All Chapters of 婚姻生活にさようなら、椎名さん: Chapter 301 - Chapter 310

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第301話

莉奈の両こめかみは、汗に濡れていた。赤く腫れ上がった唇。引き裂かれた襟元はだらしなく崩れ、赤い痕がまだらに残る胸元を隠しきれていない。けれど、彼女の氷のように冷たい一言と、手のひらにべっとりとついた血が、車内に満ちていた濃密で危うい熱を跡形もなく打ち砕いた。承也は鋭く問い詰めた。「何をしたんだ!」瞳の奥に渦巻いていた情欲の色は、一瞬にして深い漆黒の底へと沈んだ。目尻にほんのりと差した赤みだけが、つい先ほどまで彼がどれほど煽られていたかを物語っている。密閉された車内には血の匂いが立ち込め、無数の蟻が神経を這い回るような不快感を広げていた。承也は血を流す莉奈の手を掴んだ。同時に、彼女のもう一方の手が血まみれの十徳ナイフを握りしめているのが目に入った。承也の瞳が、ぎゅっと収縮する。――彼女、こんなやり方で正気を保とうとしていたのか!自分を傷つけてまで、俺に触れられることを拒んだというのか!凄まじい怒りの炎が、承也の瞳にわずかに残っていた情欲を焼き尽くし、鋭い憤怒だけを残した。承也は十徳ナイフを奪い取ると、力任せに車のドアへ叩きつけた。鈍い音を立てて跳ね返ったナイフが、床に転がり落ちる。「そこまで俺に触れられたくないのか?」「ええ」莉奈の答えは、あまりにも静かだった。まるで目の前の男を、先ほどまで自分の熱を逃がすための道具としてしか見ていなかったかのように。十徳ナイフを奪われ、莉奈のその手は空いた。莉奈は引き裂かれたドレスを掴んでかき合わせ、先ほどまで露わになっていた肌をきっちりと覆い隠した。迷いのない肯定を聞き、承也の顔は凍りつくほど険しく沈んだ。承也は血を流す莉奈の手首をきつく掴むと、彼女のドレスの裾をさらに引き裂き、傷ついた手のひらに巻きつけた。莉奈の冷えきった声が、力なく車内に響く。「私にキスをして、触れて、助けようとしてくれているのは……他の誰かだと思っていたわ。あなただと分かっていたら、死んだ方がましだった……」承也は霜が降りたような冷酷な顔で、鋭く彼女の言葉を遮った。「莉奈!」承也は顔を上げた。先ほどまで情熱に焼かれ、赤く潤んでいた莉奈の瞳には、今や一片の温度も宿っていない。彼は冷えきった指先で、先ほどまでナイフを握って震えていた彼女の指を、ぎゅっと強く握り込んだ。承也は冷
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第302話

莉奈は一瞬きょとんとして、直哉が何を言っているのか理解できなかった。直哉は莉奈の額に触れ、体温が平熱に戻っているのを確かめてから言った。「病院に運ばれてきた時、お前は少し意識を取り戻していたんだ。ただ、ちょうど薬の効き目がピークだったからな。ベッドに寝かされて胃洗浄に回される直前、口を開いたと思ったら、医師に向かって男を呼べと言い出したんだ。こっちは本気で口を塞ぎたくなったぞ」莉奈は意識が混濁していたのだから、そんなことを覚えているはずがない。けれど、車の中で意識を失う直前、承也が運転席の人物に「病院へ向かえ」と命じたことだけは覚えていた。莉奈は乾いてかすれた声で尋ねた。「病院に運んだのは、椎名さんなの?」何事もなければ、承也は今ごろ警察に身柄を拘束されているはずだった。車の中にいた時、莉奈の頭の中は「承也に触れさせてはいけない、承也に触れてもいけない」という思いで埋め尽くされていた。正気を保ち、薬の力に支配されまいと抗うだけで精いっぱいで、承也が置かれている状況などすっかり忘れていたのだ。直哉は答えた。「あいつじゃない。あいつのボディーガードだ。Jさんがお前を連れ出したところを、承也に引き止められたんだ。ただ、承也自身がここまで運んだわけじゃない。途中で捜査関係者に止められたらしい」直哉は莉奈に布団を掛け直した。「今はどうでもいい奴のことを考えるな。まだ水は飲めないから、もう一度寝て、少しでも体力を戻せ」莉奈は少しぼんやりしていたが、やがて我に返って言った。「直哉がここにいると、眠れないわ」「目を閉じればいいだけだろ」直哉はそう言いながら手を伸ばし、莉奈のまぶたを無理やり閉じさせようとした。けれど莉奈はその手を避けた。「あなたのお腹の傷が開かないか心配なの。早く戻って休んで。廷治にここへ残ってもらえばいいから」直哉が出ていかなければ絶対に眠らない、と言わんばかりの顔だった。直哉は、これ以上何を言ってもこの頑固さは変わらないだろうと悟った。結局、莉奈の強情さには勝てず、廷治にいくつか言い含めてから、ボディーガードに支えられて病室を出ていった。直哉が去ったと分かってから、莉奈はようやくドアの方へ声をかけた。「廷治」全身に力が入らず、声はあまり大きくなかった。だが廷治は鍛えているだけあって耳がよく、
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第303話

