All Chapters of 婚姻生活にさようなら、椎名さん: Chapter 121 - Chapter 130

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第121話

隣の部屋から扉を激しく閉める音が聞こえ、承也はようやくゆっくりと視線を戻した。莉奈が逃げる間際、とっさにベッドの上に落ちていた写真を拾い上げる。承也は握りつぶされてくしゃくしゃになった写真を指で伸ばし、そこに写る小さな足を一瞥した。それから無造作に、枕の下へ差し込んだ。……莉奈が自分の部屋へ戻って間もなく、スマホが鳴った。和夫からの電話だった。電話を切ったあと、莉奈は深く息を吸い込んだ。和夫は、E国行きの候補者名簿に莉奈の名前を入れてくれたという。考えるまでもなく、美月の裏工作があったのだろう。そうでなければ、和夫のほうからこんなに早く確かな返事が来るはずがない。恋敵同士でも、利害が一致することがあるらしい。生きていれば思いがけないこともあるものだ。しかも、その当事者が自分だとは。けれど、ひとまずこの件には目途がついた。莉奈の学部時代と大学院時代の専攻、それにこれまでの経歴を考えれば、審査で落とされる心配はほとんどない。つまり、あと一か月半もしないうちに、莉奈は取材チームとともにE国の海外支局へ向かうことになる。三年。あるいは、それ以上。……莉奈はベッドに横になり、寝返りを打った。片手で頭を支え、もう片方の手でスマホを握ったまま、床に伏せて前足で承也の杖を転がして遊んでいる将軍を眺める。胸の奥が、ふっと空っぽになった。莉奈は掛け布団の上に寝転がったまま、いつの間にかうとうとし始めた。空気の中に、かすかな香りが漂っている。ほどなくして、莉奈は深い眠りに落ちた。部屋の扉が、外から静かに開いたことにも気づかない。床でうつらうつらしていた将軍が、はっと身を起こした。耳を立て、警戒するように入口を見つめる。喉の奥で低く一声鳴いたものの、将軍はすぐにまた床へ伏せ、目を閉じた。翌朝、莉奈は自分に掛けられた布団をめくろうとして、ふと動きを止めた。昨夜、いつ眠ったのだろう。どうしてあんなに深く眠ってしまったのか。それに、フットスツールの上に綺麗に置かれた上着を見て、莉奈は眉をひそめた。自分で脱いだ覚えがない。莉奈は額を押さえた。昨日はよほど疲れていたのだろう。自分がいつ眠ったのかも、何をしたのかも、記憶がはっきりしないのかもしれない。もし本当に誰かが部屋に入ってきた
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第122話

廷治が莉奈のそばへ歩み寄り、声を落とした。「向井さん、気を悪くなさらないでください。あの人は昔からああで、マスクと帽子は絶対に外さないんです」「大丈夫。初めて会うわけじゃないし」莉奈は気にした様子もなく答えた。去年、妊娠する前に、莉奈はこのトレーナーから護身術の手ほどきを受けたことがある。そのときも彼は今と同じだった。マスクに帽子、手袋まで身につけていて、最初は莉奈も少し怪訝に思った。だが廷治から、彼が傭兵時代に知り合った相手だと聞いて納得した。昔からこういう格好で、生まれつき声を出せないのだという。そのうえ、彼はかつて廷治の命を救ったこともあるらしい。この十年、連絡を取ることはほとんどなかった。それでも廷治が助けを求めれば、どこにいようと必ず現れて力を貸してくれる。莉奈が護身術を習いたいと知ったとき、廷治が真っ先に思い浮かべたのは、その男だった。莉奈に教えるなら、いちばん信頼できる相手でなければならない。莉奈が近づくと、男は立ち上がった。長身で肩幅は広いが、廷治のような厚みのある体格ではない。引き締まった腰回りをしていて、無駄のない身体つきだった。莉奈は男へ手を差し出した。「トレーナーさん、お久しぶりです。今日からまたよろしくお願いします」男は莉奈の手を軽く握り返すと、すぐに離した。淡々としていて、人を寄せ付けない雰囲気は以前と変わらない。男はポケットから黒いスマホを取り出した。メモアプリを開き、短く文字を打つ。【格闘を習いたいのか】莉奈はうなずいた。男はまた画面に文字を打った。【基礎が弱すぎる。まずは最低限の筋力からだ。そこを飛ばせば、どんな技もただの見せかけになる】出発まで、一か月半もない。莉奈は少し焦っていた。探るように尋ねる。「技の練習をしながら、筋力トレーニングも並行してできませんか?見せかけでも、少しは役に立つんじゃないですか?」莉奈が期待を込めてトレーナーを見る。男は莉奈の顔から視線を外し、うつむいてスマホに文字を打ち始めた。最初に画面に表示されたのは、【確かに役に立つ】という言葉だった。莉奈の顔が少しだけ明るくなる。だが続く文字は、まるで正面から平手打ちを食らったような内容だった。【笑いは取れる】莉奈は言葉に詰まった。このトレーナーは声を出せない
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第123話

