บททั้งหมดของ 婚姻生活にさようなら、椎名さん: บทที่ 261 - บทที่ 270

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第261話

関係の深さで言えば、浩平と承也が一番近い。けれど省之介も、幼い頃から一緒に育ってきた仲だ。浩平には、省之介があそこまで苦しんでいるのを黙って見ていることなどできなかった。万が一、本当に過労で倒れでもしたらどうするのか。浩平は二人の間で気を揉み、胃が痛くなる思いだった。いったい何の因果で、こんな役回りをしなければならないのか。「俺が言いたいのはさ、厳明さんは自業自得だってことだ。あの人は痛い目を見るべきだし、叩かれて当然だ。でも省之介は悪くない……いや、悪くないわけじゃないな。莉奈を好きになったのはまずかった。だけど、あいつはそこまで度を越したことはしてないだろ」浩平はそこまで言い、少しは承也の顔色が和らぐことを期待した。だが、言う前の承也はただ顔を沈ませていただけだったが、言い終えたあとには、陰鬱という言葉が似合うほど冷えきっていた。どこで間違えたのか。承也は無感情に言った。「神崎厳明の苦しみは、これからだ。神崎家のことは、俺には関係ない」「お前な……」浩平は舌打ちしかけた。だが、そこで止まる。待てよ。浩平は息を吸い、承也の言葉を頭の中で反芻した。――神崎家のことは、俺には関係ない。つまり、承也が狙っているのは厳明だけだ。神崎家そのものがどうなろうと、承也には関係ない。ならば、厳明の件に触れさえしなければ、ほかのことで省之介を少し助けたところで、承也は口を出さないということになる。浩平は胸の内で、そっと息を吐いた。承也のこの回りくどい考え方を読み取れるのは、やはり浩平くらいのものだ。生まれる前から縁のある幼なじみをやってきただけのことはある。浩平はタバコを揉み消し、コートのポケットから一通の報告書を取り出して承也へ渡した。「そうだ。いちばん大事なことを忘れるところだった。千鶴さんの部屋で焚かれていた香、それから飲んでいたお茶と食べていたものの検査結果だ。お前が悠斗に渡させたものは、全部調べさせた。安心しろ。信頼できる人間に頼んでいる。間違いもないし、誰かに手を加えられることもない」承也は報告書を受け取り、結果の欄に目を落とした。検査対象となったものから、異常は確認されなかった。承也の指に力が入る。報告書の端がわずかに歪み、紙の擦れる音がした。浩平は眉を
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第262話

承也の推測に、浩平は顔色を変えた。「本当なのか」いったい誰が、そこまで大胆な真似をするのか。椎名家の先代である千鶴に毒を盛るなど、普通なら考えも及ばない。千鶴は、誰もが認めるほど温厚な人だった。思いやりがあり、慈善活動にも熱心で、使用人に厳しく当たることもなかった。千鶴が亡くなった日、椎名家で働く者たちは誰一人として涙を堪えきれなかった。浩平も幼い頃から、よく椎名邸へ遊びに行っていた。遊び疲れて眠り込んでしまうと、千鶴は浩平を優しく抱きかかえ、自分の孫になればいいのにとからかうように笑っていた。大人になってからも、千鶴はよく浩平を呼び寄せては一緒に食事をしてくれた。千鶴が亡くなってから今まで、浩平の胸にはずっと重いものが残っている。寂しさも、悼む気持ちも、まだ消えてはいなかった。だからこそ、千鶴が遺言で莉奈を葬儀に参列させないようにしたと悠斗から聞いた時、浩平は莉奈に対して複雑な感情を抱かずにはいられなかった。そのせいで、雨の中で通用口に跪いている莉奈に直接声をかけることはせず、人に頼んで座布団だけを届けさせたのだ。いったい誰が、あんなに優しい千鶴に毒を盛るなどという残酷な真似をしたのか。「まだ断定はできない」承也は検査報告書をローテーブルに投げ置いた。今は、証拠も手がかりも何もない。千鶴は生前、何度も検査を受けていた。血液検査にも異常は出なかったため、誰も毒を盛られた可能性など考えもしなかったのだ。けれど、毒以外の要因はすでにほとんど潰れていた。もし環境的な特殊な物質の影響なら、毎日千鶴のそばで暮らしていた白崎執事や身の回りを世話する者たちが、無事でいられるはずがない。残る可能性は、毒だけだった。すでに遺体は火葬されており、調べられるものは一気に少なくなっている。手がかりを追う難易度は何倍にも跳ね上がっていた。浩平は考え込むように言った。「この件は、裏で少しずつ調べるしかないな。おばあちゃんは、いつ頃から具合が悪かったんだ」「十二月二十日に中央病院で検査を受けた。その一週間前には、もう不調を訴えていた。十二月十三日頃だ」承也は平然と言った。浩平は最初、うなずきかけた。だがすぐに気づく。承也は、ほとんど考える間もなく正確な日付を口にした。「よくそこまで正確
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第263話

