All Chapters of 婚姻生活にさようなら、椎名さん: Chapter 171 - Chapter 180

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第171話

その時、莉奈は銃を握りしめたまま、振り返らずに背後の壇将へ尋ねた。「こう持てば合っていますか?」背後からは、なかなか反応が返ってこなかった。莉奈はそれ以上気にせず、標的に狙いを定めた。引き金を引く。パンッ、と乾いた銃声が響き、弾は二点圏に当たった。莉奈は振り返って壇将を見た。泣いたあとで、目元が少し赤い。「まあまあですよね?」壇将は手にスマホを持っていた。気のせいかもしれない。けれど莉奈が振り返った一瞬、壇将が、ぞっとするほど冷酷で、底知れぬ空気をまとっているように見えた。だが今の壇将は、何事もなかったかのように静かにそこに立っている。莉奈の言葉にも、ただわずかに頷いただけだった。壇将に認められても、今の莉奈は前ほど嬉しくはなかった。それでも、撃つ感覚は少しずつ掴めてきている。何発か撃ったあと、貸し切りの射撃場の中に、不意に自分以外の声が響いた。「向井さん、ここにいらしたんですね!」廷治が場内へ駆け込んできた。銃を構えている莉奈を見て、驚きと焦りを隠せない顔になる。――向井さんが、どうして射撃なんて習っているのか。佐伯様なら、彼女にこんな危険なものに触れさせるはずがない。もし佐伯様に知られでもしたら、護衛である廷治はただでは済まない。莉奈は銃を下ろし、ゴーグルを外した。「どうしてここが分かったの?」莉奈が廷治に行き先を教えなかったのは、射撃を習っていることを知られたくなかったからだ。壇将が連れてきたこの射撃場は、かなり人目につきにくい場所にある。しかも壇将が貸し切っているのだ。ほかの人間が来るはずはなかった。それなのに廷治がここへ来たということは。廷治は歩み寄って説明した。「Jさんから位置情報が送られてきたので、慌てて来ました」廷治も、送られてきた場所が射撃場だと分かった時は我が目を疑った――Jさんは向井さんをこんな場所へ連れてきて、いったい何をしているのか。「向井さん、どうして射撃なんて習っているんですか。護身術をしっかり身につけて、Jさんに鍛えてもらえば、普通の相手なら十分対処できます。銃なんて、本当に必要ありませんよ」廷治は、莉奈に銃へ触れさせたくなかった。けれど言い終えた途端、莉奈が不思議そうに壇将を見つめていることに気づいた。莉奈は壇将に、射撃を
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第172話

SNS上では、莉奈に関するトレンドの拡散の勢いには、どこか不自然なブレーキがかかっていた。ネットの住人たちも、背後で巨大な力が動いて情報統制をしていることには気づいている。それが承也の指示でトレンドを下げようとしているのか、それとも完全に消し去ろうとしているのか。そんなことは誰も気にしない。彼らにとっては、祭りに便乗して、安全な場所から莉奈を叩ければそれでよかったのだ。けれど、どれだけ勢いを抑え込まれても、莉奈が「椎名承也の妻」だという爆発的な話題は、ネット上で異様な注目を集め続けていた。薄暗い部屋で、風牙はSNSアプリを閉じた。スマホを手に取り、ある番号へ電話をかける。電話はすぐにつながった。風牙は笑みを含みながらも、目の奥がまったく笑っていない声で言った。「尚南副社長、どうして教えてくれなかったんです?莉奈が椎名社長の妻だと。まさか、ご自分のお義姉さんの顔をご存じなかったわけではないでしょう」あの日、莉奈の写真を見た時、尚南は莉奈のことを知らないように振る舞っていた。尚南は鼻で笑った。「俺は承也だって殺したいと思ってる。あいつの妻だからって何だと言うんですか。黒崎さんが望むなら、あの女の命だって取りますよ。言わなかったのは、言う必要がなかったからです」風牙は声を上げて笑った。「尚南副社長は、実に頼もしい」風牙は手首の数珠を指で弄びながら、かすかに笑った。「ただ、状況が変わりました。莉奈の背景がここまで複雑だとは思わなかった。尚南副社長、しばらく彼女には手を出さないでください。承也という厄介な狼を、これ以上刺激したくありませんから」「黒崎さんは何を恐れているんです?承也は莉奈を愛していませんよ」風牙の指先が、数珠の玉を一つずつなぞった。意味ありげに問い返す。「そうですか?」だが、あの夜、クラブ「夜酔」で風牙が見たものは違った。むしろ――電話を切ったあと、副社長室にいる尚南の顔はひどく沈んでいた。尚南はスマホをデスクへ乱暴に放り出した。手のひらには冷たい汗がにじんでいる。尚南はパソコン画面に映る、莉奈関連のトレンドを見つめた。最初に、莉奈が枕営業でのし上がったと仄めかすゴシップ記事を書かせたのは、他ならぬ尚南自身だ。目的は、莉奈の背後関係を少しずつ表へ引きずり出す
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第173話

