All Chapters of ブロックした恋が、抱きしめてきたー冬空の告白、秋山真琴の選択ー: Chapter 71 - Chapter 80

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第72話 先約とざわめき、知らない視線

翌日。アークライト・コミュニケーションズのオフィスは、年末特有の浮ついた空気で満ちていた。出社した社員たちは普段よりも数段テンションが高く、デスクには小さなミニツリーや赤いリボン、雪を模したオブジェなどが飾られ、季節感が容赦なく仕事場に侵入している。朝のコーヒーの香りすら、どこかシナモンやチョコレートの甘さを連想させるほど錯覚を誘う。真琴がエントランスを抜け、オフィスへ足を踏み入れた瞬間、待ち構えていたように質問の集中砲火が始まった。「昨日はどこへ行ったんですか?」「天ケ瀬社長は何でチーフだけ誘ったんですか?」「ホントに仕事の用事だけ?」「告られちゃったとか……?」声の主は一人ではない。四方八方から矢のように飛んでくる言葉は、好奇心という名の追跡弾だ。悪意はない。だが逃げ場もない。真琴は上着をロッカーにしまう間もなく、質問の波に飲まれていた。口を開けば全部が事実になる。そう本能が警告している。だから、あえて何も答えない。沈黙は肯定にも否定にもなる万能の盾だ。すると社員の一人が、ふと思い出したように声を上げた。「そういえば、今度の週末、チーフのお誕生日ですよね?」その一言は導火線だった。即座に火花が散る。「え!?じゃあ、天ケ瀬社長と約束が!?」「クリスマスも一緒に祝えちゃうじゃないですか!!羨ましい……」一人が言えば、全員が妄想を増幅する。会議室よりも結束力が高い。真琴はその連帯感に思わず苦笑した。慌てて否定する気持ちも、どこか楽しんでしまっている自分もいる。だが真琴は肩をすくめ、きっぱりと言った。「天ケ瀬社長とは何でもないわ。」すると、落胆のため息がオフィスに薄く積もる。だがすぐに温度は戻る。「チーフ、私たちがお祝いしましょうか?」真琴は笑った。仕事の世界では「祝う・祝われる」の循環が減っていく。だが仲間の申し出は素直に嬉しい。だが誕生日は自分のためだけのページではない。慎一との“先約”が既に栞のように挟まっている。「誕生日は他に約束があるの」そう言った途端、再び爆発。「まさか本命ですか!? 二重で羨ましい!!」照れた顔で真琴は足早に歩き出し、いつもの仕事モードの声を作って言い放った。「もう!仕事するわよ!」号令というより照れ隠し。社員たちも笑いながら散っていく。戦場の後の撤収は早い。質問よりも早い。しかし
last updateLast Updated : 2026-02-02
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第73話  32歳の誕生日

待ちに待った。ついにやってきた、自分の32歳の誕生日当日。朝、目が覚めた瞬間から胸の奥がそわそわと浮き立っていた。カーテンの隙間から差す冬の光はいつもと同じ淡い白なのに、今日は違う色を帯びて見える。特別なフィルターがかかったように世界が少しだけ鮮やかだった。真琴は32年間生きて来て、一番嬉しい日かもしれないと思っていた。――いや、実際には、20歳のときも、23歳の時も、そして、29歳のときも、同じことを思っていたと思う。その自分の“毎回更新される人生ベスト誕生日ランキング”に、苦笑が漏れる。嬉しいのは今日だけじゃない、いつも今日が最高だと思っていたのだ。けれどそれでも、人は期待してしまう。次こそは、と。29歳の誕生日は、その頃一緒に居た“陽斗”が盛大にお祝いしてくれた。店を貸し切り、花束とシャンパンと、気恥ずかしくなるほど大きなケーキで迎えてくれた夜。ろうそくの火の向こうで笑う陽斗の顔は、当時の真琴には未来そのものに見えた。真琴は陽斗と一緒になるかもしれないと、密かに考えていた。しかし、真琴が病院に勤めるようになり、ストレスを抱えた真琴は、陽斗に当たり散らしていた。しばらくすると、「他に好きな子ができた」という一言だけで、陽斗はあっさり去って行ってしまった。あのときの空白は、今も心の引き出しの奥にしまわれている。思い出すと痛むのに、取り出さなければ存在しないかのように振る舞える古傷。時間が癒したというより、時間が鈍らせただけの感情だった。しかし、今回は違う。慎一はきっと………言葉にしきれない期待が、胸の中でそっと形を結ぶ。過去の恋の延長ではなく、今度は未来を描いていい相手。長く付き合った友人だが、慎一は誠実だった。そんな思いが、真琴の中で明確な輪郭を持ち始めていた。真琴の中では“結婚”を視野に入れた慎一との関係に、とうとう進めるのではないかという予感めいた感情があった。予感と言うには強く、確信と言うにはまだ柔らかい、夜明け前の光のような気配。慎一もきっと同じ気持ちでいてくれるだろうと、真琴は一種の安堵感をもっていたのだった。その安堵は甘いものではなく、“自分だけが舞い上がっているわけじゃないはず”という、確認を取れていない答え合わせの先取りのようなものだった。今日だけは仕事中も時計ばかりが気になって仕方がなかった。打ち
last updateLast Updated : 2026-02-02
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第74話

