All Chapters of 婚姻生活にさようなら、椎名さん: Chapter 141 - Chapter 150

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第141話

悠斗はうなずいた。「相手が意図的に痕跡を消しています。調べるには、少し時間がかかります」このブローチがオークション会場に現れてから、悠斗はすぐに調査を始めていた。それでも、何日も経ってようやく少し手がかりが見えてきたところだ。「黒崎さんと関係があるのでしょうか」境界地帯で最も大きな勢力を持つのは風牙だ。けれど、本当に風牙が関わっているのなら、このブローチはどうやって風牙の手に渡ったのか。承也はブローチを手の中で握りしめた。莉奈が言った言葉が、頭をよぎる。――椎名家の中に、風牙とつながっている人間がいる。「椎名家の人間が、黒崎さんに渡した」あのブローチをオークションに出したことは、挑発の始まりのようなものだった。椎名家の中で、そんな大胆な真似ができる者は限られている。承也はブローチを木箱へ戻した。親指で箱の底を数度なぞる。それから立ち上がり、執務机の奥へ回った。承也は箱を引き出しにしまい、机の上に置かれていた書類を開く。神崎家と佐伯家が、最近動いている。何を狙っているかは明らかだった。承也に圧力をかけ、離婚協議書に署名させるつもりだ。一人は、神崎省之介。もう一人は、佐伯直哉。承也の眉間には、消えない深い皺が刻まれていた。「愛しい省之介さん」に、「うちの直哉」とは!深夜二時半。承也は眼鏡を外し、眉間を揉んだ。悠斗は書類を整えながら言った。「社長、そろそろお休みください。医師からも、目を使いすぎないよう言われています。最近の社長は……」「わかっている」承也は悠斗の言葉を遮った。「君は先に戻って休め」承也はスマホを取り出した。時間も見ずに連絡先を開き、浩平へ電話をかける。呼び出し音が何度も鳴って、ようやくつながった。電話の向こうの浩平は、苦虫を噛み潰したような声で、歯ぎしりするように言った。「何だよ、こんな時間に」「明日、『夜酔』は営業を止めろ。内部を徹底的に洗え」浩平が息を呑む音がした。「ちょっと、前に『夜酔』は俺に丸投げしたんじゃなかったのか。どうして急に内部を洗うなんて言い出す」承也は、理由もなく面倒を起こす男ではない。浩平はすぐに悟った。何かが起きたのだ。……莉奈は一晩中、夢の中でもがいていた。あるときは、「夜酔」の廊下で誰
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第142話

足音に気づき、窓の前に立っていた男がゆっくりと振り返った。深く被ったキャップのつばの下から、深い褐色の瞳だけが覗いている。壇将は莉奈へ、かすかに顎を引いてみせた。莉奈はハッと我に返り、壇将の前まで歩いていく。何気ないふりを装って尋ねた。「暖房、かなり効いてますよね。帽子も手袋もつけたままで、暑くないんですか?」何度か顔を合わせるうちに、莉奈にもわかってきた。壇将は冷たい印象こそあるが、決して接しにくい人物ではないと。だから莉奈の口調も、以前より少しだけくだけていた。壇将は黒い手袋をはめた自分の手を見下ろした。それからスマホを取り出し、文字を打つ。【問題ない】声に出しているわけではない。それなのに、その短い文字からもそっけないほどの冷たさが伝わってくる。莉奈は小さく笑った。「なら、いいんですけど」莉奈は水筒を置き、ストレッチを始めた。壇将は少し離れた場所に立ち、腕を組んでいる。淡々とした視線で、莉奈が跳ねたり腕を回したりするのを眺めていた。一方で、莉奈の頭の中はフル回転していた。さっき感じた、あの奇妙な既視感。莉奈はあれが何だったのか、何度も思い返していた。手首を回しながら、莉奈は横目で壇将の体格を観察する。「準備できました。お願いします」莉奈は気合いを入れるように両手を軽く叩き、その場で二度跳ねた。それから、向かいに立つ壇将へ打ち込んでいく。莉奈は飲み込みが早い。格闘の型も、すでに頭には入っている。力はまだ足りないが、一つ一つの動きは、もう単なる見よう見まねではなくなっていた。それでも、壇将の前では到底通用しない。彼は軽く体をずらし、莉奈の攻撃を躱した。莉奈の体が空を切る。前のめりに倒れ込みそうになった瞬間、壇将が素早く手を伸ばした。莉奈の体を引き上げようとする。そのとき、莉奈は反射的に壇将の手首を掴み返した。耳元で、男の呼吸が一瞬だけ止まった。莉奈はキャップのつばの下に隠れた瞳を見つめ、唐突に口を開いた。「悠斗さん?」だが、その瞳には冷ややかさ以外、何の感情も浮かばなかった。静かな湖面のように、ひとつの波紋すら立たない。莉奈が口にした名前にも、微塵の反応も示さなかった。彼女の胸に迷いがよぎる。本当に、見間違いだったのだろうか。けれ
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第143話

