All Chapters of ブロックした恋が、抱きしめてきたー冬空の告白、秋山真琴の選択ー: Chapter 91 - Chapter 100

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第92話

 慎一は、ショートメッセージの一文を読み終えたあとも、スマホを握ったままソファに沈み込んでいた。部屋の中は暖かいはずなのに、体温だけがどこかへ抜け落ちたように寒い。液晶画面はすでに暗転しているのに、視界の中央だけが白く滲んで見える。天ヶ瀬昴の腕に抱かれリムジンへ乗り込む女性の顔は隠されていた。だが「真琴ですよ」と告げられた瞬間、想像は慎一の理性を飛び越え、断片だけで心を完成させてしまう。 どれくらいそうしていただろう。時計の針が進んだ実感も、外を走る車の音も、耳を素通りしていた。 コーヒーはとうに冷め、カップの表面には触れても熱がない。ただ黒い水面だけが残り、まるで慎一の胸の奥を映すようだった。 再びスマホが震え、着信を知らせる。今度は楓の名前が表示されていた。慎一は反射のように通話ボタンを押す。「慎!! 真琴とは連絡ついたの?」 楓の声は、年末の街のざわめきより勢いがある。慎一はカップを見たまま、喉の奥から絞り出すように答えた。「いや……」 それ以上の言葉が出ない。楓の沈黙は一秒も続かず、すぐに「今から出てこい」と続いた。その圧に押されるように慎一は立ち上がり、重力の方向すら見失ったような足取りで家を出た。 向かったのは、いつものイタリアンレストランだった。扉を開けると、店内にはオリーブオイルとバターの香り、焼いたパンの甘い匂い、コーヒー豆の苦味を含んだ空気が層になって漂っている。いつもの窓際の席には、楓の見慣れた背中があった。白いニットの肩が少し強張っている。 慎一が黙って席に着くと、楓は短く言った。「冬真は来ないから」 食事とコーヒーを注文すると、驚くほど早く料理が運ばれてくる。皿がテーブルに触れた音が小さく響いた。「それで?」 楓はコーヒーカップを両手で包み、湯気で口元を隠しながら続ける。慎一は丸めた背中のまま、遠慮がちな声で聞き返した。「それでとは……?」 その姿は、先生に怒られる生徒そのものだった。楓は眉を吊り上げるような顔で問う。「何があったの?」 慎一は、逃げるように言葉を並べた。「何もないよ。昨日、電話で話した通り、結局、真琴には会えてないし、連絡も付かない」 そして自分もカップを持つ。冷たい指先が陶器に触れ、かすかに震えた。楓は慎一の顔を覗き込み、核心へと踏み込む。「この後、どうするの?」 慎一は力なく
last updateLast Updated : 2026-02-09
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第93話

 週明けの朝。 冬の空気はまだクリスマスの気配を残していたが、アークライト・コミュニケーションズ本社ビルの前だけは、祭りとも戦場ともつかない熱気に包まれていた。 ガラス張りのエントランス前には三脚付きのカメラ、社名ロゴを背にしたレポーター、無数のマイクを手にした記者たちがひしめき合い、出社ラッシュの人波すら押し返す勢いで陣取っている。SNSで拡散されたゴシップの火種は、とうとう現実の喧騒として燃え上がっていた。 真琴はビル正面のドアへ近づき、いつもと同じようにカードキーを取り出した。だがその一歩は、穏やかな日常ではなくフラッシュの閃光で迎えられる。「秋山真琴さん!!天ヶ瀬社長とはどういったご関係ですか?」 声が同時多発的に飛ぶ。別の記者が畳み掛ける。「天ケ瀬社長とクリスマスイブの夜は、ずっと一緒だったんですか!?」 真琴は肩をすくめる間もなく包囲された。マイクスポンジが頬の近くでぶつかり合い、質問は答えを求めているのではなく、絵になる反応を奪うための投網のようだった。退路は塞がれ、靴底が冷たいタイルに貼り付いたように動けなくなる。心臓は走っているのに、身体は立ち尽くすしかない。 その瞬間、ちょうどエレベーターホールへ向かっていた男性社員たちが異変に気づいた。営業部、制作部、総務部――部署も役職も関係ない。彼らは言葉を交わすより早く動き、壁のように真琴の前へ割って入ると、濁流のような人垣を押しのけて社内へと雪崩れ込んだ。「ごめん、ありがと」 真琴は乱れた前髪を指で整えながら、額に浮いた汗を手の甲で拭い、息を落としながら言った。その声は震えていない。震えている暇などなかったのだ。「秋山、貸しだぞ」 男性陣はニヤリと笑い、気負いも武勇伝も残さない軽さで返すと、エレベーターのボタンを押した。扉が開くとそれぞれが乗り込み、雑談と足音だけを残して自分たちの部署へ散っていく。真琴も深く頭を下げた。誰も責任を問わない。ただ守った。それだけの連携だった。 だが安堵の余韻もつかの間。真琴が自席のデスクに着き、PCの電源ボタンを押した瞬間、また名前が飛んでくる。「秋山、ちょっと来い」 呼んだのはマネージャーの三浦だった。彼の顔はいつになく真剣で、普段の飄々とした空気を一切まとっていない。真琴は仕方なく立ち上がる。話す場所は決まっていた。社内で一番“人目が少
last updateLast Updated : 2026-02-09
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第94話