浩平は同意しつつ、ふと思い出したように言った。「確かに。あいつは悪事ばかり重ねて、どれだけ人の恨みを買ったか分からない。死んでも文句は言えない男だ。そうだ。夜酔は二、三日したら営業を再開していいだろ。ずいぶん長く止めていたから、従業員たちが騒ぎ始めてる」承也は茶碗を置いて言った。「君が手配しろ」悠斗のスマホが鳴った。彼は少し離れた場所で電話に出ると、短く言葉を交わし、通話を切って承也のそばへ戻った。「社長、佐伯家の者が西苑へ向かいました」浩平は承也の顔を見た。承也には、驚きが少しもなかった。まるで、すべて最初から予想していたかのようだ。焦る様子のない承也を見ていると、浩平の方が落ち着かなくなってくる。「直哉が時哉に育てられたようなものだってことは、誰でも知ってる。時哉はここ数年ずっと海外にいただろ。あっちでどれだけの力を持っているか分からない。君が美月をかばい続けるなら、時哉を敵に回すことになるぞ」もちろん、美月の骨髄の件を抜きにしても、承也が美月を差し出さないだろうことは浩平にも分かっていた。美月の両脚は、かつて承也を救うために不自由になった。承也は美月に借りがある。命の恩は、簡単には返せない。承也は浩平の言葉を聞いても、何の反応も示さなかった。浩平も分かっている。承也は時哉と敵対することを恐れてなどいない。この世に、承也を怯えさせる人間など見たことがなかった。それでも浩平は、今の承也が心配だった。今の承也は、どこか極端に偏っている。取り返しのつかないことをしてしまうのではないかと、どうしても不安になる。とくに、莉奈のことになると……浩平は結局、聞かずにはいられなかった。「本当に莉奈を軟禁するつもりか」承也の瞳は深く沈んでいた。「軟禁じゃない。半月、ここにいさせるだけだ」浩平は額を押さえた。「何が違うんだよ」「違う」承也の声には、頑ななものが滲んでいた。浩平は思わず口を開いた。「窮鼠……いや、誰だって追い詰められれば噛みつくんだ。まして相手は気の強い莉奈だぞ。本気で追い詰めたら、何をするか分からない」承也は淡々と言った。「俺の目の届くところで、何ができる」その時、白崎執事が進み出た。「旦那様、浩平様、昼食の準備が整いました」浩
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第264話