普段の莉奈は、物事の分別をわきまえている。こんなふうに頭に血が上って、後先を考えずに行動に出るなど、これまで一度もなかった。壇将は怒鳴ることも、腹を立てて帰ることもしなかった。ただソファに座り、うつむいたまま黙って手袋をはめ直している。その姿を見て、莉奈の良心がちくりと痛んだ。莉奈は壇将の前にしゃがみ込み、両手を合わせた。「ごめんなさい、壇将さん。私……」ソファに座る男は、手袋の留め具を留めた。それから目を伏せ、目の前にしゃがみ込む莉奈を見る。莉奈は申し訳なさでいっぱいの顔をしていて、恥ずかしさのあまり今にも消えてしまいたそうだった。壇将の瞳が、わずかに暗くなる。壇将はスマホを取り出した。【なぜだ】画面を、莉奈の前に差し出す。やはり、「手が滑った」という言い訳は苦しすぎたらしい。壇将はまったく信じていない。莉奈は言葉に詰まった。いくら弁明しようにも、悠斗ではないかと疑っていたとは言えなかった。莉奈は腹をくくり、苦し紛れに答える。「……好奇心です」その答えには、さすがの壇将も言葉を失ったようだった。数秒の沈黙のあと、壇将は短く打った。【まあ、いい】莉奈の良心が、さらに痛む。続けて、壇将はもう一行打ち込んだ。【両手に火傷を負った。弾性手袋は、傷痕がケロイド状に盛り上がるのを抑えるために着けている】莉奈は自分を殴りたくなった。どうして、よりによって壇将を悠斗だと疑ってしまったのか。そもそも悠斗は忙しい。それに、見たところ悠斗と廷治がそこまで親しいようにも思えない。壇将は怒らないと言ってくれた。それでも、壇将のまとう空気が明らかに低く沈んでいるのは、莉奈にもわかった。莉奈は壇将の足元にしゃがんだまま、心から言った。「本当にすみません。きちんとお詫びします。腹が立つなら、二発くらい殴ってください。絶対にやり返しません。もちろん、やり返したところで壇将さんには勝てませんけど……声も出しませんから」壇将は静かに莉奈を一度見た。そして、スマホをポケットに戻す。ふいに壇将が手を上げた。莉奈は反射的に目を閉じた。長い睫毛が小刻みに震える。唇は固く結ばれている。いざ殴られるとなっても、さっき自分で言った約束だけは守るつもりだった。――声は絶対に出さな
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第144話