 真琴がデスクへ戻ると、チームの若手社員たちは、報道レポーターの口調をそのままコピーしたような無邪気な好奇心を投げつけてきた。「チーフ!お誕生日は天ケ瀬社長と一緒だったんですか?」 「すっごく豪華なお祝いしてもらったとか?」 質問は矢継ぎ早に飛び交い、キーボードを叩く音よりも大きく、真琴の周囲だけ空気密度が高くなる。若手たちに悪意はない。ただ、華やかな噂話は年末の話題として最高の娯楽だった。「無駄話はやめ!!オーロラ社の年明けの資料の打ち合わせするわよ!」 真琴はピシャリと言い、資料フォルダを片手に立ち上がった。若手たちは「はーい」と声を揃え、足音を軽やかに響かせながら会議室へ続く廊下へ向かう。その列を引き連れる背中には、チームを率いる者の強さだけがあった。 廊下の照明は白く明るい。正月用に貼り替えられたポスター、松飾りを模したグラフィックパネル、床のカーペットに埋め込まれた社名ライン――すべてが企業の「新年モード」を主張している。その視界の向こう、角を曲がって現れたのは茜だった。 昨日の、電話での慎一の態度といい、天ケ瀬社長と真琴のニュース、そして、今朝のマスコミ騒ぎ。今日の茜は、誰より苛立っていた。 真琴とすれ違いざま、茜は口角だけ上げて言った。「誕生日は残念だったわね。でも、真琴には天ケ瀬社長が居るから、後藤先生のことは、もういいわよね」 その声音は挑発そのものだった。だが、真琴は止まらない。振り返る動作すら一瞬だけ。速度も強さも変えず、言葉だけを置いた。「あんたとは話をしたくないの」 そして会議室へ足早に進んでいく。茜はその背中を目で追い、ヒールのないブーツの爪先で床を軽く鳴らした。効かない。まるで弾丸を防ぐどころか、存在すら認識されていないかのように。 会議室のドアが閉まるまで、真琴は一度も振り返らなかった。 真琴のチームの若手たちも、先ほどの空気を察したのか、質問を再開する者は誰もいない。 取り残された茜は、拳を握るほどの激情を、バッグを持つ指の強さだけで表現した。(なによ、あの態度……!) 頭の中で怒声が反響する。嫌味を言ったのに、刺さらない。挑発したのに、かすりもしない。相手の反応が返ってこないということは、プライドを一番削る。効いたかどうかを測る物差しすら折られたのだから。(せっかく言ってやったのに……普通なら
last updateLast Updated : 2026-02-09
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第95話

