All Chapters of 婚姻生活にさようなら、椎名さん: Chapter 281 - Chapter 290

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第281話

その頃、美月は庭で習字をしていた。メッセージを開いた時、片手には筆を持ち、もう片方の手でスマホの画面を滑らせていた。動画の中で承也が抱いている相手が莉奈だと分かった瞬間、筆を握る手に力が入った。乾いた音がして、筆の軸が二つに折れた。折れた筆が地面に落ち、そこにかすかな血の跡がついた。物音を聞いた付き添いの識子が、小走りで駆け寄ってきた。「どうして筆が折れているんですか。桜井様、お手は大丈夫ですか。ああ、血が出ています」美月は表情を変えず、手のひらを一瞥した。折れた筆の断面が刺さったらしく、そこから小さな血の粒がにじんでいる。美月は薄く笑った。「大したことないわ」美月はティッシュを二枚ほど抜き取り、血を適当に拭き取った。夕食の時、美月は少し口をつけただけで、箸を置いた。識子がいくら勧めても、美月はもう一口も食べようとしなかった。識子は少し迷ってから言った。「椎名社長は桜井様のお身体をとても気にかけていらっしゃいます。社長のためにも、もう少し召し上がってください」今の識子には、以前ほど強く言い切ることができなかった。承也が美月に会いに来なくなってから、もう何日も経っている。もともと頻繁に来るわけではなかったが、今回はどこか様子が違うと感じていた。美月はうわ言のようにつぶやいた。「承也が、私を気にかけているの?」「はい。椎名社長は桜井様を気にかけていらっしゃいます」「私を気にかけている、ね」……数日後、椎名財団の会議室の扉が左右に開いた。承也はすでに席についている幹部たちを、冷めた目で一瞥した。幹部たちがプロジェクトの内容を報告し始めたところで、テーブルに置かれていた承也のスマホが鳴った。西苑の洋館にいるボディーガードからだった。電話がつながる。相手が何かを伝えると、承也の冷えた声が落ちた。「病院には運んだのか」電話の向こうで、ボディーガードが答える。「すでに病院へ向かっています」承也は短く返事をして電話を切った。それから、向かいに座る幹部に先ほどの続きを促した。会議が終わると、悠斗が書類を持って承也の後ろについた。「桜井さん側の者から私の携帯に連絡がありました。社長にお会いしたいそうです」社長室の扉が開いた。承也は中へ入りながら、淡々と言った。
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第282話

美月は枕元のナースコールを押した。まもなく、一人の看護師がノックをして病室に入ってきた。「桜井さん、どうされましたか」美月は、半分ほど開いた病室の扉へ視線を走らせた。「着替えたいの。でも、自分では届かなくて。先に扉を閉めてから、服を取ってもらえる?」看護師は頷いた。「分かりました」看護師が振り返って病室の扉を閉めようとすると、廊下に立っていたボディーガードが隙間から中を窺った。看護師はすぐに説明した。「桜井さんがお着替えになります」ボディーガードは何も言わなかった。やがて、カチャリと扉の閉まる音だけが廊下に響いた。看護師はソファの上にきれいに畳まれていた服を手に取った。「桜井さん、お着替えを手伝いましょうか」そう言いながら、看護師はベッドを囲むカーテンを引いた。美月は柔らかく笑った。「ええ、ありがとう」ボディーガードたちが扉の外で五分ほど待っていると、背後の扉が開いた。看護師が病室から出てきた。彼らが扉の小窓から中をのぞくと、ベッドで布団を被って眠っている美月の姿が見えた。……数日前、莉奈が生理痛で苦しんでからというもの、直哉はどうしても休ませると言って聞かなかった。痛みが落ち着き、顔色に血色が戻るまで、絶対に出勤を許さなかったのだ。莉奈が出かける直前、ソファに身体を預けて傷を休めていた直哉が言った。「行けるなら行けばいい。けど、無理なら休め。分かったな」直哉はまだ、莉奈がすでに退職届を出していることを知らない。今は大きな仕事もほとんど残っておらず、休みも取りやすかった。おそらくあと十日ほどで退職の手続きもすべて終わるはずだった。「分かってる。直哉こそ大人しくしててよ。時哉さんに実家で休めって言われたんでしょう?いい家のお坊ちゃまなのに、わざわざ私のこんな狭い部屋に居座るんだから」莉奈は玄関で靴を履きながら、呆れたように言った。直哉は今日の莉奈の服装をじっと見た。ニットの襟元が少し開いている。直哉は不満げに唇を引き結んだ。「こんなに寒いのに、薄着すぎないか」「今日は二十度もあるよ。どこが寒いの?」莉奈がそのまま出ていこうとした瞬間、直哉が声を上げた。「戻れ」莉奈は、直哉の傷が痛んだのかと心配になった。部屋にはマネージャーもいる。けれど、この大きな子
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第283話