莉奈はまじまじと相手を見た。すぐに、自分の問いが踏み込みすぎたのだと気づき、慌てて口を開く。「いきなりすみません。もし触れられたくないことでしたら……」男はスマホを取り出し、画面を数回タップした。それから、莉奈の前へ差し出す。【黒瀬壇将(くろせ だんしょう)】――黒瀬壇将。莉奈は思わず、その名を口の中で繰り返した。男に向かって笑みを返したものの、内心ではひどく気まずかった。黒瀬という苗字が聞いたことがある。しかし、下の名前の「壇将」とは、発音は「男娼」と同じだった。金で買われる男や、身分ある女性が囲う男の愛人を指す言葉だ。トレーナーは見たところ、そこまで年を取っていない。廷治の話では三十歳前後だという。背が高く、体格もよく、マスクと帽子で顔を隠し、人を寄せつけない空気をまとっている。謎めいた雰囲気は十分すぎるほどあった。それでも莉奈には、その名前を面と向かって呼ぶ勇気が出なかった。男は上着を手に取り、部屋を出ていった。莉奈がシャワーを浴びて出てきたころには、男の姿はもうなかった。莉奈はバッグから車のキーを取り出し、自分の車へ向かった。だが車のそばに、人影が立っている。今夜は風が強い。顔に当たるだけで、骨まで冷えるような寒さを感じる。男は莉奈の車のドアの横に、どれくらい立っていたのだろう。視線が合った瞬間、男の目にかすかな温かさが浮かんだ。長い脚を踏み出し、莉奈のほうへ歩いてくる。「奈奈」莉奈は意外そうに省之介を見た。「省之介さん、どうしてここにいますか?」「友人と食事に来ていたんだ。君の車が停まっているのが見えた」省之介は隠す様子もなく答えた。けれど省之介の身体にまとわりついた冷気を見れば、しばらくここで待っていたことは分かる。莉奈の胸に、小さな波紋が広がった。省之介は電話もせず、ただここで待っていたのだ。もし莉奈がずっと出てこなかったら、彼はそのまま待ち続けるつもりだったのだろうか。莉奈の頬にはまだ少し赤みが残っていた。下ろした髪からは、シャンプーの淡い香りがする。運動を終えたばかりなのだと、見ればすぐに分かった。省之介は無意識に一歩前へ出て、莉奈に当たる風を遮った。「運動したばかりで風に当たるのはよくないよ」省之介が少し近づく。莉奈は近いと感じ、本能的に一歩下がろうとした
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第124話

