All Chapters of 婚姻生活にさようなら、椎名さん: Chapter 151 - Chapter 160

163 Chapters

第151話

とはいえ、廷治に聞くわけにはいかない。そんなことをすれば、莉奈が内緒で壇将から射撃を教わろうとしていると、廷治に知られてしまう。莉奈は立て続けに三度、深いため息をついた。これでますます厄介なことになった。ただでさえ無愛想なトレーナーだったのに、今度は氷の塊みたいになってしまった。莉奈はハンドルを切り、車を幹線道路へ入れた。そのまま環状道路の外側へ抜けていく。年の瀬もかなり押し迫っている。道には、荷物を山積みにした長距離移動のバイクが少なくない。莉奈は彼らを驚かせないよう、少し速度を落とした。窓越しに、バイクのクラクションやエンジン音が、近づいては遠ざかっていく。車内には、心を落ち着かせるような静かな音楽が流れていた。その中に、ひときわ大きく耳障りな重低音がいくつか混じっていた。普通のバイクとはエンジン音がまるで違う。まるで道路上でチェイスでもしているかのような荒々しい音だ。莉奈は反射的に、血気盛んな若者たちが公道で暴走しているのだろうと思った。バックミラーに視線をやると、ダークカラーの大型バイクが数台、他のバイクの列を縫うようにして走ってくるのが見えた。彼女はかすかな違和感を覚えた。けれど、すぐ後ろには廷治の車がぴったりとついている。それだけで、少し気持ちが落ち着いた。廷治もこの異変に気づいていた。彼の車には、ほかに三人のボディーガードが同乗している。廷治はハンドルを握る部下に短く命じた。「向井さんの車にぴったりつけろ」車がぐんと加速する。だがその瞬間、周囲を走っていたバイクのエンジン音が、一斉に耳をつんざくほど膨れ上がった。ただの長距離移動のバイクだと思っていた群れが、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、廷治の車へ一斉に群がってきたのだ。廷治は一目で見抜いた。ヘルメットの奥で光っているのは、家路を急ぐ一般人の目ではない。明確な殺気を帯びた目だ。「まずい!」奴らはただの通行人などではない。道を走っていたバイクの列が四方から押し寄せ、廷治の車を完全に包囲した。前方の視界がバイクの壁で塞がれる。その間にも、列をすり抜けてきた大型バイクたちは、前を走る莉奈の車を追ってさらに加速していた。濃紺の車体を光らせた三台の大型バイクが、莉奈の車を左右から挟み込むようにして強制的に進路を塞いだ。莉奈
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第152話

莉奈は小さく息を吐き、頭の中のあり得ない想像を打ち消した。いったい何を考えているのだろう。あの男と壇将は、まるで接点のない別人の人間だ。ただ身のこなしが、同じように速く、無駄がないというだけのことだ。壇将の視線が、莉奈の顎をかすめている細い血の筋を捉えた。割れた窓ガラスの破片で切れた、ほんの浅い傷だ。壇将はタクティカルグローブの手首をきつく締め直した。深く沈んだ褐色の瞳に、一瞬、氷のような殺気が走る。壇将が地面に落ちていた鉄パイプを拾い上げると、男たちはその圧に気押されて反射的に半歩後ずさった。だがすぐに互いに目配せをし、一斉に襲いかかってきた。いくらなんでも数が多すぎる。莉奈の胸に、不安がじわりと広がった。どれほど腕が立とうと、一人で捌き切れる数ではない。まして相手は道路一帯を埋め尽くすほどいる上に、何者なのかも分からない。壇将の動きがどれほど鋭くても、これだけの波状攻撃を受け続ければいずれ限界が来る。それに、今の壇将は全力で戦うことができない。背後にいる莉奈の安全を守りながら戦わなければならないからだ。このままでは、壇将も廷治たちもやられてしまう。そう思った瞬間、莉奈の顔が強張った。鋭いナイフが、壇将の右腕に深く突き刺さったのだ。壇将の全身から放たれる空気が、一気に絶対零度まで冷え込んだ。彼はナイフを握る男の手を逆に捕らえると、その手首を容赦なく内側へ折り曲げた。骨の砕ける鈍い音がした。次の瞬間、男の握っていたナイフは、まっすぐ男自身の胸元へ深々と突き刺さっていた。その時、廷治がなんとか包囲を抜け、全力でこちらへ駆け寄ってきた。「Jさん!」壇将は氷のような目で廷治を一瞥した。そして、莉奈の車の反対側へ回って守れ、と顎で示した。莉奈は、今が強がる場面ではないとよく分かっていた。自分の腕で車を降りて戦ったところで、すぐに数の暴力に押し潰されるだけだ。だから莉奈は車内に留まり、壇将と廷治たちが襲撃者を食い止めるのを待った。それでも、心配は消えない。相手の人数が多すぎる。莉奈は襲撃された直後に警察へ通報している。けれど、パトカーのサイレンはまだ聞こえない。壇将の腕は、さっき確かにナイフで刺された。決して軽い傷で済むはずがない。このまま黙って見ていることなどできなかった。
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第153話