もし尚南が、本当に風牙とつながっているのだとしたら。莉奈は、その可能性を考えることさえ怖かった。幼い頃から一緒に育った身内に、あんな裏の顔があるかもしれない。そんなことは、想像したくもなかった。けれど今は、おくびにも出せない。ほかの誰かに気づかれるわけにもいかない。ここで相手を警戒させれば、承也の側の調査はさらに困難になる。椎名家の中に巣食う毒は、必ず取り除かなければならない。莉奈は興味を引かれたような顔を作って尚南を見た。「へえ。尚南副社長は、どうやって私を助けてくれるんですか?」尚南副社長。あえてそう呼んだ。椎名グループにおける尚南の立場は、承也の下だ。財力も、実力も、承也には及ばない。だが莉奈は、ふとオークション会場でのことを思い出した。あの夜、承也は二十億円という高値で、あのサファイアのブローチを落札した。そのとき尚南は、二十億円でも自分は張り合えると言った。尚南に二十億円の個人資産があること自体は、莉奈も疑っていない。けれどオークションでは、その場で支払いの意思と能力を示さなければならない。しかも承也が、さらに値を吊り上げる可能性もあった。尚南に、そこまでの資金力があるとは思えなかった。今になって考えると、あれは莉奈の前で見栄を張っただけだったのか。それとも、本当に尚南にはその金があるのか。尚南は手を伸ばし、莉奈の胸元に下がる取材証のストラップに指をかけた。声に、曖昧な甘さが混じる。「奈奈が俺のところへ来るなら、何だって賭けるさ」その瞬間、どこからか飛んできた重い万年筆が、尚南の手の甲を強打した。尚南は痛みに顔をしかめ、莉奈の取材証から手を離す。尚南が目を上げる。少し離れた場所で黒い高級車から降りた承也が、署名を終えたばかりの書類を、そばに立つ秘書へ渡していた。本来なら承也の手にあったはずの万年筆は、尚南の手の甲を打ったあと、地面に落ちて何度か転がる。尚南の手の甲には、赤い筋がくっきりと一本浮かんでいた。その目の奥に、かすかな冷気が漏れる。莉奈が尚南の視線を追うと、不意に深い黒い瞳とぶつかった。莉奈はすぐに目をそらし、そばにいた同僚の腕を軽く引いた。「行きましょう」二歩ほど進んだところで、背後の少し離れた場所から、美月の柔らかく笑みを含んだ声が聞こえ
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第145話

莉奈はそこでようやく、今日この会場で神崎家の人間を一人も見かけない理由に思い至った。よりによって、さっきの二人が口にしていた神崎家と佐伯家には、莉奈のよく知る人物がいる。しかも、二人はそれぞれの家で中心的な役割を担う存在だった。以前の三家は、少なくとも表向きは波風を立てずにやってきた。とくに神崎家は、長年、椎名家と緊密な協力関係を保っていたはずだ。けれど今日、神崎家の人間はこの式典に誰一人として姿を見せていない。それどころか、ビジネスの場では椎名家から案件を奪うほどの対立関係に転じているという。――省之介さんが主導しているのだろうか。莉奈はかすかに眉を寄せた。竣工式は、介護施設の広場に設けられた特設ステージで行われていた。ステージ上では、司会者が挨拶を進めている。莉奈は思考を切り替えた。いつものようにマスクをつけ、ステージを背にしてカメラの前に立つ。マイクを手に取り、聞き取りやすい報道用のトーンで話し始めた。そのとき、少し離れたVIP席に、世話係に支えられながら腰を下ろす千鶴の姿が目に入った。おばあちゃんも来ている。莉奈は密かに胸をなで下ろした。莉奈と承也の離婚を知り、千鶴が気落ちして体調を崩しているのではないかと心配していた。けれど、こうして自分から外の式典へ足を運べるのなら、思っていたより状態は悪くないのかもしれない。莉奈は、中継が終わったら千鶴のところへ挨拶に行こうと決めた。背後では、司会者が椎名グループの社長に登壇を促すアナウンスをしている。ステージのスピーカーから、承也の低く冷ややかな声が響き渡った。莉奈は少し体を斜めに向け、マイクを持ったままレポートを続けた。「ご覧の通り、ただいま登壇してスピーチを行っているのは、本式典の主催である椎名グループの社長です」単なる偶然だろうか。莉奈が横を向き、空いた手でステージを指し示したその瞬間、演壇に立つ冷徹で気品ある男の視線が、まっすぐにこちらへ向けられたのだ。その一瞬の交錯が、同僚の回すカメラのフレームに正確に収められた。莉奈は表情を一切崩さなかった。承也の挨拶は短く、しかし圧倒的な説得力があった。スピーチを終えると、承也は長い脚で、落ち着いた足取りのままステージを下りてくる。登壇前に黒のロングコートを脱いだ承也は、
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第146話