浩平は車の鍵を手に、ドアを開けた。乗り込むなり、鍵をいつものようにダッシュボードへ放り投げ、エンジンをかけようとした。その時、視界の端に何かが映った。「うわっ……奈奈!」真っ昼間から幽霊でも出たのかと、浩平は思わず胸を押さえた。心臓が跳ね上がっている。莉奈は助手席の足元に身を縮めていた。黒い髪は乱れ、赤く腫れた瞳がまっすぐ浩平を見ている。顔には表情がなかった。浩平には普段、車のドアをこまめにロックする習慣がない。まさか、その隙を莉奈に突かれるとは思ってもみなかった。莉奈は暗い瞳で催促した。「早く車を出して」強い口調なのに、血の気のない小さな顔は妙に痛々しく見えた。朝に起きたことを思い出し、浩平は眉を寄せた。幼い頃から莉奈を妹のように見てきた身として、胸が痛まないわけがなかった。浩平の声が、少し柔らかくなった。「連れていくわけにはいかない。まず、俺は承也に勝てないし、あいつを裏切るような真似はできない。なあ、言うことを聞いて戻れよ。承也が約束したことなら、あいつは必ず守る。そこだけは信用していいから」莉奈の胸の奥は、苦い絶望で塞がっていた。「見なかったことにして、車を出してくれればいいのよ。お願い浩平、早く」承也が自分をここに軟禁していることは、裏切りではないとでも言うのだろうか。浩平はハンドルを握りしめたまま、少し離れた場所へ目をやり、重く息を吐いた。莉奈のまっすぐな目を見ることができなかったのだ。「悪い」浩平は身体を少し横へずらし、手を伸ばして集中ドアロックのスイッチを押した。カチャリとロックが外れる音がした。莉奈が振り返ると、冷えた顔の承也がこちらへ大股で歩いてきていた。莉奈の心臓が冷たく跳ねた。助手席のドアを引き寄せると同時に、浩平へ飛びかかった。そのまま運転席のドアを押し開け、浩平を車の外へ蹴り落とす。「うわっ!」浩平は車外へ転がり落ち、地面で半回転してから起き上がった。そして、運転席に移って車を発進させようとしている莉奈を、呆れと諦めの混じった顔で見た。まさか、ここまでするとは。か弱さなど微塵もない。追い詰められた莉奈は、想像以上に獰猛で手がつけられなかった。こんな手のかかる女を本気で追いかけるのは、承也や省之介、尚南くらいのものだ。莉奈はアクセ
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第265話

承也が部屋を出てからほどなくして、使用人が食事を運んできた。「奥様、昼食でございます」けれど莉奈は、ベッドに座ったまま少しも動かなかった。使用人たちは仕方なく、ローテーブルに食事を並べ、静かに部屋を出ていった。夕方になり、白崎執事が二階へ上がってきた。ローテーブルの上に手つかずのまま残された食事を見て、小さく息をつく。白崎執事はベッドのそばへ歩み寄った。莉奈は午後のあいだ、ずっとそこに座っていた。まるで彫像のように、身じろぎひとつしない。その姿に胸を痛め、白崎執事は低い声でなだめた。「お嬢様、少しだけでも召し上がりませんか。こんなふうに食事を抜けば、旦那様の機嫌を損ねるだけです。お嬢様にとって、何もいいことはございません。ご自分の身体を駆け引きに使ってはいけません」莉奈は声も出さずに首を横に振った。「食べたくない」白崎執事にだけは、莉奈もほんの少し反応を見せたのだ。白崎執事は黙って部屋の明かりをつけ、部屋を出ていった。……日が暮れた。細かな雨粒が風に吹かれ、窓ガラスを叩いている。莉奈はベッドに座ったまま、ガラスを滑り落ちる雨粒をぼんやり見ていた。部屋の扉が外から開いたことにも気づかなかった。承也は幼い頃から武術の心得があり、足音が常人よりもはるかに軽い。承也はベッドのそばへ来て、放心したような莉奈の横顔を見つめた。上げかけた手が、一瞬止まる。やがて指を伸ばし、莉奈の頬にかかった髪をそっと払った。「食事だ」莉奈の身体がわずかに強ばった。承也の手を避けるように顔をそらし、そのまま窓の外を見続ける。「下で食べたくないのか」承也は怒るどころか、振り返って使用人に命じた。「食事をここへ運べ。ベッドテーブルを用意して、ベッドの上で食べさせろ」使用人たちは一瞬、戸惑った。彼らは本邸から来た古参の使用人であり、承也の潔癖な習慣をよく知っていた。彼の部屋で飲食をすることさえ通常は許されない。ましてやベッドの上で食事など、前代未聞のことだった。莉奈は何も言わなかった。すぐに使用人たちが食事を運んできた。ベッドテーブルがベッドの上に置かれ、食欲をそそる料理がいくつも並べられる。使用人たちが出ていったあと、莉奈はようやくテーブルの上を見た。承也はそばに立ち、ゆっくりと袖の
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第266話

