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婚姻生活にさようなら、椎名さん のすべてのチャプター: チャプター 161 - チャプター 170

410 チャプター

第161話

ほどなくして、莉奈は壇将から返信を受け取った。【待っていろ】莉奈は椎名邸で、まず千鶴の話し相手をした。千鶴が眠ったあとは、将軍と何度かフリスビーで遊んだ。気づけば、もう午後三時を過ぎている。それでも壇将はまだ来ない。けれど莉奈は、壇将が約束を守る人だと知っていた。待っていろと言った以上、適当にごまかすような真似はしないはずだ。莉奈が将軍の頭を抱えながら陽だまりに座り、ずっと静かだったスマホを両手で見つめていると、ようやく壇将からメッセージが届いた。【出てこい】莉奈は将軍を放すと、すぐに椎名邸を飛び出した。遠くに角張った大型SUVが停まっているのが見えた。車から降りてきたのは、黒いキャップとマスクで顔を隠した、背の高い男だ。廷治が早足で二人のそばへ駆け寄ってくる。「Jさん、向井さんをどこへ連れていくつもりですか?」車のドア脇に立っていた壇将は、無言のままスマホを廷治の目の前へ差し出した。【口を出すな】圧倒的な威圧感を前に、廷治は壇将が莉奈を車に乗せるのを黙って見ているしかなかった。しかも同行さえ許されない。廷治は一人、冷たい風の中に取り残された。今、電話口から聞こえてくる廷治の泣きそうな声に、莉奈はなだめるように答えた。「もうすぐフィットネスクラブに戻るから、心配しないで」夜、壇将は莉奈を車でマンションまで送り届けた。廷治とほかのボディーガードたちも、別の車で後ろからついてきている。壇将の車が莉奈のマンションの敷地へ入ろうとした、その時だった。突然、別の方向から一台のスポーツカーが猛スピードで走ってきた。その車はエントランスの入り口を塞ぐように乱暴に停まり、進路を遮った。入り口の警備室にいた警備員が、窓から顔を出した。ぶつぶつ文句を言いながら出てこようとしたが、スポーツカーが威嚇するようにクラクションを鳴らした途端、驚いて室内に引っ込んでしまった。車の窓が下がる。そこから現れたのは、莉奈の見覚えのある顔だった。同時に、莉奈のスマホが鳴る。莉奈が画面をスワイプして電話に出ると、尚南の感情の読めない声が耳に届いた。「奈奈、車を降りてくれ。話がある」「せっかく電話してきたんだから、このまま話せばいいじゃない」莉奈は、尚南の横暴でもったいぶった態度にうんざりしていた。
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第162話

莉奈の顔から、すっと温度が消えた。言い返そうとした瞬間、尚南の切迫した顔を見て、莉奈の胸に冷たい予感が芽生えた。「私が誰を敵に回したか、知っているの?」風牙のことは、省之介でさえ知らないはずだ。もし尚南までその名を知っているのなら、尚南こそが椎名家の中で風牙と内通している人間である可能性が高い。尚南がいかに厄介で横暴な男かは、莉奈も痛いほど知っている。けれど、椎名家には代々守られてきた絶対の掟がある。禁制品に手を出してはならない。裏社会の秩序を乱すような犯罪に関わってはならない。どれほど尚南が手に負えない人間だとしても、莉奈は彼に一線を越えるような真似だけはしてほしくなかった。自分の思い過ごしであってほしい。あの椎名家に、マフィアと通じるような人間などいるはずがないと思いたかった。尚南は冷たい風を受けながら、莉奈の白黒のはっきりした瞳を見つめていた。薄い黒のカシミヤセーターが、尚南の引き締まった上半身をぴたりと包んでいる。激しく上下していた胸は、少しずつ落ち着いていった。尚南は乱暴に顔をこすった。血の気の引いた顔に、赤い指の跡がいくつも残る。尚南は自嘲するように短く笑った。「何だよ。俺に助けてほしいのか?これだけのボディーガードをつけてるってことは、相手は相当面倒な奴なんだろ。俺が助けてやってもいい。前にも言ったよな。俺のところへ来い。そうすれば、俺はお前のために全部賭けてやる」またそれだ。莉奈は、この男を蹴り飛ばしたい衝動をどうにか押し殺した。声には苛立ちがにじむ。「結局、何を言いに来たのよ」尚南はポケットから、赤いベルベットの小さな箱を取り出した。いかにも高価そうな作りの箱を、莉奈へ差し出す。「今日は俺の誕生日だ。君へのプレゼント」つまり、わざわざ贈り物を持って現れたらしい。いつからだっただろうか。尚南は自分の誕生日になるたび、決まって莉奈へ贈り物を持ってくるようになった。莉奈が尚南の誕生日など覚えていないというのに。本当は、日付を忘れているわけではない。ただ、子どもの頃から尚南には大小さまざまなことで絡まれてきた。莉奈は今でも尚南を素直に受け入れる気になれなかった。だから尚南からの贈り物も、一度だって受け取ったことがない。「いらない」莉奈はきっぱりと断っ
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第163話