けれど尚南がその先を口にするより早く、莉奈は急に声を張り上げた。自分でも聞いたことがないほど、冷たく鋭い叫びだった。「聞きたくない!」尚南の言葉が何を意味しているのか、莉奈には直感で分かっていた。だからこそ、それをこの男の口から聞きたくなかった。莉奈は自分で承也に会い、真っ向から問いただすつもりだった。震える指先で画面を何度も叩き、ようやく通話を切った。「向井さん、どうされました?」廷治はそこで初めて、莉奈の顔色が真っ白になっていることに気づいた。たった一本の電話で、どうしてここまで人が変わるのか。尚南はいったい、電話越しに何を吹き込んだのか。莉奈が一歩踏み出した。その瞬間、まるで全身の骨を抜かれたように、膝から崩れ落ちそうになる。幸い廷治の反応はプロのそれだった。廷治は間一髪で莉奈の腕をがっちりと支えた。だがその手を伝って、莉奈の身体が尋常ではないほどガタガタと震えているのが伝わってきた。……椎名邸。白崎執事が寝室から出てきた。振り返って音を立てずに扉を閉め、尻尾を振って駆け寄ってきた将軍の頭を優しく撫でる。外は少しずつ暗くなり、邸内には温かい灯りがともっていた。香炉から、一筋の細い煙がゆらゆらと立ち上っている。千鶴は近頃、身体のだるさが日増しに重くなっていると感じていた。暖房の効いた部屋にいても、手あぶりを抱えていなければ身体の芯が温まらない。以前、病院で精密検査を受けても異常は見つからなかった。名医と呼ばれる往診医も何度か来たが、最後に出た結論は、単なる「加齢によるもの」という身も蓋もないものだった。「奈奈にはなんの感情もないと言っていたくせに。今回の公表はずいぶんと早かったじゃないか」千鶴は、窓辺に立ったまま背を向け、一言も発しようとしない承也を横目で見た。「白崎さんが、おばあちゃんの具合が悪いと言っていたからな」承也は振り返らず、淡々と言い放った。自分がわざわざ戻ってきたのは千鶴の様子を見るためであり、妻とのくだらない噂話をするつもりはない。そう拒絶しているようだった。承也の両親は、彼が七歳の時に飛行機事故で亡くなっている。それ以来、千鶴は承也を手元に置き、十八歳になるまで彼を育て上げてきた。この世で承也という男を最も深く理解している人間の一人だと、千鶴は自負している。「何があったんだい?」窓辺に立
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第174話