それに、壇将は理由も分からないまま莉奈に腹を立てていたはずだ。それなのに、いざとなれば真っ先に助けに来てくれた。彼が危険を顧みず身を呈してくれたことを思えば、莉奈が壇将を放っておけるはずもない。幸い、壇将は悠斗の確認に素直に応じた。悠斗は確認を終えると、莉奈へ向き直った。「お怪我はありませんでした。奥様、ご安心ください」悠斗がいい加減なことを言うはずがない。莉奈はようやく安堵の息をつき、さっき壇将が車内へ放り込んでいたスマホを拾い上げて差し出した。「壇将さん、今夜は本当にありがとうございました」悠斗がふと顔を上げ、壇将を意味ありげに一瞥した。壇将はスマホを受け取ると、いつものように淡々と莉奈を見た。指先が画面を滑り、一行の文字が表示される。【家まで送る】莉奈は、最初は断るつもりだった。壇将はさっき、あれだけの人数を相手にしたばかりだ。体力だって相当消耗しているはずだ。これ以上、壇将の時間を奪うのは申し訳ない。けれど、莉奈はすぐに考え直した。これはちょうどいい機会だ。壇将がなぜ怒っていたのか、聞き出せるかもしれない。もし本当に自分に非があるなら、きちんと謝ればいい。その流れで、射撃を教えてもらえないか頼むこともできる。莉奈は頷いた。「お願いします」街灯の下で、莉奈の瞳が細かくきらめいている。口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。明るい目元とその笑い方のせいで、何か悪戯を思いついた子狐のように見える。どう見ても、頭の中で何かを企んでいる顔だ。壇将は莉奈の顔から静かに視線を外した。莉奈の車は窓を完全に割られていて、もう走らせられない。壇将は自分の車へ向かった。角張った車体の大型SUVだ。壇将は助手席のドアを開けた。莉奈が後部座席へ回ろうとする気配を、先読みして封じるような動きだった。現場の後始末は、悠斗と廷治に任せることになった。車は静かに夜道を走り出した。莉奈は何度も口を開きかけ、そのたびに言葉を飲み込んだ。運転中の壇将は、スマホに文字を打って返事をすることができないからだ。やがて、車は汐見ヶ丘のマンション敷地内へ入った。莉奈は壇将の顔色をうかがった。けれど、壇将はキャップとマスクで顔をすっぽりと隠している。表情など、まるで読み取れない。だから莉奈は、回りくどく探るのをや
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第154話

