All Chapters of 婚姻生活にさようなら、椎名さん: Chapter 111 - Chapter 120

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第111話

検査医は問いかけながらも、ベッド脇に立つ男をひどく意識していた。冷ややかな気配をまとったその男の威圧感に、医師の口調は知らず知らずのうちに丁寧になっていく。莉奈は腰に添えられた手から、何事もないようにそっと身をずらした。「頻度はずいぶん減りました。ただ、たまに耳鳴りがします。嫌いな人を見たときとか、嫌なことをされたときとか……たとえば、今みたいに」検査医は、いっそ耳を塞ぎたかった。莉奈の言葉が明らかに背後の男へ当てつけていることは分かる。だがそれが誰のことなのか、あえて口に出すほどの勇気は彼にはなかった。検査医は気まずそうに小さく咳払いをした。「ええと……やはり、傷の治りには、できるだけ穏やかな気持ちで過ごしていただくのが一番ですから」「ありがとうございます、先生。気をつけます」莉奈が立ち上がった瞬間、あの大きな手が再び腰に添えられた。承也は莉奈の身体を自分の方へ引き寄せると、強引に検査室の外へと連れ出した。検査室の入口まで来ると、承也は必死に抵抗する莉奈を一度だけ手放した。だがすぐにその手は下へ滑り、今度は莉奈の細い手首をきつく掴む。「どこへ行くつもりだ」「耳が楽になる場所よ」「『愛しい省之介さん』のところか?」莉奈はその嫌味な響きを聞き流し、逆に冷たく問い返した。「椎名社長はこの間ずっとお忙しいんじゃなかったんですか?今日はずいぶん優雅ですね。病院を散歩する時間はあるんですか?まさか、わざわざ私を探しに来たなんて言わないでくださいね。もしそうなら、ありがたくお気持ちだけ受け取りますので、とっととお帰りください」この切り返しの鋭さは、さすが報道局の敏腕記者といったところだ。承也は静かに莉奈を見つめていた。その黒い瞳は薄い霧に覆われたようで、奥底にある本当の感情を読み取ることはできない。莉奈はそれ以上、承也を見なかった。踵を返してエレベーターへ向かいかけたが、ふと足を止める。莉奈は振り返り、ようやく少し声を落ち着けた。「椎名さん、私たち個人の関係がどれだけこじれていようと、私の仕事にまで私情を挟まないでくれない?たった三十分、取材を受けてくれるだけでいいの。私を困らせて、あなたに何の得があるっていうの?」「俺がいつ君を困らせた」承也の声はひどく淡々としていた。莉奈の瞳に、かすかな期待の光が宿
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第112話

夕方になって、美月は昼に承也が病院で省之介を殴ったという話を聞いた。美月はすぐ、付き添いの識子に車を用意させ、松風レジデンスへ向かった。道中、美月は浩平に電話をかけようとした。だが浩平は、普段は口に締まりがないように見えて、承也と親友たちに関わることになると昔から妙に口が堅い。聞いたところで、きっと何も引き出せないだろう。「今日、椎名社長はどこで神崎先生を殴ったの?」美月は助手席に座るボディーガードに尋ねた。ボディーガードが答えた。「椎名グループ傘下の病院です。耳鼻科だったと聞いております。椎名社長が神崎先生を殴ったということ以外、詳しいことは分かっておりません」耳鼻科。美月は胸の内で、その言葉を静かに繰り返した。頭に浮かんだのは莉奈の姿だった。――そうだ。今日は莉奈が鼓膜の経過を診てもらう日だった。どうして忘れていたのだろう。承也は情に厚い。省之介と浩平のことは、ずっと大切にしてきた。世間では、あの三人こそ本当の身内のようで、従弟である尚南のほうがよほど外の人間に見えるとまで言われている。承也が理由もなく省之介を殴るはずがない。たとえ何かあったとしても、手を上げるような真似をするとは思えない。考えられる理由は一つだけだった――省之介が、承也の前で莉奈への想いを認めたのだ。美月はずっと前から、省之介が莉奈を好きだと知っていた。省之介の想いはあまりにも慎重に隠されていて、もし一度だけ偶然気づくことがなければ、まったく分からなかったに違いない。承也の観察眼は、美月よりも鋭い。もしかすると、承也はとっくに気づいていたのかもしれない。けれど省之介がはっきりした行動を起こさないから、見て見ぬふりをしていたのだろう。ただ、単なる男の独占欲だけで、承也が省之介に手を上げるとは思えない。それに莉奈も、婚姻関係が続いている間に承也を裏切るような真似は絶対にしない。では、何が承也にそこまでの分別を失わせたのか。ふと何かに思い至り、美月の目の奥に、陰りを帯びた鋭い光が走った。車が松風レジデンスの敷地へ入る前、ゲートで警備員に止められた。窓が下がる。美月は車を止めた警備員を見た。「桜井美月です。椎名社長に会いに来ました」「桜井様」警備員は恭しく頭を下げ、車内を一度確認した。それからリモコンを押し、遮断機
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第113話