その笑みには、わずかな無理と、悔しさを含んだ苦笑が混じっていた。彼女は小さく息を吸い、莉奈の手を握り返した。「莉奈」外れたマスクの下から現れたのは、莉奈がよく知る顔だった。莉奈は一瞬、固まった。「琴音おばさん!」莉奈は慌てて琴音を支える手に力を込めた。遅れて、ぞっとするような恐怖が胸にこみ上げてくる。「琴音おばさん、大丈夫ですか。どこか痛めていませんか。ぶつけたところはありませんか」莉奈はもう片方の手で琴音の背中を支え、地面から立ち上がらせた。それから、琴音の服とスカートについた土埃を払った。琴音は息を吸いながら、首を横に振った。「膝を少し打っただけよ」「見せてください」莉奈はしゃがみ込み、琴音のスカートの裾をそっと膝のあたりまで上げた。案の定、膝のまわりが赤くなっている。琴音はそこを見下ろし、苦笑した。「大丈夫よ。あなたがゆっくり走っていたから、たいしたことはないわ」「病院で検査してもらいましょう」莉奈は助手席のドアを開けた。けれど琴音は、莉奈の手を引き止めた。「いいのよ。これくらいの傷で病院なんて大げさだわ。それに、病院の匂いは苦手なの」「本当に行かなくて大丈夫ですか」「大丈夫。本当に何でもないから」琴音は莉奈を安心させるように言った。「驚かせてしまったわね」琴音は、莉奈がうつむいた拍子に肩へ滑り落ちた髪を、そっと整えた。「琴音おばさんが無事ならよかったです」莉奈は背後の集合住宅を振り返り、胸に浮かんだ疑問を口にした。「でも、どうしてこんなところにいらしたんですか」今はまだ朝の八時だ。琴音の住む邸宅からここまではかなり距離がある。しかも琴音はきちんと化粧をしていた。支度の時間まで考えれば、六時過ぎには起きていたはずだ。莉奈の記憶では、琴音は早起きが好きな人ではない。琴音は莉奈に支えられ、ゆっくり歩きながら言った。「旧友の具合があまりよくなくてね。様子を見に来たの」友人の見舞いだったのか。「それなら、どうして走っていたんですか。私がゆっくり走っていたからよかったですけど、もう少しスピードが出ていたら、琴音おばさんをはね飛ばしていたかもしれませんよ」思い返すだけで、莉奈はまだ背筋が冷える。琴音は莉奈の手の甲を軽く叩き、困ったように笑った
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第284話

