All Chapters of 婚姻生活にさようなら、椎名さん: Chapter 401 - Chapter 408

408 Chapters

第401話

颯太は莉奈を降ろしたものの、彼女の両手を背中側へねじり上げ、縄で縛りつけた。自力で口のタオルを外し、大声を出せないようにするためだ。莉奈は背中を押され、よろめきながらも前へ歩かされた。風牙は視線を前へ戻し、先頭を歩き出した。隣を歩く美月を一瞥し、低い声で釘を刺す。「殴るにせよ痛めつけるにせよ、ヘリに乗ってからにしろ」美月の軽薄な声が、莉奈の耳に届く。「もし私が、この女を殺したいって言ったら?」莉奈は、平然とした足取りで険しい山道を進む美月の背中を見つめた。震海に疎まれていたとはいえ、美月も桜井家のお嬢様だ。山登りどころか、走ることすら得意ではなかったはずだ。海外にいた三年の間に、よほど普通ではない経験を積んだに違いない。それに、美月は風牙と手を組んでいる。二人の口ぶりからして、かなり前から通じていたのは明らかだった。風牙が振り返り、莉奈を一瞥した。枝に引っかかって乱れた髪が頬に張りつき、半乾きの毛先が夜風に揺れている。視線がぶつかる。莉奈の瞳にあるのは、彼らへの軽蔑と憎悪だけだった。恐怖など微塵も感じられない。その目は、かつて彼の手で殺された潜入捜査官たちによく似ていた。同種の気骨が宿っている。風牙は鼻で笑った。「こいつは承也に贈る、とびきりの土産だ。お前に殺させるわけにはいかないな」美月の目の奥に、暗い打算の色がよぎった。風牙と承也が敵対していることは、美月もとうに知っていた。承也は何度も風牙の資金源を断ち、正月早々には彼の命まで奪いかけている。風牙がその恨みを晴らさずにいるはずがなかった。だが、美月には、この男が承也を傷つけるのを黙って見ているつもりはない。だから、風牙が莉奈を人質にして承也を脅す前に、莉奈を殺さなければならない。そうすれば風牙は承也に対抗する切り札を失い、美月自身も無事に救い出されたという筋書きにできる。それに、美月は風牙が欲しがっている資産の在りかと、高純度の違法薬物の製法を握っている。風牙が彼女を殺すはずはないのだ。美月は風牙の横顔を眺め、意味ありげに口角を上げた。「じゃあ約束よ。ヘリに乗ったら、この女は私に渡してね。死ぬよりつらい目に遭わせてから、息だけは残してあなたに返してあげるから」風牙は肯定も否定もせず、そばにいる颯太に命じた。「周囲の警戒を怠るな」美月は不機嫌
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第402話

だが次の瞬間、その笑みが唇の端で凍りついた。美月は莉奈の腕をつかみ、乱暴に目の前まで引き寄せた。「まともに歩けないなら、その脚、使えなくしてあげようか?」彼女は莉奈の口に詰め込まれていたタオルを乱暴に引き抜き、莉奈の頬を軽く叩いた。「そのブレスレット……」ふいに、莉奈の視線が、美月の手首に落ちた。今、頬を叩いたほうの手だ。美月は目を揺らし、すばやく手を引っ込めた。莉奈はその反応を見ていた。あのとき、病院の入院棟の下は明るくなかった。美月とは2メートルほど離れていた。それでも一目見ただけで、莉奈は美月のブレスレットを、かつて母が質に入れたあの一本だと思い込んだ。その後も美月は何度も、そのブレスレットで莉奈を挑発してきた。考えるまでもない。美月もまた、そのブレスレットが莉奈の母のものだと決めつけていたのだ。けれど今は月明かりしかなくても、これほど近ければ分かる。これは母のブレスレットではない。よく似ている。けれど違う。莉奈には、はっきりそう分かった。美月の顔に一瞬だけ怒りが走ったのを見て、莉奈は悟った。美月も、そのブレスレットが母のものではないと知っている。そうでなければ、どうして急に手を引っ込め、袖でブレスレットを隠す必要があるのか。美月の性格なら、むしろ莉奈の目の前でもう一度見せびらかすはずだった。風牙が足を止めた。「何をしてる。早く行け」莉奈は、怒りを押し殺した美月の冷たい目をまっすぐ受け止め、淡々と言った。「なんでもないわ。ただ、承也は本当に美月に優しいのねって思っただけ。そのブレスレット、素敵だもの」美月の目の奥に、冷えた殺意がにじんだ。颯太は莉奈の両手を縛っている縄を引き、彼女の背を押して前へ進ませた。風牙の部下たちは周囲に散り、あたりの動きを警戒している。雨が降ったばかりで、道も林の中も湿っていた。さきほどの荒れ山の頂を越えると、南へ進むほど木々は濃くなり、山の雑草は人の腰ほどの高さまで伸びていた。林の奥から鳥の鳴き声が聞こえる。莉奈はずっと胸の中で時間を数えていた。風牙の部下があと5分と言ってから、もう3分は過ぎている。空の向こうから、かすかに轟くような音が近づいてきた。それは雷ではない。おそらくヘリのローター音だ。莉奈の心臓は激しく鳴っていた。この颯太と
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第403話