廷治はそこまで話してから、ふと思い出したように言葉を続けた。「Jさんは、わざと向井さんを置いていったわけではありません。椎名社長側の人間と鉢合わせて、怪我をしたんです。ご存じですよね。椎名社長のそばにいる、あの図体のでかい悠斗です。あの男の強さは、かなり異常です」以前、廷治が悠斗とやり合った時は、いつも十合も打ち合わずに押さえ込まれていた。そのせいで、廷治は悠斗の本当の実力を知ることすらできなかった。だが、前にクルーザーで悠斗に助けられた時、廷治にもはっきりと分かった。あの大柄な男は、本当にただ者ではないと。莉奈の瞳が、わずかに見開かれた。――壇将が怪我をした?私の考え違いだったのでしょうか。莉奈は緊張した面持ちで尋ねた。「ひどいの?」壇将は、どう考えても莉奈のために怪我をしたのだ。それなのに、莉奈はついさっきまで、彼が承也側の人間ではないかと疑っていた。悠斗の顔立ちは、若い女性なら思わず見惚れてしまうほど冷ややかで端正なものだ。だが、その腕っぷしはたしかに恐ろしいほど強い。以前、莉奈が壇将から格闘を教わっていた頃、心の中で壇将と悠斗の実力を比べたことがあった。壇将の身のこなしはこの目で見ていたし、悠斗の強さも見たことがあった。莉奈からすれば、二人の実力は互角のはずだった。壇将が、悠斗に勝てなかったというのか。廷治は首を横に振った。「僕はまだJさんの様子を見に行けていません。あの人は怪我をしたとしか言いませんでした。どれだけ重傷でも、自分からは絶対に言わない人です。でも、向井さんを守りきれなかったということは、かなりひどい怪我だと思います。少し遅くなってから、僕が見に行きます」悠斗に助けられる前、廷治は壇将に悠斗を叩きのめしてもらうつもりでいた。だが今となっては、悠斗には本当に手を出してはいけないと分かっていた。莉奈は考え込むように言った。「明日、私も一緒に会いに行くわ」承也に途中で引き止められたということは、おそらく莉奈がこの街を離れようとしていることも知られている。しばらくの間、莉奈は逃げられそうになかった。だが、承也は身柄を拘束されているはずだった。どうして外に出てこられたのか。まさか……莉奈は廷治に尋ねながら、ベッド脇の棚に置かれたスマホへ手を伸ばした。「あの事件、今どうなっているの
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第304話