やがて尚南は向きを変え、自分のスポーツカーへ戻る。運転席に転がっていた赤いベルベットの箱を拾い上げ、車内の収納へ無造作に入れた。それからタバコに火をつけ、深く吸い込んだ。「あの女性記者は、俺の部屋に潜り込んで取材していた。何を撮ったかなんて、どうでもいい。俺の目の前まで死にに来た奴には、楽に終わらせてやる。尚南副社長、いい知らせを待っていますよ。俺たちの協力関係は、これからますます強固になるでしょう。あなたの実力に俺の助力が加われば、椎名グループも椎名家も、いずれすべてあなた一人のものになる。これからはこちらも、尚南副社長を大いに頼りにさせてもらいますよ」風牙の不気味な言葉が、まだ耳の奥にこびりついている。境界地帯の泥沼は、一度足を踏み入れたら最後、もう二度と引き返せない。尚南はタバコを深く二度吸い込み、吸い殻を乱暴に揉み消した。それからエンジンをかけ、スポーツカーを走らせる。夜が更け、あたりが静まり返った頃、車は自宅の地下ガレージへ滑り込んだ。待機していた秘書がすぐに近づき、車のドアを開ける。尚南は車から降りた。「最近、莉奈のそばにいる、廷治と一緒に動いているあのボディーガードの素性を調べろ」「承知いたしました」秘書は尚南の歩調に合わせてついてくる。「尚南副社長。今日の夕方、グループ内の全幹部宛てに人事処分の通知が一斉送信されました。会長室直々の通達です」尚南の足が、ピタリと止まった。承也は今、椎名グループの会長兼代表執行役だ。だが承也は、普段なら処分の細かな手続きにまでいちいち口を出さない。それが会長室から直接通達されたという。しかも、人事処分の通知が全幹部に回るというのは、たいてい処分対象が上層部の人間である場合だ。「誰が処分された」秘書の表情は重い。「田村健吾(たむら けんご)、松井義明(まつい よしあき)、それから……」秘書が口にした名前は、役職こそ高くないものの、いずれも尚南の息のかかった人間ばかりだった。尚南は完全に足を止めた。前方のガラス壁に、尚南の陰った横顔が映っている。「処分対象には、俺も入っているのか」「はい」「昼間、椎名社長が系列病院へ向かわれた際、エレベーターに閉じ込められる事故がありました。それで会長の逆鱗に触れたようです。調査
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第164話