男はゆっくりと振り返った。逆光に浮かぶ顔の輪郭は深く、こめかみには白髪が混じっている。男は琴音を冷ややかに一瞥した。「余計なことをするな」琴音は少しぎこちない足取りで男の前まで歩き、両腕を男の首に回した。「こんなに久しぶりなのよ。遠くから一目見せてあげただけなのに、それも気に入らないの?」男は琴音の手をつかみ、首から外した。「今後は、こういう真似をするな」……今日は市内の総合公園でハーフマラソンが開かれていた。莉奈はその大会を取材する記者として来ている。車が会場に近づく前から、遠くに見える参加者たちの姿だけで、そこに満ちる熱気が伝わってくるようだった。大会の途中、莉奈はペットボトルの水で喉を潤した。少し離れたところに、空きボトルを拾い集めている年配の男性がいる。莉奈は残っていた三分の一ほどの水を飲み干すと、歩み寄って空のボトルを差し出した。「ありがとう」年配の男性が礼を言った。莉奈は微笑んで首を横に振った。その瞬間、理由の分からない寒気が胸の奥から這い上がってきた。何かが起こる。そんな予感が、かすかに肌を刺す。その時、そばにいた人の声が耳に入った。「ねえ、椎名承也が捜査対象になったって!」「何があったの?」数人がスマホをのぞき込むように集まっていた。「違法薬物を隠していたらしいよ。それに、本人名義の会員制クラブで、薬物を過剰に使った人が亡くなったって……」……五分前。病室の中で、看護師は美月の服を手に取り、病床を囲むカーテンを閉めていた。着替えを手伝うためだ。美月は、カーテンを引く看護師の背中を冷ややかに見つめていた。その時、ベッド脇の台に置かれたスマホが短く鳴った。画面に速報の通知が浮かび上がる。【捜査当局は匿名の通報を受け、西部地区にある椎名グループ傘下の建設会社倉庫を夜間に捜索し、高純度で危険性の高い違法薬物一トンを押収した。これに先立ち、承也の個人名義である会員制クラブ「夜酔」では、営業停止中にもかかわらず、夜間に不審な車両が出入りしていたとの目撃情報が寄せられていた。昨日、同クラブ内で男性一名が違法薬物の過剰摂取により死亡。夜酔には違法な取引網が存在する疑いがあり、椎名グループ社長の椎名承也が捜査対象となった】ニュースの内容を読み終えた瞬間、美月
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第285話

承也が捜査対象になったというニュースが流れると、主要なSNSは十分近くアクセスが集中し、つながりにくい状態になった。椎名グループの広報部には問い合わせの電話が殺到し、深く取引している大手企業の間にも動揺が広がった。莉奈は総合公園の陽射しの下に立ち、周囲の人々がその話題でざわつくのを、静かな顔で聞いていた。莉奈は、横にいた人のスマホ画面をちらりと盗み見た。ニュース本文の下には、承也が捜査車両へ向かう写真が掲載されていた。黒く、冷ややかな印象のスーツを着た承也が、グループ本社の正面に停まった捜査車両のほうへ歩いている。その整った顔立ちは冷ややかで、足取りはあくまで落ち着いていた。捜査のために連行される人間には、少しも見えない。まるで、有力者が集う重要な商談会へ、主賓として姿を見せる直前のようだった。「まさか、あの椎名承也がそんな人間だったなんてね」「前に特務機関にいたって記事を見たことあるけど、そういう出身ならもっと筋の通った人間なんじゃないの?こんなことをするなんて、昔の肩書きに泥を塗るようなものじゃないか」「ネットの噂を信じてるの?証拠もないのに、本当に特務機関にいたかどうかなんて分からないでしょ」「でも、あれほどの規模の名家なら、普通はあんな危ない橋を渡らないよな」「自分から身を滅ぼしたってことか」「前は仕事ぶりも顔も好きだったのに、今見ると人相まで違って見えるわ」「椎名承也も、これでもう終わりだろ。あれだけの量の違法薬物が見つかったなら、二度とシャバには出てこられないんじゃないか」「長く続いた名家が、あの人の代でこんなことになるなんてな。先代の会長が亡くなってまだ間もないのに、こんな事件を起こすなんて。椎名家も、とんでもない跡取りを出したものだ」莉奈は黙って視線を戻した。キャップをひねって水を飲もうとしたが、ペットボトルは空だった。さっき飲み切ってしまったことを思い出す。報道局が設営したテントへ戻ると、莉奈は新しいペットボトルを開け、数口飲んだ。同僚たちも、きっとあのニュースを見たのだろう。莉奈に向ける視線には、どこか探るような色が混じっていた。莉奈は気にしなかった。彼らが好奇の目で見ているのは、「椎名家の奥様」と呼ばれていた人物だ。自分はそうではないのだ。取材を終えたあと、莉奈
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第286話