土曜日の午前、莉奈は早起きした。朝早くから開いている店で同僚たちの好きな朝食を買い、それから車で椎名家の系列病院へ向かった。昨日は救急ロビーが混乱していて、莉奈は記者証を同僚のところへ置き忘れていた。月曜の午前に取材が入っており、どうしても必要だったのだ。車を停めると、莉奈は昨日同僚たちが入っていた一般病棟の病室へ向かった。ところが、病室の中は空っぽだった。同僚へ電話をかけようとして、莉奈はようやく三十分前に届いていたLINEに気づいた。【言い忘れてた。俺たち、VIP病室に移った】三分後、莉奈はドアをノックし、病室の重厚な扉を押し開けた。コネクティングルーム仕様になったVIP病室で、左右に分かれた二つの個室の扉はどちらも開いている。左と右の部屋に、莉奈の男性同僚が一人ずつ入っていた。二人とも怪我をしたのは手だ。自分で食事ができないほどではない。それなのに、看護師たちは丁寧に世話を焼き、食事まで口に運んで食べさせようとしていた。いい大人の男二人が、さすがにそこまでしてもらうのは気まずい。何度かやんわり断っていたところで、二人は莉奈が来たことに気づいた。二人の声が見事に重なる。「莉奈、助けてくれ!」莉奈は朝食の袋を提げたまま、二つの部屋の真ん中まで歩いた。「この人たち、自分で食べられるから。甘やかしすぎてダメ人間にしないでよ」「佐藤補佐から言われているんです」少し活発そうな看護師が莉奈に言った。「お二人をきちんとお世話するようにって」――悠斗?莉奈はマフラーを外し、腕に掛けた。「もう十分です。ほかの仕事に戻って大丈夫ですよ。あとで私から彼に言っておきますね」その言い方だけで、莉奈が悠斗とそれなりに親しいことは伝わった。二人の若い看護師は、ぱっと莉奈のそばへ寄ってきた。目がきらきらしている。「佐藤補佐とお知り合いなんですか?LINE、知ってます?私たち、何回か聞いたんですけど全然教えてくれなくて。すごく近寄りがたいのに格好いいですよね。桜井様の言うことだって聞かないって聞きました」たしかに、悠斗は近寄りがたい。冷たいと言ってもいい。彼の雇い主が、外の人間に見せる態度とよく似ている。二人が並んで立てば、周囲の温度が一気に下がりそうだ。悠斗が美月の指示を聞かないことも、莉奈にはまっ
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第155話

二人の同僚は、少しずつ肩の力を抜いていった。一人の同僚が、莉奈の買ってきた朝食を食べながら言った。「それにしても、椎名家の病院って設備が本当にいいな。俺たちがこんなVIP病室に入れてもらえるなんて、正直びっくりしたよ」もう一人の同僚が応じる。「椎名家は昔から気前がいいだろ。前に莉奈と一緒にチャリティーオークションへ行って、途中で椎名社長をつかまえた時のこと、忘れたのか?」「あっ」最初の同僚がポンと手を打ち、莉奈へ顔を向けた。「お前が言わなかったら、莉奈に話すのを忘れるところだった。莉奈、あの夜、佐藤補佐が俺たちにどれだけの特別ボーナスをくれたか知らないだろ。俺の給料数ヶ月分くらいあったぞ。いや、待てよ。莉奈ももらってるはずだよな」莉奈は背を向け、二人のために水を注ぎながら、感情の読めない声で「そう」と短く返した。自分が受け取ったのは、現金などの謝礼ではない。落札額が二十億円に達したサファイアのブローチだった。もっとも、それを受け取らなかったが。莉奈は、もらったとも、もらっていないとも言わなかった。だから同僚たちは、莉奈も同じように金一封を受け取ったのだと思い込んでいる。「椎名社長って、見た目は人を寄せつけない感じだけど、俺たちみたいな末端の人間にもけっこう手厚いよな。こんないい病室まで手配してくれたんだし、俺、これからは椎名社長を全力で支持するわ」莉奈は水の入ったコップをベッド脇の棚に置いた。ほかのことはさておき、椎名グループの管理が厳しいのは事実だ。以前はあれほど扱いにくかった尚南でさえ、グループに入ってからはすっかり角が取れている。それでも、承也が下の人間を不当に扱ったという話は聞いたことがない。経営者としての承也は、たしかに優秀だ。莉奈はこのあと椎名邸へ行き、千鶴の様子を見るつもりだった。午後には壇将と射撃練習の約束もある。今日の予定は、すでに壇将へ伝えていた。二人の同僚が朝食を食べ終えるのを見届けて、莉奈も帰る支度を始めた。「私の記者証は?」「佐藤補佐から受け取ってないのか?」莉奈は怪訝そうに同僚を見た。同僚が説明する。「一昨日、莉奈が帰ったあとに佐藤補佐が様子を見に来たんだ。その時、莉奈の記者証を見つけて、預かって渡しておくって言ってたんだよ。莉奈が出ていってからすぐ佐
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第156話