莉奈は起き上がると、頭が鉛のように重く、足元がふらつくのを感じた。適当に朝食を済ませて、すぐにベッドへ戻る。妙な悪夢を見たせいでよく眠れなかっただけかもしれない。少し寝直せばよくなるはずだ。けれど、身体が異常に寒い。骨の芯から冷気がしみ出してくるような悪寒に、莉奈は思わず身体を丸めた。部屋には暖房が効いているのに、寒くてたまらない。とうとう耐えきれず、莉奈は直哉の部屋から掛け布団を引っ張り出してきて、それも一緒に被り込んだ。莉奈はベッドの中でガタガタと震え続け、そのまま深い昏睡に沈んでいった。どれくらい眠ったのか分からない。尾てい骨のひどい痛みに何度も意識を揺さぶられ、莉奈はようやく目を覚ました。全身が燃えるように熱い。喉には剃刀の刃でも仕込まれているようだった。唾を飲み込まなくてもヒリヒリと乾いて痛み、飲み込めば飲み込んだで、激痛に顔が歪む。どう考えても重い風邪の症状だ。壇将の言った通りだった。尚南の手には、本当に厄介な流行り風邪のウイルスがついていたのだ。莉奈は尚南を呪い殺してやりたい気分になった。だが今の彼女には、目を開けている気力さえ残っていない。尚南を殺すどころか、自分がこのまま死んでしまいそうだった。莉奈はめったに病気をしないため、家に風邪薬を常備する習慣もなかった。けれど、この症状で薬なしはさすがに耐えられない。ようやく手がスマホに届く。高熱で震える指は、まるで自分のものではないように言うことを聞かない。おまけに昨日、初めて銃を握って長時間練習したせいで、指がまだ少しこわばっている。莉奈はかすむ視界の中で、廷治との通話履歴を見つけ、そこをタップした。耳元で呼び出し音が鳴った。音が止まり、電話がつながる。莉奈の声はひどくしゃがれた、まるで潰れたような声だった。「風邪が……引いて……熱が出た……喉が痛い……薬を……」途切れ途切れの声だ。莉奈が必死に助けを求めていることは分かる。けれど、自分では大声を出しているつもりでも、相手が聞き取るのは難しそうだった。どうにか言い終えると、莉奈は糸が切れたように力を抜いて手を離した。スマホの画面は、まだ通話中のままだった。数秒後、電話の向こうの相手が静かに通話を切った。莉奈は残った力を振り絞ってベッドから這い出し、ふらつく足で
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第165話

承也は目を伏せ、莉奈を見下ろしていた。高熱で赤く火照っていた顔は、薬が効き始めたのか少しずつ血の気を失いつつある。伏せられたまつげがかすかに震え、その震えに、まだ消えきらない強烈な意地がにじんでいた。「それは偉いな」承也は淡々と、小馬鹿にするように言った。莉奈の伏せたまつげが、ぴくりと動く。――薬くらい、自分で飲めるわ。――それは偉いな。どういう意味なのか。子供扱い?スマホの着信音は、まだベッド脇で鳴り続けている。承也は電話に出るつもりがないらしい。三錠の薬をのせた手のひらを、容赦なく莉奈の口元へ近づけた。「そんなに偉いなら、飲んでみろ」風邪でぼんやりしていた頭が、そのどこまでも他人事のような、上から目線の言い方を聞いた瞬間、怒りで破裂しそうになった。莉奈は薬をひったくろうと手を上げ、力のない声で言った。「私が言ってるのは、あなたの電話の邪魔をするのも悪いから……」言い終える前に、承也のもう一方の手が莉奈の後頭部をがしりと支えた。次の瞬間、三錠の薬が莉奈の口に強引に押し込まれる。言葉もそこで物理的に塞がれた。薬が舌の上で苦く溶け始める。莉奈は声も出せず、眉をきつく寄せた。承也は絶対にわざとやっている。一階で、悠斗のスマホが鳴った。悠斗は着信画面を見た。眉ひとつ動かさないまま、通話をつなぐ。電話の向こうから、美月が感情を必死に抑え込んだような声で尋ねてきた。「承也は?」悠斗は床まで届く大きな窓の外を見た。外には、白く霞む雪景色が広がっている。「桜井様。社長は監視されることをひどく嫌われます。社長に尾行をつけている人間は、今すぐ撤収させてください。私自らが動くことになれば、彼らが無事に済む保証はありませんよ」「私はただ、承也が毎日何をしているのか知りたいだけなの」美月の声は、今にも泣き出しそうだった。「奈奈は松風レジデンスにいるの?」「奥様は松風レジデンスの女主人です。ここにいらっしゃるのは、ごく自然なことではありませんか」悠斗は視線を室内に戻した。「病院でおとなしく療養なさってください。社長は、勝手に動く人間や、出過ぎた真似をする人間を好みません」通話を切った直後、悠斗の耳が二階からの物音を拾った。何かが床に落ちて割れる音だ。部屋では、ガ
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第166話