怒りのあまり、スマホを握る莉奈の手が勝手に震えだした。指の間から滑り落ちかけたところを、温かく大きな手がそっと手の甲ごと支えた。「奈奈?」莉奈は、心配そうに覗き込む省之介をぼんやりと見上げた。頭の中は真っ白で、胸の奥には焼けつくような屈辱だけが残っている。喉元までせり上がった痛みを、莉奈は必死に飲み込んだ。「省之介さん、私、用事があるから先に行きますね」壊させてはいけない。あのツリーハウスだけは、絶対に壊させてはいけない。長い年月のどこかで、強風にあおられて倒れたというのなら。雷雨の夜に雨に流され、朽ちて崩れたというのなら、自分はきっと寿命なのだと受け入れたはずだ。けれど、あんな形で奪われるのだけは許せなかった。美月が命じて、あのツリーハウスを取り壊す。そんな光景を、莉奈は黙って見過ごすわけにはいかない。昨夜、千鶴は離婚協議書に何か希望の条件はあるかと莉奈に尋ねた。莉奈は何もいらない、ただ西苑の邸宅だけを返してほしいと答えた。その場で千鶴は、白崎執事に協議書の草案を用意するよう言いつけた。そのあと承也が部屋に入ってきたのは、おそらく千鶴が彼に署名を求めたからだろう。だが今日、千鶴はその件を一言も口にしなかった。きっと千鶴でさえ、承也を折れさせることはできなかったのだ。莉奈は西苑へ向かって、車を飛ばした。充血した瞳に涙がにじむ。これまで感じたことのない無力感と孤独が、莉奈の全身を覆っていく。ハンドルを強く握りしめたいのに、指先から力が抜けていく。カチカチと奥歯が鳴るほど、震えが止まらなかった。そのとき、白い子猫が茂みの中からひょこりと顔を出した。猛スピードで迫る車に気づかないまま、小さな尻尾を揺らして道路へ飛び出してくる。一瞬で頭から血の気が引いた。莉奈の心臓がぎゅっと縮み上がり、反射的にハンドルを切る。飛ぶように走っていた車が、急ブレーキで止まった。タイヤが路面をこすり、耳をつんざくような摩擦音が響き渡る。莉奈の頭が、ドアのフレームに強く打ちつけられた。鋭いブレーキ音に驚いた子猫は、か細く鳴いて身を翻し、茂みの中へ逃げ込んだ。後ろを走っていた黒い高級セダンが急停車した。省之介は血の気を失った顔で車から飛び出し、ドアを閉めた。地面を踏む足がもつれそうになるのを必死にこらえる。省之介
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第125話

莉奈は唇をかすかに動かした。焦点の合わない瞳のまま、途切れ途切れに声を絞り出す。「西苑に……行き……たい……」西苑。省之介は、そこが莉奈のかつての家だと思い出した。だが、今の莉奈には何より休息が必要だ。省之介はすぐには答えず、そのまま莉奈を車に乗せた。助手席に座らせ、シートベルトを締める。省之介が身を起こし、ドアを閉めようとしたときだった。助手席で力なく傾いていた莉奈が、省之介の袖をぎゅっとつかんだ。省之介が視線を落とすと、莉奈はうつむいたまま、嗄れた声で泣きつくように言った。「お願いします」冷たい潮が、一気に胸の奥へ押し寄せたようだった。省之介は息を詰まらせる。「……連れて行くよ」車は静かに道を進んだ。省之介は、窓の外を見つめたままの莉奈を横目で見た。そのとき、スマホが短く鳴り、メッセージが一通届く。【西苑のあの邸宅は椎名社長の名義です。現在は桜井様がお住まいです】省之介の顔から、温度がすっと消えていった。省之介は指先で画面を数回操作し、スマホをコンソールに置いた。車の速度が、少しずつ上がっていく。車は西苑の敷地へ入った。この一帯の邸宅はどれも敷地が広く、建物同士の距離も十分に取られている。互いの暮らしが入り込まないよう、静かに隔てられた場所だった。省之介は、莉奈がかつて暮らしていた家の前で車を止めた。門の前には、すでに一台の車が停まっている。ナンバープレートには同じ数字が並んでいた。この街でそれを見れば、誰もが最上位の家の車だとわかる。権力と富の象徴だった。省之介は莉奈を車から降ろすと、自分の上着を脱いで莉奈の肩にかけた。そして何気ないふりで、莉奈の横に半歩出る。けれど、莉奈はもうその車を見ていた。昨夜、莉奈が今夜の取材を受けてもらえないかと尋ねたとき、承也は時間がないと言った。その時間は、ここで美月のそばにいるためのものだったのだ。ならば、美月がツリーハウスを壊すことも、承也は知っている。莉奈の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。痛みが深すぎて、感覚まで失った人形のようだった。その瞬間、塀の内側から、何かが轟音を立てて崩れる音がした。ツリーハウスだ。ようやく少し戻りかけていた血の気が、莉奈の顔から一瞬で引いた。思考が追いつくより先に、莉奈の体が動い
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第126話