病床に座る莉奈を見るなり、琴音は眉をひそめ、足早にベッドのそばへ歩み寄った。莉奈の肩に手を添え、怒りに全身を震わせていた。「つらい思いをさせたわね。尚南があなたに、あんなケダモノ以下の真似をするなんて思いもしなかった。莉奈、ごめんなさい。あの子をきちんと躾けられなかった私のせいよ」莉奈は、琴音の指先が震え続けているのを感じ、そっとその手を握り返した。「おばさんのせいではありません」「あの子、あなたに何か……」琴音は胸を痛めるように、莉奈の頬を撫でた。莉奈は首を横に振った。尚南の熱い息が顔にかかり、その唇が今にも触れそうになった瞬間、壇将が間一髪で駆けつけたことを、莉奈はおぼろげに覚えていた。その後のことはあまり覚えていなかった。それでも助け出されたことは分かっていた。ただ、承也に途中で止められ、危うく……莉奈は意識を現実に引き戻し、手のひらのガーゼへ視線を落とした。それから無表情のまま、目をそらした。琴音の目の縁は、ますます赤くなっていった。「今、あの子は拘束されているでしょう。あなたにこんなことまでしたのだから、承也は絶対にあの子を許さない。私は……」「琴音おばさん、たとえほかの余罪がなかったとしても、尚南がしたことだけで、彼はもう二度と再起できません」莉奈は静かにそう告げた。真実が残酷なことは分かっていた。けれど、琴音にはこの件の重さを分かってもらわなければならなかった。それが、莉奈が琴音に会うことを受け入れた理由でもあった。ところが、莉奈の予想に反し、琴音は冷えきった声で言った。「育て方を間違えたのは私よ。すべてあの子の自業自得だわ。あの子が悪いの!」莉奈は一瞬、言葉を失った。「椎名家の名に泥を塗るようなことをしたのよ。たとえ極刑になっても、私たちは受け入れる。主人とも話したわ。この件には絶対に口を出さないし、あなたにこれ以上つらい思いはさせない。あんな息子は初めからいなかったものと思うことにしたの!」琴音は涙を拭い、少しずつ気持ちを落ち着かせていった。けれど莉奈には分かっていた。どんな母親であっても、自分の子が死刑になるかもしれない現実を、本当に平然と受け入れられるはずがなかった。それでも莉奈は、琴音を慰める言葉をひとつも口にできなかった。琴音は息を吸い、保温容器の蓋を開けて言った。「胃
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第305話

莉奈は歯を食いしばり、怒りを押し殺しきれない声で言った。「卑怯よ!」「俺が卑怯だと?」承也の脳裏に、車の中で自らの手のひらを血まみれにしていた莉奈の姿がよぎった。莉奈は氷のような目で承也を見据え、死んでも彼に触れられまいとしていた。それなのに、病院に担ぎ込まれる頃には、男が欲しいと口走っていたのだ。承也の冷ややかな声には、はっきりとした怒りが滲んでいた。「先に取引を破ったのはお前だろう」――取引ですって?!「最初から不公平な取引だったのに、どうして私が守らなきゃいけないの!」莉奈はまだ体力が戻りきっておらず、声を張るだけで息が上がった。「以前は、私たちにまだ婚姻関係が残っていると思っていた。だから、それが解消されない限り、あなたの執着からは逃げられないと思い込んでいたの。でも実際は、あなたは三年も私を騙していたじゃない!あなたはどんな立場で、どんな資格があって、私の自由を縛っているの!ただの嘘つきが、私と取引を語るなんて、何様のつもり!」承也は意に介さず、冷ややかに言い放った。「その取引の前提に、婚姻関係は含まれていない」言葉遊びのつもり?「いいわ。あなたと直哉の取引内容は、佐伯家は美月に手を出さない、あなたは私に付きまとわない、だったわよね。その取引の前提に婚姻関係が含まれていないというのなら、同じように佐伯家以外の人間についても含まれていないはずよ。なら、私が美月のことを暴露するのを、あなたが止める理由はどこにあるの?」莉奈の皮肉は、一言一言が刃となって電話の向こうへ突き刺さった。「あなたはただ、美月を庇いたいだけでしょう。その事実を口にするのが、そんなに難しいの?」ようやく、電話の向こうの承也が、低くかすれた声で問い返した。「お前は本当に恵子さんのためにやっているのか。それとも、直哉のためか」莉奈は当然、恵子のためでもあり、直哉のためでもあり、そして自分自身のためでもあった。けれど承也にそう問われた瞬間、莉奈は反射的に言い返していた。「恵子さんの仇を討てるなら、私は何だってするわ」承也はタバコをくわえたまま、唇の端に冷ややかな笑みを浮かべた。さすがは元テレビ局報道部の記者だ。短い一言で、こちらの問いには正面から答えていないようでいて、その一語一語が鋭く胸を抉ってくる。結局は、直哉の
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第306話