恵子は、この家でこんな扱いを受けたことがなかった。莉奈は言うまでもない。気立てがよく、茶目っ気があって、気前もよく優しい。女主人らしく偉ぶるところなど少しもなく、時には恵子に甘えてくることさえある。本当に年長者として慕ってくれていた。承也も、少し冷ややかなところはある。だが恵子には礼を失わず、呼びつけてこき使うような真似は一度もしなかった。とはいえ、恵子も五十歳だ。多少のことでは動じない。「旦那様は書斎にいらっしゃいます。お戻りの際、どなたも通さないようにと申しつかっております」美月が、その言葉に含まれた牽制に気づかないはずがなかった。美月はかすかに笑った。「恵子さん、だったかしら?」「はい、桜井様」「あなたが私の顔を知らないのは構わないわ。でも次からは、こういう対応は控えてちょうだいね」美月は視線を外し、恵子の制止などなかったかのように、識子へ軽く手を上げた。「上へ行きましょう」美月の車椅子がエレベーターへ向かう。恵子は慌てて前へ出ようとした。だが一歩踏み出したところで、美月のボディーガードに行く手を塞がれた。「何をしている」ふいに、冷ややかな声が響いた。「承也!」美月が振り返ると、階段の上に承也が立っていた。美月は車椅子の向きを変えた。車椅子はそのまま階段下まで進む。美月は、杖を手に階段を下りてくる承也を見上げた。それから恵子をちらりと振り返り、柔らかな声で言う。「あなたの様子を見に上へ行こうとしたの。でも恵子さんに止められてしまって。心配のあまりつい取り乱して、彼女の制止を強引に振り切ろうとしてしまったわ。騒がせてしまったかしら」恵子は内心、息を呑んだ。――この桜井美月という人は、なんて手強いのだろう。たった数言で状況を説明し、自分は心配のあまり分別を欠いただけだと見せながら、恵子を客を通さない融通の利かない使用人にしてしまった。こんな相手に、裏表がなく感情がすぐ顔に出る奥様が敵うはずがない。恵子はその場に立ち、黙って頭を下げた。承也は淡々と言った。「恵子さん、美月にお茶を」「はい、旦那様」恵子がその場を離れると、美月は承也の手へ視線を落とした。心配そうに声をやわらげる。「省之介さんを殴ったって聞いたの。怪我はしていない?」承也は軽く手を上げた。手の甲には青
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第114話