久しぶりに繁華街へやってきた。電車を降りた瞬間から、真琴の五感はいつもより鋭く、そして柔らかく世界を受け止めていた。改札を抜けると、冬の夜気が肌を撫でる。冷たいのに、今日はどこか優しい。まるで自分の誕生日を祝福している空気のように感じられ、思わずコートの襟元を指でつまみながら微笑んだ。最近では仕事の多忙さに追われ、酒が恋しいときはコンビニのビールで済ませていた。 それはそれで“悪くない逃避”だったけれど、やっぱり違う。部屋で飲むビールは、孤独を薄めるだけの代用品。慎一と交わすグラスの音や、空間ごと酔わせる会話の揺らぎには、到底かなわない。今夜は久しぶりに“本物の夜”を取り戻せる。そう思うだけで、胸の内側がじんわり熱を持った。“Night Indigo”のネオンサインが見えた時、真琴の胸は最高潮に高鳴っていた。青紫の光が、冬の夜に滲むように輝いている。その色は、会議室の白い蛍光灯とは真逆の世界の入り口。街の喧騒の上にそっと浮かび上がるそのサインを見ただけで、慎一の存在を視覚で確認したような錯覚さえ覚えた。光の粒が瞬くたび、心拍もそれに合わせて跳ね上がる。嬉しさで呼吸が浅くなるなんて、いつ以来だろう。いや、そんな分析すら今はどうでもいい。ただ――やっと会える。会えるのだ。しばらく慎一にも会っておらず、顔を見るのも久しぶりだった。 忙しさを言い訳にしていたけれど、本当は慎一の顔を思い浮かべるだけで胸が詰まってしまい、会いたいのか怖いのか、自分でも判別できない日が続いていた。だが今は違う。迷いではなく期待だけが前に出ている。重ねた時間が勝手に意味を作り始めている。先ほどの、会社での会議すら、 “遠い世界線の出来事”のように感じられ、今夜の主役は慎一ただ一人だった。前に会った時のように、心の距離が、とても近づいていると感じた時の高揚感。 それは恋という言葉だけでは足りない。“通じ合っている気配”そのものが、真琴を幸福へ押し上げていた。慎一は言葉にしない人だ。けれど微笑み方や沈黙の置き方、視線の預け方、グラスを傾ける角度にまで、相手を安心させる文法がある。真琴はその文法を“自分だけが読める暗号”のように感じ、密かに誇らしくもあった。もしかしたら、彼の沈黙すら自分への告白の前置きだったのかもしれない――そんな甘い仮説を立ててしまえるほど、今の真琴は
last updateLast Updated : 2026-02-03
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第75話

