All Chapters of 婚姻生活にさようなら、椎名さん: Chapter 311 - Chapter 320

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第311話

白と黒とグレーで統一された広い部屋で、承也の左ポケットのスマホが震えた。茶碗の飯は空になり、皿の料理は半分ほど減っていた。承也は箸を置いた。口元から剥がした特殊メイクの偽の傷痕が、そのすぐそばに置かれている。口角に貼りついていたその傷痕のせいで、食事をするだけでも口がほとんど開かなかったのだ。悠斗は仕事が堅実だ。だが、ときどき妙なところまでやりすぎる。それでも、ここまで徹底されると、承也も文句のつけようがなかった。承也はスマホを取り出し、表示された名前を見た瞬間、目つきがすっと沈んだ。昨日の一件が起きてから今まで、相手から初めてかかってきた電話だった。親指で画面をスワイプし、承也はいつも通りの声で電話に出た。「叔父さん」電話の向こうから、椎名景仁(しいな かげひと)の穏やかな声が聞こえた。「昼飯は食ったか」承也は短く返した。「ああ」今、椎名邸に常住している椎名家の人間は景仁だけだった。亡き父の実の弟であり、承也にとって血の繋がった本当の叔父でもある。その性格は、この家の中でもっとも温厚だった。情であれ義理であれ、承也もあまり冷酷な真似はしたくなかった。だが景仁には、会社を切り盛りする能力はあっても、子を真っ当に育てる能力はなかった。「尚南のことで、口利きでも頼むつもりですか」景仁の手が、スマホを握ったままかすかに震えた。景仁は一晩中、眠れなかった。これまでの尚南への接し方を振り返るたび、恥と悔いで胸が塞がった。とりわけ、尚南が椎名家の名を汚すような凶行をしでかした昨夜は、先祖の位牌の前に膝をつき、ただひたすらに頭を下げた。景仁は琴音にも言った。尚南は椎名家の面汚しであり、一族の恥だと。この件には誰も手を出してはならない、最初からあんな息子はいなかったものと思うしかないのだと。だが琴音は、人づてに拘束施設での尚南の様子を探らせていた。そして今朝早く景仁へ電話をかけ、泣き声を必死にこらえながら告げたのだ。尚南は高熱を出して意識を失い、全身にひどい傷を負っている、どうか承也に頼んでくれないか、と。夫婦の形はすでに冷え切っていても、尚南が二人の子であることに変わりはない。息子を思う親心は同じだった。父親として、自分の子がそこまで惨い目に遭っていると聞かされて、平然としていられるはずがなかった。
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第312話

景仁は一瞬言葉を失い、すぐに声を沈めて言った。「兄さんたちが亡くなったのは、承也がまだあんなに幼い頃だ。その二人を持ち出して情けをかけてもらうなんて、そんなことができると思うのか」景仁は、そんな考えを一度たりとも抱いたことがなかった。尚南は景仁の息子であり、承也は景仁の甥だった。どちらも椎名家の血を引く子であり、景仁にとっては同じように大切だった。自分の息子のために、父も母もいない承也の心をえぐるような真似だけは、どうしてもできなかった。琴音はその姿を見て、積もり積もったものを思い出したのか、怒りをあらわにした。「あなたはいつもそう!あなたがそんなだから、尚南はこんな道に踏み込んだのよ!」景仁は震える指で自分を指した。「私のせいだと?」景仁にも分かっていた。尚南への躾が足りなかったことも、尚南がこうなった責任の一端が自分にあることも。だが琴音の言葉は、鋼の針のように胸の奥へ深く突き刺さった。琴音の目には、軽蔑の笑みが宿っていた。「十年前、承也が戻ってきた時、あなたが椎名家の事業を承也へ渡すなんて言わず、自分の手の中へしっかり握っていれば、尚南が椎名グループの頂点に取り憑かれて道を踏み外すこともなかったはずよ!あなたの愚かさも、愚かな親孝行も、愚かな忠義も、全部が尚南を駄目にしたの!」景仁は片手で石のテーブルを強く叩き、怒りで顔を紅潮させた。「ふざけるな!椎名家の事業は、もともと兄さんが苦労して広げたものだ!兄さんが亡くなった時、承也はまだ幼かった。だから自分が預かっていただけだ。それを承也へ返して、何が悪い!」景仁は琴音を指さした。「何年経っても、お前はまだそのことを引きずっているのか。尚南をそそのかして引き返せない道へ追い込んだのは、お前の方だろう!」琴音は鋭く言い返した。「自分が情けないからって、人を巻き込まないで!息子のことを見捨てるなら、そう言えばいいでしょう。何でもかんでも私のせいにしないで」琴音は背を向けて数歩進み、ふいに立ち止まった。そして振り返り、景仁を冷たく見た。「あなたみたいな情けない男と結婚したこと、一生後悔してるわ」承也の年長者でありながら、承也に真正面から物を言うことすらできない。こんな男に、何の胆力があるというのか。当時、椎名家が差し出した多額の結納金と、あの男への失
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第313話