美月はずっと、莉奈の動きを見張っていた。東安市を出入りする主要なルートがすべて封鎖されたということは、椎名家と佐伯家が動いたに違いない。彼らがいつ追いついて、莉奈を奪い返しに来てもおかしくなかった。時間が惜しい。ヘリに乗り込む瞬間は必ずバタつく。そのとき絶対に見張りの隙が生まれるはずだ。だから美月は、皆がヘリに乗り込みドアが閉まる直前のタイミングを狙って、隠し持っていた飛び出しナイフで莉奈を刺し殺し、そのまま機外の急斜面へ突き落とすつもりでいた。莉奈から片時も目を離していなかった美月は、真っ先にそれに気づいた。莉奈が、しゃがみ込んだ拍子に颯太の隙を突き、その腰から銃を奪い取ったことに。莉奈が風牙へ向けて発砲した瞬間、美月はとっさにそばにいた風牙の部下の銃を奪い取り、その部下を自分の前に引き寄せて肉の盾にした。ちょうどその時、林の奥から飛んできた無数の銃弾が、盾にされた男の体に撃ち込まれた。それは承也たちの奇襲だった。風牙の部下は即死し、鉛のように重い音を立てて崩れ落ちた。美月はその屍を投げ捨てると、狂ったように莉奈へ飛びかかった。「死ね!」なぜ莉奈だけが、承也に愛されるのか。あの男に愛されるとは、いったいどんな気分なのだろう。美月はそれが知りたかった。――承也は境界地帯の勢力を一掃したがっていた。国家すら手を焼くほどの巨大な闇だ。けれど私なら、彼の力になれる。承也が望むなら、どんなことでもして助ける。ほんの少しでも、私を愛してくれるのなら。それなのに、昔も今も、彼の目には莉奈しか映っていない。この女さえ死ねば、私にもチャンスが巡ってくるのだろうか。この女が死ねば、承也は私を少しでも見てくれるのだろうか。私の承也。承也は、私のものなのに。突然、複数機のヘリが頭上を旋回し、強烈なサーチライトの光束が山頂一帯を照らし出した。美月が莉奈へ向けて引き金を引こうとした、まさにその直前。激しい銃弾が飛び交う中、一つの黒い影が凄まじい速さで飛び出してきた。男は莉奈を腕の中に抱き込み、同時に発砲。美月の手から銃を弾き飛ばした。美月は痛みを少しも感じなかった。境界地帯にいた頃、下半身不随の芝居を完璧なものにするため、痛覚神経を麻痺させる処置を受けていたからだ。痛みがなければ、両脚の感覚がないふりを通
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第404話