慎一と茜は、抱き合っているように見えた。実際には寄り添っているだけかもしれない。でも、真琴の網膜には確かに「抱擁」の形で焼き付いた。冬の空気は透明なのに、光はどこか滲んで見える。感情のフィルターがかかった世界は、いつもより鮮やかで、いつもより残酷だ。茜はヒールの高い靴で立つ姿勢を保てないほどにしなだれかかり、慎一はそれを抱き留めている。肩と腕で彼女の体重を受け止め、逃がさないように、しかし壊さないように支えていた。その仕草は静かで滑らかで、驚くほど優しい。そして慎一は、彼女を見下ろすのではなく、包み込むような低さで視線を落としていた。微笑んでいるのか、心配しているのか、どちらとも言い切れない柔らかな眼差しで、茜の顔をじっと見つめている。真琴の瞳には、そう映った。真琴は足を止めた。呼吸の仕方を忘れたように、胸が上下しない。冬の冷気が肺に入っているのかすらわからない。“Night Indigo”の青紫のネオンは、まるで心臓の鼓動に合わせて脈打っているように明滅していたのに、そのリズムが突然止まったような感覚だった。世界が音を失うと、人はこんなにも静寂を“耳ではなく全身で”聞くのだと初めて知った。二人から見えないように、真琴は手前の飲食店の、ネオンの消えた看板の陰に隠れた。そこは光が届かないわけではなく、届いているのに色を持たない場所だった。夕暮れから夜へ切り替わる曖昧な時間帯の中で、その看板だけが取り残されたようにくすみ、黒い影となって路地に溶けている。真琴もその中に自分を押し込んだ。感情が凍った今の自分には、この“死んだ光”の方がふさわしいと思ったからだ。コートの裾がかすかに風で揺れる。それさえ自分の意思ではなく外界の干渉のように感じる。目の前で起きていることは映画でも他人の物語でもなく、自分の人生の中心で起きている出来事なのに、真琴はただ観測者として立ち尽くすしかなかった。心はもう、停止したままだ。思考を動かす燃料も、感情を循環させる血流も、すべて止まったみたいに感じる。時間だけが流れているのに、真琴自身は時間の外に放り出されていた。何も考えられず、ただ、二人の動向を見守っていた。視線だけが二人に縫い付けられている。瞳孔は開いたまま縮まない。まるで“驚き”という瞬間の表情だけを永遠に固定された人形のようだ。もし今ここで
last updateLast Updated : 2026-02-03
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第76話

喫煙ルームの壁は、今日も変わらず無表情だったが、その中で動揺している三浦の姿だけは妙に人間くさく、真琴の突然の登場と涙の重さを受け止めきれずにいた。 さっきまで換気扇の回転だけが支配していた小さな箱の空間が、真琴の涙で急に湿度を増し、空気の質感すら変わったように感じる。三浦は普段、誰かの感情に振り回されるタイプではない。むしろ感情の振れ幅を仕事で上書きして生きてきた男だ。それでも、目の前で真琴が涙を落とし始めた瞬間だけは違った。冷静の鎧が一瞬で崩れ、素の自分が露出する。「おい、何があった………」声は低く太いのに、語尾だけが掴みどころなく揺れていた。言葉の先端が迷子になっている。三浦自身がその違和感に気付くより早く、理性の吹き飛んだ真琴が、三浦の胸元へ突進するように身を投げた。「三浦さん!今夜、私を抱いてくれませんか?」三浦の動きが停止する。 時が止まったのではなく、彼の筋肉と理性だけがストップボタンを押されたようだった。驚愕は派手ではない。声も大きくない。なのに衝撃だけが深く、芯まで刺さる。 真琴の涙は止まらない。ぽた、ぽた、という規則的な滴下音すら聞こえる気がした。 感情が漏れているのに、泣き方だけが機械的なリズムを刻んでいるのが余計に痛ましい。涙は三浦のシャツに吸われ、黄色の非常灯の反射すら濡れた布地で鈍く光る。三浦は大きく深呼吸をした。肺いっぱいに冬の空気とタバコの残り香を詰め込み、雑念と衝動を押し潰す。そこには上司としての線引きと、人としての優しさの両方があった。「秋……真琴。何があったか知らないが、こんなオッサンを試すようなことを言うんじゃない」三浦の大きな手が、真琴の頭を撫でた。 撫で方は雑でも父性でもなく、ただの“三浦流”だ。部下が行き場を失ったときだけ発動する救難信号のような仕草。力は強いのに、触れ方は驚くほど柔らかい。真琴の髪がその指の軌道に合わせて揺れ、子どものような気恥ずかしさが胸に戻ってくる。真琴は少し恥ずかしくなった。 涙で熱くなった頬がさらに熱を帯び、(しまった、言い過ぎた)と後悔する感情すら今は微かな救いだった。三浦は軽く笑うと、「そこに座って待ってろ」と、喫煙ルームに一つだけしかない椅子に座るように促して、喫煙ルームを出て行った。 椅子は古く、合皮の端が少し割れている。けれど真琴は素直に座った。三
last updateLast Updated : 2026-02-03
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第77話