 会議室の空調は一定のリズムで低く唸り、資料のページをめくる乾いた音とプロジェクターの駆動音が規則的に重なっていた。だが、その整然としたビジネス空間の中心に座る真琴の視線だけは、スライドではなく遠い一点に固定されていた。ディレクターの進行は淀みなく続き、オーロラ社の年明けイベント企画は着々と組み上がっていく。広告導線、タレント起用、年始のメディア投下スケジュール――すべてが戦略的だ。だが、真琴の鼓動だけはそのテンポから外れていた。 頭の中で繰り返されているのは、真琴の脳裏に貼り付いた一枚の記憶。 自分の誕生日の夜、慎一と過ごすはずだった時間。そこへ割り込むように現れた茜が、慎一と同じタクシーの後部座席に乗り込んでいく光景だった。車体のドアが閉まる瞬間の鈍い音、テールランプの赤い光、慎一の横顔が見えなかったこと――それらの欠落部分を、真琴の想像は何度も補完し直し、反芻しては削り落としていく。 彼女は会議のメモ欄にペンを走らせているように見えたが、実際に書き込まれているのは文字ではなく「抑制」だった。顔は落ち込んでいない。落ち込んだ顔すら“宣伝になる世界”で、彼女は感情の見せ方を熟知していた。 クリスマスイブの日。 報道の嵐から逃れるように乗り込んだリムジンの中で、天ヶ瀬昴から告げられた言葉。「一緒にイブを祝いたい」 昴の横顔は真剣で、仕事の駆け引きとは別の温度を持っていた。リムジンのシートは柔らかく、窓ガラスは外界を遮断し、質問の連射から真琴を守る防弾ガラスのように沈黙していた。 逃げ込んだはずの密室は、いつの間にか昴の領域へと変わっていたのだ。真琴はそこで、抗うより先に頷いてしまった。 プライベートホテルの一室に案内された瞬間から、すべては演出の完成形だった。照明はシャンパンゴールドの柔らかな拡散光。テーブルクロスは純白、皿は黒縁のモダンスタイル。 真琴の好みを把握していそうなほど計算されたレストラン顔負けのディナー。氷で冷やされたシャンパンが細身のグラスに注がれ、カトラリーの配置すら左右対称の美しさを保っている。昴はいつも、計算されつくしたデートを演出してくれる男だった。 食事は滞りなく終わった。だがその「滞りのなさ」こそが、今の真琴には異質だった。昴がワインを勧め、グラスが触れ合い、真琴も唇をグラスへ寄せる。 ワインが喉を通ったそのとき
last updateLast Updated : 2026-02-10
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第96話

 年内最終日の夜。ビル全体の照明は徐々に落とされ、オフィスフロアにも薄い静寂が広がり始めていた。 日中は絶え間なく鳴っていた電話も、キーボードの連打も、コピー機の稼働音も、すべて仕事納めと同時に姿を消した。 旅行や帰省の準備を整えた社員たちは、夕方を待たずにそそくさと退社し、楽しげな別れの挨拶だけを残してフロアから流れ出ていった。今はもう、人影もまばらどころか、真琴以外の気配すらない。 それでも真琴はまだ、自分のデスクの前に座っていた。PCのモニターが放つ白い光だけが、夜の室内で唯一の熱源のように浮かんでいる。 休み明けの資料はすでに揃っている。提出物も完了済み。打ち合わせの準備も抜かりない。にもかかわらず、彼女はそこから離れなかった。 忙しさに追われているのではない。むしろ「追われるものが無くなった」からこそ席に留まっていたのだ。 ふと立ち上がると、チェアがカーペットを擦る微かな音を残し、真琴は窓際へ歩いて行った。 高層ビルのガラス越しに見える師走の街は、せわしない足音と吐く息の白さで満ちている。コート姿のサラリーマンたちは、駅へ急ぐように足早に舗道を流れ、信号が変わるのすら惜しむかのように歩いていく。その光景を見下ろしながら、真琴は思考の迷路へ踏み込みそうになり、寸前で足を止めた。(弁護士も、年末は忙しいのかな) 浮かんだ問いは自然な連想だった。だが次の瞬間、真琴はハッと目を見開く。意識して思考を遮断しようとしていた名前が、今まさに唇の裏側まで上がってきていたからだ。 慎一。 あの誕生日の夜から、彼とは一言も話していない。自分から着信拒否をしたのだ。にもかかわらず、拒否ボタンを押したその指よりも、会えない時間の方が長く胸に残っていた。 楓には「スマホを失くした」と嘘をついたまま。 取り繕った説明も修正もしていない。 そのとき、背後から低い声が落ちてきた。「秋山、帰らないのか?」 振り向くと、スーツの上着も脱がずに立つ三浦の姿があった。彼の気配はいつも突然だが、今夜のそれは足音すら聞かせなかった。まるで最初からそこにいたかのような立ち位置。上司としてでも、監視者としてでもなく、夜の最後に残った「話し相手」として。 休憩スペースへ誘われると、三浦は自販機の前で立ち止まり、短く言った。「今年もご苦労さん」 そう言って、真琴のため
last updateLast Updated : 2026-02-10
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第97話