体の中身を一瞬でえぐり取られ、内側をすべてすり潰されたようだった。残ったのは、空っぽの殻だけだ。莉奈の澄んだ瞳から、光が消えていた。ふいに、省之介の手が莉奈の目の前を覆った。温かな手のひらが、氷のように冷えた莉奈の頬に触れる。「見るな」省之介は莉奈の肩を支えた。それでも、美月が承也の腰に腕を回していた光景は、莉奈の頭から離れない。悪夢のように何度も浮かんでは消え、消えてはまた浮かび上がる。そのたびに、心が激しくかき乱された。莉奈はとうとう耐えきれず、半身を省之介の腕に預けたまま、うつむいてえずいた。喉の奥から込み上げる吐き気に引きずられ、涙がにじむ。血の気の失せた顔の中で、莉奈の瞳だけが、血が滲み出しそうなほど赤かった。大きなフランス窓の内側で、承也は美月に抱きつかれた瞬間、その腕を押しのけた。何かを感じ取ったように、承也の黒い瞳が庭へ向く。窓の外で、省之介に支えられている莉奈を見つけた。莉奈の震える体は、次の瞬間にも粉々に崩れてしまいそうだった。「承也!」美月は、力強く足早に歩き出した承也の背中へ声をかけた。テーブルのそばには、承也が置き忘れた杖が残されている。その姿だけを見れば、脚の怪我がまだ治りきっていないことなど忘れてしまいそうだった。美月は慌てて車椅子を動かし、承也のあとを追った。莉奈は本当に来た。やはり彼女は、この家にあるものを何ひとつ手放せていない。省之介は莉奈の様子を見て、軽い脳震盪に激しい感情の揺れが重なった反応だと悟った。省之介は片手で莉奈を支え、この場から連れ出そうとした。こんなことになるとわかっていたなら、絶対に莉奈をここへ連れてこなかった。けれど、莉奈は省之介の手をそっと払った。声は、今にも消えそうな煙のようにかすれている。「このまま終わらせるわけには……いかない」莉奈は顔を上げ、十数年ぶりに見る家を見つめた。長いあいだ閉ざされていた場所だ。こうして庭に入って初めて、莉奈はようやくその姿を真正面から見ることができた。壁も屋根も、面影は昔のままだ。けれど、ずいぶん古びていた。テラスの下には、もう元の色もわからない落書きが残っている。幼い莉奈がクレヨンを握り、自分を大画家だと思い込んで、夢中で描きつけた跡だった。目の前の景色が、黄ばんだ手紙のようにゆ
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第127話

まだ形を保っていた木材が、とうとう二つに割れた。莉奈はその場にしゃがみ込み、両手で瓦礫をかき分けはじめた。突き出た釘が指先を裂き、血が木の上にぽたりと落ちる。それでも莉奈は痛みを感じていないように、ただうつむいたまま、ますます速く手を動かした。「奈奈!」省之介は莉奈を我に返らせようとした。だが、莉奈は外の声に少しも反応しない。省之介は莉奈のそばに膝をつき、釘のついた木片を片端からどかした。莉奈の手を傷つけないように遠ざけ、血の流れる指先を片手でつかむ。もう片方の手で、省之介も瓦礫の中を探りはじめた。やがて、莉奈の手が止まった。崩れた木材の山の中に、一枚の四角い板が埋もれている。角は丁寧に丸く削られていた。長い歳月、風雨にさらされ、塗料はほとんど剥げ落ちている。それでも、そこに一画ずつ刻まれた文字は、まだ読めた。――だいすきな奈奈のひみつ基地。莉奈は呆然とそれを見つめた。次の瞬間、涙があふれ出す。莉奈は板を拾い上げ、胸に強く押し当てた。心臓をもぎ取られたようだった。残された傷口から、冷たい血がいつまでも流れ続けている。これは、父が自分の小さな手を握り、一画ずつ一緒に刻んでくれたものだった。莉奈は震えながら立ち上がった。風が長い髪をさらい、額にかかっていたおくれ毛を吹き飛ばす。そこに、車のドアにぶつけた跡があらわになった。赤紫だった痕は青紫に変わり、白い肌の上でひどく痛々しく浮き出ている。テラスの下に立つ承也の黒い瞳が、かすかに強張った。「どうして?」莉奈の問いは、ひどく小さかった。あと一か月半もしないうちに、自分は海外へ行く。美月はそのことを知っている。自分がもう承也をいらないと決めたことも、わかっているはずだった。それなのに、どうしてこの時を選んで、自分の胸にもう一度刃を突き立てるのか。美月は穏やかな声で言った。「このツリーハウスは長いあいだ手入れされていなかったの。いつ崩れてもおかしくない状態だったから、これからの安全を考えて取り壊しただけよ」「そんなに死ぬのが怖いなら、どうしてここから出て行かないのよ!」莉奈の声が、鋭く跳ね上がった。その冷たく研ぎ澄まされた、どこか聞き覚えのある気配に、美月の眉間がわずかに動いた。「説明したでしょう。ここは静かで、体を休めるの
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第128話