真琴がNight Indigoへ到着する、その少し前。慎一は、店のドアを開けた瞬間、ほんのわずかに肩の力を抜いた。外の冬気を切り裂くような冷気と対照的に、店内には柔らかい間接照明とほのかに甘い柑橘の香りが漂っている。静かだが高揚を含んだ空気。客同士の会話も控えめで、グラスと氷が触れ合う音だけが、夜の脈動のように空間を刻んでいた。慎一はカウンターの一番端から、一つ手前の席に座る。コートを脱ぐ仕草すらどこかぎこちない。それは寒さのせいではなく、今日という日を待ち焦がれすぎた心の震えだった。一番端の席には、自分のカバンを置く。まるで「ここに真琴が来る」という未来を、今この瞬間に固定してしまいたいかのように。榊レンが寄って来て「いらっしゃいませ。待ち合わせですか?」と、慎一がカバンを置いた席を見て言う。慎一は照れ笑いをして「真琴とここで待ち合わせしてるんです」と言い、プレゼントの入った紙のバッグを指さして続けた。「今日は、真琴の誕生日なんですよ」。その声は甘さを抑えたようにほろ苦く、それでも確かな幸福の色を帯びていた。慎一も今日を楽しみにしていた。数日前から落ち着かず、夜ごとプレゼントの包みを確認して、「似合うだろうか」と一人で呟いていた。年末の駆け込みの案件などで、ここの所ずっと多忙だったが、慎一の胸にはただ一つの予定だけが存在していた。真琴の誕生日。今度こそ告白する日。人生で一度しかない初めての告白を、この場所に託していた。榊レンも微笑んで「真琴さん、きっと喜びますね」と言い、「今日は何を?」と聞く。慎一は小さく息を吸い込み、「チンザノカシス……飲んでみたかったんです」と答えた。榊レンは慎一の目を覗き込むように笑い、「難問にも円満の方向へ向かう挑戦者……今日の慎一さんの心ですか?」そう言い、慎一の決心を称えるように提案した。「ストレート?それとも、ソーダかトニックで割りますか?」。「まだ早いから、トニックで割ってください」慎一はそう言って腕時計を見た。針は八時前を示している。鼓動が速くなる。真琴はもうすぐ来る。だが(今日は酔っている場合ではない)と自分に言い聞かせた。整えるべきは言葉と覚悟だけだった。やがて慎一の前に、チンザノカシスのカクテルが運ばれてくる。深い紫。グラスの縁に触れた慎一の指先がわずかに震えた。一口飲む。甘くほろ苦
last updateLast Updated : 2026-02-04
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第78話

慎一の視界に最初のマルガリータが置かれた瞬間、店内の空気はまだ真琴の誕生日を祝う前の穏やかな期待に満ちていた。だが、城里茜の胸中にはその温度は存在していない。グラスがカウンターに触れた小さな硬質な音を合図に、茜は慎一の表情を探るように見下した。そこにあるのは拒絶の壁。言葉を失った人間の顔ではなく、感情を切り離した人間の仮面。無視を決め込んでいる慎一の顔を見て、茜は自分がその壁を越えられない存在であることを悟った。瞬間、躊躇は消えた。茜はカクテルを一気に飲んでしまった。喉を通るテキーラの強烈な刺激は、今の自分の心を焼き切る火種そのものだった。レンが慌てて止めようとするも、茜が飲み干す方が先だった。慎一もまた、言葉を失っていた。そして茜は声を張り上げた。「もう一杯ください!!」店内の控えめなざわめきが一瞬止まり、ほかの客が驚いた視線を向ける。レンは眉をひそめながらも慎一をちらりと見た。慎一は苦笑すら浮かべられない。レンはバーテンダーとしての責務から口を開いた。「そんな飲みかたをすると、危ないですよ」だが茜はもう、周囲の視線も忠告も聞こえていない。「いいから、もう一杯」その声は、追い詰められた人間の崩壊寸前の叫びだった。もはや茜を止めるものは何もなかった。慎一の胸中には、茜に対する拒絶感しかなかった。自分が用意した未来の席。真琴が来る前に、この女には消えて欲しかった。だが、レンが二杯目を作る手元すら見ていない慎一の沈黙が、茜の暴走を加速させた。レンは仕方なく、マルガリータをもう一杯、茜の前に置いた。慎一が声を出すより早く、茜はまた一気に飲んでしまった。氷すら入っていないカクテルは、喉を通るたび刃のように胸を切り裂いた。慎一がようやく意識を戻し、息を吸った。「店の迷惑になるから………」と言いかけた時だった。茜の体がグラッと傾いた。世界が回転するより先に身体が落下を始める。慎一は反射的に手を伸ばした。茜を抱きとめると、慎一は自分の計画を守るようにため息混じりで言った。「もう酔ったんですか?」 呆れた声。しかしその腕は、見捨てることができない人間の優しさで出来ていた。茜は知らなかったのだ。カクテルがこんなに早く酔わせるものだと。テキーラベースの酒が、ただの甘酸っぱいカクテルではなく、足の感覚を奪い、意識を奪う凶器であることを。慎一が
last updateLast Updated : 2026-02-04
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第79話

