる。  振り返る前に、低く落ち着いた声がかかった。「秋山さん」 呼びかけられて振り返ると、そこに立っていたのは、黒川アルアセットグループの営業担当、黒川海斗だった。  彼は手に赤ワインの入ったグラスを持ち、慣れた仕草でそれを真琴の前に差し出す。「ありがとう」 真琴は一瞬だけ迷ったあと、グラスを受け取った。  赤ワインの深い色が、照明を受けて静かに揺れている。「仕事中に飲んでいいんですか?」 軽い冗談のつもりでそう尋ねると、海斗はくすりと笑った。「弱くはないんですよね?」 試すような視線に、真琴も肩の力を抜いて笑い返す。「一杯で酔うことはないですね」 そう言って、グラスに口をつけた。  舌に広がる渋みと、ほのかな香り。  頭が冴えるような感覚に、真琴は無意識に深く息を吐いた。 それからも、海斗は何か言いたげな様子で、真琴のそばを離れなかった。  真琴は特に気にすることもなく、周囲の様子を確認するため、会場を見渡していたが、背後から再び声がかかる。「秋山さんと仕事ができて嬉しかったです」 営業らしい言葉だ、と真琴は思った。  社交辞令だろうと判断し、即座に営業スマイルを作る。「私もです」 すると、
last update最終更新日 : 2026-01-24
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第46話

「シー! シー!! 秋山さん、声が大きい!!」 切羽詰まった海斗の声と同時に、真琴の腕が強く引かれた。  一瞬何が起きたのかわからないまま、真琴はバランスを崩しそうになりながら、海斗に促されるように会場の外へと連れ出される。 重厚な扉が閉まると、先ほどまでの喧騒が嘘のように遠のいた。  会場を出た先の廊下は、人影もまばらで、ホテル特有の静けさが漂っている。  柔らかな照明が敷かれたカーペットに影を落とし、二人の足音だけがやけに大きく響いた。 海斗は真琴の腕を離すと、すぐに一歩距離を取り、声を落とした。「あの時はすみませんでした! 反省しています」 そう言うなり、深々と頭を下げる。  勢いよく垂れた黒髪と、その必死さに、真琴の中で高ぶっていた感情が少しずつ落ち着いていくのを感じた。 真琴は腕を組み、しばらく黙って海斗を見下ろしていたが、やがて静かに口を開く。「私を知ってて、今回の仕事を依頼してきたの?」 その問いに、海斗は顔を上げ、どこか気まずそうに視線を泳がせたあと、観念したように答えた。「広告代理店に戻られたと、冬真さんから聞いたので…」 そう言って、いたずらっこのように笑う。  その表情に、真琴はさらに驚きを隠せなかった。「冬真もグルなの!?」 一歩後ずさりしながら、警戒心を露わにする。「………まさか、冬真が慎一を紹介したって……あんたの会社ってこと!?」 思わず声が大きくなり、目を見開く。 海斗は再び慌てた様子で周囲を見回し、両手を振って制止した。「秋山さん、声が大きいですって!」 小声で必死に言いながら、言い訳するように続ける。「オレも、もう反省したんですよ。冬真さんにもすごく叱られて……  楓さんにも、ちゃんと謝りました。何度も。」 その必死な様子に、真琴は眉をひそめながらも、少しずつ怒りを収めていく。 疑うような視線を向けたまま、真琴は低く言った。「……てことは、楓も知ってたのね。」 そして、核心に触れる問いを投げる。「冬真とはどんな関係なの?」 海斗は一度大きく息を吐き、覚悟を決めたように語り始めた。 自分が“club Algo”でホストをしていた頃、冬真が憧れの先輩だったこと。  表には出さないが筋を通す生き方に惹かれていたこと。  そして、自分が逮捕されたときも、真っ先に問い詰めて
last update最終更新日 : 2026-01-24
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第47話

