All Chapters of 婚姻生活にさようなら、椎名さん: Chapter 131 - Chapter 140

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第131話

火曜日、省之介は自分で車を運転し、莉奈をテレビ局まで送った。車を降りる直前、莉奈はシートベルトに手をかけたまま、隣にいる穏やかで品のある男へ顔を向けた。「省之介さん、この二日間、本当にありがとうございました」ハンドルを握る省之介の長い指に、わずかに力が入る。「僕が君のそばにいたかっただけだ。礼なんて言わなくていい」その言葉の意味は、もう十分すぎるほど伝わっていた。莉奈にわからないはずがない。そもそも莉奈は、前から省之介の気持ちに気づいていた。ただ、省之介が自分から口にしなかったから、莉奈も何も言えずにいただけだ。今は、ちょうどいい機会だった。「言わないままでいるのは、省之介さんに失礼だと思います。私の性格は知っていますよね。曖昧なままにするのは好きじゃありません」省之介は莉奈を見た。莉奈が何を言おうとしているのか、省之介にはもうわかっている。それでも、省之介は遮らなかった。「言って、聞いてる」莉奈はまっすぐに言った。「私は、一度結婚に失敗しています。もう男女の感情そのものに、強い抵抗があります。これ以上、そういうことに時間を使いたくありません」「わかった」長い沈黙のあと、省之介はようやく一言だけ返した。省之介は手を伸ばし、莉奈のシートベルトを外す。声は、いつもと同じように柔らかい。「今すぐ僕を受け入れてほしいなんて言っていない。受け入れられなくても、それでいい。何も負担に思わなくていいんだ。僕はこれまで通り、君の友人でいる」省之介にも、こんなに頑固な一面があるとは思わなかった。かつての自分も、同じだったのだろう。言うべきことは、莉奈はすべて言った。頑固な人間には、何を言っても簡単には届かない。莉奈はそれを、誰よりもよく知っている。そうでなければ、承也にあれほど深く傷つけられるまで、そばにい続けたりしなかった。省之介に別れを告げ、莉奈はテレビ局のビルへ入っていった。省之介は、莉奈の背中が見えなくなるまで見送った。それからスマホを取り出し、一本の電話をかける。電話の向こうで、中年の男が低い声で言った。「佐伯家と手を組み、椎名承也に圧力をかけることは可能だ。だが、お前も約束しろ。できるだけ早く病院の仕事を辞めて、戻って俺を手伝え」省之介は、自分の手を見下ろした。
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第132話

この男の放つ気配は、あまりにも強かった。格調高い広い執務室に座り、ただ目を上げて一言発しただけで、すべてを見下ろす支配者のような圧がある。相手に、思わず頭を垂れさせる力だった。真央がこれまで取材してきた大物たちとは、比べものにならない。当然だ。相手は莉奈の、もうすぐ元夫になる男であると同時に、椎名家の当主であり、椎名グループを動かす男でもある。真央はその圧を正面から受け止め、仕事用の笑みを浮かべた。「向井は別件の業務が入っておりますので、本日の取材は私が担当いたします」承也ほどの人物なら、急に担当記者を変えられたと知れば、機嫌を損ねてもおかしくない。そのために、真央はすでにいくつか対応を考えていた。けれど、真央の予想は外れた。承也は真央の説明を聞いたあと……いや、正確には「莉奈は?」と尋ねたあと、表情をいっそう冷ややかにしただけだった。それ以降、承也は取材に関わること以外、真央に何も言わなかった。取材のあいだじゅう、空気はどこか冷たく、距離があった。取材が終わっても、真央は少し拍子抜けしていた。どうやら以前、承也が莉奈の取材を断ったのは、ただ莉奈を困らせるためだったらしい。莉奈のスマホに、真央からおどけたスタンプが送られてきた。【ミッション完了!】莉奈の指先が、画面の上で止まった。本当に、ずいぶん順調に終わったらしい。莉奈は真央にメッセージを返した。【真央、えらい。ランチは私がおごるね】真央からはすぐに、照れて喜んでいるようなスタンプが返ってきた。莉奈は思わず笑った。真央は、こういうのに本当に弱い。莉奈は連絡先をスクロールし、真っ黒で何も設定されていないアイコンを開いた。チャット画面の上に表示された登録名は、【黒瀬壇将】だった。日曜の夜に起こした軽い脳震盪から三日が過ぎ、体に不調はもうない。出国の日は、少しずつ近づいている。莉奈は時間を無駄にしたくなかった。一か月半で強くなれるわけではない。それでも、少しでも身を守る動きを覚えられるなら、これから不安定な地域へ向かう莉奈にとって、十分役に立つ。莉奈は壇将にメッセージを送った。【黒瀬トレーナー、今夜七時半ごろ、お時間ありますか?よろしければ、いつもの場所でお願いします】しばらくして、LINEに返事
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第133話