真琴は会社ビルを出た。回転ドアでも自動ドアでもなく、押せば開く重たいガラス扉を、肩で風ごと押しのけるように。仕事終わりの社員たちが一人、また一人とロビーを抜けていく中で、真琴だけは「帰路」ではなく「逃避」の勢いで外へ出た。ヒールがアスファルトを打つたびに硬質なリズムを刻む。普段は気にも留めない靴音が、今日は自分の焦りと呼吸の速さを証明するようで、妙に耳についた。三浦になぐさめられて、少し落ち着いたような気はした。喫煙ルームで渡された黄色のタオルの温もり、缶コーヒーの熱さ、そして頭を撫でられたあの一瞬。自分の中の「壊れかけていた何か」が、かろうじて形を保った気がしたのだ。けれどそれは、三浦の目の前にいたから成立していた感情の安全圏。ひとりになると、その防壁はあっけなく崩れた。冬の空気はやさしくない。優しさを溶かさずに冷やし固めるだけだ。歩道に出て数十メートルも進まないうちに、慎一からの着信が鳴り響いた。その画面をみた瞬間、先ほどの光景が脳裏にちらついた。慎一と茜が抱き合っていた。否定の余地も誤解の余白もなく、ただ視界に焼き付いた二人の輪郭。茜の肩に落ちる慎一の視線、慎一の腕に収まる茜の重心。そこに自分の入り込める「隙間」が存在していないことだけが、真琴にははっきりと伝わっていた。涙が頬を伝った。電話に出る勇気はなかった。慎一の、「話したいことがある」と言った一言が、頭の中を駆け巡った。「ああ、あれは、茜のことを好きになったと言いたかったんだ……」と、真琴は独り言を言った。その言葉を口にした瞬間、また涙が頬を伝う。「あたし………浮かれちゃって、ばかみたい……」また、慎一から電話が鳴った。着信が切れた後、真琴は慎一の電話番号を拒否リストに入れ、メッセージもブロックした。「せっかくの誕生日なのに…」真琴はつぶやくと、ふと大崎の顔を思い出した。大崎なら、この寂しさを埋めてくれるかもしれない……ズルイ考えかもしれないが、今日だけは一人で過ごしたくなかった。真琴は大崎の番号を見つけると、すぐに電話を掛けた。大崎はすぐに電話に出たが、声をひそめて話している。「真琴?こんな時間にどうした?」その声は驚きながらも、迷惑という響きを含んでいない。だから真琴もまた、いつもの調子を取り戻そうとして明るく言った。「大崎、何してるの? よかった
last updateLast Updated : 2026-02-04
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第80話