 1月3日。三が日のゆるやかな時間がまだ街に残っている昼下がり、楓は大きめのエコバッグとワインのボトルが入った紙袋を両手に抱え、真琴のマンションを訪ねた。エントランスの自動ドアが開くと、冷たい外気とともに松の飾りを模した芳香剤の匂いがふわりと漂う。エレベーターの鏡に映る自分の頬が少し赤くなっているのを見ながら、楓は「相変わらず寒いな」と独り言を漏らした。だが胸の中にあるのは季節の冷たさではなく、年末から続く真琴との距離の温度差だった。 インターホンを押すとすぐに扉が開く。真琴はスウェットに薄手のカーディガンというラフな出で立ちで、髪も軽くまとめただけ。年始の“ゆるさ”をそのまま纏っているように見えたが、瞳の奥だけは何かを抱えたまま揺れていた。楓は玄関で荷物を置き、躊躇なく腕を広げる。「明けましておめでとう」 そしてそのまま真琴を抱きしめた。友達としての距離を一気にゼロへ戻すような強さと温かさ。それは、「楓だけ」の抱擁だった。「楓……?」 真琴は驚いたように名前を漏らす。楓は真琴から身体を離しながら、どこか不安を溶かすように笑って言った。「もう友達で居てくれない気かと思ってた」 その笑顔は冗談めいているのに、口調には本音の名残がある。真琴はすぐに声を跳ね上げた。「そんなわけないじゃん!!楓、大好きだよ!」 今度は真琴の方から楓に抱きついた。二人の肩がぶつかり、冬の冷気を忘れるような笑い声が玄関で一度弾けた。「ゴメン。私が意地を張ってた」 真琴はそう言いながら楓の持ってきた料理をテーブルに広げ始める。楓は申し訳なさそうに眉を下げ、声を小さくした。「残り物だけど……」 だが真琴の反応は正反対だった。タッパーの蓋が開くたび、彼女の声は輝度を増す。「すごーい!! おいしそう!」 テーブルに並んだのは、楓が実家で詰めてきた正月料理の数々だった。黒豆は艶やかにふっくらと煮含められ、金箔はないのに照りだけで存在感を放つ。田作りは甘辛い蜜で固められ、くるりと曲がった小魚が規則正しく寄り添っている。数の子は薄い醤油出汁を纏い、噛めばパリッと音がしそうな瑞々しさ。かまぼこは松葉のようにカットされ、ちょこんと並ぶだけで正月の景色を完成させていた。楓は照れ隠しのように説明した。「お正月の料理を書いてくださいって、もし言われたらこんな感じかなって思ってさ」
last updateLast Updated : 2026-02-10
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第98話

 真琴はソファに沈み込んだ姿勢からゆっくり背を起こし、楓の横顔をまじまじと見た。さっきまでの湿った空気とは違う、温度のある話題が突然テーブルに投げ込まれたからだ。楓の言葉はいつも唐突で、だが真琴の胸に真っ直ぐ届く。「楓は慎一の弁解に来たのかと思ってた」 真琴は少し驚いたように目を瞬かせ、それから穏やかに微笑んだ。疑うでもなく、責めるでもなく、ただ楓の意図を測ろうとする柔らかな声音だった。 楓はグラスを軽く揺らしながら笑う。赤いワインの水面が光を受けてゆらりと揺れ、まるで話題の転換の合図のようだった。「私は真琴の親友でしょ。慎は……あ!!そういえば、うちの親と、慎のパパが結婚したのって話したっけ?」「え!? いつ?」 真琴は思わず身を乗り出した。スウェットの袖がソファのクッションを擦り、ソファのスプリングがきゅっと小さく鳴る。楓の家族の話は知っているつもりでいたのに、知らないページがいきなり開かれた気分だった。「先月。いきなり『桜さんと籍を入れようと思っている』とか、後藤教授が言い出して……慎一とは、兄妹になっちゃったのよ」 楓は笑いながら言う。その笑顔は軽いのに、言葉の重さは真琴を完全に酔いから醒まさせた。「でもね……」 楓はそこで表情を切り替えた。グラスを置き、背筋を伸ばし、真琴の視線をしっかり受け止める。「だから真琴が慎一と上手くいって欲しいわけじゃないの、それは忘れないでね」 念押しでも、説明でもない。ただ楓の“真顔の宣言”だった。 その直後、楓はコートを羽織り、靴を履きながらさらりと言う。「そういえば、海斗くんが真琴さんと遊びに行きたいって言ってたわよ」「え? 急に?」「急に。あの子、若いからそういうノリでしょ」 楓はくすっと笑い、ドアノブに手をかけた。「じゃあね。ちゃんと食べて寝るのよ」 扉が閉まる。かちゃん、と乾いた音がした。 部屋にはまだおせちの匂いとワインの余韻だけが漂っていた。 真琴はテーブルの皿や小鉢をまとめ、キッチンへ運ぶ。 洗い物をしながらも頭の中はさっきの家族ニュースでいっぱいだったが、ふとスマホの画面が視界に入った。「海斗ね……」 連絡先を開くと、先日の食事の席の記憶が蘇る。砕けた笑い声、他愛のないやり取り、遠慮のない食べっぷり。気負いがなくて楽だった。 真琴は無意識のまま海斗の電話番号
last updateLast Updated : 2026-02-11
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第99話 海斗との初詣