承也は何気ない動作で、ローテーブルの上のカップを手に取った。「小さな傷だ。必要ない」美月の手が一瞬だけ止まった。だが顔には何の変化も出さず、声も相変わらず柔らかい。「それなら、お風呂のときは気をつけてね。濡れたらすぐに拭いて。そうすれば、手の甲の擦り傷も早く治るわ」美月は薬と綿棒を恵子へ差し出した。「承也が使わないなら、いったん戻しておいてちょうだい」承也の視線が、淡く美月の膝へ落ちた。美月はその視線を追って下を見る。外は雨で、先ほどエントランスから入ってきたときに雨粒がいくつかスカートに落ちたらしい。濃紺の生地に、はっきりと濡れた跡ができていた。「拭いておけ」美月は低く「ええ」と答えた。承也は極端に清潔で整った状態を好む。こうして指摘するということは、少し不快に思っている証拠だった。美月は車椅子を操作し、わずかに後ろへ下がった。二人の膝の距離が開く。識子がティッシュを手に、美月の足元へしゃがみ込んで濡れた部分を丁寧に拭き取った。外では冷たい雨が降っている。けれど室内は春のように暖かかった。美月はテーブルの上のカップへ手を伸ばした。だがふいに指先が震え、カップごと膝元へ落としてしまう。「桜井様、大丈夫ですか!」識子が慌てて声を上げ、美月の手を確認した。「おやけどはありませんか?」承也はわずかに眉を寄せた。「どうした」美月の唇は少し色を失っていた。「大丈夫よ。ただ、急に手に力が入らなくなって、カップを倒しちゃっただけ」識子は「あっ」と声を漏らし、承也に向かって言った。「桜井様は、椎名社長のお怪我を心配するあまり、夕食も召し上がらずに駆けつけてこられたので……」「そういうことは言わなくていいの。もともと食欲もなかっただけだから」美月がその言葉を遮った。そんなことを承也に言ってどうするのか。美月は純粋に承也を心配しているのだ。こんな些細なことで彼の気を引き、安っぽい同情を買うつもりはなかった。識子は小声で食い下がった。「でも、桜井様はただでさえ貧血気味ではありませんか。お食事を抜けば、力が入らなくなるのも当然です」識子ははっきりと覚えている。以前、隼人の葬儀で美月が貧血によるめまいで車椅子から落ち、頭を打って大量に血を流した日のことを。あのとき、多くの人が見ている前で、承也は美月を抱き上げ、血
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第115話

あの偏執じみた言葉を、浩平はその場で聞いていた。思い出すだけで、今も背筋が冷える。浩平は苦い顔で、辛抱強く言い聞かせた。「あいつがあんな重いことを口にするなんて、今まで一度もなかっただろ?もう諦めろ。好きになる相手を変えな」そう言いながら、浩平は綿棒に薬を取って、省之介の傷に塗ろうとした。だが省之介は、その手を払いのけた。「僕を君と一緒にするな。好きな相手を、そう簡単に替えられるわけがないだろう。僕は本気だ」「おい、承也を責めるのはいいとして、俺まで巻き込むなよ」浩平は不機嫌そうに省之介を指さした。「俺が止めなかったら、今日どれだけみっともないことになってたか分かってるのか?友達の妻に手を出すなって言葉、聞いたことないのか?」もっとも、浩平はそれをもじった、ろくでもない冗談も知っている。「友達の妻だからこそ手を出せ」という最低なものだ。だが、そんなことを省之介の前で口にするわけにはいかない。省之介が本当に一線を越えれば、承也は間違いなくさらに容赦しないだろう。そうなれば、親友同士の情など欠片も残らなくなる。省之介は自分の手を見下ろした。涼やかな顔には傷が一筋残っている。「僕は奈奈を諦めない。三年待ったんだ。ようやく奈奈が承也を諦めようとしている。承也が離婚しないと言うなら、僕が離婚させてみせる」浩平は息を呑んだ。「本当にどうかしてるぞ!承也のことはいったん置いておくとして、奈奈はどうなんだ?奈奈は、君がそこまで惚れてるって知ってるのか?受け入れてくれるのか? 承也を無理やり離婚させるのに、どれだけの代償が必要か分かってるのか?最後に奈奈が君を選ばなかったら、それでもやる価値があるって言うのか?」省之介はしばらく黙った。浩平は、ようやく少しは考え直したのだと思った。だが省之介は顔を上げ、浩平に尋ねた。「タバコはあるか?」「何だよ急に。前は吸わないだろ」そう言いながらも、浩平はポケットからタバコとライターを取り出した。省之介は一本くわえ、火をつけた。「価値があるかどうかは、僕が決める」浩平は、省之介が少しでも考え直してくれたのだとばかり思っていた。だがその一言で、浩平の怒りは一気に頭のてっぺんまで沸騰した。勢いよく立ち上がり、省之介を指さして怒鳴りつける。「脳神経外科医だろ! 明
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第116話