真琴は孤独だった。 慎一には茜。親友の楓には冬真。大崎は結婚している。自分の周囲にいる人間の「幸福の席」は、どれも埋まっている。自分だけが立ち見席にいるようだった。自分だけが招かれない。自分だけが選ばれない。少し前まで、未来を預けようとしていた慎一には、茜というパートナーがいることを知ってしまった。「話したいことがある」慎一のその誘いを、自分に告白するためだと思い込んでしまった。真琴はその言葉を思い出すたびに胸が締め付けられた。茜との関係を話すために、わざわざ自分の誕生日に呼び出さなくても……真琴は空を仰いでため息をついた。「慎って、あたしの誕生日も知らなかったのかな……」大学生の頃に知り合い、慎一が楓を想っているのを、いつも横で見ていた。早く告白すればいいのに…楓と慎一がうまくいけばいいと思いながらも、楓を遊びに誘っていたのは、いつも真琴だった。楓が冬真と付き合い始めた時も、慎一のことを気に掛けなかった。親友の楓が幸せなら、それでいい。そう思っていた。「報いかな………」真琴がそうつぶやくと、ネオンの映り込んだ車道の黒光りが滲んで揺れる。涙がまた頬を伝う。今度は一本目よりも熱い。熱いのに冷えている。矛盾した温度。自分でも説明できない温度だった。明日はクリスマスイブだ。しかも土曜日とあって、気の早い若者たちが楽しそうに通り過ぎる。赤い帽子のカチューシャ、金のラメ入りのマフラー、浮かれた声、浮かれた笑い。そこには緊張も静寂も孤独もない。皆、未来に期待している顔をしている。期待していい未来を持っている顔をしている。子どもの頃は、誕生日とクリスマスの祝いはいつも一緒にされていた。「毎日ケーキを食べていたら、太るわよ」母の言葉が頭に浮かぶ。真琴はスマホを胸の高さまで持ち上げたまま、誰にも届かない独白を落とした。「今日、誕生日だったのに……」その呟きは、ネオンに吸われ、冬の空気に薄められ、街のざわめきの粒子に溶けていった。返事はない。世界は続いている。自分だけが止まっている。「誕生日とクリスマスを一緒にするのは嫌なの!!」と、陽斗にはワガママを言えた。陽斗は笑って「じゃ、ケーキも二個用意するよ」、そう言ってくれた。もう、その優しさも、手を伸ばした先にはない。カレンダーの○は、まだ消えていない。 けれどその○はもう
last updateLast Updated : 2026-02-05
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第81話

 真琴が独り言をつぶやくと同時に、スマホが震え、メッセージが届いた。 光度を落とした画面が暗闇の中に青白く浮かび上がる。涙で濡れた視界がわずかに滲み、通知の振動が指先から心臓へ伝わるように響いた。胸の奥に残る冷え切った虚無を引き裂くような、現実の鼓動だった。 画面を見ると、天ヶ瀬昴。「真琴さん、明日のクリスマスに、オーロラ社のパーティーがあるのですが、一緒に行ってもらえませんか?」「もしも行けるのであれば、15時にマンションまでお迎えに行きます。」 真琴は画面を見つめていた。瞬きすら忘れたように、ただその文字列を追っていた。真琴の中に「ひとめぼれした」と言った、昴の顔が浮かんだ。社交辞令だとしても嬉しかった。世間で話題の、有能と謳われる、「オーロラ・エンタテインメント・ホールディングス」の社長、天ヶ瀬昴からの誘いである。この世に、喜ばない女がいるだろうか。真琴も、仕事関係の相手だということはわかっている。それでも、誰かに必要とされているという文面そのものが、弱った心に甘い光を灯した。 冷たい夜気の中、真琴はゆっくりと指を動かし返信を打った。簡素な言葉なのに、まるで壊れかけた自分を奮い立たせる呪文のようだった。「お誘いありがとうございます。明日、お待ちしています。ただ、準備があるのに、少し時間が早くないですか…?」 送信ボタンを押した瞬間、間髪入れずに返信が返ってきた。「ドレスをプレゼントしたいので、軽装で来てもらって構いません。美容室も予約しました。支度をする前に、軽く食事をしましょう。」「では、明日、楽しみにしています」 先ほどまで、絶望の淵に居た真琴には、その言葉が、非常に眩しく思えた。 贈り物、予約、美容室、食事、迎え――。誰かの時間と手間の中に、自分の存在が組み込まれている。そこに偽りがあったとしても、今の真琴には十分すぎる救いだった。 真琴は、「おやすみなさい」とだけ返した。素っ気ないほど短い言葉だったが、その実、胸の奥で何かが再び動き出していた。スマホの画面が消え、自動的に暗くなったガラス面に映った自分の顔は、悲鳴をあげる寸前で止まった心を抱えた、等身大の32歳の女の顔だった。涙はまだ流れている。頬を伝う雫は冷気で即座に冷やされ、滑り落ちる速度だけが生々しく残っていた。真琴は涙を拭いもせず、ただ夜空を仰
last updateLast Updated : 2026-02-05
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