ツリーハウスを壊させたのは、承也だった。莉奈の瞳は、底の見えない空洞のようになっていた。さっきまで胸に抱いていた木の板を、爪が食い込むほど強く握りしめる。けれど骨の奥から震えが込み上げ、指先まで小刻みに揺れた。ふいに、莉奈はうつむいて笑った。笑いながら首を振る。血の気のない顔は紙のように白く、こぼれた涙が承也の靴の先に落ちた。「そうだったのね。美月にそんな度胸があるわけないもの」すべて、辻褄が合った。激しい感情が胸の内側を引き裂いていく。魂が肉体から剥がれ落ちていくようだった。あまりの痛みに、もう立っていられない。視界が何度も暗く沈み、莉奈の体から力が抜けた。省之介の顔が険しくなる。その瞬間、省之介に肩を抱かれていた莉奈の体を、承也が奪い取るようにして引き寄せた。承也は腕の中の莉奈を見下ろした。血の気の失せた顔。額に浮かぶ青紫の打撲痕は、目を背けたくなるほど痛々しい。険しく寄った眉の下で、深い瞳が暗く揺れていた。彼は奥歯を噛み締め、莉奈の体を抱き上げた。怪我をした脚で、大股で階段を下りていく。全身から冷たい怒気が立ちのぼっていた。その圧倒的な気配に、周囲の誰も近づけない。承也は庭に散らばる木片を踏みしめ、足早に進んでいく。省之介は、今ここで承也を止めるべきではないとわかっていた。何より優先すべきなのは、莉奈の体だ。それでも、省之介は駆け寄って承也の前に立ちはだかった。「奈奈を渡せ」承也の声は、恐ろしいほど静かだった。「退け」「奈奈はここへ来る途中、車を飛ばしてきた。急ブレーキで頭をドアのフレームにぶつけて、軽い脳震盪を起こしている。どうしてそこまで急いだのか、お前にわかるか」省之介は一歩も退かなかった。省之介の言葉が、一つずつ承也の耳に刺さる。頭をドアのフレームにぶつけた。軽い脳震盪。省之介は、承也に思い知らせたかった――承也が莉奈をどれほど深く傷つけたのか。莉奈がこのツリーハウスをどれほど大切にしていたのかを。守りたかったものを目の前で壊されることが、どれほど莉奈を追い詰めたのかを。承也の黒い瞳の奥に、細い亀裂が走ったように見えた。承也は凍りついた目で省之介を睨んだ。「退けと言っただろう」「覚えておけ。今回は奈奈のためだ」省之介は、それ以上は道を
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第129話