莉奈が顔を上げて睨みつけた瞬間、承也の瞳に宿っていた鋭い冷気は、跡形もなく崩れ去った。承也は身をかがめ、罵り言葉を紡ごうとした莉奈の唇を強引に塞いだ。舌先で容赦なく歯列をこじ開け、二度と憎まれ口を叩けないように深く塞ぎ込む。莉奈の体は乱暴にベッドへ押し戻された。点滴の針が刺さったほうの手首は力強く押さえ込まれ、身動き一つ取れない。全身に力は入らない。残っているのは、この男を罵るための口だけだった。だがその口さえ、承也に隙間なく奪われている。舌先まで絡め取られ、甘くしびれていった。莉奈が完全に息ができなくなって、ようやく承也は唇を離した。荒く息をつく莉奈の濡れた唇を、少しざらついた親指の腹が拭う。底知れぬ黒い瞳が莉奈の顔を見つめ、やがて、激しく上下する胸元を捉えると、その視線はゆっくりと下へ滑り落ちた。莉奈は肩で大きく息をしていた。さっき押さえ込まれた時に何度かもがいたせいで、寝間着の中の下着がすっかりずれてしまっていることに、本人は気づいていない。薄い寝間着越しに、胸の柔らかなふくらみがかすかに浮かび上がっていた。莉奈が目を開けると、思いがけず、ひどく暗く沈んだ男の黒い瞳とぶつかった。反骨心の塊である莉奈が、こんな仕打ちを受けて黙っているはずがない。だが莉奈が再び口を開いて罵ろうとした瞬間、承也がまた身をかがめ、その唇を塞いだ。大きく骨ばった手が莉奈のうなじをすくい上げる。その親指はかすかに震えながら、莉奈の顎に残るガラスの切り傷を愛おしむように撫でた。承也は、今にも噛みついてきそうな莉奈の強い瞳を真っ直ぐに見つめ返す。黒い瞳がさらに暗く沈み、承也は莉奈の舌先を軽く噛んだ。莉奈は痛みに小さく声を漏らし、たまらず目を閉じる。承也が喉の奥で低く笑った。莉奈の汗ばんだ寝間着が脱がされる。点滴の管がつながっているほうの袖は、邪魔だとばかりに承也の手で容赦なく引き裂かれた。寝間着は下着と一緒に、ベッドの下へ無造作に落とされる。温かく大きな手が、高熱で震える莉奈の素肌に触れた。けれど承也は不意に動きを止め、布団を引き寄せると、莉奈の身体をすっぽりと包み込んだ。そして立ち上がり、部屋を出ていく。どうやら、あの冷血漢にもまだ人間の心は残っていたらしい。少なくとも、高熱に苦しむ病人にこれ以上の
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第167話

あの猛烈な悪寒と高熱が嘘のように、翌朝目を覚ました莉奈の身体は、まるで憑き物が落ちたように軽くなっていた。莉奈は松風レジデンスの自分のゲストルームへ戻り、シャワーを浴びて服を着替えてから一階へ降りた。昨夜、莉奈は杉村編集長にメッセージを送り、午前中の休業を願い出ていた。午後に重要な取材が控えているため、寝る前には「どうか今日中に回復しますように」と必死に祈っていたのだ。自分が出社を遅らせているのは、休みを取ったから当然だ。けれど、こんな時間に悠斗がまだ家にいるのはどういうことなのか。まさか、承也がまだ出社していないのだろうか。いや、それこそあり得ない。あの男は会社に早く着くことはあっても、遅刻することなど絶対にない。リビングにいた悠斗は、降りてきた莉奈を見て一瞬だけ動きを止めた。「奥様、ご出勤なさるのですか?」莉奈は元気よく階段を駆け下り、にっこりと笑ってみせた。「見ての通り。もうすっかり大丈夫よ」莉奈と承也の間には深い確執があるが、悠斗に対してまで八つ当たりするつもりはない。それに数日前、テロに襲撃された現場で莉奈が助けを求めた時、悠斗は何も言わずに人員を率いて駆けつけてくれた。その義理を思えば、悠斗に愛想よく接する理由は十分にあった。莉奈は悠斗の横を通り過ぎ、ダイニングへ向かった。朝食を済ませて外へ出ると、悠斗が車のドアを開けて待機していた。「社長から、奥様をテレビ局までお送りするようにと申しつかっております」莉奈は足を止め、怪訝そうに静まり返った二階を振り返った。「承也はまだ家にいるの?」悠斗は静かに首を横に振った。「いえ。社長は朝早く、すでに会社へ向かわれました」莉奈は腑に落ちないまま頷き、車に乗り込んだ。てっきり承也もあの強烈な風邪をうつされて、家で寝込んでいるのかと思ったのに。承也が自分の側近である悠斗をわざわざ家に残したのは、自分をテレビ局へ送らせるためなのだろうか。ふと、莉奈は気になっていたことを思い出した。「そういえば、昨日私は玄関のドアを開けていないのに、あなたたち、どうやって私のマンションに入ったの? それに、前に私のスーツケースを取りに行かせた時も、どうやって入ったわけ?」悠斗は滑らかに車を発進させた。「社長から暗証番号を伺いました
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第168話