上空ではヘリ同士が激しい銃撃戦を繰り広げており、風牙がヘリに乗り込む隙など到底なかった。颯太は片腕から血を流しながらも風牙の前に立ち塞がり、彼をかばった。「黒崎様、まずは林の中へ!」だが、周囲を包囲する承也の部下たちは次々と増援が駆けつけ、数を増していた。風牙が後方支援として山裾に待機させていた部下も、すでに異変を察知してこちらへ向けて急行しているはずだ。とはいえ今は、風牙をこの銃弾の雨から安全な場所へ逃がすことが最優先だった。颯太は血に濡れた手で腰の後ろを探り、小型爆弾を取り出した。風牙の瞳が冷酷な光を帯びる。「椎名承也ごと吹き飛ばせ」白煙を噴き出しながら転がった爆弾が、淡い月明かりの下で耳をつんざく轟音を上げて爆発した。莉奈は鼓膜が破れそうに震えるのを感じた。次の瞬間、太く逞しい腕が彼女の体を強く抱き込み、大きな手が後頭部をかばうように覆いかぶさった。さらに強烈な二次爆発が轟く。凄まじい衝撃波が、山頂にいた人間たちを容赦なく吹き飛ばした。何人かがその場に倒れ込み、承也は莉奈を抱え込んだまま衝撃波に煽られ、切り立った崖の下へと転落していった。承也の胸の中に庇われている莉奈には、周囲の状況はまったく分からなかった。ただ天地が激しく回転する感覚だけがあり、二人の体は止まることなく斜面を転がり落ちていく。耳に届くのは、爆風で弾け飛んだ岩の破片が周囲に叩きつけられる音と、すぐ耳元で打つ男の規則正しく力強い心音だけだった。身を守ろうとする本能に突き動かされ、莉奈は承也の服を強く握りしめた。一方、爆発が起きる直前。美月は地面に倒れた戦闘員の死体から、一本の飛び出しナイフを抜き取っていた。承也が莉奈に張り付いている限り、銃で莉奈を狙い撃つことは不可能だ。けれど肉薄してナイフで刺せば、承也が自分を撃ち殺さない限り、確実に莉奈の息の根を止められる。次の瞬間、爆発が起きた。承也があれほど身を挺して莉奈を守る姿を目にした瞬間、嫉妬の炎が美月の胸を焼き尽くし、その目を狂気で血走らせた。轟音が響き渡る。美月はなす術もなく衝撃波に体を吹き飛ばされ、そのまま崖下へと真っ逆さまに落ちていった。転がり落ちる中、莉奈は不意に落下の勢いが止まったのを感じた。承也が片腕で莉奈を抱きとめたまま、もう一方の手で崖の中腹から突き出た一
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第405話

莉奈は、キスを落とされた額に熱い感触が残っているのを感じた。無意識に手を上げてこすろうとしたが、その直後、承也は彼女の腰から手を離し、大きな手で莉奈の小さな手をしっかりと握り直した。莉奈の手は氷のように冷え切っていたが、承也の手は力強く温かかった。「一、二、三!」承也の強靭な腕で空中へ投げ上げられた瞬間、莉奈の手を固く握っていた温もりがふっと消えた。莉奈は向かい側の林の縁へと投げ飛ばされた。咄嗟に垂れ下がる蔦を必死に掴み、預かった銃を口にくわえ、泥だらけになりながら手足を使って崖をよじ登った。ようやく林の地面へと這い上がった、まさにその時。背後で太い木が裂ける音と、大量の土砂が崩れ落ちる凄まじい轟音が響いた。口から外して握り直した銃を持つ手がピタリと止まる。全身の血が凍りついたかのように、胸の奥で心臓がドクンと嫌な音を立てた。目の前が一瞬、真っ暗になる。莉奈は弾かれたように振り返った。先ほどまで承也が掴んでいた木が、根こそぎ引き抜かれ、土砂や岩と入り乱れながら崖下へと滑り落ちていくところだった。その下には、底なしの深い谷が口を開けている。幹を掴んでいたはずの男の姿は、どこにも見当たらなかった。枝先から滴り落ちた雨粒が、莉奈の冷たい頬を打つ。彼女は血の気を失い、震える唇を開いたが、喉がひきつって声すら出なかった。その時、足元に垂れていた蔦が、ふいにグイッと強く下から引かれた。次の瞬間、黒いマウンテンパーカーをまとい、暗視ゴーグルを装着した長身の男が、一本の蔦を頼りに俊敏な動きで崖をよじ登ってくる姿が目に飛び込んできた。張り詰めていた糸が切れ、目元を濡らしていた雨水と一緒に、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。莉奈は早鐘のように打つ胸を押さえ、声を出して泣き出さないよう必死に歯を食いしばった。崖を登りきった承也は立ち上がり、泥だらけになった彼女の小さな顔と、赤く潤んだ目を見下ろした。胸の奥を激しく締め付けられるような愛おしさがこみ上げる。承也は迷わず大股で彼女に歩み寄ると、その後頭部を大きな手で引き寄せ、その唇を激しく塞いだ。彼はキスをしながら、莉奈の手に握られていた銃を自らの手へ移した。そして唇を離した瞬間、振り返りざまに林の奥へ向けて一発の銃弾を放つ。乾いた銃声が響き渡った。眉間を撃ち抜かれて
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第406話