食事を終えると、承也は約束どおり、千鶴のアルバムを莉奈に渡した。深夜、莉奈は千鶴が生前よく眺めていたアルバムを抱え、ソファの片隅で膝を抱くようにして座っていた。一ページずつ、ゆっくりめくる。時間が巻き戻ったかのようだった。千鶴の腕に寄りかかり、一緒にアルバムを眺めていたあの頃の温もりのなかにいるような気がした。千鶴は、若い頃の話をよく聞かせてくれたものだ。祖父とどうやって出会ったのか。口では素直になれないくせに、千鶴のことをどうしようもなく愛していた祖父に、どうやって結婚を決意させたのか。そして、承也の両親にまつわる出来事も、優しく語ってくれた。千鶴は生前、莉奈には若い頃の自分に似たところがあるとよく言っていた。莉奈を見ていると、若い頃の自分を見ているようだ、と。だから千鶴は、莉奈をひときわ可愛がってくれたのだ。莉奈は千鶴に会いたかった。どうしようもなく、会いたかった。ふいに、手の中のアルバムが抜き取られた。頭上から、承也の澄んだ低い声が降ってくる。「もう遅い。続きは明日にしろ」莉奈の手の中が空になる。けれど莉奈は、取り返そうとはしなかった。無言で視線を落とし、ソファの上で抱えていた脚を下ろす。そのまま立ち上がり、ベッドへ向かった。部屋の明かりを消し、布団をめくって、大きなベッドの真ん中に横になる。夕食のあと、初めて口を開いた。「出ていって」カチャリと、扉が静かに閉まる音がした。莉奈が目を閉じる。だがその直後、背後のマットレスがわずかに沈んだ。布団がめくられ、次の瞬間、男の力強い腕が背後から莉奈の腰を抱き寄せた。背中が、温かな広い胸に触れる。暗闇の中で、莉奈は抵抗しなかった。ゆっくり目を開け、静かに言った。「あの日の朝、朝市で直哉が私の代わりに刺された直後に、あなたは私に電話をかけてきた……私が出られなかったあの時、あなたはもう、美月が殺し屋を雇ったことに気づいていたんでしょう」腰に回された腕が、かすかに強ばった。そして、ゆっくりと締まる。その反応だけで、答えとしては十分だった。莉奈は小さく自嘲するように笑った。暗闇の中では、目尻から涙が滑り落ちたことなど誰にも見えない。「本当は、あの海で私を助けるべきじゃなかったのよ。いっそ、あの時に死んでい
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第267話

洋館の前の道は、数台の黒い車に塞がれていた。時哉は指先で腕時計の文字盤を軽く叩き、目を上げ、洋館の周囲の闇から姿を現したボディーガードたちを見渡す。彼の視線は、男たちの胸元にある紋章に落ちた。承也の影のボディーガードだ。承也の母方の実家が、何段階もの過酷な選抜を経て鍛え上げた者たちであり、その戦闘力は一般的なボディーガードとは比べものにならない。まさか承也が、ここにまで影のボディーガードを置いているとは思わなかった。秘書が低い声で指示を仰いだ。「佐伯社長、仕掛けますか」時哉は静かに待っていた。やがてこちらへ近づいてくる車のエンジン音が耳に届くと、視線を戻してゆっくりと言った。「承也が来た」秘書は一瞬固まり、振り返った。数台の黒い車がこちらへ向かってきて、時哉たちの車の後ろで停まった。ドアが開き、黒い服をまとった承也が車を降りる。夜の冷気を孕んだ黒い瞳が、門の前を塞ぐ車列を冷ややかに一瞥した。その表情は、どこまでも淡く、冷酷だった。車内にいた秘書は、承也から放たれる圧倒的な威圧感に息を呑んだ。それは、長く人の上に立ち続けてきた者だけが持つ特有の気配だった。時哉も車のドアを開けて降り、向かいに立つ男を見た。背筋を真っ直ぐに伸ばして立つその姿は、以前よりさらに強い気配をまとっていた。「承也、久しぶりだな」佐伯家の先代と椎名家の先代は親しい間柄だった。承也の祖父が存命だった頃、年の近い承也と時哉も、幼い頃は何度か顔を合わせたことがある。ただ、それも他人より少し顔見知りという程度にすぎなかった。承也は昔から他人を寄せ付けず、常に淡々としていた。長くそばにいたと言えるのは、浩平と省之介くらいのものだ。承也は冷ややかに返した。「久しぶりだな。こんな時間に、ここで何をしている」分かっていて聞いているのだ。時哉は落ち着いたまま答えた。「桜井美月が殺し屋を雇い、直哉を傷つけた。兄として、あいつのためにけじめをつけに来るのは当然だろう」承也はかすかに笑った。冷たい街灯の下で、その整った顔立ちがいっそう深く、影を帯びて見える。「つまり、俺から人を奪うつもりか」承也は時哉が連れてきた車列を一瞥した。「……その連中で?」時哉の秘書は目の前の椎名家当主を見た。普通の人間がその言葉を口に
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第268話