「桜井さんがそんなに泊まっていきたいなら、泊まっていけばいいじゃない」気だるげで澄んだ声が、ダイニングの入口の方から聞こえてきた。莉奈はただ、忘れ物を取りに戻ってきただけだった。承也が家にいるとは思っていなかったし、美月までいるとはなおさら思っていなかった。それにしても、承也がこれほど女心がわからず気の利かない男だとは思わなかった。幼なじみがほとんど目の前で「泊まりたい」と誘っているようなものなのに、彼はすげなく帰らせようとしている。笑えてくる。美月は、その一言に辱められたような顔をした。とりわけ莉奈の笑みを含んだ目には、隠しきれない皮肉が浮かんでいる。美月は唇を軽く噛んだ。「奈奈、誤解しないで。私、泊まるつもりなんてないわ」莉奈は肩をすくめた。「そう。だから?」「すぐ帰るわ」美月は、自分の向かいに座る男を見た。承也は相変わらず淡々としていて、莉奈が戻ってきたことにも、少しも動揺を見せていない。「承也、私が言ったこと、忘れないでね。傷口を水に濡らさないように気をつけて」承也は淡々と「ああ」と答え、新聞を畳んだ。何気ない目で莉奈を一瞥する。ちょうど莉奈も承也を見たところだった。二人の視線が、不意にぶつかる。莉奈は小さく鼻で笑い、すぐに目を逸らした。「明日になれば、もう塞がっちゃってる程度の傷だと思うけど」今日の昼までは何ともなかったはずだ。あの傷はどこでできたのだろう。もっとも、莉奈は深く聞くつもりなどなかった。彼には、こまごまと気遣ってくれる幼なじみがいる。莉奈はただ、忘れ物を取りに戻って、すぐ出ていく人間にすぎない。承也はわずかに顔を曇らせ、二階へ上がっていく莉奈の背中を見つめていた。莉奈が荷物を持って下りてきたとき、承也は杖を手に玄関ポーチに立っていた。美月の車は、ちょうど門のほうへ走り出している。莉奈は承也のそばへは行かなかった。脇の勝手口のドアを開ける。その瞬間、莉奈のスマホと承也のスマホが同時に鳴った。あまりの偶然に、莉奈は思わず承也を見た。承也もまた、莉奈を見ていた。スマホの画面には、椎名本家の番号が表示されている。承也が電話に出ると、白崎執事の焦った声が飛び込んできた。「旦那様、おばあ様が倒れられました!」……美月の車が松風レジデンスを出たばかりのところで、スマ
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第117話

美月は隠すことなく言った。「ほかのことなら、彼女を助けるなんて絶対にしません。でも、莉奈さんがE国へ行くことは、私にとって得しかありません。承也の目の前から消えてくれるなら、願ってもないことです」実のところ、莉奈を消す方法はいくらでもある。ただ、莉奈のそばには守る者がいる。本当に手を出すとなれば、かなり面倒だった。けれどE国へ行けば話は別だ。あちらは危険が多く、何が起きてもおかしくない場所だ。そこで莉奈が命を落としてくれれば、それ以上都合のいいことはない。和夫は数秒だけ考え込んだ。「ずいぶん正直だな」「叔父様は以前、莉奈さんに二か月考える時間を与えると約束しました。でも、最後には許可するつもりはなかったんでしょう?」和夫の目に、かすかな驚きがよぎった。和夫は美月の背後へ回り、車椅子を押してソファのそばまで連れていった。それから自分も腰を下ろし、短く答えた。「ああ。今のE国は情勢が荒れていて危険が多い。二か月の猶予を与えたのは、莉奈が冷静になって諦めることを望んだからだ」やはり、和夫はそう考えていたのだ。「でも叔父様は、莉奈のことを考えて、私のことは考えてくださらないんですか?」美月は感情を押し殺しながら問い詰めた。「君のことを考えてやりたいとは思っている。だが、莉奈と承也はまだ離婚していない。それなのに、君は待ちきれないように承也のそばへ行く。世間に知られたら、どう見られると思っている。君のことを本当に考えるなら、そもそも戻ってくるべきではなかった」美月は自分の叔父を見つめた。「叔父様は昔から、私より莉奈をかばいますね。そんなに莉奈をE国へ行かせたくないのは、彼女が叔父様の想い人の娘だからですか?」「何を言っている!」和夫は突然声を荒らげた。顔色が一瞬で険しくなる。叔父が美月の前でここまで取り乱したことは、これまで一度もなかった。美月は噛んでいた下唇を離した。「以前、叔父様の書斎で莉奈さんの母親の写真を見ました。アルバム一冊、全部あの人の写真でした。私、間違ったことを言っていますか?」「俺のアルバムを勝手に漁ったのか!」美月の身体がびくりと震え、目元が赤くなった。それを見て、和夫は自分が取り乱したことに気づいた。顔を背け、少しずつ怒りを鎮めていく。美月は深く息を吸った。「私がでたらめ
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第118話