昼食の時、莉奈はもう直哉に隠し立てするつもりはなかった。率直に打ち明ける。「仕事、辞めたの。明日、退職の手続きに行ってくるわ」直哉は箸を持ったまま、莉奈の好物ばかりを彼女の皿に取り分けていた。その言葉を聞いた瞬間、直哉の手がぴたりと止まり、顔を上げて莉奈を見た。薄い唇がきつく引き結ばれる。直哉は箸を握る手にぐっと力を込め、うつむいてご飯をかき込みながら尋ねた。「そうか。この街を離れるつもりなんだな」莉奈は胸のうちで、直哉はやはり自分の一番の親友なのだと思った。莉奈のことを誰よりも分かっている。退職すると言っただけで、すぐにこの街を離れるつもりだと見抜いたのだ。「うん。誰も知らない場所で、やり直したいの」直哉はそれ以上は聞かなかった。ただ一言だけ告げる。「俺がいい場所を探してやる。先に家も買っておくから、お前は向こうに着いたらそのまま住めばいい」「ううん。もう行く場所は決めてあるの」直哉の胸が痛んだ。行く先まで決めているということは、ずっと前から離れる準備をしていたということだ。直哉が黙り込むと、莉奈の胸も少し痛んだ。莉奈は直哉の茶碗にご飯をよそいながら、なだめるように言った。「怒らないで。わざと黙ってたわけじゃないの。家はもう人に頼んで見つけてもらったわ。二部屋あるから、一部屋は直哉の分よ」直哉の強張っていた唇がわずかに緩み、顔色も少し和らいだ。直哉は鼻を鳴らして言う。「少しは良心が残ってたみたいだな。俺を置いていくつもりじゃなくてよかったぜ」莉奈は承也のことには一切触れなかった。直哉も何も聞かない。まるで承也という存在が、二人にとって完全に無関係な他人になったかのようだった。……翌日、莉奈はテレビ局へ退職の手続きに向かった。おそらく上層部から話が通っていたのだろう。手続きは驚くほど順調に進んだ。荷物を片付け終えても、直哉と昼食を食べるために帰る余裕が十分に残っていた。今日は真央が記者会見の取材で報道部にいなかった。莉奈が夜に一緒に食事をしようとメッセージを送ると、すぐに真央から頬ずりをするようなスタンプが返ってきた。局を出る前、莉奈はもう一度杉村編集長のオフィスへ行き、杉村編集長と軽く抱き合って別れを惜しんだ。以前、莉奈が暴行事件に巻き込まれた時、杉村編集長が奔走して助
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第287話

莉奈はぼんやりした目で、スマホの画面に浮かぶ一行を見つめた。二秒ほど遅れて意味を理解し、そこで完全に目が覚める。壇将が、マンションの下にいる?莉奈は身を起こし、掛け布団を跳ねのけてベッドを降りた。そのまま足早に窓辺へ向かい、カーテンを開けて下をのぞき込む。マンションの植え込みを照らす景観灯は、深夜になると自動で明るさが落ちる。今は薄暗く、夕方に降った雨のせいで、緑地には淡い靄がまとわりついていた。十九階からでは、細かいところまでは見えない。けれど莉奈は一目で分かった。この棟の前に停まっている黒い大型SUVは、壇将の車だ。もう夜の十一時を回っている。相手がほかの誰かなら、莉奈は絶対に降りなかっただろう。変な相手に会うのも怖い。けれど、壇将なら話は別だった。壇将がいるなら、絶対に安全だ。莉奈は急いで部屋着の上からガウンを羽織り、靴を引っかけて、そのまま部屋を飛び出した。夜更けの建物は静まり返っていた。莉奈の足音だけが廊下に響き、それもすぐにエレベーターの中へ吸い込まれていく。やがて小さな電子音が鳴り、扉が開いた。車の中では、男がガラス越しにじっと莉奈を見ていた。ふわふわした部屋着のまま、足早にエレベーターから出てくる莉奈を。赤と白のガウンのフードには、小さな狐の耳がついている。莉奈が歩くたび、その耳がかすかに揺れた。両手はポケットに突っ込んだまま。傘は持っていない。エントランスの自動扉が開くと、細かな雨がふっと吹き込んできた。目元に触れた冷たさに、莉奈は反射的に身をすくめる。一歩、無意識に後ずさったその瞬間、頭上の光がふっと遮られた。黒い大きな傘が、莉奈の上に差し掛けられている。全身黒ずくめの壇将は、相変わらず冷ややかで静かだった。黒い手袋をはめた手で傘の柄を握り、傘を莉奈のほうへ深く傾けている。莉奈の身体はきれいにその中へ収まっていた。「壇将さん」莉奈はぱっと顔をほころばせた。首をすくめ、寒そうにその場で小さく足踏みしながら、壇将を見上げる。壇将は少し身体をずらし、外に停めた車を指した。乗れという合図だ。莉奈はこくこくと頷いた。「はいはい」壇将が助手席の扉を開けると、温かな空気がふわりと流れ出した。莉奈はほっと息をつき、そのまま車内へ滑り込む。座った途端、冷えた足先を温める
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第288話