悠斗は立ち上がって二丁の銃を手に取り、一丁を腰のホルスターに収めると、もう一丁を構えたままヘリのハッチへと向かった。ヘッドセットのマイクに向かって短く命じる。「援護しろ」ハッチを開け放ち、降下用ロープを掴むと、悠斗はためらいなく地上へと滑り降りた。彼がロープから手を放すと同時に、ヘリは承也が転落した崖の方向へ向かって飛び去っていく。悠斗は周囲へ牽制の銃弾を放ちながら、颯太が逃げ込んだ山林へと足を踏み入れた。その途中、承也が落ちた崖の方向を鋭く一瞥する。――社長一人であれば、あの程度の崖など造作もない。だが問題は、莉奈を守りながらだということだ。それだけで状況は何倍も困難なものになる。この山林は腰の高さまで雑草が生い茂っており、先ほど越えてきた東安市境界の荒れ山よりも、さらに足場が悪かった。ここは南北の境界に近い。南部の気候の影響を色濃く受けて植生が鬱蒼としており、ここ数日の暖かさも相まって、春の植物が異様な勢いで蔓延っていた。再び小雨がぱらつき始め、冷たい雨垂れが枝葉の隙間から落ちてくる。承也は莉奈の雨に濡れた上着に触れ、背中側へそっと手を差し入れて中を確かめた。幸い、雨水はまだ内側の服までは染み通っておらず、肌には温もりが残っている。承也はためらうことなく莉奈の上着のファスナーを下ろし、それを脱がせると、自分たちが進むのとは逆の方向へ囮として投げ捨てた。続けて、自身が着ていた防水性のマウンテンパーカーと、その下に着込んでいた防弾ベストを素早く脱ぎ去る。そして莉奈の腕を引き寄せ、自らの手で彼女に防弾ベストを着せた。アジャスターを一番きつく締めても、莉奈の華奢な体にはまだ少し隙間があった。「少し大きいが、ないよりマシだ」その上からマウンテンパーカーを着せ、すっぽりとフードを被せる。さらに自分のポケットから暗視ゴーグルを取り出し、莉奈の頭に装着させた。これで、どれほど雨足が強まろうとも、体温を奪われることはない。莉奈は、薄手の黒いトップス一枚になった承也を見つめた。逞しい上半身を包む薄い布地越しに、彼が腕を動かすたびに引き締まった筋肉が隆起し、男性的な力強さが滲み出ている。「雨に濡れたら、冷えるわ……」莉奈の声は、不安げに少しかすれていた。銃を握り直していた承也の手が一瞬ピタリと止まり、
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第407話