莉奈は手首の痛みに、思わず眉をひそめた。承也の深い瞳が莉奈を見つめている。薄い唇は固く結ばれ、寄せられた眉のあいだには、複雑な感情が絡みついていた。彼は莉奈の手首を掴む力を少しだけ緩めた。それでも、手は離さない。一言も発しないまま、莉奈の手首を握り、混乱する人波の中から連れ出そうとした。数台の黒い大型SUVが、会場の中央へ突っ込んできた。来賓席がなぎ倒され、椅子や机が砕ける音が銃声に混じる。女性の悲鳴、子どもの泣き声、男たちの怒号が、四方から押し寄せた。莉奈は承也に手首を引かれ、飛び交う弾の中を抜けていく。耳を劈く音も、目の前の惨状も、まるで戦場の一部を切り取ったようだった。黒い服に目出し帽の男たちが、次々と車から飛び降りた。逃げ惑う来賓たちへ向かって、走り出す。そのとき、黒い銃口が承也と莉奈へまっすぐ向けられた。承也の瞳に、凍りつくような殺気が走る。承也は莉奈の手首を引き、自分の背後へ押しやった。同時に、相手の銃を直接掴みにかかる。相手が引き金を引いた瞬間、承也は凄まじい力で男の手首を捻り上げた。銃口の向きが、ほんの一瞬で跳ね上がる。銃声が響いた。弾は、相手の眉間を撃ち抜いていた。ワンテンポ遅れて、強烈な恐怖が莉奈の胸へ押し寄せる。莉奈の顔から血の気が引いた。視界の端で、別の覆面の男がこちらへ向かってくるのが見えた。承也の骨ばった手の中で、奪ったばかりの銃が一度回る。承也は片手で莉奈の腰を抱き、自分の腕の中へ引き寄せた。もう片方の手で、迷いなく引き金を引く。莉奈の背中が、承也の硬い胸にぶつかった。血が噴き上がる溶岩のように全身を駆け巡る。承也は顔を横へ向け、別の方向へ銃を構えて撃った。その直後、腕の中の莉奈が身をよじってすり抜けた。承也の指先から、冷たい悪寒が一気に心臓へ走る。長身の体が、わずかにこわばった。さっきボディーガードに倒された覆面の男が、最後の力を振り絞るように地面から起き上がっていたのだ。男は落ちている銃に手を伸ばしている。承也の死角だったが、莉奈は気づいていた。男が銃へ飛びつこうとした瞬間、莉奈は承也の腕から力いっぱい抜け出した。そして、壇将に教わったばかりの動きで、男を地面に組み伏せた。ただ、今の莉奈にはまだ圧倒的に力が足りない。
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第147話

――銃声が響いてから、承也はずっと莉奈のそばにいたのか。離婚するはずではなかったのか。海外へ行くはずではなかったのか。それなのに、どうしてまだ私の承也にまとわりついているの。美月はふいに、護衛についていたボディーガードへ命令した。「あなたも行って。椎名家のボディーガードを手伝って、あの襲撃者たちを抑えて。私は大丈夫だから」「ですが、桜井様……」「いいから早く行きなさい!」美月の顔が険しく沈んだ。強く握りしめた指が手のひらに食い込み、血が滲むほど爪を立てても、胸の底に渦巻く嫉妬と憎しみは少しも消えない。だが美月の言葉が終わった直後、また鋭い銃声が響いた。ボディーガードは素早く美月たちの前に立ちはだかった。「早く桜井様を中へ避難させろ!」識子は一瞬もためらわず、車椅子を押して建物の奥へ走った。角を曲がったところで、識子は何かに足を取られた。「きゃっ」識子はそのまま転倒し、頭を花壇の縁に強く打ちつけた。目の前がぐらりと揺れ、強いめまいに襲われる。……銃声は少しずつ減っていった。悠斗が千鶴を安全な場所へ送り届け、残ったボディーガードを率いて覆面の男たちを包囲したことで、突然のテロ襲撃はようやく終わりを迎えた。だが、誰もが安堵の息をつきかけたそのときだった。武器を取り上げられていた覆面の男たちが、突然、一斉に全身を激しく痙攣させた。莉奈は反射的に一歩下がった。けれど背中が承也の硬い胸に当たる。莉奈の手首を囲む指の力が、さらに強くなった。すべては瞬きする間に起きた。七、八人の男たちが同時に地面へ倒れ伏す。数度、体を大きく痙攣させたあと、ピタリと硬直した。そして、完全に動かなくなった。悠斗はすぐに駆け寄ってしゃがみ、男たちの状態を確認した。その顔が冷たく強張る。「奥歯に毒を仕込んでいました」冷たい風が、空気に残る硝煙を巻き上げた。細い煙のように、薄れゆく陽光の中へ散っていく。承也の冷ややかな視線が、地面に転がる七、八人の死体をなぞった。全員、捨て駒だった。生き残っていた者たちも、この包囲網を抜けられないと悟った瞬間に、自決するよう訓練されていたのだ。廷治が青ざめた顔で莉奈のそばへ駆け寄ってきた。「向井さん、ご無事ですか!」銃声が響いたあと、廷治は莉奈
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第148話