尚南の喉の奥から、耳障りな笑い声がこぼれた。「奈奈の腰は柔らかかったな……薬が回ってきた時のあいつがどれだけ綺麗だったか、お前には分からないだろう。俺があいつに覆いかぶさった時なんか、命だってくれてやりたくなるくらいで……」その瞬間、大きな手がいきなり尚南の首根っこを掴み、ベッドから引きずり起こした。不意に、凍てついた黒い瞳と目が合った。尚南は一瞬、夕方に自分を半死半生まで叩きのめしたあの男を見た気がした。だが、その考えが浮かんだ次の瞬間、承也は尚南を引きずり下ろし、そのまま床へ叩きつけた。「っ……!」全身のあちこちが折れているせいで、痛みの感覚は半ば麻痺していた。だが、この一撃でさらに骨が砕け、重い革靴が震える指の上へ容赦なく踏み下ろされた。承也はその手の甲を踏みつけたまま吐き捨てた。「お前みたいな奴が、奈奈に触れる資格などない」鉄扉の外にいたはずの警備の人間は、いつの間にか姿を消していた。部屋の内も外も、長い廊下まで、息を潜めたように静まり返っていた。承也は見下ろした。靴底で尚南の手の骨を押し潰しながら、虫けらでも見るような目で言い放つ。「俺がいなければ、奈奈は椎名家に入っていなかった」気を失いかけていた尚南は、承也の口から「奈奈」という名がこぼれた瞬間、言いようのない戦慄に襲われた。まるでその二文字が、承也の魂のいちばん深いところに押し込められていた秘密の欠片のようだった。尚南はかすかな息をつなぎながら、歯を食いしばって問いただした。「お前……どういう意味だ?」奈奈が椎名家に入ったことと、承也に何の関係があるというのか。――こいつは、何を言っているんだ。尚南は痛みに耐えながら手を伸ばし、承也の足を掴もうとした。だが承也は尚南を蹴り飛ばし、仰向けにひっくり返した。尚南は血を吐いた。揺れる視界の中、承也の黒い瞳には、ほとんど誰にも見せたことのない陰鬱な冷酷さが滲んでいた。「あいつの両親が死んだその時から、あいつは俺のものになる運命だった」鉄扉が再び閉まった。拘束施設の中庭には、車のエンジン音が響いた。タイヤが地面の砂利を噛み、黒い高級車がゆっくりと遠ざかっていった。静まり返った車内に、スマホの着信音が鳴り響いた。薄暗い車内で、承也は着信表示に冷たい視線を落とした。美月だ。耳の奥
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第307話

その言葉を聞いて、美月の胸には甘い熱がじんわりと広がった。だが、伏せた瞳の奥を、ひと筋の険しい光がかすめた。そうだ。彼に何かあるはずがない。彼にだけは、何ひとつ不吉なことなど起こさせない。美月は涙を笑みに変え、付き添いの識子へ支度をするよう声をかけた。それから承也に向き直った。「お清めの湯、もう用意してあるの。手を洗って。ああいう場所から出てきたんだから、嫌な気は払っておかないと」そのまま一行は中へ入った。テーブルの上には湯を張った鉢が置かれ、その横にはほかにも何かが並べられていた。承也は一度目をやっただけで、細かくは見なかった。そのまま歩み寄ると、清めの薬草の青い香りがふっと鼻先をかすめた。承也は鉢の中で手を洗い、ハンカチで水気を拭き取った。そのついでのように、何気なく口を開いた。「余っていないのか」識子は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑顔を作った。「ございます。キッチンにまだありますが、ほかにもお使いになりますか?」「美月にも持ってきてやれ。手を洗わせろ」承也はそう言って、使ったハンカチをごみ箱へ放り込んだ。その背後で、美月の手がわずかに強張った。戸惑いが顔をかすめた。「私?私は別にいいわ」承也は淡々と言った。「冷え込んでいる。洗っておいて損はない」識子は承也に逆らえず、キッチンへ戻ってもう一つ鉢を運んできた。美月のそばで少しかがみ込み、両手で差し出した。「美月様」美月は唇を引き結び、白く細い両手を湯の中へ入れて、軽く何度か洗った。それから識子からハンカチを受け取り、水気を丁寧に拭き取った。手を洗った拍子に袖口が少し持ち上がり、左手首のルビーのブレスレットがのぞいた。美月の手を拭く動きが、ほんのわずかに止まった。あの日、叔父がそのブレスレットを見て口にした言葉が脳裏によみがえった。叔父は言っていた。このブレスレットは、莉奈の母親が身につけていたものではないと。けれど、そこにはめ込まれた宝石のひとつひとつが本物であることもまた間違いなかった。それでも美月が欲しかったのは、莉奈の母親のあのブレスレットだった。承也が自分にどれほどよくしてくれるのか、それを莉奈に思い知らせたかっただけだった。「承也」美月は識子に合図し、車椅子の向きを変えさせた。それから、ソファに腰かけて茶を口にしていた承也の
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第308話