莉奈は危うく「正気なの?」と口にしかけた言葉を飲み込み、できるだけ遠回しに言った。「そんな状態なんだから、どうしても今すぐ歩かなきゃいけないわけでもないでしょう。それに歩きたいなら、家の中で歩けばいいじゃない。リビングだってあれだけ広いんだから、何周かすれば十分よ」その時、莉奈のスマホが鳴った。スマホは手に持ったままで、しかも画面が上を向いていた。男の目に、表示された名前がそのまま入った――省之介だ。莉奈の指先が画面の上で止まった、その直後だった。ごとりと音がして、振り向くと壇将の松葉杖が床に落ちていた。莉奈は慌てて拾い上げ、壇将へ渡した。「ほら、杖がないとまともに歩けないじゃない。だから下には行かないで、ね?」莉奈は根気よくそう言ってから、振り向いてエレベーターの方へ歩き出し、そのまま画面をスワイプした。だが、電話の向こうの相手が口を開く前に、莉奈の視界の端を壇将が通り過ぎた。松葉杖をつきながら、床を打つ音を響かせて進んでいった。「ちょっと、壇将さん。そんなに急がないで」莉奈は壇将の腕を掴んだ。その直後、壇将はスマホの画面を素早く、少し強めに叩いた。【君は忙しいだろ】電話の向こうで、省之介は莉奈の口から壇将の名が出たのを聞いた。前に莉奈のマンションの前にいた、あの腕の立つ護衛のことだろうか。省之介は低く言った。「一度、会えないかな」莉奈は壇将の腕を掴んだまま、落ち着いた声で返した。「ニュースは見たわ」神崎家の御曹司が、軍政界に強い影響力を持つ家の令嬢と婚約間近だという話は、尚南の一件を押し流すほど大きく広がっていた。電話の向こうで、男の息が詰まった。「奈奈……」厳明の件はまだ片づいていなかった。背後にいる連中は、省之介を徹底的に潰すつもりなのだろう。省之介が抱えている迷いも、家を背負う重圧も、莉奈にはよく分かっていた。けれど、だからといって慰める言葉を口にできるわけではなかった。「もし、私の味方として会いたいって言うなら、私は喜んで会うわ。でも、まだ自分の中で整理がついていないなら、会わない方がいいと思う。婚約、おめでとう。省之介さん」電話を切ってから、莉奈は顔を上げて壇将を見た。「本当に下に行って歩くつもり?」さっきの電話に引きずられた気配は、莉奈の顔に少しも出ていなかった。
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第314話