承也は美月の車椅子のそばへ歩み寄った。美月が識子に目で合図すると、識子は慌てて美月のコートの前を開いた。内側の白いカシミヤのニットにまで、血がべっとりと染み込んでいる。傷口からは、まだ血が流れ続けていた。弾は、美月の左肩と鎖骨の境目あたりに入っていた。致命傷ではない。だが、出血は多い。承也の瞳の奥に、幾重にも暗い色が沈んだ。意識が朦朧としている美月は、痛みで冷えきった手を持ち上げた。震える指で、承也の袖を掴む。「承也……痛い……」美月が痛みに耐える声を聞き、莉奈は反射的にそちらを見た。だが、識子がちょうど横に体を入れて、莉奈の視界を遮った。莉奈のいる角度からは、美月の頭が承也の手に寄りかかっているようにしか見えなかった。莉奈が視線を戻そうとした、そのときだった。識子が叫ぶ。「桜井様!」美月は気を失っていた。承也の動きが一瞬止まる。次の瞬間、承也は美月を横抱きに抱き上げた。そのあとの光景を、莉奈は見なかった。承也が美月を抱き上げたのと同時に、莉奈は身を翻した。急いで自分の同僚を探しに向かう。ほかの誰がどうなろうと、自分には関係ない。 けれど、思いがけず、莉奈の同僚二人も怪我をしていた。悠斗は現場に残り、事態の収拾に当たっている。負傷者たちは、椎名家が手配した車で次々と病院へ送られていた。莉奈は同僚二人も病院へ運ばれたと聞き、今日乗ってきた取材車へ小走りで向かった。車に乗り込み、ドアを閉めようとした瞬間、外から手が伸びてきてドアを押さえた。光と影の中で、尚南の顔はどこか陰って見えた。尚南は片手でドアを押さえ、身をかがめて莉奈を見下ろす。唇には軽薄な笑みがある。「お兄さんは、あっさり奈奈を置いていったな。さっき俺が言ったこと、少しは考える気になった?」さっき言ったこと――尚南のところへ来るなら、早く離婚できるように手を貸すし、何だって賭けるという話だ。正直、莉奈はその誘惑に少しも興味がなかった。ただ、胸の中には行き場のない怒りの火がくすぶっていた。そこへ、尚南がちょうど飛び込んできたのだ。「私のために何だって賭けるんじゃなかったんですか?さっきあんなに危なかったのに、どうして守ってくれなかったんです?」尚南の目が、わずかに引き締まった。莉
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第149話