莉奈はその一文を見つめ、長いまつ毛をそっと伏せた。「あの人は、そんなことしません」莉奈は静かに、きっぱりと言った。――あの人は、絶対にそんなことしない。運転席に座る男の、ハンドルを握る手が一瞬だけ強張った。その直後、隣に座る莉奈が自嘲するように小さく笑い声を漏らすのが聞こえた。「私って、もしかして……」深く下げた黒いキャップのつばの下で、冷えきった瞳が、荒れ狂う感情をぎりぎりのところで押さえ込んでいた。莉奈は息を吐いた。「この話、ほかの人には言わないでくださいね。言ったら、私がすごく馬鹿みたいに見えるので。でも、事実だけを言うなら、あの人は絶対にそんなことをしません。数年前、椎名グループが叔父の手にあった頃、グループは危機に陥っていました。もしあの人が抜け道を使って楽をするような人なら、二か月も続けて夜遅くまで働いたりしなかったはずです。あの人の体力が並外れていたから持っただけで、普通の人ならとっくに倒れていましたよ」壇将のこわばった指先が、ゆっくりと画面を打った。【どうして知っている】「私の部屋が、あの人の部屋の隣だったからです。毎日、あの人が書斎から部屋に戻ってくるのを待って、それから眠っていました」莉奈は言いながら手を振った。思い出すのも恥ずかしいという顔だった。「あの頃は、子供じみた片思いでした。今になって振り返ると、本当に馬鹿だったなって思います」当時の莉奈は、承也の部屋と自分の部屋が隣り合っているというだけで、まるで運命のように感じていた。神様がそう決めたのだとさえ思い込んでいた。そういえば、隣同士の部屋で過ごしたあの頃には、いろいろなことがあった。たとえば、十三歳で初めて生理が来た時、ナプキンを買ってきてくれたのは承也だった。あの夜、莉奈はシャワーを浴びたあと、ベッドの端に座って髪を拭いていた。すると突然、下腹部の奥から温かいものが流れ出す感覚があった。シーツについた血を見て、莉奈はそれが何を意味するのか悟った。クラスの女子たちが、そういう話をこっそりしていたからだ。けれど初めてのことで、莉奈はどうしていいか分からず完全に混乱していた。千鶴は海外にいる伯母の家へ行っており、屋敷にはいなかった。誰に頼ればいいのか分からず、焦って部屋の扉を開けた途端、ちょう
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第289話