 真琴がマンションのエントランスの自動ドアを抜けた瞬間、冬の冷気が頬を撫でた。年明けの空は澄み切っていて、薄い雲すらほとんどない。まだ正月三が日特有の浮ついた空気が街全体に残っている――そんな朝だった。 その時だ。 海斗が向こうから全力で走ってくる姿が、視界のど真ん中に飛び込んできた。「一時間くらい掛かるって……走ってきたの?」 真琴は目を細め、呆れ半分・面白さ半分の苦笑を浮かべた。走る海斗のコートの裾は風を巻き込み、肩に掛けたショルダーバッグが上下に暴れている。まるで部活の朝練に遅刻した高校生みたいだ。 目の前で急ブレーキをかけた海斗は、前かがみになり膝に手をついた。「ち、違いますよ!!ここへ来る途中、渋滞がひどかったんで、テキトーなパーキングに車を止めて、そこからダッシュしてきました!」 息は途切れ途切れ。言葉の合間に「はぁっ」「はぁっ」と空気を吸い込む音が混じる。額にはうっすら汗。冬なのに、ここまで必死に走る人間がいるだろうか。「……大変だったわね」「いや、マジで死ぬかと思いました…!」 真琴はそんな海斗の肩を軽くつまみ、ぽんと叩いた。「ちょっと今、キュンとしたわ」 すると海斗は呼吸すら整っていないくせに、顔だけはやけに余裕のあるニヤ笑いに切り替えた。「でしょ?今年は“オレ”にしたらどうですか?」「調子に乗らないの!」 真琴は即ツッコミと同時に、海斗の肩をパシッと軽快に叩いた。乾いた音が正月の朝の空気に響く。「甘酒飲むんでしょ? 車に乗っちゃダメ」 ぴしゃりと釘を刺すその口調は姉というより保護者だったが、どこか楽しげでもある。「さぁ、行くわよ!!」 真琴はそのまま振り返りもせず、屋外へ向かってどんどん歩き出した。ヒールのないブーツなのに歩幅がやたら大きい。海斗は一瞬、取り残されたみたいに呆然とした顔で真琴の背中を見送ったが――「真琴さん!待ってくださいよ!!」 我に返るとすぐ、再び小走りで追いかけていった。 --- 海斗と行った初詣は、たしかに楽しかった。 参道の石畳を踏むたび、木々の間から差し込む光がちらちら揺れる。賽銭箱に投げ入れた五円玉が「カラン」と高く跳ねる音すら笑いの導火線になった。 おみくじ売り場では海斗が勢いよく引いた紙を広げ、次の瞬間、顔面蒼白になった。「海斗、大凶!? 年始から最悪!!」
last updateLast Updated : 2026-02-11
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第100話