医師はありのままに答えた。「桜井様の失血量だけで見れば、本来、輸血は必要ありませんでした。ただ、ヘモグロビン値がかなり低かったため、二百ミリリットルだけ輸血しています」――ヘモグロビン値が、まだ低いだと?やはり、まだ足りないか。承也は眉を深く寄せた。そのとき、ボディーガードが背後から近づき、承也のそばで低く何かを告げた。医師は承也の次の指示を待っていた。だが顔を上げたときには、承也はすでに身を翻し、足早にエレベーターへ向かっていた。救急外来のロビーで、省之介は白衣を脱いで脇の椅子へ放った。そして足早に莉奈の前まで来ると、両手で莉奈の肩を掴み、上から下まで確かめるように見た。「奈奈、どこか怪我はしていないか」省之介は午前中、ずっと手術に入っていた。手術を終えてから、今日、椎名家の介護施設の竣工式で銃撃事件があったと聞いたのだ。途中で中断された中継映像のアーカイブに莉奈の姿を見つけた瞬間、頭の血の気が引いた。莉奈に電話をかけても出ない。人を使って各病院を調べさせ、ようやく莉奈がここにいると知ったのだ。こうして莉奈が無事な姿で目の前に立っているのを見て、省之介の胸を張り詰めさせていた糸が、ようやく少し緩んだ。莉奈は首を横に振った。省之介の息が少し乱れている。きっと車を降りてから全力で走ってきたのだろう。莉奈は省之介に男女の感情を抱いていない。それでも、省之介に心配をかけたいわけではなかった。「私は大丈夫です、省之介さん」莉奈の口から大丈夫だと聞いて、省之介の胸の緊張は解けた。それでも、遅れて押し寄せた恐怖が心臓を落ち着かせない。莉奈は、自分の肩に置かれた省之介の手に、少しずつ力が入っていくのを感じた。省之介は湧き上がる感情を必死に抑えている。指先が、かすかに震えていた。省之介は、莉奈を抱きしめたい衝動を必死にこらえていた。強く抱きしめて、胸に残る喪失の恐怖を鎮めたかった。けれど理性が、それを押しとどめる。莉奈はまだ承也と離婚していない。こんな人目のある場所で抱きしめれば、傷つくのは莉奈の評判だ。承也がエレベーターから出たとき、真っ先に目に入ったのは、救急外来のロビーの外に立つ省之介と莉奈だった。省之介の手は、莉奈の肩を強く掴んでいる。感情を抑え込み、莉奈に執着するその姿は、承也
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第150話

病院の救急外来のロビーの外で、莉奈が何かを言った。それから省之介はすぐにどこかへ電話をかけた。そのあと、莉奈に付き添って救急外来へ戻り、同僚たちの様子を見に行く。しばらくすると、ボディーガードらしき男が、春霞亭の折詰弁当を手に救急外来へ向かってきた。春霞亭は、神崎家が経営する高級料亭だ。莉奈の好みの味だった。識子が、慌てて走ってきた。息を切らしながら言う。「椎名社長、桜井様が目を覚まされました!」承也の瞳は暗く沈んで、声は冷ややかだった。「医師を呼べ」……深夜、莉奈は自宅へ帰り着いた。シャワーを浴び、身支度を済ませてベッドに入ったものの、まったく眠れない。何度も寝返りを打ったあと、莉奈はベッドサイドの引き出しからスマホを取った。LINEを開き、壇将とのトーク画面を開く。【壇将さん、射撃は得意ですか?】今日、介護施設でテロ襲撃に遭ったことで、莉奈は自分の無力さを改めて思い知らされていた。これから向かう海外の赴任先は、情勢の不安定なE国だ。もし銃を扱えるようになれば、少なくとも自分を守る手段が一つ増える。莉奈が知っている人間の中で、射撃がいちばんうまいのは承也だった。承也の母方の実家は、部隊と政財界に深く関わる名家だ。承也は幼い頃からそういった環境で育ち、十三歳のころにはすでに驚異的な射撃の腕前だったと聞いている。承也は莉奈と同じように、幼い頃から飛び級を重ねた。十八歳で大学を卒業したあと、特務機関に身を投じて過酷な特殊訓練を受けた。そして二年後に帰還し、椎名家の事業を継いだのだ。格闘技の腕も、プロの域を優に超えている。かつては総合格闘技の大会で優勝したこともあった。けれど、承也に教えてもらうことなど絶対にできない。廷治に銃の扱いを教えてもらうこともできない。そんなことをすれば、直哉に必ず何かを察されてしまう。莉奈はメッセージを打ち終え、スマホを胸の上へ置いた。置いた直後、LINEの通知音が鳴る。壇将から返事が来た。【そこそこだ】莉奈はぱっと体を起こした。この冷ややかなトレーナーは、自分を大きく見せるような真似はしない。壇将が「そこそこ」と言うなら、実際には相当な腕前だということだ。見込みはある。莉奈はすぐに続けて送った。【廷治さんと比べた
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