莉奈は車を降りると、足早に屋敷の中へ駆け込んだ。白崎執事の姿を見るなり、焦った声で尋ねる。「おばあちゃん、どうして急に倒れたの!?」胸がざわついていた莉奈は、振り返って執事に問いかけようとした拍子に、足元の段差に気づかずバランスを崩した。承也がすぐに莉奈の手首をつかみ、その身体を自分の腕の中へ引き寄せた。白崎執事が莉奈を支えようと伸ばした手は、空を切った。白崎執事は承也を一度見てから、声を落として莉奈に告げた。「おばあ様は、旦那様が神崎様に手を上げられたとお聞きになり、お二人が離婚のことで揉めていらっしゃるとお知りになりました。あまりのことに、受け止めきれず……」莉奈は一瞬、言葉を失った。承也との離婚騒ぎは、千鶴に知られないよう本家には固く伏せていた。千鶴に余計な心配をかけたくなかったからだ。それなのに、結局隠しきれなかった。神崎様と言えば、省之介しかいない。承也は、省之介を殴ったのか。莉奈は無意識に、自分の腰に回された承也の手を見下ろした。あの手の甲の傷は、そのときにできたものだったのだ。莉奈は承也の手を振りほどき、階段を上がりながら尋ねた。「今は目を覚ましてる?」莉奈が部屋へ入ると、尚南もそこにいた。琴音が千鶴に水を飲ませている。足音に気づいた琴音は顔を上げ、「おばあ様、承也と莉奈が戻りました」と声をかけた。ベッドに横たわる千鶴が、かすかに手を動かした。弱々しい声が落ちる。「私は奈奈にだけ会いたい。関係のない人は入らなくていい。あなたたちも出ていきなさい」承也が踏み出しかけた足を止めた。黒い瞳が深く沈む。ほかの者たちは次々と部屋を出ていった。部屋には莉奈と千鶴だけが残る。窓の外では、雨がしとしとと降り続いていた。「おばあちゃん、怒らないで」莉奈は千鶴の手を強く握った。胸が痛んで、目の奥が熱くなる。「離婚のことは、どう話せばいいか分からなくて、まだ言えなかっただけで……」千鶴は莉奈の手を握り返した。喉を詰まらせながら言う。「奈奈がいい子なのは、おばあちゃんが分かっているよ。愚かなのは承也だ。あなたがよほど大きなつらさを抱えたから、離婚を口にしたんでしょう」そうでなければ、あれほど承也を愛していた莉奈が、自分から手を放そうとするはずがない。莉奈の目元が赤くなった。莉奈は、千鶴
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第119話