影に潜む護衛たちは、再び音もなく洋館の周囲の闇へ溶け込んだ。承也が階段を上がると、ボディーガードが閉ざされていた扉を押し開けた。冷たい風が室内へ吹き込み、斜め向かいに垂れた厚いカーテンを揺らす。カーテンのそばで本を読んでいた美月が、はっと顔を上げた。手のひらにはガーゼが巻かれている。今朝、車椅子から落ちた時に擦りむいた傷だ。承也の姿を見た瞬間、美月の顔に怯えの残る安堵が広がった。「承也、来てくれてよかった」時哉という男も、やはりただ者ではない。まさか、これほど早くここを見つけてくるとは思わなかった。美月の車椅子が自動で承也の前まで進む。「さっきは本当に、時哉に連れていかれるんじゃないかと思ったわ。いつ西苑に戻れるの。ここもきれいだけど、やっぱり西苑の空気の方が好きなの。今夜は場所が変わって、眠れないかもしれないわ」承也の顔が氷のように冷え切っているのを見て、美月の顔から少しずつ喜びが消えていった。「承也、どうしたの……」「もう十分か」承也の声は淡く、冷たかった。氷水を浴びせられたように、美月の言葉が止まる。美月の顔がかすかに強ばった。「承……」「時哉がどうしてここを見つけられたのか、自分で分かっていないのか」美月は顔を上げ、承也の冷淡な目とぶつかった。震える唇が開く。「私は何も……」「何もしていない、とでも言うつもりか」承也は冷ややかに遮った。「居場所を漏らしていないとでも?」承也の威圧と、底知れぬ黒い瞳の見透かすような視線に、美月は耐えきれなくなった。目の縁が一気に赤くなる。ごまかせない。承也には、隠し通せない。美月は震える唇を噛んだ。「認めるわ。私が居場所を漏らしたの。だって、あなたに会いたかったから。今日、あなたは何の説明もなく、突然私をこんな知らない場所へ連れてこさせた。私はもともと、知らない場所に慣れるのが苦手なのに。それに、あなたが莉奈と一緒にいたら、もう私に会いに来てくれないんじゃないかって不安だったの。あなたに会うために、私は自分の居場所を明かしたのよ。自分から標的になったの。佐伯家の人たちがここを囲んだ時、どれほど怖かったか分かる?あなたがすぐ来てくれるように、ずっと祈っていたのよ」承也の後ろから入ってきたボディーガードが、その言葉に
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第269話