しかも、莉奈がこれまで取材してきた相手は、東安市で誰もが見上げるような大物ばかりだ。強力な後ろ盾がなければ、ただの一般記者がここまでの成果を出せるはずがない、と記事は結ばれていた。記事の最後には、三枚の写真が載っていた。一枚目は、莉奈がドレス姿でチャリティーオークション会場の駐車場に現れた写真。二枚目は、着替えた莉奈が道の途中で黒い高級車を呼び止めた写真。三枚目は、莉奈が一人でその車に乗り込む写真だった。そして、その高級車のナンバープレートには、少しもぼかしが入っていなかった。東安市であの威圧感を放つ特別なナンバーを所有しているのは、ただ一人しかいない。莉奈は思い出した。あのチャリティーオークションの夜、密かに盗撮されていたのだ。だが、その記事は公開されるなり、異様な勢いで拡散された。一時間もしないうちに、各SNSのトレンド上位を独占している。どう見ても、裏で拡散業者が手を引いている。匿名で叩く野次馬だけではない。承也の熱狂的なファンまで大勢入り混じり、莉奈を恥知らずだと罵っていた。報道記者のくせに、色仕掛けで這い上がったのだ、と。杉村編集長からメッセージが届いた。編集長室へ来るように、という内容だった。席に着くと、杉村は言いにくそうに莉奈を見た。「莉奈が実力でここまで来たことは、俺も分かってる。ただ……」「椎名承也は、私の夫です」莉奈は落ち着いた声で、杉村の言葉を遮った。杉村は、まるで理解不能な言語でも聞いたような顔になった。「……はい?」次の瞬間、杉村は弾かれたように椅子から立ち上がった。驚きのあまり顔を引きつらせて、目の前の莉奈を見る。「前に離婚で揉めてるって言ってた相手が、椎名承也なのか?」莉奈は苦く笑った。「そうです」今、この騒ぎを最も早く、最も確実に止める方法は一つしかない。承也本人が表に出て、二人は枕営業のような愛人関係などではなく、正真正銘の夫婦だと公表することだ。けれどそうなれば、世間中が知ることになる。莉奈が、夫から愛されていない名ばかりの妻だということを。あの夜、莉奈が公衆の面前で叩かれていた時、承也は空港で美月を大事そうに出迎えていた。そのゴシップ記事を出したのは、ほかでもないこの報道部の同僚だったのだ。莉奈は、人から同情の目で見ら
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第169話