莉奈は目を丸くして、悠斗を睨みつけた。つまり、承也本人のところへ直接行って記者証を取り返せ、ということだ。莉奈は忌々しげに頷いた。「分かった。もういい。再交付してもらうから」再交付の手続きには一週間ほどかかる。月曜の取材にはどうしても記者証が必要だった。だが、莉奈はテレビ局の報道記者だ。局に証明書を臨時で発行してもらえば、急場の取材くらいはどうにでもなる。それでも、このまま引き下がるのはどうしても癪だった。莉奈は顔を上げ、その鬱憤を悠斗へぶつけた。「さっき、あなたのLINEを病院中の看護師さんに教えておけばよかったわ。四六時中メッセージが届いて、ノイローゼになればよかったのに!」ちょうどその時、承也が病室から出てきた。背後には医師と看護師が続いている。承也は病室の入り口で、莉奈の姿を捉えた。彼女は顔を上げ、その小さな顔を怒りで赤くして、悠斗に文句を言い放っているところだった。金縁眼鏡の奥の黒い瞳が、わずかに暗く沈む。背後から突き刺さる冷たい視線に気づき、悠斗は反射的に半歩後ずさった。悠斗はすっと身体を横へずらす。「椎名社長が出てこられました。記者証は、ご本人から直接お受け取りください」「あんなに欲しいなら、離婚祝いにくれてやるわ!」莉奈はそう言い捨て、承也の顔を一度も見ることなくエレベーターのほうへ歩き出した。歩きながら放ったその捨て台詞は、承也の耳にはっきりと届いていた。エレベーターの扉が開く。莉奈は中へ入り、振り返って「閉まる」ボタンへ手を伸ばした。その瞬間、指先にひやりとした他人の体温が触れた。莉奈の動きが一瞬固まる。承也の長身が、すでにエレベーターの中へ踏み込んでいた。承也の指先が、「開く」ボタンを押さえている。莉奈は弾かれたように手を引っ込め、承也を押しのけて外へ出ようとした。誰がこんな男と一緒に乗るもんですか。だが、承也の身体は岩のように微動だにしない。莉奈が両手で力いっぱい押しても、びくともしなかった。莉奈は立ち塞がる男の胸を押したまま、エレベーターの扉がゆっくりと閉まっていくのを黙って見ているしかなかった。承也の深く沈んだ視線が、莉奈の顎に残るガラスの切り傷をかすめる。莉奈はすばやく一階のボタンを押し、後ずさってエレベーターの隅に立った。
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第157話

「脅さないでよ。そんなふうに抱えてたら、エレベーターが本当に落ちた時に、二人とも助からないじゃない」気のせいだろうか。莉奈がそう言ったあと、頭上からかすかに、承也の笑うような息遣いが聞こえた気がした。「それもいい」「え?」莉奈の頭は承也の胸に押しつけられている。片方の耳には、承也の心音ばかりが響いていた。もう片方の耳はまだ完全には治っておらず、少し聞こえづらい。だから莉奈には、承也の返事がよく聞き取れなかった。代わりに、莉奈の後頭部を支える承也の手に、急に強い力がこもった。二十三階で止まっていたエレベーターが、突然、ものすごい勢いで落下し始めたのだ。承也は身を反転させ、後頭部と背中をエレベーターの壁にぴたりとつけた。莉奈の身体は承也に抱き上げられ、衝撃に備えて曲げられた硬い太腿の上へ押しつけられる。承也の両手が、莉奈の後頭部と首の急所をしっかりと守った。「椎名承也、口を慎みなさい!縁起でもないじゃない!」莉奈の顔から血の気が引いた。死の恐怖の中で、身体は本能的に安全な場所を求める。莉奈は承也にしがみつくように、その身体にぴたりと身を寄せた。その時、額に温かく柔らかな感触が落ちた。羽がかすめるような、ほんの一瞬の軽さだった。莉奈の身体がこわばる。承也が、莉奈の額に口づけたのだ。猛スピードで落ちていたエレベーターは、同じ瞬間、ガクンと激しく揺れて止まった。莉奈は反射的に顔を上げた。承也もまた、莉奈を見下ろしていた。さっきの激しい揺れで、承也の眼鏡はどこかへ飛んでいる。レンズという遮るものを失った冷えた黒い瞳が、まっすぐ莉奈を捉えていた。その瞳は、底の見えない深淵のようだった。目を合わせているだけで、魂ごと引きずり込まれそうになる。莉奈はすぐに視線をそらし、大きく息を吸った。「……絶対に記事にして暴いてやるわ。この病院のエレベーターは、ろくに点検もされていないって」エレベーターが今何階で止まっているのか、莉奈には分からない。承也はまだ莉奈を離さなかった。低い声が、すぐそばで響く。吐息の温度まで近くて、莉奈の呼吸に絡みつくようだった。「俺を怒らせるのは怖くないのか」承也の手のひらに包まれた後頭部が、わずかに動いた。莉奈は顔を上げた。承也の位置から見下ろすと、莉
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第158話