 真琴と海斗が会場に戻ると、パーティーはすでに終盤に差し掛かっていた。 先ほどまで人々の話し声やグラスの音で満ちていた空気は、いつの間にか期待を孕んだ静けさへと変わり、招待客たちの視線は一斉に会場正面の大型スクリーンへと集まっている。 今回のタワーマンションのコンセプト紹介が始まり、洗練されたナレーションとともに、完成予想図が次々と映し出されていく。 光と音が計算し尽くされた演出で重なり、まさにフィナーレという言葉がふさわしい展開だった。 高層階からの眺望、共用スペースのラグジュアリーな設計、暮らしの質を高める最新設備―― スクリーンが切り替わるたび、会場のあちこちから感嘆の息が漏れる。 招待客の誰もがスクリーンから目を離せず、期待と興奮が最高潮に達した、その瞬間。 まるで余韻を残すかのように、音楽が静かにフェードアウトし、映像は不意に幕を閉じた。 完成された“終わり方”だった。 真琴は、その様子を満足げに眺めながら、招待客たちの表情を一人ひとり確認していた。 驚き、感動し、そして確かな手応えを感じている顔。 この場を任されて良かった、と心から思える瞬間だった。 ふと隣を見ると、海斗が目元を赤くし、涙ぐみながらスクリーンを見つめていた。「真琴さん……最高です!!」 感極まった様子でそう言う海斗に、真琴は思わず笑って振り返る。「大げさね」 そう言いながらも、その反応が悪い気はしなかった。 再び視線を会場の中心へ戻した、そのときだった。 人だかりの向こうに、慎一の姿が見えた。 彼は誰かと話しながら、穏やかに、そして柔らかく笑っている。(慎一があんな風に笑っているなんて、珍しい) 真琴はそう思い、思わず視線を逸らせずにいた。 いつも落ち着いていて、感情を大きく表に出さない彼が、あんな表情をする相手とは誰なのか――。 他の客の陰になって見えなかったが、少し位置がずれた瞬間、慎一の目の前に立つ女性の姿が見えた。 慎一と同じように笑い、言葉を交わしているその相手は。 ……茜だった。 胸の奥が、きゅっと締め付けられる。 ――「チーフ、紹介してくださいよ」 先ほど茜が言っていた言葉が、頭の中をぐるぐると回る。 理由のわからない感情が込み上げ、息が浅くなる。 だが、真琴はすぐに慎一たちから視線を反らし、静かに深呼吸をした。
last update最終更新日 : 2026-01-25
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第48話  真琴の中に芽生えた違和感

 パーティーが終わり、片付けの指示を出し終えた頃には、真琴の身体には疲労が静かに溜まっていた。 けれど、それ以上に胸の奥に残っているものの正体がわからず、落ち着かない。 慎一が笑っていた。 茜と、楽しそうに。 それだけのことのはずなのに、その光景が何度も頭の中で再生される。 仕事の場だ。 笑顔を交わすのは当たり前。 そう理解しているのに、胸の奥がざらつく。(……慎一も、茜を気に入ったんじゃないか) そんな考えが浮かんだ瞬間、自分自身に驚いた。 なぜ、そんなことを思うのか。 なぜ、あんなにも胸が締め付けられたのか。 答えは、考えるまでもなくそこにあった。 ――嫉妬だ。 自覚した途端、逃げ場がなくなる。 真琴は自分の心を、まるで外側から覗き込むように見つめていた。 慎一を、誰にも取られたくない。 誰かと楽しそうに笑っている姿を、見たくなかった。 そんな感情を抱いている自分に、戸惑いと同時に、はっきりとした実感が湧いてくる。(私……こんなにも慎一を独占したいって思ってたんだ) それは、予想以上に強く、深い想いだった。 それなのに―― 慎一は、踏み込んでこない。 楓のときと同じだ。 距離は縮める。 気遣いも、信頼も、確かにそこにある。 けれど、決定的な一歩を、彼は決して越えてこない。 慎一は優しい。 だからこそ、慎重で、臆病なのかもしれない。 誰かを傷つけるくらいなら、自分が止まることを選ぶ人だ。 ……それがわかっているからこそ、余計に苦しい。 真琴は、自分が恋愛においてどんな人間だったかを思い出していた。 好きになったら一直線。 迷わず、ためらわず、欲しいと思ったら手を伸ばす。 それが自分だった。 なのに。 慎一の前では、どうしても一歩が踏み出せない。 言葉を飲み込み、視線を逸らし、気づかないふりをしてしまう。(……拒否されたら、怖い) その感情に気づいたとき、真琴は愕然とした。 自分が、こんなふうに怯える恋をするなんて。 慎一を失う可能性を想像しただけで、胸が痛む。 だから、自分から踏み出せない。 この曖昧な関係のままなら、少なくとも「失う」ことはないから。 そうして、気づかぬうちに、自分の殻に閉じこもっていた。 強気で、迷いなく前へ進んできたはずの自分が、 今はただ、慎一の様