 年始の仕事始めの日。アークライト・コミュニケーションズのビルは、正月休みの静けさをまだ完全には拭いきれていなかった。 だが真琴の心だけは違う。 年末から抱えていた陰鬱な澱は、まるで嘘だったみたいに晴れ渡っていた。胸の奥が軽い。呼吸が深くできる。 海斗と出かけた初詣の一日は、彼女の中に溜まっていた余計な迷いを、冷たい空気ごと全部吹き飛ばしてくれたのだ。 自分が何を悩んでいたのか、いまでは思い出すのも難しい。 慎一のことで泣いて、天ヶ瀬昴とスキャンダルに巻き込まれて、結局誰ともうまくいかなかった。 あの頃の自分は、らしくなかった。 誰かに振り回され、周囲の評価や視線を気にして、勝手に縮こまっていた。今の真琴はそれをはっきり自覚している。  だからといって海斗を振り回す気もない。甘えるでも寄りかかるでもない。ただ感謝して、距離を守る。今の自分に必要なのは恋じゃない。 バレンタインデーに開催される『AURORA FES 2026 -冬空に響く光の歌声-』。このイベントをどう成功させるか。それだけを考えようと、心に決めた。 広告代理店、スポンサー企業、現場スタッフ、アーティストのスケジュール。    現場を知るプロである彼女の経験はここでも活きる。段取り、ヒューマンエラー対策、時間設計、関係各所の心理。すべてを束ね、事故ゼロの進行で成功へ運ぶ。それが彼女の戦場であり、勝つべき場所だ。  だが。 自分のデスクがあるフロアでエレベーターを降りた瞬間、真琴は一番見たくない顔と出会ってしまった。 エレベーターの扉が開いた電子音に振り返った茜が、冷たい視線を送ってくる。温度のない視線。値踏みするようで、敵意を隠しもしない視線。新年の空気すら切り裂くみたいな眼差しだった。「おはよう」 真琴は顔をあげ、年始の挨拶もせずに、茜の横を通り過ぎた。いつもなら一瞬くらい表情を作るのに、今日はそれすらしない。無駄なエネルギーを使わないと決めたからだ。茜の存在は視界に入っても、心には入れない――そう決めていた。 その背中に、茜が低く吐き捨てるように呟いた。「相変わらずね。自分だけ清廉ぶって」 だが真琴は止まらない。聞こえていても反応しない。氷みたいな空気を吸っても肺が焼けないくらい、心の芯が固まっていた。  真琴がデスクに座ると、PCの電源を入れるより先
last updateLast Updated : 2026-02-11
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第101話  噂の再燃

仕事始めから数日。真琴のデスクには付箋も消え、上書きされたファイルも新しい進行表として蘇りつつあった。だが、茜の仕掛けは終わっていなかった。むしろ“本番直前に効く形”へと姿を変えて、静かに真琴の足元を揺らし始めていた。  朝のオフィス。真琴が出社すると、空気の匂いがいつもと違った。社員たちがコソコソと話しながら真琴の方を横目で見る。視線は刺さらない。だがざわめきは肌に触れる。 コピー機の横、休憩ブース、給湯室――人が集まる場所には必ず一枚、フェスのロゴが印刷されたメモ用紙が無造作に置かれていた。そこには同じ言葉が、筆跡を変えながら繰り返されている。「本当にこのフェス、黒じゃないの?」「天ヶ瀬昴と秋山真琴の件って結局どうなった?」「スポンサー側も不安がってるらしいよ」 すべて匿名。すべて断定を避けている。だが疑念だけは強烈に残る書き方。これが茜のやり口だった。直接言わず、証拠も残さず、真琴が犯人扱いされる余地だけを残して“人の心理”を増幅させる。 真琴はゴミ箱に捨てるでも、怒るでも、聞き返すでもなく、ただ通り過ぎた。心は乱れない――そう決めたはずだった。 だが。 人は噂そのものでは崩れない。“噂を向けられていると自覚した時の孤立感”で崩れる。 真琴は席に座ると、ビルの窓ガラスに映った自分の顔を一度だけ見た。 泣きそうな顔ではない。怒りで歪んだ顔でもない。ただ、強くいようとして表情を固めすぎた顔だった。「……仕事で結果出せば、雑音は消える」 そう呟いてPCを開く。キーボードを叩く。確認リストを作る。スポンサー対応表を開く。誰よりも段取りを把握し、誰よりもフェスの成功だけを考えている自分を、数字と作業で証明するしかない。 昼過ぎ。 フェス協賛企業の一社――黒川アルアセットグループの広報部から、オーロラ社へ正式な問い合わせが入った。「機密管理の体制について確認したい」 担当マネージャーの声は硬い。理由はこうだった。 未公開の進行資料、ステージ構成案、スポンサー調整前の金額一覧が“外部アドレスから送信された形”で企業側に届いていたのだ。しかもメールの最後にはこう添えられていた。「関係者の一部が個人的スキャンダルの渦中にあり、プロジェクト管理に支障が出ています」 名指しはない。だが文脈は真琴を示している。 企業側は困惑し、アークライ
last updateLast Updated : 2026-02-12
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