作業員がエレベーターの扉をこじ開けた。莉奈は承也の腕の中から、もぞもぞと頭だけを出した。顔を上げて、ようやく状況が分かった。莉奈と承也は、階と階の間に挟まって停止していたのだ。開いた扉の隙間は狭く、大人一人がようやく通り抜けられる程度しかない。開口部の向こうには、作業員、悠斗、それから三十二階のエレベーター前で悠斗に止められていた廷治がいる。廷治はどうやら、悠斗の制止を振り切れなかったらしい。そのほかにも、車椅子に座る美月、車椅子を押す世話係の女性、省之介、慌てて駆けつけた病院幹部たちがいた。ちょっとした人だかりができている。省之介は、莉奈が無事でいるのを見て、胸の奥で張り詰めていたものがようやく緩んだ。本当は、省之介も分かっていたのだ。承也がそばについている限り、莉奈に万が一のことは起きないだろうと。一方、美月は莉奈を守るように抱え込んでいる承也を見て、目を赤く腫らしていた。声には切迫した響きがある。「承也、早く上がってきて!」一昨日、介護施設で負傷した来賓たちは、それぞれVIP病室へ移されている。けれど、この階に入っているのは莉奈の同僚二人だけだった。今朝、世話係の女性は、莉奈が同僚の病室へ入っていくのを自分の目で見ている。だから美月は、承也が病室を出る時、世話係の女性にあとを追わせた。美月は、承也と莉奈を会わせたくなかったのだ。けれど、恐れていることほど現実になってしまうものだ。世話係の女性は戻ってきて、美月に告げた。承也と莉奈が、一緒にエレベーターへ乗った、と。しかも、二人きりだ。美月はすぐに世話係の女性に支えられ、車椅子へ乗った。まさか病室を出たところで、二人の乗ったエレベーターが故障したと聞かされるとは思わなかった。扉が開いたというのに、承也はまだ莉奈を腕の中に抱き込んでいる。承也の腕の中で、莉奈が冷たく笑った。「ほら。あなたの大事な幼なじみ、本当に気が気じゃないみたいよ。あとでたっぷり慰めてあげれば?」外からは見えない位置で、莉奈の腰を抱く承也の手に強い力がこもった。かすれた低い声が、莉奈の耳元にだけ落ちる。「これ以上無駄口を叩くなら、ここに置いていくぞ」「怖くないわ。私には廷治も省之介さんもいるし……んっ!」言い終える前に、承也の大きな手が莉奈の口
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第159話