承也が「背負う」と言ったのを聞き、莉奈は反射的に半歩後ずさった。だが、その手首は男に強く握られたままだ。二人の間にはまるで、見えないゴム紐でも結ばれているかのようだった。莉奈が後ずさった途端、承也はぐいと彼女を引き戻した。そして空いた手を伸ばし、莉奈の額に刺さりそうになっていた木の枝を払いのけた。「初めて背負われるわけじゃあるまいし」承也はからかうようにそう言うと、莉奈を引き寄せ、彼女に背を向けてしゃがみ込んだ。莉奈の手首を握っていた手を放し、そのまま後ろに回して彼女の腰や背中に触れて促す。莉奈はびくっと肩を揺らし、両手で承也の広い背中を押し返そうとした。「いいって言ったじゃない」だが、その背に触れた瞬間、彼女は彼の服がすでにすっかり濡れそぼっていることに気づいた。それも当然だった。ここまで歩いてくる間、雨は空からだけでなく、頭上の枝葉からも絶え間なく滴り落ちていたのだ。莉奈は防水性のマウンテンパーカーを着ているため、雨粒はフードや肩を伝って滑り落ち、内側の服までは染み込んでこない。しかし、今の承也が着ている薄手のトップスに防水性などない。莉奈の手のひらが彼の背中に触れても、冷たく濡れた感触があるだけで、以前のような温もりは微塵も感じられなかった。それでも承也は、寒いなどとただの一言も口にしなかったのだ。自分の背中を押す莉奈の手がこわばったのを感じ取っても、承也は意に介さない様子で言った。「俺は平気だ。乗れ」冷たい雨だれが枝から彼の肩に落ち、小さく弾けた。莉奈の指が、ためらいがちにぎゅっと丸まる。やがて、喉の奥から絞り出すような小さな声が漏れた。「……うん」莉奈がそっとその背に身を預け、両腕を彼の首に回すと、承也は軽々と立ち上がった。片腕を後ろに回して莉奈の膝裏をしっかりと支え、もう片方の手には銃を構えている。雑草が生い茂り、ぬかるんで凹凸の激しい林の中を、承也はまるで平地を歩くように進んでいく。足取りは速く、それでいて驚くほど安定していた。頭上の枝さえ邪魔にならなければ、このまま自分を背負って走り出すことすらできるだろうと、彼女は確信した。その背に張り付いていても、激しい揺れはほとんど感じない。枝から雨粒が滴る音が断続的に響く。水滴は莉奈のフードや背中に当たり、防水生地を伝って地面へと
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第408話

一方その頃、冷たい雨が、崖の暗い岩肌を静かに洗い流し続けていた。爆発の凄まじい衝撃波で吹き飛ばされ、崖を転がり落ちていく途中で、美月は気を失っていた。意識を取り戻した時、彼女の体は崖の中腹から突き出た岩の隙間に奇跡的に引っかかっていた。冷たい雨が容赦なく全身を打ち据えている。重い瞼をこじ開けると、遥か頭上の山頂では依然として激しい銃撃戦が続いており、ヘリコプターのローター音が耳をつんざくような轟音を立てていた。上空のヘリから放たれる強烈なサーチライトの光が、雨粒を乱反射させながら美月の網膜を突き刺す。それでも彼女は眩しさに目を細めるどころか、狂気を孕んだ瞳をさらに大きく見開いた。美月はゆっくりと片手を持ち上げ、雨水に洗い流されて血の色が薄くなった手の甲の銃創を、まじまじと見つめた。――そうよ。洗い流せばいい。きれいに洗い流してしまえば、何も起きなかったことにできる。承也はどこへ行ったのだろうか。爆発が起きた瞬間、私は莉奈を殺すために彼らへ向かって飛びかかっていた。私たちも一緒に崖へ落ちたはずなのに。上を見上げると、転落の起点となった山頂は遥か高い場所にあった。美月は這いつくばるようにして岩棚にしがみつき、恐る恐る下を覗き込む。そこには底なしの深淵が大きく口を開けており、這い上がってくる冷たい奈落の風に、彼女の顔からはさっと血の気が引いた。――まさか、承也と莉奈はあの底まで落ちてしまったのだろうか。そう考えた瞬間、美月の心はどこか一部がぽっかりと空洞になったような喪失感を覚えた。その時、頭上を旋回していたヘリが一機、高度を下げて崖の方へと向かってきた。承也の手配したヘリなのか、風牙のものなのかは分からない。――風牙のヘリなら、まだいい。奴は私が握っている情報を欲しがっているのだから、必ず私を助け上げるはずだ。けれど、もし承也のヘリだったとしたら、見つかった瞬間に捕縛され、力ずくで引き戻される。このまま捕まるわけにはいかない。もし承也が死んでしまったのなら、私が生き延びる意味などないのだから。いや、違う。承也もきっと私と同じように、こんなところで死ぬ運命ではないはずだ。そうだ。彼は昔から強運の持ち主だ。どんな絶望的な危機に陥っても、必ず無事に切り抜けてきた。今回だって例外ではないはず。今、美月が
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