病床の莉奈の目尻から、一粒の涙がこぼれた。省之介の息がかすかに震える。「奈奈、目が覚めてるのか」……夜はすっかり更けていた。美月は大きなフランス窓の外を見つめている。庭では悠斗が、壊されたツリーハウスの残片を片づけていた。美月は視線を戻し、テーブルの上に並んだ冷めきった料理と、手作りのスープを見た。寒い夜だから、承也に食べてもらおうと思って、美月は昼間、自分でスープを仕込んでおいた。電話をかけて、来てほしいと伝えた。承也は電話の向こうで、時間がないと言った。夕方、悠斗が人を連れて西苑へ来た。承也の命令で、危険だからツリーハウスを取り壊すのだと言った。美月は、承也も一緒に来るのだと思った。けれど、来たのは悠斗だけだった。美月はどうしても承也に会いたくて、もう一度電話をかけた。夕方から八時半まで、三度かけた。それでも承也は出なかった。そのあと、美月は承也にメッセージを送った。【あなたの好きな料理も作ったの。夕食もスープも、一緒に食べようと思って待っているわ。あなたが来てくれないと、私、食欲が出ないの】承也からは、やはり返事が来た。【ああ】けれど結局、料理は手つかずのままだった。庭から車のエンジン音が聞こえた。こんな時間に誰が来るのか、美月には思い当たらない。次の瞬間、美月の目にぱっと光が宿った。美月は車椅子を急いで動かし、勢いあまって落ちそうになる。「桜井様、慌てないでください」付き添いの識子が急いで駆け寄り、美月の上半身を支えた。美月は笑みを浮かべ、長い髪と服を整える。「見てきて。承也が来たのかしら」識子は玄関のほうを覗いた。すぐに、目元をほころばせて戻ってくる。「はい、椎名社長です」美月の口元が、抑えきれずに上がった。美月はテーブルのスープを指さす。「これは下げて。温かいスープを二杯、よそい直してちょうだい」識子は器を持って、キッチンへ向かった。エントランスの柔らかな明かりの下を、承也が一歩ずつ入ってくる。整った眉目は、いつものように冷ややかで近寄りがたい。そのとき美月は、承也がテーブルのそばに杖を置き忘れていたことを思い出した。美月は杖を手に取り、もう片方の手で車椅子を動かして承也の前へ行く。「また先生の言いつけを忘れているわ。しばらくは、歩くと
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第130話

タバコの灰が、承也の指先から落ちた。赤く燃えた火種が手の甲に触れ、それから床へ落ちる。承也は振り返り、錆びついた鉄の箱を見た。底の見えない黒い瞳が、窓の外に広がる夜の闇と溶け合っている。「開けろ」悠斗は鉄の箱を机の上に置いた。箱には古い錠前がかかっている。鍵穴は泥で詰まり、ひどく錆びついていて、とても鍵で開く状態ではなかった。悠斗は片手で箱を押さえ、もう片方の手で錠前をつかんだ。手首に力を込め、一気にひねる。ガシャン、と鈍い音がした。錠前が、力ずくで外された。箱を開けると、最初に見えたのは黒い布だった。何の素材でできているのかわからない。その布が、中の何かを厳重に包んでいる。悠斗は腰から短刀を抜き、黒い布の端を引っかけてめくった。中にあったのは、オレンジ色の四角い箱のようなものだった。表面には黒いアルファベットがいくつか記されている。材質は硬い。「ブラックボックスだ」すぐ横から、承也の低く張りつめた声が落ちた。悠斗はオレンジ色の箱に記された情報を確認し、顔色をわずかに変えた。「先代ご夫妻が事故に遭われた、あの航空機のブラックボックスです」ブラックボックスは、航空機が墜落したあと、事故の真相を調べるための最も重要な証拠になる。中には、事故が起きる数時間前、場合によっては二十数時間前からの飛行記録が残されている。特殊で頑丈な素材で作られているため、過酷な環境に置かれても、内部のデータは十数年、あるいは二十年近く残ることがある。承也の両親が事故に遭ってから、すでに二十年が過ぎていた。悠斗はブラックボックスを包んでいた黒い布に触れた。指先でこすると、布の中から細かな銀色の光がぱらぱらと落ちる。悠斗の表情が重くなる。「銀繊維です。信号を遮断するためのものですね」悠斗は承也のもとに来る前、国境地帯で傭兵をしていた。信号を妨害する素材についても、多少の知識がある。ブラックボックスは航空機の墜落後、内蔵された位置情報を知らせる装置から、一定期間、外部へ信号を発し続ける。調査する者が見つけられるようにするためだ。だが、この銀繊維の布は、その信号を遮断する。追跡を完全に妨げるために。当時、椎名家がどれほど力を尽くしても、ブラックボックスを見つけられなかった理由がようやくわかっ
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