もともと、莉奈の料理の腕はひどいものだった。「向井さん、本当に大丈夫ですか?」廷治は、莉奈の様子がおかしいことに気づいていた。莉奈は首を横に振った。何か言おうとした、その瞬間だった。胸の奥に鋭い痛みが走り、莉奈はひと口、血を吐き出した。「向井さん!」廷治の切羽詰まった声が、みるみる遠のいていった。目の前の景色はぐるりと反転し、莉奈の体から力が抜けていった。意識が頭の奥から引き剥がされるように遠ざかっていく。倒れるその一瞬、耳元で赤ん坊の泣き声がした気がした。果てのない暗闇の中で、莉奈はひたすら落ち続けていた。まるで底のない穴へ吸い込まれていくように。再び目を開けた時、そこにあったのは直哉のひどく案じる眼差しだった。莉奈の目尻から、涙がひと筋こぼれ落ちた。ぼんやりとしたまま、莉奈は直哉を見つめた。莉奈が目を覚ましたのを見て、直哉の目がぱっと明るくなった。直哉は振り返り、声を張り上げた。「先生、早く診てくれ!」医療スタッフがすぐに病床へ集まった。医師は莉奈のまぶたを上下に開き、ペンライトの光を当てた。「向井さん、声は聞こえますか?」医師はライトを下ろし、莉奈の目を見た。だが、病床の上の莉奈はぴくりとも動かなかった。直哉の顔つきが沈んだ。「どういうことだ?」医師は首を横に振った。「検査では、とくに異常は見当たりません。おそらく精神的なものです。倒れる前に、何か強い刺激を受けた心当たりはありませんか?」直哉は廷治を見た。「話せ」廷治は首を横に振った。「ありません。今日の午後はずっと、向井さんとスマホゲームをしていました。ただ、何度か胸を拳で叩いているのは見ました。僕のプレイスキルが低くて腹を立てたのかとも思ったんですけど、向井さんはそんなことで拗ねる人じゃありません。そのあとだって、向井さんが引っ張ってくれて、こっちは無双状態でしたし。それ以外に、何か刺激になるようなことは何もありません。そこは断言できます。出かける前から顔色が悪い気はしていました。病院へ行った方がいいか聞こうと思った矢先、急に血を吐いて倒れたんです」廷治は、考えれば考えるほど自分を責めた。もっと早く異変に気づいていれば、莉奈はこんなふうにならなかったのではないかと。病床の上で、莉奈は目を開けていた。けれど、いつもはいたずら
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第315話

重症病棟の区画には、暗証番号式の重い扉が立ちはだかっていた。医師も看護師も、何重もの厳しい選別をくぐり抜けた者だけがこの任に就いていた。中に誰がいるのか、それを知る者は彼ら以外に誰もいなかった。扉が開き、防護服に身を包んだ長身の男が中から出てきた。頭の先から足元まで、隙間なく覆われていた。付き添っているのは一人の医師だった。「桜井さんの検査結果を待つだけです。数値に問題がなければ、すぐに骨髄移植に入れます」医師は男を更衣室へ案内し、防護服を脱ぐのを手伝った。病室の中は完全な無菌環境だ。中にいる子どもの体はあまりにも弱く、外からのわずかな刺激にすら耐えられなかった。承也は医療スタッフの手を借りて防護服を脱いだ。その顔には、感情らしいものは何ひとつ浮かんでいなかった。ただ、血走った赤い瞳だけが、彼が普段よりはるかに疲れ切っていることを物語っていた。承也の声は少しかすれていた。「助かる確率はどれくらいだ」さっき、特別に作られた保育器越しにその子を見た。もう一歳になろうというのに、ほかの子と比べてもあまりに小さく、あまりにも脆かった。それでも、丸い目をいっぱいに見開き、承也だと気づいた途端、懸命に寝返りを打って起き上がろうとし、小首を傾げてにこにこと笑いかけてきたのだ。その顔立ちは、ひどく奈奈に似ていた。医師はわずかに眉を寄せた。これまで一度も、承也がそんなことを尋ねたことはなかったからだ。承也はずっと、適合する骨髄を探し出すことにだけ執着していた。まるで、骨髄さえ見つかれば、あの子は必ず生きられると信じ切っているかのように。それが今になって、とうとうこの残酷な問いを口にしたのだ。「以前からお話ししている通り、お子さんは生まれつきの条件があまりに厳しい上、八か月の早産で生まれています。八か月での早産はとくに生存率が低く、こちらも最先端の医療と、できる限り穏やかな処置で命を繋いできましたが……」「言ってくれ」承也は、骨の節が白くなるほど強く拳を握りしめた。医師は重い声で告げた。「骨髄移植後の生存率は決して高くありません。ですが、移植をしなければ、もって半年です」長い沈黙のあと、承也は冷静に、はっきりと言い放った。「なら、移植する」その時、少し開いていた更衣室の扉がノックされた。悠斗だった。中の会話
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第316話