「今日みたいな事態になると分かっていたら、あの時、無理にあなたへ奈奈と結婚しろなんて迫るんじゃなかったよ」「おばあちゃんは……」承也のいつも冷えきった声に、ひどく重い執着が混じっていた。「本当に俺へ無理強いできたとでも思っているのか」千鶴はわずかに固まった。その瞳の奥に、激しい動揺の色が走る。「何を言っているんだい?」承也は目を伏せた。眉間に冷たい影が落ちる。立ち上がり、ソファの肘掛けに置いていたコートを手に取った。そのまま背を向け、扉へ向かう。千鶴がふいに背中を呼び止めた。「あなたはこの何年間、どうして向井家を調べていたんだい。いったい何を調べている?」扉の前で、承也の足がピタリと止まった。片手はドアノブにかかっている。もう片方の、コートを持つ手はギリッと固く握りしめられていた。顎の線が強張る。「……何も」扉が開き、承也は振り返ることなく、部屋を出ていった。母屋の外では、悠斗が車のそばに立ち、後部座席のドアを開けて待っていた。承也はコートを無造作に車内へ放り込み、柔らかなシートへ深く身を沈める。長い指で眉間を強く押さえた。全身から、ひどく沈鬱な気配が漂っている。車は椎名邸を出て、松風レジデンスへ向かう。「おばあちゃんの耳には、絶対に一言も入れるな」後部座席から冷たい命令が落ちた。悠斗はルームミラー越しに頷く。「承知いたしました、社長。ただ……本当に、このまま大奥様に隠し続けるおつもりですか?」承也は窓の外を流れる夜景へ視線を向けた。「彼女は耐えられない」悠斗はそれ以上、何も聞かなかった。その時、承也のスマホが鳴った。画面に表示された名前を見て、承也は薄い唇を強く引き結ぶ。スマホを握る指に、ギリッと力がこもった。着信音が鳴り止むまで、承也は決して電話に出ようとしなかった。数秒後。今度は悠斗のスマホが鳴った。悠斗は着信表示に目を落とす。【奥様】さっき社長が拒絶した電話は、莉奈からだったのだ。悠斗はルームミラー越しに後部座席をうかがった。「社長、奥様からです。お出になりますか?」後部座席は、死んだように静まり返っている。悠斗は黙って視線を戻し、ハンズフリーで通話をつないだ。「悠斗、椎名さんはいる?」悠斗は怪訝に眉を寄
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第175話

けれど、この世にはもう、向井家の潔白を証明できるものなど何も残っていなかった。承也は何年間も、裏で必死に調べ続けた。だがそのたびに、すべての証拠が向井家を犯人だと指し示していた。そして、今回の解析が最後だった。復元されたブラックボックスのデータが、残酷な真実のすべてを語っている。承也の両親が乗っていたプライベート機は、長年莉奈の父親、文彦が直接管理していた。野心に取り憑かれた文彦が裏社会の勢力と手を結び、承也の両親を暗殺して死に追いやったのだ。そして最後には、その裏社会の勢力に逆に食い潰され、向井家は破産した。それもまた、自業自得の報いなのだろう。向井家が自滅したというその事実だけが、承也にとって、亡き両親に顔向けできる唯一の免罪符でもあった。廷治は、心臓が凍りついたままの状態で、ようやく莉奈に追いついた。莉奈があんなに速く走るとは思っていなかった。悠斗の急ブレーキがコンマ一秒でも遅れていれば、車は間違いなく莉奈をはね飛ばしていた。命知らずにもほどがある。莉奈は、本気で命を捨てるつもりだったのか。いったい何を電話で聞かされれば、あそこまでなりふり構わず死に急ぐような真似ができるのか。車のボンネットは、莉奈からわずか一、二メートルしか離れていない場所で止まっていた。悠斗が急ブレーキを踏み込んだ瞬間、強い突風が莉奈の身体を貫いたようだった。莉奈の視線はフロントガラスを突き抜け、後部座席の暗がりにいる承也の顔を真っ直ぐに射抜いていた。少女だった頃、何度夢に思い描いても足りなかった顔。けれど今は、その顔を見るだけで胸の奥がえぐられるように痛い。――椎名承也。私は今日、あなたに答えを聞きに来た。車のドアが重い音を立てて開いた。承也の長い脚が地面に下りる。昼間、道端の雪が溶けたせいで、地面はまだ乾ききっておらず、黒く湿っていた。承也の漆黒の瞳の奥には、幾重にも重い影が沈み込んでいる。「命を捨てるつもりだったのか」「あなたの両親は、父に殺されたの?」二人は、張り詰めた空気の中で同時に口を開いた。莉奈の声は、風に吹かれれば散ってしまいそうな細い煙のように、ひどく頼りなかった。それでもその一字一句は、はっきりと承也の耳に届いた。とても軽い声だった。なのに、それは荒れ狂う
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第176話