last update最終更新日 : 2026-01-25
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第49話

 パーティーの終わりが近づき、慎一はホテルのエントランス付近で、招待客の見送りを手伝っていた。 その流れで、ふと外に目を向けたとき、真琴と目が合った。 ほんの一瞬だった。 けれど、その一瞬で、違和感ははっきりと伝わってきた。 ――よそよそしい。 笑顔はあった。 けれど、それは仕事用の、距離を測った笑顔だった。 視線も、言葉も、どこか慎重で、以前のような柔らかさがない。(……何か、あったのか?) 慎一は内心でそう思いながらも、理由に心当たりがないわけではなかった。 先ほどまで、茜と楽しそうに話していた自分の姿。 それを、真琴が見ていた可能性は高い。(あれが、原因かもしれないな) そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ重くなる。 だが、ここは仕事の場だ。 しかも、真琴は広告代理店の責任者として動いている最中。 個人的な感情を持ち込んで話し合える空気ではなかった。 慎一は一度、真琴に声をかけかけて、やめた。 代わりに、会場ホテルのロビーで待つことにした。 すべてが終わったあとで、落ち着いて話せばいい。 そう、自分に言い聞かせる。 ロビーのソファに腰を下ろし、時計を見る。 時間だけが、ゆっくりと過ぎていった。 やがて、パーティーの客があらかたはけた頃。 エレベーターの扉が開き、真琴が姿を現した。 その後ろには、広告代理店――アークライト・コミュニケーションズのスタッフたちが続いている。 慎一は立ち上がり、声をかけようとした。 そのときだった。「真琴さん!」 先に声を上げたのは、海斗だった。 彼は軽い調子で真琴に近づき、スタッフたちを振り返りながら言う。「このあと、スタッフだけで打ち上げに行こうよ」 その言葉が、はっきりと耳に入った。 真琴は一瞬、困ったような表情を浮かべた。 気乗りしないのは、遠目にもわかる。 だが、スタッフたちの期待に満ちた視線を受け、やがて小さく頷いた。 慎一は、その一連のやり取りを見て、足を止めた。 声をかける機会は、完全に失われていた。 無意識のうちに、柱の影に身を寄せる。 自分でも驚くほど、慎一は慎重になっていた。 真琴は結局、海斗たちと連れ立って、ホテルを出て行った。 背筋を伸ばし、仕事の顔のまま。 その後ろ姿を見送りながら、慎一は胸の奥に、言葉にならない感情を抱えて
last update最終更新日 : 2026-01-25
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第50話  交差する誤解

 店に入ってからも、真琴の気持ちは晴れなかった。  にぎやかな店内では、スタッフたちが今日の成功を口々に讃え合い、グラスを掲げている。  笑い声が重なり、賑やかな音楽が流れ、祝杯の空気は申し分ないはずだった。 それでも、真琴の意識はどこか遠くにあった。  輪の中に身を置き、相槌を打ちながらも、心は会場の別の場所に取り残されたままだ。「真琴さん、今日は本当にお疲れさまでした!」 海斗がグラスを持って近づいてくる。  その表情はいつもより柔らかく、仕事をやり遂げた達成感に満ちていた。「ありがとう。でも、みんなのおかげよ」 真琴はそう返し、軽くグラスを合わせる。  本来なら、それだけで済むはずだった。 だが、海斗はふと周囲を見回し、何気ない調子で口を開いた。