病院の中はひっそりと静まり返っていた。莉奈はもう一度目を閉じた。病室のドアが開く音がして、そのあとにごく軽い足音が近づいてきた。直哉が戻ってきたのだと思った。「もう病院にいたくない。家に帰って寝たい」直哉ならきっと頷いてくれるはずだ。たとえ病院のベッドごと家に運ぶことになってでも、帰らせてくれるはずだった。寝返りを打とうとした、その瞬間だった。掛け布団がふいにめくられた。温かい大きな手が背中に触れ、もう片方の手が膝裏へ差し入れられた。今の直哉は、莉奈を抱き上げるどころか、自分で歩くのさえ楽ではないはずだ。なら、この相手は直哉ではなかった。不意に、冷え切った黒い瞳と目が合った。莉奈の体はぴたりと強張った。表情は一気に険しくなり、目の奥には怒りと拒絶が隠しようもなく浮かんだ。来たのが承也だとは思っていなかった。ただ一瞬だけ気を取られただけで、莉奈はためらいなく手を振り上げた。だが背中にあった手は、その瞬間に莉奈の手首を掴んでいた。温かく乾いた指先は、強く締め上げてもいないのに、莉奈の手は引き戻すことも、承也を打つこともできなかった。承也は目を伏せ、顔色の悪い莉奈を見た。視線は深く沈んでいた。「どうして病院にいる?」「あなたには関係ないでしょう」莉奈は無表情のまま返した。廷治が外で見張っていたはずなのに、この男はまるで誰もいないかのように病室へ入ってきた。きっとまた、廷治は悠斗に力ずくで押さえられたのだ。「どこがつらい?」承也の視線がゆっくりと下へ向かい、血の気のない莉奈の唇で止まった。莉奈の唇は、普段なら自然な赤みを帯びている。よほど具合が悪い時でなければ、こんな色にはならなかった。無表情だった莉奈の顔に、感情の波が押し寄せた。怒りが少しずつ滲み、やがてはっきりとした形を取った。「あなたの顔を見たら気分が悪くなったの。だから今すぐ出ていって」言い終えた瞬間、莉奈はもう片方の手を振り上げ、承也を打とうとした。承也はそれも難なく止めた。硬く骨ばった指先が、莉奈の細い手首を包み込んだ。その低い声には、抑えきれない不機嫌さが混じっていた。「顔を合わせた瞬間に手が出るのか」どうしてこの男は、こんな言葉を平然と言えるのだろうか。先に人を弄んだのは承也だった。先に傷つけたのも承也だった。それなのに
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第317話

直哉が病室へ戻ってくると、ドアが開け放たれていた。「どういうことだ?」直哉は焦って歩みを速めた。背後にいた医師と、前にいた廷治がすぐに彼を支えた。「佐伯様、向井さんが椎名社長に連れ去られました」廷治は自責の念に駆られ、痛恨の表情で直哉を見た。「申し訳ありません、佐伯様。私が……」直哉は鋭く息を吸い込んだ。腹部の傷口が引きつるように痛んだ。もぬけの殻となった病床を見つめる。自分が少し席を外した隙に、承也の奴が嗅ぎつけて来やがったのか!直哉は激しく自分を責める廷治を一瞥し、怒りを押し殺して息を整えた。「怪我はしていないか?」この状況になってもまだ自分の身を案じてくれる直哉の言葉に、廷治はさらに罪悪感を覚えた。「大丈夫です」廷治は承也が現れた瞬間、すぐに警戒態勢に入っていた。莉奈の体調不良の原因は承也にあると踏んでいたため、何があってもこれ以上あいつを彼女に近づけさせるわけにはいかなかったのだ。しかし、その肝心な瞬間に悠斗が現れた。「ここは私の顔に免じて引いてくれ」悠斗は突然、重苦しい口調で廷治にそう告げた。その重みのある一言に、廷治は一瞬呆然とした。誰にも屈しないように見えるあの悠斗が、自ら頭を下げてくるとは夢にも思わなかったからだ。しかし、悠斗の顔と莉奈の安全を天秤にかけた時、廷治にとってどちらが重要かは明白だった!だが、廷治が気を取られたその一瞬の隙に、悠斗は廷治の身体に少しの傷も負わせないまま、彼を完璧に制圧してしまったのだ。……黒い高級車が道路を滑るように走っていた。逃げる機会を失った莉奈は、承也の腕の中に固く閉じ込められていた。男の分厚く大きな手が彼女の頭を押さえつけ、顔を彼の胸にピタリと密着させていた。彼の心臓の鼓動を聞きながら、莉奈は気が狂いそうだった。莉奈は皮肉を込めて言った。「どこへ連れて行く気?」男が口を開くと、低い胸の響きが莉奈の鼓膜を震わせた。「家に帰るんだ」莉奈の顔に一瞬、戸惑いの色が浮かんだ。――家に帰る?家……どこの家?汐見ヶ丘のマンション?それとも西苑の洋館?椎名邸?それとも松風レジデンス?承也は一体、どこの家へ連れて帰るつもりなの?その空虚で迷いに満ちた瞳を見て、承也の視線が急激に険しくなった。彼は彼女を抱きしめる力を強め、無
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第318話