自分の父親が承也の両親を死に追いやり、承也の温かく幸せだった子ども時代まで奪い去ってしまったのだ。千鶴は、本当の孫娘のように自分を可愛がってくれた。けれど、あの優しい祖母は知らないのだ。自分の息子夫婦を死に追いやった仇の娘を、こんなにも長い間、手塩にかけて育ててきてしまったという残酷な事実を。これから先、いったいどんな顔で千鶴に会えばいいのか。彼女が自分を庇い、惜しみなく愛情を注いでくれるたび、どんな気持ちでそれを受け止めればいいというのか。そもそも、自分に承也を責めたり問い詰めたりする資格など、最初からあるはずがなかったのだ。自分は、彼の両親を死なせた大罪人の娘なのだから。うつむいたまま、うわ言のようにぶつぶつと呟き続ける莉奈の異様な様子に、廷治は息を呑んだ。「向井さん、向井さん、しっかりしてください……!」廷治は胸の内で焦りを募らせた。だが、二人の間にまさかそれほど血生臭い因縁が隠されているとは、知る由もなかった。これは完全に部外者である廷治が口を挟めるような事態ではない。たとえ直哉であっても、安易に踏み込めない絶対的な領域だ。こらえきれなくなった涙が、一粒、また一粒と冷たい頬を伝って落ちる。莉奈は茫然と焦点の合わない目で、向かいに立つ男を見つめた。承也は両手の拳をギリッときつく握りしめていた。浮き上がった血管が、今にも皮膚を突き破りそうなほど異常に張り詰めている。承也は完全に血の気を失った莉奈の顔と、その虚ろな瞳を真っ直ぐに見据え、血を吐くように低い声を絞り出した。「……君を憎めば、俺の両親が生き返るのか?」莉奈は呆然と承也を見つめ返した。――そうだ。生き返るはずがない。死は絶対に取り返しがつかない。だからこそ、遺された者の憎しみはいつまでも消えずに永遠に残るのだ。承也が自分を憎むのは、当たり前のことだ。自分は憎き仇の娘なのだから。だから幼い頃から、承也は自分を遠ざけていたのだ。いつも鬱陶しそうに冷たくあしらっていた。無理やり自分と結婚させられてからは、二人の関係はさらに凍りつき、自分が大切にしていた母の形見すら、ためらいもなく他人に差し出した。あの残酷な仕打ちのすべてに、明確な理由があったのだ。自分が何も知らずに浮かれていただけだ。承也は自分をただ疎ましく思っていたのでは
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第177話

莉奈は激しい腹痛に襲われ、そのまま気を失った。重い瞼を開けると、病院のベッドに横たわっていた。省之介は莉奈が目を覚ましたのに気づくと、ベッドに身を乗り出し、枕の横に両手をついた。驚かせまいと、できるだけ柔らかい声をかける。「奈奈、気分はどう?」莉奈の視線はまだぼんやりと宙をさまよっている。省之介の顔を見つめたまま、数秒かけてようやく、松風レジデンスの並木道で途切れた意識を引き戻した。「私、どうして……」「極度の精神的ショックが引き金になった、一種のストレス反応だと思うよ」省之介は廷治から、事の顛末を簡単に聞いていた。以前、莉奈が拉致された事件の際、廷治は省之介が莉奈にかけた電話に出たことがあり、二人は面識があった。廷治は、彼が莉奈の信頼できる友人であり、筋の通った人間だということも知っている。だからこそ、廷治は省之介になら莉奈の看病を任せても大丈夫だと判断したのだ。莉奈のまつげが、かすかに震えた。――精神的ショック……自分が?自分に、そんなショックを受ける理由があるというのだろうか。ただ、残酷な真実を知っただけだ。自分と承也の間には、もう二度と交わる可能性などないのだと思い知らされただけ。もっとも、国外へ逃げると決めた時点で、承也とこれ以上どうにかなろうなどという期待はとうに捨てていたはずだった。それでも、承也の冷たい顔を思い出すと、下腹部がまた鈍く締め付けられるように痛んだ。省之介は莉奈の布団をそっと掛け直した。「神経が張り詰めすぎているんだ。今は何も考えず、少し眠るといい」莉奈はかすれた声で言った。「家に帰りたい」その言葉を聞いた廷治が、すぐにベッドの脇へ進み出た。「承知しました。すぐにお送りします」廷治がわざと莉奈をこの病院へ運んだわけではない。あの状況では、松風レジデンスから一番近い救急病院がここだっただけだ。美月が救急搬送されたのと同じ系列病院だと分かってはいても、あのときはほかに選択肢がなかった。一刻を争う状況でなければ、向井さんをあんな女と同じ場所へ連れてくるものか。縁起でもない。省之介は自ら車を運転し、莉奈をマンションのエントランスまで送り届けた。いくつか体調に関する注意を伝え、莉奈が建物へ入っていく力ない背中を見送る。それでもすぐには車を出さず、上の階に
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第178話