エレベーターの中で、莉奈は偶然見てしまった。承也のコートのポケットに、自分の記者証が半分見え隠れしていたのだ。承也が美月の声に気を取られていた隙に、莉奈は確かに記者証を抜き取った。承也がまったく気づいていなかったことも、莉奈には確信がある。それなのに、自分のポケットへ入れたはずの記者証が、どうして跡形もなく消えているのか。「向井さん、何をお探しですか?」廷治が莉奈のそばについて歩きながら尋ねた。莉奈は、すべてを諦めたような顔になった。考えるまでもない。また承也にすり取られたのだ。もういい。もともと再交付してもらうつもりだった。エレベーターの中でたまたま見つけたから、取り返せると思っただけだ。「何でもない。行こう」眼科の診察室の前。承也はポケットから、瑠璃色の報道記者証を取り出した。口元が、ごくわずかに上がる。承也は毎月、眼科で目の経過を診てもらっている。検査を終えた医師が尋ねた。「最近、目を酷使するような残業が続いていらっしゃいますか?」承也は淡々と頷いた。「ああ」「前にも申し上げましたが、もう少し目を休ませてください。充血して赤みが出る程度ならまだ軽いほうですが、戻られたら目を使う時間を意識して減らしてください。まだ回復の途中ですから、カラーコンタクトのようなものはできるだけ避けたほうがいいんです。もっとも、椎名社長は普段そういうものをお使いにならないので……」「使った」承也の平坦な声が、医師の言葉を遮った。医師は一瞬、固まった。「色のついたコンタクトを使った」医師はまた固まった。数秒遅れて、深く息を吸う。喉元まで出かかったツッコミを、必死に飲み込んだ。――色のついたコンタクト。それって、つまりカラーコンタクトじゃないか。おそらく椎名社長は、本当に「カラーコンタクト」という名称を知らない。知っていたなら、わざわざ「色のついたコンタクト」などとは言わないはずだ。医師が驚いたのは、呼び方だけではない。そもそも、椎名社長がなぜカラーコンタクトなど使ったのか。「どうしてカラーコンタクトをお使いになったんですか。椎名社長の目は、長時間の装用には向いていません」そばに立っていた悠斗は、静かに覚えた。色のついたコンタクトは、カラーコンタクトと言うらしい。
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第160話

射撃場には、銃声が絶え間なく響いていた。莉奈は緊張した顔で銃を構える。パン、と乾いた音が鳴り、ようやく一発の弾が正面の標的に当たった。「どうですか?」莉奈は興奮したまま、後ろに立つ壇将を振り返った。口元が大きく弧を描いている。十発目で、ようやく的に当たっただけだ。しかも、一番外側の一点圏の線にかすっただけだった。それでも莉奈は、まるで自分が偉業を成し遂げたかのような顔をしている。褒め言葉を待っているのも、隠しようがない。壇将は目を伏せ、わずかに頷いた。壇将がスマホを取り出し、文字を打とうとする。莉奈はそれを見て、胸の中でまた少し嬉しくなった。壇将のような無愛想なトレーナーから褒め言葉をもらうのは、きっと簡単ではない。とはいえ、壇将はもともと口数が少ない。せいぜい【悪くない】くらいの評価だろう。だが次の瞬間、壇将はスマホの画面を莉奈の前に差し出した。【ひどい】莉奈は固まった。以前、壇将が莉奈の身のこなしを試したあとに下した評価と、まったく同じだった。莉奈の瞳に浮かんでいた喜びが、一瞬で凍りつく。やがて、諦めたように頷いた。「はいはい、分かりました。もう言わないでください。また努力で補えってことですよね」莉奈は子どもの頃から、何でも一度で覚えられるほど器用だったわけではない。けれど、ひどいと言われるほどできなかったこともない。ひどいと言われたのは、これで二度目だ。しかも、同じ相手に。もしかして自分は、世間で言う、頭は回るのに体がついてこない人間なのだろうか。そう考えると、承也は本当に神様に特別扱いされている。頭も身体も、どちらも常人離れしているのだから。莉奈は深く息を吸い、人生そのものを疑うような顔で、目の前の銃を取り直した。背を向けた莉奈は、壇将が吸い込まれそうな瞳で莉奈の背中をじっと見つめていたことに気づかなかった。莉奈が銃を握り、人差し指を引き金にかけた瞬間、壇将が一歩前へ出た。壇将は、構えが低すぎて不安定な莉奈の手を背後から取る。タクティカルグローブ越しに、迷いのない動きで莉奈の人差し指の先を押し込んだ。パン!耳をつんざく銃声が響く。莉奈は、標的のど真ん中に開いた黒い穴を呆然と見つめた。十点。「壇将さん!」莉奈は振り返り、信じられないという顔で壇将
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