とても軽く、とても柔らかく、そしてあまりにも残酷な皮肉だった!莉奈は、かつて承也と一緒にエレベーターに閉じ込められた時のことを思い出した。エレベーターが急降下した時、承也の胸に抱きしめられ、彼も今日と同じようにうつむいて額にキスをしてなだめてくれたのだ。あの時のキスは、確かに彼女の心を落ち着かせてくれた。しかし今のこのキスは、まるで生肉を削ぐ鈍い刃のように感じられた。その刃に切り裂かれ、血が滴り落ちるようだった。「吐き気がするから、やめてくれない?」承也は、嫌悪感に満ちたその目を深く見つめ返し、顎の筋肉をこわばらせた。そして突然、もう片方の手を上げて莉奈の目を覆った。「お前は目を閉じていた方がいい」「いっそ永遠に目を閉じて死ねばいいと言ったら?」莉奈は、その平静でありながら執着に満ちた態度に刺激され、完全に理性を失っていた。承也の首筋に青筋が浮かんだ。「また馬鹿なことを言っているのか」運転席の悠斗は、手元で光ったスマホの画面に目を落とした。着信名を確認し、手に取って画面をスワイプする。電話の向こうの相手が何かを報告してきたが、悠斗の顔には何の感情も浮かばなかった。ただ「ああ」と短く答えて通話を切った。「社長、あちらの検査結果が出ました。少し問題があるようです」直哉が承也からの電話を受けた時、すでに松風レジデンスへと急行している最中だった。自ら乗り込んで莉奈を連れ戻すつもりだったのだ。電話に出るなり、承也はいつもの冷え切った声で言った。「彼女は汐見ヶ丘へ連れて帰る」直哉は一言も発さずに電話を切り、廷治に汐見ヶ丘へ戻るよう命じた。部屋に入ると、案の定、ベッドに横たわり、しっかりと布団を掛けられた莉奈の姿があった。部屋の中は暖房が効いて心地よく、枕元には温かいお茶が置かれていた。莉奈は背を向けて寝ていたため、ドアを開けた直哉からはその顔が見えなかった。一歩前に進み出ると、静かな部屋の中に、微かに鼻をすする音が聞こえてきた。それは泣いた後に鼻をすするような、くぐもった音だった。泣いているのを聞かれたくなくて必死に堪えているのだろうが、顔を見ずとも彼女がどれほど深く傷ついて泣いているかは、直哉には痛いほど分かった。直哉の足が止まり、うつむいた。その顔には、まるで暗雲が立ち込めたかのような深い陰りが
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第319話