壇将は莉奈の正面に立った。両手を背中で組んでいる。全身を黒で固めた姿は、広い肩幅と長い脚をいっそう際立たせていた。彼は莉奈に顎を軽く上げ、莉奈はすぐに理解した。先に打ち込んでこい、という合図だ。莉奈の基礎を見ようとしている。三秒後、廷治は見ていられなくなり、そっと顔をそむけた。勢いよく飛び込んだ莉奈の体は、虚しく空を切った。そのまま床に倒れ込みそうになった瞬間、力強い手が莉奈の腕をつかむ。壇将は莉奈をしっかり引き上げ、床に倒れ込む寸前で立たせた。莉奈の顔が、恥ずかしさで赤くなる。けれど、その瞳はかえってきらきらと潤み、負けん気に光った。「もう一回お願いします!」向かいの男は、相変わらず両手を背中に回したままだ。あまりにも屈辱的だった。莉奈の闘志に、一瞬で火がついた。気合いを入れるように声を上げ、表情を引き締める。両手を拳にして、壇将へ向かって突っ込んだ。壇将は、指を一本だけ伸ばした。その指先が、いとも簡単に莉奈の額を押さえる。身長差に加え、額に当てられたその一本の指が妙に強い。莉奈の拳は、壇将の服の端にすら届かなかった。莉奈は固まった。 こんなの、ありなのだろうか。三度試したあと、莉奈は壇将に足を払われた。また倒れかけたところを、壇将が襟元をつかんで体勢を戻す。壇将はスマホに二文字打ち込んだ。【酷い】その二文字を見た瞬間、莉奈の顔は羞恥と悔しさで真っ赤になった。「でも、まだ何とかなりますよね?」男の指先が、スマホの画面の上で一度止まる。それから、ゆっくり一行を打った。【努力で補うしかない】その理屈は、莉奈にもよくわかっている。だから莉奈は決めた。これから時間があるかぎり、壇将の指導に食らいつく。壇将に予定がないかぎり、少しも怠けないと。廷治はもう見ていられず、とっくに部屋の扉を閉めて外へ出ていた。ほかの人間なら、廷治もここまで安心して任せたりはしない。だが壇将に関しては、腕を完全に信頼している。もっとも、廷治自身、彼の本名を知ったのはついさっきのことだった。壇将が傭兵をしていた頃のコードネームは【J】で、廷治は長いあいだ、ずっと彼を【Jさん】と呼んできたのだ。莉奈は、やはり不思議と人の懐に入る魅力がある。あの男に、本名を明かさせるのだから。二時
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第134話