暖房のよく効いた車内にいるのに、どこから入り込んだのか分からない冷えが、莉奈の背筋をぞくりと撫でた。莉奈は両手で温かいタンブラーを包み込むように握った。「もう、あの人の話はやめましょう」莉奈は身体を少し横へ向け、ハンドルを握ったまま目を伏せ、どこか上の空に見える壇将を見た。そして気まずそうに笑う。「退屈させちゃいましたよね」けれど、こんな話を包み隠さずできる相手は壇将だけだと、莉奈は思っていた。壇将は我に返ったようにこちらへ顔を向けた。深褐色の瞳に何かが一瞬だけ走る。莉奈がそれを見極める前に、その感情は跡形もなく消え去っていた。彼から発せられる強い圧迫感に、莉奈は思わず息をのんだ。だが次の瞬間、壇将はふいと視線を外した。冷たくなった指先が、スマホの画面を打つ。【君の見る目は、間違っていないはずだ】【人生は長い……】壇将が二つ目のメッセージを打ち終える前に、莉奈はふいに、手袋をはめた彼の手の甲を押さえた。マスクと深く下げたキャップに隠れた顔を、怪訝そうにのぞき込む。「壇将さん、まぶたのあざ……」スマホを握る壇将の手が、かすかに強張った。壇将はもう片方の手を上げ、キャップのつばをさらに深く下げた。莉奈が顔を近づけてよく見ようとした瞬間、壇将は目を伏せた。打ちかけていた文字を素早く消し、別の言葉を打ち込む。【生まれつきだ】壇将がドアに張りつくようにして身を引くのを見て、莉奈はようやく、自分が他人の領域に踏み込みすぎたことに気づいた。さっき何気なく顔を見た時、彼のまぶたにあったはずのあざが消えているように見えたのだ。まさか、彼が美容目的であざを消したとは思えない。壇将は、自分の外見をそこまで気にするような人間には見えなかった。本人がそう言う以上、そして見られるのを極端に嫌がっている以上、きっと車内が暗くて見間違えただけなのだろう。「すみません、壇将さん。私、この好奇心が強すぎるところ、直さないとだめですね」莉奈はさっきの失礼を素直に詫びた。そして少し身を乗り出し、壇将のたくましい腕を軽く叩いた。ごつごつとした硬い感触が返ってきて、鈍い音がする。「わ、すごい。そんなに着込んでたら、寒くないわけですね」壇将は目を伏せ、自分の腕を叩いた莉奈の手を見つめた。彼女の親指と人差し指の間にあっ
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第290話

ほんの一瞬だけだった。壇将はすぐに莉奈を離し、元の姿勢に戻った。両手はハンドルの上に置かれている。その時、莉奈のスマホが鳴った。直哉からだった。「こんな夜中にどこ行ってんだよ。明後日の便って言ってたの、まさか嘘で、もうこっそり逃げ出したんじゃないだろうな」莉奈は正直に答えた。「下にいるの。すぐ戻るわ」電話を切ると、莉奈は前を向いたままハンドルを握っている壇将を見た。「壇将さん、ちゃんと身体を大事にしてくださいね。任務に出る時は、安全第一です。怪我なんてしないでください。身体がいちばん大事なんですから、分かりましたか」莉奈は、壇将も自分と同じように家族がいないことを思い出した。それでも莉奈には、心配してくれる友人がいる。大切にしてくれる人たちがいる。けれど壇将には、彼を神のように慕っている廷治がいるだけで、そばに親しい友人らしい人もいない。今、莉奈まで遠くへ行ってしまったら、本当に壇将を気にかける人がいなくなってしまう。そう思うと、ついあれこれと口うるさく言ってしまった。「じゃあ、私は戻ります。壇将さんも早く帰ってくださいね。今夜、本当に冷えますから」壇将は目を上げ、莉奈の肩越しにエントランスホールを見た。エレベーターから直哉が出てくるところだった。腹部を押さえながら、一歩ずつ、ひどくゆっくり歩いている。莉奈もドアを開けた瞬間、直哉に気づいた。思わず顔をしかめる。「なんで下りてきたのよ。ほんと、病院に押し戻してやればよかった」そう言いながら、莉奈はフードをかぶって車を降りた。車外で壇将に笑って何度か手を振り、早く帰るように手で合図する。それからドアを閉め、エントランスへ小走りで向かった。「これ以上歩いたら、お腹の傷が開くでしょ」莉奈は顔色を悪くしている直哉を見て、怒るに怒れず、心配するしかなかった。慌てて直哉の腕を支える。直哉は外に停まったままの車を振り返った。「誰だ」「壇将さんよ。明後日M国へ行くって伝えたら、その日は任務で見送りに来られないかもしれないからって、わざわざ会いに来てくれたの」直哉は視線を戻し、意味ありげに声を漏らした。「へえ」あの壇将という男は、案外義理堅いらしいな。靄のかかったマンションの下で、黒い大型SUVは、莉奈が去ってからもしば
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