「急いで救急救命室へ!」「桜井様!」美月が再び血を吐いたことで、休憩室は一時的にパニックに陥った。美月が口を覆う指の隙間から、ポタポタと血が流れ落ちていった。その顔は死人のように青ざめ、口の周りには生々しい血がべっとりとついていた。苦痛からか、あるいは無念からか異常に充血したその目は、まるで地獄から這い上がってきた悪鬼のように見えた。毒のせいで身体が痙攣し、震えが止まらなかった。連続して血を吐いた後、美月はついに耐えきれなくなり、ベッドに倒れ込んだ。世界が激しく回転し、意識が次第に遠のいていく中、入り口に立ち尽くし、冷淡な雰囲気を漂わせる男の姿を見つめながら、美月の心臓は何度も締め付けられた。骨の髄まで凍りつくような寒気の中で、ある事実に微かに気づき始めていた。医療スタッフが美月のストレッチャーを押し、承也の横を足早に通り過ぎようとしたその瞬間、美月は承也の手を掴もうと必死に手を伸ばした。――承也……私がこんなに苦しんでいるのが分からないの?どうして私のそばに来てくれないの?どうしてそんな冷たい目で私を見るの?私はただ、あなたにもっと気にかけてほしかっただけなのに。あなたのことを、こんなに愛しているのに……美月は血のついた蒼白な手を伸ばしたが、遠のいていく意識に抗えず、手は力なく垂れ下がった。指先が何かに触れた瞬間、反射的に手をギュッと握りしめた。しかし、手の中は空っぽで、何も掴むことはできなかった。ただ、自分の爪が手のひらに食い込む鋭い痛みだけが残った。美月はパッと目を開けた。救急救命室の天井で眩しく輝く無影灯が、視界がぐるぐると回る中で目を刺し、反射的に目を閉じさせた。そしてそのまま、深い眠りへと落ちていった。……重苦しい静寂の中、ただ時間だけが流れていった。承也は救急救命室の前にはおらず、最上階のあの特別な集中治療室の前に立っていた。扉の前に立ち、ディスプレイに暗証番号を入力した。このパスワードは一度入力するたびに変更される仕組みになっており、承也自身が設定した暗号キーを照合しなければ、新しいパスワードを推測することは不可能だった。ディスプレイが明るくなり、監視カメラの映像が映し出された。小さな子は、特別な保育器の中のベッドでおとなしく横たわり、すでに眠りについ
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第320話

美月は分かっていた。たとえあの毒が体内に残り続けようと、自分はきっと助かるのだと。もう二度と、命を賭け金にするつもりはなかった。もし死んでしまえば、承也にはもう会えない。彼の気遣いも、その視線も、二度と手に入らなくなる。あんな真似は、一度きりで十分だった。あの年、脚を失った絶望から死のうとした時、美月は手首に当てた刃の力を少しも緩めなかった。噴き出した血は温かく、頬を伝う涙は冷たかった。耳元には、夏の熱を帯びた風が吹いていた。そして承也の、重く沈んだ「分かった」という声が響いた。あの危うい賭けに勝ったことで、美月は欲しいものを手に入れた。たった一度勝っただけで、それは莉奈を長い間苦しめるのに十分だった。そして美月自身は、周囲の目から見て、承也にとっていちばん特別な存在になった。今になっても、事情を知る人間は皆分かっている。彼女こそが、承也が最初に認めた女なのだと。命を賭けるような切り札は、本当に必要な時にこそ切るべきなのだ。「桜井さん、ようやくお目覚めですか」医師の声が、美月の回想を断ち切った。美月の目はすっと冷え、その視線には何の温度もなかった。医師はそのまま歩み寄ってきたが、美月の異変にはまるで気づいていない様子だった。美月の声はひどく掠れて、聞き取りづらかった。「承也は?」「先に診察をさせてください。まだどこか苦しいところは……」「承也はどこにいるの!」美月は突然声を張り上げた。だが血を失いすぎて、体は弱りきっていた。それでも、彼女の全身から立ちのぼる冷気のようなものには、ぞっとするほどの迫力があった。医師はその気配に気圧され、思わず一歩後ずさった。この医師は最上階の特別管理区画の担当ではなく、美月の主治医だった。長く彼女の貧血を診てきたぶん、ほかの人間より接する機会も多かった。だからこそ今の美月は、ひどく異様に見えた。見慣れているはずなのに、まるで別人のようだった。それに、どこか陰湿で、狂気じみたものすら感じられた。美月はベッドのシーツをぎゅっと握りしめ、鋭い目で医師を睨みつけた。「答えなさい!」医師は唾を飲み込みながら答えた。「申し訳ありません。椎名社長のお姿は見ておりません。どちらにいらっしゃるのかも分かりかねます」その時、病室のドアが開いた。入り口に立っていたのは、
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