三日前の日曜の夜、承也があの言葉を残してから、美月は一度も承也に会っていなかった。夕方、美月は承也を夕食に誘うつもりだった。けれど、承也から返ってきたのは、時間がないという短い返事だけだった。美月は魂が抜けたようにダイニングに座り、ただ待ち続けた。夕食には一口も手をつけていない。深夜、識子が美月を二階へ連れていこうとした。エレベーターの前で、美月はふいに意識を失い、そのまま床へ倒れ込んだ。病院へ運ばれたとき、美月はすでに目を覚ましていた。ただ、意識はまだぼんやりしていて、そのまま病室へ移された。病室には、消毒液の匂いが漂っている。肘の内側の血管に針が刺さったとき、美月はようやく目を動かした。顔を横へ向け、透明な管の中へ流れていく自分の血を見る。美月は眉をひそめ、低い声で尋ねた。「どうして採血を?」看護師は丁寧に答えた。「椎名社長からのご指示です。貧血の状態が良くなっているか、確認したいとのことでした」承也の指示だったのだ。固く結んでいた美月の唇に、わずかな笑みが浮かんだ。承也は、やはり自分のことを気にかけている。あの夜、自分は少しだけ策を弄して、莉奈にメッセージを送った。男として、莉奈にあんなふうにその場で問い詰められれば、面目を潰されたと感じるのも当然だ。承也が怒るのも無理はない。三日経って、その怒りも収まったのだろう。自分に何かあれば、承也はやはり、以前と同じように気にかけてくれる。「それで、承也は?」美月は視線をめぐらせ、病室の中を見た。看護師は採血の針を抜き、止血綿で針の跡を押さえながら答えた。「椎名社長は外にいらっしゃいます」看護師が病室を出たあと、誰かが中へ入ってきた。美月の視界はまだ少し霞んでいた。長身で背筋の伸びた男の影が見えた瞬間、胸の奥に喜びがこみ上げる。美月はそれを必死に抑え、血の気のない唇を動かした。「こんな時間に、どうして来てくれたの?」けれど視界がはっきりすると、目の前に立っていたのは悠斗だった。承也と悠斗は、体つきが少し似ている。身長もほとんど変わらない。だから美月は、さっき本当に見間違えたのだ。ただ、悠斗は傭兵として死線をくぐってきた男だ。承也よりも体に厚みがあり、ずっと鍛え抜かれている。ぼやけた視界のせいで、一瞬、承也に見えてしま
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第135話

承也の金縁の眼鏡の奥で、黒い瞳に暗い光が沈む。美月は病室でしばらく待っていた。ようやく扉口から承也が入ってくるのを見て、沈んでいた顔がぱっと明るくなる。「承也!」美月は上半身を起こした。黒いストレートの長い髪が耳の横に落ち、もともと白い顔が、いっそう血の気を失って見える。承也が杖を持っていないことに気づくと、美月は低い声で責めるように言った。「また先生の言いつけを忘れているわ。悠斗さん、社長の杖を取ってきて」承也は淡々と答えた。「もう必要ない」あのとき病院で固定具をつけたのも、承也が無理に動き回らないようにするためだった。自分は体が強く、回復も早い。固定具を外したあと十日ほど杖を使えば、もう十分だった。「それでも、もっと気をつけて。ずっと立っていないで、座って」美月は自分のそばを指した。承也が病室に入ってきてから、美月の視線は一度もその顔から離れていない。たった三日会えなかっただけなのに、胸が締めつけられるほど恋しかった。毎日、承也に会えたらいいのに。けれど今になっても、承也は美月に松風レジデンスへ移ってこいとは言わない。承也は座らなかった。代わりに、二つの箱が入った袋を美月へ差し出す。美月は一瞬、目を丸くした。受け取って中を見ると、貧血の薬が二箱入っていた。頭上から、承也の冷えた声が落ちる。「戻ったら、決められた通りに飲め。この二箱と、前に処方されて飲んでいない二箱を飲み切ってから、もう一度検査を受けろ。そこまでやれば、貧血は良くなるはずだ」美月の顔色が、さらに白くなった。彼女は箱を強く握りしめ、言い訳するように口を開いた。「承也、私はただ、飲み忘れて……」「飲み忘れたのか、わざと飲まなかったのか。自分が一番よくわかっているはずだ」承也の表情は淡々としていた。美月の心臓が大きく跳ねた。たしかに、美月はわざと飲まなかった。いつでも承也に気にかけてほしかった。食欲がないと一言言えば、承也はそばにいてくれる。そう思っていた。承也は識子へ視線を向けた。「戻ったら、毎食後、必ず美月に薬を飲ませろ。一か月後もこのままなら、お前はクビだ」識子は怯えて身を震わせた。「はい、椎名社長!」承也は普段から、人を寄せつけない冷ややかさをまとっている。けれど、使用
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第136話