承也は一晩中、美月の病室で付き添っていたのだ。莉奈の目の奥が、かすかに熱くなった。写真に写る無防備な承也を黙って一度だけ見つめ、美月のメッセージアプリのアカウントを開く。そして、ためらわずにブロックした。莉奈は指先で連絡先リストをスクロールし、壇将とのトーク画面を開いた。【壇将さん、今夜七時は空いていますか?空いていたら、ジムで会いたいです】莉奈がテレビ局に着くまで、壇将からの返信はなかった。昨日、莉奈はネット上で身元を暴かれ、いわれのない疑いと罵声を浴びた。局の上層部は莉奈に数日間の休職を命じた。表向きは「ゆっくり休んでほしい」という配慮だったが、実際は局の体面を守るためだ。莉奈もそれを理解していたし、素直に従うつもりだった。だが、昨日承也が二人の夫婦関係を公式に認めたことで、風向きは一変した。今朝早く、局の責任者から直々に「すぐに仕事に戻ってほしい」と、手のひらを返すような電話がかかってくるとは思わなかった。今の莉奈にとって、パンクしそうな頭を麻痺させられるものは仕事だけだった。莉奈は報道部へ向かった。局内のアーカイブには、かなり昔の記録が大量に保管されている。ネットではもう見つからない情報も、ここなら探し出せるはずだ。莉奈はすぐにデータベースにアクセスし、当時の「承也の両親の飛行機事故」に関するニュースを呼び出した。二十年前の写真だから、画質はひどく粗かった。それでも莉奈は一目で、黒焦げた飛行機の残骸のそばに立つ幼い承也を見つけ出した。雨の降る灰色の空が、小さな彼の体を暗く覆っている。――きっと、泣いていたのだろう。莉奈の胸が締め付けられた。震える指で、莉奈はそっとそのページを閉じた。昼食の時間になると、莉奈は一度、椎名邸へ足を運んだ。いつもなら、この時間の千鶴はまだ昼寝をしていない。莉奈はどうしても千鶴に会いたかったのだ。莉奈は車を本邸の庭に停めた。白崎執事がちょうど将軍にエサをやりながら、目を細めてその頭を撫でているところだった。車の物音に気づいた将軍が、弾かれたように莉奈のもとへ駆けてきた。危うく莉奈を押し倒しそうなほどの勢いだ。重く沈みきっていた莉奈の心に、小さな裂け目ができたようだった。ほんの一瞬だけ、新鮮な空気が吸えた気がした。莉奈は将軍の大きな首を抱きしめ、ふっと笑っ
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第179話