美月は、自分が最初からあのブレスレットの真相を知っていたと、承也にだけは悟られるわけにはいかなかった。そうでなければ、あの時ブレスレットをねだった本当の動機――ただ莉奈への当てつけだったことまで見抜かれてしまう。承也の指先が書類の上でわずかに止まった。顔を上げた黒い瞳は、冷たい深淵のように暗かった。低く問い詰める。「最初から、何を知っていた?」「あれが最初のものじゃなかったってこと」美月は残念そうに言った。「すり替えられていたのね。誰がやったか分かったの?」「いや」承也は書類に署名を終えると、悠斗が注いだ水を受け取り、ひと口飲んだ。グラスを置いてから立ち上がる。「もう休め」――もう帰ってしまうのか。美月は反射的に、そのコートの裾へ手を伸ばしかけた。だが承也が目を落とし、わずかに眉を寄せたのを見て、その手は空中で止まった。美月は手を引っ込めるしかなかった。「もう 何日も会っていないのよ。もう少しだけ、話していってくれない?」承也は冷ややかに言った。「この前、倒れただろう。明後日、詳しく診てもらえ。迎えの車を差し回す」男の背中が遠ざかっていった。美月は目の奥が熱くなり、呼び止めそうになるのを深く息を吸って堪えた。承也が、聞き分けのいい女を好むことくらい、美月はよく知っていた。手首のルビーのブレスレットを見下ろし、美月の胸の中では失望と苛立ちが絡み合っていた。あの時、美月が欲しいとねだると、承也はためらいもなく渡してくれた。それは本当に、かつて自分が彼を助けたことへの礼だったのか。それとも、最初からそれが莉奈の母親の遺品ではないと知っていたからなのか。本物ではないのなら、身につけていて何の意味があるというの。美月は右手でブレスレットの端を掴み、そのまま引きちぎろうとした。だが、ふいにその手が止まった。以前、隼人が入院していた時、美月は莉奈と顔を合わせた。病棟前の外灯はそれほど明るくなく、しかも少し距離があったせいで、莉奈はこのブレスレットを自分の母親の遺品だと思い込んだ。あの時、美月は承也の目の前で、莉奈に譲った方がいいかとわざと尋ねてみせた。その時の承也の返事は、今も耳にはっきりと残っていた。「いや、それはお前にやったものだ」そうだ。これは承也が自分にくれたものだ。たとえ莉奈の母親の
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第309話