「夜酔」で働く従業員は、百人を超えている。この業界は人の入れ替わりが激しい。毎日のように、どこかのポジションで顔ぶれが変わる。だから、制服に着替えて紛れ込んだ莉奈に、誰も注意を払わなかった。一階はメインのバーフロアだ。以前、莉奈は同僚たちとここへ来たことがある。全員が感覚の鋭い報道の人間だったが、それでも一階に怪しいところは見つからなかった。そもそも、本当に裏取引があるのなら、人目につきやすい一階で行われるはずがない。匿名の情報が事実なら、何かがあるのは二階より上のVIPルームだ。莉奈は酒を載せたワゴンを押し、エレベーターに乗った。さっきインカム越しに聞こえたフロアマネージャーの指示通り、七階へ向かう。エレベーターの中には監視カメラがある。けれど莉奈はマスクをつけている。顔を見られても、すぐに正体が割れる心配はなかった。七階に着いた。莉奈はワゴンを押して、エレベーターを降りる。一階の熱気と喧騒、二階や三階から漏れてくる高揚した歌声に比べ、七階は明らかに静かだった。廊下にいるのも、数人ずつの小さなグループだけだ。莉奈が向かうのは、廊下の突き当たりにあるVIPルームだった。奥へ進むほど、人の気配は少なくなっていく。莉奈の心臓が、理由もなく一度大きく跳ねた。着替えるとき、莉奈は小型の隠しマイクとカメラを仕込んでいた。ひとつは制服のボタンに。もうひとつは、耳の後ろでまとめた髪の中に隠してある。普通の潜入取材なら、最悪でも追い出されるか、怒鳴られるか、脅される程度で済む。だが、裏社会の取引が絡んでいるなら話は違う。慎重になりすぎるくらいで、ちょうどいい。未知の危険があるとわかっていても、これは莉奈の仕事だった。ジャーナリストとして果たすべき責任だった。莉奈はワゴンの中の酒に目を落とした。幼い頃から椎名家で育った莉奈は、最高級の酒を数え切れないほど見てきている。このワゴンの中で一番安い酒でも、一本二百万円は下らない。全部合わせれば、二千万円を軽く超えるはずだった。席料やその他のサービス料は、これに含まれていない。一晩で二億円以上を平然と使う客など、この華やかな街でも限られている。この部屋の客は、ただ者ではない。VIPルームの前に着き、莉奈は扉をノックした。注文の際、客から厳命
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第137話

長いテーブルの奥には、黒いソファが一列に並んでいた。そこに座っている数人が、このVIPルームで発言権を持つ者たちらしい。中央に座る、知的で穏やかそうな男が笑った。「今回の取引は、あいつのおかげでもある」「いずれ椎名家を完全に牛耳るのはあいつだ。これくらいの力もないようなら、俺たちと組む資格なんてないだろう」――椎名家。莉奈はマスクの下で下唇を噛んだ。けれど手元には、少しの乱れも出さない。莉奈はそのまま、酒を並べ続けた。そのとき、突然、腕をつかまれた。莉奈の心臓が、激しく跳ねる。耳元に、冷たい声が落ちた。「早くしろ。聞こえないのか」「すぐです。すぐ終わります、お客様」莉奈は動きを少し速めた。すべての酒を並べ終えると、ワゴンを押してVIPルームの出口へ向かう。前から人が歩いてきた。莉奈はワゴンを少し脇へ寄せる。そのわずかな隙に、部屋の中でまだ撮れていなかった死角を、気づかれないように撮影した。それから扉を開け、外へ出る。扉を閉める瞬間、莉奈は気づかなかった。黒いソファに座っていた穏やかそうな男が、護衛に向かって指先だけで合図を送った。男は何でもないことのように、軽く命じた。「連れ戻せ」莉奈は扉を閉めると、ワゴンを押しながら自然と足を速めていた。廊下には、自分の足音だけが響いている。ふいに、背後から重低音の音楽が漏れた。すぐに消える。VIPルームの扉が、開いて、閉まったのだ。莉奈は反射的に顔を上げ、向かいの壁を見た。そこには装飾用の鏡がある。鏡面に、黒い人影が二つ映っていた。二つの影は、莉奈のほうへまっすぐ歩いてくる。ああいう裏取引に手を染める者たちが、警戒を怠るはずがない。彼らは、常に剣の刃を渡るような裏世界に生きている。わずかな違和感にも気づく目を持っているはずだった。莉奈が彼らの前で何か失敗したのかは、わからない。けれど、誰かが追ってくる以上、良いことではない。背後の足音が、どんどん速くなった。彼らはエレベーターへ向かわなかった。この廊下の反対側にあるのはレストルームだ。だが、あのVIPルームの中には専用のレストルームが二つもある。わざわざ外へ出る必要などない。つまり、今の状況が示していることは一つだけだ――彼女がバレた。莉奈は
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第138話