写真に写っているのは、幼い承也だった。十歳前後だろう。その少し後ろで、承也の服の裾をぎゅっとつかんで離さない小さな女の子がいる。いたずらっぽい顔つきで、ふっくらとした頬をしていて、まるで丹精込めて作られたビスクドールのように愛らしい。莉奈は息を呑んだ。――これは……自分だ。莉奈には、幼い頃に承也と一緒に写真を撮った記憶などまったくなかった。写真の中の莉奈は、茶色い熊のぬいぐるみを抱いている。そのぬいぐるみは、向井家が破産し、かつて住んでいた郊外の別荘から追い出されたあと、いつの間にか失くしてしまったものだ。つまり、この写真が撮られたのは、確実に向井家が破産する前ということになる。それなのに、どうして少しも覚えていないのだろう。「これは……」千鶴は莉奈の手から写真を受け取り、窓辺の明るいところへ持っていった。老眼鏡を少し押し上げ、しばらく目を凝らす。「ずいぶん古い写真だね」千鶴は、写真の中でうんざりした顔をしている承也と、いたずらっぽく笑っている莉奈を見比べ、ふっと懐かしそうに笑った。千鶴は指先で莉奈の額を軽くつついた。「あなたという子は。このとき、まだいくつだったかねえ……そうだ、たしか五歳だよ。あんなに小さかったのに、承也の服をつかんで離さなくてね。大きくなったら絶対に承也のお嫁さんになるって言い張っていたんだ。まさか、あの時の言葉通り、本当にあなたを縛り付ける執念になるとはね」莉奈は写真を見つめた。けれど、頭の中に当時の記憶は欠片も浮かんでこない。ただ、莉奈は物心がつくのが少し遅かった。五歳とはいえ、当時のことをはっきり覚えていなくてもおかしくはない。莉奈が椎名邸を出ようとすると、一階のサンルームで尚南が行く手を塞いだ。尚南は何も言わない。ただ莉奈の目をじっと見据えている。以前はどこか笑みを含んでいるように見えた瞳が、今は獲物を狙う猛禽類のように鋭かった。「昨夜、承也のところへ行ったのか?」莉奈が椎名邸へ来た日に、尚南まで都合よく戻ってきているなど、ただの偶然とは思えない。考えるまでもなく、尚南は莉奈の一挙手一投足を見張っているのだ。「私を監視しているの?」尚南は、少しも怯まない莉奈の強い瞳を見つめ返した。――監視でもしていなければ、どうやって莉奈の安全を確かめろというのか。風牙
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第180話

だが、その莉奈が承也の妻だったとは。風牙は口元を歪めた。俄然、面白くなってきた。かつて承也はエージェント組織に身を置き、裏社会に半年ものあいだ潜入していた時期がある。そのせいで、風牙は何人もの有能な配下を失った。復讐に焦りは禁物だ。この屈辱をどうやって倍返しにしてやろうかと、風牙はずっとその首を狙う機会をうかがっていたのだ。どれほど隙のない男でも、惚れた女には足をすくわれるものだ。あの氷のような承也も例外ではないらしい。では、承也にとっての真の「急所」は、正妻である莉奈なのか。それとも、かつての元彼女である美月なのか。風牙にとって、これはひどく面白い遊びに思えた。風牙は手元の莉奈の資料をめくった。承也の妻であるという肩書きを差し引いても、莉奈自身、目を引くほど優秀な女だった。経歴も、記者としての専門性も、業界ではトップクラスだ。やがて風牙の視線は、莉奈の亡き両親の項目でピタリと止まった。向井文彦。風牙はタバコを深く吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。白い煙が目の前で輪郭を失ってほどけていく。風牙は目を細め、不意に喉の奥で笑った。「なるほど。向井莉奈は、あの男の娘だったのか」……莉奈は椎名邸を出たあと、そのままテレビ局へ向かった。地下駐車場で車を降りた瞬間、ふと、どこかから見られているような嫌な気配がした。莉奈は車のドアを閉め、バックミラー越しに背後を素早く確認した。だが、薄暗い駐車場には誰もいない。以前、マフィアに拉致され命を狙われた凄惨な経験がある。それ以来、莉奈の危機察知能力は異常なほど敏感になっていた。それは生き延びようとする生存本能だと、莉奈自身も理解している。絶対に、死にたくない。テレビ局の明るいロビーへ入ると、そのまとわりつくような奇妙な感覚はふっと消え去った。退勤の時間になっても、壇将からの返信はなかった。莉奈は一人でジムへ向かった。承也の両親は、自分の父親の裏切りによって死んだ。その父も、すでにもうこの世にはいない。前の世代の血塗られた因縁が、今は莉奈と承也という罪のない二人の上に重く覆いかぶさっている。自分自身に罪はない。頭では分かっている。それでも、どうしても心に引かれたその一線を越えることができないのだ。承也の世界から完全に消え去ると決め
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