車はマンションの前に停まった。廷治と莉奈はトランクから壇将への見舞いの品を取り出した。廷治が荷物をすべて引き受け、サングラスをかけた莉奈の後ろについていった。エレベーターのボタンを押しながら、廷治はまた念を押した。「やっぱり今のうちにJさんへひと言連絡を入れておいた方がいいと思います。向井さん、Jさんは男ですし、もし上半身裸だったりしたら……」莉奈はサングラスを外した。「そうね。先にひと言連絡を入れた方がいいわね」エレベーターが到着すると、莉奈はそのまま中へ入った。廷治も横に並んだ。廷治は莉奈を見た。だが彼女は黙って立っているだけで、今すぐ連絡する気配はまるでなかった。いったい連絡するのだろうか、しないのだろうか。壇将の住む階に着き、二人はエレベーターを降りた。壇将の部屋の前まで来てから、ようやく莉奈はスマホを取り出し、メッセージアプリで連絡を入れた。それから五分待っても、誰もドアを開けに来なかった。その時、さっき二人が乗ってきたエレベーターが音を立てて開いた。廷治は鋭く顔を上げた。黒い服に黒のキャップ、さらにマスクまでつけた壇将が、松葉杖をついて出てきた。右脚にはギプスが巻かれ、歩くたびにひどくつらそうだった。もう片方の手にはスーパーのレジ袋を提げており、それがぶらぶらと揺れていた。莉奈は思わず言葉を失った。廷治は慌てて荷物を下ろし、駆け寄った。「Jさん!」近づいた瞬間、湿布の匂いが鼻をついた。廷治は怒りを露わにした。「あの悠斗め、よくもここまでやってくれましたね!」壇将は別に、大勢の部下を従えるような立場ではない。それでも、これほどひどい目に遭わされたことは今までなかったはずだ。さっきエレベーターから出てきた姿は、あまりにも痛々しく、あまりにも寂しく見えた。全く、あの悠斗め。廷治は壇将の手からレジ袋を受け取り、心配そうに尋ねた。「ほかに怪我をしているところはありませんか?」壇将は軽く首を振り、その視線を廷治から後ろの莉奈へと移した。莉奈も、壇将がここまでひどい怪我を負っているとは思っていなかった。一瞬、何を言えばいいのか分からなくなった。莉奈はすぐに歩み寄り、松葉杖を持っていない方の腕を支えた。「こんなに傷だらけなのに、どうして買い物なんて行ったの。ひと言知らせてくれ
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第310話

廷治は言葉を失った。何とも言えない気分になった。「ゆっくり、気をつけて」莉奈は壇将を支えながら、そっと部屋の中へ入った。「廷治の言うことも、一応考えてみて。男同士の方が、いろいろ都合がいいこともあるでしょう」莉奈は壇将を支えたまま、ソファへ座らせた。壇将は松葉杖をソファの肘掛けの横に立てかけ、黙って莉奈を見たあと、スマホに文字を打ち込んだ。【ほかの人と一緒に暮らすのは好きじゃない。それにデリバリーの料理も口に合わない】「……」面倒なこだわりの多い男だ。その時になって莉奈は、廷治がテーブルへ置いたスーパーのレジ袋の中に、野菜や肉が入っているのに気づいた。さっき壇将が買ってきたものだ。まさか、自分で作るつもりだったのか。松葉杖をつきながらキッチンで野菜を洗い、肉を切り、火を使う姿を想像すると、莉奈は見ていられなかった。莉奈は立ち上がり、コートを脱いで袖をまくった。「私が作るわ」壇将はすぐに文字を打った。【君に迷惑をかける】「迷惑じゃないわ。ただ、私の料理はそこまで上手じゃないから、そこは我慢して。どうしても無理なら、何日かはデリバリーでしのぎましょう」壇将は軽くうなずいた。廷治もそのままキッチンへ入っていった。料理はできなくても、手伝いくらいはできる。野菜を洗う程度なら問題なかった。オープンキッチンになっているせいで、壇将が顔を上げれば、調理台の前に立つ莉奈の姿がそのまま目に入った。食材を前にした莉奈の表情は真剣で、ひどく静かだった。壇将の視線は、自然とそこへ留まった。目が見えなかったあの一年、莉奈はこんなふうに台所に立っていたのだろうか。「壇将さん、辛いものは食べる?」莉奈がふいに顔を上げた。男の目の奥に沈んでいたものが、一瞬でほどけた。静かな色がそこへ戻り、壇将は小さくうなずいた。莉奈は手を動かしながら、ふと思った。誰かのために料理をするのは、これで二度目だ。前に作った相手は、辛いものを食べなかった。けれど莉奈自身は辛いものが好きで、初めて作った時は夢中になりすぎて、つい料理に辛味を入れてしまった。承也は食べながら咳き込み、それ以来、莉奈はあの人のために作る時だけ辛味を入れなくなった。包丁が危うく指先に触れかけ、莉奈ははっと我に返った。余計なことを考えず、今は手元に集
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