周囲から、無数の突き刺さるような視線が莉奈へ向けられているのを感じた。いったい何が起きているのか。莉奈は頭の中が真っ白になり、耳の奥でキーンと嫌な耳鳴りがした。眉をひそめ、スマホを取り出してSNSアプリを開く。真っ先に目に飛び込んできたのは、信じられない見出しだった。【向井莉奈と椎名承也は法的に正真正銘の夫婦】莉奈がその見出しをタップすると、一番上に表示されたのは、承也の個人公式アカウントがわずか五分前に投稿したものだった。承也は例の悪意ある枕営業疑惑の記事を引用し、ただ一行だけ、短い言葉を添えられていた。【彼女は俺の妻だ】二番目には、椎名グループの公式アカウントが承也の投稿を即座にリポストしていた。これで、承也のアカウントが本物かどうかを疑う声は一瞬にして消え去った。個人アカウントなら、いくらでも偽造できる。けれど、大企業の公式アカウントは一つしかない。莉奈が承也の「本物の妻」だという爆発的なニュースは、そこから一気にネット上へ拡散され、凄まじい騒ぎへと発展していた。莉奈は広いテレビ局の一階ロビーで、釘付けになったように立ち尽くした。頭の中では、いくつもの考えが転がり、ほどけた毛糸玉のようにぐちゃぐちゃに絡まり合っている。承也が裏から手を回して、トレンドごと消し去ることは予想していた。あるいは、くだらないと一蹴して何もせず、放っておく可能性も考えた。けれど、承也本人が自ら表に出て、二人の関係を堂々と明かすことだけは、まったく予想していなかった。【彼女は俺の妻だ】その言葉が、莉奈の胸にべったりと張りついて離れない。莉奈はSNSアプリを閉じ、メッセージアプリを開いた。承也のアイコンをタップする。彼がいったい何を考えているのか、問いただしたかった。無視することもできたはずなのに、どうしてわざわざ、一番避けたかった身分公表なんてしたのか。けれど、莉奈の指先は画面の上で止まったまま、一文字も打つことができなかった。莉奈は息を吐き、もう一度、SNSのトレンド上位を開いた。予想通り、ネットの住人たちは驚愕したあと、すぐに一つの事実を理解していた。向井莉奈は、誰もが羨み、そして同時に同情していた「あの椎名家の奥様」なのだと。人々は、莉奈が東安市一の名家の当主である承也に嫁い
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第170話

真央は耳の先まで真っ赤にして、消え入るような声で言った。「莉奈と、友達になりたかったの」次の瞬間、真央は強い力で引き寄せられた。莉奈が真央をぎゅっと抱きしめたのだ。真央はカチコチに固まった。莉奈は真央から漂う香水の匂いを大きく吸い込んだ。重く沈んでいた胸の中が、少しだけ晴れていく。「早く言ってよ。そんなにもじもじするから、私をそっちの道に目覚めさせたいのかと思っちゃったじゃない」「馬鹿じゃないの!」真央は怒鳴った。けれど莉奈は、さらに強く真央を抱きしめる。莉奈は真央の背中をぽんぽんと軽く叩いた。「ありがとう、真央。真央がいなかったら、私どうなってたか分からないよ。ネットの連中、言葉で私を殺す気だったもん」真央の口元が、得意げに少し上がった。「当然でしょ。私がネットの喧嘩でどれだけ強いか、莉奈は知らないだけよ。見てなさい。莉奈を叩く奴らなんて、二度とネットで偉そうな口をきけないくらいボコボコに言い返してやるんだから」そう言って、真央は莉奈の腕から抜け出した。くるりと向きを変え、闘志に燃えた顔で颯爽とエレベーターへ入っていく。莉奈はその頼もしい背中を見送り、ため息まじりにふっと笑った。スマホにメッセージが届く。壇将からだった。【テレビ局の外のバス停にいる】壇将は、もう着いたのか。莉奈はすぐにマスクをつけた。テレビ局の外には、ゴシップ記者が張り込んでいるかもしれない。莉奈は人目を避けて通用口から出た。バス停まで行く前に、あの目立つ角張った大型SUVが停まっているのが見えた。莉奈は小走りで近づき、ドアを開けて助手席に乗り込んだ。シートベルトを締めようとした時、運転席の壇将が、こんこんと数回、低く咳をした。莉奈はぎょっとした。「まさか、私の風邪がうつったんですか?」壇将の大きな体が、わずかに強張った。莉奈は申し訳なさそうに、そのままぶつぶつ言った。「最悪です、尚南のせいですよ。あの夜、絶対に彼からうつされたんです。そのあと車に戻ってから、今度は私が壇将さんにうつしちゃったんですね」ハンドルを握る壇将の手から、ふっと力が抜けた。壇将は莉奈を横目で一度見た。表情は変えないまま視線を前に戻し、静かに車を出す。車は、前に壇将が莉奈を連れてきた射撃場へ入った。
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