「そういえば……慎一先生、さっき茜さんとすごく楽しそうでしたよね」 その一言に、真琴の手がわずかに止まった。  グラスの中の液体が、小さく揺れる。「仕事の顔じゃなくて、完全にオフの笑顔でしたよ。ああいう表情、なかなか見ないなって」 悪気のない、ただの感想。  むしろ感動を共有したかっただけなのだろう。  それがわかっているからこそ、真琴は何も言えなかった。「……そう」 短く答え、グラスに口をつける。  喉を通るはずのアルコールの味が、ほとんど感じられない。(やっぱり……) 心の奥で、確信に近い何かが形を持ち始める。  慎一は、茜を気に入ったのかもしれない。  自分が踏み出さなかった間に、距離を縮める相手が現れただけなのだと。 真琴は、それ以上この話題を続けさせないように、意識的に別の話を振った。  笑顔を作り、仕事の話題に戻す。  だが、胸に落ちた小さな棘は、簡単には抜けなかった。 一方、ホテルを出たところで茜に声を掛けられた慎一は、戸惑っていた。  夜風に当たりながら帰路につこうとした、その矢先だった。「キミ、みんなと一緒に打ち上げに行ったんじゃ……?」 慎一がそう言うと、茜は怪しげに微笑みながら答える。「みんなと一緒に行っても楽しくなさそうだったから…  先生は? 帰らなかったんですか?」 まるで、自分を待ってくれていたのか?  そう問いかけるような茜の言葉に、慎一の胸に小さな違和感が走る。  無意識のうちに、気分を害している自分に気づいた
last update最終更新日 : 2026-01-26
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第51話  決定的な距離

 店内は、すでに打ち上げの熱気で満ちていた。  グラスが何度も鳴り、笑い声が重なり、仕事を終えた安堵と高揚が渦を巻いている。 真琴は、その中心から少し離れた席に腰を下ろしていた。  表情は穏やかでも、心はずっと落ち着かないままだ。 ――慎一は、今ごろどうしているだろう。 考えないようにしても、ふとした隙に思考がそちらへ向かう。  そのたび、胸の奥が小さく疼いた。「真琴さん、あれ……」 隣に座っていたスタッフの一人が、入口の方を見て小声で言った。 真琴もつられるように顔を上げる。  その瞬間、視界に入った人物に、息が止まりそうになった。 ――慎一。 店の入口に立っていた。  そして、その腕を自然に掴むように、茜が隣にいた。 店内のざわめきが、一気に遠のく。  真琴は、自分の心臓の音だけをはっきりと感じていた。「……来ちゃいましたね」 そう言って、海斗が後ろから覗き込む。  悪気のない、軽い調子だった。「さっき言ってたでしょ?  慎一先生、茜さんとすごく仲良さそうだったって」 その一言が、決定打だった。 真琴の中で、何かが音を立てて崩れ落ちる。  確認するまでもない。  慎一は、茜と一緒にここへ来たのだ。 慎一の視線が、店内を探すように動く。  そして、真琴を見つけた。 一瞬、目が合った。  だが、真琴はすぐに視線を逸らした。 慎一は足を止め、何か言いかけるように口を開き――  その前に、茜が一歩前に出る。「秋山チーフ、今日はお疲れさまでした」 親しげな声。  まるで、当然のように隣に立つ態度。「先生がね、“みんなが待ってるなら行こう”って言ってくれて」 その言葉に、慎一は一瞬、硬直した。  だが、周囲の視線と空気が、訂正を許さない。 真琴は、微かに笑った。「……そうですか」 それ以上、何も言わない。  聞かないし、説明も求めない。 慎一は、その反応に、はっきりとした違和感を覚えた。「真琴――」 名前を呼びかけた、その瞬間。「はいはい! せっかく揃ったんですから、乾杯しましょう!」 海斗の明るい声が割り込む。  場の空気は一気に“打ち上げ”へと引き戻された。 真琴は立ち上がり、グラスを手に取る。「……今日は本当に、お疲れさまでした」 形式的な乾杯の音。  その裏で、真琴
last update最終更新日 : 2026-01-26
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