承也の深い瞳に、凍るような寒気が走った。「やってみろ」莉奈の瞳が激しく揺れた。すぐに、唇に皮肉な笑みが浮かぶ。「あなたと幼なじみはよくて、私と省之介さんはまだ何もないのに駄目だって言うの? 私が外で何人の男とどうなろうが、あなたには関係ないじゃない。省之介さん一人を殴ったところで、世の中の男全員を殴り倒せるわけじゃないでしょ。まさか、嫉妬してるなんて言わないでよ。気持ち悪いから」莉奈は背を向けた。承也は陰った目で、階段を下りていく莉奈の背中を見据えた。手にした煙草をもみ消し、長い脚を踏み出す。「旦那様、おばあ様がお呼びです」背後から白崎執事の声がした。承也は足を止めた。階下へ向かった莉奈の姿は、ちょうど曲がり角の向こうへ消えていく。承也は身を翻し、千鶴の部屋へ入った。承也の前には、一通の離婚協議書が置かれていた。承也は両手をポケットに入れたまま、淡く一瞥しただけで視線を外す。「どういう意味だ」千鶴は一度息を整え、かすれた声で言った。「署名しなさい。あのとき、あなたに奈奈を結婚させたのは私だ。今度は私が、奈奈を自由にしてやれと言っているんだよ」「おばあちゃん」承也は軽く笑い、ベッドの端に腰を下ろした。手を伸ばし、千鶴の白髪をそっと整える。「年を取ると子どもに返るって言うけど、おばあちゃんまでそんな無邪気なことを言うようになったのか」……莉奈は二階へ上がり、自分の部屋へ向かった。そのとき、廊下の向こうから、黒い背中に黄褐色の腹と脚を持つ大きな犬が、ものすごい勢いで駆けてきた。莉奈の目の前まで来ると、弾むように跳び上がってくる。「将軍(しょうぐん)!」莉奈は反射的に手を伸ばした。危うく押し倒されそうになりながら、腕の中に飛び込んできたシェパードの大きな頭を抱きとめる。「もう寝てると思ってた」莉奈が七歳で椎名家へ来たとき、莉奈は一人きりではなかった。一匹のジャーマン・シェパードも一緒だった。それは莉奈が一歳の誕生日に、亡き父と母から贈られた犬だった。ずっと莉奈のそばにいてくれた、大切な相棒だ。けれど、犬の寿命はどんなに長くても十数年ほどしかない。その犬が死んだ日、莉奈は一人で本家の裏手にある林に隠れ、泣き続けた。時間を忘れるほど泣いて、夜になってから、ようやく承也が莉奈を見つけ出
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第120話

その小さな足は赤みを帯び、しわしわで、生まれたばかりの赤ん坊の足のように見えた。莉奈は赤ん坊に詳しくない。特に一年前、あの処置で流産してからは、赤ん坊に関する動画や写真を見ることすら怖くなっていた。それでも、写真の中の足は妙に小さすぎる気がした。どうして承也の部屋に、赤ん坊の足の写真があるのだろう。まさか、承也が赤ん坊だった頃の写真なのだろうか。莉奈は写真を裏返した。裏には、力強い筆致で二文字だけ書かれていた。椎名。それ以外には、何もない。莉奈はもう一度写真を表に返し、その小さな足を見つめた。隣にいた将軍も大きな頭を寄せてきて、莉奈の真似をするように写真をじっと覗き込み、喉の奥で低く唸った。窓の外では、雨脚が少し弱まっていた。椎名邸は古い洋館で、窓の位置が高い。風に煽られた雨粒が窓ガラスに打ち付けられ、風の音に混じって、パチパチと細かな音を立てている。そのとき、部屋の扉がかすかに軋んだ。次の瞬間、ばたん、と閉まる。「ワン!」将軍が素早く振り返り、入口へ向かって吠えた。扉のそば、光の届かない暗がりに、黒い影が立っている。莉奈は慌てて床から立ち上がった。片手で将軍の背を押さえ、もう片方の手で写真を握りしめる。驚きで息が乱れたまま、その影を凝視した。ぱっと、部屋の明かりがついた。喉まで出かかった「幽霊」という言葉を、莉奈は寸前で飲み込んだ。まだ鼓動が落ち着かないまま、縁なし眼鏡をかけ、底の読めない目でこちらを見ている承也を見つめる。将軍は急に莉奈のそばを離れ、承也の周りを何度かぐるぐる回った。承也は意味ありげに莉奈を見る。「今夜はここで寝るつもりか?」「誤解だよ。将軍が勝手に入っちゃったから、連れ出そうとしてただけ」莉奈はそう言いながら、将軍の背を軽く叩き、部屋を出ようとした。けれど承也は、莉奈の説明など聞いていないかのようだった。杖を手に、長い脚で莉奈の前まで歩いてくる。「ここで寝てもいい。昔はよく、俺の部屋に入り浸っていただろう」承也が一歩近づく。男の体温と香りが、莉奈を包み込む。莉奈は理由もなく胸がざわつき、反射的に一歩後ろへ下がった。だが、背後はすぐベッドだった。脚がベッドの縁に当たり、莉奈の身体が後ろへ傾く。そのまま、少し硬い大きなベッドへ倒れ込んだ。承也はそ
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