その数人は、境界地帯から来た者たちだった。承也の顔を知らない。それでも、承也の身にまとった冷たく強い気配はあまりにも圧倒的で、彼らは思わず足を止めた。莉奈のマスクは、荒い呼吸に合わせて内側へ何度もへこんだ。耳元では、承也の心臓が低く、力強く鳴っている。一つ一つの鼓動が、耳の奥の薄い膜を叩くようだった。莉奈は承也を憎んでいる。それなのに、危険な瞬間には、承也の権力の陰に身を置いている。その激しい矛盾が、莉奈の胸を引き裂いた。苦しくてたまらない。承也の手を振りほどき、廷治を連れて非常階段へ逃げ込みたかった。だが莉奈が動くより先に、承也は手を離した。そして莉奈を、自分の背後へ押しやる。莉奈の呼吸は乱れていた。マスクの上に出た澄んだ瞳に、かすかな動揺がよぎる。莉奈は呆然と、目の前にある承也の広い背中を見つめた。承也の前を塞いでいた一団が、すばやく左右に割れた。広い廊下の向こうから、さきほどVIPルームの中央に座っていた男が歩いてくる。知的で穏やかそうな顔に、薄い笑みを浮かべていた。「これは椎名社長。お噂はかねがね」承也の唇が、かすかに上がった。「これはこれは、黒崎さん。珍しい客だな」――黒崎さん。莉奈はその瞬間、気づいた。笑みの奥に刃を隠したこの男は、境界地帯で名を聞くだけで恐れられる、黒崎風牙(くろさき ふうが)だ。VIPルームにいた者たちが、全員廊下へ出てきていた。もともと広いはずの廊下が、たちまち黒い人影で埋まっていく。見渡すかぎり、風牙の人間だった。どの男もジャケットの腰のあたりが不自然に膨らんでいる。明らかに、危険なものを隠し持っていた。一方、承也のそばにいるのは二人だけだ。一人で十人を相手にできる悠斗。そして、足手まといの莉奈。風牙は、自分より一回り若い承也を見た。それでも承也の気配は、風牙に少しも劣らない。むしろ、押し返してくるほどの圧があった。風牙は穏やかな声で言った。「うちの者は境界地帯の流儀に慣れすぎていてね。椎名社長に無礼を働いたのなら、俺から詫びよう」「珍しい客を迎えただけだ。無礼などとは思っていない。黒崎さんこそ、気を遣いすぎだ」隙がない。これが、椎名家の当主だ。風牙は、承也の背後に隠れた人物をちらりと見た。見えているのは、革靴を履いた足元だ
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第139話