美月が説明するより早く、承也はすでに背を向けていた。言い訳を聞く気など、少しもないようだった。美月は、屋外へ出ていくその広い背中を見つめた。承也はエントランスでタバコに火をつけると、そのまま一度も振り返ることなく階段を下りて去っていった。美月は目を赤くして歯を食いしばった。――今朝、西苑で起きたことを、なぜ承也は一言も口にしないのか。私が殺し屋を雇ったことすら、なぜ問い詰めようとしないのか。私の中にある免罪符、血のためなのか。私の血は、承也にとっていったい何の役に立つというのか。彼にとって、それほどまでに大事な人間とは誰なのか。美月はひそかに人を使って調べさせているが、未だに何一つ掴めていなかった。車に乗る前、承也はボディーガードへ一言だけ残した。「厳重に見張れ。二度と出血するような事故を起こすな」「承知しました、社長」……夜はすっかり更け、松風レジデンス全体が静まり返っている。悠斗は巡回に向かうボディーガードたちへ、主屋のそばを通る時は物音を立てず、莉奈のお休みを妨げないようにと指示していた。その時、背後からけたたましい火災報知器の警報音が鳴り響いた。本来なら真っ暗なはずの主屋の二階から、黒い煙が窓の外へ噴き出している。「火事だ!」悠斗の顔色が変わった。古い造りの主屋は、さっきまで明かりも落ちていた。だが今やその二階に赤い炎が燃え上がり、窓から煙が次々に噴き出している。彼はただちに消火を命じると、同時に自分も火の中へ飛び込もうと足を踏み出した。承也が不在の今、莉奈がまだ二階にいる。救わなければならない。だが、一歩踏み出したところで、悠斗は険しい表情を浮かべて足を止めた。視線が建物の反対側へと向く。これほど大きな火事だ。松風レジデンスのボディーガードは総出で動いている。ほとんどの人員が消火のために主屋の前へ集まり、元の持ち場に残っているのはごく一部だけだった。警備に大きな穴ができる。逃げるには、絶好の機会だ。莉奈は普通の女性ではない。死を恐れず、肝も据わっている。浩平が言っていた通り、本気で追い詰めれば何をするか分からない。脱出のために屋敷に火を放つくらい、彼女ならやりかねない。本気で脱走を図る彼女を相手にすれば、ほかの者では出し抜かれる可能性がある。悠斗はあえてその場に
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第270話

二時間前。莉奈が将軍を抱きしめていた時、その瞳が暗闇の中で光を反射した。それを見た瞬間、頭の中に一つの逃亡計画が閃いた。書斎にある二台のパソコンはネットワークから切断されている。承也が、パソコンで助けを呼ぶような隙を与えるはずがない。直哉が目を覚まして莉奈がいないと知れば、必ず電話をかけてくるだろう。そして連絡がつかなければ、血眼になって探すはずだ。だが、誰かの助けを待つより、自力でここから抜け出す方法を考えた方がいい。莉奈はもう、一秒たりともここにいたくなかった。ただ、その方法は容易ではない。ほんの少しでも手順を間違えれば即座に見つかり、すべてが水泡に帰す。松風レジデンスの敷地は広大だ。ここから逃げ切るには、どうしても車が必要になる。歩いて出ようとすれば、ゲートの警備に辿り着く前に捕まってしまう。だが、邸内にある車の鍵はすべて悠斗が厳重に管理している。あの悠斗の目を盗んで鍵を奪うことなど、誰にもできはしない。幸いなことに、承也は急な外出で不在だった。三台の車が連れ立って出ていくのも確認している。彼が今夜中に戻るのか、戻るとして何時になるのかは分からない。それでも、先に準備だけは整えておく必要があった。莉奈は立ち上がり、承也が普段ライターを置いている引き出しへ向かった。暗がりの中、手探りで一つを取り出す。部屋の明かりをつけていなかったため、莉奈は気づかなかった。今手に取ったライターのすぐ隣に、見覚えのある黒いライターが大切に置かれていたことに。それは年の暮れ、空へ天灯を飛ばした夜に、莉奈が針金でうっかり傷をつけてしまったあの黒いライターだった。莉奈はライターを握りしめ、頭の中で時間を計算した。火の手が上がるのが早すぎれば、承也が戻る前にボディーガードたちに消し止められてしまう。逆に遅すぎれば、火が大きくなる前に承也が戻り、脱出計画に気づかれてしまう。それに、むやみに火を放つわけにはいかなかった。莉奈はここから逃げたいだけで、誰かを傷つけたいわけではない。誰も怪我をしないよう、火元の場所は慎重に選ばなければならなかった。準備をすべて整えたあとは、承也が戻るのを待つだけだ。莉奈は将軍を連れて最上階である四階の屋根裏へ上がった。計算上、承也の車が屋敷へ続く並木道に入ったタイミングで火をつけるのが一
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