風牙は、穏やかな笑みを崩さずに誘いをかけた。「せっかくの偶然だ。椎名社長、一杯どうかな」承也は、自分の背後に隠した莉奈の体が、かすかに強張るのを感じた。承也の唇の端が、わずかに持ち上がった。「黒崎さん。ご相伴にあずかろう」承也の一挙手一投足には、絶対的な余裕が漂っていた。追い詰められた焦りなど微塵もない。あまりにも落ち着き払い、むしろこの場を完全に掌握しているようにさえ見える。風牙はその姿に目を細め、内心で密かに舌を巻いた。この椎名家の当主は、やはりただ者ではない。風牙はわずかに顔を横へ向け、悠斗に連れられてエレベーターへ入っていく人物を見た。だが、目元も顔立ちも見極める前に、エレベーターの扉は無情にも閉まった。VIPルームの中では、テーブルの上から酒以外のものがすべて片づけられていた。まるで、ただのありふれた飲み会であったかのように。風牙は承也を上座へ案内した。「椎名社長、どうぞ」エレベーターの中で、悠斗の冷たい視線が、莉奈のそばに立つ廷治をかすめた。廷治は莉奈を見て、低く尋ねる。「向井さん、お怪我はありませんか」幸い、廷治は莉奈と事前に話をつけていた。莉奈が潜入取材をするときは、廷治が少し離れた場所からひそかについていく。何かあれば、すぐに動く。そうしていなければ、莉奈は承也に出くわす前に、風牙の者たちに連れ去られていたかもしれない。莉奈は首を横に振った。けれど、その表情はどこか上の空だった。悠斗は背筋を伸ばし、脇に立っている。「黒崎さんに逆らった者は、生きたまま皮を剥がれるか、一家を根絶やしにされるかです。理由が何であれ、今後、奥様はあのような男には二度と近づかないでください」今日、風牙が素直に引いたのは、ひとえに承也がいたからだ。ただそれだけのことだった。エレベーターの扉が開いた。着いたのは一階ではない。従業員用の休憩フロアだった。三人がエレベーターを降りると、悠斗は廷治の前に立ちはだかった。「ここから先は、お前の出る幕じゃない」「どうして出る幕じゃないんですか。向井さんを守るのが僕の仕事です」廷治は悠斗の制止を振り切り、莉奈のそばへ行こうとした。悠斗は、氷のように冷淡な目で廷治を一瞥した。「車で待ってろ」反論しようと廷治が息を吸い込んだ、
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第140話

莉奈が言い終えると、薄暗い更衣室は、自分の呼吸だけが聞こえるほど静まり返った。さっきまで廊下から漏れていた話し声も、まるで一瞬で人が消えたように途絶えている。数秒だったのか、数分だったのか。時間だけが、際限なく引き延ばされていく。「退いて。帰るわ」莉奈はドアノブに手を伸ばした。だが、その手は承也に上から握られ、そのまま扉へ押しつけられる。指の腹にある硬いタコが、莉奈のやわらかな肌をかすめた。承也の広い肩が、覆いかぶさるように近づいてくる。莉奈は反射的に手を伸ばし、承也を押し返そうとした。けれど承也は体勢を入れ替え、莉奈を扉へ押しつけた。薄闇の中で、承也の深い瞳はぞっとするほど暗い。「この件は、ここで終わりだ。それは君が踏み込んでいい領域じゃない」暗がりの中で、莉奈の澄んだ瞳に揺るぎない光が宿っていた。その光は承也の瞳に映り、そこで小さく燃えている。「毎日、社会を守るためにたくさんの人が動いているわ。犠牲になる人だっている。もしこの闇を暴けるなら、私一人が死んだところで……」莉奈の言葉は、最後まで続かなかった。承也が莉奈の手首をつかむ力を、急に強めたのだ。指が骨に軋むほど食い込む。承也は莉奈の目を見た。その奥にあるものを見極めるように。声が、急に低く沈む。「死ぬ気なら、今日君はすでに命を落としていた。だが、そのあとどうなる。君が死んで、何が変わるというんだ」今日、莉奈は自分の甘さを思い知らされていた。相手は狡猾で、底が知れない。莉奈の想定を、はるかに超えている。「私が死んでも、すぐには何も変わらないかもしれない。でも、私は信じてる。公正も、正義も、この世から消えたりしない。あの人たちは、いつか必ず裁かれるわ」「公正と正義、か」承也は意味の読めない冷笑を漏らした。――向井文彦(むかい ふみひこ)の娘の口から、それを聞くとは。なんという皮肉だ。文彦が承也の両親の乗る航空機に細工をしたとき、二十年後、自分の娘がこれほどまでに正義を信じる言葉を口にするとは、少しでも想像しただろうか。承也は、不意に莉奈の手首を離した。莉奈の激しく脈打つ心臓が、急に息苦しさを覚える。次の瞬間、ドアノブが回った。承也はドアノブから手を離し、背筋を伸ばしたまま更衣室を出ていく。廊下の光
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